麻薬という言葉がある。
『強い鎮痛・麻酔作用をもち、習慣性・耽溺性があるために麻薬及び向精神薬取締法によって使用が規制されている薬物の総称』
辞書で引けばだいたいこんな感じだろう。
もっとも、多くの人は、
『常習性の高い体に害の強い劇薬』
というイメージが強いだろう。事実間違ってはいない。
麻薬中毒者の殆どは、快楽を求めて興味本位、イタズラ的な思考から手を出す。
もしくは周りがみんなやってるから、とか。
もし私の今の状況を例えるのなら、既に中毒になっているのだろう。
最初は本当にイタズラが目的だった。
ふとした思いつきでやってみた、ただそれだけのことのはずだった。
しかし、今はそれを止めることが出来ない。
最初は一週間に一回程度。
それが三日に一度になり、二日に一度になり、今ではほとんど毎日。
もうみんなが寝静まるような夜中、私はいつも通り天蓋付きのベッドからむくりと起き上がる。
今日も衝動を抑えきれず、いやむしろ抑える気など無い。
ベッドの傍にある窓を開け、隣に見えるベランダに静かに降り立つ。
もう慣れたもので殆ど物音など鳴らさない。
ベランダのガラス窓に手をかけガラッと開ける。
ここはいつも鍵をかけていない。
些か警戒心に欠けるように見えるが、事実ここから侵入できる輩など私ぐらいしかいないのだからかける必要は無い。
むしろかけられては困るのだ。
勝手知ったる我が家、ではないがほとんど似たようなものの隣人兼クラスメイトの家をゆっくりと徘徊し、やがてある部屋の前に止まる。
サァと小さい音を立て、襖を開けるとそこには静かな寝息を立てている少年が一人。
普段から凶眼と恐れられている彼だが、目を閉じていればそれ相応に格好いい。
もっとも、私はこいつを本気で恐いと思ったことは無い。
自分の性格的なものもあるが、こいつといると、その目つきの本当の意味がわかってくるのだ。
そんなことを思い、クスリと笑みを零しながら慌てて表情を消し……また笑う。
とてとてと歩き、ぱふ、と音をたて布団に潜りこむ。
「……んぅ」
寝息と共に少し呻き声が聞こえる。
「……竜児」
呼びながら頬を胸にあて心臓の鼓動を聞く。
背中には手を回し、体全体で竜児の熱を感じるように。
トクントクンと耳に響くその鼓動は彼が本当に自分と同じ布団にいることを教えてくれる。
ますます口元が吊り上り、顔が火照り、こちらの心臓の音まで聞こえそうになる。
回を増すごとに心地良さも増し、比例して依存度も高くなっていく。
最初は起きた時に驚かせてやろうと思ったイタズラ。
しかし、その日竜児は起きなかった。
その日から、竜児の起きない布団に潜り込むのが楽しく、そして愛しくなった。
意外に暖かい竜児。
そんな竜児の鼓動が、吐息が、温もりが感じられる。
一度感じてしまったあの日から、『もう一度感じたい』と思うようになった。
万が一バレた時の言い訳は考えてある。
『アンタを驚かせようと思って潜り込んだのに気付かないなんて、そんなだから私に襲撃をかけられるのよ』
起きた竜児にこう言えばそれで万事解決。
そう思うことで自分を納得させ、欲望に忠実になろうとする一方で、心が痛む。
ドラッグと違うのは体ではなく心が著しく磨耗するという点だろうか。
もちろんドラッグも心がボロボロになることは知っているが、私が感じているのは別種の……罪悪感。
竜児は……みのりんが好き。
みのりんは……多分竜児が気になってる。
それを考えると、もう止めなきゃとも思う。
二人を応援したいと思っていたから。
でも、麻薬の常習性が本当に恐いように、これも止められない。
枕もとの時計を確認し、もうすぐ竜児から離れなければいけない時間だと悟る。
これ以上一緒にいると起きる可能性があるから。
私が竜児から離れるまであと一秒、竜児が目覚めるまであと一万秒。


