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 ボタンのかけ違いを直すくらいなら目を閉じていてもたやすくできる。ただしそれは自分が着ている服の場合に限った話だ。
人の服だって、やってできないことはないだろうが、相手の身体に触れてしまう懸念なしに直すのは少し難儀だ。
 ましてや、下に何か着けているならともかく、大河はパジャマ一枚。下手をすると胸板の上に薄く載った脂肪や、
その先端、さっき過失で目撃してしまった、ややベージュがかった薄桃色の先端に、手が触れてしまわないとも限らない。
それを承知で直させるということは、裏を返せば万一触られても構わないという意思表示とも考えられるのだが
――それでどんな目に遭うかはさておき――このとき竜児の頭にはそんな可能性はこれっぽっちも浮かばなかった。
 もとより、ちらちらと手元を確認しながらパジャマに手を伸ばす竜児に何か考えている余裕などなかったのだが。

「ほら竜児、よそ見してると『どうかしちゃう』かもよ?
 ちなみに触ったら……具体的には思いつかないけど酷いことするから」
「う、うるせ!」

 竜児は覚悟を決め、はだけた胸元をきっと見定めた。どうして竜児にこんなことを強いるのかという前段階は既に、
大河が一度こうと決めたら絶対曲がらない数々の前例を前に意味を失っている。
 大方タチの悪い冗談なのだろうが、取り敢えず今の竜児にできるのは、ベストを尽くすことだけである。

「じゃ、じゃあ直すからな」
「う……ん……」

 真正面から見られるとは予想していなかったのだろうか、まともに向き合うと今度は大河の方が顔を背ける。
対称性は一般的な美醜の基準と言えるが、はすに傾いだ首筋にうっすら浮かぶ影や、伏された目、そのかすかに赤らんだまぶたを縁取る長い睫毛と、
落とした影が白磁のような肌と描いたコントラスト、創造主にひいきされたとしか思えない滑らかな鼻筋の曲線とその下に連なる、
心なし尖らせた唇、そんな奇跡的な構成を最も魅力的に見せるのは芸のない線対称などではなく、どこかに敢えて歪みを孕ませた非対称に他ならない。
無駄に小洒落た間接照明は、今このとき大河の柔肌の上に光と影の芸術を作り出すために据えつけられたのに違いない。
 竜児は半ば呆然とパジャマの袷を手にした。真っ向から立ち向かった大河は手乗りタイガーの持つ危険性とは全く違う意味のそれを携えていた。
 すなわち、手乗りタイガーはそれ自体に理性を期待できないが、湯上りタイガーはそれに相対する者の理性を激しく揺さぶるのだ。
 まだしっとりした肌は上気してほんのり薔薇色。恥らったように斜め下を向いた首の接合部から、蠱惑的なラインを辿る鎖骨のほとんどが露わになって、
大胸筋の下に薄く浮いた肋骨の影すら窺うことができた。
 竜児は自分の舐めまわすような視線に気づかぬまま、一つ目のボタンを外した。傷の深さを見るためには切開する必要があるのと同じように、
かけ違いを直すにはまずボタンを外さねばならない。
 もともとはだけいたところから更にボタンを外せば、結果はもう目に見えている。

「あっ」

 という間もなく、支えを失ったパジャマは右肩を滑り落ち、

「おうっ!?」

 と咄嗟に伸ばした竜児の手が、やや乱暴に襟をかき合わせるまでの一瞬間、その触れば切れそうなほど鋭利な目には、
鎖骨の遠位端がちらりと映りこみ、もう少しひっかかりがあれば稼げていた時間の分余計に、肌色の面積が増えてしまった。
 もう全体でも見てしまったとはいえ、やはり「隙間」は途方もなく、色っぽいのだった。
 大河は自分の身体を過小評価しているのだ。幼児体型だなんてとんでもない。ちょっとばかり胸がないからって、少しばかり背が低いからといって、
何を気に病む必要があるというのか。
 ただ、風呂から上がっただけなのに、この匂い立つような色気ときたらどうだ。写真部の誰かは本当に軽挙妄動もいいところ、
その目は節穴としか思えない。もっとも余りつぶさに観察されたら、それはそれで癪に障るのだが。
 まて俺。竜児は我に帰った。パジャマの前を強くかき合わせたことで引っ張られた布地が大河の身体の曲線をくっきりと。
待て、違うそんなことじゃない、違う。



