「ふああ……」
「んん……おあ……」


連なる雨音はしとしと。


「マネしないでよ」
6月初旬の日曜日。午後2時17分。人生でもう何度か分からない、欠伸の伝染を確認。
マネするなと怒られても、移っちまったものはしょうがないだろう。でもきっと、こいつはそんなこと言っても聞かないだろう。
「・・・おぅ」
投げやりに返事をして、体から根の生えかけていた畳を置き去りに。
こんな湿気じゃ、ただ寝ころんでいるのも嫌になる。生ぬるく肌に纏わりついては毛穴をふさぐ嫌らしい空気。
「・・・ねえ」
昨日はわりとがんばって勉強したし、こんなにやる気の起きない昼下がりもなかなかないだろう。
寝ていたわけではないのに夢見心地の右脳を覚醒させたくて、窓を開ける。
「はぁ……」
不意に鼻をつき、それからすっと肺に流れ込んだ雨のにおいは、実は嫌いではない。このまま無限に、いつまでも続きそうな雨音のセッションが心地よい。
付きまとう不快な空気は、たちまち入梅の雨音の中に溶け込んでいく。思わず息をつき、振り返る。
朝早くのぼやけた空に、名残惜しそうに寂寥たる白い顔を覗かせる月のような、たぶんこの雨に打たれてもその淡い輝きは失われないだろう大河の顔色。
真っ直ぐにつきつけられた奥深く炯炯と光る瞳。改めて見上げた無限に広がる灰色の雲と、どちらの引力が強いだろうか。
「なによ、さっきから溜息ばっか。どうしたっての」
「ああ……」
この虚無感にも似た脱力は、別に現実に失望したからだとかではもちろんないし、せっかくのデートが流れてしまったからでもない。
失望できる現実などそのへんにいくらでも転がってるし、いちいち現実はこうあるべきだと望むなど、そんな大層なことをしている暇も、もともとない。
デートが流れたのは、そりゃあ確かに残念だ。といっても息抜きにちょっと遠くの公園でも行って、二人で弁当でも食おうかと思っていただけだし、
大体がこの部屋でゴロゴロしているだけでも、大河といるという根本的な目的は達成されているわけだし。
「……おぅ!?」
――突然背中と腰の間の部分に右ストレートの衝撃が走って、思わずでかい声が出てしまった。
「さっきっから!どうしたのって!き・い・て・ん・の」
どうやらお姫様はご機嫌斜めのようだ。ジメジメと息苦しいこの空気のせいか、デートが流れたせいか。
現実への失望は…、まぁ、いつもしているか。
「ああ、いや、梅雨はやっぱすることがねえなあと思って」
「もう朝からずっと雨だもんね」
喜びは倍に、悲しみは半分に。
二人でいれば、などとよく言われるが、実際はそれだけではない。
幸せは倍どころじゃないくらいに膨らむし、梅雨の不快感や不機嫌は、おつりが必要なくらいに解消される。ちなみに食費は2,5倍だ。
「洗濯できねえし、湿気も容赦なくなくたまるし」
「肌はべとべとするし、髪の毛もぼわぼわになるし」
二人でグチグチと呟きながら、ベランダのサッシに腰掛ける。全開にした窓は、二人で座ってぴったりおさまる特等席。
ひんやりとした風が顔を撫でてくれる。やわらかな栗色の髪をゆるりと持て余すようになびかせる大河は、まさにフランス人形。
となりで同じ風を感じて気持ちよさそうに目を細める大河をみて、もうお釣りを払ってやっていい気分になる。
ウエーブヘアに勝るとも劣らぬ美しさの、しっとりと踊る漆黒の長まつげ。
この人形の瞳は、その眼睛(くろめ)は、きっと黒真珠でできている。跳ね踊る透明な雨粒が反射する僅かな光を、すべてそこに飲み込んでいくようで。
身勝手な心臓は、突然激しく脈を打つ。





