ハチミツきんかんをすすってリラックスする大河のけぶる髪を実に三十分かけてくしけずった竜児は、困憊していた。
髪を梳かすのに消耗したわけではなかった。むしろ髪の手入れや三つ編みやらお団子やらは、
手先が器用で凝り性の竜児には楽しい作業で、何の苦にもならない、のだが、今回ばかりは相手がまずかった。
大河の髪をいじるのは今に始まったことではないから、つまり、大河がいつもの大河ではないのだ。

「終わり?」
「終わりだよ。これ以上梳かせる場所は存在しねえ」

 大河はお湯割りハチミツきんかんをマドラーでかき混ぜ、処女雪のように白い咽喉も露わにそれを飲み干した。
その挙動の一つ一つが、竜児の心をグラスに沈んだハチミツみたいにかき乱す。
 ひょっとして挑発されているんじゃなかろうか。無言で差し出された空のグラスをシンクで注ぎながら、
フローリングにぺたんと座り込んだ大河を窺う。金属の取っ手を外して底の内側まで入念に洗うが、
それは結局三十秒足らずで、上記のような漠然とした憶測を浮かび上がらせるくらいしかできなかった。
 だとしたら一体、何のために。水分を拭ったグラスをピカピカに磨き上げてようやっと一分。
推測も自分の気持ちも一向にとりとめないまま、大河に急かされてその傍らに舞い戻る。

「遅い。主人が呼んだらまっしぐらに飛んでくるのが犬の務めでしょうが」
「犬はさておきこれでも急いだんだよ」

 嘘だが。

「……で、なんだよ今度は」
「あ、考えてなかったわ」

 ちょっと待ちなさい今考えるから、と長考の構えを見せる大河に脱力し、竜児は挙手する。
 先生、質問。

「何その手は。宣誓? 一生犬として私に仕えると誓いを立てるのね?」
「あほか。それもやぶさかじゃないがそうじゃなくて俺はさっきから何をさせられてるんだ?」

 今何か聞こえた? 大河はきょとんとした顔で首をひねった。少し早口で聞き取れなかったのだ。

「あんた今なんか言った?」
「お前な。黙殺する気か。お前はさっきから俺に何をやらせてるんだと」
「そうじゃなくて、それの前になんか言ったでしょ?」
「……言ってない」
「でも今……」
「んなこたいいから質問に答えろって」



 竜児は大河の正面にしゃがみこんだ。どう見てもコンビニ前にたむろっているヤンキーにしか見えない。
もっともそのヤンキーは無意味にガンつけてきているわけではなく、大河がどうしてしつこくからかってくるのか、
理由を知りたくてその目を覗き込んでいるだけだ。大河が意外に粘着質なのは寒気がするほどよく知っているが、
今回はどうにも裏が読めない。怒ってないなんて意地を張っているときとは打って変わって、一見本当に楽しそうなのだ。
 今まで不機嫌から八つ当たりの矛先を竜児に向けることはしばしばあった(別に気も晴れないだろうに)が、
ただ竜児が丁度やり場のない感情の噴出し口になっていただけで、それらはある意味能動的なものではなかった。
単に大河の不器用さの顕れくらいの意味でしかなかったのだ。ところが今はどうやら、積極的に竜児をからかって、
竜児が恥らったり慌てたりする落ち着かない様子を楽しんでいるようなのだ。
 積極性以外にも異なる点はある。それは、普段は話題にすることすら避けたがるほど劣等感を抱いている身体を、
今日に限って妙に主張することだ。しかし今日と言ってもまだほんの一時間も経っていないついさっき。
以前にも「平らでしょ」と哀れ乳な水着姿を見せたことはあったが、あのときはほとんどヤケだったのに違いない。
そのときから成長したわけでもない身体を急に見せびらかしたくなる原因は一体何なのか。
 しかも自らをダシにして竜児をからかうと言うことはつまり、竜児が大河を意識してしまっていることを知っているのだ。
勿論竜児が照れなければそんなからかい方をしても面白くないだろうが、大河はそれをどう受け止めているのか。
何と言っても日ごろ飼い犬だの何とも思っていないだのと喧伝している当の相手が、
自分を異性として意識していることを知ったときの気持ちはいかばかりだろう。
本気で何とも思っていなければそれを面白がって竜児を嘲笑することもできようが、
いたずらを思いついた子供のような目をした大河からは、そんな屈託は一向に感じられないのだ。
そしてただからかっているにしては、竜児の反応だけではなく色々と世話をさせることも嬉しくて仕方がないように見えるのは、
竜児の見間違いなのだろうか。ご機嫌なのは結構だが、真意が明らかにならないといささか不気味でさえある。
悪いものでも食べたとか? いや、竜児が作ってものしか食べていない。
 大河の企み顔がぱっと輝いた。

