目を覚ましてしから最初に感じたのは違和感。体が重い。それに、暗い。
「ん……」
耳元から声がする。首をくすぐる細長い髪の毛が気持ちいい。
「……いい香りがする」
かつて、何度か嗅いだ事のある香り。そう、これは大河のシャンプーだ。
ぼやけた頭で、その香りの元凶に触れる。滑らかで、それでいてさわり心地の良いそれは間違いなく髪の毛。
なんだか、いつまでも触っていたくてさわさわと撫でる。胸に感じる自分のシャツ越しの熱が暖かい。
「ん……」
また声。今の声はすぐ耳元から聞こえた。ふと、隣を見てm…………!?!?!?!?!?!??!?
声を失う。mの後にIを入れることすら出来ない。これでは『み』とすら言えない。いや、問題はそこじゃない。
首をくすぐる優しい髪の毛が、その香りを漂わせ、竜児の鼻腔を埋め尽くす。このままでは正常な判断を失いかねない。
何故大河の顔は俺の胸ではなく、俺の顔の隣にあるのだろうか。しかもその距離は30cm定規よりも短い。
「う……」
ごくり、と唾を飲み込む。
シャツ越しに感じた暖かさは大河だったのかと気付く。安らかな寝息をたてているその顔は、見ているだけで何処か癒されると思うほど清楚だ。こんな顔を見れば誰だってコロっといくかも知れない。
今朝は、不幸中の、いや幸い中の幸いか、朝に起きる男性特有の生理現象は起きていない。安心して大河の寝顔をまじまじと見る。
やっぱり綺麗だ。まつげは長く整っているし、肌に荒れも見られない。黙っていれば大河はいつだって可愛くて、それで……。
「……いや、最近は違うか」
つい、口に出す。最近の大河は黙っていれば可愛い、というのが間違っているわけではない。ただ、黙っていなくても良い顔をすることが増えただけ。
そう、いつの間にか、自分さえ引き込まれるような……。
そこまで考えて、首を振る。自分は何を考えているのだろうか。これではまるで……。
「ん……あぅ」
サラサラと流れる大河の髪がくすぐったい。どうやら大河の覚醒も近いらしい。
ずっと覗き込んでいた大河の顔。その長いまつげが瞼と同時に開く。
「……んぁ、りゅうじぃ?……おはよぉ」
まだ寝ぼけ眼なとろんとした表情。
ドクン。
まただ。昨日も感じた稲妻。一体これは何だってんだ。大河はまだ眠そうにその左手で自分の目をこすろうと……。
「あ、まてまて。そっちの手は使うな。手錠が目に当たる。ホラ」
大河の目にかかった長い髪を手で払う。いつ触っても滑るようにサラサラだ。
「ん、アリガト」
「おぅ」
二人して起き上がる。もう慣れたものだ。まぁたとえいくら慣れようと今晩でこの手錠ともおさらばだけど。
ズキン。
何だろう、今のは。竜児はそのギラギラした目で自分の胸を見つめる。決していつ刺されてもいいように週刊誌を仕込んでいるわけでは無い。
今感じた妙な胸の痛みが不思議でしょうがないのだ。
しかし、いつまでも立っていてもしょうがない。いつも通り顔を洗いに洗面所へ。
「ほら、大河」
「ん」
お互い両の手が使えないから満足に顔も洗えない。でも、片方が相手の顔を拭いてやれば、
「ん、んん、ぷはっ、アリガト竜児。次はアンタね」
問題はなくなる。ああ、助け合いのなんて素晴らしい事。人は一人では生きていけないとはよく言ったもんだ。
「おぅ。今別のタオルを……」
「いいわよ。同じので。もったいない」
よく言ったもん……なんだって?もったいない?MOTTAINAI?今大河の口からモッタイナイという言葉が出たのか?
「ほら、屈みなさいよ」
「お、おぅ」
優しく、丁寧に顔中を満遍なく濡れタオルで拭かれる。その小さな手は、役割を十二分に果たす。部屋の掃除は苦手なくせにこういう所は妙に上手い。
やっぱりこいつもそういうところは、
「……女の子、なんだよな……」
「は?何か言った?」
「いや、なんんでもない」
朝から顔を拭いてもらったタオルからは、布団で嗅いだのと同じ、大河の臭いがした。



