「……なあ、大河……」
「んー?」
「……まじでこれで行くのか……」
「そうよ、これで行くのよ」
「……はあ、みっともねえ。学校の奴らに何言われることか……」
「言いたい奴らには言わせておけばいいのよ。それより学校遅れちゃうってば。ほら進めぃ!」

そう言って、GOサイン。細くて小さい指はぼろい扉を力強く指差した。
目指すは学校だ!……じゃない。朝から近所迷惑!ついつい言ってしまいそうになる小言は尽きた試しはない。が、今はそんなことではなく、

「おい……!ったく、あんまり揺らすなって、落っこちるぞ!」

竜児の背中には、私は高級!と自己主張しかねんぐらいのアンゴラのコート。
それを身に纏いし神聖なるリュックサック……ではない。
そもそもそんな用途不明のリュックサックは多分存在しないし、何より暴れないだろう。叫ばないだろう。

ふわふわと軽く弾ませ、腰にまで届くウエーブのかかった淡い茶の髪。
フランス人形のように整っている白く透き通った美貌。
高校生とは思えない、華奢すぎる体は現在自称145センチ。
そんな誇り高き虎……いや人間の逢坂大河はその頃、竜児の背中にすっぽりと収まっていた。

「ほら、さっさと行く!」

ボスッボスッ、と尻の真ん中(つまり割れ目辺り)を的確に膝で連撃。
何とも言えない刺激が竜児を襲うが、気持ちいい……というマゾっ気の方では断じてない。ただ痛いだけ。

「はあ……」

扉を開けると、凍てつく風が露出した顔面の感覚を狂わせる。鉄の階段に張り付く霜は昨日より一層と多く、まさに冬。二重に巻かれたマフラーがなければ、今頃ダイレクトに四季の中の一つ、冬を感じていただろう。

「……は、はっくしょい!……ああー」
「くっ、首に大量の液体が……!口をふさげ!口を!」
「遺憾な事故ね……」
「お、お前……そればっかじゃねえか……」


気をつけていたつもりだった。

転んだり、零したり、ぶつかったり、エトセトラ。
いくつかの事故は事前に防ぐことができていたのだ。それは彼氏兼保護者?である自分が、いつも目を光らせていた賜物だと思う。
しかし少しでも目を放せば、奴は牙をむくのだ。
奴は見逃さない。あらゆる状況で影さえも隠し、機会を窺っているのだ。

奴?

大河の背後に光臨して居られるドジ神に決まっておろうが。


***


昨日――

六限目は古典だった。
延々と繰り返される古文を延々と要約し、延々と書きとめるのがこの授業の特徴。
生徒にとっては億劫以外の何者でもないこの時間が正念場であり、一日の目指すべきゴールでもあるのだ。
だからといって、最後の授業だ!頑張るぞ☆な生徒は多くはなく、隠れてメールを打っている奴、睡魔に勝てなかった奴。
辺りを見渡せばそんな奴らがちらほらと。

「ふぁ〜あ」

かく言う竜児も、後者の奴ら仲間入り一歩手前。
前日の大河との夜更かしゲームで若干の睡眠不足。欠伸はこの授業が始まって五回目だ。
睡眠不足と言う理由を差し引いても、竜児の吊り上がった両目は今日も絶好調に三白眼。原因はただの遺伝だし、今に始まったことではない。そんなことより眠いのだ。

……寝てしまおうか。そんな甘い誘惑に降伏寸前で、キーンコーンカーンコーンと聞き飽きたチャイム音が、緩みきった教室に鳴り響く。

「ひゃっほ〜!やっと終わった〜!ほんっとだるかったな〜!」

春田よ……これで食っている先生を目の前にしてそれはどうだろう、と心の中で思うが己も予備軍だ。あまり言えた身分でもないのか。


独身のホームルーム終え、生徒達はそれぞれの準備に取り掛かる。部活に行く者、おしゃべりしている者、さっさと帰る者と様々だ。

竜児は帰宅の準備が整ったところで、大河の席に顔を向けるが、

「……大河……」

さすが天下の手乗りタイガーと言ったところか。生徒達がざわめく教室の渦の中、大河はどっぷりと気持ち良さそうに眠っていた。
古典の教科書が未だに机に放置されていることから、おそらくずっと寝ているのだろう。

「やばいよね、あれ……垂れちゃうよね」「うん……そろそろ垂れるね」女子生徒達の囁き声を偶然キャッチ。垂れる?竜児は首を傾げ、大河に歩み寄り、

「……おうっ!?」

考えるより、先に手が動くのは日頃の鍛練の成果だろうか。もしそうなら、なんて悲しい反射神経を習得してしまったのだろうか自分は。
溜まりに溜まった涎を間一髪、ハンカチで救助。あと一秒でも遅れていれば、下の教科書は間違いなく残念なことになっていただろう。

「さすが高須君……」見ていた女子達から微妙な拍手をもらい、見ていたなら拭いてやれ!……声には出さずに突っ込んでおく。

「……う、ん、ん?……りゅーじ?古典、終わったっけ?」
「……授業どころかホームルームも終わったよ。ていうかいつから寝てんだよ。授業始まって五分そこらでお前が落ちていたのを確認したぞ俺は」
「あー、えっと、まず先生が入ってきたでしょ……」

目を瞑り、記憶をたどる素振りをしてみるが、どうやら大河の脳の今日の古典は先生登場が一番新しい事項らしい。

「……まあそれは置いといて」
「……置くな。むしろ持ってろ」
「置くの!そして別の話題に切り替える!……ゴホン、ところで竜児、今からデパートで私の服選びに――」
「おうっ……!?」

途切れたのは大河の声が枯れたというわけでもなく、耳の器官が突然停止した、というわけではなかった。




「たかっちゃ〜〜ん。今からどっか遊びに行かな〜い?」

頭にのし掛かってきたアホこと春田、改め春田ことアホにより遮られたのだ。

「重い……おふっ!?」

二回目の驚きで出てしまった声は、春田の上に更に乗っかかってきた能登のせい。重量はさっきの二倍近くで、膝なんかは生徒達が便所に行き来する、きっっったねえぇぇ!!床ぁぁ!(バイ竜児)にとっくに犯されてしまっている。
無言の敗者体勢。日本の敗戦に、むせび泣いた……わけねえ。単に重力には逆らえないのだ。

「な〜あ〜高須〜行くだろ〜」

能登(今日は特にかわいくない)……せめてお前はのけ、のくんだ……

当然二人分の体重を支えきれる程、己の体はデカくもキレてもなくて、無条件で体全体が床に……

「……だあぁああっ!!」

着いてたまるか……
四肢を動かす得体の知れない力の源は潔癖症、つまり己の性だ。
床に着く寸前に離脱。体をくねらせよじらせて無事脱出。
代わりに犠牲になった兵隊は言わずもがな。「うわぁ!?」とか「ぎゃあ!?」とか……知るか、お前らが悪い。
膝の埃を適当に払い、床のアホ二人を見下ろしてみる。

「何で逃げるんだよぅ。もう俺さ〜今日の古典で頭がまいっちゃって……ぱぁ!ってしたいんだってぇ。遊びに行きたいんだってぇ。床にへばり着きたかったわけじゃねえんだってぇ……」
「知らん……お前らこそ俺をこんなわけわかんねえ雑菌共が蠢く板にひれ伏させようとしたじゃねえか」
「大袈裟な……うっ、高須がそんなん言うから、なんかズボンの埃が気になり始めてきたじゃん……」
「そうだろうそうだろう。あと誘ってもらって悪いけど、今から――」

