「ん…」
やけにふかふかなベッドの中、竜児はゆっくりと目を開けた。
まず目に入るのは大きな天蓋。次に見覚えのある少々広すぎる部屋。
むくりと起き上がってまだ開かない目をこすり、辺りを見渡す。
「ここは…」
カーテンから射し込む朝日を浴びて徐々に脳が覚醒する。
「大河の…部屋…?」
昨夜自分の寝床に入ったはずの竜児は、いつの間にか隣人のベッドで寝ている自分を不思議に思いつつ、床に降りる。
両手を高く上げ、伸びをして筋肉をほぐしていると、化粧台の大きな鏡が目に入った。
ぼんやりとしたままそこに近づいて、鏡に写るちっこいのと目を合わせる。
おう大河、と呼びかけて右手を上げると鏡の中の大河が同じく右手を上げた。
竜児はゆっくりと手を下ろし、自分のものであるはずの右手をじっと見つめる。
こんなにも己の手は小さかっただろうかと思案しつつ、目に入った寝巻きがやけにフリフリしていることに気付いた。
疑問に思ってもう一度鏡を見る。左手を上げる。右手も上げる。飛び跳ねてみる。
同じように、鏡の中の大河も左手を上げ、右手を上げ、ぴょんと飛び跳ねた。
…悪い夢だ。そう判断して、竜児は悪夢から覚めるためにもう一度ふかふかのベッドへともぐりこんだ。



「起きろおおおぉぉ!!!!」
自分の声のする目覚ましなど、そんなへんてこなものは持っていなかったはずだ。
暖かなベッドの中ですやすやと眠る竜児は、やかましい声から逃れようと深く毛布を被る。
「目を、覚ま、せぇぇええ!!」
そんな穏やかな時間もつかの間、くるまった毛布ごと床へと転がされた。
ゴン、と床に頭をぶつける鈍い音。続いて、自分を床へと転がした何者かに毛布を引き剥がされる。
乱暴な扱いに多少苛立ちつつも視線を上げると、そこには自分がいた。
竜児には見慣れ過ぎた凶暴な目をぎらつかせ、こちらを睨んでいる。そいつが再び言葉を発した。
「あんただれよ!」
おう、まさか己に己の存在を問いかけられることがあろうとは、世の中は広いものだ、そんな暢気なことを考えつつも
「お前こそだれだよ」
同じ問いを返す。自分の姿をした誰かは、さらに視線を鋭くしてきゅっと唇を結んだ。
一時の沈黙の後、ドッペルゲンガーは竜児の首根っこを掴んで鏡の前まで連れて行く。
写るのは、人形のような女の子を猫でも掴むように持ち上げる、危険人物の姿。
その光景に竜児はふと違和感を感じた。掴まれているのは…自分か?それも大河の姿をした。
一瞬の思考の後、先程の悪夢がまだ終わっていないのだろうと判断した竜児は再びベッドへと向かう。が、
「寝るな!」
一喝。こうして竜児は現実を現実と認識することとなった。



向かい合って坐った二人の間に、重い沈黙が流れる。
ありえないなどという言葉はとうに過ぎ去り、今はこの状況を受け入れるだけで精一杯だった。
どこぞの外国文学ではあるまいし、"朝目が覚めると大河になっていた"など笑えないにも程がある。
早朝、竜児の姿をした大河に叩き起こされた大河の姿をした竜児(ややこしい)は、現状を理解するのに10分の時間を要した。
その後、はっと思い付いたように朝食の準備をしようと高須家へ戻るところを、「混乱すんな!」と大河に取り押さえられ、今に至る。
「…どうすんのよ」
「そう言われても…」
そう言われても、どうしようもない。それが竜児の答え得る全てだった。
こんな超常現象など見たことも聞いたこともないし、齢十七、一学生の身である己に成す術などあるはずがない。
出来ることなら全部夢だと決め付けてもう一度ベッドに潜り込みたかったが、現実は無情、刻一刻と時は流れ既に登校時刻が目前に迫っている。
「仕方ねぇ、大河、学校に行ってから考えるぞ」
「はぁ?こんな状態で学校に行けると思ってんの?」
「行ける行けないじゃない、行くんだ」
皆勤賞を狙う竜児としては、この程度の障害に挫けている場合ではない。そう思い込もうとする竜児の頭は未だに混乱していた。
学校という閉鎖空間に潜む多くの障害・脅威に気付けない程度には。




