表音文字の発音を日本語で表記するのが難しいのと同じで、擬音や擬態語、
もしくは言葉にならぬ声――悲鳴なども文字として表すのはしばしば困難を伴う。
少なくとも竜児にはそれが、

ほんぎゃああああああああああああああああああああっ!!

と聞こえたものである。

*

「じゃ、そろそろ帰るわね」
「おう。気をつけろよ」

竜児はちらと時計を確認する。午後十一時過ぎに女の子を一人で外出させるのは気の進まないことだが、
たかだか百メートルもない距離を心配して送っていこうとすると、曰く、

うざい。
邪魔。
金魚のフン野郎。
ストーカー。
目障り
子供扱いすんな。
失せろ。

といった無限にも思われる罵声レパートリを数セット頂戴するのは目に見えているので、
と言うか実際何度も拝聴の憂き目にあっていたため、
せいぜい不遜な虎に注意を喚起することしかできない竜児であった。

「あ、そうだ竜児。エアコンのリモコンどっか行っちゃったの。探して」
「リモコンが独りでにどっか行くかよ。お前がどっかやったんだろ」
「あぁん?」

宝石のような目を不穏に眇めて竜児をガンつける姿はヤンキー高須もかくや……といった有様だ。
特攻服とサラシをプレゼントしてやれば立派なレディースができあがるだろう。木刀は自前であるし。
これが大橋高校一の美少女を鳴らしているのだから堪らない。

「つべこべ言うんじゃ……ないっ!」
「って! いってえ! 悪かった、分かったから耳放せ!」

耳をむしりとられそうになり、竜児は音を上げた。
もとより探すつもりではあったのだ。
ただ、何でも人任せにする癖はお前のためによくないぞ、と暗に言ってやるつもりが、この仕打ちである。
竜児は抜き身の刃物のような目つきで前を行く大河を見つめる。
夜陰に乗じて血祭りに上げてやろうと思っているわけではない。
何のかのと理由はあっても大河を送っていけることが単純に嬉しいのだ。
確かに大河の部屋まではひとっ跳び(ショートカットすれば)だし、さほど心配するまでもないように思える。
何より大橋高校最強生物と目される大河のことだ。無用な心配なのかもしれない。
でもだからこそ、大河だから竜児は心配になるのだ。大河に何かあったらと思うと気が休まらない。
ベランダ越しに見える寝室の電気が点いて、やっと人心地つくのである。
だってあいつ、ドジだし。
いささか心配が過ぎるのではなかろうかと竜児は自覚していたが、
それは大河が信じがたいドジだから、人より余計心配になるのだと自分を納得させていた。
しかし竜児は、他の誰よりも、ひょっとしたら実乃梨のことよりも大河を案じているのかもしれなかった。
比較したことがないから、気づいていないのだ。そもそも比べるのは、疑いがあるからだろう。



「お前なぁ、靴くらい揃えろよな。俺お前んちに来るたびに靴揃えてるぞ」

特に会話もなくドアを潜り、第一声がそれであった。言いながら既にしゃがんで靴を揃えている。
大河は心底鬱陶しいといった表情で竜児を見下ろした。

「……じゃあそれはあんたの役目なのよ。私の手はそんな賤しい仕事をするためにはできていないの」
「お前……全国のちゃんと自分で靴を揃える人たちに謝れ。つうか当然のマナーだろうが。
 普段からやってねえとよその家とかにお邪魔したときに忘れて恥掻くぞ」
「あーあ。うちの駄犬がなんだか無駄吠えしてるわ。でも犬の言葉は分からないしなあ」
「くっ……!」

竜児はちょっと傷ついた。

「じゃ私お風呂入るから。リモコン探しといてね。あとお風呂上りの私に最良のタイミングで牛乳を渡しなさい」

リヴィングまで来た大河は竜児を置いて風呂へ。一緒に探すという選択肢はないらしい。
そもそも大河は自分でちゃんと探したのだろうか。
右を見て、左を見て、「どっかいっちゃった。遺憾だわ」と簡単に諦める姿がありありと思い描かれる。