左を見る。薔薇色の唇を尖らせて、口パクで『う、う』じゃないな。『ふ、く』だろうな、きっと。

「そう、服。ちょっと大河の服を新調しに行くから、今日はパスな。また今度」
「じゃあしょうがないね。また今度誘うわ。しっかし、まあ……」

能登は大河、竜児を交互に見て、また大河、竜児。そして外国人のように手を横に曲げ、細い目を更に閉じて、酸素を吸って、ふーう……

「……高須とタイガーって本当に仲良いよね、前より……まあ付き合ってるんだから当然なんだろうけど。とにかく高須、俺はお前がほんとにほんとにほんとに……」



うらやましい……いや、ぶっちゃけ憎い……

俯いている能登の呪いのような、掠れた声が聞こえたのはおそらく春田だけ。

「そうだよそうだよ、いーこと言った、能登っち!たかっちゃん……どうせ毎日タイガーとイチャイチャしてんでしょ。毎日ちゅーとかお泊まりとかさ〜、そこんところどなの?あ〜俺はさ〜そこんところは大丈夫だからね、一応言っとくけど」

ぴたっ……

気付いたのは、竜児だけ……なのかもしれない。

修学旅行。就寝前の生徒達が枕投げで盛り上がり、わーきゃーしている安い宿の部屋。その襖をガラッ、と開ける教師。しかし生徒達は教師を欺くように寝床で狸寝入り。
その時の状態、空気。漫画で例えれば『し〜ん』という描写が一番合っているだろう。
何が言いたいかといえば、今まさに、教室がその状態であること。

「……タイガーと高須君のラブラブ私生活、超気になるんですけど!」「しっ……麻耶、聞こえるわ」「案外〜高須君がタイガーにべったりかもねぇ」

木原、香椎、川嶋……とっくに聞こえているぞ。さっきから目線が合いまくってるしな……

「さあ〜今日も生徒会かぁ〜忙しいな〜」

北村……鞄の荷物の出し入れを繰り返し、行っているのは一体何が目的なんだ……

「おっと!櫛枝、不覚にもなんか急に多分絶対教室に忘れ物をした気がするぜぃ!」

櫛枝……多分と絶対を一回で使ったら、訳わかんねえよ……

竜児は、己の持つ禍々しい両眼を教室に行き来させる。
何も、目から出る赤いビームで生徒達を殲滅に!証拠が残らないように塵にしてやるわ!がははは!ではない。
この異様な空気の発端が、春田の言動から始まったということをいち早く察知しただけだ。
ありったけの視線を周りにくれてやるが、神速で交わされる。……櫛枝、口笛はべた過ぎでは。

はぐらかそう……そうだ、別に変に答える必要なんかないのだ。「何言ってんだよ〜春田。別に何もねえよ〜アホだろ〜」これだ。あとは、大河にも適当に受け流してもらって、鞄を手に取る。大河を連れ、帰る。完璧だ!

「な、なに言ってんだよ春田。そんなのねえよ。なあ!大河!」

ここで大河が「そうよ」とたった三文字返してくれればゲームセット!俺達の勝ちだ。何の恥もかくことなく、その場が綺麗に収まる……はずだ。

「ああああんたー!?なっなにいって……!」

ゲームセッ……

「毎日、キッキス……してんじゃない……それとも、竜児……もうしたくなくなったんじゃ……んん゛ー!?」
「「「「「「…………!?」」」」」」
「お……お前……」

竜児は、考えるという作業を一旦中断する。



脳を構築する大工の親方が、汗を拭いながら「飯にするかあ!」と昼休みの伝令。つまり飯時、休憩だ。一切の万象を拒絶、シャットダウン。
考えない。考えたくない。関わりたくない。しかし、どうしようもなく自分は当事者であるので、現実逃避は二秒で終了。
弁当の箸を置いて、ヘルメットを被り、作業を続行。
角材ではなく、覚醒しきれない脳に無理矢理に釘を打ちつける。妄想は終わりだ。働け、俺の脳細胞共。

そうだ……自分は何に期待していたんだろう。元からこいつは、手乗りタイガー。周りの草食動物が何をしていようが気にしちゃいない。そもそも、この虎に周りの空気を読むような器用な技量はないのだ。断言できる。

きゃーーーーー☆
ぎゃーーーーー!
高須ーーーーー!

だから、大河の口を咄嗟に塞いだのも不可抗力。
女子の甲高い悲鳴も幻聴。あるいはゴキブリでも見つけたんだろう。
能登が目を充血させながらこちらを睨んでいるようにみえるのも多分、花粉症。今年は時期が早いらしい。

教室の喧騒は未だ止まず。
普段ならリーダーシップ魂を存分に披露してくれる親友の北村も「めでたいなあ!」眼鏡を曇らせ興奮気味。今にも裸になりそうだ、と思ってしまう自分は今まで北村の何を見てきたのだろうか。

とにかく。とにかくだ。まずは、

大河、逃げよう――
えっ?何で――
何でもだ――



鞄を手に取り、廊下へ飛び出した。
そういえば明日の授業の課題……机の中だ……いやいや、この場を離れることが最優先だ。
しかし後に続くはずの大河は荷物をまとめているのか、なかなか出て来ない。

すっかり火照ってしまった額には、嫌な汗がじわり。唇がぱりぱりだったり、喉ががらがらだったりするのは乾燥した教室に長時間居たから……という理由だけに片付けられない。
大河の『周りを気にしない』発言の被害を受けた……が大半の理由、というより元凶なのだ。

教室から少し離れた所で、大河が出てくるのを歩を刻みながら待つ。
一分位経ったが、まだ出て来ない。下駄箱で待っていようと、教室に向けていた目を翻し、

「ひいっ……高須!」

いつかの幸薄そうな一年の男子生徒が、まともにそれを浴びる。
遅い、何やってんだ?程度の目つきをしていただけで、そんな涙目になられても……正直こっちが涙目になりそうだ。

「……すいません!高須先輩でした!」

こいつから見て、確かに自分は高須先輩だが、『でした』?……ああ、呼び捨てにしたことを謝っているわけか。

気にしてない。それより何か用か?と、あまり興味もないくせに質問のおまけつきで返してやる。

「……あっ、あの!ずい分前になりますけど、『手乗りタイガー』の件では、ご忠告ありがとうございました。会長……北村先輩にちょっと用があって……今日は生徒会がないんで直接来たんです」

おい北村……生徒会ねえじゃねえか……は置いといて。

「やっぱりあの時の黒……じゃねえ、生徒会で北村の後輩の。大河のやつなんか制裁したとか言ってたが、大丈夫か?傷とか残ってたり……」
「……貢ぎ物と顔面方位磁石を少々……油性です……」
「……おうっ……それはある意味むごいな……」
「それはもう、むごかったです……それじゃあこれで」

北村の後輩の……確か富家幸太。話を聞く限り、富家は北村に用があるらしく、教室に向かってその場を去っていった。




その背中を端から見れば睨んでいるようにしか見えないが見守ってやる。大丈夫だろうか……と。
大河は富家もとい、『黒猫男』を相当警戒していたが大丈夫だろうか。富家の心配もあるが、大河の方にもだ。

不吉の前兆と言われる黒猫が目の前を横切るという云われから、大河は奴にコードネームをつけたのだ。
奴が現れる度に、何かと不幸……というより事故が起きることから名付けられた、大河限定の呼び名。
それが『黒猫男』
ちなみにその時に起こる事故という事故、すべてが大河限定だったりする。まあこれは竜児の目測だが。

「……まさかな……」

夏、大河は奴に呪い殺されかけたっけ……結局は大河のただの食い過ぎが原因だったわけだが。
それでもやっぱりあの二人が鉢合わせになったら、何かしらのイベントを神様は用意するのだろう。
たとえば今まさに、教室に入ろうとしている富家に大河がタイミング良くぶつかって……とか。