ボトリ。包丁が手から落ち、まな板の上に突き刺さる。
「今なんて言った、大河?」
普段の竜児なら「なんたる不覚!」とでもなりそうな程ありえない包丁の置き方にも頓着せず、むしろその不覚の事態を引き起こす原因を作った本人、大河に尋ねる。
「だから、今日のお昼は私に作らせて」
くいくい、と包丁を寄こせと言わんばかりの手つきを竜児に向ける。
「な、なんで?」
前代未聞だ。あの、あの、あの大河が。コンビニ弁当に走り、クッキーを作っては塩と砂糖を間違え、目玉焼きは焦がし、マンションのキッチンをぬめりとカビと腐った生ゴミで地獄絵図にしたあの大河が、料理だと?
一体、何の天変地異の前触れだ?
「別になんでもいいでしょ!!ほら包丁貸してよ!!このタマネギを切ればいいんでしょ?」
「お、おぅ」
流石に大河にいきなり料理は無理だとも思うが、やりたい、と思ったのならばいい機会だろう。こんな手錠に自由を奪われている時でなければ高須特性チャーハンの作り方でも伝授してやるのだが……。
「よいしょ、よいしょ」
大河は一身腐乱にタマネギを切る。
「ああ、みじん切りだから好きなように切っても大丈夫だぞ、まぁ本来みじん切りは……」
「みじん切り……よいしょ、よい……痛っ!?」
みじん切り、と言われてあちこち無造作に切り出したのが不味かったのだろう。大河は指を切ってしまった。
瞬間、竜児の背中に嫌な汗が伝う。
「あ、大丈夫か!?」
「ん、ヘーキ」
大河は自分の指を咥え……、
「おい、せっかく綺麗な水があるんだから!!」
即座に大河の手を奪う。水道水で綺麗に流し、タオルで拭くと、キッチンはそのままに救急箱の前へと行く。
「えーとカットバンは、と。あった」
「りゅ、竜児。大丈夫だって。絆創膏を貼るほどじゃ……」
「バカモノ!!その綺麗な指に傷でも残ったらどーすんだ?ほら指出せ」
出せ、と言いながら半ば奪うようにして指を掴み、絆創膏を巻いていく。
「良し、と。さて、やっぱ今日は俺が作るよ」
「嫌、私に作らせて」
「でもこの手錠じゃ上手くフォローできるかわかんないし、危ないぞ?」
「良いの。作らせて」
真っ直ぐな瞳が竜児を突き抜ける。これはテコでも動きそうに無い。
「わかったよ。そのかわり俺の言うとおりにするんだぞ」
「うん。……ありがとう竜児」
「っ!?お、おぅ!!」
卑怯だ。そんな不意打ちじみたお礼と笑顔なんて。
それから大河は、わりと言われるがままに料理をこなしていった。味付けは竜児が担当したが、他はほぼ全て大河。といっても今日の昼はチャーハンだ。
それほど難しくはないし、失敗してもわりと何とかなる料理だ。
そのおかげか、少々不恰好ではあるが、やや焦げ目のついた、米がつぶれたチャーハンが出来た。
「「いただきます」」
同時に言ってから大河は竜児の口に出来立てチャーハン大河スペシャルを運ぶ。大河も初めてにしてはそこそこ上手く焼けたじゃないか。
「……どう?」
恐る恐るといった感じに大河は尋ねる。
「おぅ、なかなか上手いぞ。大河、お前も練習すれば料理も結構上手くなれるんじゃねぇか?」
「……そっかな」
「おぅ」
「そっか、……竜児は私の料理でもおいしいと思ったか。そっか……そっか!!」
急に元気になったように大河は自分の口にも先程の蓮華でチャーハンを運ぶ。だからそれじゃ間……もはや何も言うまい。
『ブブーッブブーッ』
丁度チャーハンを食べ終えた頃、竜児の携帯のバイブが鳴る。これはメールだ。

