爽やかに、にこやかに、竜児とみのりんは微笑みながら軽く拳を打ち合わせる。
「それじゃあ高須君、大河の事はまかせたよ!」
「おう、まかせとけ。俺はずっと大河の隣に居るからな!」
 だが二人の胸は深く断ち割られ、心臓から真っ赤な血が流れ出している。

 私はといえば、
 やめてと叫びたくとも声は出ず、
 見たくなくとも瞼は閉じず、
 逃げたくとも脚は動かず。

 みのりんが去っていく。竜児が近づいてくる。
 爽やかな、にこやかな……貼りついたような笑みのままで。

 気づけば私の胸も断ち割られ、痛みとともに血が流れ出している。

 三人の血は足元に溜まり、流れ出して川となり、集まって湖となり、地の全てを覆う海となり、
 水位は見る間に上がり、私はそれに飲みこまれ、





 布団を跳ね飛ばすように身を起こす。
 荒く息をつきながら胸元を押さえる。
 目が覚めれば、夢の痛みは溶けるように消えていく。だけど胸の奥に残る鈍い痛み。

 原因はわかっている。ほんの数メートルを隔てた所で眠っているであろう、
「竜児……」
 思わず漏れた声を飲み込むように口を押さえる。
 呼んではいけないから。頼ってはいけないから。

 暫くは眠れないだろう。
 ベッドから降りてふらふらと歩き、南側のベランダへと出る。少しでも竜児との距離を取りたくて。
 銀色の月の光が静かに街を照らす。冷たい夜風が肌を撫でる。
「寒い……」
 呟きと共に漏れた息が白く濁る。
 自分で自分の体を掻き抱き、そのまま大きな窓に背を預けて座り込む。
 冬の空気が体温を奪っていく。このまま胸の中で燻る熾火の熱も奪ってくれればいいのに。

 なんとなく目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは目つきの悪い男の――竜児の姿。
 それをきっかけに止める間も無く、記憶の淵から数多の思い出が溢れ出す。
 最初は、廊下で尻餅をついて呆けてる姿。なぜだろう、あの時は特に気にも留めてなかったはずなのに。
 それから、必死で鞄を取られまいとする竜児。狭い部屋で逃げ回る竜児。
 そんな酷い目にあわせたのに、私が倒れると心配そうに覗きこんで。チャーハンまで作ってくれて。
 今思えば、自分はなんと理不尽だったのだろうか。
 犬呼ばわりして、身の回りの世話をさせて、わがままも一方的な要求も罵倒も数知れず。
 それなのに竜児はずっと傍に居てくれた。
 楽しそうに掃除をしていた。ご飯が美味しいと言うと嬉しそうに笑った。
 文句を言いながらもけっこうわがままを聞いてくれた。
 自分の事をそっちのけで私の為に努力してくれた。
 心配してくれた。泣いてくれた。怒ってくれた。

 そして――そのせいで――竜児の想いは壊れかけてしまった。
 竜児が好きなのはみのりんなのに。みのりんは私と竜児を一緒に居させようとして。竜児から離れようとして。
 
 時が戻ったら、もっと竜児に優しくするのに。
 時が戻ったら、もっと竜児の恋を手助けするのに。
 時が戻ったら……竜児を好きになったりしないのに。





 冷えて強張った体をのろのろと起こす。
 寝汗でべたつくパジャマと下着を脱ぎ捨て、軽くシャワーを浴びる。
 クローゼットから取り出したのはふわふわとしたワンピース。
 あの日着ていたそれを身につけ、寝室の窓を開ける。
 あの日と同じように隣家の窓際へと降り立つ。
 あの日と同じように足音を忍ばせ、部屋の中に侵入する。
 あの日と違うのは木刀を持っていないこと。竜児を起こさずにベッドの傍まで行けたこと。
 
 静かに眠る竜児を見つめる。
 無防備な寝顔にそっと近づくと、久しぶりに感じる竜児の匂い。
 そのまま竜児の傍に体を横たえたくなる衝動を抑えこむのに数秒。
 そして、一瞬だけ竜児の唇に自分の唇を重ねる。

 これは、愛情のキスではない。そうであってはいけない。
 だからこれは、ただのあいさつのキス。
 ただのおやすみのキス。
 ただの――さよならのキス。

 これで全部、おしまい。
 これから私は一人で生きていく。生きていってみせる。


「おやすみ、竜児」
 呟いてドアを閉める。
 階段を下りてふと空を見上げると、星が一つ、流れて消えた。




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