制服に着替えようとパジャマを脱ぎかけて、大河にとび蹴りをくらった竜児は、目隠しをしたまま制服を着替させられるという
傍から見たら危険な光景を乗り越えて、いつもの通学路を爆走していた。
「なんかスースーするな、これ」
「そーいうもんよ」
「つーかこんなに短いと見えちゃうんじゃ…」
「見るな!」
竜児に蹴りを入れつつ隣を走る大河は、竜児が行くと言って聞かないため已む無くついてきた次第だ。
「お前なぁ、これは自分の体だろ?そんなに乱暴にしていいのか?」
「ぅ…中身が竜児なら関係ないのだ!」
相変わらず目茶苦茶な理論を展開する大河だが、この暴力、青い服のお兄さんが見たら捕まるのではと竜児は多少不安に感じる。
ちなみに大河の更衣時はと言えば、めんどくさいの一言、問答無用で目隠し無しのセルフ更衣となった。
扱いの差に涙を浮かべつつ、竜児は長い坂を登っていく。
チャイムと同時に教室へ飛び込んだ二人は、ほっと安堵の息を漏らして自分の席へと向かう。
当然のように机に鞄を置いて、イスを引いて、席に着くという一連の流れの中で、
「逢坂、お前の席はあっちだぞ?」
「高須君、君の席は向こうじゃないのかい?」
二人は同時に別々の人間から同じツッコミを食らうこととなった。
慌てて席を立ち、鞄を抱えてすれ違う瞬間、
「バカ」
「ドジ」
悪態をつく。このやりとりは、この日幾度となく繰り返されることになる。



「このまま今日は乗り切れそうね」
「そうだな」
挙動不審ながらも授業を2コマ終え、二人がこの環境に少しずつ慣れつつあった休み時間のこと。周りに悟られないよう小声で会話していると、
「あ……!」
竜児が自分のものでない大きな目をさらに大きく見開いて、鋭い目つきの大河の顔を見た。
「なに?」
眉をよせて大河が見返す。次に竜児が漏らした言葉が、余裕を持ち始めていた二人を厳しい現実へと引き戻した。
「次の時間、体育だ…」
「ぇ…」
一瞬何のことかわからなかった大河だったが、すぐに気付いて焦りだす。
体育の時間といえば体操着への更衣がある。もちろん男女別で。
それはすなわち大河の目の届かないところで竜児が制服を脱ぐということである。大河の顔色が目に見えて変わる。
「ダメ!絶対無理!」
ダメ!と言われたところで体育をサボる気のない竜児は、代案を必死に考慮する。
しかしすぐにタイムアップ。休み時間は短く、もう着替えないと間に合わない。
「じゃあ目を閉じて絶対見ないようにする!信じてくれ!」
「無理よ!信じらんない!」
先の見えない押問答を繰り返す二人の間に、
「お前達は相変わらず仲が良いな。高須、そろそろ着替えに行こう」
北村が割って入った。今まであんなに威勢をふるっていた大河が急におとなしくなる。そんな大河の耳元に、
「よかったな、北村と一緒にいられるぞ」
こそっと耳打ちをした竜児は、体操着を掴んで更衣室へと走り去った。取り残された大河も後を追いかけようとするが、
「高須、一緒に行こうじゃないか」
北村の声で足が止まり、フリーズ。歩き出した北村の後を顔を赤くして俯きながらついていくという、竜児のボディでやるには
少々危険な香りのする行為を素でやってしまう大河であった。
さて一方竜児はといえば、更衣室に着いたは良いものの中に入れずに、扉の前をうろうろしていた。
ここまで何故気付かなかったのかと思うが、そう、この中は男子禁制秘密の花園である。
自分なぞが入っては大変なことに、いや、大河の体だからいいのか…?






