バカ、おまえバッティングセンターじゃないんだぞ。いいじゃない、打ってみたいの。
汚れたらどうするんだよ。走ったり滑ったり出来ないだろうが。えー、だって立っ
たままでいいんだから、走んなくていいじゃない。そうじゃなくて、人間が投げるん
だから何が起きるかわかんないんだよ、わーわー、ぎゃーぎゃーと言い争いをはじめ
た二人を、空気の読めない静代と監督さんはニコニコ見ている。

「じゃぁ、こうしよう。二人とも助っ人だしデートの最中の特別参加だから、DPに
してもらうよう相手に頼んでみるよ」
「いやぁ、あのー」

それは困りますと言おうとした竜児を無視して、監督さんはくるりと背を向けると審
判のところまで歩いていってしまった。

「ねぇ竜児、DPって何?」

まったくお前、どうすんだよと思いつつも、説明をしてやる

「たぶん、俺が守備をやって、お前が打つってことだよ。DHみたいなものだろ」
「え、何?野球ってそんな面白いルールあるの?みのりん教えてくんなかったよ」
「櫛枝はソフトだから違うんじゃねぇか?ルールっていっても、DPはあったりなか
ったりだろう。監督さんも『頼んでみる』って言ってたし」

竜児も野球は詳しくないので、説明がグダグダになっていく。だが、大河の耳には入
っていないらしく

「ぷぷぷぷ、信じられない。ドラ焼きのあんこだけ食べていい、みたいな話よね。M
OTTAINAIお化けも出ないし素敵だわ」

独自の野球解釈を展開している。暗然としている竜児に向き直った監督が、大きく腕
で丸印を作ってみせる。どうやら話がついたらしい。あの丸印はチームのものであっ

て、俺のものではないな、とあきらめる。

「大河ちゃん、竜児君、ありがとう。えへっ」

妙に泰子に似た反応に思えるが、水商売の人ってみんなこんなか?

■ ■ ■ ■ 




「いいか、絶対あたっても走るなよ。お前今日スニーカーもはいていないんだから」
「分かってるわよ。私は振るだけ。服汚しちゃうとママに怒られちゃうから」

試合開始の挨拶に並んだ両チームの端っこで、ひときわ異彩を放ちながら小声で竜児
が説教をする。草野球チームのユニホームに身を包んだおじさんたちの端には、Tシ
ャツ、デニム姿の目つきの悪いひょろっとした少年と、コットン・レースを重ねたふ
わふわの白いワンピースを着たお人形さんのような少女。相手のチームのおじさんた
ちも、にやにや笑うばかり。

「お願いします」
「お願いします」

挨拶をして分かれたあと、「がんばるぞー」と声を上げる大河に笑い声が起こる。
竜治たちのチーム、「スーパードライ」は先攻だが、大河の打順は9番だからしばら
く二人とも出番はない。ベンチにピクニック用のシートを引いて、二人とも汚れない
ようにして座って観戦する。

対戦相手の「ヘビースモーカーズ」の左腕投手がモーションに入る。一投目が手から
離れる前から素人の竜児にも、相当できる選手だとわかった。フォームが丸でプロで
ある。ぱーんといい音を立ててミットに収まった球が否応なしに「場違いなところに
来てしまった感」を盛り上げる。苦笑いしながら

「あの、相手のピッチャーさんすごいですね」

横の選手に尋ねると、へらへら笑いながら

「草野球は一番上手い選手がピッチャーやるからね。たいてい高校球児だよ。あの人
は確かピッチャーだったんじゃないか」

などとのんきに答える。おいおいおい。そんなのでいいのか。元高校球児の剛速球の
前にこんな女の子を立たせるつもりなのか。

立たせろと言ったのは当の女の子なのだが、そんなことは横に置いて竜児の方は心配
モード。既に気が気ではない。

そうこうしているうちにバッターはフライに打ち取られる。続く2番3番も内野ゴロ
に討ち取られ、あっという間にチェンジ。内野の送球も結構上手い。草野球を少しだ
け馬鹿にしていた竜児は、一層気が沈む。

