「それでは、検察から最後に主張すべきことががあれば、この場で主張してください」

開廷時からずっと目を閉じている裁判官が、しわがれた声で宣言する。促されて検事が立ち上がると、法廷にいる全員が彼女を見つめた。
誰もがうらやむようなすらりとした女性らしいプロポーションをかっちりとしたスーツに包んだ検事は、法廷中の視線を楽しむように軽く微笑むと前に歩み出た。

「裁判長、これまで主張してきたとおり、被告の行動はきわめて暴力的、直上的であり近しい人間に対しても思いやりを感じさせません。これは被告に対して最大限重い刑罰を与える十分な理由となります。
しかしながら、検察はここにもう一つ被告の罪の証拠を加えたいと考え、幾分例外的ですが、最後に参考人をこの場に呼びたいと思います。許可を」

なに言ってんのよ。そう思うが早いか、弁護人が声を張り上げる。

「異議あり!提出された資料に無い証人の証言は証拠能力を持ちません!」
「異議を認めます。検察は資料にない証人を呼ぶことは出来ません。そもそも少々遅すぎるようですが」

あなたともあろう方が。と、続けるように裁判長は目を閉じたまま言葉を切る。

「裁判長、私どもの参考人に証拠能力が無いことは重々承知しております。しかしながら、直前まで証言を拒んだこの証人…参考人は、上告後の審理への影響力の大きさという点で裁判長も重大な関心をお持ちかと思います」

そう言って、女検事はめがねの奥でくりくりと大きな目を光らせる。すでに判決は軽すぎるだろうと見込んだ上で、上告をにおわしているのだ。

「いいでしょう、証拠能力が無いのを承知と言うことであれば、参考人を呼ぶことを許可します。繰り返しますが、この参考人の登場、発言は当法廷の審理になんら影響を与えるものではありません」

裁判官がくわっと目を開き、宣言する。検察団と弁護団がわずかに、何かを避けるように頭を下げた。

「ありがとうございます。では、参考人を」

後ろのスタッフに指示を出す検事から視線を外し、弁護士に目を向ける。あんた知ってた?

知らない、と言う風に弁護士が首を横に振る。もう一度検事に目を向ける。あんた、誰を連れてきたのよ。こちらを見返して、女検事がにやりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。そして現れた参考人を見て、大河は凍りつく。そんな…ばかな…どうして…

「裁判長、参考人高須竜児は被告逢坂大河ともっとも親しかった友人であり、被告の多くの非道な行為を間近で目にして…」

涼やかな声で参考人を紹介するばかちーも、弁護人席で凍りつく独身の表情も途中からまったく見えなくなった。竜児が私を有罪にしようとしている。竜児が、私を、見捨てようとしている…。頭が真っ白になり、足元の床が突然消えたような錯覚に陥る。

ロープなき絞首刑台から落ちていきながら、大河は悲鳴に近い声を上げた。

「りゅうぅぅぅぅじぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっっっっっっ!」


◇ ◇ ◇ ◇ 


驚いて跳ね起きた。暗い部屋でぜえぜえと息をあえがせる。パジャマが汗でべっとりと濡れていた。ベッドの上掛けは乱れに乱れている。

「大河、大丈夫?」

ドアの向こうで母親の声が聞こえる。起こしてしまったのだろうか。だとすれば、大きな声を上げたのだろう。夢の中の情景がよみがえり、今一度恐怖に震える。

「うん、大丈夫」

そう言ってベッドから降りると、部屋の扉を開ける。廊下から差し込んでくる光のまばゆさに目を細める。心配そうな顔で母親が立っていた。

「あなた本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。ちょっと水飲んでくる」
「そう…」

嫌な夢だった。竜児が私を見捨てるなんて。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「なぁ、お前本当にどうしたんだ?なんかあったんだろう?」
「なんでもないって言ってるでしょ。もうその話はやめてよ」

