全ての具象と全ての感情は那由多に広がるピースであり、無尽蔵に生まれる不完
全な事象を完成させる為に在る。いわば、人の生きる世とはジグソーパズルで溢
れており、人とは解法者としての使命を帯びて産まれてくる存在なのである。だ
が、それは金銭で手に入るジグソーパズルよりも意地悪だ。
ピースが自分の手に掴める位置に有るとは限らず、誰かが自分のパズルのピース
を持っている事もこのジグソーパズルではざらである。さらには、絵柄は作り遂
げぬまで判らぬときた。
この場合によっては不可能ともされるジグソーを諦める人も居る。だが、それは
決して屈辱に感じる事でも、逆に侮辱するべき事でも無い。なぜなら、諦めるの
も勇敢な選択肢として認められるからだ。一つに囚われて前に進めない事の方が、
屈辱に感じるべきなのだ。
実は、生まれるジグソーの殆どはそうやって中途半端に完成させられては捨てら
れている。捨てられた物を一々拾う学者という例外はいるが、大衆の人々はまず
拾わない。捨てられたジグソーはゆっくりと風化してゆき、最後は儚き砂となり
て霧散する。
しかし、そうはならない物がある。そのジグソーは3×3のあたかも初心者用の
パズルではあるが、それは自分一人では絶対にピースが揃えられず、かといって
他人の持つピースを頂くには全力を幾度もぶつける必要がある。失敗すれば乃ち
崩壊を示すが、得られればかけがえのない物として手元に残る。
それを七情のジグソーパズルと言う。
単純であればこそ、人は強烈に完成を望む。それは時に人を狂わせ争いを起こさ
せる程だ。
して、その狂気の泉たる七情のジグソーが完成したらどうなるか。きっと穏やか
な風に包まれる事だろう。
これは、ジグソーを解くにあたっての目的を考えてもらえれば判るだろう。それ
は完成させた物を、自分の努力の軌跡をゆっくりと眺めたいからではないのか。
事故ならばいさ仕方ないが、まさか、作って直ぐに崩す人は中々おるまい。この
ジグソーとてそれは例外では無い。
故に、ジグソーパズルが完成した際、それまでの過程がいかなるものであろうと、
まずは出来た絵を心穏やかに眺める事が出来るのだ。
高須竜児と逢坂大河のジグソーは、二人の持つピースを交換する事で無事に完成
した。それまでの過程はとても誇れる物ではないが、出来上がった絵は思わず視
惚れ、思わず誇ってしまいたくなる程に美しい。そして、その絵は時に散らばり
ながらもこれからの二人の軌跡を取り込みながらより美しく、より広大になって
ゆくだろう。その軌跡が同じ道を辿る物であるなら尚更にだ。
二人はライフサイクルの真ん中に立っている。今、漸く出来上がったその絵も壁
の一つを越えられた報酬でしかない。これからも多種多様なジグソーパズルが二
人の元に生まれるだろう。その時、二人はそれをどう解くのだろうか。手を繋い
で共同作業としてそれに取り組むのだろうか。
想像は尽きぬが、まずは新たな佳境に入った二人に祈りを捧げよう。
鐘楼が響く中、二人は共に白髪の生えるまで歩むと誓った。見守る友に、涙する
家族に、喜ぶ自分に、そして愛する人に。
握られた手がこれからどうなるかは誰にも判らない。案外あっさりと離れるかも
しれない。しかし、そんな未来を一体誰が想望するだろうか。
もし君が、運命は万望すれば揺れ動く物と信じるならば、是非ともこの在り来りな
祝辞を心から響かせて欲しい。

『二人の行く先に幸多からん事を』

月と太陽に誇れる愛が永久に保たれるように。
完成したジグソーパズルが永久に色褪せぬ存在となるように。




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