1回の裏、竜児の守備はライト。監督さんもキャッチャーの守備についているので、
ベンチには大河が一人ぽつんと座っている。手を振って来たので小さく振り返す。人
数あわせとはいえ、あまり浮ついたことはできない。

気を引き締めて投球の瞬間は膝を軽く曲げて前傾姿勢。グローブは体の前。球が飛ん
できたらすぐ反応出来るように準備する。意気込みだけでも見せようとしたのだが、
結局「スーパードライ」のピッチャーも相手を3人で討ち取り、幸いにもライトは仕
事をせずに済んだ。

「竜児、結構サマになってたじゃない」

と、ベンチで迎える大河は、足をぶらぶらさせてお気楽この上ない。せっかくの婚約
者のお言葉だがいまいち気分は盛り上がらず

「Tシャツだけどな」

と、竜児はつれない返事。



続く2回も同様の展開。どうやら試合は投手戦の様相を呈してきた。草野球の分際で
投手戦なんかがあるのか、というのが竜児の率直な感想。

3回表、先頭バッターが打ち取られ、監督さんが大河に声をかける。

「私?次の次じゃないの?」
「次のバッターはあの円の中で待つんだ」

と、指さしたところは、ネクストバッターズサークル。

「へぇ、じゃ竜児。行ってくるね」

振り返ってにっこりと笑う大河に、手を振ってやる。竜児は内心まだ憮然としている
が、このくらいのサービスはしてやらないと、さすがに男の風上にも置けないだろう。
与えられた大きすぎるヘルメットをかぶって大河が走り出す。
こけるなよ。

実にシュールな風景だ。おっさんたちがヤジを飛ばす草野球のグラウンドを、ふわふ
わコットンのお人形さんのような服を着た少女が、やはり大きすぎるバットを持って
テケテケと駆けていく。ああ、なんと場違いな。サークルに到着した大河はしばらく
ぼうっと立っていたが、様子を見ていた審判に注意された。

「かがんで」

無茶だ。へ?と首をかしげる大河。たまらず竜児がつぶやく。

「いや、服が」
「ターイム!」

大きな声を出して監督さんが立ち上がる。審判のところまで走っていって、二言三言
交わしたあと、大河に向かって声をかけた。

「汚れちゃうから立ったままでいいよ。球が飛んでくるから気をつけて」

もう、何もかもが茶番の様相を呈してきた。結局、8番バッターもあっさり打ち取ら
れ、大河の打順がまわってくる。グラウンドが急に沸き立つ。

「お嬢ちゃーん」
「がんばれ−」

それまで声を出していたおっさんたちに加え、遊びに来ていた家族たちからも熱い声
援が飛ぶ。突然バッターボックスに現れたお人形さんに、相手の家族まで味方をする。
「ヘビースモーカーズ」のピッチャーもあからさまに困った様に笑っている。河川
敷の横の土手を歩いていた人が、何事かと立ち止まって見ている。何というスター性。
一瞬で半径100mの視線を釘付けにした。

「へいへいバッタ人形人形!」

これ以上無いほど的確なヤジが外野から飛び、グラウンドが笑いに包まれる中、大河
だけはバットを正面に突き出すと、かるく腕をまくって振り子のように後ろに引き、
いつか見た鈴木大河、爆誕シーンを竜児に思いださせる。そうなのだ。大河は野球の
経験こそ無いが、北村につきあって行ったバッティングセンターで、マシン相手に恐
るべき打撃力を見せつけている。あの後の大河はかわいそうだったなぁ等と考えてい
る間にピッチャーがモーションに入る。ま、生きた球は別物だろう。

そう、生きた球は別物だった。何しろマシンは人間と違う。マシンは女の子相手に手
加減などしてくれなかった。



広めのスタンスの安定した下半身を土台に一閃したスイングは、ふわふわファッショ
ン用に手加減された夢見るようなスローボールを見事にとらえた。その場に居た全員
が言葉を失ったのは、当然と言えば当然だろう。続いて「おおーっ」とわき上がる歓
声と「ええー?」とわき上がる驚きの声が両陣営を包み込む。

