*


 それほど気にしていないように思えても、根底のどこかでは自分のことを、不幸だ、と
感じていたのかもしれない。それを含めて、二三日自分のことばかり考えていたようだった。
自分の頭の蠅を追えとも言うものの、それを差し置いてもそのことに気づかなかった事実に、
竜児はショックを隠せなかった。
 しかも少なからず、目下竜児の頭にたかる蠅、もとい虎――ひどく例えは悪いが――の
動向とも関わりのある人物のことである。
 元気がないな、とは思っていた。だからといって。

「ねえ竜児……」

 ほぼ真下から聞こえた声から感じる意図は、ひとまず休戦、といった様子。
私たちのことはしまっておきましょうと似合わない心得顔の大河だった。原因の一端に
自分が噂されていることに負い目でも感じているのか、言葉にはしなかったもののともかく
竜児にとってもありがたい申し出、的な意図ではあった。

「北村」

 後ろから声をかけたのは放課後のこと、大河は何か遠慮めいた躊躇いを理由に先に帰っていた。
 できたら竜児としては大河も一緒に来てほしかった。一つには北村をして、「全部やめる」なんて
投げやりな言葉を叫ばせる理由を聞くのが、一人では少し怖かったからだ。
 もう一つの理由は竜児には上手く説明できるほど考えを整理する時間がなかったのだが、
たぶん余りにも常に一緒に居すぎて、例えば帰り道傍らにその姿がないと落ち着かず、
空に太陽が見えないとか、部屋に窓がないとか、教室に黒板がないとか、当たり前にあると
思っているはずのものが不在のときに感じる違和と同種のそれが、その理由のそのまた一因になっているのだろう。
 竜児にとって大河は余りにも当たり前な存在となっていた。その上、昨晩から竜児の脳内は大河一色である。
 そういう意味では、やはり今は大河に居てもらっては困るのかもしれないが。

「ああ……なんだ高須か。逢坂はどうした? 一緒じゃないのか?」

 振り向いた北村の表情は見ようによっては竜児の凶悪に鋭い目つきより正視に耐えがたいものだった。
北村を知るものにとっては特に。やつれているとか、疲れているとか、そういう形容ともまた違った生気のなさ。
暑苦しいほどの気力に満ちた普段からは全く想像できない風の腑抜けぶりで、言うなれば北村駄作といった体。
何か一つのことに気を取られているためにほかのことを構っていられないようだったし、
何一つ考えられない呆然の境地であるようにも見えた。
 とはいえそんな状態の者にすら四六時中二個イチでいないことを疑問に思われるほど、
傍目にも自分たちがセットで考えられていることも、竜児には少なからず感慨のようなものがあったが。

「お前な……なんだじゃねえよ。大河なら用事があるっつって先帰ったけど、まあこの際あいつのことはどうでもいい」

 並んで歩き出しながら、竜児は小さな物体を脇へどかす仕草をした。

「そんなことはないだろう。逢坂は重要だぞ。高須と逢坂が一緒にいないなんて問題に比べたらほかのことは
 全て瑣末事だ。恋ヶ窪先生が独身でおられないとか、素直でいい子な亜美とか、変じゃない櫛枝のように
 不可解かつ驚愕の事実だ」


 北村は心底どうでもいいことに引っかかった。死んだような目をしている割にはよく口が回る。
何か言いたくないことを糊塗するかのように。

「なんでそこまで重大だよ。重要度で言ったら精々能登が時々コンタクトにするくらい心底どうでもいいよ。
 お前俺たちを不断の愛を誓った恋人か何かだと思ってんだろ」

 出てくるたとえがおかしい。竜児は自分の発したフレーズにドキッとした。言うなれば心臓が不整脈的な動きをしたのだ。

「恋人……恋人ね。お前たちの場合はいっそ夫婦だ」
「た、確かに泰子は完全にウチの子扱いしてるけど……って、違う違う、なに言ってんだ。
 ……あー、だからこんな話したいんじゃなくてだな」

 竜児が言葉を探して意味もなく前髪を引っ張っていると、殆ど聞こえるか聞こえないかの声で、北村がぼそっと呟いた。

「……羨ましいよ」
「え?」
「いや?」

 なんでもないさ――北村は夕焼けを眩しそうに見て、深々と嘆息した。

「……まあでも実際珍しいよな、高須と逢坂が一緒じゃないのは。かえって新鮮だよ」
「いや、だからそれは」

 北村はどうしても話を逸らしたい様子だったが、その割に態度はいかにも悩ましげで、
口では全然関係のないことを喋ってその内実は別のことに気を取られている風で、本当はそんなことを
話したいようには見えない。余計はおしゃべりは北村の中で何か葛藤が起きていることの表れなのかもしれなかったし、
意図的に自分自身の意識をも逸らせようとしているかもしれなかった。

「そういえば朝も別々だったな。ケンカしてるってわけじゃないんだろうが。高須は高須で意味もなく掃除してるし」
「ばかやろう。意味はあるし高須竜児が掃除をするのは人間が呼吸をするのと同じように自然なことだ」

 そうとも、うんうん。こと掃除に関しては一家言ある竜児である。自分の趣味を意味もなくなどと
評されては黙っていられず、話を進めたいのにうっかり乗ってしまう。案外竜児も、北村自身の話をすることに
ためらいがあったせいもあるのかもしれない。
 北村のことは心配だけど、どこまで踏み込んでいいものか分からないのだ。
 しかし、あれだけ燃え尽き症候群な一日を過ごしてはいても、身体に染みついた委員長体質なのか、
意外に周りのことは見ていたらしい。

