昨日は、いつも通りの自分でいられただろうか。泣いちゃったから少し不安だったけど多分大丈夫、と大河は自分に言い聞かせる。
竜児に負担をかけないために、記憶が戻るまではいつも通りでいるとあの日病院で決めたのだから。気合を入れて高須家の扉を開き、驚く。
「おはよ、ってどうしたのよ、その目?」
「……おぅ、ちょっと寝不足でな」
竜児は目の下に隈を作っていた。
竜児はあれから何度頭を洗っても納得のいく臭いにならず、諦めて風呂から上がり、寝ようとしても胸に違和感を覚えて眠れなかった。
頭を駆け巡るのは、時折フラッシュバックする映像。そのほとんどが目の前にいる逢坂大河関係。
「アンタ、ただでさえ目つき悪いんだから気をつけなさいよ?」
「……おぅ」
竜児は返事をしながらキッチンへ。大河はテレビのスイッチをつける。
『エウレーカー!!』
映ったのは子供向けのアニメ。裸の男が「エウレーカー!!」と叫びながら走っている。
「ぷっ、何コレ?アルキメデスの話?随分コミカルねぇ」
大河は一笑して、ふと思い出す。
「ねぇ、竜児」
「……ん?」
背中を向けたままの竜児が首だけ振り向く。手はずっと包丁を動かしたまま。今朝はサンドイッチだ。
「アンタが言ってたアルキメデスが発見しちゃった事って何?丁度テレビでやってるコレのこと?」
大河がテレビを指差す。テレビでは、裸のアルキメデスが金の冠をかかげながら走っている。竜児は首だけを向けたまま、
「アルキメデスって言えば確か「エウレーカー!!」とか言って地動説で宗教裁判になった奴だっけ?」
「は?」
大河は首を傾げる。
「あれ、まてよ?いやそうだよな?いやいや違う気がしてきた。ああ、もう俺時々昔の学者の名前がごっちゃになるんだよな」
「あのねぇ、地動説で宗教裁判になったのはガリレオよ。ガリレオ・ガリレイ。普通間違えないわよ。アンタ春田よりアホなんじゃないの?」
「春田って……クラスメイトの?」
竜児が素で尋ねる。大河はしまった、という顔をした。今の竜児は能登はともかく、まだ春田とはそれほど親しくなかったはずだ。急いで誤魔化す。
「そうよ。しっかし、なんだってアルキメデス?いやガリレオか。何でガリレオが地動説を見つけちゃまずかったのよ?」
「俺そんなこと言ってたのか?だとしたら、やっぱ夢が見たいからじゃないか?」
「夢?」
大河はもうほとんど話を聞いていない。手でリモコンをいじくりまわし、話半分といった感じだ。
「ああ。『地球』が『世界の中心』なんて憧れるじゃないか。なんか、宇宙全てから見守られて愛されてる気がしないか?」
「はぁ?……なん、だって!?」
ボトリ、とリモコンを落とす。今、竜児は何と言ったのだ?
『お前は……地球だよ』
かつての竜児の言葉がリフレインする。あの時、竜児が言いたかったのは……。
「だから地球だよ。地球。自分で自分を見ることの出来ない地球が全ての中心、とかちょっとカッコイイじゃねぇか」
竜児は既に首も元に戻し料理に集中している。
「……りゅう、じ。アンタ……そんな……でも……」
大河は、何か信じられないものを見たような顔で竜児を見つめていた。まるで、『誰かの幽霊』でも見たみたいに。
「ん?どうした、逢坂?」
が、何も知らない顔の竜児は、大河の心を深く抉っていく。
テーブルには、たくさんのサンドイッチ。でも今朝の大河は、それらに一つも手をつけなかった。




「さぁ、今日も一日元気にがんば……な、何?逢坂さん?」
2年C組担任、恋ヶ窪ゆり(30)は朝からガンを飛ばしてくる問題児、逢坂大河の視線に恐れおののいた。
「別に」
大河は短くそう答え、再び睨みつけるような視線を向ける。正確には、ゆりを見ているわけではない。ただ真っ直ぐ、虚空を睨んでいるだけだ。
「そ、そう?じゃあ、みんな今日も一日ブイっといこうね〜」
「「「………………」」」
しーん。誰も反応しない。歳を感じさせる寒いギャグに、ついてきてくれる生徒は残念ながらこの場にはいなかった。
「……うう、北村君」
「はい。というわけで、1時限目が始まる前には各自席に着くように。HRを終わります」
がやがやと小さい喧騒が起きながらも、HRが終了したことが告げられる。ゆりは、「……私ってもうオバサンなのかも」などと呟きダークオーラを撒き散らしながら教室を出て行く。
「………………」
大河は今だに虚空を睨んでいた。じっと考え込んでいる。手が、段々と胸ポケットへと伸びていく。
そこには自分の生徒手帳。中には写真が……二枚入っている。一枚は文化祭で北村祐作とダンスを踊った時のもの。もう一枚は……。
その手帳の存在を手のひらで感じながら、目を閉じる。
「何やってんだい大河?」
大河、そう呼ばれたが特段揺さぶられることは無い。今、そう呼ぶのは一人だけだから。
「ん……何でもないよ、みのりん」
「そう?」
顔を覗き込むようにして大河を見つめた実乃梨は、笑顔から一瞬表情を変え、
「……あんまり、思いつめんなよ、大河」
耳元でそう囁く。それが何を意味しているか、わからない大河ではない。
「大丈夫だよみのりん。そんなんじゃ、ないから」
そう笑って誤魔化し、実乃梨との会話を打ち切る。
久しぶりに呼ばれた自分の名前は、何処か他人のもののような気さえした。毎日、あのやや低い声でかけられていた名前を、もう随分と聞いてないせいだろうか。