『竜ちゃんへ。帰りは夜中になるので先に寝てて良いよ。やっちゃん晩御飯いらないから』

思ったよりも少しだけ、繋がっていられる時間が延びそうだ。



背後のドアを護るようにして立ち、ギラリとした三白眼で辺りに視線を彷徨わせる。決してこれから殺す獲物を探しているのでは無い。
「お待たせ」
トイレから出てきた大河の声と同時に耳からイヤホンが外される。ここ二日間の恒例行事。しかし、二日目からは目隠しはしなくなっていた。大河曰く、
「よく考えたらドアあるし。それに目隠しされてると、ホントは隙間から少し見えちゃうんじゃ……とか思うし」
だそうだ。
そういうことはやる前に気付いて欲しい。いや決して隙間から覗いたりなんかしてたわけじゃないけど。
そう、決して、絶対に、た、多分、ドアに挟まっている手の奥側を覗こうだなんて思ってはいない……はずだ。
トイレを終えた大河は、竜児と二人で居間へと戻る。つけっぱなしになっていたテレビからはたいして面白くもない芸人のコントが流れている。
この手錠で繋がれた不便な状態という奴にもだいぶ慣れてきて、日常生活への支障は数える程になった。二人して隣り合って体重を支え合うようにテレビの前に座る。
たいしてやりたいこともないし、あったとしてもこの手では出来ることが限られている。
しかし、二日間も家に缶詰で、それもやることがないとなれば、当然、
「つまんない」
虎がこう言い出すだろう。草を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べ、やがて肉食動物は死して土に還り、その上に草が生えてくるくらいに自然の摂理だ。
食物連鎖と日常は繋がっているのだ。だからこうなるのも無理はないのだが、
「んなこと言ったってな……」
竜児がそう言うのも同じくらい無理のない事だ。
手錠が無くても、家にいて出来ることなど数えるほどしかない。まぁ普段の竜児なら日頃手の届かない所の掃除なんかをやり出すかもしれな……いや、
「……ん?あ、あれは!?」
掃除の申し子高須竜児は、
「すまん、大河ちょっと移動するぞ」
こんな時でさえ、
「今確かに戸棚の裏にカビを見た」
掃除に執着するのだ。そこに汚れがあれば拭き取り、舐めても問題無いくらいにまで仕上げる。
竜児は、どうしようも無い汚れやちょっとしたシミ、それらが自分の掃除によって見事殲滅されるのを見るのが無情の喜びなのだ。
例え、今から掃除で綺麗になった時の事を思い浮かべて、これから誰か殺そうとしているような形相をしている竜児を大河が奇異な目で見て虐げられようとも……あれ?
「はい、アンタ棒」
「お、おぅ」
珍事発生。普段なら遠巻きになって気持ち悪いようなものでも見る大河が、竜児に高須棒と呼ばれる竜児特性お手軽掃除用具を渡す。
「何よ?幽霊でも見たような顔して」
そう言いながら、ずいっと顔を近づける。顔が……近い。
「い、いや、そうだ、カビ取りしないと」
竜児は首を背け、言葉を濁してカビの元へ行く。当然大河もヒョコヒョコとついてくる。
「よし、お前も俺に見つかったからには……」
じー。
「この高須流家事術、高須カビ殺しバスターで……」
じー。
ゴシゴシ。じー。ゴシゴシ。じー。ゴシゴシ。じー。ゴシゴシ。じー。
「だあぁぁ!!何だよ!?じっと見てないで何か言えよ!?」
掃除に集中できないなんて初めてだった。今までこんなことは無かったのに。
「ん、私にもやらせて」
What!?今何と?まさか聞き間違いでなければ「掃除をやらせて」と聞こえたような。まさか、そんな。あの汚す側のみに在籍していた大河がそんなことを言うわけ……。
「借りるわよ」
大河の手が触れる。竜児の手から高須棒を抜き取り、ゴシゴシしだす。一生懸命に。そういえば他人が真剣に掃除している姿ってのは始めて見る。
トクン。
心臓が跳ねる。大河の白い手が必死に高須棒を右へ左へ、上へ下へと動かしていく。
トクン。
また心臓が跳ねる。他人が、大河が隣で掃除をしているこの景色。
こんな、なんでもないことが、一日の1コマにすぎないフレームが、竜児の心を独占していく。
気付けば日も暮れ始めていた。