「仕方ねえな」

口ではぼやきつつも竜児はどこか楽しげにリモコンを探しはじめる。
この広い床に魔方陣を描き、悪魔を召喚してやろう、と企んでいるわけではない。
やっぱりものを探すのは片づけながらが一番だぜ、とぶつぶつ言いながら、
つい先日自分が掃除したばかりの部屋を改めて片づけるのが楽しくてしようがないのだ。
懐からおもむろに取り出したるは高須棒。重箱の隅をつっつくように新たに溜まった埃やら何やらを掃除しはじめる。

「ったく埃ってのはどうしてこう次から次へと湧いてくるのか……」

言いつつ、その表情は完全にバッドトリップ。この男は心の底から掃除が大好きなのだ。変態なのだ。
そこで、何か、風呂場の方でがたーんと音。
そして冒頭の奇声である。

「なんだ? 生まれたのか?」

足音に振り返るのと、浴室に通じるドアがぶち破られるのとはほとんど同時で。
今度は辛うじて感嘆語の体をなした悲鳴で、

「いやああああああああ!!」

虎がリヴィングに突入してきた。否、逃げ戻ってきたのだった。


全裸で。

「いやああああああああ!!」

と、これは竜児の悲鳴である。正直なところを言うと、モロに全部見えた。
そのとき味わった気持ちは生半には言葉では表しづらい。
驚愕とか、呆然とか、はしたないぞ、とか、後が大変だ、なんていう冷静な分析もあったが。
ちょっと、ラッキー、と思ったのも事実だったが。



「りゅううううじいいいいいい!!」
「おうっ!」

こちらに向き直った竜児の姿を認めた大河は、駆け込んできた勢いそのままに竜児の胸に飛び込んできた。
突進してきたという表現が正しいかもしれない。虎の体当たりを受けて竜児は数秒呼吸ができなかった。
息を吹き返すと同時に、小猿のように自分にしがみついた大河を直視し、咄嗟に目を逸らす。
髪はまだ濡れていなかったが、シャワーの途中らしく白磁のような肌には冷めゆく湯が滴り、大河の通った後には点々と道ができている。

「なんてこった、床がびしょ濡れじゃねえか……って違あう!」
「いやぁ……やだやだやだやだ……」

正気を失ったとしか思えない大河は一心に竜児に縋りついてる。その様子にまたつい目をやってしまい、竜児の脳は沸騰寸前だった。
かねがね竜児は、全裸には萌えない、と思っていた。風情というものが、そこにはない。
チラリズムなんて俗っぽい表現は余り使いたくないのだが、やはり日本には古来より垣間見の精神が根付いているのだ。
完全に見せてしまうより、少し隠した方がエロいし、何だったら全部隠してしまってもいいのだ。
隠されたものを想像する余地がある方が、よほどロマンがあるではないか。云々。
ところが、今まさに全裸に直面した竜児は、完全にノックアウトされていた。
だってそれは余りにも唐突で、その上その主は余りにも可憐で、それでいて艶やかで。
竜児はもう少しで一歩踏み外すところだった。

「たたたたた大河っ、お前なんつうカッコだよ! どうしたんだ!?」

抱きつかれて、抱き返したほうがいいのだろうかとか悩むが、
その、きっと滑らかで柔らかいであろう肌に触れたら冷静で居られる自信がなくて、宙をさまよった手を大河の頭に置いた。

「で、で、でっ、出たのおッ!」
「何が」

もしや、赤ん坊か。極度に混乱した竜児はこのとき真剣にそんな可能性を思った。

「な、ナメクジが! 私踏んじゃって……ヌメッて……何かなって見たら、でっかいのが足元にぃ……!!」

もおいやあ、と大河は竜児の胸に頭をこすりつける。

「ああ、それは遺憾だな……」

ぐりぐりとされるがままにしておいて、竜児は遠い目をしていた。
真相を知って拍子抜けしたのもあるが、このあと、大河が自分のやらかしたことに気づいたら一体どんな目に遭うのか、
無事に明日を迎えられるのか、インコちゃんにごはんをやれるのか、それどころか当の大河に朝飯を作ってやれるのか。
戦場の兵士が故郷に残した恋人を想うような気持ちで考えているのである。俺、戦争が終わったら朝飯を作るんだ……。