「あ、じゃあ肩でも揉みな」
「じゃあ、じゃねえよ、お前肩凝るほど胸」

 竜児は内臓に突き抜けるような衝撃を受けてくずおれた。

「肩」
「……おう」

 容赦のない肘であった。

「ちょっと待て、今ゴムとってくるから」
「ゴム!?」
「ああ、髪が邪魔だろ」
「……あ……うん、そうね。ヘアゴムね」


 肩揉みは竜児にとって想像を絶するほどの試練となった。あまりに生々しい情報が両手から否応なしに侵入してくるのだ。
大して凝っていない薄い肩の感触は刺激的に過ぎた。手にすっぽり収まる両肩は驚くほど華奢で、注意しなければ壊れてしまいそう。
親指が優しく揉みほぐすうなじのしなやかな筋肉の弾力。肩越しにちらつく胸元の隙間。目のやり場に困ること甚だしい。

「……で」
「で?」
「さっきの答えは何だよ」
「さっきのって?」
「……だから、なんで今日に限ってこんなしつこくからかうんだよ」
「ん? 嫌だった?」

 あくまで明るい声音がまた動揺を誘う。

「そ、そういうわけじゃねえけど……まあ、やってることはいつもと変わらないし。
 でも、お前、今までこういうからかい方はしなかったじゃねえか。だってよ、これじゃさ……」

 竜児は言いよどんだ。

「こんなこと言うと嫌がるかもしれねえけど、やっぱさっきのこと怒ってんじゃないのか?
 どう見ても事故だが、いいよ、八つ当たりしたっていい。何なら百歩譲って俺が悪いってことでもいい。
 でも何だってこんな……いつもなら殴るとか蹴るとか目潰しとか、そんなんでおしまいじゃねえか」
「別に怒ってないわよ? ただあんたがはっきりしないからちょっといらついてるけど。
 言いたいことがあったら具体的に言ったらどう。『こんな』とか『こういう』じゃ分かんない」

 お前も質問に答えないじゃねえか。そう言いかけて竜児は口を噤んだ。はっきりとした答えを避けているのは二人とも同じだ。
お互いがお互いに何か正直な気持ちを隠しているようにも思える。日ごろの当意即妙ぶりに比して何とも噛み合わない。
顔を合わせられないのも一因となっているのかもしれないが、まっすぐ見つめあうのも気恥ずかしく、会議は踊る状態。
 竜児の手が肩の上で拳を作った。もどかしい緊張は筋肉を収縮させる。

「だからこんな……なんでこんな、お前、分かっててなんでさ、こんなの、生殺しだ」

 大河は肌が粟立つ感覚に身体を震わせた。ついに、言ってくれた。態度だけでなく言葉で手に入れた。
やはり竜児は大河を「どうか」したいと思っているのだ。それでも、実乃梨への想いからか、あるいは大河を大事に思う気持ちも含めて、
絶対に手を出すまいと決めて大河のわがままに付き合ってくれていたのだろう。何て――なんて嬉しくて、切ないのだろうか。
また別の期待に胸が膨らむ。その気持ちがどこから、いつから沸き起こったものなのか、今度はそれを知りたい。
さきほどの事故はただのきっかけで、ずっと前からそれは竜児の胸に潜んでいたのであってほしい。
竜児が大河の名を呼び、ずっと側に居ると宣言したあの日から、大河は竜児が必要になっていた。
大河がそんな簡単なことに今更気づいたように、竜児だってやっぱり……。
 竜児はどんな顔をしているのだろう。傷つけたくはないけど、きっと辛そうな顔をしている。竜児は生真面目だから。
片想いの相手がいるのに大河を求めるのは不義理だと、自分を嫌な男だとでも思っていることだろう。
そうやって悩ませるように仕向けたのは大河だ。ならば、悩まなくてもいいと教えられるのも大河だけだ。

「あのね」

 肩に置かれた手に触れ、大河は背後の竜児を振り返った。竜児はばつの悪そうな顔をしている。身動きがとれずもがいているのだ。
 その目を正面から捉えて見つめる。その真剣な顔に竜児は一瞬目を見開き、拳に添えるように触れた小さな手と見比べた。
大河の熱っぽい目は何を物語るのか、思わず吸い寄せられそうになる。
 これはもしや、いやもしかしなくても、誘われているのではないだろうか。
 大河に、俺が、どうして?
 竜児は何がなんだか分からなくなった。

「悪い、俺……やっぱ、帰ったほうがよさそうだ」

 大河の手をすり抜けるように立ち上がった竜児は、早回しみたいな動きで大河の視界から姿を消した。
 広すぎる部屋にはあんまりな事態にぽかんと口を開けた大河が独り。

「……え?」


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