ボールは外野を軽々と越えて、川へと落ちた。ホームラン。

熱狂する観衆と味方の選手をよそに、大河はぽつんとバッターボックスに立ってこち
らを見ている。何してるんだあいつは?と少し考えて、合点がいった。打っても走る
なと言ったのは竜児だ。

「大河!ホームランだ。一周してこい!ゆっくりだぞ!」

こくんとうなずき、大河が走り始める。ふわふわコットンを身にまとった少女が1塁
に到達する頃には、観客の声援も一層熱を帯びてきた。

「お嬢ちゃんすげー!」
「お姉ちゃんかっこいいっ!」

これは小学生の女の子。

「キャーキャー!大河ちゃーん!」

ぴょんぴょん跳びはねてその場にそぐわない乳を揺らしているのは静代。一方、大河
の方は声援を浴びるにつれて、だんだん図に乗ってきた。

「わははははは!私にまかせたまえわーっははははっおーーーっと」

蹴躓いた大河は、きゃーという観客の悲鳴を浴びながら、たたらを踏んでぎりぎりの
ところで踏みとどまる。竜児の背中に冷たい汗が噴き出す。あの馬鹿。

「大河!いい気になるなっ!落ち着いて走れっ!」

竜児の声が聞こえたのだろう、何よっ、といった顔で頬をふくらませるが、声援にす
ぐに気分をよくして帰ってきた。グリコのポーズでホームイン。先取点。ずらっと並
んで待ち構えたユニホームのおっさんたちに次々タッチしていったあと、最後に竜児
ともタッチ。

「まったくお前はつくづくすごいな」
「えっへん。北村君に連れてってもらったバッティングセンターより打ちやすかった
よ」

調子に乗りすぎだ。

しかし、大河が調子に乗り過ぎたせいかどうか、このホームランは幾分騒動を巻き起
こしてしまった。タイムをかけて審判に駆け寄ったのは、三塁を守っていた「ヘビー
スモーカーズ」の監督。続いて審判が「スーパードライ」の監督さんを呼ぶ。とうと
う、竜児と大河まで呼ばれた。両監督が見守る中、審判が訪ねる。

「君たち、野球は素人って、本当?」

そういうことか、と竜児は合点する。素人だからといろいろ勘弁してもらい、ルール
を曲げてもらっていたのだ。実はプロはだしでした、では話が収まらない。





「ええと、俺は。僕は中学校でバドミントンをやってました。少年野球には入ってい
ません。高校では部活もやっていません。こいつは小学校と中学校でテニスをやって
いましたが、野球の経験は無いはずです。高校では同じく部活をやっていません」

と、指さされた大河は

「竜児、バッティングセンター。」

わかってる。

「一度だけ、友達と一緒にバッティングセンターに行きました。大河、あのあと誰か
といったか?」

行ってない、と首を横に振る。

「バッティングセンターではどうだったの?」

相手の監督の苦い顔に正直に答える。

「バッティングセンターでは、結構いいあたりを飛ばしていました。でも、本物のピ
ッチャーの前では手も足も出ないだろうと思っていたんです。こんな格好だし。ちゃ
んと言わなくてごめんなさい」

殊勝に頭を下げる竜児につられて大河も頭を下げる。頭を下げるのは俺だけでいいん
だけどな、と思いつつ、自分の言ったことに小さな嘘があることに思い当たって胸を
痛める。そういえばバッティングセンターでもこんな格好だった。

「いや、高須君と逢坂さんが謝ることはない。お願いしたのは私だしね。もし、問題

があっても私が怒られるだけだから、心配しないで」

監督さんはにっこり笑ってそういうと、二人をベンチに返した。ベンチでは、相手チ
ームに気遣って音こそ立てないが、全員が無音の拍手と満面の笑みで二人、いや大河
を迎える。小声で浴びせられる

