つまるところ、自分とはなんなのか。あれだけ惨めな思いを乗り越えて、あれだ
け罪の意識に捕われて漸く振り払った想いをまた拾ってしまった自分とはなんな
のか。目標が無い限り、辛い事がしたくないのが人ではなかったか。それに反し
ている自分とはなんなのか。
被虐趣向とはまず違う。心理の奥底を引っ掻き回すものを自ら受け入れる人はま
ずいない。例えば、劣等感を意図的に作り出して誇示する人がいないようにだ。
「お前を嫌えるかよ!」
竜児の言葉が頭の中を反芻する。全てはこの言葉のせいなのだろう。この言葉は
甘過ぎる。何故竜児は、ないと言わずに出来ないと言ったのだろうか。もしかし
たら、竜児は自分と同じ想いを……
そこまで考えて、ぽちゃんとお湯の中に身体を沈めた。妄想が飛びすぎる。本当
の事を聞かずに決め付けられたら、竜児も良い迷惑だろう。
今大河が判る竜児の気持ちといえば、自分を嫌ってない事と、心配がかかる存在
として見られているという事だけだ。
神社での光景がフラッシュバックする。あの時、竜児は確かに自分の手を避けた。
嫌ってないとしたら、あれはなんだったのか。もしかしたら、嫌ってないとい
うのが自分を落ち着かせる為の欺瞞だったのかもしれない。判らない。判らなく
てもどかしい。
今までは怖かった竜児の気持ちが知りたかった。一度失ったこの感情に愛着がな
くなったのか、それともただ失う事に度胸がついたのかは判らないが、真実を聞
いて砕けても良いと思える。
この想いが砕ければその破片は心に深々と刺さり、長く苦しむ事になるだろう。
だが、このまま立ち止まっているよりは、後ろでも前でも良いから動いた方が、
直ぐにでは無いだろうが得になる。次からは足取りを軽くしてくれる勢いとして、
何処に転ぶか判らぬこの一歩は働いてくれることだろう。
だが、真実を聞くとして、手段は二つある。一つは待ち。もう一つは歩みだ。
待ちはとても気が楽だが、選ぶ事は出来ない。待つともいつ聞けるかは判らない
し、時間をおけば、今は晴れやかな模様のこの想いも再び黒く淀みまた止められ
なくなる。
だから、少し勇気がいるけれども、大河は自らが歩み寄る道を選んだ。だが、一
人で勝手に寄っていくのは友への裏切りだ。ならば、そうならないように役を揃
えねばならない。
大河は全てを巻き込んで終始をつけるつもりだった。
入浴を終え、夜風で上気した頭と身体を冷ましてから友に電話をかけた。だが、
友はバイト中なのか6コール目で留守電へと繋がった。
「もしもしみのりん。私、大河だけど。…あのね、突然だけど、私竜児の事が好
きみたい…ううん、好きなの」
誰にも聞かれていない筈なのに妙な恥ずかしさが込み上げてきて、大河の顔を赤
に染めてゆく。
「でも、みのりんも竜児の事好きなの私知ってる。だから、明日一緒に告白しよ
うよ。逃げたりしたら、ぜっっっったいに許さないからね」
留守電だからだろうか。大河は、普段なら文章でないと伝えられない事まですら
すらと喋れる饒舌家となっていた。だが、明日そうなる事はまずないだろう。
上手く伝えるなら手紙だ。そしてそれに書くことは決まっている。ほんの数文字
で終わる言葉だ。それなのに、ペンを持つ大河の指は中々動かなかった。