頭を抱えて座り込む竜児の前から、ぞろぞろと着替え終わった女子生徒たちが出てくる。
「逢坂さん、はやく着替えないと間に合わないよ」
「タイガー、何やってんの?」
同じクラスの生徒から急かすように言葉を投げかけられ、竜児は次第に追い詰められる。
止めを刺したのは、周囲とは一線を画すスタイルと美貌の持ち主、川嶋亜美だった。
「あ〜ら逢坂さん、貧相なボディが恥ずかしくて着替えられないのかしらぁ〜?」
「…っ!」
自分のものではないとわかっていても、身体的コンプレックスを攻められることの辛さをよく知っている竜児だ。
「余計なお世話だ川し…じゃなくてばかちー!」
精神的障害を半ば強引に突破した竜児は、虎の身で更衣室へと飛び込む。そしてすぐに後悔した。
すぐ目に入ったのは、下着姿の櫛枝実乃梨。ウブな心はあまりの衝撃に耐えられるはずもなく、竜児はスローモーションで、倒れた。



「ふぁ…」
今朝とは違う、天蓋のない真っ白なベッドの上で目を覚まし、ほんのりと漂う薬品の香りでここが保健室であることを理解した。
先の体育が始まる前の時間から、記憶がない。恐らく誰かがここへ運んでくれたのだろう。その誰かに感謝しつつ、ゆっくりと床に下りる。その時、
「起きた?」
仕切られたカーテンの向こうから、静かな声が投げかけられた。突然のことに体をビクッと震わせつつ、聞き慣れた声からそれが大河であることに気付く。
「え、なんでお前が…」
仕切りを開くと、大河がイスに坐って窓の外を眺めていた。
「私が運んでやったのよ、感謝しなさい」
大河は北村の後について更衣室へ向かう途中、女子更衣室での騒ぎを聞いて飛んできたのであった。
「びっくりしたわよ、あんたが倒れただなんて突然聞かされるんだから…」
運んでくれたのが大河だという事実に、竜児は自身気付かぬうちに笑みを零してしまう。
「そうか、ありがとな」
礼を述べた後で、上機嫌な竜児は流暢に語る。
「この体はお前のものだからな。そりゃ心配だよな」
しかし、
「…そういうことじゃない」
先程とは少しトーンの落ちた大河の声が返された。それに気付いてか気付かずか、
「北村との時間も、邪魔しちゃったよな…すまん」
次第に大河への言葉が、感謝から謝罪のそれへと変わっていく。
「…違う」
笑顔から段々申し訳なさそうな顔へと変わる竜児を見て、大河は複雑な気持ちになる。
自分はただ竜児が心配だっただけで…。すんなりとそれが言えずに、竜児の声を否定することでしか返事を返せない。
そのまま向かい合って、押し黙ってしまった二人の空間にチャイムの音が鳴り響いた。
「今、何コマ目だ?」
「今ので午前の授業は終わり。あんたたっぷり1時間以上寝てたんだから」
その間ずっと近くにいたことには触れずに、大河はイスから立ち上がって出口へ向かう。
ベッドに坐って大河と話していた竜児も、続いて立ち上がろうとして、
「っ…」
ふらりとよろけた。
「竜児!」
咄嗟に駆け寄った大河が、元は自分のものである細い肩を支えた。
「すまん、ちょっと立ちくらみが」
「あんまり無理するんじゃないわよ…」
ゆっくりと大河の手をどけて歩き出した竜児を、心配そうな目で大河は見つめ続けた。