「櫛枝もなんだかいつもと違ったしな。何かあったのか? 亜美もさっき……いや、いいか」
「よかねえけどよ」

 気になることを言う。竜児とて親友の様子に気づくまでは自分のことに気を取られていたのだ。
ともすれば思考は逸れがちだった。思わせぶりなことを言われればなおさらである。

「俺の話はいいだろ、ほんと」
「いや、高須よ」

 北村は物悲しげな目で竜児を見て、

「俺のことは……正直今は、少し、話したくないんだ……高須の話が聞きたいな。高須と、逢坂の話を」

 誤魔化すのはやめて、拒絶した。竜児はそこで二の足を踏んだら、また後悔する羽目になるんじゃないかと思った。
けれど踏み込んだらそれはそれで、失敗するかもしれない。やらないで後悔するよりは、断然いいのだけど。
 北村のことは心配だが、本人が話したくないと言った以上、おそらく気が変わるなんてことはしばらくないだろう。
「今は」という期限に期待して、少しばかり待ってみるべきなのかもしれない。

「分かったよ……分かった。っつっても何から話ししたらいい? 大河の失敗談でも聞きたいのか?
 あいつの私生活なんて恥じるところしかねえぞ」
「はは……それは、ちょっと見てみたいもんだ」

 力ない笑いだったが、それでもないよりは、虚ろな顔をされているよりはマシというものだ。
大河の笑えないドジくらいで親友がちょっとでも元気になるのなら、大河のプライバシーなど一顧だに価しない。
あらゆる恥を開陳してしまえばいいと思う。

「いや、何というか、話は戻るが、お前たちがケンカしてるわけでもないのに登校も下校も別々だなんて、
 本当に珍しいと思ってな」
「……確かにな。すげえ違和感だよ」

 懐が寂しいというか足元が落ち着かないというか。いつだって目線の下にあるつむじが見当たらないのは
それだけで徹底的に何かしらの欠落を表しているかのようで、喪失感に近い感覚をさえ竜児に抱かせるに充分だった。
 竜児は、できたらあのちっこいバカには、自分の頭上から両肩に触れて地面まで延びる
円錐形の範囲内で暮らしていてもらいたいものだ、と妙に感慨深く思った。
 見える範囲ではなく、手の届く範囲に居てほしいのだ。
 要するに――

「しばらくお前と一緒に帰ることもなかったからな、実は色々と聞いてみたいところもあったんだ」
「そういや、そうだな。帰りはなんかいつもバタバタ慌しくて……主に大河と特売のせいだけど。
 ああ、でもお前が生徒会に入って以来か」

 話したくない、とは言いつつも北村の目は雄弁だった。生徒会と聞いて微かに細められたその目。
決して不快の色でも、それ自体を厭っているわけでもない、ただそれについてもう考えたくないとでもいうような、
何かしらのジレンマがそこにあった。
 竜児にさえ、文化祭以来北村の元気のなさは生徒会に起因することなのだと推測できた。
それが単に生徒会長になりたくないからなのか、あるいはもっと他に理由があるのか。
それ以上の判断をすることはできなかったが。
 とにかく、竜児の言葉に対して口を歪めることでのみで回答としたのは事実だった。
 端的に言えばスルーした。

「……高須と逢坂はいつの間に親しくなったんだ? 余計な詮索と思って聞かなかったが、
 実は前から結構気になってたんだぞ」


 そうして発した言葉は、微妙に墓穴発言だった。お前のせいだよ、とも言えまい。大河がラブレターを
入れる鞄を間違えたことで全てが始まったのだ。大河がドジで、かつ間違いに気づいたあと理由も言わず
竜児の鞄を奪おうとするほどの強情っぱりだったからこそ、竜児と大河は親しくなった。
 だから、ある意味、大河は大河であるからこそ竜児と親しくなったのだったが。いずれにせよ、
その発端が北村であることは事実だろう。
 お前のせいだよ、と言ってしまうべきだろうか。上手く伝えられなかったとはいえ、大河は一度は北村に
告白しているのだ。トイレの裏に呼び出して。関係ないことばかり喋って。どうしようもなく無様ではあったけど。
その勇気が、自分が中々持てないでいた勇気が、竜児はまたどうしようもなく羨ましかったものだ。
 ならば、別に話してもいいのだろうか。一度告白して振られて、その後逆に告白されたとき、
北村はやんわりと大河を振った。たぶん既に北村の意中に大河は居なかったのだろうけれど、
その気持ちは、きっと分かっている。竜児も内心でも認めようとはしなかったが、それでもこの半年、
大河は叶わぬ恋に身を焦がしていたのだろう。
 だったら、話してもいいのかもしれない。もとより北村は竜児の親友なのだ。
今更隠すようなことでもないことではないだろうか。
 そういう考えに至った自分自身の変化に、竜児は気づかなかったが。

「衝撃的なことを言っていいか?」
「もう二人の間には子が」
「混ぜっ返すなよな」

 ジロ、と貴婦人なら間違いなく気絶する殺人的な視線で睨んでやるが、余人は怯えても北村は慣れたもの、
どころか、ああ、高須は目つきが悪いからな、ときっと好意的な解釈で笑み返す。

「悪い悪い、それで?」

 今度は竜児が遠い目をする番だった。何だかんだと自分から敢えて誰かに教えたことはないのだ。
大河は事故だし、亜美は勝手に感づいた。いざ言おうとすると、本人に告白するわけでもないのに恥ずかしい。