いつものように通学路を並んで歩く。5月もあっと言う間に終わり、まもなく6月。並木の葉の色も、目にまぶしい鮮やかな新緑から濃い緑に変わってしまい、まもなくさわやかな季節も終わると教えてくれる。いつもどおりの朝。
だけど二人の間では、今日はほんの少しだけ険悪な会話が交わされている。6月を間近に控えて湿度が上がってきたせいか、大河のきれいな髪も心なしか今日はつやが無い。
朝から浮かぬ顔の大河に何かを感じ取った竜児がしつこく問いかけるのだが、大河にとってはそれも気分の悪さをより深めてしまう。

「いいや、やめねぇ」
「しつこい!いくら竜児でも殴るよ」
「勝手にしろ、俺は聞くのをやめねぇから。お前が何か怒ってるんならともかく、どうみても、何か心配事を隠してる顔をしてるじゃねぇか。俺だってお前のことが心配なんだよ。なぜそれをわかってくれねぇんだよ」

大河は精一杯強がって、見え見えの脅しをかけてみるものの、すかっと空振り。かえって竜児のぶっきらぼうながら、やさしさのこもった言葉にたじろぐ。もう去年とは違う。
傲岸不遜、わがまま大王だった逢坂大河も高須竜児の前では柵に当たって方向転換する牛のようにおろおろとする事が多い。わがままっ子くらいまで階級が下がってきている。

「わ、私にだって竜児に言いたくない心配事くらいあるわよ。それとも私にはプライバシーは無いの?」
「別に何もかも話すことはねぇよ。でもよ、俺たち婚約してるだろう。なぜ心配事があるのなら俺に話してくれないんだよ」
「だって…」

それはあまりにもくだらない夢だから。とは言えずに大河が頬をふくらませる。

そんなわがままな表情までかわいらしいのだから、神様は不公平だと竜児は独りごちる。ふん、と竜児からそらした横顔は小さな鼻の描く美しい曲線に縁取られていて、憂いを含んだ大きな瞳はきらきらと光る。
シャープに研ぎ澄まされた顎のラインはまるで精緻なガラス細工のようで、大河の作り物めいた美しさを恐ろしいほど引き立てる。

歩くわがまま人形に向かって、「だってもヘチマもあるか」、と竜児が押し込もうとしたときに、聞き慣れた声が飛んできた。

「やぁやぁ、お二人さん!おっはようサントリー!」

3年になっても相変わらず健在なひまわりの笑顔を振りまいて、櫛枝実乃梨が手をふる。高校最後の大会に向けて、絶賛猛練習中にもかかわらず疲れなどみじんも見せない。前向きエンジン搭載の少女は今日も朝から出力全開。
日に日に強くなる日差しに焼かれて、小麦色の肌も絶好調だ。



よっ、と軽く手を挙げる竜児の横を飛び出して大河が実乃梨の元に駆け寄る。いつもならふわりと夢のようにたなびく灰色めいた淡色の長い髪が、今日は心なしか華やかさに欠けるのは、じっとりした空気のせいか、浮かぬ顔の大河のせいか。

「みのりん、みのりん、みのりーん!聞いて聞いて!竜児がひどいの。私にとても人には話せない恥ずかしいことまで何もかも話せって言うの」
「言ってねえぇよ」
「ほほう、お二人さん、朝から夫婦喧嘩かい?」

朝から卵ご飯なみにおいしいネタを見つけてニヤニヤ笑いの実乃梨に

「ちがうもん、まだフィ、フィアンセだもん」

大河が赤面して頬を膨らませる。竜児と実乃梨に対して2正面作戦を張るつもりだろうか。大河の脳みそではそんな器用な真似は無理だと思われるが。

「まぁ、まぁ、大河落ち着いて。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うから私は話は聞かないよ。でも私の経験によるとだね、大河と高須君がもめたときには9割5分大河が悪いね。どうだい、心当たりがあるんじゃないかい?胸に手を当ててよく考えてごらん」