いつもの4人で昼食を終え、雑談をして時間を潰していると、落ち着きのない様子で大河がもぞもぞと足を動かし始めた。
竜児は直感的に感じる。いつかは来ると思っていたが…トイレか。
幸いまだ自分に尿意はきていない。さてどうしようかと大河を見ていると、案の定席を立って竜児を廊下に呼び出した。
後を追って竜児も廊下へ出る。
「いつもなら大河が高須君を呼び出すのにね」
「そうだな、今日は高須からか。珍しいな」
その場に残された事情を知らない二人は暢気な会話を続けている。
廊下では、竜児の目の前で大河が顔を赤らめ、もじもじとしていた。頼むからその姿でその仕草はやめてくれ、そう思いつつ、
「竜児、その、あのね」
「…トイレだろ」
「!」
「見てりゃあわかるよ、んなもん」
大河の声で妙に男らしく言い放った竜児は、更に漢らしい台詞を続ける。
「行ってこい。俺は最早気にしねぇ」
「う、嘘でしょ!?ああああんたどういうことかわかって…」
「だってしょうがないだろ。このまま漏らされて恥をかくよりはよっぽどましだ」
言いつつ、竜児の顔も赤くなる。大河はその漢気溢れる言葉に、覚悟を決めた。というより限界が近いということの方が大きいかもしれない。
「…わかった」
右手と右足を同時に出すという、無意識に行うには難易度の高い技をこなしつつ、大河は男子トイレへと向かった。
「あいつ…大丈夫か…?」
己のブツを見られることへの竜児の覚悟は、実のところ半々で、恥ずかしいのとしょうがないのがせめぎ合ってはいるものの、
それよりも今の竜児には、ぎこちない動きで歩く大河の方が心配なのだった。
まあ今朝も平気で制服に着替えていたようだし、何とかなるだろうと楽観的に考える。だがこの読みは甘かった。
朝の制服への更衣時、大河は目をぎゅっとつぶって、顔を真っ赤にして、本当に必死で着替えたのだった。
そんなものだから、トイレというのは大河にとってハードルが高いどころの話ではないのだ。
がちゃり、と扉を開いて、大河は未だ見たことのない未知の空間へと足を踏み入れた。
幸運にも中にはだれもいない。今のうちにさっさと済ませてしまおうと、スリッパに履き替えて気付いた。
やり方がわからない。
想像では何となく予測できるものの、実際にやるとなるとまったくの別問題だ。
しかし迷っていても仕方ない、ぐずぐずしていると色々やっかいだと判断して、大河は震える手でチャックに指をかけた。
半分までファスナーをおろしてから、心臓の鼓動がやけに早いのを感じる。あとちょっとで、竜児の、アレが…。
大河は大きく息を吸うと、一気にファスナーを下げた。最早視線は下方に向けられず、上を見ながら手探りでの作業となる。
開いた窓から中に手を突っ込み、トランクスに空いている穴を発見した。
なるほど、男性の下着にはこういう仕組みが…などと感心している場合ではない。あと数センチでブツを取り出せるのだ。
しかし、その数センチから手が動かなくなる。その状態で固まってしまい、なんとも奇妙な格好のまま時間だけが過ぎていく。
尿意は次第に限界へと向かいつつあった。ここで漏らしてしまったら覚悟を決めた竜児に申し訳が立たない。
もう殆ど涙目になりつつも、大河はえいっと、ついに触れた。
…ここから先のことは、大河は殆ど覚えていない。ただ、目を真っ赤にして、今にも殺人を犯さんとする目つきでトイレから出た大河の手には、
やわらかく、生暖かい感触だけが残っていた。
トイレの外では、心配そうな顔で小柄な美少女が待っていた。
「上手くできたか?」
「なん、とか…」
可哀そうに、慣れないことでかなりの体力を消耗したようだ。そっと大河の背に手が添えられる。
「よくがんばったな…」
本当は頭をなでてやりたかったがこの身長差では少し遠くて、仕方なく、しかし優しげな手つきで竜児はゆっくりと大河の背をさすった。








残すところ本日の授業は後一つ、科目は家庭科、調理実習である。調理テーマは、"自由にお菓子を作ろう"という
なんとも投げやりな感があるものだが、内容は各個人のテーマを教師が把握して、作業のプロセス、結果、後片付けまで
チェックするという意外にしっかりとしたものである。
竜児は題材として、下準備を早くして焼く時間を取れれば時間内にでも余裕で作れる、マフィンを選択した。
一方の大河は、懲りずに再びクッキーを作る様子だ。始めの合図とともに調理が始まって、実習室はざわざわとにぎやかになる。
「逢坂は手際がいいな、料理の似合う女の子って良いなぁ」
「やめろよ気持ちわりぃな」
不意に北村から声をかけられ、つい地が出た。料理に夢中になりすぎていた。
「す、すまん、逢坂…」
明らかに凹む北村の様子を見て、大河にも北村にも申し訳なくなり、必死のフォローを入れる。
「ち、違うの!今のは最近流行のノリツッコミで…。わ、私も、料理の似合う男の子は好きよ!」
「そうなのか…?うん、そうだな、よしがんばろう!」
北村がこんなところだけ無駄にポジティブなやつでよかった、そう思いつつ卵をかき混ぜる作業に戻るが、
実際傍から見ると、普段のドジタイガーからは考えられないほどに、それは素晴らしい手つきだった。
てきぱきと手を動かしながら、完成したマフィンを食べて笑顔になる大河の顔を思い浮かべる。
にやけながらもあっという間に下地が出来上がり、オーブンへと入れて、後は待つだけ。
一息ついて、大河のヤツはドジをしてないかと心配になり、竜児はきょろきょろと大河を探す。
少し離れた窓際の位置に大河を見つけた。
同じミスを繰り返さないようにじっくりと、砂糖、塩などの文字を何度も確かめている。
水道の水が出しっぱなしになっていることには気付いていない…あ、気付いた。竜児はひやひやしながらずっと大河を見つめ続ける。
今度は水を止めたのはいいものの、それで先の確認など忘れたのだろう、大河は塩を手に取った。
「あんのドジ…」
竜児は駆け出してすぐに大河の横に立ち、塩を持った右手を掴む。
「お前な、よく見ろ」
「竜児…あ」
大河は恥ずかしそうにそっぽを向いて、
「だ、大丈夫だからあっち行っててよ」
不器用に誤魔化した。
「わーったよ、今度は気をつけろよ」
竜児は苦笑しつつ、マフィンの焼け具合を確かめに自分の定位置へと戻っていく。
いつもの大きな背とは違う、そんな竜児の薄い背中を見て、大河は両手で両頬を叩き気合いを入れ直した。



