唇を重ねられる。竜児が慌てて引き剥がそうとするが、大河はその小さな身体か
らは想像もつかない力で竜児に抱き着いていて離れない。
「……ぶはっ」
長いキスから開放された竜児は、まず第一に酸素を求めて口をぱくつかせた。第
二にとろ〜んとした表情の大河を睨みつけた。ただでさえ目付きが悪い竜児の睨
みは、相手を怖がらせるには充分な効果を発揮するのだが、今の大河は見つめら
れたという事が嬉しいらしく表情をさらにとろ〜んとさせた。
一言二言説教を垂れようとしていた竜児は、その変化に気付き、出かかった文句
が自分の中で融解されるのを感じた。そんな事をしても無駄だと…これは夢だと
気付いたからだ。
大河は北村が好きだ。だから、自分とキスすることもこんな表情(かお)を向けて
くれる事も無い。これは全て幻で…自身の望みだと。
こんなものを夢で見る自分が情けなくなり、つーっと涙が頬を伝う。こんなに情
けないのに、夢の中でなら抱いても良いんじゃないか?と少なからず思っている
自分への苛立ちも涙に変わってポタポタ落ちる。
「こんなの…駄目だ…だめなんだよ……」
それでも、欲求に少しづつ傾いている自分がいる。この夢が覚めるなら今覚めて
くれと願った。踏み出してしまったら戻れないと確信じみたものがあったからだ。

「りゅうじ…」
何処までも儚く、切なく、甘い声で大河が名前を呼ぶ。竜児が顔を上げると、目
と鼻の先に大河の顔があり、竜児の顔の赤みが野火のように素早く広がっていく。

真っ赤になった竜児の頬に大河の小さな手が触れ、そしてゆっくりと顔が近づい
ていく。
「――ッ!」
大河がキスしようとするのを寸前で正気に戻った竜児が止める。
「大河…駄目だ。堕ちちまう」
抵抗する竜児だが、その力は弱い。ぐっと大河に押され、簡単に床に倒れてしま
う。
自分の中の想いが濁流となって身体の中を流れ、抑制しようとする心をその流れ
に次々と飲み込んで行く。もう自分を抑える事も夢が覚める事も無いと悟った竜
児は、現実の大河に向けて
「ごめんな…大河……ごめんな」
そう謝って、夢の中の大河のキスを受け入れた。




「んっ…んん…」
「ん……」
クチュクチュと二人の口の間から音が漏れる。
舌を絡めお互いの唾液を交換し、貪るようにしてお互いの唇に吸い付く。
(…甘い)
キスを受け入れた時、竜児はそう感じた。夢の中の大河の唾液はウォカのように
あっという間に酔郷的にさせ、媚薬のように脳を蕩かした。
「―!!」
長いキスの最中、いつの間にか竜児の顔から離れていた手が、硬くなった竜児の
ソレに触れる。
軽く触れただけ。それも服の上からの軽いタッチだったが、全身に流れる快感に
竜児の身体がビクンと揺れる。
「たい――
一端離れ、喋りかけた竜児の口を大河の唇が塞ぎ、竜児の口内に再び舌を侵入さ
せてなめ回す。その間にも、大河はその小さな手を竜児のジーンズの中へと滑ら
せ、そして直接竜児のモノを包んだ。
「んんっ!」
手の温もりと優しく包む感触。そしてなにより好きな人に触れられているという
興奮が、竜児の感度を何倍にも跳ね上げ、竜児の身体が先ほどよりも大きく揺れ
る。
服の下で竜児のモノを掴んだ大河の手がゆっくりと上下する。
一回ごとに大きくなる快感の波と蕩けるようなキスを浴びる中、竜児の手は自然
と大河の秘部へ下りてゆき、グチュグチュに濡れているそこをそっと撫でた。
「ぁっ」
大河の唇が竜児の口から離れ、嬌声を漏らす。小さな身体はビクンと痙攣を起こ
し、息使いがさらに官能的になる。
その様子に竜児の胸の中の熱源がドクンと脈打ち、芯から竜児を焦がしていく。
「大河…だめだ。もう我慢できねぇ……」
ジーンズのチャクを下げ、そこから出したモノを大河の入口に当てる。
(…熱い!)
そこは、竜児の熱源から発せられる熱量を遥かに凌駕する熱さで、絶頂に達した
わけでもないのに、お互いがビクンと痙攣する。
「りゅうじぃぃぃ!」
大河が甘い声を上げながら竜児に抱き着く。竜児も強く抱きしめて、可能な限り
お互いの熱を感じた。竜児は大河の中へゆっくりと…本当にゆっくりと体重をか
けてゆく。
「ん、ぁあっ!好きぃ!ぁっ…りゅうじぃ…りゅうじぃい!」
好きという言葉に竜児の胸の中で、流された筈の罪悪感が流れに逆らって浮かん
でくる。
(大河が好きなのは北村だ…。こんなことしたって、自分も大河も苦しめるだけ。
これは不毛だ。不毛で邪悪な行いだ……)
ずずっと自ら腰を徐々に密着させようとする大河の動きを止める。
「駄目だ…駄目なんだぁぁあ!」

