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 竜児はHRぎりぎりの時間になってから教室に戻ってきた。偏執的なまでに清掃された教室に、
どこか座りの悪い思いをしている教え子たちの間に流れる微妙な雰囲気を過敏に察知し、
ゆりちゃん☆先生(独身)は思わず尻込み、大人げなくビクビクしながら教卓に着いた。
怯える担任のHRもその後の授業も特に滞りはなかったが、竜児は授業が終わるたびに、
有無を言わせぬ早足で教室から姿を消すのだった。

「おおっと高須くん、そうは問屋が卸さねえ」

 それも昼休みまでの話だった。弁当片手にそそくさと教室を後にしかけた竜児を捕まえたのは、
(竜児にとっては)思いもよらぬことに実乃梨だった。

「あ、いや、俺は……」
「まあまあまあまあまあまあまあまあ……」

 意外な展開に虚を突かれた竜児はなすすべなくあれよあれよと席に着かされる。
 その席の横には既に大河が陣取っており、反対側に椅子を引っ張ってきた実乃梨がハアどっこいしょ!
 と腰を下ろしたことにより、竜児は逃げ道を失った。

「あんた何やってんの? 一人で食べる気だった? 便所飯?
 みじめだわね。哀れすぎて言葉もないわ。誰にいじめられてんの? ばかちーとか?」
「お前な……」

 いじめっ子がいるとしたらそれは大河だろう。
竜児の横目に映った大河は何事もなかったかのように弁当の包みを解き、内容に視線を走らせた。
 肉を探しているのだ。

「亜美ちゃんがいじめてるわけないじゃん。あんたじゃあるまいし、何が楽しくて……」

 どこからともなく姿を現した亜美は大河と実乃梨の間で小さくなっている竜児を見て、
にやあと嗜虐的な笑みを浮かべた。

「それとも、亜美ちゃんにいじめてほしい……?」
「……遠慮しとく」

 竜児は目を逸らそうとしたが、どちらを向いても誰かがいるので結局下を向いて小さくなった。

「ばかちーまで出てくるわけ? やめてよねややこしくなるから」
「そうだぜーあーみん、昼ドラだぜー」
「昼ドラって……あー」

 亜美はすっと目を細めて、ふふんと笑った。

「へーえ? そっか、そういうこと」
「何一人で分かってるんだお前は」

 不穏な笑顔の二人に挟まれて恨めしげに亜美を見上げる竜児。勿論知らぬは竜児ばかりなり。
やたらと挑発的な大河に抱きかけた妙な意識をごまかすためになるべく顔を合わせないようにしていたのに、
思わぬ加勢によって牛歩戦術も跡形なく、どのみち夕食時までの期限つき先送り作戦ではあったものの、
何ら心の準備もないまま竜児は矢面に立たされてしまったのだが、その思わぬ加勢が他ならぬ実乃梨だったり、
大河が昨夜のことをおくびにも出さない上、眠れぬ夜すがら考えても分からなかったことを、
ちらっと様子を見ただけの亜美に看破されてしまったりと、竜児の混乱は増すばかりであった。

「え〜高須くんがバカだから分かんないだけじゃないのぉ?」

 まるっきりバカにしきった調子で竜児の鼻を弾くと、亜美は踵を返した。

「まあ、よかったんじゃない? 逃げ道がなくなって。
 実乃梨ちゃんもタイガーも、安心していいよ。亜美ちゃんそんなとこに割り込んだりしないから。
 でも……高須くんがどうしても逃げたいっていうんなら、匿ってあげてもいいけどね」

 その振り向きざまの意外に屈託のない笑顔はどういうわけか竜児の肌を粟立たせた。
これが魔性って奴か……感慨に浸るのも束の間、

「フム、あーみんめ中々やりますぞ?」
「ばかちーらしい姑息な手だわ」

 敵もさるもの、などと頭越しに会話されている竜児である。

「まっ、気を取り直してお昼にしよっかね!」

 自分の弁当箱を開ける実乃梨に倣い、竜児も蓋を取る。内容は当然大河のものと同じだが、
実乃梨はほうっ、とうっとり顔。

「た、高須くん! その美味そうに煮しまったがんもどきを……俺っちのから揚げ(冷凍)と……
 トレードしちゃくれまいか……」
「え、ああ、いいけど」
「みのりん! これ同じだから! 交換しよっ!」