な、なによみのりんまで…と顔にそのまま書いたような表情をしてわざとらしいポーズで固まった後、

「な、なによみのりんまで!ひどいんだから!」

大河は駆け出す。そうしておおよそ10メートル先まで行ったところで歩き出し、振り向き振り向き、一人で歩いていく。

あれは、ちゃんとついてきているか確認しているのだろうか、あるいはしつこいなと思っているのだろうか、それとも竜児と実乃梨が仲良くし過ぎないか気にしているのだろうか。苦笑しながら竜児が

「なぁ、櫛枝。悪いけど追っかけてやってくれないか」

実乃梨に頼む。

「おやぁ?大河をなだめるのが一番うまいのは高須くんだと思ってたけど、私の見込み違いだったかなぁ」
「なんだかあいつ意地になっちまって、俺の話まるで聞いてくれないんだよ」
「そうかい?ま、いいや。じゃぁ、大河が泣いたときは高須君に任せることにするよ」

そうからかうと、さっとその場からダッシュして瞬く間に大河の横に追いついた。怒るなよ!と体を振って大河に肩でぶつかる。甘ったれたふくれっ面で実乃梨を見上げる大河は、表情からすると、だって、とか何とか言ってるのだろう。


◇ ◇ ◇ ◇ 


朝は怒ったような顔をしていたくせに、結局大河は授業が終わると竜児のクラスまで来て、いつものように入り口のところで待っていた。少しは気分は晴れただろうかと、

「おう、お待たせ」
「うん」

声をかけてみるが、どうもさえない。

竜児はいくぶんあきらめ気味だ。そもそも、黙っていると決めたことは、決して話さないのが大河だ。悩みを話してくれないことは不満だし、大河だけに心配なのだが、こうして顔に出ていることからすると、たいした悩みじゃないのかもしれないと思う。

大河は本当に深刻な問題は、表に出さない。

しかし、あきらめたところで事態は改善しないのだ。日に日に強くなる日差しは、下校時間が早い二人をいくらか不愉快な強さで照らす。大河になるべく日が当たらないように黙って陰を作ってやりながら、竜児は困ってしまった。
これが北村なら上手く当たり障りの無い面白い話でも出来るのではないだろうか。女子と話すのなんて苦手だ!と言っている北村は、そのくせ女子に妙な人気があり、しかも自然に話をしている。
竜児と来たら正真正銘女子と話すのは苦手で、しかもようやく念願かなって彼女(婚約済みです)が出来たばかり。その彼女が校内きっての扱いのむずかしい女ときてるのだから、本気の本気で手に負えない状況である。

大河の相手をしないと決めたのなら、話は簡単だ。今日の夕食の話をすればいい。旬の食材の味から始まって、価格の動向、その価格を決めている最近のブームと天気、行きつけのスーパーでは急に根菜類の質が落ちたこと、
今日の献立を決めるにあたって考慮した過去1週間の献立、夏に向かってスタミナが重要なこと、しかし梅雨も近いので生ものは危険なこと、等々など、頼まれなくても2時間はこのネタで話すことができる。

しかしまぁ、そんなことをしても大河の機嫌を損ねるだけだろう。しょうがねぇや、やっぱり婚約者としての義務は果たさなければ。と、気持ちを切り替えて、気分転換にだけでも誘うことにする。

「なあ大河、ちょっと寄り道していかないか?」
「え?いいけど。竜児晩ご飯どうするのよ」
「俺ひとりだからな、遅くしたってかまわない」

泰子が昼の仕事になったため、夕食はいつも竜児ひとりだ。自分ひとりだから晩飯は遅くてもいい。晩飯が遅いなら、用意も遅くてもよいということだ。去年までは仲良く卓を囲んで一緒に夕食を食べていた大河は、今は両親と一緒に夕食を食べている。

