季節は春。
 肌を刺していた冬の大気が幾分なりをひそめ、眠気を誘う柔らかな風が、張り詰めていた
人の心も解かしつくした頃、虎はぬばたまの宵より出で、天かける竜と共に光の中にあった。

 放課後の喧騒を遠くに聞き、竜児は一日の課題の半分が終わったことを寝ぼけた頭で理解する。
軽く伸びをして背中にまとわりついた眠気を軽快な音と共に打ち払う。さて、これからもう一仕事だ。
「仕事」と嘯いてみたが、今の竜児はこれを楽しみにしている。軽くなった体を立ち上げ振り向くと、
そこには今だ眠りから覚めない虎の姫君の姿があった。

「大河…、起きろ大河…。」
 優しくつぶやくように声をかけ、大河の頭に手を乗せる。やわらかい髪にその手がうずもれる
感触を楽しむ。その指先が頭皮に近づくにつれ火傷しそうなほどの熱さを帯びていき、ついに
核融合を成し遂げた。
「ん…、んあー…りゅうじぃ…なのねん?」
「んあー、じゃねえよ。どっかの競争馬かお前は。」
「うっさいわねぇ、ふああぁあぁぁああ・・・、んっと。」
 乗せられていた手をググいと重量挙げ選手のように持ち上げ、その身から眠気を打ち払うように
伸びをする。そして、糸が切れた人形のように両腕を弛緩してだらりと垂らす。
「眠そうだな。疲れてるのか?」
 重力に任せた手を大河の頭へ再びやさしく落とし、さらに艶やかな髪質のすべりに任せるまま、
気だるそうな大河の頬まですべり落とす。
 大河は滑り落ちてきた手を頬と肩にはさむようにしてキャッチすると、そのぬくもりを確かめるように
目を細めてのどを鳴らす。


「ん〜〜〜、弟が夜泣きでちょっとねー・・・。ふあああぁぁぁあおおあおアオアオアオアオッ」
 アメリカの先住民族の雄叫びを思わせるようなあくびで不足した酸素を脳へと送る。
なるほどそれは大いなる闘いだ、と戦士の労をねぎらってやるように、首の筋肉をほぐしてやる。
にゃはは・・・くすぐったいよ、と身をよじる大河に目を細め、竜児は今日の「仕事」についてたずねる。
「じゃあ、今日はやめておくか?」
「ううん、やるやる。どうせ昼間相手して体力を消耗させないとまた夜に泣き出すしね。」
「そうか。じゃあとりあえず帰るか」
「オッケー、よっと」
 竜児のマッサージで活力を取り戻したのか、やおら椅子を後ろへ流し疲労の残滓を絞りきるように
机に両手をかけて体を「句の字」に曲げ背中を伸ばす。その反動を利用して両手を机についたまま
軽く飛び跳ね、着地。やれやれと肩をすくめる竜児にいーでしょー別に、と口を尖らせながらも
くるりと身を翻しながらフフン、と不適に笑み、椅子を机に収める。
「今月中に、基本的な朝、昼、晩のレパートリーをマスターするんだからね。」
「おうっ、任せときな。高須流家事術でお前を立派な主婦にしてやるよ。」
「えっらそうに。あーあ、旦那が小姑も兼ねてるってどんだけよ、ったく。」

 二人は、とりあえずの進路として理系の大学をめざして、同じクラスにいる。いつでも共にいるという
誓いのこともあるが、竜児と結婚することを決めている大河にとっては大学はあまり重要じゃない
ように思える。でも、竜児に寄りかかって、甘えて暮らすことを、もはや大河は良しとしてはいなかった。
お互いを支えあうような関係、そういうものを目指して、そのためにできることを増やす努力をしている。
 家事全般もその一環である。月曜日は掃除、火曜日は料理・・・というように、ロシアの民謡よろしく
研鑽の日々は続いているのだ。






 帰り道に竜児は着替えのために一旦別れ、その間に大河も家で準備を済ませておく。
二人の家は以前ほどでないにしろ、それほど離れた場所ではない。でも、そんなわずかな時間すら、
はなれるのを惜しむように、竜児は急ぎ支度をして家を出発する。
 泰子が日中の仕事に身を移したおかげで、帰ってから即飯の支度をしなくていい分、放課後に
余裕が出来たことも、この新しい日課の助けになっていた。

 春の陽気をはらんだ風を受けながら、以前とは逆に大河の家に通っている自分が、
それを楽しんでることに気づく。もしかして、以前の大河もうちに来るときはこういう気分で
いたのかもしれないと、そうだったらいいなと一人思い、微笑み、すれ違う無関係の人をビビらせる。