***


最初は気のせいだと思った。
ここ最近、朝目覚めるたびに大河の香りがする。
まぁ毎日来るんだからアイツの香りがしたって変じゃない。
でも数日経って気付いた。
香りの発生源は布団のようだ。
そんなわけがあるか。
あいつの香りが布団からするはずが無い。
こんな事をあいつに言おうものなら「はぁ?アンタ私の香りを嗅ぎながら布団でハァハァしてんの?これだからエロ犬は……」などと言われかねない。
だから気のせいだと思うことにした。
たとえ、それからだんだんと布団から感じる香りが強くなっていこうとも。
だが、その気のせいだと言い聞かせていた香りのせいか、ここ最近同じ夢を見る。
大河がそのさくらんぼのような頬を俺の胸板に預け、ふわりとウェーブがかった長い栗色の髪からはいい香りがし、こちらを上目遣いに見るその瞳は潤み、俺をドキッとさせる。
俺は大河の背中に両腕を回して抱きしめ、もっと、もっとというように自らに近づける。
だというのに大河に嫌がるそぶりは無い。
無いどころか、見たことも無い嬉しそうな顔でその食べちゃいたくなるようなさくらんぼの頬を俺にこすりつけてくる。
抱きしめているのは俺なのに、体全体に奔る大河の熱は、俺が抱きしめられている錯覚を覚える。
俺の中に生まれるのは無償の愛おしさ。
体にすっぽりとはまる140cm台の身長を持つクラスメイトはその身長とは裏腹に何処か艶かしい。
時々耳をくすぐる俺を呼ぶ声は、ますますこいつの艶美さを醸し出す。
時折、ふっと頬を離される。
途端に感じる喪失感と寂寥感。
しかし、それもよく見ると離される度に大河はこちらを見上げていることに気付いた。
その目は潤み、頬の赤みは増し、いつも俺に罵声を浴びせ食べ物をねだるその口は、今もまた俺に何かをねだっている。
俺がその表情に気付くと、「ようやく気付いてくれた」という顔をして目を閉じ、こちらに顔を近づける。
これが何を意味するのか、わからない俺じゃない。
大河の肩を優しく掴み、少し震えながらも不器用にこちらに突き出されている唇にを俺の唇を重ね『ピピピピピピピピ!!!!』……………………またか。
むくりと起き上がり目覚ましを止める。
シーンと静まりかえるやや暗い室内を見渡し、十分に温まった布団から抜け出す。
洗面所へ向かい冷たい水で必要以上に顔をバシャバシャと洗う。
またあの夢。
それも決まってキスする一歩手前で目が覚める。
おしかったと思う一方、罪悪感も生まれる。
毎日のように家に顔を出す大河のあんな夢をみるなんて。
だいたい大河は北村が好きなはずで、自分は櫛枝が好き『だった』はずなのに。
ん?だった?……なんで過去形なんだ?……っといけない、考えるのは後だ。
頭の中の考えを振り払いながら着替えをし、布団を通して染みついた大河の香りを感じながら先程の熱を思い出しつつ台所へと立つ。
ベランダから、冷たい風が流れてきていた。


***


麻薬というものには禁断症状という奴があるらしい。
その麻薬の効力が切れるとイライラし、それを欲する。
段々と耐久が出来てくるともっと強い刺激を求めて多量接種に走る。
「……大河?」
「……何よ」
不機嫌に答える。
事実不機嫌なのだから仕方がない。
いや、不機嫌というより、『満たされない』というべきか。
「いや、調子が悪いなら保健室に行ったほうがいいぞ」
机に顎をのせてぼーっとしている私に竜児は声をかけてくる。
「別に……調子が悪いわけじゃない」
ぶっきらぼうに答える。
「おいおい、本当に元気がねぇな」
竜児は心配そうに額に手を当ててくる。
「ちょっと、触んないでよ」
言葉では否定しても、体が歓喜する。
足りない、まだまだ足りないが、少し、ほんの少し満たされた気がする。
「熱は……ねぇな。なんか辛くなったら言えよ?」
そう言って竜児の掌は離れる。
途端に来る倦怠感。
竜児の熱を感じないといつもこうだ。
しかも最近その頻度が増えている。
我慢我慢の毎日で、イライラも募るばかり。
「ちょっと竜児」
「おぅ?」
「悪いんだけど保健室連れて行ってくんない?」
「おぅ、いいぞ」
休み時間も終わる直前、私は学校でとうとう耐えきれなくなったらしい。