「すげぇなお嬢ちゃん」
「こりゃスカウトくるよ」
「ね、本当はどこのチームにいたの?」

といった言葉に、ちょっとだけ気落ちしていた大河も気を取り直したようだ。竜児の
方は審判と監督たちの話し合いが気になって、そちらを見る。もし、二人が出場停止
なら「スーパードライ」は8人になる。その場合8人で試合をするのか、それとも不
戦敗なのか。

結局、監督さんはニコニコしながら帰ってきた。親指と人差し指を丸めてOKのサイ
ン、ベンチと応援席が歓声に包まれ、スコアボードに1の文字が。





「俺たち、どうなるんですか?」

真顔で訪ねる竜児に

「大丈夫。次も出ることができるよ。いや、そうじゃなくて出てもらえるかな?」

と笑みを返す監督さんに、はぁ、と曖昧な笑いを返す。大河の方は相変わらず鼻歌な
ど歌いながら足をぶらぶらさせている。気楽なものだ。ま、いいか、こいつと婚約し
たときに残りの人生の問題は全部自分が引き受けると決めたのだ。草野球の気まずい
雰囲気など、なんてことはない。

なんてことはない、と思いつつ。雰囲気の変化を敏感に感じ取ってしまうのは気遣い
人生の悲しい性だ。相手のチームは、明らかにむっとしていた。特にピッチャー。何
しろかわいそうすぎる。元高校球児が、スパイクすら履いていない、ふわふわコット
ンのちびっ子にホームランを打たれたのだ。「油断してました」でチーム内には通用
しても、自分自身が収まらないだろう。

そして何より火に油を注ぐのが観客。さすがに「ヘビースモーカーズ」の観客は味方
だが、今や何事かと集まってきた人々がさっきまで竜児たちが居たコンクリの護岸ブ
ロックのあたりを埋め尽くしているのだ。大河のホームランを見たのはごく一部だが、
どうやら伝言で「あの白い帽子の女の子がすごかったのよ」的な情報が伝わってい
る様子が、ここからでも見て取れる。18歳にしてはじめて知る真実。野球観戦とは、
ピッチャーが滅多打ちにされるのを楽しみに待つ公開処刑ショーである。ピッチャ
ーの心痛はいかばかりか、と竜児は胸を痛めた。
胸を痛めたのだが。

時として怒りは人を後押しする。竜児なら一発で精神的コンディションを崩す状況の
中、そのピッチャーはこれまで以上に切れるピッチングで続く1番バッターを打ち取
った。チェンジ。どうやら彼の心の中では負の温度の炎が燃えさかっているらしい。

その予想は、どうやら正しかった。4回裏、フォアボールで先頭打者が塁に出ると、
ついに「ヘビースモーカーズ」の監督が動く。2番はバントで走者を送り、3番打者
が打ち取られたところで、4番バッターの登場。件のピッチャーである。冷たい炎を
まとったスイングはセンターとレフトの間を抜き、見事に2塁走者をホームに帰す。

この回、追いついて1対1の同点。

5回は両チーム無得点のまま、6回表、大河の打席を迎える。ここに来て、試合は大
河対元高校球児の様相を呈してきた。うう、胃が痛い。

■ ■ ■ ■ 




一段と気合いの入ったピッチングに先頭打者は三振に倒れ、次は9番バッター大河。

ふわふわコットンがバッターボックスに入っただけで、既に観客席はオーバーヒート
状態。護岸ブロックの特等席はとうの昔に一杯になり、既にグラウンドを取り囲む形
で人垣ができている。当然のように、土手の上にもずらりと人、人、人。ひょっとし
てダフ屋も居るんじゃないか?