「そう。ならいいけど、どこに行くの?」
「ああ、ちょっと気分転換にな」

そういって笑みを浮かべた竜児が連れてきたのは、大橋だった。

「あーあ、まったく暑くなってきたなぁ。いよいよ初夏だぜ」

そういって、竜児は歩道の手すりにひじから先を預け、川面に目をやる。厳寒時に美人女子大生とロン毛高校生のカップルを生み、さらに別カップルを婚約させた川は、今はぬるそうな水をけだるげに流している。
排ガスで汚れた手すりなど、普段の竜児なら見ただけで人を殺せそうな視線を送るばかりで触りもしないのだが、今日は特別なのか、何も考えていない様子で、ただ、ただ、川面を見ている。

大河のほうは、これもいつもとちょっと逆で、手すりの汚さが気になる様子。バレンタインデーの晩は興奮状態のままどぶ川で寒中水泳をやったので気づかなかったが、改めて仔細に見れば、とてもまともな神経を持った人間が触ってよいものに思えない。

だから、手すりには触らず、一歩下がって立っているのだが…。どうもこの構図は落ち着かない。何をするでもなく川面を見つめる長身の男。その横から一歩下がった位置で、男の後ろ頭を見上げている小柄な少女。
ねぇ、お父さん。私たちこれからどうするの?ああ、そうだな。お母さんのところに二人で行こうか…。傍から見たらそんな風に見えているかもしれない。ふたりとも高校の制服だが。

「竜児ぃ」
「おう。何だ?」
「何だ?って…何してるのよ?」
「おう。何もしてない」
「…」

実にさわやかな声で、竜児はそうこたえた。目元には征服後の世界に思いをはせる魔将軍のように喜びをたたえているが、もちろんそんなことを考えているわけではない。



「俺、時々来るんだ、ここに」
「え、そうなの?」
「おう。考え事したり、落ち込んだときとかな」
「竜児も落ち込むこと、あるんだ…」
「そりゃ、たまにな。たまにだけどな。俺だってガキだからさ。あれこれうまくいかなくてうじうじ考えることもあるよ。って、お前は知ってるだろう」
「知ってるけど…」

出会って間もないうちに、二人はどういうわけか、妙に親密になってしまった。お互い想い人がいて、その人に気持ちを伝えることができないでいた。それどころか、いろいろ重いこと、つらいことを抱えていて、人に言えないでいた。
その言えないことを言える相手に出会えたことを、二人ともほとんど奇跡のような気持ちで受け止めた。それが二人のスタートラインだった。だから、竜児だってぐじぐじ悩むことがあったのは大河も知っている。

知っては、いる。

それでも、大河にとって竜児はまぶしい存在だ。出会ったころは目つきが悪いだけで、うじうじ、もじもじ、はっきりしないもやし男だと思っていた。なのに、ふたを開けてみると竜児はほとんど底知れない優しさと包容力を持った男だった。
そのうえ、たった一年間で、見る見る間に竜児は男らしくなっていった。自分で考え、ものを言い、やるべきだと思ったことをまっすぐやる男になっていった。そして最後に、大河に手を差し伸べてくれたのだ。
何度もひざを折るような苦しい気持ちを味わっていたはずなのに、それでも竜児は踏ん張って大河に手を伸ばし、そして手をつかんで道はこっちだと指し示してくれた。

自分の横でどんどん男らしくなっていく竜児を見ていた大河は、どうしても、あまり成長してないように思える自分と竜児を比べてしまう。いつまでたってもどうでもいいことを考えている自分。胸を張って、いつも未来を見上げているように見える竜児。

竜児の問題は全部解決していると思っていた。駄犬呼ばわりしていた男に、いつの間にかすっかりすがっていた大河にとって、今でも竜児がそんな風に思うことがあるというのは、軽い驚きである。