教室は未だに生徒達の奇声で満ちているが、そんな中、「待ちなさいよーりゅーじー」と共にもの凄い速さで走る足音が、聞こえた……気がした。

ない。ないない。さすがにそれは、ない。

でもそれはやっぱり聞き間違いではなくて、地を駆ける虎の行く手にはやっぱり黒猫男が居て、大河は案の定、急に現れた富家に突進していて、

「ふっせえぇぇぇ〜〜〜〜!!」

多分、伏せろの特殊変化。
竜児が大河語を読解しているのをよそに大河は……

「うわっ!?手乗り……逢坂先輩!?」

富家はよほどトラウマだったのか、大砲の球のような圧力で走ってくる大河を目の前にした途端、手をクロスさせ、身を守り、言われたとおりにその場にしゃがみむ。

そして――

富家の上を、大河は……飛ぶ。

すぐ近くで眺めていた竜児もまた、渾身のダッシュで廊下を走り出していた。
何となくわかっていたのだ、結末が。女の勘だとか、長年の勘だとか、色々な形で人は第六感と言う代物を持っているらしいが竜児のそれは違う。
黒猫男もあると思うが、そもそも大河は運動神経はずば抜けているくせして、

「いっ……たい……!!」

ドジなのだ。完璧に、完全に、純粋に。これは変えることの出来ない事実。

竜児が気付いてからすぐ。大河は飛んだ後の着地を見事に決める……はずだった。
本人的には、走り幅跳びを思い浮かべながらの十点満点の着地だったのか。予定を大きく狂わせた大河の着地は右足首をぐねらせながらの、それはそれは酷い着地に。

「りゅうじ……私、死ぬかも……しれ、ない……」

それでバタッと倒れれば、真剣に傍に駆け寄ろうと考えるが、「……いっっっ!つっうぅぅぅ―――!」足を抑え、悶える虎が一匹。

廊下には、手乗りタイガーの呻き声が今も遠く、遠く、鳴り響いていて。
一つ言えることは、腹を空かして唸っているわけではないのだ。




***
足がもつれて歩けない大河を背負って保健室に連れて行った頃、竜児は愕然とした。

「開いてねえよなあ、そりゃ……」
「りゅうじ……死ぬの?私……」
「そんなんで死なれてたまるか」

放課後だからか、先生は保健室には見当たらなく鍵も掛かっている。
どうしたものかと思ったところで、さっきの惨状を見ていた北村が職員室から先生を連れてきてくれた。

保健の先生は大河の足を見るやいなや、「あーあーちょっとはれてるねー」と低いトーンでさっそく診断を始める。
診断と言っても所詮は保健の先生だ。接骨院のように本格的に検査したり、レントゲンを撮ったりはない。骨が折れているか、折れてはいないか……ぐらいの事しかわからないだろう。
正直、こんな胡散臭い白衣を着たおっさんの先生に大河を診てもらうのは気が引けたが、悲しいことに自分にはそういう知識が全くなく、任せるしかなかったのだ。

結局大河の右足首の骨は折れてはなく、先生はよっぽど面倒くさいのか「まあ大丈夫じゃないかな?」と半ば投げやりに診断放棄。湿布を張り、「今日は遅いから早く帰りなさい」の二連コンボで事を済ませたのだ。

そんな疑問文で返された診断に、納得がいかなかった竜児は近くの接骨院に大河を連れて行くことにした。

悔しいことに、ちゃんとした設備のある接骨院でも大河の足は「大丈夫です。腫れは徐々に引いてきて、二、三日すれば治るでしょう」だった。
湿布の上から丁寧に包帯で捲かれた大河の右足はすっかりふっくらしてしまい、ニーソを履くことも不可能らしい。

「松葉杖はどうしますか?」

という先生の問いに大河は「大丈夫です」と軽く答えてみせた。

その時、竜児は思ったのだ。

――あれ?おかしくはないか。
大河は歩くのもままならない状態だったはずなのに、松葉杖はいらない……それは……つまり……
おい大河……どうゆう――何だ。何故俺を見る大河……何故そんなににっこりと笑うんだ?お前にそんな天使みてえな顔似合わ……なくはねえけど、なんか……

「……こええよ……」



***
「おうっ、ちょっとずれてきた……いくぞ。せえのっ」

――せ!で大河を持ちやすいポジションに移動させる。

「重い?」
「少なくとも、お前より軽い高校生を俺は知らないから安心しろ」
「だよね」
「ただ、恥ずかしいんだよ。予想以上に……」

竜児の言うように、今の二人の格好はかっこいい!とは日本とブラジルの距離ぐらい、かけ離れているのかもしれない。
竜児は大河の太股を持たなくてはならないので、必然的に二人分の鞄は大河が竜児の首にまとわりつきながら持っていて。
歩くたび竜児の首のすぐ下で、ぶらんぶらんと揺れる鞄は、正面から見ると……

「……あのリーマン、今笑いやがったな……」

ぶっ、と吹き出したサラリーマンのおじさんを竜児は見逃しはしない。
目線が合うと、この世の終わりのような顔をしてその場を去ったのは、偶然見逃したが。

「私が小さいから、あんたの首から腕が生えてるみたいに見えてるんじゃない?しかも鞄を持った……」

ぷっ、と堪えられなくなって、吹き出された二酸化炭素を竜児は見逃しはしない。
というか、この距離なのだ。今なら大河の唾を飲み込む音でも聞こえるだろう。

足は痛いから歩けない。
松葉杖は大袈裟過ぎるから使いたくない。
そんな無理難題の解決策が、今のこの状態。
まあ、納得はしてやった。
何となく罪悪感はあったのだ。
大河のドジにいつも反応できていたこの自分が、あんな簡単なミスを犯してしまったのだから。
自分でも責任感は人よりはある方だと自負している竜児だったが、逆にそれが仇になったのだ。
そんな優しい竜児君につけ込んだ手乗りタイガーは『あんたがもうちょっと早く来たらねえ。ってことで、明日は頼んだわ』だと。

「昨日のこともあるし、こんな状態で学校行きたくねえんだよな……そうだ!学校着いたら、降りろ。歩くの支えてやるから。な?」
「い、や、だ!歩いたら痛いって言ってんでしょ。それとも何、あんたは私が地べたを這いずりまわる様でも眺めたいっての?」
「いつ、そこまで言ったんだよ俺は……あーもういい!わかったよ。やってやるよ。今日一日、ずっと傍に居てやるよ。また無謀な跳躍されたらかなわねえし」
「あれは、あんたがさっさと行っちゃうから……いや、この醜態はあの黒猫男が……」



大河は黒猫男を竜児の首に見立て、強く締め付け、竜児は「うぐっ……!」と、死神もびっくり。逆に魂を持っていかれるぐらいの鬼般若顔を、爽やかな朝の通学路に展開させてみせる。
じわっと出た本気の涙を拭うことも出来ず、圧迫された首やら喉からは本気の咳き込みが体を上下させる。本当に本気なのだ。大河は加減を知らない。いや語弊だ、する気がない。
言葉を紡ぐのが、ようやく可能になったところで、

「……あいつは全く悪くねえ。富家の方からしてみれば、お前が勝手に走って、飛んで、グキッ……だし」
「…………」

的を得た発言をすると黙る。それが大河の特性。竜児はそんなことはとっくに知っているので、今日一日の富家の安全が保障されたことに少し安心する。

欅道を行き交う人の視線は気になるが、打開策などないのだ。あるものなら、それに身を委ねて何処へだって行ってしまいたい。
そんな都合のいい列車は存在してなくて、そもそも切符すら持ち合わせてないのもわかってる。いつものように歩いているのも、それが理由なわけだ。

