「あ…」

豚カツに箸をつけた大河が泣きそうな声を上げた。つままれた豚カツの断面は見事に
半透明。脂身である。

「残すなよ」

こっそり皿の端に置こうとした大河を、竜児がぎろりとにらみつける。お前も適度な
厚さに切り刻んで衣をつけて揚げてやる。そのほっぺたのあたりなんか美味そうじゃ
ないか。ええ?…などと思っているわけではない。決して多くない泰子の収入を
1円足りとも無駄にしたくないと思っているのである。大河の食費は、実は大河から
毎月共通の財布へ収められているので、考えようによっては大河が豚カツを残そうが
どうしようが大河の自由である。しかしこの男、金を差別するような人間ではないし、
食べ物に対する礼儀に関しては小姑並にうるさい。本人も食事中は見事に背筋が
伸びている。

「なによ。私が脂身嫌いなの知ってるくせに」

ぶつぶつと独りごちる大河に

「嫌なら先に言えばいいんだ。先に言えば考えてやる。言わなかったんだから出された
ものは全部食え。それが我が家の掟だ」

一切譲る気無し。

もちろん、大河が本気で怒ればこんなもの(というと豚カツに失礼だが)放り出して
竜児をぼこぼこにすることなど簡単だ。だが、それでは目先の問題のかわりに大問題が
生じてしまう。短期間の擬似家族関係のうちに大河の好みをほぼ完全に把握した竜児を
失うのは、大河にとって、いや、いつも鳴りっぱなしの大河のお腹にとって痛烈な
ダメージである。今日の豚カツを残す、残さないという小さな問題とは、どう見ても
釣り合わない。

気落ちした表情で豚カツの脂身を眺めていた大河だったが、ぱっと表情を明るくした。

「竜児!あーんして」
「はあ?何だよ藪から棒に」

見るからにばかばかしいという表情をする竜児に大河は

「ほらほら、目を瞑って。みのりんに『あーん』してもらってるところ想像して」

とってつけたような無理を言う。

竜児としては食事中まで大河の子供じみた思いつきに付き合うのも面倒なのだが、
豚カツを捨てるよりはましか、とあきらめる。それに、目を瞑って実乃梨に「あーん」
してもらっているところを想像するというのは、なるほど、悪いアイデアではない。

「ほら、ほら、竜児。早く早く」

すっかりはしゃいでニコニコ顔の大河に

「しゃーねーな、もう」

と、苦い顔を作って見せて、目を瞑る。心の中では(よしよし、高須君。うい奴よのう。
ほれ、あーんしてみろ。あーん)というひまわりのような実乃梨の顔を想像する。

「あーん」



普段学校中に恐怖を振りまいている三白眼も、閉じてしまえばただのまぶたでしかない。
意外に整った顔で馬鹿みたいに口を開けている竜児に、大河も可笑しそうに

「あーん」

豚カツを食べさせる。

「どう、竜児。おいしい?」
「うまい。と、言いたいところだが、俺のと同じ味だ」

大正論を振り下ろす竜児に

「なによ。顔赤くして幸せそうに口を開けてたくせに」

大河は頬を膨らます。

「な、お前が櫛枝に『あーん』してもらってるところを想像しろといったんだろう」
「私は想像しろといったけど、顔を赤くしろなんて言ってないわよ。食事中は食欲だけに
しなさいよね。性欲まで振り回すなんてあきれたエロ犬だこと」

つんとすました表情で今度こそ本物の肉を箸でつまむ大河だが、

「お前だって赤くなってるじゃないか。食事中にエロイこと考えているのはお前の
方じゃないのか。てか、なんでお前が赤くなるんだよ」

竜児に突っ込まれて豚カツをポロリと落とす。

「ななななななんだってのよ!豚カツをたたたた食べさせてあげた恩を仇で返そうっての!?」
「豚カツを作ったのは俺だ!食わせてやってるのは俺だろうが!」
「なんですってぇ」

目を眇めて竜児をねめつけ…しかし気を取り直した。

「やめましょ。まず豚カツよ」

矛を収める。

「おう。そうだな」

豚カツを前にして空腹のまま喧嘩をするほど、二人ともストイックではないのだ。


◇  ◇  ◇ ◇ 


3週間後。

久々の豚カツにお買い物の最中からわくわくしていた大河だが、竜児が食卓に運んできた
皿を見て、さっと表情を曇らせた。

「竜児…なんで私の一切れ少ないの?」
「おう。お前脂身嫌いだったろう。俺が食ってやるよ」

大河が嫌いな脂身は、ちゃんと竜児の皿の上に載せられている。これなら捨てるなどという
MOTTAINAIことにはならないし、食事中に実乃梨の事をいちいち想像する必要も無い。

のだが。

大河は脂身抜きの豚カツを前にしゅんとしてしまった。

「さ、食べようぜ。いただきます!…て、大河。どうした?」

豚カツに箸を伸ばそうとした竜児が聞く。

「えと…その…あのね…」
「脂身、あったほうが良かったか?」
「そうじゃなくてね…なんていうか…」

うつむいてもじもじしていたのだが、突然大音量で

「私の豚カツのほうが少ない!」

竜児を怒鳴りつけた。



「なんだよお前。脂身食わないだろうが」
「やだやだ、私の豚カツのほうが少ない!」
「俺に脂身ばっかり食わす気かよ!」
「だって豚カツ食べたいの!脂身嫌いなの!」

特大の溜息をついて、竜児がついに折れる。ばかばかしくて喧嘩をする気にもならない。

「まったくどんだけわがままなんだよお前は。ほらよ」

仕方無しに自分の皿から豚カツ(肉)を一切れつまんで大河の皿に移そうとするのだが。

「あーん」

見事に大口を揚げて幸せそうに目を線にしている大河に、竜児の動きが止まる。

「お前。何してんだ」
「早く、早く!あーん」
「あーもう。はいはい。わかりましたよ。はい、あーんして」
「あーん」

竜児のつまんだ豚カツを、パクっと咥えた大河が、もぐもぐと口を動かしながら
きらきらした眼で竜児を見つめる。ごくん、とひと呑みして、にっこり笑顔。

「私、竜児の豚カツだーい好き!」

さすがの竜児も高校1、2を争う美少女のストレートな笑顔に毒気を抜かれる。

「お、おう。そうか。また作ってやるよ」
「うん」

てか、なんでこいつはいちいち顔を赤くしてるんだ?と、鈍い竜児が事の全貌を
理解するのは、もう半年ちょっと先の話である。

(おしまい)





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