「…竜児には、もう悩みがないのかと思ってた」
「俺はどんだけ脳天気だと思われてるんだよ。おかげさまでてんこ盛りだ。まぁ、ありがたいことに前ほど重い悩みはないけどな」

そして微笑んだまま大河のほうを振り向き、お前ともうまくいってるしな、と付け加える。

「そうね」

大河も素直に微笑み返す。そうだ。自分たちはうまくいっている。細かいことはいろいろあるけれど、高須竜児と逢坂大河は、おおむねいい方向に進んでいる。

「そうよね、私たち、うまくいってるわよね」
「おう」

そうさ。と、微笑んで竜児が言葉をつなぐ。

「で、どうしたんだ?」

ふふふ、と大河が小さく笑う。降参だ、とでもいうように。

「わかったわ。話してあげる。でも、笑わないでね。それから場所変えましょ。竜児の袖、汚れてひどいことになってるわよ」


◇ ◇ ◇ ◇ 


いくらか涼しくなった大橋からの帰り道、大河が話してくれた話は、笑えないものだった。深刻という意味ではなく、面白く無いという意味で笑えなかった。
そもそも、ひとの夢の話が面白かったためしがない。大河の過去を断罪する裁判が開かれ、検察は亜美、弁護人は独身、裁判長はラーメン屋の店長だったとか。

お前、どこで笑えっていうんだ?と、突っ込みたいのは山々だが、本当に元気をなくしている大河を見るとそんな気もなくなる。大河自身も夢の内容が面白いとは思ってないのは明らかだ。
ただ、検察側の証人として竜児が現れたことにショックを受けており、そんな自分を竜児が笑うのでは無いかと思っているのだろう。

大河に気づかれないよう、竜児は空を見上げて嘆息する。逢坂大河には「猛獣注意」「ワレモノ注意」の二つの札が貼ってある。その時に応じてどちらの札により注意するべきかを見極めるのは竜児の責任だ。それが煩わしいわけではない。
今回は「ワレモノ注意」の札だとわかったので、さて、このガラスのハートの婚約者をどう言って元気づけてやろうと思っているだけだ。しかしそれにしても。

笑えねぇ。

大河は心の底で竜児が大河を見捨てるかもしれないと思っているのだろうか。そっちのほうが竜児には少なからずショックだった。生まれてこの方、竜児がこれほど人に心を捧げた事など無かったというのに。これでも不満なのか、この腹ぺこ虎め。と、ちょっとだけ腹が立つ。

「なぁ、大河。お前は俺が裁判でお前を見捨てる夢を見たのがショックなんだろ?」
「…うん、そう」

馬鹿な話よね?あきれるでしょ?と、大河は微笑むのだが、弱々しすぎて竜児はやっぱり笑う気がしない。

「そんなの夢なんだからさ、忘れちまえよ。俺がお前を見捨てるはずがないだろう」
「ありがとう…そうなんだけどさ。ひっかかるのよね」
「何が」

横を歩く大河のつむじを見下ろす。少し湿度が下がったせいか髪のつやは戻ってきているが、つむじに元気がない。つむじを見て元気だとか元気じゃないとか、俺も相当変だな、と竜児は苦笑する。

「だって…ねえ竜児。晩ご飯遅くても今日は買い物には行くんでしょ?一緒にいって、竜児のうちで話をしてもいい?」
「いいぞ。でもお母さんに悪いからちゃんと飯は自分ちで食えよ」
「うん、そうする」

そう答えて、大河が今日初めて晴れやかな顔で笑う。その顔を見て、一足先に梅雨入りしそうだった竜児の心も晴れる。そして俺の心なんて、こんなものだと自嘲する。ずっと大河が横に居てくれたら、ずっと大河が笑ってくれていたら、きっと竜児の心はこの先ずっと五月晴れだ。

すばらしいじゃないか。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「私ってさ、悪い子じゃない?いつかしっぺ返しが来ると思うのよね。だからあの夢もまんざら嘘じゃない気がするんだ」