「起立、礼」
独身のさよーならーという言葉とともに本日の全課程が終了し、放課後。
「大河よ、ジュースでも飲んで疲れを癒そうじゃないか」
「うん」
今日一日を通して、竜児は憧れの人である実乃梨への対応も、ある程度スムーズに行えるようになっていた。
自販機に小銭を入れ、いつもの癖でコーヒーを選ぶ。
「あれ、大河ってコーヒー飲むっけ?」
しまった、と思いつつ、竜児は、
「たまにはこういうのもいいかも、なんてね」
十分に誤魔化しの効く程度には、自然に対応できている。慣れって怖いなと思いつつ、大河の小さな手でフタを開けようとして、
「あれ?」
いつもの感覚で力を込めたが、フタは開かなかった。さらに力を込めて、ようやくフタが開く。
缶一つ開けるのにも一苦労で、竜児は今まで知らなかった大河の苦労を知る。
他にもこんなことがあるんだろうか、とぼんやり思慮に耽っていると、実乃梨が口を開いた。
「今日の体育の時間、高須君凄かったねー」
「え…?」
「そっか、大河は覚えてないかもね」
ふっと不思議な表情で笑って、続ける。
「大河が倒れた時ね、あたしが運ぼうと思ったのに、高須君血相変えて飛んできてさ、前にいた北村君を押しのけてまで、ね」
「…」
黙って話を聞く竜児の心が、じんわりと熱を帯びだした。








「自分の荷物全部放り出して、お姫様抱っこで大河連れてっちゃって」
大河、お前は…。
「いやぁ、よっぽど大事に想われてるんだろうなって感じたよ〜、この幸せモンがぁ!」
幸せ者、か。竜児は目の前にいる想い人ではなく、あのちっこくて凶暴な虎のことばかり考えている自分に気付く。
「みのりん、そろそろ戻ろっか」
「ん、そだね」
ぐいっとコーヒーを飲み干して、竜児は缶をゴミ箱に投げ込んだ。