大河が霧散する。目の前に現れたのは何時もと変わらない自分の部屋の天井だっ
た。
「ハァ…俺は…なんつぅ夢を……」
情けなさがまた沸き上がり、じわりと涙腺が緩む。慌ててそれを拭くと、頬に既
に涙の痕があるのが判った。
「寝ながら泣いてたのか…」
泣くなら、例え夢の中であったとしてもヤるなよと軽く毒づく。
それから、少し気になって隣に住む大河の様子を見る為にと窓を開けようと立ち
上がったその瞬間。
「うわっ!」
強烈な快感が下半身を貫き、腰から砕けて倒れる。ズボンの中を確認すると、今
にもはち切れそうな自分の息子の姿が。勿論、朝立ちだけでここまでなる筈が無
い。
大きくため息をつき、学校行くまでに収まるかとか、大河と普通に接する事がで
きるかどうかをもう一度布団に入って考えた。






夢の中でだけなら。夢の中だけでなら何をしても自由で、しかも自分の思い通り
になる。自分の理想郷がそこには広がっているのだ。それに手を伸ばして何が悪
いのか。
逢坂大河はここ数週間で、虚しくなる寝起きをちょとでも良くしようと、そう自
分に言い聞かせる事が日常と化していた。
だが、今日は自分に言い聞かせる事もせず、自分の心音と身体の疼きに意識を奪
われていた。
「りゅうじ……」
恋い焦がれている相手の名前を空に呟き、手を下の方へと伸ばす。
「んっ…」
普段は例え愛する竜児が夢の中に現れてもこんなに虚しくなる事も、こんなに身
体が疼く事も無い。
逢坂大河がいつからか見る夢の竜児は、そっと大河を抱きしめ、「好き」と言っ
てくれる。大河は、夢の中の竜児の温もりに包まれ、そしていつの間にか深い眠
りに入って夢が消え、朝目覚める。それだけだったのだ。そんな夢をずっと見続
けて来たのだ。
だが、昨日は違った。昨日の竜児は大河に深くて甘美なキスを何回も行い、そし
て「好き」ではなく「愛してる」と囁き、最後まで行おうとしたのだ。結局は、
大河が竜児のモノが入口に当たっただけでイッてしまって目が覚めた。なので、
挿入まではいかなかったのだ。
「んっ…ぁ…あっ…」
クチュクチュと自分の性器を弄りながら、大河は愛しい人の顔と「愛してる」の
響きを浮かべる。
「ぁあ!んっ…ぁ…あんっ」
それだけでドクンと脈が上がり、一気に感度が上がる。それに合わせて、涙が大
河の綺麗な頬を伝う。
それは罪悪感から。彼女が好いている高須竜児という男の視線は彼女の親友であ
る櫛枝実乃梨に向けらている。そして、実乃梨もまた、竜児が好きである事を感
じていた。証拠は無いが、長年付き添って来たのだ。そのぐらいの事は肌で感じ
ていた。
折角二人が両想いなのに、自分が夢や妄想の中限定だが竜児を奪っている。それ
が大河の罪悪感。
「あっ…あんっ…んっ…んぁあ…」
それを抱きながらも、一度動いてしまった指は、もはやこの疼きが収まらなけれ
ば止まらない。泣きながらの自慰は段々と激しさを増していく。
「ん、ぁあっ!好きぃ!ぁっ…りゅうじぃ…りゅうじぃい!」
そして絶頂を迎える。激しく潮を吹き、噴き上がる快感に身体を反らしてビクビ
クと痙攣する。
「うっ…うぅ…り゛ゅうじぃ」
そして、彼女の心に快感の余韻に浸る間もなく、絶望と言った方がしっくりくる
ほどの空漠感が溢れてくる。溢れる涙に竜児への想いも含んで流して、と祈る大
河だが、それこそ虚しき願いであった。
「駄目だ…駄目なんだぁぁあ!」