***


廊下を二人でゆっくり歩く。
ふだんなら一歩で進む距離を二歩かけて歩く。
竜児はトロトロ歩く私には何も言わずに一緒に歩くスピードを落としてくれる。
廊下はもう授業のベルが鳴ったせいか誰も歩いていない。
竜児は教室から出る時に北村君に伝言を頼んでおいたからか、少しの遅刻は気にしていないようだ。
今しか、無い。
「あっ……」
横へと……いや竜児のほうへと転ぶ。
「大丈夫か?熱はねぇけどやっぱ結構辛いんじゃねぇのか?」
私を体全体で支えてくれた竜児は、どこまでも私を気遣う。
「大丈夫っつてんでしょ、でもちょっとタイム」
そう言いながら背中を竜児に預けたままにして目を瞑る。
ああ、竜児の温かみを感じる。
制服越しの為か少し堅い。
でも竜児の手が私の肩にある。
これはこれでいい。
私はもっと脱力したように竜児によりかかる。
「?お、おい!?」
竜児はあわてて力を込めながら私を支える……え?
「お前本当に大丈夫なのか?」
私の目線は竜児の顔。
私の腰は宙に浮き、足もプラプラと揺れている。
背と膝の裏をがっちりとした手で支えられ私は今宙にいる。
正確には竜児の腕の中にいる。
ああ、ヤバイ。これは予想外に気持ちがいい。
こちらからの抱擁ではなく、向こうからの、竜児からの抱擁は先程の額に当てられた掌と比較にならない。
つい、私は竜児の首に手を回した。


***


大河は余程調子が悪いのだろうか。
いつもよりも歩くスピードが遅すぎる。
熱は無いようだが、どうもふらふらしていて気が気じゃない。
「あっ……」
小さな声をあげて大河が転びそうになった。
そらみろと思いながらもすぐに支えてやる。
「大丈夫か?熱はねぇけどやっぱ結構辛いんじゃねぇのか?」
先程から思っていたことだ。
どうも今日の、いやここ数日の大河はおかしい。
調子が悪いのは火を見るより明らかだろう。
「大丈夫っつてんでしょ、でもちょっとタイム」
気丈に振る舞っていてもやっぱりつらいのだろうか。
俺に体重を預けてくる。
ふっと体で支え、肩を押さえてやる。
これで少しは楽だろう、と思っていたらズシリと重みが増した。
「?お、おい!?」
慌てる。脱力したように全体重を急に俺に預けてきた。
こいつどれだけ我慢してやがたったんだ?
畜生、それならそうと言えってんだ。
肩を支えていた手を背に回し、よっと持ち上げ……軽いなこいつ。
両腕に収まった大河は驚いたように目を見開いている。
そこには、普段の棘棘しさは微塵も感じられない。
これが普段からの暴虐暴君、食欲大魔神の大河か?と思うほどにポカンとしている。
しかも思いの外華奢な体は軽い。
あれだけ食ってこの体重ってのは確かに川嶋あたりは妬みそうだ。
それにここ最近毎日感じる大河の香りがこう……え?
手が、首に回される。
「え……?おい、大河……?」
喉はカラカラになりながらもゴクンと唾だけは飲み込む。
さながらお姫様だっこのようなこの状態で首に手を回されたらまるでカップルじゃないか。
だというのにそんな言葉は出てこない。
大河の瞳がトロンと潤む。
まるであの夢のように。
あの夢のように。
夢のようだ。
大河が……夢みたいに可愛い。
その瞳に惹かれ、香りが俺を惑わし、熱が確かな重量感を持って俺の体へと伝わる。
大河は、そのさくらんぼのような頬を俺の胸にこすりつけ、首に回された腕に力を込める。
俺も大河を抱く腕に力を込める。
一瞬ビクッとし、次いで頬をこする動作を止める。
さっと、頬が俺の胸から遠ざかる。
また、あの喪失感と寂寥感。
半身がもぎ取られ、胸にポッカリと穴が開き、冷たい風が流れるような錯覚さえ覚える。
ふと、大河の視線を感じた。
目を合わせると、夢と同じ瞳をしていた。
俺はだんだんと唇を近……『キーンコーンカーンコーン』……えっ!?
慌てる。耳の奥から喧噪を感じる。
もう授業が終わったのか、というよりそんなに時間が経っていたのか。
慌てて俺は大河を降ろそうとして、出来なかった。
大河の手は強く強く俺の制服を掴んでいる。
それが……何故か嬉しかった。
足は自然と保健室へ。
幸いなことに、保健室へ行くまでに誰ともすれ違わなかった。