ジャガイモの品定めをする竜児の横で、大河が話す。芽が出かかっているし、ちょっとしなびた芋もある。やっぱり最近根菜の品質が良くない。

「また予知夢か?気苦労が多いな。だいたい、お前は悪い子じゃないだろう」

なるべく深刻な話にならないように、竜児は明るい声でこたえてやる。そもそもこの話はそれほど深刻ではないはずだが、もし落とし穴があるとすれば、竜児自身だろう。それは竜児にもわかっている。俺はまじめすぎるからな、と自分の心を戒める。

軽い話を重くするドジを踏むとしたら竜児自身だ。どんな軽くてアバウトな話題であっても、竜児が本気になると微に入り細に入り細かくほじられて深刻な問題に見えてくる。パラノイアじみた性格は家事には役に立っているものの、恋人とのトークに持ち出すには、少し場違いだ。

「竜児はそう思う?」
「思うさ。万引きも、カツアゲも、シンナーも、暴走も、喧嘩もしないだろう。むしろ俺がやると思われているな」

にやり、と笑う姿は本当に喧嘩と暴走くらいはしていそう。

「でも、私喧嘩はしてたよ」
「去年のことだ。今年はおとなしくしてるだろう」
「そうだけど…時効じゃないよね」
「そりゃそうだけど」
「私、悪い子だったからいつかバチが当たるかもしれない」

形は悪いが色のいいにんじんを手にとってぼんやり見つめながら大河がつぶやく。葉の緑が濃い。見る目があるじゃないか。と、小さな手からにんじんをさらってかごに入れる。
傍から見たら、お使いに来た女の子の手から世界征服をもくろむ悪人がにんじんを奪い取ったように見えるかもしれない。

世界征服をもくろむ悪人がにんじんを奪い取るメリットが何なのかは別として。悪人も少女も高校の制服であることは別として。

「そのバチが、『検察側の証人、高須竜児』か。考え過ぎじゃないか?」
「そうかも…違うかも…。ねえ、竜児。竜児はどう思う?」
「どうって?」
「きゃっかんてきに見て、竜児は私が沢山許せないことをしたって思うでしょ?」
「…俺はお前が好きだ。客観的になんかなれないな」

苦笑いを浮かべてレジに向かう竜児の後姿を大河が見つめる。竜児も大河も、まだ「好きだ」という言葉に照れがある。竜児の苦笑いは精一杯の照れ隠しだろう。その証拠に首の辺りが赤い。
その姿を追う大河も、頬を染めてうつむいている。そうしてうつむきながら、懸命に言葉を搾り出す。

「嘘つき。竜児がそんな軽薄野郎のわけないじゃない。知ってるんだから」

嘘じゃねぇさ。

俺は心底お前に骨抜きにされてるんだ。竜児はそう思うものの、一方で大河がそれほど高く買ってくれているのなら期待に添いたいとも思う。だってそうだろう。これほど大河のことを好きなのだから。大河が客観的であってくれというなら、そうあってやろうじゃないか。

「そうだなぁ、そうまで言うなら考えてみるか」

レジの列に並びながら竜児がこたえる。大河はうん、と言ったまま竜児の話を待つが、さすがにスーパーの列で少女の犯した罪の数々について語るのも変だ。二人とも黙って前の人の勘定が終わるのを待っている。前のおばさんは、かごいっぱいに買い物をしている。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「許せないことって言ったよな。だから軽い悪さはこのさい数えなくていいだろう」

スーパーを出て、歩きながら竜児が言う。大河が持ちたいといったので小さなビニール袋を一つ持たせている。

「軽い悪さって?」
「たとえば、お前結構春田の扱い悪いよな」
「そ、そうかしら」
「そうだよ。ほら、俺が春田にヘアピンをあげようとしたとき、春田に飛びかかってたよな。あれはもちろん、お前が俺の事を思ってくれての事だったんだけど、春田にしてみるとびっくりだよ。
あと、北村が髪染めてきたときには、春田に北村から電話があったってだけで逆上してたろ。あのとき、春田は顔の骨がミシミシいってたぞ。まじで怖かったんだからな」
「そそそそういえばそんなこともあったわね」