 大河の家に着くと、呼び鈴を鳴らす。程なくして玄関を開け、大河が顔を出す。
大河の着ているピンク色のエプロンを見て、今日は料理の日だということを再確認する。
大河は軽くうつむき、上目遣いに何か言って欲しそうに方紐に指を通し、居住まいを正す。
「だんだん、サマになってきたじゃねえか。」
と軽口を叩いてやる。
「にひひ、そ、そう?」
「ああ、これで魚を炭にしなけりゃ今日は言うことなしだ」
「・・・うっさいわね、先週のことまだ言ってるとぶっ飛ばすわよ。ったく、早く入んなさいよ。」
「ああ、お邪魔するぜ。」

 リビングを通らず廊下の先のダイニングキッチンに直接入る。意外に片付いるな、と竜児は
感嘆の声をもらす。ほぼ毎日通っているとはいえ他の家族の手前、要所清掃以外の整頓には
関与していなかった。
「ひとつね、気づいたことがあるの。」
「なんだ?」
「周りがだらしないと、人って自然に掃除が上手になっちゃうの。・・・なにも言うんじゃないよ、
あんたのその開きかけた口からどんなコメントが出て来るのかは聞かなくても大体分るからね。」
「おうっ。」
 機先を制されやりどころを逃した口の先を、そういえば弟はどうしてる?と、もうひとつの日課へ向ける。
「ああ、今日は料理だから、声が聞こえないと不安だからね。ベビーベッドごとリビングにご招待よ。」
「おうっ、どれどれ。は〜い、おにいちゃんでちゅよ〜。」
「…やっぱ、怖いわ…あんたが赤ちゃん言葉で話してるのをみると。」
「ほっとけ。それにこいつは俺の外見にとらわれずに接してくれる数少ない人間のうちの一人だ。」
 柵の上から覗き込む魔物よろしく、膝立ちになって哀れな獲物をむさぼらんと、竜児は首をもたげ
ベビーベッドの中の赤ちゃんに顔を寄せる。魔物の侵入に恐れをなすかと思いきや、勇者は喜色を
浮かべ、両腕をばたつかせる。
「本当にそれだけは意外よね…。将来、危機感のない人間に育たないか、姉さん今から不安なのよ。」
「…俺の顔は危険度の標準指数かなんかか。」
 不満に口を尖らせた竜児を尻目に、クスリと笑ってダイニングに向かう大河を追おうと振り返ると、
「あ、今日は下ごしらえ含めそろそろ自分で一通りやろうと思うの。竜児はその子と遊びながら見てて。」
「…大丈夫か?」
「なによ、信用できないわけ?」
「…半々だな。教えるべきことはだいたい教えたし、俺がついてれば全部ちゃんと出来ているのもわかってる」
「あとの半分は?」
「お前がドジをやらかさないか、だな。」
「それが半分も占めてるって…。いーのよ、ドジはあんたが横にいてもやるんだから。」
「それもそうだな。じゃあ今日は認定試験だ。今日の課題はなんだった?」
「肉じゃがよ。材料は昨日のうちに買い揃えてあるし、まあ、見てなさいよ。」
「わかった。期待してるぜ。」
 竜児はニヤッと(にっこり?)笑ってエールを送る。
「まかしときなさいよ。」
 そう答える大河の背中には、以前感じた儚さや不安定さを見ることはなかった。






「…うまいじゃねえか…。」
「へへん、当然よ。まあ、あれなんじゃない?その、先生が…ぁー。」
「…ん?先生が…?なんだって?」
「…うっさいわねハゲ。何 ニヤつい ちゃってんの よっ。」
 照れ隠しに、竜児の邪悪にゆがんだ頬を指でこねくり、修正してやる大河。
ふっと、反対の頬にジャガイモの粉がついているのをみて、もう片方の指でそれをぬぐってやる。
おっと、わりぃという竜児の顔が赤く染まる。それを見た大河は悪戯っぽく笑い、そして
本当にいい悪戯を思いついたというように竜児をみたあと、先ほど竜児の頬をぬぐった
 人差し指をくわえ、ジャガイモを舐め取り、上目遣いに竜児を見やる。
すると竜児はニヤついた顔のまま固まっている。顔はさっきと同様、赤いままだ。
それを見て自分の悪戯が成功したと確信すると同時に、大河も猛烈な羞恥心に襲われる。
「…」
「……」
 お互い茹蛸のように真っ赤になり、岩のようにその場から動けないでいる。
先に動いたのは竜の彫刻であった。ゆっくり、そして視線は上のほうへ、ゆっくり近づいてくる。
虎の彫刻はその様子を見ながらも動けずに成り行きに身をまかせつつも、あれ、この方向は、
この角度だと少し外れてるんじゃないかなー、と冷静に軌道計算をしていた。
 着弾地点はお互いの額と額だった。お互いうつむくような形になり、でも熱は冷めやらず、
しばらくは温度を交換し合いっていたが、やがて二つの温度が平均化されたころ、虎の呪縛が
とかれた。ゆっくりと、上を見るように首を持ち上げる。額はくっついたまま、かみ合った歯車のように
眉間、鼻柱、と触れ合う位置を変えていく。
 既に視界は閉ざされ、二人は感覚だけの世界にあった。触れ合った場所からお互いの温度が、存在が
伝わりあい、いろんな感情が駆け巡っていく。
 火口を越え、その先にあるマグマへと、溶け合うために、落ち往くために、無限の中間点を通過していく。
放射される熱が、触れてもいない表面を焼き焦がし、ついに…


