俺はいったい何をしているんだ。

大河をつれて楽しいピクニックのはずだった。それがなんてざまだ。はっきり断れば
良かったのだ。自分がしっかりしないばっかりに、大河は危険な目に遭い、服を汚し、
おまけに自分は揉め事まで起こしてしまった。落ち着いて考えてみれば、ピッチャ
ーだってわざとじゃないのかもしれない。ちょっと内側に投げたボールの手元が狂っ
たのだろう。

天気の良い日に二人で歩いて、二人でサンドイッチを食べて、二人で帰ってくる。自
分はそんなささやかな幸せすら、大河に手渡してあげることが出来ないのか。それで
いて保護者気取りか。何様のつもりだ。両足の間の土をにらみつけながら、鉄の味が
するほど唇をかみしめる。まったく使えない男だ。何が大河を幸せにするだ。

自省的で頭のいい子ども、いわゆるいい子である竜児は、そのパラノイア気味の性格
もあって、放っておけばいつまでも後悔を続ける。たぶん、マゾっ気も少しある。だ
が、その連続かつ稠密な自己否定は、グラウンドに響き渡った大河の

「たーーーーーいむっ!」

で強制中断された。ふわふわコットンの少女は、その場にいた全員の視線を背負って
まっすぐ竜児のところまで歩いてくる。そして何事か、と顔を上げる竜児の前にすっ
くと仁王立ち。

「ねぇ竜児。後であんたに話があるから。そんな顔してないで。私が帰ってくるまで
しっかり待っていて」

薄い胸を反らせてふんっと見下ろす姿は傲岸不遜。いつもどおりのわがまま大河。人
の気持ちなんか知りゃしない。そう、こいつはいつもこんな感じだ。気に入らなけれ
ば殴る、噛む、蹴っ飛ばす、ひっかく。ご意見無用の手乗りタイガー。

曲がっていた背筋をのばす。そういえば涙にくれる独身(30)の横でもこんな顔し
てたっけ。

両足に力を入れて立ち上がる。こいつに蹴っ飛ばされると不思議なことに元気が出る。
さっきまでの女々しい自己否定はどこへやら。馬上の拳王のごとき表情で大河を見
おろす。

これで文句ないか。
悪くないわね。

にやり、と口許をゆがめて笑顔を交換すると、大河は監督さんに向き直って

「すみません、ユニフォーム借りられませんか」

おお、とチームメイトがどよめく。しかしさすがに手乗りサイズのユニフォームは無
い。と、思いきや、あった。

「うちの子ので良ければあるわよ。汚れてるけど」

応援席にいたお母さんが声をかける。全員が振り向くと、横に小学生らしき男の子。
私服だが、どうやら朝に試合があったらしくお母さんの手には汚れたユニフォームが。






「ああ、たけしのユニフォームなら合いそうだな」

チームメイトの一人が言うと、そりゃいい、と声が上がる。

「すみません、ご迷惑をおかけします。必ず洗って返しますので」

そう言って近づくと、親子共々ひっと声を上げて、せっかく立ち直った竜児をプチ・
ブルーに染める。

「たけし君か。ごめんな。ちょっとだけお姉ちゃんにユニフォームを貸してくれるか
?」

顔は北斗神拳だが怖くなさそうだと感じたのか、たけし君は多少もじもじしながら

「いいよ」

と、答える。その場にそぐわないブレスレットで飾り立てた手を振って静代が

「よし、大河ちゃん、あっちのトイレで着替えよう。服持っててあげるから」

声をかけたところで、今日の試合の趣旨を理解していない審判から注意が入った。

「『スーパードライ』、早くしてください!」

たちまちグラウンド全体が怒号に包まれる。

「待ってやれよ」
「いいじゃねぇか着替えくらい」
「ひどーい」
「ひとでなしー!」
「かわいそー!」
「お前の血は何色だ!」

たじろぐ審判の元に監督さんが駆け寄る。3塁の相手チーム監督にも手招き。短い三
者協議がおわり、審判がいつの間にか内野席になった護岸ブロックを埋め尽くす観衆
に向かって、静かに!と手を挙げる。