「俺さ……櫛枝が好きなんだ」

 北村は笑顔のままだった。
 時差でも発生しているかのようなタイミングで首をかしげる。

「え? すまん、よく聞こえなかった。もう一度頼む」

 竜児は真顔で繰り返した。

「俺は櫛枝実乃梨が好きなんだ」

 無言の時が流れる。ひんやりした風が通り抜け、秋の訪れを予感させた。
オレンジに変わりゆく高い空に雲が流れてゆく。

「ええっ!?」
「おせえ!」
「いや、だって、ええ!? 櫛枝って、あの櫛枝実乃梨か!?」
「わざわざフルネームで言いなおしたじゃねえか!
 ほかに櫛枝実乃梨が百人いても俺はあの奇人筆頭ナンバーワンの櫛枝しか知らねえ!」


 思わず冴え渡る突っ込み。ビシィッと効果音の入りそうな手首のスナップが北村の肩を捉える。
 北村は気が抜けたようによろめき、ぐるりとトキのごとき流れるような動作で回転して元の位置に戻ってきた。
俯いた姿勢から眼鏡を直しながら顔を上げ、竜児に驚愕の表情を見せる。

「櫛枝が好きと」
「……そうだよ」
「うん、うん、そうか、そうか……ああ、でも、なんだ、櫛枝が変なことはちゃんと分かってるんだな、それは安心した」
「仮にもお前の友達でもあるだろうが」

 確かに竜児の目から見ても実乃梨は変だが。
 変だけど、笑顔が眩いのだ。変だけれど、不良と噂される竜児にこだわりなく接してくれたのだ。

「いや、悪い、びっくりしたんだ。高須、お前人を見る目があるよ。好みに関してはちょっと不安に思うところはあるが、
 俺が保証する。櫛枝はいい奴だぞ」

 何度も頷いて、北村はあることに思い当たって竜児を見た。

「で、それが逢坂とどう関係があるんだ? 櫛枝へアタックする過程でその友達である逢坂と親しくなった。
 ……わけじゃないよな。それじゃなんか順番がおかしいし」
「あー、そうだな、それは逆だ。大河と知り合ったから自然と櫛枝とも話すようになったんだよ」
「ううん、すまないな。俺は一向こういうことには疎いものだから。話の腰を折ってすまん、
 順を追って説明してくれるか?」

 竜児は北村が親友でよかったと思った。これを話す相手が北村で本当によかった。
一を聞いて十を察する相手に話すのは、逆に自分が気づいてすらいないことを思い知らされて、
当面の問題が解決される前に更なる問題が積みあがっていってしまうのだ。北村は女子と話すのは苦手だなどと
言っている割には自然に接することができるが、恋愛方面に関しては決して察しがいいとか
長けているなどということはないのだ。つまり、竜児とほとんど同じ土台に立っていると言ってもいい。
竜児が考えをまとめながら話しても、茶々を入れたり余計な気づかいをせずに素直に聞いてくれる。

「前提が、もうひとつある。お前だって分かってるんだろうが、大河は……ずっとお前のこと、好きだったんだ」

 それはもう、ずっと。竜児が実乃梨に恋するより、ずっと前から。
 北村は分かっているとでも言いたげに、その実曖昧に微笑した。

「告白……されただろ。お前はやんわり流したけど。確かに大河はお前に告白した」
「……なんだ? 見てきたみたいな物言いじゃないか、まるで」
「居合わせちまったんだよ。偶然な。っていうか、大河がお前のことを好きなのを知ってたし、
 その日告白するってことも知ってたけど。居合わせちまったのは偶然だ。
 あいつ間抜けにもトイレの裏に呼び出すんだからな。トイレに行きゃ聞こえちまうんだよ」
「そうか……だったら、俺が言いたいことも分かるんじゃないのか?」

 あの日――実乃梨と北村に誤解され、二人して電柱を蹴った翌日。大河は北村に告白した。
告白したのだけれど、そこで無我夢中の大河の口からぽろぽろと零れ落ちたのは、彼女がずっと好きだった
北村のことではなかった。全然なかったのだ。竜児も居合わせて聞いていたし、北村はもちろん直接聞かされた。
その言葉の意味するところは、本人も気づかない間に大河の最も大切な一部になっていた存在に対する、
謂わば思いの丈は、北村への告白などよりよほど正確に、北村の心に届いていただろう。
 だからこそ北村は、確答を避けるような言葉を返したのだ。聞きようによっては、完全に振られたともいえたが。
はっきりと言葉にしては是とも否とも口にしなかった。たぶんそれは北村の優しさからきた答えだったのだろう。
大河が自分で、自分の力でその気持ちを見つけられるように。


「いや、俺もさ、嬉しかったよ。あれだけ頑なに他人を拒絶していた逢坂が、他ならぬ俺の親友と親しくなって、
 俺のことを好き、とも言ってくれた。あのときは他に言いたいことがあったみたいだけどな」

 北村は一度言葉を切った。余計な口出しではないかと躊躇したのだ。
 でも竜児の方はそこで、すとんと、落ち着いてしまった。大河の言いたかったその先、大河に、
明日からはただのクラスメイトに戻ろうと言われたときに感じた喪失感の理由、大河のいる風景の安心感。
 大河が、一日に百回も竜児の名を呼ぶ理由。

「……分かるよ。今になってようやくって感じだけど。考えねえようにしてたけど、
 普通に考えりゃそうなんだって、今は」
「それは、櫛枝が好きだったから今までは分からなかった……ってことか?」
「ああ。たぶん。大河もお前のことが好きだったしな」