竜児がノーカウントを宣言している軽い話ですら、被害者の骨がミシミシ音を立てている。竜児が有罪と考えてる自分の罪がどんなものか、寒気を感じた大河は思わず振り返る。後ろから大鎌を構えた陰気な死神がおっかけて来たりしていないだろうか。幸いにも、いない。

だが傍から見ると、すれ違うものすべてを地獄に送り込みそうな顔をした死神が、ちゃんと大河の横に立っている。学生服を着ているが。竜児のことだが。

「それから俺と出会った頃、みんなが俺の事を誤解してるって大暴れしたことがあったよな。俺はすごく嬉しかったけど、あれはやり過ぎだぞ。みんな困ってたじゃないか。まぁ、これもノーカンでいいや」
「そ、そう?ありがとう」

閻魔大王のような怖い顔のくせに、慈悲深くも乱暴狼藉を許してくれる竜児に、大河はひたすら感謝するしかない。

その後、竜児は傷心のクラスメートをおしべめしべ話でいたぶった話を可哀想で片付け、生徒会長戦のときにマイクで独身をぶっ叩いた事を事故で済ませ、文化祭のミスコンでよそのクラスの女子を下女扱いしたことをお祭りだからと笑い、
水泳の授業中に花も恥じらう年頃の同級生の水着を衆人環視の中ひん剥いたことを青春の1ページとし、ものまね150連発を酷いことするなぁで済ませ、
生徒会の黒猫男の顔に風水落書きをした上にカツアゲしたことを少々やり過ぎだがあれはあいつの勘違いが悪いよなで片付け、同じクラスの女子にバスケットボールをあてろと言ったことを未遂で良かったなで終わらせた。

「わ、私。か、なり酷いね」
「ん?気にするなよ、このくらい。みんな忘れてるだろう」

忘れているだろうか?

そりゃバスケットボール未遂事件は誰も知らない話だが、黒猫男にやったカツアゲあたりは、今からでも学校にばれたら前回の停学とあわせて即退学を食らうかもしれない。
今日の今日まで何事もなかったように暮らしていた大河も相当悪いが、数え上げた後に笑って済ませている竜児のほうも空恐ろしい。まるで映画の中で、殺した人の数を笑って数えているギャングのようではないか。
ひょっとして、泰子が育て方を間違えていたら相当悪くなっていたのではないかと大河は心配になる。そして、ギャングっぽい扮装の竜児を想像して、あまりに似合うので身震いする。黒いスーツに身を固め、帽子を片手で押さえてあごをついと上げ、にやりと笑っている竜児。

似合いすぎる。

姿かたちはともかく、竜児が大したことないとして切り捨てた悪行の数々に、大河は死んだら地獄行きだと覚悟を決める。だとしたら死ぬわけにはいかない。きっと竜児は地獄には落ちてこないから。思わず手を伸ばして竜児の制服の袖を掴む。

「なんだ?」
「何でもないけど…握ってていい?」
「お、おう。…もし嫌だったら、話やめるぞ」
「いいの。続けて」

目を白黒させながら必死の形相で見上げる大河に、竜児が躊躇する。しまった、またやり過ぎたかと思うが、後の祭りだ。顔を見ればわかる。大河はこうなったら全部聞いてやると腹を括っている。

「ねぇ」

大河に袖を引っ張られて竜児が続ける。

「ええと…そもそもはお前が許せないことをしたかどうかって話だったよな」
「…うん」
「さっき散々あげつらったけど、ああいうのはまぁ忘れろ。たいしたことじゃない」
「そ、そう?」
「ああ。たいしたことない。数が多いだけだ。忘れろ」
「竜児が…そう言うなら。でも…」
「でも、何だ」
「許せないことって、やっぱりあるってことだよね。竜児の言わなかったことの中に」
「…まぁな…」