「ふぇっ!?」
泣く大河の耳に窓を通してだが竜児の声が届き、二つの意味でドキンとする。
どちらの意味も状況を知っている者から見れば大層判りやすい。まだ色恋疎い小
学生でも、一つは判るであろう見やすさだ。
(き、ききききき聞かれた!?)
大河の中で引きかけていた動機が再び脈打つ。もし、聞かれていたなら、これは
一大事だ。夢の内容だけでも竜児に会いづらいのに、そうならば恥ずかしさで会
えなくなる。優しい竜児の事だから聞いてなかった事にしてくれそうだが、それ
だけで、この沸騰しそうな羞恥心は消えはしないだろう。
大河の悪い癖で、見られて恥ずかしくなるような場合に陥った際に隠れようとす
るというのが在る。今もあたふたと狼狽しつつ、隠れ家を真っ先に目に着いたベ
ッドの下に決め、潜り込もうとするのだが、ここで大きな障害が生まれる。
「は、はわっ!」
立ち上がろうとしても下半身に力が全く入らず、コテンとこけてしまうのである。
つまり、快感を受けすぎたため、腰が砕けてしまっているのである。
このマイナスの状況があらゆる負のパターンを少女に浮かばせる。その無修正の
妄想は、少女を自衛へと導く。
「りゅ、りゅりゅりゅうじー!」
「お、おおう。ど、どうした大河」
開けられない窓を突き抜けて竜児に届くように、精一杯の声量で彼を呼ぶ。それ
は、望み通り届いたようで、竜児もかなりの声で返してくる。
「きき、き、き、き今日は、起こしに来なくてい、いいから!あああ後、ご、ご
はんもいらない!」
一息に吐き出し、ぜぇぜぇと酸素を貪欲に吸いつつ竜児の返答を待つ。
「や、俺もき、今日はちょって訳ありで無理なんだよ。まぁ、お前も都合悪いな
らちょうど重なって良かったつーか、うん」
「なによ…それ……」
大河の胸に苦い悲しみが広がる。確かに断りを入れたのは自分からだったが、そ
れを向こうから言われるのはまるで捨てられたような感覚になる。
また、涙が溢れて来て、ぼふっと布団に顔を埋める。
(泣くな泣くな泣くなぁぁあ!)
そして、乱暴に顔を擦り付ける。摩擦で、元々繊細な大河の肌は直ぐにヒリヒリ
と痛みだしたが、今はこの悲しみを少しでも和らげるものが欲しくてさらにそれ
を欲した。
(苦しい…苦しいよ、竜児)
会いたくて狂いそうだが、会えば狂ってしまう。そんな、最大級の葛藤の狭間に
彼女は立たされている。欲求に引っ張られているのを友情という垣根が傾くのを
阻止している。
重りに圧迫される胸を彼女はぎゅっと抱きしめた。






2度寝を最後にしたのは何時だったろうか。
愁眠から覚めた竜児は、その厳つい顔を思い切りしかめながらそんな事を考えて
いた。
今日は学校には一切連絡せずにサボった。いや、今から行けばまだ遅刻だけで済
む時間なのだが、竜児の気持ちとしては例え親友に必死の説得をされたとしても
行かないつもりであった。
ヤンキー高須の名に恥じぬ行いだな、とそんな自嘲的な事も浮かぶ。
興奮状態は全身を蝕む倦怠感と引き替えに既に収まっている。体の状態だけなら、
学校に行ってもなんら差し支えの無い状態だ。
問題は心にある。
倦怠感もそうだが、あんな夢を見た手前、普通に皆と接することが出来るかどう
かだ。勿論、大河に対しては出来るかどうかではなく確実に意識した対応をして
しまうだろう。
そう確信したのは、愁眠前。大河が自分の名前を呼んだ時である。あの時、普段
と何も変わらない大河の声にまだ興奮状態であった肉棒が、大きく反応したのだ。

その後の大河の発言には安堵と悲愴を感じた。来たら大層危ない状況だったのは
事実で、それを防げたのは喜ばしい事だ。だが、向こうから特に理由も言わずに
ばっさり切られたのには、心が刔られたようになった。
それから、皆との友情や大河とこれからどうすらかなどを悶々と悩み続け、寝て
起きたら元通りという結論に達し、2度寝したのである。
眠気は完全に消え去ったのだが、いまいち起き上がる気力も生まれず、ただ虚空
を見つめて色んな事を考えている。先程の2度寝したのはいつかという自問も、
そんな虚しい中で生まれた。
しかし、世の中に絶望して精神を何処ぞに落としてしまった訳でもないのに、そ
んな状態が維持される筈は無かった。段々と煩悩が思考の中に混じってくる。そ
の煩悩がまた華やかなもので、うっとおしいと思う中に自分の脳ながら見事と言
わざるを得ないものまで混じっていた。
(ネコ耳は反則だな…)
その中でも特に出来のよかったものに感嘆の思いを浮かべる。
数秒後。なにかが間違ってる事に気付いた竜児は、煩悩を振り飛ばすように荒だ
たしく寝返りをうつ。なんでもいいから、集中出来るような物はないかと必死に
考える。だが、とある物の存在に気付いて、そんなものは無いんだと認識させら
れた。
その存在とは、畳みについているシミや壁に生えた黴といった所謂汚れである。
普段の自分なら掃除をしたくてウズウズする筈だが、今は汚れてるな、ぐらいに
しか思えない。客観的に見れば普段の掃除愛者ぶりが異常であって、今の竜児は
いたって平凡な高校生の姿なのだが、竜児主観では掃除に時めかない自分など異
常である。