ピッチャーが構える。グラウンドを包んでいた声援がシンと静まる。第一球。内角高
めに入ったものすごい速球を、大河が強引に引っ張る。打球は一直線に3塁側ファー
ルグラウンドの彼方に消え、観客をどよめかせる。

第二球。速球が乾いた音を立ててキャッチャー・ミットに収まる。大河はブン、と音
がはっきり聞こえる空振り。ため息に混じって、それとわかる疑問の声が観客からわ
き起こる。ストライクを取ったピッチャーもきょとんとした顔。

キャッチャーは外角にめいっぱい手を伸ばしてキャッチしている。大河、どんだけく
そボール振ってんだよ。

「逢坂さん、ストライク・ゾーン知ってるかな?」
「…知らないかもしれません…」

ターイム!と、監督さんの声が響く。審判がタイムを宣言するのと同時に監督さんが
大河を手招き。トコトコと走ってくる間に選手も招集して大河を囲む円陣が形成され
た。選手には竜児を含まない。思いっきり仲間はずれのまま、円陣内部で小声で話さ
れるのを見ている。

「ストライク・ゾーンって知ってる?」
「へ?名前なら」
「こう、脇の下から膝までで」
「ふんふん」
「ベースの外側と内側の…」
「迷ったら思いっきり振っていいから」
「あと、それから…」
「わかった」

審判にせかされて監督さんが笑いながら手を振る。円陣終了。とことこ駆けていく大
河に再び声援が送られる。

隣に座った選手が竜児に話し掛ける。彼女に手を振ってやんなよ、ほら、ほら、

「はぁ」

脇をこづかれて、こちらを見ている大河に小さく手を振ってやる。わかってる。と、
真剣そうに頷いているが、竜児の方はそろそろ引き上げたいなと思い始めてきた。

どこがデートなんだよ。




しかし、グラウンドの誰一人として竜児の心情を察してなどくれない。敵も味方も野
次馬も、突如現れたスーパースターの一挙一動を固唾を飲んで見守っている。審判の
合図でピッチャーが投球の構えを取る。第三球、見送り。ボール。第四球、高い球を
大河は思いっきりひっぱたく。とりゃーっという声が聞こえるようなひっぱたき方。

鈍い音を立てて高い球があがる。目で追っかけていくのがつらいほど高く上がった球
は、上昇にかけたのと同じ時間をかけて仮設バックネット裏の観客の群れに飛び込む。
悲鳴があがる。

「だいじょーぶー?」

緊張感をそぐ大河の大声に、笑い声があがる。

「大丈夫大丈夫」

観客席の誰かがキャッチしたらしい。拍手と笑い声。

気を取り直して大河がこちらを見るが、監督さんは腕を組んだまま。つーか、ブロッ
クサインなんかわからないだろう、お前。第五球。ズバン、と音を立ててミットに収
まった低い球を大河は最後まで真剣な表情で見ていた。一瞬の間。

ボール。

審判のコールにため息が漏れ、観客席からぱらぱらと拍手がわき上がる。監督さんも、
よし、よく見た、と頷きながら拍手している。

2−2で迎える第六球。なにやらキャッチャーとピッチャーの間でサインが交換され
ている。ピッチャーが納得しないというより、ピッチャーが説得している様に見える。
ようやく振りかぶって脚を上げる。あれ、フォームが違う、と竜児も思った。心持
ち遅い低めの球を引きつけて、大河がフルスイング。

空振りした。

なんと、ボールは大河の手元でワンバウンド。竜児も初めて見る生フォーク・ボール
は大河を見事罠にはめ、そしてキャッチャーも翻弄した。ころころと後ろに転がって
いくボールに観客は大騒ぎ。キャッチャーは弾かれたように後ろにダッシュ。

「走れー!走れー!」
「大河ちゃーん!1塁っ!早く走ってー!」

ベンチも総立ち。全員が1塁を指さして大声を上げているなか、只一人、大河が見つ
めていた少年は首を横に振っていた。

走るな。汚れる。




ボールに追いついたキャッチャーが1塁に送球して、審判がアウトをコール。観客か
らため息が漏れる。ベンチに戻ってきた大河が竜児に聞く。

「あれ何?」
「空振り三振のときにキャッチャーがボールを落としたら、1塁まで走っていいんだ

「何よ!じゃぁ、なんで走れって言わないのよ!」

ぷーっとふくれる大河に竜児も黙っていない。

「お前その格好で全力疾走する気かよ。どんだけ腕白気取りだよ!」
「何ですってぇ!?」

一気に険悪化する二人に、監督さんが、まぁまぁとニコニコしながら割ってはいる。

「逢坂さん、あの球よく見極めたね」
「へ?」
「ほら、ボールだってわかったんだろ」
「あ、あれ?ちょっと低すぎるかなって」

えへへと頭をかきながら照れ笑い。大河の気持ちを掌握できるのは自分だけ、と密か
に自負していた竜児は大人の力を改めて思い知る。さすがロマンスグレー。スター選
手の精神管理にまで気を回すとは。名将の気配すら感じさせる。