「あらやだわ」
 はたして時は逆流した。火口から着弾地点まで一気に戻り、臨界を越えた歯車は弾け飛んだ。
「な、ななななな、なんっんあ!?」
「お、おおおおお、おうっうお!?」
 水蒸気爆発を起こした二人は、闖入者を見上げて狂ったCDのように同じピットを繰り返し再生していた。
「あらあら、ごめんなさいね。忘れ物をとりに来ただけだったんだけど、もしかして大変遺憾だったかしら?」
「マ、マママママママママ、ママ!」
「ごめんねー、一階にいると思ったからー、あー、どうぞ。続けて続けて。」
「で、できるものか!」
「それは残念ねー、高須君もごめんねー。」
 食事中にげっぷが出ちゃったー、程度の気楽さで謝罪する大河の母親は、そのまま自室へと
その忘れ物とやらを取りに引っ込んでいった。残された二人の心臓は既に破裂寸前だ。
ふっと竜児は大河の、憤りと羞恥で染まる横顔をみて、連帯感ともいえるような安らぎを感じ、
少しだけ救われた気分になった。

 忘れ物をみつけ、自室から出てきた母親は竜児と大河が玄関から出ようとしているところを見かけ、
声をかけた。
「あら、出かけるの?ゆっくりしていけばいいのに」
「…ママは、どの口でそういうことを言うのよ…」
「ああ、いや。うちもそろそろ晩飯なんで、スーパー行かないといけないんですよ。」
 うらめしさたっぷりに毒づく大河の台詞にフォローを入れるように、竜児は大河の母親に告げる。
「あたしは竜児を家まで送っていくの。ご飯は戻ったらでいいでしょ?」
「あら、いいわよ。気を使わなくても。出来てるみたいだから勝手に食べてるわ。どうせすぐ戻るようだし。」
 送り送られが逆なんじゃないの?そういう突っ込みを飲み込みつつ気の利いたことでもと、
暗に『すぐ戻らなくていいわよ』の意を告げてみせる。


「ならそれでもいいけど、ちゃんと食器に盛って食べてよ。付け合せのおかずも冷蔵庫に入ってるから。
全部どんぶりにしてかっこむと胃に悪いんだからね。」
 母親はそういう大河の顔を、まるで変なものでも見るかのように、ボケッと口をあけてたたずんでいた。
「…?なに?」
「イヤねぇ…、あの大河の口からそんな台詞を聞くことになるなんて思わなかったからねぇ。」
「なにそれ。」
「べっつにー。ほら行った行った。」
「ふんだ、いこ竜児。」
「あ、まてよ大河。あ、じゃ、じゃあお邪魔しました。」
「はぁい、ありがとねー。またきてねー。主に食事を作りに。」
 苦笑いを向けつつ、閉まる扉の向こうに駆けていく竜児の背中に、やれやれと嘆息する。
そして、誰もいない玄関の廊下で一人、優しい笑みを浮かべひとりごちる。
「…本当に、感謝してるわ。あの子のことで、本当に、色々…。」


 スーパー狩野屋で買い物を終えた二人は、竜児の家の前にいた。
夕闇があたりを支配し、逢魔が刻が訪れる。竜児の住んでいるアパートに来れば、否応なしに
見せ付けられる、逢坂のマンション。もう既に人手に渡っているが、外観はなんら変わっていない。
二人はどちらともなく立ち止まり、丁度敷地の境目の壁、洗濯機が置いてある竜児の部屋のベランダと
その正面の寝室の窓をがある空間をぼんやり眺めていた。
 いろんな思い出が、頭の中を駆け巡る。最初は窓を越えてやってきた。しばらくは竜児の部屋に
二人一緒にいた。年があけて、また二つに分かれた。
 本当にいろんなことがあった。思い出を反芻しながら。これからも続く日常へ思いを馳せる。
きっとこれからもいろんなことがあるのだ。そのたびに思い、悩み、挫け、立ち直り、歩き出す。
 そんな時、傍らにいるのがコイツなんだ、と、申し合わせたように二人は視線を合わせる。
お互いの思っていたことを、たぶん、お互いに察して、微笑み微笑み返す。
「ねえ、竜児。」
「なんだ、大河。」
「…ううん、なんでもない。」
「…そうか。」
 二人は見つめあい、それは夕日のせいなのか、赤く染まる大河の頬に優しく手を添えた。
 黄昏の中、どこまでも伸びる影が、やがて闇に飲まれる前に、二つの影は寄り添い、
そしてひとつになっていったのだった。


終わり



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