薄暗い部屋をさらに暗くするような思いため息が吐き出される。竜児の表情はど
こか投げやりになり、目を暝って完全な妄想の世界に入る。
無心にはなれない。なにかをしようという気力も湧かない。なににも時めかない。
出来るのは記憶を漁る事。だが、それにも時折大河の姿が浮かぶ。それを否定
する自分と望む自分に挟まれて胸が締め付けられる。それが辛く、それはいつか
必ずバランスを崩す。ならば、もういっそのこと今堕ちてしまえと思ったのであ
る。
瞼の裏に思い起こすのは無論大河である。記憶から引っ張って来た大河や妄想の
大河。その全てが輝かしく、近づいたらイカロスの二の舞になってしまいそうだ
った。
竜児の心は血を流し、痛みに悲鳴を上げるが、それを掻き消す程の喜びが溢れ、
痛みを麻痺させる心地よい温かさが雨となって降り注ぐ。堕ちた後悔等微塵も感
じはしない。寧ろ今まで堕ちることを必死に阻んで来た自分に後悔した。
これで良かったと竜児は微笑む。瞼の裏では大河も一緒に笑ってくれている。心
の中で偽りの喜びが形成されてゆく。
「大河!」
愛する人の名前を命一杯叫ぶ。偽りの大河は赤らんだ顔で振り向いて、笑いなが
ら答える。
「おはよう、北村くん」
その一言で竜児の心の深層に封じられていた罪悪感が、それこそ竜のような咆哮
をあげる。喜びが吹き飛び、雨は性質を変え、傷は生き物のように脈打ちながら
血を噴き出し、これこそが有るべき姿だと言っているような笑い声が響く。響く
響く響く。
「あぁぁぁあぁあ゛あ゛あ゛あ゛!」
思わず布団から跳ね起きる。心臓が早鐘を打ち、冷たくて無機質な汗が流れる。
「俺は俺は俺はぁぁあ!」
一発、二発と竜児の拳が壁へ向かう。間接は軋み、皮が裂け、血の跡が点々と畳
みにも壁にも自分にもつく。痛くない筈が無かった。それでも、竜児は溢れる感
情のままにひたすらに殴り続けた。
漸くそれが止まった時には、竜児の手は骨が露出していた。あまりの鈍痛と疼痛
に思わず胃酸を吐く。
そして気付く。
「なんだ…俺…立てるじゃねぇか……」
口から垂れる胃酸の残りをグイと拭き、微笑む。動けるなら、出来る事はいくら
でもある。
先程まで四肢をもがれたバッタのようになっていた男は、無尽蔵な役割を自分に
課してふらふらと歩きだした。






ワンコール
ベッドの上の人形はぴくりともしない。
ツーコール
人形が微かに揺れる。
スリーコール
「うるさぁぁぁい!」
華奢な手の何処にそんなバネが仕込まれているのかと疑いたくなる程の勢いで、
人形の腕が鳴り止まぬ携帯を捉える。
ベッドの上から弾き出され、ハイスピードで壁にぶつかりバッテリーカバーが外
れる。反動で僅かに上昇した携帯は、その後自由落下に従って床に激突。その際
の衝撃でバッテリーと本体が遊離し、活動を休止した。
「眠れないじゃない!」
そういう彼女は2度寝を決めてから、まだ一秒足りとも眠っていない。
理由は至極簡単な事で、眠ってしまえば、またあの虚夢を見てしまいそうで怖か
ったのだ。欲望に溺れるのはとても簡単な事で、ついその泉に足を浸してしまう。
そこまでは良い。問題は、回数を重ねれば人は必ず冒険的になるということ。
足が膝までに変わり、膝が腰までに、腰が胸までに、そしてやがて全身を泉に浸
してしまう。そうすれば、もう這い上がっては来れないのだ。
電話の無残な最後をじっくりと見た大河は、虚夢でもいいから縋りたいという欲
求に負け、再びベッドへと潜ってしまう。その中で、再び理性と欲の応酬を繰り
広げる…と思われたが、大河はある事に気付いて跳ね起きた。
「た、立てる……」
彼女が長らく麻薬のような夢の誘いに抗った時間は、決して無駄には無らなかっ
た。