「……お前、髪いつもぼわぼわじゃねーか。ぼわぼわっつーか、ぼさぼさ」
この鼓動が、しんしんと流れる梅雨の足音にうまく紛れてくれるか不安で、いらぬ言葉をつないでしまった。
「そんなことないわよ。ああでもほんと、やばいかも。ここのハチのとことか、毛先とか…」
大河の不機嫌も、雨とともに流れてくれたのだろうか。
おちょぼ口を作って少し拗ね顔、自分の髪の毛を顔の前につまみ出して、くりくりといじるその柔らかさに触れたくて――
「へぇー…」
「うゎひゃ!」
「おぅ!す、すまん」
思わず手が伸びていた。不意にぶつかった手に驚いた大河に、その倍の驚きを持って返してやる。
月の白光から、陽だまりのあかみへ。
なんであんたが驚くのよ、と眼で語る大河のその頬は、温かい血のぬくもりを感じさせる優しい薔薇の色に染まる。
梅雨の初めの灰色空。朝から振り続く雨に、天気予報の傘マーク。もしかしたらこの時期は、赤色の成分が足りなくなるのではないか。
嫌いではない雨を大河と見て、不快さもなくなったはずなのに少しだけ鬱々とした気分だったのは、赤色不足のせいだったのかもしれない。
「べつ、別に、いいけど……」
大河の表情は滴り落ちる前髪に隠れて不明。ただ伸ばした手で触れた、前髪のふわりとした感触ははっきりと。
「な、なんだよ……。つうか大河、ほんと髪柔らかいな、お前」
「普段はいいけど、この時期はあんたみたいな直毛が正直うらやましい……髪、ちょっと伸びたね」
そうか?とかなんとか返事をしたと思うのだが。一秒前のこともこの脳みそから吹き飛んで行ったらしい。
ゆっくりと、先ほどの鋭い右ストレートとは正反対に丁寧に、懇ろ自分の額に伸びる指先を、この眼はどんな鋭さで追っていることだろう。
今更この目つきが恥ずかしくなったのと、眼を隠せば感覚が研ぎ澄まされるかもしれないという安い期待から、ゆっくりと眼を閉じる。
「うん、伸びた伸びた。前髪とか、ほらこんな」
髪の毛に感覚器官はない。それでも大河の人差し指の中で踊る自分の前髪あたりから、優しく撫でられる心地よさが確かに感じられた。
「おぅ…大河、顔…」
前髪を安撫していた指が止まったのに気づいて、眼を開けた。そしたら、そこにあった。
その小さな身体は乗り寄せるように膝の上。穏やかに目を細める大河。
あまりに近づいていた大河は、その頭は、その髪は、その顔は、その鼻は、その目は、その口は、その全ては。
「……」
「……」
しなやかで、優しくて、艶やかで、つややかで、透き通っていて。ゆらゆらと、ふわふわと、爛々と、つやつやと。
雨音はもう聞こえない。でも雨が止んだわけではないだろう。
前はもう見えない。目の前の光がまぶしすぎたのだろう。
時間の感覚はもうない。もしかしたら時は止まっているだろう。
「……ん」
感じるのは唇の柔らかさだけ。そのふるえるたわやかさに、思考も吹き飛んだ。脳の皺がほどけて伸びていくような、淡い、しかし焼けつくように熱い感覚。
重ねた部分を確かめ合うように一度距離を置く。直後、満たされぬまま引きはがされた大河の花唇を猛烈に求めて、体が熱を持つ。





「……んふ」
「……っ」
捕まえたそれを、もう二度とはなしたくなくて。息をしていたかもわからぬまま、吸付くように。
大河の唇を全部含んでしまって、ゆっくりと撫でる。角度を変えて。全部がほしくて。次は大河が。むさぼるように、肉食獣の激情で。
受けた分を、そのまま返してやる。吐息を感じる。時折漏れだす大河の官能的な息遣いに、頭の毛細血管は破裂してしまうかもしれない。
「…は……んっ……ん」
朦朧とした意識は、ふわふわとした浮遊感に変わる。
意識よりも厭らしく動く自分の唇に、大河も反応する。大河も感じているだろうか、この熱さを。大河の唇も、同じように自分を求めているのがわかる。
「……んは、ね、もう一回…」
ねっとりと混ざり合った唾液を確かめるように、ゆっくりと唇を放す。眼の前の明澄と輝く、赤みを帯びた顔を改めて見る。
この感情は、大河の中にも流れているのだろうか。
とろん、と眠そうにも見える、朧げに揺れる光を孕み持つ大きな瞳を見て、ふと我に戻った。
「一応外だぞ、わかっ」
「ね…」
全て言いきらぬうちに、大河の小さな手に頬を撫でられた。
「お前も突然スイッチ入るのな……」
お前も、と言った言葉に少しだけ反省の意味を込めようとしたのを、きっと大河は気付かないだろう。
突然入ったスイッチは、どうもお互い簡単には切れそうにない。とりあえず反省は後回しだ。
「……誰のせい?」
膝乗りの大河に押されて、部屋に倒れるようになだれ込んだ。
乗りかかってきた大河の体はあまりにも軽い。
「ふへへ……」
悪戯に笑う顔を見て、いつまでも無限にわきあがってきそうなこの愛しさが、自分の中に留めておけなくなりつつあると悟る。
「…たいが」
どうしていいか分からないまま、その名前を呼んでみた。変わらない。
名前を呼んで出て行った分の倍、体の中心から熱いものが湧き出してくる。
やり場に困った腕を大河の首にまわしてみる。右手が、やわらかな髪を指が泳ぐように梳き分けていく。何よりも滑らかな手触り。
「りゅぅ…ん…」
呼ばれた声を、すべて聞かなかった。聞いたらきっと耳は溶け落ちる。
三度目。触れ合って足りず、吸付いて足りず。行き場を失った激情に任せて、舌を押し込む。歯の壁をこじ開ける。ぐにゃぐにゃとした、居心地の悪さ。
歯茎を摩撫するように、舐めまわす。大河とぶつかる。温かい、大河の温度を感じる。血の通った、大河を感じる。同時に、少し恐ろしくなる。
もぞりと動くそれが、妙にリアルを感じさせる。舌の先から全身へ電撃が走って、毛穴が全て開いたのがわかる。襲い来る寒気と熱狂。
どうすればいいかよくわからなくて、不器用に擦る。撫でた舌同士は絡み合うように。ザラザラと頭の中で音がする。唇で大河の息遣いを受け止める。
一番奥で、分かり合う。大河、大河。
「…たいが…」
「…りゅ…じ…」
融解してしまった唾液のように、いまお互いの感情は溶け合っているだろう。竜と虎は、求め合う。並ぶだけで足りず、一つになりたくて。
大河の中身がすべてとけて落ちて来そうな気がして、何一つ落としたくなくて、すべてを受け入れたいと願う。
「……」


重なる想いはいとしと。


「……あつい」
「汗、かいちまったな」
「…うぇ、べとべとする…」

この雨はまだ、やみそうにない。

「わたしシャワー、あびてこよ」
「……一緒に入るか?」
「…………ばか」

この熱はいつまでも、冷めることはない。



おわり。



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