一方大河は、教室で帰り支度をしつつ、隣の席の北村と話をしていた。
「最近調子はどうだ?」
「と、特に何もないわ…ないぜ」
まったく意味の無い会話ではあるが、北村を前にした大河に意味のある会話など、求めること自体無意味である。
こちらでも先に切り出したのは北村だった。
「しっかし、逢坂は本当に高須のこと見てるよな」
「ぇ…それってどういう…」
「いやな、家庭科の時間なんだが、逢坂は手つきが凄くよくてな」
大河は身体が変わっても変わらない竜児の凄さに押されつつ、北村の話を聞き続ける。
不思議なことだが、想い人からこのような話をされているというのに、さして苦ではなかった。むしろ、続きを聞きたいと思う自分がいた。
「早い段階で焼く工程に入ったんだ。そしたら、その待ち時間ずっと高須の方見ててな」
はっと大河は思い出す。普通、塩と砂糖を間違えたことに、しかも離れた位置から都合よく気付けるだろうか。
北村の言うとおり、竜児はずっと自分を見守っていたのだ。自然と頬が緩んでやばい顔になる。
「どうした、高須。顔が緩んでるぞ?…お、逢坂たちが帰ってきたな」
大河も北村につられて廊下の方を見る。ちょうど教室に入ってきた竜児と目が合った。
お互い少し気恥ずかしくて、すぐに目を逸らす。が、もう一度向き直った竜児が大河を手招きで呼び寄せた。
鞄を持ったまま、二人は廊下に出て小声で話す。
「なによ」
「ほらこれ。さっきの時間で俺はマフィンを作ったんだ。俺ならドジしないし、俺から北村に渡してやろうか?」
言いながら、ちくりと竜児の胸が痛む。だが、大河が自分のために色々してくれたことはとても嬉しいのだ。
ならば、自分も大河のために動くべきではないか。
たとえ出所不明の痛みが邪魔をしても、そうするのが大河のため、ではないか。
しかし、
「いい」
即刻拒否される。
「な、なんでだよ。上手く焼けてるし、せっかくのチャンスじゃねぇか!」
「いいって言ってるの!それより…」
大河は目を右に左に動かして、手を鞄に突っ込んでもぞもぞと動かしたあと、
「これ」
小さな包みの入った袋を竜児に差し出した。
「おま、これって…」
それは家庭科の時間に、大河が気合いを入れて作り上げたクッキーだった。
「これこそ北村にあげるべきじゃ…」
「くどい!私がいいって言ってるんだから、素直に受け取りなさい!」
大河からクッキーを押し付けられて、思わず精緻に整った顔がふにゃりと破顔する。大きな瞳がいっぱいに細められる。
それを見て、自分の顔ながらも大河の心臓がドキッと跳ねた。いや、これは竜児だからこそ成せる表情なのかもしれない。
「そんでもって、あんたのマフィンは…その…」
再びもじもじしつつ少し上ずった声で、しかし言い淀んでしまう。そんな大河を見て、竜児は迷い無く大河の前にマフィンを差し出した。
「これ……お前が、食べる姿を想像しなが…ら…作…った…」
後の方は殆ど聞き取れない声で、今にも沸騰しそうなほど顔を朱に染めて俯いた竜児と、
言われてこちらも赤くなり、恥ずかしさに顔を逸らしてしまう大河。
周囲の"またこいつらか"という視線になど気付く筈もなく、二人はそのまま数分間固まっていた。







二人だけの世界からようやく現実に返ってきた竜虎は、県立図書館に来ていた。理由はもちろん、二人に起きた現象を解決するために。
といってもただの公共施設たる図書館に、そんな嘘みたいなことの解決法が運良く転がっているわけがない。
わかってはいるのだが、もしかしたらという薄い望みに期待して、学校から直接来たのだった。
手分けして本を探し始めて、1時間が経ち、2時間が経ち、それでも一向にそのようなものは見当たらない。もう日も暮れようかという頃だった。
竜児は一番奥の本棚の最上段に、"超常現象の全て"という如何にも胡散臭い本を見つけた。
そのような本であっても、今となっては藁にも縋りたい気持ちで手に取ろうとする。
しかしながら、大河ボディの低い身長では一番上の段など遠すぎて届かない。何度も必死に手を伸ばし、飛び跳ねていると、
後ろから腰を抱き締める形で、ぐい、と持ち上げられた。
「ほら、これで届くでしょ」
「あ、ありがとう」
大河に抱えられてようやく手にする事ができた、真っ黒な分厚い本。小さな手で竜児はページをめくる。
目次はありとあらゆる、超常現象と呼ばれる類の項目がページを埋め尽くしていた。
注意深く項目を見ていくと、"入れ替わり"という文字を発見、直感的にこれかも、とそのページを開く。
…あった。普段ならよくあるSFだと一蹴するところだが、今回ばかりは事情が違う。
"入れ替わりとは:人と人との二者間で人格が入れ替わる現象のこと。原因は様々であるが、解決方法は至って簡単。接吻すること。"
…それだけだった。それだけで、この項目は終わっていた。しかし、最後の二文字。接吻。
本を開いたまま動かなくなった竜児を不思議に思いつつ、どれどれ、と大河もページを覗き込んだ。
10秒後。
「ああぁアホかぁぁぁあああ!!!」
「お、落ち着け大河!」
「こんなベッタベタな話があってたまるかぁああ!!そそれにキキキスって…!!」
竜児の体で暴れ出した大河は最早手に負える相手ではなく、何とか迷惑にならないよう図書館の外へ押し出すので精一杯だった。
竜児が自販機で買ってきたジュースを飲ませて、大河が落ち着くまで10分。更に会話ができるようになるまで5分。
ようやくいつもの大河に戻ったのを見て、竜児が話しかける。
「結局得られた情報は、あの本のことだけか」
「そうね…でもキ、キス…」
「まあな…」
それは物理的には至極簡単なことなのだが、精神的に非常に大きな壁が立ちはだかる手段であった。
「と、とりあえず家に帰ろうか」
そろそろお腹も空いて、まともな思考をするためのエネルギーが不足し始める頃だ。
二人はつかず離れずの微妙な距離感で高須家へと向かった。



