「あ」
思わず呟いた目の前。
開けたクローゼットの中に入っていたのは・・・。



『繋いだその手はそのままで』



「そういえばもうすぐ文化祭か」
夕焼けに染まる空を見上げながら、竜児はマイバッグを持った手を上に伸ばして大きく伸びをした。
「今年はどうするんだろな?北村も、狩野先輩に負けないことするって言ってたけどな」
「どうなのかしらね?」
相槌を打ちながら、大河は、はむっと手の中の大きなドーナツに喰いついた。
買い物帰りの商店街。
さっき竜児にせがんで買ってもらったものだ。
「うまいか?」
「相変わらず微妙」
以前に買ったときと全く変わらない味に、大河の眉が僅かに歪められる。
その様子に、思わず竜児の顔に苦笑が浮かぶ。
「ならあんなに買ってってせがむなよ。前ので懲りてんじゃないのか?」
「だからこそよ。だってあの味で、この一年つぶれずにいたわけよ?期待してもいいと思うわ」
言われて、なるほどと竜児も頷く。
「で、感想は以前と変わらず・・・か?」
「ええ。もうハッキリキッパリ以前と寸分違わずよ」
それはそれで、ある意味すごいなと思った竜児の鼻先に、にゅっとドーナツが差し出される。
「なんだよ?」
「あんたそういえば食べてないじゃない。食べて感想言いなさいよ」
「いらねーよ。そもそも夕飯前だってのに、お前がせがむから買ったんじゃねーか。責任もって全部食え」
「うー・・・」
ピシャリといわれて、大河が唸りながらまたドーナツに喰いつく。
その様子に、竜児の顔が僅かに綻ぶ。
以前の大河であれば、先のような言い方をされれば、暴れる、殴る、噛み付く。無理矢理竜児の口に突っ込んで、挙句の果てにドーナツを投げ捨てる。
自分の気に入らないことは気に入らない。
そんな風に振舞ったに違いない。
なのに今は、不承不承ながらも、おとなしく全部食べようとしている。
それはこの一年で、二人が培ってきたものの重さを現していた。
それに気付いて、竜児の顔が綻んだのだ。
「大河」
「なによ?」
「気が変わった。俺にも一口くれよ」
「ほんと?」
ぱあっと光が差したような笑顔。
ドンだけ不味いんだよ・・・言った傍から後悔する竜児。
「一口って言わずに、もっと食べていいよ」
「お前な・・・」
ほらほらあーん、と目の前に出されたドーナツに、ぱくっとかぶり付く竜児。
今後二度と、ここのドーナツは買うまいと心に決めた瞬間だった。







「あ、竜児。今日さ、ご飯食べたら家まで送ってくれない?」
「ああわかった」
何の疑問も抱かず手拍子で返した竜児の意識は、今やジューッと油の跳ねる音をさせるフライヤーに注がれていた。
トンカツを揚げるのには時間との勝負だ。
1秒・・・いや半秒。引き上げるのが遅れただけで、その味は激変してしまう。
その瞬間を見極めるために、竜児はその全神経をこの一瞬に注いで・・・。
「ねえ聞いてんの!?」
「おわあ!!」
台無しにされた。
「お前いきなりおどかすな!!」
どん!と背中を突かれて振り返った目の前には、少しむくれた手乗りタイガー。
「竜児が話し聞いてないのがいけないんでしょ!!」
「お前今俺がなにを・・・って、ああっ!?」
慌ててフライヤーに向き直るが、既に時は過ぎ去っていた。
「あああ・・・揚げすぎた・・・」
菜箸で持ち上げたトンカツを見ながら、がっくりと竜児が肩を落とす。
「なによ?綺麗なキツネ色じゃない」
持ち上げられたトンカツを見て、大河がグーとお腹を鳴らした。
「お前わかってないな・・・」
そんな大河に、ギラリッと鋭く光る眼光を向ける竜児。
手前・・・俺の仕事の邪魔しくさってなんだその言い草は!?お前も、この灼熱の油でこんがりキツネ色にしてやろうか!?・・・などと思っているわけではなく、ただ単に真剣に説明しようとしただけだ。
「今日のはスーパー狩野屋でも最高級の、鹿児島産黒豚ローストンカツ用、お一人様2000円なんだぞ?
サツマイモのみで育てたこの肉は、寄生虫の心配が無く、豚肉の中でも生に近い状態で食べても問題無しという優れものだ。
故に、この肉でのトンカツの揚げ方は、中にほんのり赤みが残るくらいに揚げるのがベストなんだ。それをお前、揚げ過ぎたら元も子も・・・」
「ハイハイ。わかったからそれ運んでよ。話し聞いてたらお腹減っちゃった」
バッサリと一言で切られ、竜児は無言でそのトンカツを、広げていたキッチンペーパーの上に置いた。
その背中には、ほのかに哀愁が漂う。