 北村は竜児の言葉には合わせず過去形を使ったが、竜児ははっきりと自分の中で納得した答えにまだ確信を
抱くには至らなかったために、使う時制は単に過去形に似た表現でしかなかった。それだけならまだ、
現在を含めた過去にも聞こえる言い方だった。どちらにしても、明瞭に一方が正しいと談じることはできなかったのだ。
 それでも竜児は、自分の気持ちに関しては、それが過去だと肯定してしまった。

「つうか、なんだ、全然順を追ってねえな」
「いいさ、俺も何だか、薄っすらとだが分かってきたような気がする」
「マジかよ。本人が半年かけて分かりかけてるようなことだぞ」
「マジだ。言われてみればって感じだが、確かに、高須が櫛枝と親しくなったとは思っていたが、
単に逢坂経由だと思っていたからな。言われてみれば、色々なことに説明がつきそうな気がする」

 そうかそうか、なるほど。北村は楽しげに呟いて、何度も頷いた。

「亜美の奴が膨れる理由がよく分かった」
「は? 川嶋が?」
「口には出さなかったけど、分かるんだよ。幼馴染だからな。
 あいつのことだから、何かお前たちにお節介なことでも言ったんじゃないか?」

 察しのいい北村というのも調子が狂うものだった。停止していた思考能力が運転を再開した上、
余事は置いて一つのことに集中しているせいかもしれない。鈍感さにかけては竜児に勝るとも劣らない北村が、
亜美のごとき察知力を発揮している。
 もっとも竜児の調子だったら、昨日の夜から狂いっぱなしではあったが。調子が狂ったせいで、
普段考えないようなことを思い至ったのだ。

「そういう理由だったら、高須のことを水臭いとは攻められんな」
「…………」

 つまり、親友に秘密を持っていたということを。

「それで、何かあったわけだ? その均衡状態みたいなものが、昨日崩れてしまうようなことが起きたんだな。
 あの様子だと櫛枝と逢坂の間でも何かあったみたいだけど」
「それに関しては、さっぱりだ。俺もびっくりしてる。全然分かんねえよ」
「まあ、理由はさておき、あれはどう見ても高須を取り合っていたよなあ」

 竜児は眉をひそめた。最凶の誉れも高い三白眼をすうっと細め、戯けたことを抜かす男だ! 切り刻んでやろうか?
と考えているのではなく、半透膜を通過する液体のように、北村の言葉が脳に認識されるまで時間がかかっているのだ。


「しかもあの示し合わせたような構いっぷり……二人とも腹を括ったということだな」

 一人心得顔の北村に竜児は全然ついていけない。

「え、おい、ちょっと待てよ、勝手に話を進めんな。ななななんだよ取り合ってるって、腹括ってるって、
 それはなんか前提がおかしいぞ」
「ん? 櫛枝も高須のことが好きなんじゃないのか?」

 古典的な表現で言えば、竜児は頭をガーンと殴られたような気分だった。斬新に言い表すなら、凶暴な女子高生に木刀で殴打されたかのような衝撃を伴った発言だった。
 北村はいい奴だ。しかしデリカシーがないのだ。

「あ、これは言っちゃまずいことだったか」
「お前な……」

 竜児の足が止まる。
 それが事実だとしたら、何という皮肉だろう。そして何というバカバカしい話なのだろう。
一年近く片想いしていた相手が自分のことを好きかもしれない驚天動地のこの情況で、自分は何をやっているのか。
竜児は頭を抱えてうずくまりたくなったので、その通りにした。たとえそれが法律で禁じられていたとしても、
今の竜児なら躊躇いなくやった。

「た、高須!? すまん、大丈夫か!?」
「…………」

 北村が周りでおたおたしているのも竜児の目には一向に入らなかった。アスファルト上の落ち葉を
一心に凝視しているようだったが、その実何も目に入っていなかった。
 考えようによっては、北村とも情況は似ている。北村の場合、一度告白し振られた相手にしばらく経ってから
告白されたのであった。絶妙な時間差で両想いになる期間がなかった。竜児の場合は気がつかなかった。

「高須! 気を確かに!」
「ダメだ北村、俺しばらく立ち直れねえかも」

 そこでふと生じる疑問。

「北村」
「なんだ高須!? ……ああ親友をこんなに落ち込ませてしまうなんて……! 何でもしてやる! 言ってみろ!」
「……お前、何で大河を振ったんだ? もう好きじゃなかったのか?」
「ぐ」

 中々のダメージだった。北村は分厚い胸筋の下のセンシティヴなハートに多大な損害を受け、
たとえとかではなく本当に胸を押さえて竜児の隣にうずくまった。

「おう、ど、どうした? 北村?」

 竜児がおたおたする順番だった。鈍感な男たちは意図せず互いに鞭打っていた。

「……い、いいだろう……何でもすると言ったからには、答えよう。男に二言はないぞ」

 北村の眼鏡がきらりと光る。うろんな光景に見えて、よく見ると北村は赤かった。誰よりも男らしく
清々しい眼鏡くんは、ほっぺを赤く染めて恥らっていた。竜児などはいっそ自分が告白されるのではと
一瞬ぎょっとしたくらいだった。


「…………す……好き、な、人が……いる」
「おうっ!?」

 竜児はしゃがんだ姿勢のままよろめき、それでも尻餅は死守し、勢いで立ち上がる。背中にぶつかった電柱に
そのまま寄りかかり、身体を支える。
 竜児が衝撃を感じている間に、北村はといえば、