***


白いシーツのベッドに横になる。
カーテンも真っ白。
白一色のこの部屋は独特の匂いで鬱々とした気分にさせる。
竜児が私を置いていってわずか5分。
またも私はあの感覚に襲われる。
足りない。足りない足りない。満たされない。
横にさせてもらうのについ手を離したのが災いした。
竜児は私をベッドに横にさせると、そそくさと保健室から出て行ってしまった。
「……足りない」
ポツリと呟く。
今日は一日保健の先生はいないらしい。
「……足りない」
竜児は1時間も私と一緒にいた言い訳をどうする気だろう。
「……足りない」
わき上がる感情を最早胸の裡に留めておくことができずに声に出す。
耳に残るのは、
『……放課後迎えに来てやるから』
という竜児の囁いた言葉。
待ちきれないよ竜児。
何度も布団を抱きしめては、感じられない竜児の温もりに胸がムカムカする。
先程のだっこは最高だった。
体が全て竜児に包まれているかのような錯覚。
最高にHIGHな気分とはまさにあの事だろう。
それに竜児の顔が心なしか近づいてきていた気がする。
私の勘違いでなければ、あれは鐘が鳴らなければキスされていたかもしれない。
あの時の竜児の私を見る目は、みのりんを見る目のそれを超えていたように思えた。
「……ふふふ」
ニヤけてしまう。
もしかしたら竜児は、私が気になっているのかもしれない。
自意識過剰かもしれないけど、もしそうなら私は……。
ばふっ布団を頭まで被る。
体の震えが止まらない。
ああ、放課後が楽しみだ。