肌を切り裂くような風がちょうど、陰気な面したヤンキー面に直撃する。
もともと巻いていたマフラーを大河に口にまでしっかり巻いてもらい、はあ〜。吐息でマフラー内部を暖める。
向こうの方で幼稚園児から「あのおねえちゃんおんぶしてもらってる〜」と指差され、ついでにひっそりと笑う。「あれ見て!誘拐じゃないの!」おばさんグループの罪のないひそひそ話が偶然聞き取れ、ひっそりと落胆する。

学校に着くまでも人の目と言うやつは容赦なく集団の通り魔の如し、竜児を斬っていく。

「……俺が何をした……」
「えっ、今なんか言った?」
「別に……」

どうか神様――私の非難さを見て下さい。大河の足を今すぐ治して、私に自由を――

雲一つない冬空を見上げ、見えない何かに祈ってみるが、馬鹿馬鹿しくてすぐに止めた。

それにきっと、大河の背後のゴッドには竜児の祈る何かには到底適わないと思うのだ。

歩幅をさっきより少しだけ大きくして、学校に向かう。


***


「竜児ー、ジュース飲みたいから自販機までー!」

四限を終え、チャイムが鳴ってからものの五秒。

「ちょっとー!聞いてるー!?」

声の主はわかっているし、無視しているわけでもない。
竜児は授業に使った教材を手慣れた手付きで引き出しに収納していく。シャープペンシルと消しゴムをペンケースにしまい、腕を伸ばす。こきっ、と骨が鳴る。

『竜児ー、トイレ行きたいからおぶってって』
これはわかった。自然現象、自然の摂理。それを断るほど自分は鬼じゃない。……顔は?知らん。

『竜児ー、さっきの授業でわかんないとこ聞きにいきたいから職員室までおぶってって』
うん、勉強熱心だ。理解の出来ないところは先生に聞く。これぞ生徒のあるべき姿じゃないか。

『竜児ー、教室エアコン効きすぎてあっついのよ。風に当たりたいから――』……以下略。
……確かにエアコンは効きすぎだ。こんな乾燥した空気から、風邪を引く奴が現れ、感染。たくさんの生徒が犠牲になり学級閉鎖へ。いや、高校に学級閉鎖はないのか。何にせよ、昼休みぐらいには窓を開けて換気をしなくては。

文句はない。傍にいると言ったのは自分だし。今日一日、休み時間はまともに確保されていないが、いつも一緒に喋る能登と春田も、高須なんかふんだっ……(揃いも揃ってかわいくない)だし。北村は登校してから、ずっと意味不明の満面の笑み……だし。

そして、気づけば午前の授業は終了。状況は変わりなし。
今日一日、ムサ苦しい男児の友情は育まれていない。
竜児の休み時間は全て、大河の私用で消えてしまっている現状なのだ。

「ちょっとー!無視すんなオルァ!りゅ〜う〜じ〜!ヘーイ!カモン!」

エセ外国人Tiggerが己の名を叫んでいる中、竜児は両手で頭を抑えていた。

それはおかしいだろう。ここが関西なら『何でやねん』とつっこんでやりたいのだ、チョップも付けて。

重い腰を上げ、のしのしと大河の席に歩み寄る。人差し指を一本、逆の手で一本かざして、

「おう大河。問題だ。俺がお前をおぶって、自販機まで連れて行くのと、俺がお前の飲みたいジュースを買ってくるのとでは、どっちが俺は幸せになれる?」
「……そりゃあ、やっぱり、私を連れて行く方でしょ。竜児をパシらせるなんてできないわ……」

そう答えて大河は、大きな目を細め、眉を傾け、「いじめの始まりよ〜」私は善人よ!モード。白々しい演技は普段とのギャップのせいで、呆れるをゆうに通り越し、苦笑いにならざるを得ない。

「何あんた……その似合わねー、みたいな顔は」
「……おう、ずばりそうだよ。俺は表情豊かだから、すぐにわかっただろう」
「あんた……本気で言ってるの……うわ〜」
アンビリーバボー、大河の顔は、ありえない〜あんたの顔は基本が恐だし〜。
言ってはないが多分その辺り。ここまでわかるのだから、大河の方が余程表情豊かだと竜児は思う。もちろん悪い意味でだ。


***


「よう……ていうかもう飯、食ったのか?」

竜児の問いには答えず、代わりにそいつは持っていた飲みかけのミルクティーの缶を手でプラプラしてみせる。

「また、そんだけかよ」
「十分よ」

宝石のように輝く大きく潤んだ瞳。色白という言葉だけには留まらない、真珠のような滑らかな美貌。神のいたずらとも思われる、奇跡の八頭身のボディ
そんな腹黒天使、川嶋亜美は今日もどのアングルから眺めても、やっぱりモデルなのだった。

「……ていうかあんた達のそれって、ネタじゃなかったんだぁ」
「なんで嘘ついてまでして、こんな包帯ぐるぐるしなきゃなんないのよ!なんなら見る?……腫れ上がった私の右足を!足元が狂ってあんたの顔踏んじゃうかもしんないけどそれでもいいなら」
「あんた……そんな口聞いてもいいのぉ?言っとくけど、今のあんたは隙だらけ」

亜美は自販機と自販機の間から立ち上がり、竜児……正確には大河に近付いて行き、後ろに回り、

「喰らえ!」
「うひっ……!!」

大河の背中を軽く、しかし深く、じわじわと親指でプッシュ。まさにつぼ、に誘い込まれた大河は「ひっ……!ひひ、ひひひ!」こんな鳴き声の動物が居た気がする。

「そこまで……亜美ちゃんにはこんな秘められた力が……」

あまりに優美で繊細な顔付きに、誰もが大人っぽいという印象を与えさせる亜美だが、

「ガキかよ……」
「はあ〜?それってひどくな〜い?あたしのなんて可愛いもんよ。いつものタイガーなんて、もっとえげつないこと平気でやってのけるじゃん」
「なにおぅ!?」
「糞生意気なタイガーをやっちゃうのも、今がチャンスだしね〜」
「あ、あんたぁ!足が治ったら覚えてなさいよぉ!全身のありとあらゆるツボをついて、笑い死にさせてやるわ!」
「ザコキャラの捨てぜりふじゃ〜ん!み〜じめ〜」
「クルァ!今やってやんよ!りゅうじぃ!右足空中ニーキックよ!さあ、とべぇ!」

こいやぁ!亜美も早速手を前にかざし、身構える。

「俺かよ……」

大河の『殺れ!』を素直に受け入れる程、ノリは良くない。というより、昼休みに女子生徒に飛び膝蹴りを炸裂させる男子生徒って、一体……
ゲシッゲシッ、と大河の割れ目キックを喰らい続けるが、スルー。当然痛いがクールにスルーだ。


いつもお世話になっている自販機に、いつものように小銭を入れ、オレンジジュースをピッ、缶コーヒーをピッ、取り出してその場の戦線離脱を図る。しかし、

「……てかさぁ〜わざわざおぶることなんてないんじゃないのぉ?」

亜美の甘ったるい、しかし毒気付いた言葉が竜児の逃避を見事に憚る。瞬間、腹黒天使の召還を目のあたりにした。

「だってぇ、普通こういう怪我したらまずは松葉杖じゃん?」
「……それは、だって、大袈裟過ぎるし……心配掛けちゃうし……しょうがないのよ!」
「ドジのあんたがいっまさら全身包帯ぐるぐる巻きのミイラ人間で登場したところで誰も驚かないわよ」
「くっ……!」

大河は口を歪め、亜美を睨み付ける。竜児は反論の出来ない大河に少し同情した。

「ぶっちゃけあんたの魂胆なんてお見通し。どうせ足を都合にして、高須君とずっと一緒に居たいだけなんでしょお?」
「……」

竜児は恐る恐る首を回転させ、大河の顔を窺おうとするが……戻される。大河によって。その細い腕から解き放たれるとはとてもは信じられない力で、竜児の首はあるべき場所へと返される。