「……なによう」

 大河は見つめ合ったまま固まる竜児を訝しげに見上げた。ほんの小さないたずら心と、上手く言い表せない期待めいたものがさせたことだが、
やはり恥ずかしい。というより照れくさい。しかし竜児が動揺すればするだけその気持ちが満たされるのは、もう抗弁しがたい事実となりつつあり、
脳だか身体だか、心だかが、「もっと」とせき立ててやまない。
 とろ火みたいにちろちろと舌を出した欲望は既に持て余し気味に大河の小さな胸を占領しつつあって、心は、ぐらぐら、
「太っちゃうけど、甘いものも食べたい」的な回避・接近の心理型。いけないと思う気持ちが劣勢に追い込まれていく。
 そんなことを考えてはいけない。思っているのは竜児も同じで、ともすれば大河に見とれてしまう自分を抑えることが、時間の経過とともに困難になる。
 何を考えてるんだ、相手は大河なんだぞ。
 自らに言い聞かせる言葉も虚しく、再び動き出した手は緊張に震えるし、頭の中はまっしろけーなー♪ 状態で、
いけないとは思いつつ剥がしてしまうできかけのかさぶたのように、理性の皮を一枚めくれば火傷しそうなほどの熱情がじわりと滲み出しそうで、
一度出てしまえばもう歯止めが利かなさそうなのだ。
 外したボタンを留めなおし、次を外して正しいボタンホールにはめる。パジャマのボタンは普通のシャツより少ないし一つ一つが大きいから、
本来なら一分とかからず終わる作業のはずだ。
 手さえ震えなければ。
 落ち着け、高須竜児。ああそうだ。
 竜児は不意に解決策を見いだした。自分が好きなのは、一体誰か。大河に惹かれてはいけないのは何のためか。
 そうだ櫛枝を思い出せばいい。メメント・実乃梨。一年も恋慕する少女の太陽みたいな笑顔を思えばきっと――

「……うぅ」

 下を向いて呻く。結果から言えば大失敗だった。実乃梨の屈託のない笑顔は、竜児を打ちのめしたのみならず、一層現在の状況を悪化させた。
 その最たる原因は、罪悪感だった。しかもそれは、想い人がいるのに他の女に惹かれたせいではなく、
目の前の大河を差し置いて別の女のことを考えたことに起因する罪悪感だったのだ。
 すわ、一大事。竜児は、たった今、大河に惹かれている事実に打ちのめされた。一つ気づくと、蟻の穴から堤が崩れるように露呈する、隠れた本心、
向き合おうとしなかった感情の萌芽。それがいつの間にか無意識に張り巡らした垣根を突き破り、
今や伸び放題に力強い枝葉を掲げた立派な大木になって姿を現したのだった。しかし手入れもされず好き勝手に成長した枝々は荒々しく絡み合って、
どこか歪で、屈折していて、不安定に傾いているのだった。
 放っておいたら腐って倒れてしまいそうな想いを危ないところで見いだしたはいいが、どう対処したらいいか分からない。
 竜児はやっとのことで困難な作業を成し遂げた。大河は途中からうんうん唸りはじめた竜児が少し心配になってきた。いたずらが過ぎただろうか。
そこまで困らせるつもりではなかったのだが。

「竜児?」

 竜児は弾かれたように顔を上げた。

「あ、ああ、ほら、直したぞ、そろそろ帰……」

 言い終わらぬうちに立ち去りかけた竜児のTシャツの裾を、すがりつくように掴む手。肩越しに見えた大河は自分の行動にびっくりしたみたいに目を丸くして、
何か言いかけた口をパクパクさせていた。

「……なんだよ」

 竜児としてはこれ以上大河の側にいるのは精神衛生上堪えがたかった。取り敢えず一人になって考える時間がほしかったのだが。

「……だめ」


 ぽろっとこぼれた本心が竜児を釘づけにする。ずるい、と思った。そんなことを上目づかいで囁かれて、それでも帰れる男が存在するだろうか?