「くくく……」

 泣いていた。

「お、おい、北村!? 大丈夫か!?」
「大丈夫なわけがあるかあっ!」

 泣き顔のまま立ち上がると、鞄を放り捨てスクワットを始める北村。高ぶった感情の対処が体育会系っぽい。
竜児の前で北村の泣き顔がすごい勢いで上下する。
気持ちが悪かった。

「……大丈夫か?」

 竜児は改めて、頭は大丈夫かという意味で訊ねた。

「ダメだ!」

 北村はあくまで男らしかった。

「脱ぐしかない!」
「脱ぐな」

 学ランのボタンに手をかけた北村の頬を、竜児は力なくぺちゃっと叩いた。

「ダメだダメだダメだ、ダメだーっ!」

 社会的に致命傷を追うことは思いなおしたが、頭をかきむしる北村。狂乱の体である。

「高須竜児!」
「はい!」

 クラス委員は定規のようにまっすぐ親友の凶相に指を突きつけた。端から見れば正義感が不良の非行を見咎めたかようだった。しかして優等生である竜児はついいい返事を返してしまう。

「逢坂大河が好きか!?」
「はい! ……ってあれ!?」
「よろしい!」

 北村の眼鏡は夕焼けが映りこんでいたが、竜児にはその下の熱く燃える目がありありと見えた。
暑苦しい男である。
 暑苦しい男に戻ったのだ。
 告白してくる――吐き捨てるように宣言すると、北村は元来た道を駆け戻っていった。一路、学校へ。
 竜児はぽかんである。何が起こっているのか理解するまでにしばしの時間が必要だったが、
自分が何か親友に重大な影響を及ぼしたことは分かった。逆に北村は、勢いで竜児から本音を引っ張り出して行ったのだった。

「はい……って」

 やがて一人歩き出した竜児は、スーパーの特売を思い出した。動揺はしていても、衝撃を受けても、
何があろうと安くておいしい晩御飯を作るのが竜児の使命である。きっと、大河も食べにくるのだろうし。



*



 翌日――と飛ばしてしまいたいところだったが、ただのクラスメートならまだしも、
寝起き以外のほとんどを共にしている相手との数時間のうちに、特筆すべきことが全くないはずがなかった。
 議論の余地を残したままでそれを黙殺するには、二人は仲がよすぎたのだ。
 しかも竜児の方は投げっぱなしであったから、その日学校であったことも含めて、
何事もなかったかのよう過ごせと言われてもどだい無理な話だった。
 高須竜児。デリケートな男である。
 デリケートゆえに、つい議論の先送りをしてしまったのであり、デリケートゆえに黙っていることもできないのだ。
 とは言うものの、この場合竜児が黙っていたところで、相手は黙って済ませるような生半可な人格をしていはしないのだった。
 全てひっくるめて分かった上で、竜児はもはや、なるようにしかならないだろうという、
案外気楽な思いで買い物を終え、借家の階段を上った。
 ドアを開けて、ぱちくり。
 ちっこいのが踏み台に乗り、流しで米を研いでいる。

「あ、竜児! おかえ――」
「間違えました」

 閉じろゴマ。

「やれやれ、疲れてんのかね、ボーッとしてたんだな、家を間違えるなんて。ははは」

 カツンカツンと音を立てて階段を下り、地面を踏んだ途端折り返してまた上る。

「いや、うちだぜ! 我が家だぜ!」

 見間違い。きっとそうだろう。ボーッとしていたから。ありもしないものさえ見えてしまう。
 まさかそんなことがあるはずが。

「っぁわったー!」

 あった。
 ドアの向こうには、炊飯器とにらめっこする虎の姿があった。

「ななななななたたたたた大河、大河お前ななな何ししし」

 三和土にくずおれる竜児だったが、卵の入ったお手製エコバッグを無意識に庇う。
 MOTTAINAI精神が根づいているのだ。

「あ? 聞こえないわよ。はっきり喋んな!」

 慌てふためく竜児に気勢を殺がれる様子もなく、大河はいっそ竜児に似てきたのではないかと思えるほどの鋭い目つきで睨みつける。

「はーあ。あんたが帰ってくる前に終わらせとこうと思ったのに。このポンコツ炊飯器どうやったら動くのよ!?」

 竜児は、自分が帰ってきた時点でまだ米を研いでいたなら遅れたのは炊飯器のせいではない、
と喉元まで出かかったが、堪えてやる。

「コンセントを差して炊飯ボタンを押すだけだけど。炊く前に最低三十分は浸けておけ。
 充分に水を吸わせた方がふっくら炊きあがる」

 家事に関しては歪みない竜児である。



「ふーん。そうなんだ」

 すぐに炊いちゃダメなのね。大河は感心したように腕組みし頷き、覚えとくわ、などとブツブツ言っている。

「泰子もなあ、テレビなんかよりまず炊飯器を新調してくれりゃよかったのに。
 洗濯機も捨てがたいんだが。新しい家電は消費電力が段違いだし……」

 へたりこんだまま呟いた竜児は、ふと顔を上げた。

「大河お前何してんだ?」
「ああ!?」

 大河は吼えた。

「かっ! 見て分かんないの脳みそスポンジ犬がっ! 見たままのこと言ってみな!」
「大河がご飯を炊こうとしている」
「そのとおり!」

 間。
 誇らしげにふんぞり返った大河と訝しげに猫背の竜児。しばし見つめあう。

「ええっ!?」
「遅い!」

 どこかで見たくだりを繰り返して、竜児はおののき、大河は一足飛び。竜児の膝を踏み台に膝蹴りをヒットさせる。

「シャイニングウィザード……」
「ちょっと竜児! 卵が落ちる!」
「おう! いかん!」

 飛びかけた意識を主夫の魂が呼び戻す。

「あーん竜ちゃん、おっかえりぃ」

 ドタバタしているうちに湯上がり泰子が登場する。

「や〜ん! 大河ちゃんご飯炊けたの〜」
「うん! あとはスイッチを入れるだけだよ」
「炊けてはいないな」
「うっさいのよあんたは! 細かい男はみじん切りにするよ!」
「乱切りしかできねえくせに……」