動けるならば話しが早いと、いい加減な欲求を生じさせる魔の部屋から素早く抜
け出す。休止中の携帯が気になったが、振り返ればまた絡めとられそうだったの
で、ここは潔く見捨てる道を選んだ。
寝室から抜け出すと何故か開放された気分になり、思わず笑みが浮かぶ。たった
一つの夢如きで、ここまで縛られるのだから人は面白い。
眠りが苦しい人間は、重度の精神病である。その病の大半を占めるのは鬱病や精
神的外傷であるらしい。恋患いはどちらにも入らないが、重度の精神病なのだろ
うかと考える。そして、それは無いと大河は結論を出す。では、自分の気持ちは
何なのか。重度の病気なのは間違いないが、しっくり来る言葉が見つからない。
「うっ…」
大河が顔を歪ませ、腹を抱えてうずくまる。これは決して腹痛を起こしているわ
けでは無い。純粋に空腹なのだ。
大河は、自分でもこういう所は豪胆であると感じる。あれだけ泣いたのだから、
少しは食欲を失うのが妥当だろうに自分はそれが無い。なにかと飯を抜きたがる
最近の若者と比べるなら、大河はたいそう健康的であるから、この豪胆は喜ばし
くもある。だが、大河的にはすこし情けない。
食欲が性欲と結び付いていなくて本当に良かったと大河は思う。今、生物として
最大の充足を得られる原始的な欲求の二つが封じられている。夢は欲求が強けれ
ば強いほど、その明晰さを増していく。満たされずにただひたすらに増え行く性
欲を満たそうとする夢は、さらに増やしてしまうくせに明晰過ぎるのだ。
残りの食欲を満たす上で何が必要かと問えば、勿論食事だ。こんな当たり前で簡
単な事が大河の前に壁としてそびえ立つ。
高級マンションの広々とした一室を一人暮らしに使っており、そこは隅々まで掃
除が行き届いている。そんな部屋に住んでいるというのに、冷蔵庫にはジュース
と菓子類しか入っていないのだ。
食事はお隣りで用意される生活を送っていたのだから仕方がない。ついでに言う
と、逢坂家の家事もお隣りの目付きが悪い長男がやってくれていたので、大河自
身に家事の心得はあまり無い。
パジャマを脱ぎ散らかし、クローゼットから比較的動きやすそうな服を選んで着
替える。
久々にコンビニ弁当を食うのかと思うと、思わず憂いの溜息が漏れた。






「あむっ」
口を大きく開けてコンビニで買ってきたおにぎりにかじりつく。小さな手に包ま
れたおにぎりは、二、三口目でだいたいは消えた。
「味がしない…」
一人で食べる食事は無味。それでも腹は膨れるのだから、取り敢えずは食べ続け
た。
最後のおにぎりを口に頬張り、お茶で嚥下する。満腹ではないが、7分目程には
満たされて空腹感はもう感じない。だが、やはり足りない。味のある飯が恋しか
った。
明日になればまた食べれる。今日だけの我慢だと自分に言い聞かせて、湧き上が
る孤独感を振り払う。
そんな大河の目の前にコツンと木の実が落ちる。上を見上げて、実を落としてき
た木を眺望する。齢三百を越えているであろうその木は、それでもまだ葉を生い
茂らせ実をならし、鳥や虫や人をも受け入れている。
ここは大河の家では無い。とある神社の境内だ。実は、大河が家を出た本筋の理
由はこちらにある。
ゴミを境内に残さぬよう、散らかしたままだったおにぎりの包装をかき集めてビ
ニール袋に入れ、さらにそれをポケットの中の財布と入れ換える。そして財布か
ら百円を取り出して賽銭箱へと投げ入れた。
(竜児、早くみのりんとくっついてよ。でないと私が狂っちゃう……)
祈る相手は神では無い。今此処にはいない竜児だ。
黄泉の船に乗るには金がいる。死者にまで金をせびるとは、神とはなんと亡者で
残酷な考えをお持ちなのか。そんな相手が数百円で願いを叶えてくれるとは思え
ない。だが、気持ちの伝聞をするだけなら百円でもしてくれそうだと思うのだ。
「たい…が…?」
心臓が跳ねる。太陽が真上に輝く時間帯。此処に在るはずの無い声だ。
振り向くと、自分の耳が正常だと判った。ちゃんと存在していた。高須竜児はこ
うして視認出来る位置にいる。
脳の何処かでカチリと鍵が外れる音がした。
「竜児…」
無意識に手が伸びる。だが、その手が竜児に触れる事は無かった。気付いたら、
竜児は大河の手を避けて駆けて行ってしまったのだ。
「待って!待ってよ!」
慌てて追いかけようとするが、肝心の足がおかしい。地面を踏み締めている感覚
も進んでいる感覚もしないのだ。
「行かないでよ竜児。この手を掴んでよ…」
泣きながら先程のお願いの内容を思い出し、自分のした事と言っている事はなん
て矛盾だろうと笑いが零れる。
涙を噛み締めながら、それでも笑おうとする小さな虎は、誰かが支えてやらねば
今にも崩れてしまいそうだった。





恋は天使の面と悪魔の面を持っている。そして、その面は裏表の関係には無い。
所々で僅かなズレを含みながらも重なっている。
世間一般では、恋とは微笑ましいものとして大事にされている。それは、恋の真
理を美しい物として捕らえたいが為の欺瞞。金魚掬いで赤い金魚ばかり狙ってい
るのと同じ事。黒い金魚も認識しているのに脳内でその存在を消しているのだ。
目を凝らすなんて疲れる事はしなくていい。受け入れるなんて重い事でもない。
漠然と捕らえるとか難しく考えなくていい。
恋をした時に自分の素直な気持ちを何処かに血反吐と一緒に吐き出してみればい
い。赤の背景に輝くダイヤと煌めくナイフが散らばる筈だ。此処で自己欺瞞なん
かした奴は天使に堕ちればいい。
天使は温かいスープを差し出す。
悪魔は喉を焼くようなワインを差し出す。
人はどちらも有り難く受け取る。だが、飲み干すときまで同時には出来ない。ど
ちらを先に飲み干すかで。或いはどちらの欲求に堪えるかで人の恋は動く。
竜児は、先にスープを空にしてしまったようだ。