大河はぼんやりとテレビを見ていた。
夕方のニュース番組は、不況がどうこう、献金がどうこうと気分が重くなる話題ばかりだ。
つまらなくなって台所に立つ竜児に目をやる。小柄な体でてくてくと歩き回り、夕食の支度をしている。
改めてこの状況を考えてみると、本当に不思議な心地がする。結局中身が変わろうが、やっていることはいつもと同じなのだ。
竜児を見ていると、今の自分が"才色兼備な妻を持った男"のように感じられて、しかしすぐに竜児は男だということを思い出し、少し笑う。
「どうした、大河?楽しそうだな」
「まあね」
大河はすっと立ち上がって、味噌汁の味見をしながら、うん美味しいと目を細める竜児の隣に立つ。
「あんたって小っちゃいわねぇ」
「お前の身体だよ」
冗談を交わしつつ、今度は包丁を持ってキュウリをトントンと切っていく竜児の横顔を、大河はじっと見つめる。
いつも見上げる立場から、今は見下ろす立場に変わって、今なら普段できないこともできるような気になってしまう。
大河はそっと竜児の後ろに立つと、竜児の肩からお腹にかけて両手を交差させ、後ろから抱き締めた。
「な、危ねぇよ、今包丁持ってんだから」
竜児が真上に首を上げ、上目遣いで大河を見る。
「私の体だから、私がどうしようが勝手でしょ」
大河もそんな都合の良い言い訳をして、真下から見上げる竜児をにやりと眺める。
そっと竜児は包丁を置き、背中に感じる心地良い温もりに"相手は自分の体だし"と大河と同じ言い訳をしつつ、回された腕に頬を寄せて目を閉じた。
蛍光灯に照らされた狭い台所に、二つの影が重なって、穏やかな空気が流れる。








「さ、そろそろラストスパートだぜ。お前は居間に戻ってろ」
大河の腕をゆっくりとどかして、再び包丁を手に取る。大河は少し残念そうな顔をして、
「ここで見てる」
そう言って、料理を進める竜児を見続けた。



「ごちそうさま!」
「ふぁー食った食った!」
「竜児、食べてすぐ横になるんじゃない。女の子が行儀悪い」
「女の子じゃねーよ…」
夕食を終えてすぐのこと。大河は徐に立ち上がると、食器を抱えて台所へと運び出した。
「お、おい、どうした大河?」
「これぐらい私だってするわよ」
珍しく殊勝な大河の様子を見て、竜児は何かよくないことでも起きるんじゃないかと身を震わせつつ、体を起こした。
竜児の横をおぼつかない足取りで大河が歩いていく。ふと大河の腕に目をやると、実にアンバランスな形で食器が積まれていた。
「おま、危ねー!一度に乗せすぎだ!」
「なんのこれしき!」
ドジ神の化身にとって、これほどまでドジをやらかすのに絶好の機会はそう多くはないだろう。
立ち上がって、大河の両腕から皿を取ろうとしたそのとき―――案の定、というか予想を超えた動きを大河は見せてくれた。
皿を落とすなどというレベルではなく、皿を持つ本人自身が転びかけるという大胆かつ危険極まりない自体が起きた。
「大河!」
竜児はいつもの癖で大河を支えようとするが、二人の体格差や感覚の違いで上手く支えられない。
後ろから支えるのは無理だと判断した竜児は、背の低さを利用して大河の前方に回りこみ、全身で大河を支えようとする。
大河は大河でまさかこんなところで転ぶとは思っておらず、しかしあるのは前に回りこんできた竜児を怪我させまいとの一心のみ。
持ち前の運動センスを生かして左手で皿のバランスを取り、右手を竜児の後頭部に回して、竜児を潰さない様体を捻りつつ
さらに自分が竜児のクッションとなるように床へと倒れこんだ。
「いつつ…大丈夫か、大河!?」
大河を支えようとして結果的に自分が守られる形となった竜児は、自分の下で倒れる大河に逼迫した声を投げかける。
「…あいたた…あんたこそ怪我はない?」
そう返してきた大河の額に、一筋の赤い線ができていた。
「お前、血出てんじゃねぇか!」