「15分間中断としますっ!」

今度は審判を褒め称える歓声が上がり、グラウンドが拍手に包まれる。静代と大河は
既に駆けだしている。

「気丈だねぇ、逢坂さん」

いつのまにか近くに立って目を細める監督さんに、竜児は

「俺なんかより、ずっと肝が据わっています」

と、相変わらず拳王の表情。

■ ■ ■ ■ 




ふわふわコットンから動きやすいユニフォームに着替え、髪をまとめた大河は、仮設
トイレから結構なスピードで戻ってきた。着ていた服を持っている静代は置き去り。

まるでよくある漫画の安っぽい設定のよう。お前をなめていたよ。こんなものをつけ
ていたんじゃ勝てそうにないな。とかなんとか。

あつらえたように少年野球のユニフォームが似合う大河に、たけし君が

「スパイク履いてみる?」

と、両手で差し出す。サイズ合うかな?と首をかしげた大河だが、恐るべし手乗りタ
イガー。小学生のシューズがぴったり。

慣れないスパイクの重さに戸惑っている大河に監督さんが声をかける。

「逢坂さん、ちょっと跳ねてみて…そうそう…じゃ、その辺ゆっくり走ってみて…今
度はブレーキの練習…よし、一旦止まってダッシュしてみようか」

静止状態から土煙を上げて猛スピードに加速する大河に、押し殺したようなうなり声
が周囲から上がる。味方を集めて再度円陣を組み、監督さんが大河に2,3指示を出
す。わくわくしながら待っている観衆をよそに、一人、敵陣ベンチのピッチャーもじ
っとその様子を見つめている。

「大丈夫だね」

無言で頷く大河をみて、監督さんが審判に合図をおくる。審判の指示に従い、「ヘビ
ースモーカーズ」の選手が守りにつき、大河が1塁に立つ。9回表。1アウト。点差
1。

興奮状態の観客が見守る中、役者はそろった。


■ ■ ■ ■ 



プロ野球なら緊迫の場面だが、本日「スーパードライ」は「へービースモーカーズ」
に、ほぼ完封を食らっており、1番からの打順など屁の突っ張りにもならない。それ
でも、ピッチャーは両手を前で構えたまま、しばらくじっとしている。バッターとに
らみ合っているのではない。1塁走者の大河とにらみ合っているのだ。

この試合、息詰まる投手戦はいつの間にかふわふわコットン少女対元高校球児になっ
ている。そしてその少女は今や戦闘服に着替え、ふわふわコットンの下に隠していた
爪を剥き出しに、マウンド上のピッチャーとにらみ合っている。

その辺の事情は観客もよく理解しており、「早くしろ!」、などと声を上げる素人は
「黙ってろ!」と観客席から追い出されていく。二重三重にグラウンドを囲んだ野次
馬と、護岸ブロックを埋め尽くす早くからこの対決に気づいた通の人々は、一瞬たり
ともこの対決を見逃すまいと固唾を飲む。

遠くで橋を渡る車の音が聞こえ、風がグラウンドを渡る。風がやんだその時、ピッチ
ャーが視線を打者に戻し、クイック・モーションに入った。

「どーりゃーーーーーっ!!!!」

爪を大地に突き立てて猛然と加速する白い弾丸は、目を疑うような前傾姿勢。瞬く間
に2塁ベースに滑り込んで衝突・停止した。よっこらせと起き上がろうとする頃にな
って、パン、と2塁に送球がくる。

うぉーっ!と歓声が巻き上がる。グラウンドのあちこちで、何人もの人が鳥肌に身震
いする。

「大河ちゃーん!きゃーきゃーっ!大河ちゃーん!大河!大河ーー!」

その場にそぐわない嬌声をあげて飛び跳ねる静代の勢いにつられて、いつの間にか応
援席から大河コールが巻き起こる。それはたちまちのうちに若干の聞き違いを呼び、
河川敷を呑み込むタイガー・コールに変わった。

タイガーッ!タイガーッ!タイガーッ!タイガーッ!