 腿のあたりを踏みつけていた小さな足をどかし、立ち上がる。何とかショックからは立ち直りつつあった。
一応大河に米を研がせたことは以前にもあったのだ。かといってまさか自主的に始めるとは思いもよらなかったが。
 何が目的だ。言いかけて、竜児は言葉を呑み込む。先ほどの北村の台詞がよぎった。
 見返りは、何か具体的なものではないのかもしれない。亜美に対しては先日、
プロレスショーの役を代わってもらうために無理矢理お菓子を食べさせる強引な手口に及びはしたが、
今まで竜児もしょっちゅうそんな目にあったかと言うと、そうでもなかった。
代わりに父親に会わせられたときは、実際頼みを聞いたあとに皿洗いをしてくれたし
(あれはあれで強引ではあったが、そもそも『代わりに何かするから』なんて大河に言わしめた状況が特殊だった)、
もとより竜児は、別に見返りがなくとも大河の頼みなら大概聞いてやっているのだ。
 大河だって、竜児に対しては遠慮会釈なしにあれをせいこれをせいと正当な権利であるかのように命じるだけだったではないか。
 今のところ、言葉では何も見返りも求められてはいない。大河が無言実行で家事を買ってでただけである。
見れば昼休みの発言どおり流しには朝食の食器は残っていないし、泰子の昼食の皿さえない。
しかも洗った食器はきちんと拭いてしまわれているようだった。
 理由を問えば逆ギレされかねないほどに。さも当然とばかりに。


「ほれ、あんたはさっさと晩ご飯を作る!」
「お、おう……」

 調子が狂ってしまう。手伝ってくれようとする気持ちは嬉しいのだが、意外さと驚きが先行して
どうリアクションをとったらいいものやら分からない。
 そしてまた、手伝ってくれながらも、大河の態度はほとんど半ギレというか、やけっぱちというか、
必要以上にとげとげしいのだった。竜児が見つめると、何やら慌てたように目を逸らす大河。
もしかしたら照れているのではないだろうか。素直に、何か見返りがほしいわけではなく
ただ単純に手伝いたいと言うのが恥ずかしくて、竜児に対して乱暴な口を聞くのではないだろうか。
 というのが竜児の考えで、推測から結論にまでたどりつくこともないまま、やっと身体が動きはじめて、
エコバッグから今日使わないものを出して冷蔵庫へしまう。
 竜児の考えは、半分正解で、半分不正解だった。
 照れ隠しなのは本当、手伝いたいというのも本当なのだ。ただ、底に流れる思惑は少し事情が異なっていたのだが。
 着替えて手を洗った竜児を待っていたのは、踏み台の上に仁王立ちの大河。それでやっと頭が竜児の鼻まで届くくらいだったが、
いかにも意気軒昂、どこからでもかかってこいといった様子で、腰に手をあてている。

「さあ!」

 大河はその手を大きく広げて、竜児に向かって伸ばす。

「…………?」

 竜児は眉根を寄せて首を捻ること三秒。自信なさげに大河の腋の下に手を入れ、ひょいと持ち上げる。

「高い高ーい……?」
「わーい、高ーい。ひゃっほー……って! んなわきゃあるか!」

 ノリツッコミのアペリティフ。メインディッシュは竜児の顔面両足挟み風。軽々と持ち上がった両足が、
竜児の顔を押し潰さんばかりの勢いで挟んだ。挟んだ上で、猫が肢を突っ張るように目いっぱいその脚を伸ばそうとする。

「危ね、危ねえって、お前が落ちるだろ!」
「黙ってお放し!」

 竜児に持ち上げられたまま、その顔面を両足でぐりぐりこね回す。
 俺はうどんじゃねえ! と咽喉元まで出かかる竜児。

「うえっ! 口の中に入っちゃった! ばっちい!」

 この世の終わりのような顔で脚を縮めた大河を、竜児は踏み台の上に戻してやった。

「なんだよ。何なんだよ。一体何がしてえんだお前は!」
「はーったくもう、これだからあんたは低能鈍犬野郎なのよ! やっちゃん! やっちゃんからも何とか言ってやって!」

 大河は竜児越しに居間に呼びかけた。竜児が振り返ると、泰子は既に目のやり場に困るお仕事服に着替え、
鏡に向かって武装(化粧)している最中だった。若い母親から夜の蝶への華麗なる変身中、もとい製作工程である。
素顔だってまだまだ若いのだが、息子としては、当初などは化粧前後のギャップに、化けるもんだよなあという感想を
禁じえないまま十余年が過ぎ、今ではそのけばけばしいメイクの仮面もまた母の顔として認識されている。
 呼ばれて泰子はふにゃあっと笑い、