***


キーンコーンカーンコーン。
耳に届くカウントダウン。
やっと放課後。
約束の時。
待ちきれずに教室に行こうかとも思ったが止めた。
せっかく竜児が『……放課後迎えに来てやるから』と言ってくれたのだ。
ドアの外から流れてくる喧騒。
しかし、やがてその扉が開く音がする。
待ちに待った瞬間。
「りゅ……」
言おうとした言葉が出ない。
「大丈夫かーい大河ー?」
太陽のように微笑んで、元気よく保健室に入ってきたのは……みのりん。
途端、なんとも言えない倦怠感が増す。
「う、うん大丈夫」
いつでも出られるようベッドに腰掛けていた私はぎこちなく笑う。
「心配してくれてありがとう、みのりん」
言葉とは裏腹に頭にあるのは「何故竜児がこないのか」という一点のみ。
「おうよ、この櫛枝実乃梨、大河のためなら部活を遅れるくらいどうってこたぁないさ!」
ニカッと笑う笑顔が眩しい。
いつもならそんな私を気遣うみのりんの気持ちが胸に響くのだが、いや事実響いてはいるのだがそれよりも。
「ねぇ、竜児は?」
そこだけが気になって仕方が無い、というより耐えられない。
「ああ、高須君ならゆりちゃん先生に呼び出しくらってね。代わりに大河を見ててくれって頼まれてさ。すぐに終わるようだったらここに来るって言ってたよ」
「そっか」
言葉とは裏腹に胸の裡の落胆は激しい。
別にみのりんが嫌なわけじゃない。
ただ、竜児がくると思っていたのに来ない、それだけが事実として堪える。
「あんまり遅くなるようだったら私が送っていくよ。大河なんかまだ調子悪そうだし」
「え?い、いいよみのりん悪いよ。それに部活行っても大丈夫だよ。少し待って来なかったら帰るから」
「そうかい?」
うーんと唸りながらみのりんは私を見つめる。
と、扉が開いた。
「悪い大河、遅れた。櫛枝、すまなかったな」
「お?高須君が来たね。じゃあ櫛枝は部活に行ってきまさぁ」
朗らかに笑いながらみのりんは保健室を出て行く。
竜児はみのりんにお礼を言った後私に向き直り、
「おぅ、大丈夫か?」
何事も無かったように話しかける。
それが、何処か癇に障った。
先程の、顔を赤くしながらそそくさと去った時とは明らかに違う。
言ってしまえば平静を取り戻したとでもいうのだろうか。
とにかく、面白くない事この上ない。
オマケに体の倦怠感とイライラが収まらない。
体の内側から「足りない、もっと」と体を突き破らんばかりの竜児への熱に恋焦がれる。
「大丈夫なら帰るぞ」
竜児がそういって保健室を出て行く。
ダメ、と言おうとしたときには遅く、竜児は他の生徒が多数いる廊下に出てしまう。
足りないという感情が爆発しそうになるが、如何せん人が多すぎる。
竜児の熱を求めて大胆な行動を取るには些か不向きだ。
同時に安堵。
自分はまだ、その辺の羞恥心にギリギリ打ち勝てる。
竜児の熱を欲していても、『まだ』我慢できる。
出来る……はず。
いや……我慢しなきゃ。
きゅっと口を真一文字に結び、不機嫌を装ってさりげなくいつもより半歩近い竜児の隣に並ぶ。
まだ、帰宅してからも十分に時間はあるのだから。


***


校舎を出てグラウンドへ。この通りを抜けて校門を抜ける。
ごく当たり前のコース。
「おーい大河ー!!高須くーん!!」
大声でこちらに手を振る女子ソフト部部長、もといみのりん。
私も大きく手を振り替えす。
良かった、みのりんは部活に間に合ったみたい、そう思いながら何気なく竜児を見上げ、熱が冷める。
竜児も笑いながら手を振っている。
笑いながら。
若干顔を赤くして。
手を、振って、い……る。
どんどんと熱が冷めていく。
いや、体の竜児への欲求はむしろエスカレートしているが、脳が、理性がそれを止めさせる。
私はいつもの、竜児と私のポジションより若干遠めにまで下がる。
わかっていた罪悪感。
それもある。
でも、今一番強いのは喪失感と寂寥感。
一言で言うなら寂しさ。
わかっていた、竜児はみのりんが好きだと。
それでも知ってしまった竜児の熱への快感に、都合の良い解釈まで持ってしまった。
最低だ。
自分で自分が嫌になる。
竜児は手を振るのも早々に止めて私に向き直る。
「大丈夫か?気分が悪くなったら言えよ?買い物にも行こうと思うけど辛かったら先に帰っててもいいぞ?」
竜児のたくさんの気遣いの言葉が耳に入ってくるが、一割も正しく把握できない。
ただ、何も知らない雛鳥が親鳥についていくように竜児の後に続くだけ。
それでも、冷えた体と心が竜児の熱を求めてやまない。