感情の酔いに流されるままにふらふらと大河の家に来てしまっていた。鍵が開い
てる保証なんて何処にも無かったのにだ。自分でも莫迦だと思う。だが、耐えら
れなかった。
神社で見つけた大河の様子がフラッシュバックする。竜児はその時ジョギングを
していた。別に運動の習慣があるわけでは無い。ただ、疲れ果てたら何も見ずに
眠れると考えたからだ。
あの時、竜児は伸ばされた手から逃げた。本音を曝すと、心まで掌握されそうで
怖かったのだ。あの可憐で百合のように白く滑らかな小さな手には、そんな広さ
があるように見えた。
だが、触れられずとも、心はがっちりと掌握されていた。
もっと近くで自分の名を呼んで欲しい。あの柔らかそうな唇に吸い付きたい。あ
の手で身体に触れて欲しい。あの身体を抱きしめたい。そしてなにより自分の証
を刻みたいという欲求がどろりとした液体となってとめどなく溢れ出し、それら
が氾濫するのを止める術がなかった。
気がつけば、竜児の手は寝室のドアにかかっていた。この先にいけば、自分がど
う暴走するかは予想がつく。その恐怖に初めて竜児の動きが止まる。
だが、所詮それは止まるだけだった。こんな小さな恐怖心では、今の竜児を引き
返させるまでには達しない。やがて、その恐怖も薄れ、手がゆっくりとドアのぶ
を回し始めた。



寝室へ足を踏み入れた竜児は一歩目でいきなり体勢を崩し、危うく膝を着きそう
になった。寝室は大河の匂いと存在が強すぎた。入る前から限界までいきり勃っ
ていたアソコが、それを感じた瞬間に一気に弾けてしまったのだ。
一度イキはしたが、今の竜児の欲はそれきりでは治まらない。寧ろ肥大したよう
であった。
未だに勃ったままのイチモツをズボンから出し、それを強く握りしめたまま大河
へと近づく。
ベッドですやすやと眠る大河は、この暗闇の中でも大河自身が発光してるかのよ
うにはっきりと認識出来た。甘い匂い、絹のような髪、描かれたかのように調っ
た眉、つぶらな瞳、愛らしい口、コットンのような肌、細い指……。大河の全て
のパーツと存在が此処に来てさらに竜児の興奮を上げる。
(…大河!)
イチモツを握る手に力を込め、力任せにしごく。気持ち良くなるための自慰では
なく、貪欲な欲望に駆り立てられた自慰。
もう片方の手はそっと大河の胸に添えられた。大河の熱と鼓動と柔らかさを感じ
る。
(ああ!大河!)
手の動きがさらにさらに激しさを増す。快感が荒れ狂う波となって脳にぶつかる。

左手が無意識に大河の乳房と乳首をなでる。あくまで起こさぬように優しく。感
覚的には綿を潰さないように握る感じで優しくだ。
「んっ…んんっ…ぁっ」
大河が漏らすその声で二度目の絶頂を迎える。それでもまだ性欲は治まらず、ま
だドクドクと精液を吐き出すイチモツを尚しごく。今までよりも強く乱暴に全て
を搾り出そうと己の手が動く。
「んっ…りゅうじ……」
甘く切なく刻まれた自分の名に興奮が限界点の限界を越える。致死量の快感が身
体の末端の末端、爪の先にまで走る。
(大河ぁぁぁあ!)
三度目の絶頂で、大河のベッドへ倒れこむ。イチモツから溢れ射出る精液は、三
度目だというのに今まで一番濃く多い。
息を荒げながら思う。最高であったと。襲い来る快感も背徳感から得る興奮も放
出される精液の勢いも。そして、この心に大穴が開いてしまったかのような虚脱
感も。
「大河…大河…大河……」
鳴咽を漏らしながら何度も何度も名前を囁き、無理を利かした右手と胸の痛みに
慣れるまで長い時間動かなかった。