「そうだよぉ竜ちゃん、大河ちゃんをよぉ〜っく見てごらん」

 言われるがままに大河に視線を戻す竜児。凶悪な外見とは裏腹に従順な男である。
 大河は見られて、フンッ、とない胸を張る。いつもと違うことと言えば。一つ、髪を結わえている。
泰子に結ってもらったのだろう。もう一つ、腕まくりをしている。最後に一つ、台所に立っている。
 ポンと掌を打つ竜児。

「ごめん全然分かんねえ」

 眼前で大河がよろめき、背後で泰子の倒れる音が聞こえた。

「あ、あんたねえ!」
「いや、いやいや、さすがに冗談。分かった、分かったよ。大河、お前、夕飯の支度を手伝ってくれようってんだな?」
「オウ! イエス!」

 なぜかアメリカンなリアクションでハイタッチ。

「おう」

 大河が笑う。それだけで胸にじんわりと温かいものが広がるのだ。竜児は戸惑いつつもこの決して不快ではない気持ちに、
やっと気を取りなおすことができた。四の五の考えても分からないものは分からない。大河に関して確かなのは、いつだって一つのことだ。

「この私が手伝ってやるからにはただでは済まさないよ! さあじゃんじゃんじゃかじゃか手伝わせなさい!」
「いや、普通に済ましてくれよ」

 竜児は自分のエプロンを外して、代わりに大河に着けてやる。

「ちょっと、要らないわよ別に。でっかいし」
「いいから着けとけ、その死ぬほど高そうな服が汚れちまったらもったいない」
「……ったく、せせこましいんだから」
 言いつつ、大河はなすがままにさせている。後ろを向かせて紐を結ぶ。相変わらず世話をされ慣れているというか、
竜児に世話を焼かれるときは当たり前のように焼かれっぱなしだった。
 当たり前なのだ。大河にも竜児にも、その関係が当たり前。昼休み以外ほとんど一緒に過ごさなかったせいか、
大河の後姿に、いつも目線の下にあるふわふわした頭頂部にひどく安心する。ざわついていた心が、それだけで落ち着いてしまう。
 核心はすぐ目の前にあるような気がした。それは今までずっと、手の届くところにあったのだ。

「よし、と。じゃあそうだな、卵を……いや、お前、サラダ作れるって言ってたよな。
 レタスを食べやすい大きさにちぎって冷水にさらしてくれ」
「卵? まいいか。任しときな!」

 大河は張り切ってレタスをちぎりだす。食べやすい大きさと言うか、どう見ても考えなしのランダムカットだったが、
竜児は黙ってボウルを出してやり、自分は手鍋を出して卵を茹ではじめる。
 ドレッシングをかき混ぜる。箸を並べる。サラダやおかずを盛りつける。大河のお手伝いといえば、
火も包丁も使わない、せいぜいそんなところだったけれど、それでも大河は真剣そのもの。竜児だって、鼻歌が出るくらいに楽しかった。
 夕飯を済ませて泰子を見送り、洗った食器を大河に拭いてもらいつつ後片づけを済ませる。
その間も大河は、竜児、お皿洗うの上手いんだね、とか、初めてまともに手伝いをして、やることなすことが新鮮な様子で、
飽きもせず竜児竜児とはしゃいでいた。


 はしゃぎすぎた――というのは、片づけのあと湯呑みを掴んでテーブルに突っ伏した大河の口の中で噛み殺した呟きだった。全然そんなつもりはなかったのだ。
 完全に、これじゃルール違反だ。

「なんだ、疲れちまったのか」
「……そんなようなもんね」

 大河は今朝実乃梨と交わした会話を思い出していた。大河は、実乃梨と共に、自分の欲しいものを認めて、
それを手に入れるために全力を尽くすことを約束したのだ。
 けれどもそれは、お互い口には出さなかったけれど、そもそもからしてかなり大きなハンデがあった。
もとより、前提条件から不公平なのだ。大河は、周回遅れの実乃梨に向かって、一緒にゴールを目指そうと申し出たのだ。
無論実乃梨もそれは納得ずくで、その勝負を受けて立ったのだが。
 大河はもうそのゴールに手が届く位置に居る。実乃梨も叫べばきっとその声はゴールまで届くだろう。
 けれど、それが果たして、間に合うのかどうか。
 つまり大河は今、既に確信があったのだ。竜児の実乃梨に対する想いは本物だったが、それはもう絶対とは言い切れない。
秘めてきた想いを嘘にはできるはずもないけれど、結局は明かされていない、通じあったことのない気持ちなのだ。
二人の目が合ったときには、実乃梨が竜児の存在を感じはじめたときには、大河は竜児のスペースを
概ね占領してしまっていた。実乃梨が自分の気持ちを明かしたとき、竜児はそれにどう応えるというのだろう。
薄々は竜児もその自己矛盾に気づいているはずだ。
 竜児も大河も、遠くを見ながら歩いていたら、いつの間にか二人して同じ、ひどく居心地のいい場所に立ち止まっていたのだ。
その存在を、何物に代えても守りたいほどの場所に。


 でも大河の心の中には、相反する気持ちが存在していて、竜児を独占したい反面、実乃梨と上手くいってほしいとも
本気で願っていたのだ。それは今になっても、消えることなくしこりとなって小さな胸の中に残っている。
 だからこそ、大河は実乃梨の手を引っ張った。それはつまるところ、大河の自己満足なのかもしれない。
自分が納得したいだけなのかもしれなかったが、そんなことはきっと承知で、実乃梨はコースに戻ってきたのだろう。
実乃梨もまた、きっと、納得が欲しいのだ。
 どちらにしても、このどうしようもなく大きく口を開けた溝を、大河は少しでも埋めたいと思い、
考えに考えぬいて、自分の中で一つのルールを作ったのだった。
 作ったつもりだった。