この世界で唯一の純愛と言えば、それは太陽と月だろう。月は太陽に見て欲しく
て、空に漂う数多の星々に負けないように輝き、太陽は月の姿が仰げるだけで顔
を赤く染める。しかし、その恥ずかしがり方たるや半端ではない。二人に挟まれ
る地球をさらに鬱屈にさせるような朱く愛のある光の水彩を地表に落とすのだ。
「来てくれたんだね」
「うん。でも、違う目的で来たんだ」
二人の少女、大河と実乃梨もそんな水彩に彩られて、朱く染まっていた。顔だけ
がやけに朱いのは、元々染めてあったものに上塗りされているからだ。
「違う目的…?」
「うん。私、大河を応援しに――
堪らずに大河の手が実乃梨の頬へ飛んだ。
「逃げんな!」
澄んだ叫び声が校舎に響く。
「私の親友はそんな弱虫だったのか!ずっと逃げて来た私だって、いまこうやっ
て立ち向かってるんだぞ!なのにお前は逃げるのか!」
「わ、わたしは大河の為に――
もう一撃入る。気付けば、大河は涙を流していた。悲しい訳でも辛い訳でも無か
ったが、何故か涙腺が緩まっていた。
「親友を思えばこそだ!言えぇぇえ!」
実乃梨の顔に強い意思と怒りが浮かぶ。これだけ言われてこれだけ叩かれて抑え
ろなどとは、余程の聖人君子でもなければ無理だろう。
「そうだよ、好きだよ!私だって高須君の事が大好きだ!」
「だってよ竜児……良かったね」
「……え?」
校舎の影から、顔を真っ赤にしながらもばつの悪そうな顔をした竜児が出てくる。
その手には大河が昨日書いた手紙が握られている。
「さぁ、竜児。どっちを選ぶの?」
「た、高須…君……?」
三人の間に沈黙が流れる。
「櫛枝。話がある」
沈黙から皆を引き上げたのは竜児だった。その御指名は櫛枝。
大河は影に消える二人を最後まで目で追い掛けて、それからとさりと地面に座り
込んだ。現実はなんともあっさりと終止符をつけてくれた。お陰で、寂しさはあ
れど涙は一滴も流れなかった。



女の子を泣かしたのはこれが初めてだった。心がズキリと痛むが後悔はない。き
っと、これが自分に嘘をつかないで済む道だからだろう。
「そっか…や、良いんだ!気にしないでくれ!」
気丈に振る舞うその姿がまた辛い。きっと本人も或る感情を殺して、別の感情を
無理に起たせる事は辛いはずだ。
「それが高須君の本音だろ。そんな悲しい顔をしないでくれよ」
櫛枝実乃梨は大河に会うまでは恋の矢が刺さっていた存在だ。いや、それももし
かしたら憧れという感情に少し尾鰭が生えたものだったのかもしれない。なにし
ろ相手は明るく、誰とでも隔て無く接する優しい美少女。憧憬の念を抱いてもお
かしくはないはずだ。
「別に後悔はしてねぇよ」
酷な言葉かもしれないが、包装してぼかした所で何も始まらない。歩み出したこ
の足を止めない為にも素直に吐いた。
「ただ、お前が気丈に振る舞うのが辛い」
実乃梨の顔から笑顔が消える。
「そっか…判るか……。ねぇ、高須君。胸、借りていいかな?」
「おう」
実乃梨の身体を優しく抱きしめる。部活で鍛えていて、しっかりした身体付きだ
と思ったが、どうだろうか。腕に感じるのは、柔らかくて下手に力を入れてしま
えば折れそうな女の子の身体そのものだ。
「うわぁぁぁぁぁぁあ!!」
泣き止むまで、何も言わずにただ抱きしめた。