狂喜乱舞の観客から浴びせられる賞賛の嵐にも、2塁上の小柄な少女は至って冷静。
ふんっ、汚れちゃった。とでも言いそうな風情で、ぱたぱたとズボンの土を払ってい
る。さっきのホームランのはしゃぎようとは大違い。勝負の血でもたぎらせているの
か。

いつまでも続くに思えたタイガー・コールは、足場をならしていたピッチャーが構え
ると、奇跡のように収まっていく。

1人悪役のピッチャーもたいしたもので、この完全アウェイ状態の中、マウンド上か
ら2塁にいる少女をにらんでいる。

チーム・メイトが竜児を振り返る。手を振ってやんなよ。

「あいつ見てませんよ」

それでも手を振ってやる。監督さんが一言

「まずいな」

大河はベンチを見ていない。見ていたって、ブロック・サインなんか理解できるはず
も無いけど。




2塁、バッター、2塁、バッター、と小さく首を振ってピッチャーが大河を牽制する。
そして、2塁を見るタイミングと見せてクイック・モーション。

大河が猛然とダッシュし、竜児はあっと声を上げた。キャッチャーが立ち上がったの
だ。3塁は2塁より近く、しかも今度はキャッチャーが立っている。送球はさっきよ
り比べものにならないほど早い。ミットに入ったボールを、滑らかな動作でキャッチ
ャーが3塁に矢のように送球。ボールは大河を確実にしとめるタイミングで…3塁手
の頭上を飛んでいった。

ぎゃーっと悲鳴に近い歓声が上がる中、竜児だけが舌を巻く。さすが大河。たった一
度で滑り込みをマスターした。ベースに衝突する運動量を脚のバネに吸収させ、その
まますくっと立ち上がり、ぱんぱんと土をはたく。あらやだ。また汚れちゃったわ。

「大河ちゃーん走れー!」
「突っ込めー!」

渦巻く歓声と怒号の中で、今度は何?と目を丸くする大河に、飛び出した竜児が腕を
振り回して絶叫する。

「大河ーっ!走れっ!走れっ!走れっ!!!!帰って来ーーいっ!!!!!!」

そうだ、帰ってこい。ここに。

弾かれた様に3塁から飛び出した大河が、瞬時にトップスピードまで加速する。よう
やく球に追いついたレフトが、小娘をしとめんと見事な送球。しかし時既に遅し。

その日誰よりも速く塁間を駆け抜けた小さな白い虎は、ホームベースを踏むと、その
向こうで待ち構える少年の元に一直線に帰ってきた。

「竜児ーっ!」
「大河ーっ!」

びゅん、と踏み切って飛びついた弾丸少女を少年が抱きとめる。誰もが少年は倒れる
だろうと思ったが、その予想は裏切られた。寒い時期、二人が近所の橋のあたりで水
中リハーサルをやったことを知る人は、ここには居ない。

「やったーっ、竜児!私やったよーっ!」
「大河ーっ、あはははは!お前やっぱ最高だよっ!今日二点目だよっ!何て奴だ大河
っ!」
「竜児!竜児ーっ!」
「大河ーっ!」

大河を抱きかかえたまま、竜児は何度も乱暴に揺すってやる。お前は最高だ。ほんと
最高な奴だ。チームメイトに囲まれて感極まって叫ぶ二人は、だから、審判の注意に
気づくのに少し時間を要した。

まだ試合は終わっていません。






四方からさんざん冷やかされて真っ赤になった二人は、そのままうつむいてベンチに
座っていた。

おそらくは数百人規模にふくれあがった観衆からは、まだクスクス笑いやひそひそ声
が散発的にあがっている。

とはいえ、今日はもう、これで終わりだろうと考える野次馬達は次々にグラウンドを
離れ始めている。ざわざわとした中で集中を欠くも、やはりまだ試合は終わっていま
せん。

ここへ来て、竜児は再びピッチャーの冷静さに舌を巻く。ほとんどの人が試合への関
心を失ってがやがやとおしゃべりをする中、彼は見事な投球で残りの打者を打ち取っ
た。9回表、「スーパードライ」1点追加。2対2。

「じゃ、ちょっくら守ってくるわ」
「うん、頑張って」

役目を終えた大河が、ベンチに座って顔を赤くしたまま小さく手を振る。まるで新婚
夫婦の様に初々しい二人に、応援席の奥さん達も、若き頃の自分を思い出して頬を染
める。