 大河の箸が素早く竜児の目の前を往復し、自分のがんもどきとから揚げを入れ替えた。
入れ替えたが早いか、から揚げは大河の口の中に詰め込まれていた。してやられた表情の実乃梨を見て、
目を白黒させるばかりの竜児だった。
 またしても水面下で何かが起きている。よく分からないが何かが起きているのは確実だろう。
うめーちょーうめーよなんつーのおふくろのあじっていうのーと悶える実乃梨を見ているのは楽しかったし、
実乃梨と一緒にお昼を食べられるのは嬉しいのだが、山積する疑問のせいで素直に喜べない。
まず席順が気になる。今までは大体この三人の組み合わせでは、どのパターンでも竜児が中央に来ることはなかった。
必ず大河と実乃梨が隣あうからである。数1の問題だ。ところが今竜児は二人に挟まれている。両手に華である。
 見方によっては。
 次に実乃梨の態度が気になる。これまでは友達とはいっても大河越しの遠慮のようなものがそこはかとなく
感じられたものだが、全くなくなっている。高須くん高須くんと、大河抜きに話しかけてくるのだ。正直ドキドキする。
大河は大河でそんな実乃梨の態度を受け入れているようで、且つ竜児に対する態度といえば、
ちょっと竜児ねえ竜児こら竜児竜児竜児竜児と、こちらはもとより変わらない様子だ。ひとり竜児祭である。
口もとにご飯粒をつけていたり、すぐに何かこぼしそうになったりと、気になって実乃梨との会話も楽しめない。

「こ……これは完全に大河の世話焼きが高須くんの生活習慣の中に組み込まれている……ッ、侮りがたし! 大河!」
「おう、すまん櫛枝、今何か言ったか? 大河がどうとか?」
「……い、いやぁ、こんな美味しいご飯を毎日食べられるなんて、大河は幸せものだなあ、ってね」
「そうそう。私もう一生台所に立たない気がする」
「いや、そこはお前、やれよ。ちょっとは」

 竜児は何か重要な発言をスルーした。もしやそんなのは日常茶飯事で言っていることなのだろうか。
そして二人ともすっかり麻痺してしまっていると。実乃梨は背中に冷たいものを感じた。
核心に触れないよう、特別なものを抱かないように一歩引いた位置から竜児に接していたときは分からなかったが、
いざ線の内側に入ってみると、二人と実乃梨との間にはもう一つ高い壁がそそり立っているように思えた。
この二人は二人で居ることに慣れきっていて、普通の異性同士ならどう見ても意味深長などころか、
完全アウトな言動に対しても何とも思わなくなっているのだ。それは……それはどうなんだろう。
竜児が大河を異性として見ていないかといえば、全くそうというわけではないだろう。
少なくとも異性に払うべきデリカシーは働かせていると思う。ただしそれは「それなり」な範囲で。
 大事なのはギャップだ――実乃梨は魚肉ソーセージにぐいっとフォークを突きたてた。
いわゆる捨て猫を拾う不良理論。終始異性として意識している相手の当然と、
意識していない相手が不意に見せるいつもと違った一面のギャップ、そのどちらに心動かされるかと言えば、
それは後者ではないだろうか。その点大河に対しては、実乃梨は一歩出遅れているのだ。
大河は幾ら見慣れたってとびっきり綺麗な女の子だ。傍若無人なようで性格だって結構かわいい。
そんな大河の見慣れた姿に不意に異性を見出すようなことがあったら、かなり心動かされるだろう。
 実乃梨ならきっと一撃でオチる。
 それを言ったらあたしも意外にいけるか? ギャップで――フォークの背でピーマンの内側の粒々を潰す。
実乃梨は自分がおかしなキャラであることは自覚していた。だからこそ竜児の好意は、いろんな意味で衝撃だったのだ。
この私を? 何で? ほんとに? 嘘だろ? 気づいてからしばらくは動揺して人に心配されたものだ。
靴の左右を間違えたり、靴の上に靴下を履こうとしたり、靴紐同士を結び合わせて転んだり。
こんな、大橋で変と言ったら誰もが真っ先にその名が挙げる櫛枝実乃梨を、家事万能成績優秀品行方正な完璧超人高須竜児が?
しかしそれは、変だけど好き、じゃなく変だから好きという可能性もあるわけで、変だけど女の子なのよ☆
というギャップで意外性を狙うことはできないかもしれないのだが。