「あんたさ、最近高須君に甘え過ぎ、前より。付き合ってるからあんまり言わないようにって思ってたけど」

亜美は時折見せる、ぶりっこ面でも、小悪魔面でもない、真剣な顔付きで、

「彼氏は彼女のサポートを、彼女は彼氏のサポートを。そういうのが交際している男女の在り方じゃん。でもあんたはどーよ。高須君に縋るばかりで何もしてないじゃない。
まあ高須君はそういうの大好きそうだから心配ないと思う。思うけど、あんまり度が過ぎると――」
「川嶋……」

亜美の言葉に重ねるようにして、竜児は割り入る。亜美は一瞬、ばつの悪そうな顔をして「はいはい」さすがは女優の娘か。わかったわかったもう言わない、とでも言いたげな顔を作ってみせる。

「……行くわよ」

コキッコキッ、と首を鳴らして「お、おう」締まらない返事をして竜児は再び歩き出す。

廊下に一人残された亜美もまた、再び特等席に体を入れて、「言い過ぎたか……」少し、自暴自棄。反省。
でもなんとなく、むかついた。だから言ってやった。
大河があまりにも幸せそうだったから、つい。いつもの、いや少しはましになったが、むっつり顔がデフォのくせして、竜児の背中に乗っている時は腹が立つぐらい、

「にこにこしちゃってさ」

手乗りタイガーの普段は見れない貴重な顔を思い出し、吹き出すように、笑う。演技でも外面仮面でもない素の声で。

「まあ大怪我しなくて良かったけどさ」

亜美は柄にもなく、「どっこいしょ」オヤジのように立ち上がり、自身の教室に向かう。

まあ問いただしてやるのも、今日ぐらいは見逃してやろうと思う。
さっきの大河の、図星を突かれて紅潮していく顔があまりにも面白かったから、特別に。


***


今日は肉の特売日だ。
家には大家さんから貰ったキャベツもあるし、千切りにして黒豚トンカツの横にいつものように添えようと思う。
確か、大根もあった。里芋と一緒に煮付けにしてもいいが、それは明日の弁当に取っておこう。大根は味噌汁に入れて、豆腐を入れよう。
あとは卵も今日は安いし、えのき。少し残ってあった。バターと醤油で味付けして、卵と絡めて、えのきのバター炒め。今日はこんなもんだろう。

頭の中で料理の構成をする出来すぎた主婦、高須竜児は今日の学業をしっかりと終え、帰路を一人で歩いていく。実際のところは二人だが。

「一旦家帰ってから狩野屋行くけど、お前どうする、一緒に来るか?」

ゆっくりと首を横に傾け、背中の大河に聞いてみる。

「いい。……だって、恥ずかしい……でしょ。待ってるから。家に居るからまた呼びにきて」
「恥ずかしいって何がだよ」
「今の状況、見られるといろいろ……視線とか……」
「まあ……今更だけど」
「それにね、なんか今日、私……あんたにべったりじゃん。それがなんか嫌なのよ」

押し黙る。理解不能。意味がわからない。散々付き合わせておいて……嫌?なんで?そ、そうか、体臭か……臭いのか。
竜児はさっそく制服の襟を嗅ごうとするが、

「……臭くない」

大河からの奇跡のナイスフォロー。そりゃそうだ。衛生面に絶対的自信のある自分が一人の女の子を体臭で参らせるなんて失態、このきれい好き高須竜児、あってはならないことである。

「じゃあ……何が嫌なんだよ」
「…………」
「……黙ってたらわかんねえぞ」

竜児は歩くスピードを若干遅めて、やがて停止。また大河が尻の方にずれてきたのだ。合図なしで軽く体を上下させ、大河を持ちやすいポジションへ。この作業も今日で何回したことか。

「なんか今日、甘え過ぎてる、私……今更だけど……」
「……お前もそんなこと考えるようになったか。目覚ましい進歩だな。……さっきの川嶋の言葉気にしてんのか?」
「まあね」

なんか――口を開こうとして、少し詰まる。それは横から吹いてきた辻風のせい。寒気で冷えてしまった髪が、大河の白い顔にべったりと張り付く。それを乱暴に掻き分けて、

「――なんか、やっぱりだめだね、こんなんじゃ。悔しいけど、ばかちーの言ってたことって本当のことだし」

辺りはこんな時間だというのにすっかり夕暮れ。橙の夕日は、竜児を、大河を、そこら中のありとあらゆる自然物を緋色に染めていく。それでもこの色が続くのも、もって一時間もなくて。
買い物から帰る頃には、この夕日はゆっくりと姿を消してやがて夜。昼のように肌を覆ってくれる優しい光はなく、きっと朝のように凍てつく冷気に晒されてしまうのは間違いないだろう。



「なあ大河」
「何?」
「……変なこと言うけどよ。俺は別に、お前を背中に乗せること……そんな嫌じゃないぞ」
「……朝、恥ずかしいって言ってた……」
「まあそれもあるけど……あるけどな。……でも、」

橙に染められた大河の小さな顔から目を逸らし、竜児は続ける。

「こうしてたら、お前の存在を確かめられるっていうか……改めて大河って軽いんだなとか、こんな息づかいなんだなとか、変態っぽいけど……なんか気付いたこととかいっぱいあって……」

「エロ犬が!」と罵り、殴り、蹴りのフルコースでもご馳走してくれるだろう……と竜児は考えていた。それでいつもの大河に戻るだろう、と。そう思っての発言だったが、言った言葉もふざけてはなく、嘘ではなくて、本当に思っていたことだった。だから、

「それ、わかるかも……」

大河の反応は意外だった。

「私も。気付いたこと、たくさんある。……竜児の背中って意外に大きいなとか、竜児の髪ってこんな匂いなんだとか……へへっ、これじゃ私達どっちも変態だ」

大河は変態宣言をかまして、「ふへへっ」散りばめられたビーズのような目を細めて、長い睫毛を何度も上下させる。もともとの染まった橙か、それとも紅潮していく朱色か、大河の頬は塗り替えられていく。
竜児は顔の皮膚から段々と、体のあちこちへ熱が帯びていくのを感じ取っていた。

「変態でもなんでも、俺はやっぱり心地良いよ、お前が背中に居ると」
「……本当……?」
「おう、本当だ!だから気にすんな。甘えるとか縋ってるとかじゃなくて、……頼ってこい。俺はお前のパートナー。俺には俺の、お前にはお前の出来ることがあるんだから」
「……私の出来ること?」
「おう!」
「……それって何?」
「……それは自分で考るもんだろ……」

大河は「はあ!?何よそれ!」反応からして少し元気を取り戻したようで、竜児も安堵する。

こんな取りとめのない会話で、自分の心が満たされているのを大河は知らないのか。

何もしなくていい。傍に居てくれるだけでいい。
そんな歪んだ愛情ではもちろんないけれど、こんなことを考える自分に対して、大河はどうなのだろう。想ってくれているだろうか、満たされているだろうか。
背中に感じる小さな熱が竜児をそっと、柔らかく暖めた。

暗くなる前にさっさと買い物を済ませよう。空に浮かぶ橙は思った以上に消えかかっていて、竜児は急いで帰宅する。


***


予定通りの料理の品々を並べ、三人は「「「いただきます!」」」礼儀正しく合掌。
同時に大河の箸は豚カツへ、白米へ、キャベツへ、味噌汁へ。ぶっ……!一度むせてえのきへ、豚カツへ、白米へ。とてつもないスピードでそれらは、二十二世紀の猫型ロボットも仰天、大河の異次元胃袋へ収納されていく。
一体誰がお前の豚カツを食ってやろう、奪ってやろうという。