本日2得点の大河を見て発憤した竜児は、よし、俺も、と決意を新たに構える。ここ
で一丁かっこいいところを見せずにどうする。さあ、俺のところに打て。イチロー張
りのレーザービームでお前を射殺してやる。

と、言わんばかりの目つきで打者をにらむが、何も飛んでこなかったし、竜児の目も
レーザービームを撃たなかった。

「高須くーん!君、退場だからーっ!」

観客に笑われながら、顔を赤くして竜児は観客席に戻る。大河だけは笑わず、顔を赤
くしてうつむいていた。本当は罰金ものらしい。

結局その日、竜児は約束通り突っ立ったままでライトの仕事を終えた。試合は2対2
の引き分けで終わった。

■ ■ ■ ■ 




ところを変えて河川敷の広場で行われた合同打ち上げは、小さな少女の大活躍の話題
で敵も味方も持ちきりだった。ひっきりなしに知らない人に声をかけられて困った様
に笑っている大河を、竜児は少し離れたところで見守っている。

「竜児君も行ったら?」

静代に言われたが遠慮しておいた。あいつには、あんな風に多くの人の笑顔に囲まれ
る時間がもっと必要だと思う。もちろん、竜児は大河にもっともっと笑顔をあげるつ
もりだが、大河には知ってほしい。竜児以外の人たちも、大河にたくさんの笑顔をく
れるのだと。

「竜児君の活躍も見たかったなぁ」

ビール臭い息を吐いて静代が笑う。竜児はにやりと笑って

「ボールが飛んでこないのはラッキーでした」

ウーロン茶を飲む。

大河を囲む輪に敵のピッチャーが割って入る。笑顔で大河に声をかけ、大きな手を差
し出した。照れくさそうに大河が小さな手で握手をする。握手をしながらそのピッチ
ャーは、ちらっと竜児を見て、大河の耳元に笑いながら何かをささやく。大河が頬を
染める。むかっと腹が立った。お前、もう一度殺してやろうか。さっき殺し損なった
けど。などと考えているわけでは…あまりない。

そのピッチャーは竜児の腹を読んだようにこちらにウィンクを飛ばして去っていった。


「あのピッチャー、すごかったですねぇ。高校球児だったんでしょ」

不愉快な奴だが、ピッチャーとしての力は認めざるを得ない。

「ああ、かわしま君ね。ピッチャーだったらしいね」

ぶほっ、と竜児がウーロン茶を噴いて静代に悲鳴を上げさせる。なんと言うことか。
昨年同時期に続いて今年も大河の前に立ちはだかった名前に、思わず雨雲は無いだろ
うなと青空を見上げる。

■ ■ ■ ■ 




日曜日のお昼過ぎ。

河川敷の土手の上の道を、父親らしい男と少年が歩いている。だが、少し近寄ってみ
ると男の後ろ姿は父親と呼ぶには若いようだし、野球のユニフォームに身を包んでい
る男の子はえらく髪が長い。もしも魔が差して「お子さんの野球の帰りですか?」な
どと声をかけようものなら、「あぁぁ?」っと振り返った若い男の斬りつけるような
まなざしと、フランス人形のように美しい少女の引き裂くようなまなざしに腰を抜か
すことになるだろう。

「あー楽しかった!」

大活躍した大河は、今日何回目かの「あー楽しかった」を繰り返す。そのたびに竜児


「まったく、何度思い出しても今日のお前はすごかったぜ」

今日何回目かの賞賛の言葉を吐いてニヤニヤとしている。途中ひやひやしたとはいえ、
終わってみればハプニングに富む楽しいピクニックだった。楽しすぎてまじめな顔
ができない。

「今日のピクニックは95点だな」
「あら、100点じゃないの?」

何が不満なのよ、とふくれる大河を、きゅっと顔を引き締め

「お前、サンドイッチ全部人にやっちまったろう」

竜児がにらみつける。それは…と口ごもる大河。
打ち上げの後に始まったお昼ご飯では、大河の元に次々「これ食べて」とお弁当のお
かずが差し入れられた。思わぬ好意の嵐に有頂天となった大河は、