***


天蓋付きのベッドからむくりと起き上がる。
今日は行かない、そう心に決めたとしても、この時間までやっぱり眠れなかった。
もう体に染み付いた生活サイクル。
心とは裏腹に、いやむしろ正確に体が動く。
昼間の竜児を見ても、求める心が止まらない。
それでもこの時間まで自分の衝動を抑えた、というのはおかしな話だが自分で自分を褒めたくなった。
あれだ、タバコを一週間我慢して自慢する喫煙者みたいなもんだ。
私が竜児の熱を我慢したのは数時間だけど。
でも、たかだか数時間とは思わない。
むしろ数時間『も』我慢した、という思いに囚われる。
ベッドの傍にある窓を開け、隣に見えるベランダに静かに降り立つ。
音一つ鳴らさずに降りたベランダのガラス窓に手をかけガラッと開ける。
当然のことながら今日もここに鍵はかかっていない。
慣れ親しんだルートを忍び足で進みながら目的地へ。
「……すぅ……すぅ」
静かな竜児の寝息。
体が、我慢を超えた何かで疼きだす。
早く、早く!!と心がせかす。
布団をめくり自らを滑り込ませ竜児の背に手を回す。
途端に落ち着く心。
静まる欲求へのイライラ。
耳には相変わらず竜児の吐息。
それがまたゾクゾクと体を歓喜させる。
一層強く腕に力を込めたところで、普段と違う違和感に気付く。
竜児の腕が、背中に回された。



一瞬ビクッと震える。
起きた?と思ったがどうやらそれは無いらしい。
ただ寝相の関係でそうなったのだろう。
こっちにとっては好都合だ。
ああ、竜児の中にすっぽりと納まっている。
暖かい、なんてもんじゃない。
この足りなかった心を埋め尽くされるような充足感。
自然と頬が緩む。
「りゅうじぃ」
声まで出てしまう。
相変わらず竜児の小さな寝息は耳をくすぐってくれる。
気持ち良い。
満たされる、とかもうそんなレベルじゃなくなっていく。
例えるなら、酸素。
生きていくうえで必須なものになりつつある。
私はますます頬を胸に近づけ、すーっと竜児の臭いを嗅ぐ。
幾分私のシャンプーが混じった臭いがまた心地良い。
私と竜児の混ざった臭い。
心がぶわぁっとなる。
「たい……が……」
「!!」
ピタっと動くのを止める。
聞こえるのは竜児の寝息のみ。
どうやら寝言のようだ。
「ん……大河」
しかし、ほぼ零距離からの核爆弾ともいえる耳への攻撃ならぬ口撃は今だ続く。
はふんと体に電撃が奔ったように力が抜ける。
ああ、竜児の声で耳が振動する。
耳元で名前を呼ばれ、体で熱を感じる。
「りゅうじぃ」
負けじと耳元で小さく、本当に小さく囁く。
心なしか、私に回された腕の力が強くなった気がした。
「……はぁ」
我慢が我慢として成り立たない。
いや、今までそれが我慢ということに気付いていなかったのかもしれない。
耳元で名前を呼ばれてそれが弾けたのかはたまた気付いたのか。
気付けば私はいつもよりも大胆に竜児に寄り添っていた。
いつもなら気付かれないことを大前提にする。
今ももちろんそれに越した事は無いが、
「はむ……あんぅ……」
竜児の首筋に軽いキス。
竜児の手は背中から髪に移る。
それが起きていての行動では無い事は竜児の寝息から想像がつく。
それでも撫でられているような錯覚にますます愛おしさが増していく。
依存度が増え、もっと欲しくなる。
「あん、りゅうじぃ」
首を舐めるようにキスして回る。体で熱を十分に感じる。
「ん……ううん……」
竜児がくすぐったそうにして首を回す。
ソレを機に首から離れ、布団から出る。
口惜しいが時間切れだ。
まだまだずっとこうしていたいが、これ以上は竜児が起きる。
何度も何度も竜児の寝顔を見つめ返しながら竜児の部屋を後にする。
来た道を通って自分のベッドへ。
しかし、床について一分もしないうちに竜児が恋しくなる。
こんなんで、私は大丈夫なんだろうか。