***

昼休み。またも北村の恋愛相談が流れている。
『ほぅほぅ。それはそれは』
とん、と大河の前に包みが置かれる。
「ほら、今朝食わなかったサンドイッチ。体調が悪いなら無理せず早退したほうがいいぞ逢坂」
目の前には三白眼をぎらつかせた竜児。わかってる。わざとやてるわけでも怒ってるわけでもない。ただ覚えていないだけ。心配してくれてるだけ。わかってる、のに……。
「……うっさい。今は一人にして」
そう呼ばれることに耐え切れなくて、拒絶してしまう。
「お前な……」
竜児は呆れたように席を離れた。
「………………」
声をかけることすら出来ない。だって、朝にあんな事を聞いたら、しょうがないじゃない。
『地球が世界の中心』
アンタは覚えてないだろうけど、アンタは私を地球だって言ったのよ。どうしてくれんのよ。頭の中が、アンタで一杯になっちゃうじゃない。今は私の事をほとんど知らないってのに……。
嫌でも、アンタが轢かれた時のことを、考えちゃうじゃない。
「………………」
結局、大河は昼休みにもご飯に手をつけなかった。
竜児の席にも、包みを解かれていない弁当が乗ったままだった。
『ではお昼休みが終わりますので。明日は突然お悩み相談。飛びいり参加のアナタをお待ちしています』
北村の放送が昼休みの終わりを告げる。




「………………」
「………………」
無言。二人の男女は無言で家路を歩く。一方は機嫌悪そうにその鋭いナイフのような目つきを左右に揺らしている。実際は機嫌が悪いのではなく戸惑っているだけだが。
もう一方は高校の制服を着てはいるものの、小学生もしくは中学生と名乗っても違和感を感じられぬほど小さい美少女。フワフワとした長い髪が腰まで伸び、そのスラリとした足はたとえ背が小さくともどこか色香を感じさせる。
そんな彼女、逢坂大河の腕には買い物袋。珍しく買い物の荷物を竜児ではなく大河が持ち、さらに、
「……なぁ、ホントにお前が飯作るのか?大丈夫か?」
竜児が不安そうに尋ねる。そう、大河は今日、自分が夕飯を作ると言い出したのだ。
「うっさいわね。アタシに付き合って飯を食わずに頑張ってるバカがいるからよ」
少し上を見上げながら大河は袋をかかげる。竜児は大河の視線を追って首を傾げる。上を見上げて見たが特に何も無い。まさかこの上に別世界の住人が飯も食わずに待っているわけじゃあるまい。と、いうことは……。
「……気付いてたのか」
「ふん」
大河は鼻を鳴らすとそれきり黙る。竜児の鞄には開けられた形跡の無い包みが二つ。何となく一人だけ食べるのも気がひけて、結局今日は食べなかったのだ。
「「ただいま」」
二人そろってただいまを言って、大河は真っ直ぐキッチンへ。
「なぁ、何を作るんだ?お前、料理なんかしたこと無いだろ?」
「……あるわよ、チャーハンくらい」
「チャーハン?」
「うっさいわね!!あっち行っててよ!!」
大河は追い出すように竜児をキッチンから蹴り飛ばす。いつかの踏み台を用意して、早速準備に取り掛かった。
その後姿をぼーっと竜児は眺めている。どこかで見たような景色。この顔を自分は知ってる気がする。ふと、気付いた。
「アイツ、手に絆創膏してるじゃねぇか」
竜児の無駄に細かい知識が、あれはもう、数日はつけっぱなしだという事がわかる。最低一日で付け替えろよ、と内心毒づく。