「じゃ、これ食べて!」

と、こともあろうに竜児が作ったサンドイッチを次々に人に渡したのだ。




あのサンドイッチは、大河に食べさせるために竜児が心を込めて作ったものなのだ。
大河の奴、肉好きだからな。よし、スパイスを少し変えてやろう、あいつ、違う味だ
から喜ぶぞ。どんな顔するだろう。自分の手料理を愛する人が食べて幸せそうな笑顔
を作る。そのきわめて新婚の奥さん的な幸福を想像して身をくねらせていた竜児は、
最後の一切れがおっさんに渡されたのをみて深い絶望の淵に沈んだ。あの香辛料の大
胆な割り振りは、食べ比べなければわからないのだ。たくさん食べる大河のために工
夫したのだ。それをこともあろうにおっさん共に一切れずつ食わせるとは。豚に食わ
せる方がましだ。

ただひとり、あのたけし少年だけは父親と母親のサンドイッチを自分のと食べ比べて
目を丸くしていた。

「お姉ちゃんの作ったこのサンドイッチすごい!全部違う味がするよ!!」

…お姉ちゃんが作ったんじゃないのよ…

その場で凍り付いて消え入りそうな大河に「いいから黙ってろ。お前が作ったことに
しておけ」と自らの深い傷に耐えて優しい言葉をささやくことが出来たのは、ひとえ
に今日最後まで戦った、あのかわしま投手の姿から学んだ、なにがしかのおかげである。

思い出しただけで竜児の目は狂おしく光りはじめた。ああ、やっぱりあのサンドイッ
チ。畜生。なんでおっさんなんかの口に。

そうね、遺憾よね。と、例によってまったくもって他人事で片付けようとする大河に
竜児は嘆息する。まぁいい、気分の切り替えがさっと出来ないようじゃ、あのかわしま投
手のようにはなれねぇや。俺はあんたこそ今日のヒーローだと思ってるぜ。むかつい
たけど。

あ、そうだ。

「なあ大河、打ち上げの時、あのピッチャー何て言ってたんだ?」
「へ?あ、あれ、その」

ちょっと日焼けしたミルク色の頬をさっと染めて、大河がもじもじと

「『彼氏、なかなかやるじゃん』だって」
「そ、そうか」

つられて竜児も赤くなる。

■ ■ ■ ■ 




「ねえ竜児、帰りスドバ寄っていかない?」

土手の上の帰り道、甘えるように見上げる大河を

「だめだ」

竜児が一蹴する。今日は筋を遠さねえといけないことが二つある。さっき言ったろ。

「だって」
「我慢してくれ。わかるだろ」

わかるけど。

「今日は一日竜児と一緒だと思ったのにな」

たけし君から借りたユニフォームは、ちゃんと洗濯して返さなければならない。ご両
親は「どうせ汚れていたからこのままでいいよ」と言ってくれたが、だからといって
お尻の汚れたふわふわコットンを大河に着せて帰るのも酷だ。だからスパイクだけ返
して、ユニフォームは大河が借りたままで、そいういうわけで洗って返さないといけ
ない。早く返すためには、今日洗濯するしかない。

そしてなにより、ふわふわコットンを汚してしまったお詫びを、大河の母親にしなけ
ればいけない。

「私が謝るからいいよ」

と、大河は言ってくれた。

だが、これだけは譲れない。この先、長い人生を大河と共に歩むにあたって、筋を通
さなければならないことが無数に竜児の前に現れるだろう。それを逃げて回ることは
しない。そう決めた。だから、ちゃんとお詫びもする。洗濯もする。それがお前のた
めに俺が頑張ると決めたことなんだ。そう言われると、大河は何も言えなくなって、
小さな声で

「わかった」

とだけつぶやいた。だから、今日は早く帰る。スドバには行けない。土手の上の一本
道、子供達の楽しそうな声が遠くに聞こえる。寂しそうに黙り込む大河に竜児がつぶ
やく。

「すまねぇ。俺のせいで」
「へ?」
「俺がもっとしっかりしていたら、」
「なんでそうなるのよ」
「だって俺が」
「あんたのせいじゃないじゃない」

いつの間にか、せっかくの楽しかった日曜日の気分が消えている。せっかくのいい天
気なのに。せっかく二人っきりなのに。俺がもっとしっかりしていれば、大河は危険
な目にあわずにすんだのに。せっかくの服を汚さずにすんだのに。