寝より覚めて思う。この胸に穿たれた大穴はなにかと。一体いつ開いたのかと。
一体誰が開けたのかと。
「おはよう、大河」
「あ、竜児……うん、おはよう」
居ると思わなかった存在が居るのだから、多少は驚いた。だが、それは相手が竜
児ではなくとも抱く感情なのだろう。
もう竜児を見ても狂いそうな程の求心は生まれなかった。
昨日、竜児は大河が伸ばした手を避けた。それが意識した行動にせよそうで無い
にしろ、竜児に存在を避けられたのは克明に理解した。一杯に貯めた箱を蹴り飛
ばされ、殆どの中身が零れ出してしまった。その中に想う気持ちも在ったのだろ
う。
日頃の片付け癖が無いのが吉に転じたのか凶に転じたのかは曖昧だ。大切な物な
らちゃんとした場所に保存しておけば良かったと泣く自分も、これで、駄目と言
われる物を欲する貪欲な自分と別れられると笑っている自分もいるからだ。
恋しさはまだ在る。だが、その恋しさもどこと無く乾いている上に味がしない。
「朝飯はもう出来てるからな」
「うん……」
日常では無い。自分もそうだが、竜児も布を一枚当てたような、友達と他人行儀
の間のような話し方をしている。
それで沈黙が入る事は無かったが、快晴の朝には似つかわしくないどんよりとし
た空気が部屋に溜まっていた。
「ねぇ、竜児」
「おう、なんだ?」
「ベッドのシーツが無いのはどうして?」
答えは判っている。最後に掃除した…いや、してくれたのは確か2週間前だ。流
石に汚れやら匂いやらが気になったのだろう。
「…洗ったんだよ。その…汚しちまったから…」
歯磨の手が止まる。なんだろうか、この違和感の中の違和感は。いつもと違いす
ぎるのは自分だけでは無い。ただ単に嫌われたから、竜児が素っ気ない態度をと
るのだとしていたが、明らかに違う。喋り方に含みがあるし、行動も良く見ると
右手をポケットに入れたままだ。
「竜児。右手は?」
「お前には関係ねぇ」
大河の眉間に皺が寄り、目尻が吊り上がる。隠したいにしても余りな突っぱね方
に火が揺らめく。



「無いかもしれないけど、気になるじゃない!」
脳が煮えたぎり、望んでないのに乱暴な言葉が口から飛び出す。
「うるせぇ!好奇心からなら聞くんじゃねぇ!」
びくりと大河の身体が震える。温和な竜児に怒鳴られた衝撃と深い悲しみが心に
刺さる。だが、それ如きで止まる程、大河は弱くは無かった。それは、この場合
に於いては明らかに仇となる要素だ。
「良いから見せなさいよ!」
大河が竜児の右腕を掴み、引っ張る。もとより、言うより拳が出やすい質である。
直ぐに最短ルートの実力行使を使ってしまうのだ。
「止めろっ!」
竜児の右足が動き、大河の腹を膝で捉える。蹴られた大河は、机や椅子を巻き込
みながら部屋の隅にまで転がる。
転がった先で大河は震えながら涙を流していた。蹴られた箇所が痛むからでは無
論ない。怒りという膜が剥がれ、先程刺さった悲しみが後悔と一緒に心に浸透し
てきたのだ。
ドジで済まされるミスではない。ちゃんと駄目だと判っていたのだ。ちゃんと気
付いていたのだ。竜児があんな突き放し方をするのには重い理由があると。竜児
が怒鳴るのは自分が無遠慮に触りすぎたからだと。
怒りは心理的煙草だ。百害有って一利無しだ。
「大河、大丈夫か!クソッ!俺はなんでこう莫迦なんだ!」
「違う!」
竜児が自身を罵るのが許せなかった。悪いのは自分で、自分だけで、竜児は正し
い行動をとっているんだと教えたい気持ちが湧く。だが、それを言えば不毛な言
争が続きそうで、そしてまた竜児を怒らせてしまうのが嫌で口には出さなかった。
暫く目線を合わして、それから大河が或る事に気付く。
「りゅ…じ……その手…」
「あ……」
恐らく無意識に出してしまったのであろうその手は、膿と血をを吸って変色した
包帯で巻かれていた。怪我の程は漠然としか計れないが、それが異常な傷だとい
う事は判った。
「……ごめんなさい」
「お前のせいじゃねぇよ」
そう言われても心に溜まっているものは流れない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ
いごめんなさいごめんなさい」
竜児に縋り付き恐竦の表情でただひたすらに謝る。声が掠れ、身体が震え、息が
上手く繋げなくなって噎せても言葉を放ち続けた。
「えっ!?」
手を振りほどかれ、縋り付く先を失った大河が床に倒れる。目線を上げると、竜
児が複雑な表情で大河を睨んでいた。
「……俺が居ると苦しませちまうみたいだな。済まねぇ」
奥歯が鳴る。否定しないでくれと思うが、先程のようにはっきりと違うと叫べな
い。竜児が居て苦しいのは事実なのだ。
「…学校は来いよ」
去っていく竜児の背中を見て、嫌われてしまったんだという実感が湧き、涙がさ
らに幾筋も頬を伝う。
竜児が居ても居なくても大河の胸は締め付けられる。
「あ、そうか…」
自分の涙の味に答えを見つける。
「わたし…失恋したんだ…。だからこんなに苦しくて乾いてるんだ……」
堰を切って流れ出した悲しみと痛みに久しぶりに声をあげて泣いた。