本日も、来てしまった。この時間が。人が体を清めるための儀式とも言うべき時間、風呂である。しかし、もはや恐れる事は何もない。No Fear No Painだ。すでに対策は見つけてある。
「なぁ大河、今度海にでも行く事があったらそれみんなの前で着ろよ。結構似合ってるしよ」
「うっさいわね。嫌よ」
そう、水着を着るという対策が。昨日の大河の案だが、案外大丈夫なものだ。大河は昨日と同じビキニを用意している。
「ねぇ竜児、片手じゃやっぱ届かないから後ろのホック留めてよ」
「お、おぅ」
真っ白な小さい背中。女の子の背中ってのはみんなこうなのだろうか。触れただけで壊れてしまいそうで、それでも、腕を伸ばしたくなる。
そっと腕を伸ばし、大河が両手で胸を押さえながら背中の方に回された胸を隠すためのソレを掴む。華奢で、儚げで、でも美しいその背中に優しく触れながらそっとホックをつけた。
「ほい、できたぞ」
声だけは冷静に。心臓は熱々に。少し、ほんの少し大河の隠された素肌に触れただけで、どうしようもないほどの緊張と喜び、そして照れくささが襲う。
「ほら、背中出しなさい。今日は私から洗ってあげる」
「おぅ」
そう言われて断る理由を竜児は持っていない。素直に背中を預ける。
ゴシゴシ。昨日も感じた、くすぐったいような感覚に襲われる。もっとも、くすぐったいのは背中ではなく、体の中のほうだが。
「どう?」
「おぅ、いい感じだ」
昨日も交わしたようなやり取りと、
「……ねぇ、竜児の背中って、おっきいね……」
そうでないやり取り。大河の優しい手つきは竜児の背中を駆け巡る。
「……え?今……」
何て、と聞こうとしてやめた。大河が真剣な顔をしていたから。
「もう十分だ、大河。交代してやるよ」
「……ん」
そうして、洗う側と現れる側が入れ替わる。ゴシゴシ。昨日も触れた大河の背中。こんなことでもなければ一生触るなんてことはなかっただろう。それこそ付き合ったりでもしない限り。
「………………」
「……竜児?」
そんなことを考えていたからか、自分の手が止まっていることに気付かなかった。
「わ、悪い。今流すから……ほら終わりだ」
ジャーっと湯を流して終わり。これでもう、恐らくは二度とこの背中を触ることは出来ない。
「……ん」
次いで自分達の頭を洗うのが昨日の流れ、だったのだが。
「竜児、頭出しなさい。せっかくだから洗ってあげる」
虎のお方はそんなことを言い出した。
「は?いや頭は自分で洗えるから……」
「うっさい黙れ。いいからほら」
急に頭に湯をかけられる。次いで小さくも気持ちのいい大河の手が頭を撫で回す。
「へぇ、アンタってやっちゃんと同じで髪の毛柔らかいのね。男なのに」
「そうなのか?自分じゃよくわからないな」
そうよ、と短く大河は呟き、再び湯をかける。その後に再び頭をワシャワシャ、恐らくコンディショナーだろう。
「ん?この香りは……」
「あ、そっか。いつもの調子で私のコンディショナー使っちゃった。ま、いいか」
いつもと違う香りに、竜児の鼻腔はくすぐられる。これは、大河の香りだ。
「はい、終わり」
今嗅いでいるのが大河の香りだと気付いたのと同時、竜児の洗髪が終わる。
「じゃあ次はアンタ、お願いね」
そう言われて大河は竜児を真っ直ぐに見つめ、目を閉じる。瞼が閉じられた正面の顔は、作り物のように綺麗で、心臓を一際大きく跳ねさせた。
「おぅ」
短く返事をして、その長い髪の毛に触れる。滑らかで、サラサラで、自分なんかが触っていいものなのかと疑いたくなるほどその髪は美しい。
シャンプーも、コンディショナーも、この髪の前にはただの飾りにしかならない。そう思わせる程に魅惑的でもあった。
よく、小さい事で大河は気にしているが、背中といい、この顔といい、髪といい、どこか扇情的で艶かしく、それこそ同じクラスの女子よりオトナなオンナを感じる。
いつまでも触っていたいと思う大河の髪の毛だが、やがて洗髪は終わってしまう。
「ほら大河、終わったぞ」
「………………」
洗髪が終わったというのに、大河は動かない。
「大河?」
「……ねぇ、もう一度背中流させて」
そう言ったのは、たっぷり1分経ってから。不思議に思いつつも背中を預け、やがて洗い終わると、
「もう一度、私の背中も…………ねぇもう一度背中を…………もう一度…………もう…………」
そうやって、交互に何度も背中を流し、二人は昨日の三倍もの時間をかけて風呂を終える。