「遺憾じゃない! なんとかしてよ!!」
「なんとか、するのは、お前だ」

言われて大河は「えっ?」ときょとん顔。その顔が羞恥に赤く染まるまでおよそ二秒。
また新たな悲鳴を上げて竜児を虐げる前に、先手を打つべく竜児は、にわかに着ていたTシャツを脱いだ。

「……って何で脱いでんのよ! ま、ま、まさかあんた……!」

やっとこさ事態に気づいた大河は、竜児から離れようとたたらを踏み、尻餅をついた。
襲われるとでも思ったのか、今更のように前を隠す。



「あほ」

よりいっそあられもない姿の大河をなるべくまっすぐ見ないように、脱いだTシャツをズボッと勢いよく被せる。

「く、屈辱だわ……」

うらめしそうに竜児を見上げた大河は、Tシャツの中で体育座りをしてどうにか縮こまろうともぞもぞしている。

「ちゃんと拭いて服着てろよな。ったくナメクジごときでぎゃあぎゃあと……所詮陸棲の貝類じゃねえか」
「何てこと言うのッ! もう貝食べられないじゃない! ……しばらくは」
「たぶん排水溝から上ってきたんだろうなあ。這い出たと思ったら踏まれるなんて、ついてないナメクジだよ」

何やら喚き散らす大河を背に浴室へ向かい、後ろ手にドアを閉める。
途端にしゃがみこむ。

「うああああ……」

聞こえない程度にうめき、頭をかきむしる。冷静な振りをしていたが、正直なところ、かなり堪えたのである。
何といっても、それはもう真っ向から、見てしまったのだ。もう忘れようとしても焼きついてしまって離れない。
何かといえば、普段見えていた部分と違わず、それどころかもっと白いように思われる奇跡的なまでに美しい肌が、
完全に竜児の脳内を席巻している。
くびれから腰骨を通って腿までを描く曲線の複合や、三角筋の下から大胸筋に沿って現れる控えめながら形のよい乳房、
その上にちょこんと乗った果物に例えられたりする部分とか、もっと下を見れば淡い茂みとか。
心拍数が上がりすぎて気分が悪い。その癖身体の一部分はやたらと元気なのだ。

「ナメクジの野郎……いや、雌雄同体だっけ……なんでもいいや」

ふらふらとヤク中のように立ち上がり、ヤク中のような顔で浴室に向かう。
一方で残された大河は床の上に体育座りのまま、頭を抱えていた。竜児が戻ってきたら、どんな顔をして迎えればいいのだろう。
あれは、もう、完璧に見られた。自分から飛び出したのだから見るなと言う方が無理な話である。
車が走ってくるところに突っ込んでいけば、それは轢かれるだろう。例えるならそんな状況だった。
いっそ自分のしでかしたことに気づいたとき、エロ犬、とか何とか言って殴り倒していればよかったのだ。
でももうタイミングを逸してしまった。竜児が思いもよらぬ行動をしたために上手い具合に反応できなかった。
大河は被せられた竜児のTシャツの中で自らをかき抱いた。
見られた見られた見られた。頭の中にあるのはそればっかりである。
しかし、それとは別に何か釈然としないものが首をもたげる。どうして竜児はあんなに冷静だったのだろうか。
確かに最初は驚いていたが、その後はもう、なんでもないような顔で大河にTシャツを被せて行ってしまった。

「何とも思わないのかな……」

引っかかったのはそれである。本来なら、別にそんなことは気にならないはずだ。
お互いに好きな人が別にいるのだから、竜児が大河の裸を見て何とも思わなかったからといって、そこまで深刻になる必要はないのだ。
そもそも二人の馴れ合いは異性として意識していないという前提で成り立っているようなもの、であるはずだ。
そこで意識されないことに悔しさのようなものを覚えるのは、不自然なこと、なはずなのだ。
それなのに。


--> Next...




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system