「こら!ゆっくり食え!喉に詰まらせて救急車でも呼んでみろ!近所迷惑だろ!」

ゴクン、と聞こえるぐらい、今は亡き食物達を飲み込んで、

「あんたは誰の心配してんのよ……」
「お前だよ」
「近所迷惑がどうとかって……」
「言葉のあや、ってやつだ」

味噌汁をズズッ、と一口飲み、完璧だ……。心中で自画自賛。今日も高須竜児の聖なる晩餐に狂いはない。

幼い顔と比例して、頭が少しだけアレな母親の泰子も豚カツを頬ばって「サクッ!ジュワ〜」と自ら実況中だ。サクサクした衣に潜む、黒豚の脂に絶賛ご満悦らしい。

「竜ちゃん、今日もおいしい〜☆」

泰子の笑顔が高須邸の隅々まで行き届き、それに呼応して部屋の温度が上昇したかと思われた。
ややあって泰子は視線を変えて長座をしている大河の方へ。昨日もだったが、足を怪我している為、いつもの正座スタイルは困難らしい。

「大河ちゃん、足大丈夫ぅ?痛くなぁい?」
「うん、えと、まだちょっと痛いくらい……かな」

大河は包帯の巻かれた右足をさすってみせる。圧迫された包帯からでは、おそらく本人も痛いかどうか今ひとつわからないのだろう。

「今日は学校どうしたのぉ?えぇ〜とぉ、何だっけ、まつぅ、はつえ?」
「松葉杖?」

それそれぇ!と泰子は小さい脳にわずかに残されている曖昧なピースを当てはめることに成功し、また笑顔。

「今日はね、ずっと竜児が付きっきりでおんぶしてくれてたんだ」
「ほぇ〜そうだったんだぁ。竜ちゃんえらい!これで大河ちゃんも当分は安心だねぇ。竜ちゃんなら存分に使っていいからね〜!」
「……俺の所有権はお前にあるのかよ……。まあ怪我も二、三日で治るみたいだし、その間は仕方ない」
「竜ちゃんならそう言うと思ったよ〜。それにぃ、竜ちゃんもそんなまんざらでもないんでしょお?」

いつしか泰子の視線は竜児の方へ。不意を突かれて、具のなくなった味噌汁を「ぶっ!」さっきの大河のように吹き出しかける。

「……何がだよ……」
「大河ちゃんをおんぶすることだよぉ〜」

みゃは☆と泰子は意味ありげに頬を緩ませ、箸を置いて「ごちそうさま〜」いつの間に平らげたのか、泰子の豚カツやら味噌汁やら白米やらはとっくに姿を消していた。




「おう……って、今日はやけに早いな」
「実はけっこーもう時間やばいの。ごめんねぇ。ゆっくり食べたかったんだけど」

泰子は宝物の唯一のシャネルのバッグを片手に「行ってくるね〜」早々に玄関に向かう。

「おう」「外暗いから気をつけてね」と返すと、泰子は玄関で靴を履いたところで、両手の親指と人差し指を使って四角を作ってみせた。それをそのまま竜児達に向けて、

「いいよ〜。二人とも〜。絵になってるよ〜」

急いでいるんじゃなかったのか……。箸を動かせながらそれを遠い目で眺めていると、泰子は自前の四角から三十代とは思えないしっとり滑らか肌をちらつかせ、こちらを覗き込んでくる。

「だんだん夫婦っぽくなってぇ、なんかやっちゃん嬉しい!じゃあ行ってくるね〜」

ぎちょん、と鈍い音を立ててドアが閉まる。沈黙が続いて鉄の階段からカンカン、と一定のテンポの音が聞こえ、鮮明に耳に残る。
何だろう?ああ、泰子のヒールの音か。

「「……」」

こんな季節だというのに掌が急に汗ばんだ。
向かいに座る大河のお得意の顔面信号を確認する。もちろん表示は赤……を超えそうなぐらい真っ赤だ。

「「はは……」」

何が可笑しいのだ。笑っているのは大河だけではない、自分もだ。一体この笑っていない笑い声はどこからやってくるのか。全く他人ごと、自分の声のはずなのに。

「……テレビ見るか」
「……そうね……」

そうだよテレビだ、テレビだよ。
家族団らんの会話を弾ませてくれる人類の進化の遺産。そう、それがテレビ。
この気まずい、そしてもどかしい高須家の空気、雰囲気、流れを変えてくれ。変えろ。いや、変えて下さいお願いします!

藁に縋る想いで手にしたのはリモコン。本体にそれを向け、電源のスイッチを、押す。

テッテレ〜。

聞いたこともない謎のオープニングテーマが流れ、ちょうど7時に始まったその番組のタイトルを、有名司会者がよく通った澄んだ声で紹介する。

『必ず役に立つ!花嫁前の女性は必見!主婦の基本家事テクニック100!』

大河の箸の動きが少しだけ遅くなったのに気付くのは、二回目のCMを跨いですぐのことだった。

これだから、食事中のテレビはあまり好きではないのだ。
チャンネルを変えるタイミングを見事に見失い、100のテクニックは二時間にわたる長時間放映で幕を閉じた。


***


大河の暮らす超高級マンション、リビングにあるソファに竜児は体を沈ませていた。

『見てもらいたいものがある』

あの沈黙ディナーを終え、早速洗い物に手をつけていた竜児に、大河はそう言った。

大河をおぶって高須家を出て気付けばリビングに、という空間移動を行ったわけではない。
大河の家は高須家の真横の文鎮マンション。徒歩数十秒で辿りついてしまう距離なのだ。

大河は「ここでステイね」竜児をリビングに置き去りにし、まだ痛む足ではない方の足を使って、器用にケンケンで自室に向かっていった。

「見てもらいたいもの……」

無意識にマイ布巾を取り出して、ガラスのローテーブルを拭きながら竜児は考えていた。

そういえば前にもこんなことがあったっけ。確か去年の夏、大河の哀れ……控えめな乳が発覚した季節。
自分はやっぱり今のようにただ待っていることだけが出来ず、埃という埃を抹殺していたのだ。習慣とは恐ろしい。

とにかく『見てもらいたいもの』がまた大河の水着姿な訳はないだろう。まだプール開きとは無縁の一月末だし。それに大河自身が水着姿を嫌うわけだし。
じゃあ何だ。まさか大河のフリフリふわふわ洋服修復依頼か……?また何かやらかして破ったのか。
しかしどんなに複雑に分裂していようが関係ない。さあ、俺のMOTTAINAI魂よ今こそ覚醒の時!

血走る両眼を見開き、欲望に任せて誰もが見落とすであろうありとあらゆる埃ポイントを攻略していいく。
鬼姑の指チェックなんて目ではない。鬼姑以上に、掃除に関して竜児は鬼なのだから。ちなみに外見云々の話全く関係ない!