「ほら、手を見せてみろ」
「何よ」

振り向きざま頬をふくらませる大河の言葉は無視して手を取る。フルスイングを繰り
返した掌は赤くなっていた。腫れてこそいないが、普段鍛えていない柔らかい大河の
肌には、続けざまのフルスイングは荷が重い。

「痛くねえか?すまねぇな、氷持ってきてないんだ」
「うん…大丈夫」

すっかりおとなしくなって小声になった大河は、されるがまま。いきなり出現した恋
人空間に周りの大人はニヤニヤしているが二人は気づかない。

「俺たち初めっから数に入ってないからな、あんまり気張らずに楽しもうぜ」

帽子をかぶせてやりながら話す竜児に

「そうね、そうよね」

大河が足をぶらぶらさせて微笑む。

しかし、もちろんファンも敵もそんなことは許さない。

■ ■ ■ ■ 




7回裏、再び試合は動く。4番の活躍でさらに1点を追加した「ヘビースモーカーズ
」はついに逆転。1対2。「スーパードライ」の選手も食い下がるが、いかんせん相
手は元高校球児。退屈な投手戦に焦れた観客から「はやくお嬢ちゃんを出せ」オーラ
が噴出しているのが竜児にすら分かる。

9回表。ついに3度目にして、たぶん最後のスーパー対決の時が来る。

先頭打者が三振に倒れて、二番手は大河。バッターボックスに入ると、それだけで大
きな歓声が沸きあがる。

ここまで大河はゆるい球を1本ホームランにしただけである。しかし手加減されたと
はいえ、なんと言っても他の打者をほぼ完全に封じ込めているピッチャーから打った
というのが大きい。さらに、手加減なしの2度目の対決でも矢のようなファールを打
ち返している。否が応にも観客の期待は高まる。いくらか下品な野次を飛ばしている
者までいて、竜児の気分を逆なでする。

竜児が目を眇めてイラついている間にふわふわコットンの大河は外角と内角に散らさ
れた打ちにくい球を打って、ファールグラウンドの彼方に放り込む。そのたびに声援
があがる。実際には臭い球を打たされているのだろうか。さすがに素人の大河にその
手の勝負勘までは無い。あっという間に追い込まれた。

「彼氏君、怖い顔してないで手を振ってやんなよ」

またつつかれて手を振る。三球目、低いボール球を見送って2−1。四球目、手を出
しかけた外角のボールを危ういところで見送る。

ボール。

観客がため息を吐く。2−2。

「大河ちゃん、よく見てるな」

と、自軍ベンチの選手も感心している。馴れ馴れしい呼び方にイラっと来た。俺は彼
氏君であいつは大河ちゃんかよ。

五球目。バッテリーがサイン交換に時間をかける。あ、またフォークか?と竜児は心
配になった。今度は空振りしたら大河は走るかもしれない。汚すなよ、と独りごちる。


キャッチャーからのしつこい要求に負けたようにピッチャーが、ようやくうなずいて
振りかぶる。






その瞬間を、後に竜児は何度も夢で見てうなされることになる。見事なフォームから
射出された剛速球が、バッターボックスの大河のヘルメットを吹き飛ばした。







河川敷が悲鳴に包まれ、全員が総立ちになる。ただ一人「大河っ!」と叫んで飛び出
した竜児が、ベンチとバッターボックスの中間で棒立ちになった。

ふわふわコットンのお人形さんファッションに身を包んだ少女は、バッターボックス
にしりもちをついたまま、目を丸くして頭の辺りをぺたぺた触っている。あれ?ヘル
メットどこ?そう言っているのが分かるようなしぐさ。ボールはつばの部分でも弾い
たのだろう。