夕方まで、二人で過ごすことが出来たのに。

俺さえしっかりしていれば。




「でも、俺さえしっかりしていれば」

大河が大声をあげる。

「だから何でそうなるのよ!あんったってほんっっっっっっとに」

肩をふるわせ、語気を強めていつものように「馬鹿!」とでも言う気だったのだろう。
でも、大河はそこで言葉を切った。

二人きりの土手の上。風が川面を渡る。遠くで電車の音が聞こえる。もうじき、暑い
季節が来る。

ため息をついて再び話し始めた大河は

「竜児、私さ」

つぶやくような口調。

「さっき、話があるっていったじゃない」

竜児はまっすぐ前を向いたまま。

「おう」

心なしか元気がない。

「私あんたが喧嘩してんの見て、頭の中が真っ白になっちゃった」

竜児は立ち止まったまま。土手の上の道が延びていく、まっすぐ向こうを見ている。
大河はうつむいて足下を見ている。

「変だよね。いつもなら私が真っ先に暴れてるのに」

少し、日が強い。ユニフォームに似合わないからと、竜児が持っていてやった白いつ
ば広の帽子を、大河の頭に乗せてやる。

「あんたが私のために飛びかかってくれたのが、すごくうれしくて。でも、喧嘩なん
かして怪我したらどうしようって、すごく心配で」

竜児はまだ、大河に言葉をかけられない。遠くを見ているだけ。そんなこともある。

「そしたら、いつもそうだったって思い出して」

たまには、大河の言うことを黙って聞いていたいこともある。大河の声だけを、こん
な風に聞きたい気分の時もある。




「私は、あんただけは私を助けに来てくれるかもしれないって思ってた。そしたらあ
んたは本当にいつも、私を助けに来てくれた。文化祭の時だって、殴り込みの時だっ
て、雪山の時だって、ママから逃げたときだって」

竜児が空を見上げる。大河はうつむいたまま

「大声を上げてるあんたをみて、そうだ、これからもたぶん、あんたは私のことをこ
んな風に守ってくれるんだって思ったの。なんて私は幸せなんだろうって」

最後の方は、声を少し震わせて。

竜児は青い空を見上げたまま、ようやく一言

「『たぶん』じゃねぇ。『必ず』だ」

と。

「竜児、だから私のことで、あんな顔しないでよ。私はあんたと一緒にいられて、幸
せなのよ」

帽子、かぶせるんじゃなかったな。風呂敷をぽんと道端の草の上に落として、大河の
頭から帽子を取ってやり、小刻みに震える肩を抱き寄せる。涙でぐしゃぐしゃになっ
た顔をTシャツの胸に押しつけて、大河がしがみついてくる。

「ちょっとくらい失敗してもいいのよ。私はあんたと一緒ならいいの。だから、そん
な顔しないで。笑ってるあんたが一番好きよ。あんたがそんな顔してたら、私もだめ
になっちゃう」

泣き虫め。

竜児の顔に、ちょっと困ったような、だけど優しげな笑みがようやく戻ってくる。

「すまねぇ。心配かけたな。俺はもっともっと頑張るよ」
「ばかばかばか!あんたは頑張りすぎだって言ってるのにどうしてわからないのよ」

大河が泣きながらごしごしと顔をTシャツの胸にこすりつける。竜児は、

「そうだな。頑張りすぎないように、頑張ってみるよ」

と、優しい顔で苦笑い。

涙まじりの声で大河がつぶやく。

「ばか」

土手の上。人通りがないこともない。ジョギングスタイルの男性が見ないふりで横を
走って行く。知ったことか。河川敷を渡る風の音、遠くで聞こえる野球の声。車の音、
電車の音。もうじき、虫の声も聞ける季節になるだろう。