***


スズメの鳴き声が聞こえる。
おおかた家の上にある電線にでも数羽が羽根を休ませているのだろう。
目を何度か瞬かせ、むくりと布団から上半身を起こす。
「何て夢見てんだ俺は……」
髪をぐしゃぐしゃとかきむしる。溜息を吐く。
ここ最近の夢がエスカレートしてきた。
夢の中の大河は何度も俺の首に口付けをしてきた。
パタンと布団に倒れ、すぅっと鼻に香りを注ぐ。
広がる……大河の香り。
今日もまた、大河を感じる。
それによって得られる安堵と、罪悪感。
この罪悪感は布団から大河の香りを感じているからなのか、あんな夢を見たからなのか。
どちらにせよ、大河は良い気分にはならないだろう。
胸の裡に暗い影を落としながら未練がましく抱きついていた布団から離れ、いつもどおり洗面所へ。
襖を開け、居間を通って顔をあら……!?!?!?!?
「おはよう」
「は……え?」
「おはよう」
「え?あ、う?」
「お・は・よ・う!!」
「あ……おはよう」
大河が制服を着てテーブルに座していた。
こちらを一瞥した後ぷいっと視線をずらす。
まぁ本物はこんなもんだ。
そんな安堵と若干の寂寥に胸を痛めながら顔を洗いに……そうじゃねぇ!!
「おまっ!?何でここに!?っつうか自分で起きたのか!?」
「アンタ朝からうるさいわね。たまたま早く目が覚めたから来た、それだけよ」
ふわぁと欠伸。
どっからどうみても眠そうだ。
ったく、いつ起きたんだか知らないが何もこんな朝早くから来る事無いだろうに。
やれやれと内心の動揺を隠しながら、ふと気付いた。
風が通り抜けている。
どうやらベランダのガラス窓が開いているようだ。
「……お前、まさかここから来たのか?」
「……何よ?」
「何よ、じゃねぇ。全くウチのセキュリティはどうなってんだ。やっぱ今度からここも鍵かけとくか」
「!?ちょっ!?何勝手に決めてんのよ!?」
大河が取り乱したように慌てふためく。
「?お前が驚く意味がわからないんだが。これはウチの問題だぞ?」
「っ!!そうだけど、そうじゃないのよ!!」
「はぁ?」
本当に意味がわからない。
ここの鍵をかけるようにして大河が慌てふためく事態が想像つかない。
せいぜいここへのショートカットに支障がでるかどうかくらいだ。
「いいから鍵はかけるな!!」
「いや何でお前が決めるんだよ。そりゃこっから侵入できるのはお前ぐらいのもんだろうけど」
「じゃあいいじゃない」
「でも何かひっかかるんだよなぁ。それに念のためってのもあるし。俺としてはやっぱり鍵をかけようと……」
「ダメって言ってんでしょ!!」
大河が立ち上がってぶつからんばかりに傍によってくる。
ふわりと揺れる髪からは毎日感じる大河の香り。
「ちょっと!?竜児聞いてんの!?」
ずいっと顔を覗き込んでくる。
そこには怒りの表情と、何処か哀願の意が感じられた。