安堵のため息がグラウンドを包み込んだ瞬間、竜児の心臓が爆発した。後で思い返し
ても、竜児は自分の心がどう動いたのかよく思い出せない。ただ、全身を熱湯が駆け
巡るような怒りとともに、自分の心のなにかがべりべりと引き剥がされたような、そ
んな気分だった。

「何しやがんだてめぇーーーっ!」

その場で絶叫したTシャツの少年は一直線にピッチャーに駆け寄る。事態を察して「
スーパードライ」のベンチから選手が飛び出すが、追いつけるはずも無い。あっとい
う間に竜児はピッチャーに飛びかかっていた。

冷静に考えて、「得意なこと、家事全般」の痩身の男が、元高校球児、現草野球のエ
ースに荒事で勝てるわけが無い。まして竜児は、クラスメイトとの口げんかすら1,
2度しかしてない(しかも相手は女の子)。インパラ対ライオン。体当たりしても跳
ね飛ばされるのが関の山だ。

しかしながら、例によってと言うかなんと言うか、突進してくる竜児の顔が、決定的
瞬間にピッチャーをほんの少しだけひるませた。まずい、あいつソノスジだったのか、
と。

皮肉なことだった。16歳の泰子を捨て、入籍もせずに消えたチンピラ。母と子につ
らく長い苦労をさせた男。その男が、18年前竜児の顔に深々と刻んだものが、今、
大河のために渾身の力で吼える、竜児の小さな背中をほんの少しだけ、押した。

わずかに腰の引けたピッチャーに竜児が吼えながら飛びかかる。二人してもつれ合う
ようにマウンドに倒れこみ、馬乗りになった竜児が顔をゆがめて握りこぶしを振り上
げる。

「ぶっ殺してやるっ!」

生まれて初めて口にする荒々しい言葉と共に振り下ろされるはずだった、そのこぶし
は、いつか見たシーンそのままに、誰かの大きな手のひらにがっちりとつかまれる。

次々とつかみかかってくる大人達の大きな手のひら、太い腕に引き剥がされて、竜児
の足は宙を蹴る。吼え続ける竜児に「高須君、落ち着け。大河ちゃん無事だから」と
声がかけられる。




モヤシ男にかっこ悪く押し倒されて、立ち上がったピッチャーが、ちっと、舌打ちし
た。その彼に「スーパードライ」の監督さんがニコニコしながら声をかける。

「いや、悪かったね。怪我ない?」
「ええ、何ともありません」

そして返す刀で

「逢坂さーん、大丈夫?顔怪我しなかった?」

と大声。心配して駆け寄った大人たちに囲まれていた大河は、はっと顔をあげて首を
横に振る。大丈夫、怪我はありません。

一瞬被害者の仮面をかぶるチャンスを与えられたピッチャーは、これでまた気落ち。
女の子の顔に疵をつけるところだった。大河に向かって帽子を取ると、深々と礼をし
た。

観客はようやくほっとした。よかった。誰も怪我をしていない。バッターの子も、や
っぱり女の子だね。立ち尽くしているところなんか、本当に可愛いよ。

だが、もしその場に逢坂大河のクラスメイトがいたら、なぜ彼女はマウンドを血しぶ
きで染め上げないのかと驚いたことだろう。それは確かに奇異な光景だった。大河は
その場に立ったまま、本当に怪我はないか、頭を打っていないかとあれこれ聞く大人
たちにおとなしく囲まれていた。

そして審判は大人たちに囲まれたままうなだれている高須竜児に退場を宣告し、続い
て大人たちに囲まれたまま竜児を見ていた逢坂大河に1塁進塁を命じた。

ふわふわコットンのお人形さんファッションは、お尻のところが汚れてしまった。だ
が、けなげに1塁まで走る少女に観客から拍手が沸く。やがてグラウンドを覆い尽く
した拍手を浴びながら、その少女はうなだれて観客席に引っ込む少年の方だけを見て
いた。

■ ■ ■ ■ 


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