そんな当初の目的を忘却しかけた竜児のすぐ横。寝室のドアがゆっくりと開き大河はぬっ、と現れる。

「……竜児……」
「……おうっ!?」」
「……どうよ……」

不意をつかれた竜児は、なんかデジャヴ。呑気に記憶の片鱗に問いかける。

「…お、おう……おっ、おおう……!」

大河はちょん、とリビングの敷地に一歩踏み出して、一歩、また一歩。壁を頼りに片足歩行で迫り寄る。
やがて竜児に辿り着き、体を支えてもらいようやくソファに体を着地させる。

竜児は下を向いてだんまりの大河の目の前、手を文字通りわなわなさせながら立ちすくんでいた。
大河の頭のてっぺんから足のつま先までを舐めるように見ながら。
何も今からこいつを売り飛ばしてやる!我が眼は服が透けて見えるのだ、スリーサイズを言い当ててやる!とか思っているのではない。



白。いやこれは白ではない、純白だ。パールのように輝く生地の正体はおそらくシルクで、大河の華奢で透き通った肌を際立たせる役目を担っている。
もちろん大河の大好きなフリフリもしっかり飾られていて、胸の真ん中には赤のリボン。純白で染められているそれに赤がひょっこりと、ほどけないデザインの蝶々結びがまた良いアクセントだ。
髪は纏めてポニーテール。猫っ毛ロングヘアーは今はすっかり大人しくなっていて今の大河のよう。
悪戯にも真っ白なうなじを直視してしまい、心臓は驚いて悲鳴をあげる。

乾いた、薄い唇を舐める。生唾を飲んだ。

「な、何よ……」

そんな、こいつは危険だ!と、一発で感じ取ってしまう仕草をばっちりキメてしまった変質者に、大河は気味悪そうに目を逸らした。

逸らさせれたって、でも、やっぱり、くすぐるものはある。

「大河」
「……なに……」
「あの、その……なんて言うか、か……かわいい……」
「……は?……え、かっ、川合……?」
「いや誰だよ……」
「えっ、誰だろう……」

現れたのはエプロン姿の大河だ。
『お前がエプロン?……ないない。まず着る機会なんてないだろうな』
そんなずっと昔の、他愛のない会話を思い出す。

前言撤回……認める。エプロン……良いじゃねえか。

竜児の中の美的センスを惜しみなく取り入れた妄想の歯車は、狂ったようにフル回転で回る、廻る。

カビ一つ見当たらないピカピカのシンクの前、包丁でリズミカルに野菜を刻んでいく若奥様(大河だ!)が居て、
「ただいま」自分の存在に気づくと、ニコッと愛くるしい笑顔で出迎えてくれて。
スーツをハンガーにしっかりと、しわが付かないように掛けてくれて(ここ重要!)『おかえり、あなた。ご飯にする?お風呂にする?それとも――わ、た、し?』

我ながらなんて捻りのない妄想だ。自分執筆の小説なんて出版しようものなら、即破産の道を歩むことになるだろう。
だか所詮は妄想、誰にも迷惑はかけないのだから、当然クレームも受け付けてやるものか。



「どうしたんだよ、それ」

平静を取り戻すために時間つぶし、もっともな問いを大河にぶつけてみる。

「買ったの。いいなーと思って、一週間位前に」
「へえ……」
「でもね、着るのは今日が初めて。だって私にエプロンだもん。やっぱり料理も出来ないのに持ってたってしょうがないよね……とか思ってなかなか着れなかったの」

大河は胸の赤いリボンを指でいじりながら続ける。

「……また砂糖じゃなくて塩ぶち込んだり、卵を炭に化けさせたりね」

大河の料理と言えるかギリギリ最終ラインの品々を回想する。確かに、すごかった。あの作品達はある意味、センスを感じさせてくれた猛者共ばかりであったっけ。

「……で、それを着て俺の前に現れた経緯は見ての通りなのか?」
「うん」
「本気なのか?」
「うん」

竜児はソファーに腰を降ろし、大河の傍らに座る。一応聞くけど……と前置きして、爛々と輝く瞳を見る。視線は変わらない。本気らしい。

「それは、川嶋に甘え過ぎって言われたから……それとも、俺がお前に、自分の出来ることをしろって言ったから……なのか?」

さっきから質問ばかりだ。大河のやる気を削いでどうする、と自分に言い聞かす反面、それも駄目だ聞くべきだ、と呟く自分もいた。
少し迷って呟いた自分の方を取った。言ってから、その選択は間違っていないと思った。でも、

「何でそう思うの?」

大河の濡れたように光る大きな眼球に赤色が灯る。

「確かにそれもある、あるんだけど別に今日のことは関係ないの!もっと前から思ってたことだし……」
「話が矛盾してるじゃねえか。やっぱり今日のことで負い目感じて、それで……」
「違うったら!私はもっと前から、……竜児と付き合う前から思ってたことが別にあるの!」
「じゃあその別っていうのは何だ!?」




ああ――!と、かきむしった大河の髪は目の前で乱暴に、しかしふわふわと優雅に舞う。竜児は毛がソファーに落ちる――!と、自分の髪をかきむしる勢いで絶叫するが言葉には出さない。なぜなら話は終わっていない。

「私は!あんたに私の手料理を食べてほしいの!」

毛が二本、ソファーに落下したのを確認して、

「そんで……笑ってほしいのよ!」
「え……ええっ!?」

亡き父?から引き継いでしまった迷惑極まりない顔面に何度か触れ、竜児は困惑する。
今までしてきた自分の笑顔はやっぱり他人から見ると、笑顔ではなかったのか……。
わかっていた気もするが改めて言われるときつい。しかも大河に、こんなに、こんなに身近に居る奴に。恋人なのに。

これほど心をえぐり出し、根こそぎ奪い去る言葉があるだろうか。ああ、そういやこいつは大河だったっけ……ならあるか。

「俺、結構頻繁に笑うぞ……」

絞り出した返事は情けない事実否定。泣きそうになる。

「そ、う、い、う、意味じゃ、ない!」

えっ、そうなの……良かった……と心底から喜びつつも、竜児は大河の妙に、遠回しな文脈にそろそろ若干の苛つきを覚えていた。

「なんだよ!?じゃあどういう意味だよ!?誤解させないよう一気に答えてみせろ!」

大河はちょっと黙って、言いにくそうに口を何度もパクパクさせて、ようやく観念したかと思えば、

「あんたの料理で私が笑顔になるように、あんたにも私の料理で笑ってほしいのそれ以外にどんな意味があるのよ察しろ馬鹿竜児!」

一気に答えた簡潔な解答は、結構恥ずかしいものだった。

「お、おおう……」

頭に引っかかっていた糸はするりと解かれていき、湧き上がる胸からの衝動に耐えつつも、勢いの増した心臓からの鼓動に耐えつつも、
クリアになった頭で思い出したことがいくつかあった。



「いつもあんたの料理はおいしくて、そのたんびに、私は笑顔になってた。……だから、私も……」

横暴で乱暴で、がさつで、適当で。

「……頑張ってみたいの!エプロンを買ったのも、今日のことも、ただのきっかけなわけで……」

そのくせして、繊細で、寂しがり屋で。

「……ようするに!私も乙女なの!……か、彼氏とかに、そ、その……手料理、そこそこ……並みに……平均的に、振る舞いたいの!」

プライドが高くて、意地っ張りで。そして、

「竜児……?……うわっ!?」

真っ直ぐで、もの凄く愛おしい。
柔らかくて華奢な体を傍で感じたい。気づいた時には、すでに大河は腕の中にいた。

「……頑張れ。俺がご指導してやる」
「……賛成して、くれるの?」
「当たり前だ。上手い手料理食いたいしな」
「……期待しないでね……いや、やっぱりしといて。そうしたら中途半端にならないし」
「……おう、わかった。期待してるよ」
「ありがと……」

忘れることの出来ない大河の料理を全部、脳から蹴り飛ばしてやった。
これからスタート台に立つ大河を、頑張れと叫びながら、隣で見守ってやるのだ。
あきらめの悪い大河ならきっと、最後までやり遂げるだろう。
中途半端になんて絶対ならない。今までの大河を知っている自分だからこそ、自信があるのだ。こいつはそんな女じゃないと。

その時、大河の髪を結んでいたゴムが解かれて、ソファーの下に落ちた。
貴著面な竜児はそれを拾ってテーブルに置き、「ムードぶち壊し……」と大河は呟いた。
竜児は立ち上がり、汚名返上と言わんばかりに、大河を膝に乗せ再び抱きしめる。
二人分の体重でソファーはさっきよりも深く沈んでいった。