***


何をそんなに必死になっているのだろう?
そんな表情をしたまま竜児は私を見つめている。
鈍犬野郎のアンタにはわからないでしょうけど、私にとってそれはもはや死活問題なんだから。
唯一のライフラインと言っても過言じゃないのよ。
もしそこに鍵なんぞかけられたら一体この体の中に駆け巡る欲求をどうすればいいの?
気付いてないだけで、アンタにも責任はあるんだから。
一気に感情を爆発させたが、竜児からの返答は無い。
じっと竜児を睨みすえると、ふい、と視線を逸らされた。
カチンとくる。
このぉ!!と竜児の視線の先に回ってギン!!と睨みつけてやるとまたぷいっと横を向く。
???何かおかしい。
すたたた、ぷい。すたたたたた、ぷいぷい。すたたぷいすたぷいすたたたたぷいぷいぷい。
ああ、もうなんなのよ!?と叫びそうになって気付く。
横を向いた竜児の耳が赤い。
じろーっとよく見ると、なるほどアレは照れてる顔だ、と思い当たる感情を理解する。
ん?照れてる?私で?
唐突に昨日の保健室へ行く前の竜児を思い出す。
私を抱き上げた竜児。
あの感覚は最高だった。
自らの足さえ使わず全てを竜児に預け竜児を感じる。
胸の中がじわぁっと熱で一杯になり、震え、ニヤケが止まらず頬がこれでもかというほど緩んだ。
やがて、竜児が私を見つめ、だんだんと唇が近づいて……鐘が鳴った。
あの時の竜児の慌てようったら無かった。
「……私の唇を奪おうとしたくせに」
だからちょっと口に出してみる。
「!?え!?ちょっ!?な!?気付いてたのか!?」
驚いたように両手をバタつかせる竜児。
「やっぱり」
やっぱり竜児はあの時私にキスしようとしたんだ。
瞬間、むくむくと腹の下から快感が押し寄せる。
きゃふふと笑い転げまわりたい。
「あ!?いや違うこれは……」
今更の言い訳。
「見苦しいわよ竜児。このキス魔」
「キス……って待て待て待て!!その誤解を招くような言い方はよせ!!」
ギラリとした目つきで私を射抜く。
普通の奴、もしくはこいつを知らない奴なら怯えるんだろうけど、私には困って泣きそうになっている顔にしか見えない。
「あ〜ら何が違うと言うの?あんたは誰でもキスしようとするんでしょう?」
ふんと目を細め両腕を組みながら言った言葉は自分の胸を針でチクリと刺されたように刺激し、
「なっ!?ふざけんな!!お前以外に誰がそんなこと……!!」
次いで針を吹き飛ばすほど大きな脈を打つ。
「え……」
「あ……いや、なんでもない」
竜児は背を向け顔を洗いにすたすたと行ってしまう。
残された私はぽつねんと立ったまま震えていた。
どうしようどうしようどうしよう!?
竜児の今の言葉は本当だろうか?
みのりんじゃなく私で、私以外とその……キスするような考えは持っていないのだろうか!?
ああ、まずい。
急激に竜児が欲しい。
望みが出た途端さっきまで鍵のことで興奮して忘れていた禁断症状が濁流となって溢れ返ってくる。
昨日はアレから結局一睡もできずかなり早くから制服のまま高須家のテーブルに座っていた。
ただぼーっと竜児が起きるのを待って夢はせていた。
それがどうだ?
そろそろ胸がムカムカしだした頃に竜児が起きてきたと思ったらこの報酬。
ああもう、どうしようどうしようどうしよう!?
体が収まらない。
竜児がこの上なく欲しい。
今日は夜までなんて、絶対我慢が出来ない。


***


「ねぇ竜児」
「……何だ」
いつもより少し遠い声。
何故か竜児は少し広めに私との距離を取る。
いつもと同じ登校も、それだけで少し違ったように見える。
「……何か離れすぎじゃない?」
「そうか?」
嘘だ。まるで気のせいじゃないか?と言わんばかりだが、あれは絶対気づいてる。
なんでそんなに距離を取るのよ。
これじゃ全く満たされないじゃない。
一歩竜児に寄れば一歩竜児は離れる。
イライラする。
「アンタねぇ……!!」
ムカっときたところで、
「おーい!!おっはよぉう!!」
元気一杯に手を振りながら爽やかな笑顔を浮かべてみのりんが来た。
もうそんなところまで来てたのか。
「おぅおはよう」
竜児は軽く挨拶しながら……!?!?!?
竜児は挨拶しながら何気なくみのりんの横に並ぶ。
横に、いつもよりも遥かに近い位置に。
みのりんを挟んで私の反対側に。
何よ、何よ何よ何よ!!
何でアンタいつもより大胆にみのりんに近づいてんのよ!?
私からは逃げたくせに……!!
胸が……詰まる。
欲しいのに、手を伸ばせば届く距離なのに……手を、伸ばせないっ!!
「大河ー?どうしたの?」
みのりんが不思議そうに聞いてくる。
「な、何でもないよみのりん!!早く行こっ」
私はみのりんの手を取って走り出す。
「おおぅ?私とのランデブーをお望みかい?どこまでもついていくぜハニー!!」
そう言いながらみのりんはついてきてくれる。
こうやって、みのりんを竜児から引き離す事しか出来ない。
足りない。
欲しい。
近づきたい。
でも竜児は、追いかけては来なかった。
みのりんも、私も、竜児は追いかけてきてくれなかった。


***

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