「痛っ!」
救急箱からガーゼとオキシドールを取り出して、竜児は己の身であった額にちょんちょんと塗りつける。
「もうちょっと優しくしなさいよ」
「こういうのは痛いほうが効くらしいぞ」
竜児はどこで仕入れたか根拠のない情報を流しつつ、丁寧に傷口を処理していく。
一時の沈黙の後、大河が口を開いた。
「なんかね、こんなことになって」
優しい目をして、一つ一つ確かめるように言葉を紡いでいく。
「私、全然知らなかったんだなって思って」
「…何を?」
「あんたの手がこんなに大きいこと。あんたの足が意外と長いこと。あんたの見ていた景色がこういうものだったってこと」
クスッと笑いながら、大河は目を閉じて竜児の治療を受け続ける。
「…俺だって」
竜児も今日一日を通して気付いたこと、その多さに少し驚きつつ、大河に言う。
「お前が俺の知らないところでこんなにも苦労してたんだなって、こうなって初めて気付いたよ」
今まで気付けなくて…その先を続けようとして、ふっと視界が遮られる。
「ねぇ、竜児。どうせキスしたってさ、今なら自分とするようなもんでしょ?」
大河が悪戯っぽい目つきで竜児の目を見つめてくる。いまや二人の距離は10数センチというところまで近づいていた。






「ぅ…それも、そうか」
大河は未だ戸惑う竜児に、さらにぐいっと顔を近づけて、
「じゃあ…するね…」
そう呟いたところで、
「…!」
ふっと小さな顔が動いて、竜児に唇を奪われた。大河の目が大きく開かれる。
瞬間、二人の心はあるべきところへと還った。



「…戻った、な…」
「そうね…じゃなくて!」
大河は大河の身体で、竜児をキッと睨みつける。
「私がするんだったの!何であんたがしてんのよ!」
「先に元に戻れたことを喜べよ…」
目の前で騒ぐ大河を見つつ、竜児は無事元に戻れたことにほっとため息をついた。
細くなった視線を落として両手を見つめる。閉じたり開いたりして、大河の身体とはやはり感覚が違うことに妙に納得する。
そうして、ったくもう、と悪態をつく大河の頭にぽんと手を置いた。
「おお、今なら余裕だな」
届かなかった昼間を思い出して、つい大河の柔らかな髪をぐしゃぐしゃと撫で回してしまう。
大河も先程までの怒りはどこへやら、猫のように目を細めて今にもごろごろと鳴き出しそうである。
そのままどれだけの時間が経っただろうか。
「お、もうこんな…」
気付けばもう、いつもなら大河が帰宅している時間となっていた。
「とりあえず、戻れてよかったわね」
そう言って大河が立ち上がる。
玄関で靴を履く大河を見ながら、竜児は思う。
こうやってコイツの知らない部分を知る事ができるのなら、たまにはこういうのも悪くないかな、と。
靴を履き終えて振り返った大河が、不意に俯いたまま動きを止めた。
どうした、と竜児が顔を近づけたその時、
「!」
さっと顔を上げて、大河は竜児の唇を奪い返した。続けて真っ赤に顔を染めたまま、
「これは仕返しなんだから!そういうんじゃないんだからね!!」
そう言って、ドアを蹴飛ばして階段を駆け下りていった。
「あいつ…」
竜児は、一人苦笑する。
その声は次第に笑い声へと変わって、今はもう大河のいないアパートの二階に響き続けた。


おわり




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