「櫛枝?」

 よほど変な顔をしていたのか、竜児は実乃梨の顔を覗き込んでいた。
 パッと顔を上げる。

「……あ、はははは、大河ぁ、油断しちゃいけねえよ、高須くんってかなりの優良物件だぜ〜?
 ぜひ嫁にって引く手あまただと思うけどなあ。ウチにも一人ほしいくらい」
「へっ?」
「そんなことないもん。ね、竜児、私今日朝ごはんの食器ちゃんと洗ったんだよ」
「なにぃ!?」

 そんなこと、というのは「油断」にかかっているのだろうが、竜児は気づかなかったらしい。
別の言葉にひっかかって、咄嗟に大河の両手を掴み、裏表をかわるがわるチェックしている。

「嘘だろ、どこもケガしてないじゃねえか」
「失礼ね。洗いものくらいでケガなんかするわけないでしょ」

 言いつつ、お粥程度で手を包帯だらけにしたのは大河であったが。

「……げっ、あんた何涙ぐんでんのよ!」
「……大河お前、やればできるんだなあ」
「同感だぜ高須くん! これで涙を拭きな……!」
「おう、すまねえ櫛枝」

 差し出されたハンカチを素直に受け取る竜児だったが、実乃梨は「やるな」と大河を見た。
いつの間にか竜児との会話は不敵に笑う大河を介したものに戻っている。このペースはかなり手強い。
 だからこそ、やってやろうじゃん、という気にもなるのだ。

「あ……ところでさ」

 早くも弁当を食べ終わらんとしている大河に、味わえよ、などと思いつつ、実乃梨。

「あのとき、高須くん、なんで大河と踊らなかったのさ。権利じゃん」

 竜児はしばしぽかんとして、おぅ、と漏らした。

「そういやそうだった……なんか忘れてたな、あのときは。レースに勝つことしか考えてなかったし……」
「おっ、妬けるねえ?」
「いやっ……だってあれは、まあ、なんだ、んん」

 何と、否定しないよこの人は。これは本格的に妬けてしまう。否定すると思ったのだ。
実際実乃梨は「そんなんじゃねえって」と頑張る竜児を、どこかで期待していた。

「権利っていや、櫛枝も一緒じゃねえか。同着一位なんだから権利ならお前にもあるだろ、なあ」

 と竜児はなぜか大河に話を振る。

「そいやそうだわ。なんで言ってくれなかったのよ! 私みのりんとなら踊りたかったのに! 使えない駄犬ね……」

 打てば響くように、一が十になって返ってくる。おいおいそんなこと言っちゃっていいのかい?
実乃梨は竜児の反応を窺って、フォークを取り落としかけた。そこには罵られて悦ぶ変態の顔が……
もとい、満更でもない苦笑いの竜児がいた。「これこれ」という感じ。人は痛みに慣れるというが、
それであえて辛い食べ物を楽しむように、罵られることに快感を覚えつつあるのだろうか。文化が違う。
と実乃梨は遠い目をしそうになり、自分も辛党で怖いもの好きであることを思い出す。こりゃあ中毒だね。

「なあ知ってるかい……コーヒーは文化的な飲み物らしいぜ……」
「何言ってんだ櫛枝。
 ……っつーか大河、お前あんとき北村と踊ってたじゃねえか」
「うえっ……!? だ、だってあれはその……」

 ごにょごにょ言葉尻を濁す大河に何を思ったか、竜児は北村の方を見た。
 北村はまさにランチジャーの仕切を食べようとしていた。


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