***

大河はドジだ。だが、決して頭が悪いワケでは無い。ちょっと不器用なのと要領が悪いだけだ。だから、要領さえわかっていれば……。
「ま、こんなもんよ」
目の前にはチャーハン。湯気が立ち込めているが奇跡的に焦げは見られない。若干米が潰れてはいるが許容範囲内だろう。
「何だ逢坂、やれば出来るじゃないか」
「………………」
「……逢坂?」
「……いいから食べなさいよ」
竜児は首を傾げながらもチャーハンを口に運び始める。初めて大河が一人で作ったチャーハンは、ちょっとしょっぱかった。
「さて、片付けは俺がやるよ……ってうお!?」
「……何よ?」
「いや、今確かにそこにカビが!!こうしちゃおれんこの黒い悪魔め!!って……おい逢坂?」
竜児が気付いたカビに、大河はいつの間に手にしたのか、高須棒を持って近づく。ゴシゴシ。みるみると竜児の悩みのタネが殲滅されていく。
「……へぇ、逢坂それの使い方も上手いな」
「……アンタがおし「でも逢坂、そこまで出来るんなら」…………」
「逢坂?どうし……『バァン!!』」
高須棒が地面に叩きつけられる。柄は折れ、無残な姿になって飛び散る。
「……あいさか、あいさかあいさかって……私には、……私は……!!」
そう怒ったように言い捨てて、驚く竜児を尻目に大河は高須家を飛び出した。

***

やっちゃった。とうとう我慢できなかった。
大河は自分のマンションの部屋にある椅子に座って天井を眺める。腕をぷらんと垂らし『ガチャ』何か金属質な物に触れる。
それは、銀色に輝く手錠。数日間、お互いをずっと近づけてくれた魔法の手枷。何気なく、それに手を伸ばし、濡れる。
「え……?」
涙が止まらない。どうしてだろう。ああ……そうか。
私は……竜児に縋っていたんだ。いつも隣にいてくれる竜児に。でももう竜児はいない。私を『大河』って呼んでくれる竜児がいない。……それが……イヤ、なんだ……。
「……りゅうじ……」
名前を呼ぶ。
「りゅうじぃーーーっ!!!!!」
今はまだ、届く事ないその名前を。




俺が一体何をした。思い浮かぶのはそんな言葉。でも、
「………………」
言いようの無い罪悪感が身を蝕む。あいつのあの顔、本気だった。本気で怒って、悲しそうだった。
散りばめられた無残な高須棒の残骸を一つ、また一つ拾う。
「………………」
声は出ない。まるで声を出すという事を忘れてしまったかのように。また、残りの残骸を拾い、
「っ!?」
既視感。この棒をあいつが、大河が壁にこすり付けて……????
「……た……いが……?」
今、自分は頭の中で逢坂を何て呼んだ?いや、なんて口にした?
「くっ!!」
頭が痛い。割れるように痛い。汗が吹き出る。熱い、体が火照って熱い、熱い熱い熱い熱い!!!!
「くそっ!!」
竜児は、この寒空の中、上着も着ずに外へと飛び出した。

***

「〜寒っ!!」
家を出てからわずか1分。すぐさま後悔。寒すぎる。このままでは凍死してしまうかもしれない。
しかし足は止まるという事を知らない。痛かった頭病みが外に出て去ったと思うのと同時、我知らず足が動く。
「俺は一体何処にいこうってんだ」
自分で自分がわからない。自分が何処に向かっているかなんてわからないのに、足は淀みなく歩き続ける。
それでもやがて、足は止まる。
「ここは……」
そこは、近所の公園。たいした設備も揃っていないただの散歩に使われそうな。
「ふぅ」
目の前にあるのはベンチ。二人座ると丁度よさそうな大きさのソレに一人で座る。
サァァァ――。
風が吹く。頬を、風が、冷気が、枝が撫でる。
「痛っ……ってなんだ枝か。この間大河がいじってた奴だな………………」
何だって?今、自分は何て言った?
「……大河……」
いや、そうだけどそうじゃない。よく考えろ自分。俺は、あいつとここに来たことが、
「……あるのか?」
口に出す。ベンチの背もたれに両手を乗せ背中一杯に体重を預け、夜空を見上げる。
そこには、光輝くオリオン座。
『空に小さく並ぶオリオン座だって、近く見えても実際には凄く遠い。私と竜児はきっとそんな関係なんだよね』
蘇る誰かの、あいつの台詞。
『お前は地球だよ』
蘇る自分の台詞。そう、それは俺が言ったんだ。あいつに。
「あいつ……?……違うだろ」
思い出せ。違うだろ。俺はそうじゃねぇだろ。見えてるんだろ。わかってるんだろ。
そう、違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!!
「あいつ、じゃない。逢坂、でもない。大河″だ……そう大河だ!!」
立ち上がる。見るのは、オリオン座ではなく、自由になった右の手首。それは、自由になったことで絆を失ったかのように冷たい。寒いんじゃない。冷たい。
目を閉じる。あの日のことを思い出す。まだ耳に残ってる暖かな吐息。その向こうで聞こえてきたのは、
『……もうちょっとだけ、私だけの竜児で、いてくれるかな……』
そんな甘い言葉。竜児は、常ならば恐がられるその目を、限界まで吊り上げ上空を睨み空を見据える。
「……ちょっとだけ?よくばり大河が何言ってんだ」
やがて、空から視線を落とす。
視線を空から外した竜児の瞳は、これ以上無いほどに透明だった。

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