「んで?さっきなんて言ったんだ?」
サクサクと包丁でトンカツに切れ目を入れながら、竜児が背中越しに問い掛ける。
あらかじめ切っておいた千切りキャベツを皿に盛ってから、切ったトンカツを包丁の腹に乗せて皿に移す。
少し重なるように置いた方が、キャベツがトンカツの油を吸っておいしくなる。
「ほらやっぱり聞いてなかった」
「仕方ねーだろ。集中してたんだから」
二人分をテーブルに、残る一つにはラップを。
トンカツだけ温め直すように、キャベツは別皿に盛って冷蔵庫へ。
その際、作り置いていたポテトサラダを取り出す。
大皿から少し取り分けた小皿にもラップ。冷蔵庫に戻す。
よし。これで泰子の分はOKだ。
軽く頷いて、竜児はポテトサラダと小皿を二枚持って席につく。
茶碗と味噌汁は大河が既に運んでいた。
ご丁寧にご飯も盛ってある。
「お、ありがとな大河」
「ふふん。これくらいならお安い御用よ」
少し胸を張る大河に、また竜児の顔が綻ぶ。
前は『これくらい』でも面倒臭がったのに。
「助かるよ」
「いいのよ。フォ、フ、フィアンセだもの」
言いながら真っ赤になる大河。
つられて真っ赤になる竜児。
なんともいえない空気が場を支配する。
「・・・照れるなら言うなよ・・・」
「い、遺憾だわ・・・」
しばらくお互い、俯いて向かい合う。
『あー、未だにあの二人にはキス以上はないね。間違いない』
先日聞いた櫛枝実乃梨の推測通り、まだまだ初心な二人なのだった。







「・・・で?なにがどうしたって?」
「ん?なにが?」
パクパクと忙しなく口を動かしながら、大河が頭にハテナマークを灯す。
こいつ忘れてやがる・・・。
先の硬直から5分。
ようやく食べ始めた夕食に、大河の脳はその全神経を注いでいた。
「いやだからさっき・・・ああ!お前そんなドバドバソースかけんな!!」
「なによ煩いわね。どう食べようと私の勝手でしょ!?」
「んなわけあるか!いいか?この黒豚という肉は、肉自体にほのかな甘味がある!それに加えて、俺が素材の風味を殺さないように下味をつけること万全だ!正直、ソースなど無用と言っても過言ではない!」
あまりの力説に、大河が思わず半眼になる。
「・・・あんたって、たまにミスター味っ子よね」
「それを言うならクッキングパパにしてくれ」
最近の流行だからな。
そう付け加えたフィアンセに、大河が少しだけ『こいつでよかったのか?』とか思ったとか何とか。





「あーはいはい。んで?なによ?」
「ん?ああ。さっき言ってたろ?なんか俺が聞いてなかったとか」
「ああそうだ。帰りさ、家まで送ってくれない?」
「え?」
驚いて竜児が顔をあげる。
箸を止めてまで。
「い、いいのか?」
無言で大河がコクリと頷いた。
ここで竜児が驚いたのには訳がある。
実は大河はいつも、高須家からの帰りは一人で帰る。
いくら竜児が送ると言っても、頑として首を縦に振らなかった。
あまりの頑なさに、もしかしたら自分を大河の両親が良く思ってないのかとも考えた。
後に、それは違うとはっきり否定してくれて、両親とも歓談できたことで心配は晴れた。
じゃあなんだ?竜児の意識は必然とそこに行き着く。
でも大河は、何度理由を聞いてもしばらくは答えてくれなかった。
根気よく聞きつづけて、やっと最近教えて貰えた。
その理由というのが『喪失感』なのだそうだ。
「竜児がね、私に背を向けて歩き出すでしょ?そうするとね・・・胸の辺りがキュウッと締め付けられるの。それで走り出して抱きついて離したくなくなるの。でもそれは出来ないから・・・我慢するとね、胸がホントに痛くて・・・だから送られるのは嫌なの」
ともすれば熱烈な告白ともとれる台詞を、大河は本当に申し訳なさそうに言った。
そこまで思われてる自分に、竜児が感動したのは言うまでも無い。
そして反面。
自分も、大河を送り出す時に同じ気持ちだといいかけた。
しかしそれをすんでで飲み込んだ。
言ってはいけない。
言えば大河を困らせる。
喜んでくれるだろうことは想像に難くない。
しかしその反面、大河は自分を気遣って余計な傷を負うだろうと竜児は考えた。
自分だけ甘やかされて、竜児にだけ苦しみを与えてる。
そんな風に悩むだろうことも容易に想像できた。
だからこそそれは言えない。言ってはいけない。
そうして今に至るまで、竜児は自分の胸の裡を隠したままでいた。
そんな折に、大河からの一緒に帰って宣言である。
嬉しくないはずなど無く、思わず聞き返してしまったのだ。





「い、嫌だったんじゃないのか?」
その・・・俺と別れるのが。
言外に隠した言葉に気付いて、大河の頬にさっと朱がさす。
「い・・・今だって嫌よ。で、でも・・・」
そこまで言って俯いてしまう。
一瞬泣いてるのかと思った竜児だが、耳が真っ赤になってるのを見つけて、単に照れてるんだと判断した。
そうすると、また新たな疑問が浮かび上がる。
どうして、今ここで、大河は照れてるんだ?
そこではっと思い当たる。
大河の野性的とも言える勘の良さに。
「お、おい。もしかして俺に気を遣ってるんならいいからな?俺は男だし・・・辛いのにだって耐えていけるし・・・」
本当は身を引き裂かれそうなほどに辛いのだが、大河の為ならとそんな風に言ってやる。
だが当の大河は、
「・・・なにそれ?」
ポカーンと口をあけたまま、竜児を見返していた。
「え?だ、だからさ、俺がここでお前を見送る時、物凄く胸が締め付けられるってこ・・・」
そこまで言って竜児は気が付いた。
おい待てよ俺、と。
もしだぞ?もしこれが・・・勘違いだったら・・・どーすんだ?
「あ、た、大河?い、今の・・・」
「はひ・・・」
真っ赤じゃねーかー!!
頭を抱えて声高に叫ぶ竜児の心象風景。
その目の前で、逢坂大河は嬉しさと居たたまれなさの中で葛藤していた。


--> Next...




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system