もうじき、腕の中の大河も落ち着くだろう。

■ ■ ■ ■ 




五月の優しい風の中、二人で抱き合って立っていた。やっと落ち着いた大河が、小さ
な声で

「竜児」
「おう」
「スドバ連れてって」
「だめだ」
「なによ、乙女の涙をこんなに絞りとったくせに。冷たいんだから」

くく、と竜児がのどの奥で笑ってやり過ごす。腕の中の大河が、もう一度、小さくつ
ぶやく。

「スドバ行きたいな」

ずるい。と、竜児は思う。

わがままなくせに、甘ったれなくせに、泣き虫のくせに、大河は、竜児の心を揺さぶ
る。竜児の心臓を掴んで離してくれない。

日曜日の昼下がり。一本伸びた土手の上の道。遠くにぽつりぽつりと人の影。目の前
の河川敷は、おあつらえ向きに誰もいない。土手のこっちは住宅地だが、まぁいいだ
ろう。大して広くない竜児の背中でも、大河を隠す衝立くらいにはなる。

「お前、わがままだぞ」

精緻なガラス細工のようなラインを描くあごに指をかけて、つい、と上向かせる。さ
れるがままに上を向きながら、頬には涙の跡、瞳には狼狽の色。薔薇の蕾を思わせる
唇から小さく漏れる声を、竜児の唇がふさぐ。

くたっと、力の抜ける大河が崩れないように支えたまま、ゆっくりと口づけを交わす。
心臓がばくばくと跳ねる。頭に血が上る。唇から流れ込む甘い毒が竜児の全身を駆
け巡る。





ようやく解放されて力なく竜児の胸にしがみついた大河が、熱に浮かされたように小
声でなじる。

「昼間っからなによ。まるでバカップルじゃない」

腕の中で2,3度上昇したように思える大河の体温に心臓をどきどきさせながら、竜
児は

「ああ、そうだ。俺はきっと馬鹿だ。お前が愛しくて、愛しくて」

と、遠くを見る。

「お前のことを考えると後先どうでもよくなっちまう。まったく、どうしちまったん
だろう」

つきあい始めたらもう少し慣れるかと思ってたんだけどなぁ。空を見上げて独りごち
る。大河を想う、この苦しいほどの気持ちは、慣れるどころか今でも大きくなってい
く。

「だったら…私も馬鹿なのかな…どうしよう…」

そうつぶやく大河を見下ろす。瞳を見つめて、ゆっくりとその言葉の意味をかみしめ
る。

「俺たち、正真正銘バカップルらしいな」
「遺憾なことよね」

二人見つめ合って、微笑んで。もう一度だけ、白昼堂々の口づけ。




長い髪を束ねて少年野球のユニフォームに身を包んだ少女が、つま先立ちで伸び上が
って恋人に唇をゆだねる。草の香りをはらんだ風が、土手の上の二人を優しく包みこ
む。

この時が永遠ならいいのに、と少女は思う。でも、それは神様にもちょっと難しめの
願いだったらしい。近づいてくる自転車の音に気づいて少女は身をかたくする。

「どうしよう、人が来ちゃう」

恥ずかしさにおろおろする少女に、恋人が優しくささやく。

「隠れてろ」

隠れるところは彼の腕の中しかない。小鳥のように震えながら、ついさっき、自分を
守るために振り上げられていた腕に包まれて少女は目を閉じる。

少年は、何よりも大事な恋人を腕の中に優しく包んでやる。大丈夫だ。俺はいつだっ
てお前を守ってやる。優しげに少女のつむじを見つめて微笑むと、少年は近づいてく
る自転車に、「見るなよ」と、ガンを飛ばす。

■ ■ ■ ■ 




さんざん待たせた後に玄関に出てきた大河の母親は、思ったほど怒ってなかった。着
替えを済ませた大河が、ユニフォームを抱えて後ろで心配そうに見ていた。

「高須君、あなたにはいろいろ言いたいこともあるんだけど、今日はこの後用事があ
るの。あなたにも言い分があるでしょうから、それはまた、機会があったら聞くこと
にするわ」

竜児はきちっと頭を下げて

「はい。今日は申し訳ありませんでした。日を改めて、ご挨拶に伺います」

とそれだけ。

頭の上で漏らされた溜息の後の

「私は『言い分を聞く』って言ったんだけどなぁ」

という独り言は、ちゃんと竜児にも聞こえていた。

■ ■ ■ ■ 


--> Next...



作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system