竜児は今、好きな奴いる?と聞かれれば、大声で即答出来る気分だった。俺は!大河が!好き!とかなんとか。
しょうもない茶番だ、と言う奴らをみんなぶん殴ってでも伝えたい、溢れんばかりに噴き出すこの感情を。
くさいだろうか、セリフ的に。知るか、こっちはもうずいぶん前からはずいポエムとか書いてんだよ!そういう階段はもうとっくに昇ってんだよ!口出しすんな!
竜児は自問自答の渦に巻き込まれながらも、掴んだその体は絶対に離さない。





近づきたくて、近づきたくて、触れ合った零距離ではまだ足りなくて。それでも身体は確かにそこにあるから、これ以上はどうしても近づけない。

動物の本能に従って、身体を大河に重なるように強く強く抱き寄せるけど、やっぱり愛おしいから、苦しくないよう傷つけないよう、回した腕はガラスの人形を扱うように。

目一杯に嗅いだ匂いは甘い、そしてどこか優しい。背中で感じた香りとは違う、全くの別物。和らいだ安心感を与えてくれるのに、そこに磁石があるみたいに強く引き寄せられる。

「大河」

強力な磁力に体も心も一旦は持っていかれてしまう。しばらくして名残惜しさを感じながらも一度体を引き離す。
紅潮した頬に軽く手を触れてみせ、熱を帯びた体温を掌で感じ取る。だって、大河の顔を見たかった。

「……竜児」
「なんだよ」
「そんな……見ないで、よ……」
「……なんで」
「は、恥ずかしいのと、目のやり場に困るのと……い、いろいろ……」

大河は竜児の方から視線を逸らして、適当な場所に目を泳がした。

身の内をじたばたと駆け巡る。それはただの欲求なのか、確かめる術はないのだけれど、くすぐったくてもどかしい。たまらなくて狂おしい。

大河の目の先に先回り。ばちん、と目があって大河は石化したかのように動けなくなる。ちょっぴり意地悪かもしれないけれど、何度も閃かす瞳を強引に覗き込む。

大きく潤んだ瞳は、まるで広大な大海のよう。限界まで引きつけて引きつけて、その先、何が待っているかはわからない。恐怖さえ感じさせるけど、どうしても辿り着きたいとも思ってしまう。
大波が襲いかかり、遙か彼方の外国にでも流されるのか。たまったもんじゃない。でも、体は、心は、魂は、素直にそれを知りたがっていて、竜児は無謀にもその荒波に立ち向かう。

本当は緩やかだった波は、やがて静まり、

そして、その先を竜児は知る。いや知っていた。大河も知っていた。ずっと昔から決まっていたかのように、至極当然なことのように。
互いの目線を放さないようにしっかりと。絡みつくように括りつけて距離を縮めていく。



気付けば、額と額はくっついていて、もう駄目、これ以上は近づけない。それがわかると今度は鼻と鼻を引っ付ける。これも、もう駄目。
吐息と吐息がぶつかって、もう駄目?ううん、まだ行けそう。ならもう少しだけ。

時間の流れがそこだけゆっくりになって、唇と唇が触れる。日を増す毎にそれは熱くて、ゆっくりで、深くて、溺れかけて、沈みそうになる。でも実際は天にでも昇るかのような至福、幸福、歓喜。いろんな言葉があるけれど『幸せ』きっとその類。

求め合って、何を今更、わかっているくせに。大河だ、竜児だ、確かめるように潜り込んでは安堵する。目指した場所は、ちゃんとそこに在ったから。

頭は雪が覆い隠すように真っ白になって、体は湧き上がるマグマのように真っ赤になって。この二つが混じり合う時、もう無理だ。耐えられない、この体は。

思考が追いつかない。冷静になろうと試みるけど、やっぱり無理。大河を欲して貪って、これじゃどっちが虎だかわからない。

「りゅうじぃ……」

大河の儚くて、か細い声が聞きとれる。脳髄が溶けそうになるのを何とか持ちこたえて、「……大河、大河。……俺の、大河」必死にそれに答える。

「……束縛する男って嫌われるよ」
「うっ……悪い、なんか、つい……」
「でも安心なさい。私は例外、特例。そんでもってプレミアなのよ。だから大事にしなさいよね」
「……おう」

家の中でも十分に寒い夜。暖房を起動させれば良いだけのことだけど、やめておいた。何となく、気分ではなかったのだ。
冷えてしまった体が、今はちょうど良い。
震えてしまうぐらい寒い夜でも、今日はほんのり温かい。温かいし、暖かい。

かくして竜は遙かな天を駆け上り、虎は無限の大地を駆け出した。幾多の分岐点を通過して、最後に行き着く所には、望んだ未来が竜虎を出迎えた。
その後も見えなくなるぐらい、果てしなく続くのだけど、きっと大丈夫。つまずいたら、手を取り合って歩けばいい。
泣いてしまっても大丈夫、最後には馬鹿みたいに笑いあえるのだ、きっと。


***


目が覚めると、竜児が横に居た。
普段の三白眼はすっかり封印されていて、年相応の優しい寝顔に大河は見とれてしまう。

普段の顔も好きだけど、やっぱり不思議だった。いつもは竜児が自分を起こしに来てくれて、目覚めの悪い自分を宥めてくれて。だから、

「寝てるんだ」

竜児の寝顔なんてそうは見れない。まさしくプレミア、限定品。よし、写メで撮ってやろうと携帯を取り出してピロピロリン♪へんてこな音と同時に、画面に写し出されたのは竜児、当たり前である。
当然保存して、反応のない竜児の頬を軽くつついてみる。……やはり動かない。それがなぜか可笑しくて、「ぷっ……くくく」思わず腹の底から声を漏らしてしまう。

時計の針の短い方は現在五の付近。外はまだ朝日も出てなくて真っ暗だ。今日も学校があるわけだけど関係ない。
さっそく目蓋のシャッターがゆっくりと閉じていく。しかし気合いでこじ開けてみせた。

「……いつもありがとね、竜児」

頬に軽いキスをする。自分からやったくせに、何だろう……すごくどきどきして胸が熱い。してやったり!みたいな感じでやったのに、なんだこの敗北感は。これじゃあ竜児を出し抜けない。

いつの間にか頭の中は、どうしたら竜児を驚かせるか談議に発展していて、「そうだ!」張り切って立ち上がる。

右足首の腫れは結構ましになっていて、少し歩いてみたけど全然大丈夫だった。
どうやら己の体は頑丈だけでなく回復力も半端ないらしい。
今日は自分の足で登校か……と、気が沈む。でもすぐに、まあいっか。竜児のおんぶも惜しいけど、今はこれだ。
大河はテーブルに丁寧に畳まれたエプロンを手にし、さっそく台所に向かう。




竜児が起きるのは多分あと三十分くらい。
エプロンを着て、仁王立ちの自分を見たらどんな反応をするだろう。

ちょっと驚いてから、すぐに一緒にキッチンに立ってくれて。その後、料理の手ほどきをしてくれて、ちゃんと出来たら誉めてくれて。竜児のことだから、きっとそんな感じだ。

様々な期待が募る一方、そうだ!忘れてた。昨日は酔ったみたいに気分が舞い上がって、結局言えてなかった。昨日はいつもよりふらふらで、言う暇さえも与えてくれなかったのだ。

大河は台所からUターン。天蓋ベッドのある自室に向かい、扉をゆっくり開け、そこで静かな寝息を立てた少年に近付いていく。物音を立てないようにそっと。
触れるか触れないか、ぎりぎりのところまで口元を寄らせて、

「……竜児、好き。本当に、大好き……」

わざと聞こえないぐらいに呟いた、大河の温かな息が竜児の耳をくすぐった。

カーテン越しに、光を乗せた太陽が顔を出し始めたことに気付く。

――きっと、今日も良い日になる。





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