「やっちゃん、帰ってこないね」
「……メールには夜中になるから寝てていいって書いてあったなしな」
二人寄りそって支えあって、テレビの方を見ながらも、番組内容なんか頭に入ってこない。感じるのは相手の体温と焦り。さっきから、何度も手錠を見ては複雑怪奇な気持ちを味わう。
「やっちゃんが帰って来ちゃったら手錠、外せちゃうね」
「おぅ」
返事はするものの、心はここに無い。だからだろう。今の大河の言葉の矛盾にも気付かない。
今竜児の心を占めるのは、手錠を通して繋がった大河の手の体温と焦燥。今日でこの生活も終わってしまう。
いや、終わってしまう、ではおかしいか。竜児は一瞬の自分思考を不思議に思う。
慣れたと言っても、このままでは不便極まりない。早くに手錠から開放されるに越した事は無い、筈なのだ。
「……ふぁ」
大河が欠伸をする。
「眠いか?もう12時だもんな。明日から学校だし、寝るか?」
「……ん、どうしよっかな」
大河も、手錠を見ながら心ここにあらずといった感じで返答する。
「手錠なら、明日の朝泰子に会ってから外して貰おうぜ」
そのほうが……と思ったことは自分の中に溜め込んでおく。
「ん……そうね。明日学校だし、寝ますか」
大河も、その案に納得したのか、はたまた竜児の声など聞こえていなくて、自分の中でそう決めたのか、今日はもう眠ることにした。

***

敷布団が一枚に毛布が二枚。最初の夜から変わらない寝具のレパートリー。
「ほら、さっさと横になりなさいよ」
大河が半ば竜児を蹴るようにして床につかせ、自らもその竜児の胸に頭を乗せる。
「お前、枕は使わねぇのか」
ことここにいたって、ようやくとそこに思い当たる竜児。最後の晩とはいえ、気になることは気になるのだ。
「ん……これでいい」
短い返事。それが大河の答え。
「そうか」
竜児も短く返す。決してないがしろにしているわけではない。どうも大河がこう胸に乗ると、自制がきかなくなりそうになるのと同時に、眠気に襲われる。
目を閉じ、深呼吸。自分の頭からほのかに大河の香り。正確には大河の使っているコンディショナーの香りだが、竜児にとっては大河の香りだ。
やがて竜児は、二日間同様、すぐに規則的な胸の上下とともに、安らかな息をし始める。
「竜児、寝た?」
昨日と同じ問い。返事は、呼吸音のみ。それを確認してから大河は、昨夜のように繋がっていない手で竜児の手に触れ、頬を撫でる。
「……竜児」
白く細い指が、優しく瞼を閉じた竜児の顔を撫でていく。決して起こさぬよう、細心の注意を払いながらも手を止めようとはしない。
「……竜児」
頬の次は髪を撫で、おでこに手を乗せる。
「……竜児」
規則的な呼吸を繰り返す竜児の顔をじっと見つめながら、小声で決して聞こえないように名前を呼ぶ。
「……竜児」
いつの間にか、大河は竜児の耳元で声をかけていた。決して聞こえないように。
「……ねぇ、竜児」
だが、名前の後には何も続けない。何も言う事が無いのか、それとも……。
「……竜児は、おっきいね」
初めて、名前以外の呼びかけをする。大河の手が、昨夜のように竜児の首を掻き抱く。
竜児の髪から、自分と同じ香りがして、綻ぶ。昨日とは違い、自分がこの香りを竜児につけてやった。それが何か嬉しい。
「……りゅう、じ」
段々と、大河も意識を手放しそうになって来たところで、
『ブブーッブブーッ』
また竜児の携帯のバイブが鳴る。液晶には「泰子」の文字。
大河は少し躊躇してから携帯を手に取り、メールを開く。途端、少ない驚きと、笑み。すぐに携帯を戻して、竜児の首に再び手を滑り込ませる。
「……もうちょっとだけ、私だけの竜児で、いてくれるかな……」
そんなことを言いながら大河は、昨日よりもさらに竜児に密着して瞼を閉じる。その顔には笑みがこびりついていた。
故に気付かない。少し、ほんの少しばかり、竜児の呼吸が不規則になっていたことに。

--> Next...



作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system