右足を睨みながらカッターナイフを出し入れする。憎かった。あの時大河を蹴っ
てしまったこの右足がどうしようもなく憎かった。
今朝は、あの晩犯した罪で自分は吹っ切れたと思っていたから大河の家に居た。
だが、何も吹っ切れてはいなかった。騙す事が怖くて、大河を心配させないため
に巧偽する事が出来なかった。
だが、今度こそ吹っ切れていた。女に暴力をふるう等、愚行も良いところだ。完
膚無きまでに嫌われてしまっただろう。
愛しさはまだ在る。だが、その愛しさも心の中で虚像と化している。掴めないの
に存在だけがちらついて、目障りな事この上ない。
二節目まで出したカッターナイフを右足に当てる。ひんやりとした感覚と肉を切
ろうとする意思が刃から伝わり、ぞくりと背中を震わした。この優しい刃は、大
河を傷つけた足に消えない罪の証を刻んでくれる。その証を大河が受けた痛みの
倍刻めば、自分を許せる気がした。
「―ッ!」
そして一太刀。最初に線が入り、次に血が滲み始める。痺れるような痛みを感じ
ながら、自分の心が晴れていくのを感じた竜児は、自己満足だと判っていながら
も次々と証を刻んだ。
だが、幾つ付けても全ては晴れなかった。
一端手を止めて、自分が刻んだ傷を確認する。傷はどれもかなり浅く、かさぶた
は出来るだろうが跡にはならないだろう。それで得心がいった。刻むには深さが
全く足りていなかったのだ。いくら痛みだけの免罪符なんて付けても、心の奥ま
では払い切れない。払いたければ、傷を奥に広げてしまえば良いとして、カッタ
ーナイフをさらにもう一節出して先程よりも速く力強く引いた。
ぱっくりと割れた傷からは血が流れ出す。成る程と竜児は思った。自傷による痛
みは、迷いやいらない気持ちを振り払ってくれる。流れる血は、己が生きて存在
する事を認識させてくれる。これならば、リストカットやアームカットをする人
がいてしまうのも仕方が無い。例え、それが間違っていても、解決には導かない
としてもだ。



カッターナイフを四節まで出す。これを引けば、傷は隠せない深さになる。これ
を付けたらなんともいい気分になれるだろうが、ここからは先を考えずに付けて
良い傷で無い事は判っていた。
押し当てたまま暫く考え、溜息とともにカッターナイフを置いた。こんな下らな
い自己満足で治療費をかけるような真似は出来なかった。
それから傷の消毒だけを済ませると、止血作業もせずに床に転がった。幾ら憎ん
でも、それを形にするのには自傷以外の別の方法が必要になった。それは償いと
呼ぶのだろうけど、何をどう償って良いのかは皆目検討もつかなかった。
「竜児!」
突然の声に床から身体を引き剥がす。玄関には鍵をかけていた筈で、彼女が入っ
てくる場所なんて無いはずだった。暫く睨み合ったまま、ゆっくりと記憶を漁っ
た。そして、一つの可能性が浮かぶ。それと同時に怒りが心を熱した。
「竜児…その傷…まさか自分で?」
「んな事はどうだって良い!」
大河の目線はカッターナイフと膝の傷を行ったり来たりしているから、真実はも
う掴んだのだろう。だが、それが露呈した焦りは感じない。今は大河の行動が許
せない気持ちが大きい。
「良くない!だってその右手も――
「大河!」
肩を乱暴に掴んで、少し恐怖の色が写る大河の眼を真っ直ぐ覗き込む。
「お前、窓から入って来たろ!なんつぅ危ない事すんだよ!」
その言葉に大河が申し訳なさそうにうなだれ、ぼそぼそと口を動かす。
「……だって、謝りたかったから…」
すとんと強張っていた力が抜ける。疑問符が頭の中を縦横に駆け巡り、早く答え
を出せと急かす。謝罪される道理が無い。謝罪すべきなのは寧ろこちらなのだ。
「竜…児が、だって、私いけないとこ突いて……き、嫌われ…嫌われて…」
「お前を嫌えるかよ!俺だってお前に嫌われたかと思って…あんな酷い事しちま
ったし…」
「わ、私が、竜児を嫌えるわけ…ないじゃんか……ばか」
ぽっと心の中で何かが光る。あぁ、まずいなと竜児は思う。大河の頬を伝わって
いる涙の一粒でさえ愛おしく、白磁のように白くなめらかで華麗な手の爪の先ま
で脳に焼き付けたくなるこの感情は、今朝漸く捨てる事が出来たモノだ。
散々人を傷つけて、擦り切れるまで使ってやっと折れたと思っていたら、また直
ぐに新しく出てくる。思えば、これはカッターナイフそのものだ。ただ、こちら
のカッターナイフは姿が捕らえられないから終わりが見えない。だが、これはあ
くまで一節一節丁寧に使えばの話で、一気に終わらせる事もちゃんと出来る。
命一杯刃を出して、壁にフルスイングをかませばそれで終わり。ありのまま、気
持ちも右手の事も足を傷つけた事もレースの事も全部吐き出す。当たって折れろ
だ。
それで折れた刃が自分に刺さっても、長々と今を引っ張るよりかは随分素敵に見
えるだろう。なにより、全てを吐き出して全てを終わらせる事が大河への償いに
成り得ると、そう思えた。

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