「じゃぁ、俺行くな」
「うん。寄り道しちゃダメだからね」
実乃梨がもう大丈夫だと言うので、素直に離れた。顔を見ればそれが欺瞞だとは
簡単に判ったが、それでも大丈夫と言ったのは一人でいたいという事なのだろう。
心配と優しさはただひたすらにかけて良いものではない。
表に出て、大河を探す。だが、先程居た場所にその姿はない。
「大河ーーっ!!」
我無者羅に走りながらその名を叫ぶ。まだ部活をしていた一部の生徒が、驚きと
好奇の目で自分を見て来たが、見向きもせずにその視線をくぐり抜けた。
何故大河は自分の手元から離れて行ってしまったのだろうか。自分が実乃梨を選
んだと思い、絶望感に当てられただろうか。
拳を強く握る。すれ違う想いに苛立ちが湧いてくる。あの手紙を開き、あの短い
文章を読んだ自分が涙を流したのもその理由も大河は知らない。
『好きです』の四文字が力強く描かれたいかにも大河らしい手紙は、両想いにな
れた証だった。幸福などと言う陳腐だが率直な気持ちが竜児の心を満たしたのだ。




三流恋愛小説のような出会いをし、三流私小説のような葛藤を繰り広げ、そして
また三流恋愛小説のような局面を迎えている。
大河はおそらく全てを明かして全てを終わらせる気だったのだろう。だが、それ
は自分も同じだ。ただ、思い描く未来が違う。
大河はお姫様だ。誰よりも我が儘で、誰よりも美しく、誰よりも淋しがり屋で、
そして誰よりも優しい。心の奥で自分以外の人の幸せを願っているような御人だ。
自分は、騎士としてそんな姫の命令に従って来た。だが、忠誠を誓った騎士に
だって意思は在る。会えば、ありったけの我が儘を言わせてもらうつもりだ。
自分の家に押し入り、自室の窓を開け放つ。睨み付けた先の窓は開いている。
先日、自分は大河をこの事で怒った。しかし、こう見てみると、成る程、思わず
手を伸ばしたくなる絶妙な距離感が在しているのが判る。焦燥感と僅かばかりの
需求心が在れば、跳び越えてしまうのはもはや抑えが利かない行為だ。
そう、今の自分のように。
助走をつけて、一回跳んで手摺りに。二回目の跳躍で窓の奥へと滑り込む。入口
は、竜児の身体には少々小さく、入るときに節々を打ってしまったがそれに感じ
入る暇さえ惜しかった。
「竜児ッ!」
「おう、大河。窓から失礼な」
四肢を床に投げ出す情けない姿を大河に曝しながら、以前出来なかった住居への
侵入の理を入れる。
「な、なんであんたが此処に…」
「大河!」
起き上がって大河と目線を合わせる。これから話す事は対等として聞いて欲しか
ったからだ。
「大河。お前は卑怯だ。俺の気持ちを考えずに櫛枝と結ぼうとしやがった」
「だってそれは――
「良いから黙れ。発言は俺が一通り話し終えるまで許さん」
自分の決心も新鮮で、大河も竜児の奇異な行動に驚いて次に繋げる言葉に迷って
いる今が好機だった。ここを逃したら、多弁家の自分は別離の言葉も無しに去っ
て行ってしまうだろう。
だから、今だけ自分中心に世界を把握する。
「お前は俺がこの手紙を呼んで泣いたのを知らない。その理由もだ」
ポケットから取り出した、左手一本で懸命に折った紙製手裏剣を大河へ投げる。
歪つな形のそれを大河が柔らかに受け取って、目を丸くする。
「りゅ…」
喋りかけた大河を目で制し、代わりに顎で解いてみるよう催促する。大河は少々
逡巡した後、それを手裏剣からゆっくりとただの一枚の紙へと戻していった。
「大河。俺の我が儘を聞き入れてくれるか?」
手紙を見て顔を赤くした大河に問う。手紙には竜児が或る工夫を加えていた。
大河は口をぱくぱくさせて何も言わず、うろたえる以外何も反応を示さなかった
が、竜児はその沈黙を了承と受け取った。
「俺と結婚しやがれ!」
幾千の歯が浮くような言葉よりも陳套で率直な言葉を選んだ。そちらの方が我が
儘らしく、なにより彼女の胸に鐘楼の響きが如く鳴ってくれそうだったからだ。


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