「……失敗した」
「なにがだよ。サラダ、ちゃんとうまくできたじゃねえか。食器も割らなかったし、ケガも」
「あー……違うのよ。なんでもない」

 勝負は勝負。だからアプローチはする。竜児の目を自分に向けさせる努力はする。でも、態度を変えるのはよそう。
大河はそう自分を律したのだった。正直に言ってしまえば変えるといってもどんな態度をとったらいいかすら分からないが、
取り敢えず現状維持。精一杯つんけんしてやろう、と思ったのだ。
 思ったのだが、どうにも上手くいかなかった。竜児の手伝いをするのが思いのほか楽しくて、ついはしゃいで、
最初は維持できていたツン成分が、途中からどこかへ行ってしまった。つくづく竜児と一緒に居るのが好きなのだと
思い知らされただけだった。
 竜児は竜児でご機嫌である。どれだけ少なく見積もっても、大河が手伝いをしたということ以上に
気分よさそうにしている。当然だろう。竜児はいつでも優しいが、大河が態度を和らげれば、
竜児だって眉間にシワを寄せる必要はないのだ。目つきばかりはそれこそどうしようもないが。
 大河の目論見では、あくまでクールに、あんたが余りにも哀れだから手伝ってやるわよ、
なんていう感じで淡々と手伝うつもりだったのだ。
 なのに、エプロンを着けてもらった辺りから舞い上がってしまった。触られてすらいないのに、
竜児に世話を焼かれているというだけで、ただそれだけのことでこの上なく幸せだったのだ。
しまりのない口許を見られずに済んだのも、それこそ幸いとしか言いようがなかった。
 向いていないのだ。素直じゃないのは自分の専売特許だと思っていた。というより逆に、
これまでは素直に自分の気持ちを表す術を知らなかったのに、一度あっさりとその気持ちを認めてしまってからは、
つかえが取れたように感情がストレートに零れだしそうになる。
 だって仕方がない。相手は竜児なのだ。素直に考えてみれば、竜児は最高だ。優しいし、面倒見はいいし、
気遣いもできるし、料理も上手、ちょっとくらい鈍感であったからといって、そんなのは大した問題じゃない。
 何より一番大事なことは、大河が安心してその傍らに居られるということだ。
 信じがたいことだ。まさか、自分が心を許せる男がいるなんて考えもしなかった。北村のことは好きではあったが、
竜児は別問題だった。大河にとって竜児は、陽だまりみたいなものなのだ。竜児と一緒なら、胸が苦しくない。
竜児と一緒なら、身体の力を抜ける。安心できるのだった。
 そして何より、自分はここに居ていいのだと思うことができた。竜児だけは、自分の全てを認めて、受け止めてくれる。
 そんなことは最初から分かっていたのに。何をしていたのだろう。意地を張って、強がって、喧嘩して、傷つけて。
戻ってくる場所は、竜児の側以外にはどこにもなかったのに。
 全然ダメだ。理性ではどう思っていようと、本心は偽れない。肋骨の中で暴れているこの感情は、
どんなズルをしてでも竜児を手に入れろと喚いている。早く早く、今すぐにと大河を急きたてる。
 竜児が好きなのだ。もうどうしようもない。

「ああ、そういえばさ」
「……なあによ」
「北村のことだけど」

「え」

 ああ。
 大河は頭を上げた。

「うっそ、やだ、うわ、ひどい。私忘れてた」

 愕然たる思いで竜児を見る。向こうも実に気まずそうな顔で大河を見返している。

「おいおい……って、まあ俺も人のこと言えねえけど」
「……言葉もないわ……」
「なんか……なんだろうな、いっぱいいっぱいだったもんな……」

 仲よく明後日の方向を見つめること暫し。
 ごめんね、北村くん。
 すまねえ、北村。

「で、北村くん」
「ああ。なんかよく分かんねえんだよ」
「はあ!?」

 竜児は下校時の北村の様子を話した。もちろん自分と大河に関することは巧妙にぼかしながらではあったが。

「まあ、なんだかよく分かんねえんだけど、いいんじゃねえかな。取り敢えず元気にはなったみたいだし(?)」
「あんたね……」
「しっかし一番驚いたのは北村に好きな人がいるってことだよ。ある意味では納得って感じだが」
「……だから振られたって言いたいわけ」
「え!? い、いやそういうわけじゃ……」

 竜児はうろたえたが、何てことのない顔をした大河を見て、意外そうに目を細めた。

「……驚かないんだな」
「まあね。忘れちゃってるくらいだし」
「ふう……ん」

 告白してくる。そう宣言し、北村は学校へ駆け戻っていった。
 つまり、その想い人は校内の人物で、放課後も学校に残っている人ということだ。
 竜児はさっぱり思いつかなかったけれど、大河は何となく察しがついていた。

「告白……したのかな」
「したんじゃねえかな。あいつのことだし」

 目が合って、揺らいで、どういうわけかそのまま絡みあう。
 いけないいけない。大河は頬杖で顔を隠そうとするが、竜児から視線を外すことができない。
 竜児は竜児で、顔が熱くなる。
 大河には話さなかったが、竜児もそれに関しては答えてしまっているのだ。それも肯定の返事を。
 二人の気持ちは、お互いの親友だけが知っていて、同時に、当人同士も確かめあえないままに感づいている。
 それぞれの思惑で、たったひと言が、まだ言えないのだ。


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