「……ドライヤーしてよ」



 帰ってほしくない本心を代弁した声が咽喉をついて出る。いつもの権高な命令口調とは打って変わって、甘えたようなお願い口調。
ただでさえ大河に甘い竜児がそんな言い方をされれば当然スルーできるはずもなく、

「しかたねえな」

 などと言いつつ実はちょっと嬉しく聞いてやるのだった。
 大河はその瞬間の、どんなわがままでも結局聞いてくれる竜児の「しかたねえな」が大好きだった。「早くしなさいよ」などと言いながら、
ふにゃふにゃと緩みだす頬をいたずらっぽい笑いで隠す。
 もうちょっとだけ居てほしい。かけ違いは手間取ったとはいえ案外何事もなく終わってしまって、すごく物足りないのだ。
触ってほしいとかそこまで大それたことを考えていたわけではないが、もし何かあったときの竜児の慌てた顔を見てみたかった。
 竜児の動揺はそのまま大河の必要とする証拠になる。身体のコンプレックスに限った話ではない。
竜児は今まで大河を女の子扱いしたことはあっても女として扱ったことはなかった。せいぜい妹くらいの扱いである(それでもシスコンには違いないが)。
だからこそ偽乳パッドを作ってくれたり、緊急事態とはいえ水着の中に手を突っ込むような真似ができたのだろうと大河は思っていた。
 ところが今日の竜児は、これ以上ないくらいに赤面し、まともに目を合わせられないくらい照れている。つまり、大河を異性として意識しているのだ。
それはさっきのアクシデントからだろうか、それとも、ずっと前から。
 竜児の大きな手が、長い髪をかきあげてドライヤーの温風を割り込ませる感覚にこの上なく安心しきり、大河は目を閉じた。
 ちょっとでも他の女子と仲良くしている竜児を散々エロ犬だ発情犬だと罵ってきた大河だったが、竜児が本当はいじましいまでに一途な男であることを知っている。
それにかなり鈍感だから、思わせぶりな態度や生半可な誘惑には気づきすらしない。だから、今までのそれは全部嫉妬に過ぎないのだろう。
 そんな竜児の動揺だからこそ価値があるのだ。きっと竜児も、罪悪感に苦しんでいるだろう。何といっても竜児が好きなのは実乃梨なのだから。
我ながらひどいことをする、と思う。それでも、一度開いた穴は塞がらない。溜め込んだものを全て吐き出さなければ止まらないのだ。
そうしている間にも穴は広がっていき、いつしか決壊してしまうかもしれない。
「もうちょっと」は「もっと」になって、「こっちを見て」は「私だけを見て」に変わってゆく。大河を一番見てくれる人間は竜児をおいて他になく、
それは竜児でなければならない。そのために側に居るのか、側に居たがためなのか、どちらが先かは分からないが、とにかく大河の傍らに一番長く、
近く居続けた実績は、もう覆しようがない。それが一番確かな真実だった。
 竜児が、必要だ。

「……ね、竜児」

 呟くような声はドライヤーの音にかき消される。竜児はドライヤーを止めた。

「なんだって?」
「少なくとも手を止めてなんて言ってないわよ。
 もうボケちゃったのかしらうちの愚犬は。遺憾だわね」
「空耳一つに対してそれか……」
「グズはほどほどにしてちゃっちゃと終わらせなさいよ。眠いんだから」
「へいへい……」

 とは言いつつ、きっと今夜は長くなると、大河は面映く予感した。
 ドライヤーが終わったら、たっぷり時間をかけて髪を梳かしてもらおう。その後はハチミツきんかんをホットで作ってもらって、その後は――
 無邪気な期待で胸を膨らませる大河の後頭部を、狂おしく見つめる男が一人。油断した大河をドライヤーのコードで縛り上げて拷問にかけてやろうと思っているわけではない。
 限界寸前なのだ。
 ドライヤーの熱はシャンプーやボディーソープや、その他色々な要素が集合した大河の甘い香りを発散させ、ダイレクトに竜児に叩きつけるのだ。
それだけでなく、ほんのり赤い小さな耳や、髪をかき上げたときに覗くうなじの後れ毛が、否応なく竜児の心拍を上昇させる。
もう大河のことで頭がいっぱいなのは分かりきっていた。
 でも、竜児を信じてこんなにまで心を許している大河に、こんな想いを抱いていいはずがない。到底ない。ああ、でも。でも。
大河の裸身といたずらっぽい笑みが脳裏をちらつく。
 その葛藤の様は竜虎相打つ……のではなく、竜対竜の孤独な戦いだった。


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