◇ ◇ ◇ ◇ 


傍からどう思われているのかは知らない。

学校で大河にがみがみ言える生徒など片手で数えられる程度だ。竜児はその一人に入っている。だから、ひょっとしたら、見る人によっては竜児は大河にあれこれうるさく言っていると思っているかもしれない。実際、そうなのだろう。

だが、生まれながらの逢坂大河専用世話焼き体質にして、大河のやることなら相当大目に見ている竜児は、並の人間では想像できないくらい多くのことを黙って呑みこんでいる。
鯨一頭まるまる呑みこんだ後に、どうです、これからとんこつラーメンでも食べに行きませんか、と言う。そのくらいの度量がなければ逢坂大河の横には立っていられなかった。そして高須竜児こそは、逢坂大河が恋人にふさわしいとして心を預けてきた男なのだ。

その、竜児が腹の中に呑み込んできた多くの事柄の中には、確かにある。許せないことが。

しかし、それはいちいち言わなければならないことなのだろうか。世間が逢坂大河を横暴で乱暴だと言うのなら、竜児だって世間に言いたいことがある。大河を長い間ほったらかしにしてきたのは誰なのだ、と。
長い間、誰にも見守られることなく真っ暗な底なしの穴のような子供時代を大河に送らせたのは誰なのだ、と。世間はそれは親の責任だと言うだろう。ふざけるな、と竜児は思う。
親だって完全ではないのだ。そんなときに誰一人手を伸ばさなくていいなんて道理があってたまるものか。

片親の家庭に対する世間の風の冷たさを身にしみて味わってきた竜児は、大河が送った少女時代を考えるだけで身震いする。親がだめなら教師が面倒を見ろなどという馬鹿親みたいなことを言うつもりはない。だが、誰も子供をかまってやらなくていいなんてことはないはずだ。
大河が孤独な少女時代を送っていた間、実の親をはじめとして誰も暖かい手を差し伸べてやろうという大人は現れなかったのだ。だからこそ、大河は施設の子供たちにクリスマスだけでもプレゼントを贈ってあげたいと言う。それがどういう意味かわかるか。

逢坂大河を許せないという大人がいるなら、俺が大河のために弁護してやる。 竜児は本気でそう思っている。世間が許さなくても、俺が許す。道理も何も曲げて許す。竜児はそう思っている。大河は特別なのだ。ゆっくりと、優しい女になってくれればいい。
実際、新学期になって大河は見違えるほど明るくなったじゃないか。長い間、ほったらかしだったのだ、少しくらい長い目で大河が育つのを見てやってもバチは当たらない。世間的に許せないことがあったとしても、少々大目に見ていいはずだ。竜児はそう思っている。

だから、大河には話したくはないのだ。自分が呑みこんだものを。呑みこむのが苦しかった分、吐き出せば自分の口は何を言うのかわからない。そんな恐ろしさがある。

「お願い、竜児」

思いのほか、まじめな話になったのは、やっぱり自分がまじめすぎるからだろうか、と竜児は空を見上げる。

「なぁ、大河。やっぱり言わないとだめか?俺はお前には…」
「お願い」

たかが夢じゃないか。

「竜児…」
「独身につらく当たったのは許せないことだったな」

前を向いたまま、竜児が話し始める。押さえつけていただけに、自分でも驚くような唐突さで口をついて出てしまった。ひどく後悔した。後悔しているのに、口が止まらない。




「独身?」
「あいつ、お前が送ってきた葉書きを俺に見せてくれたぞ。エスケープの罰に俺が反省文書いてたときに」
「葉書きって?」
「お前が停学食らってたときの」
「ああ、あの葉書き…」
「なんだよあれ。色鉛筆で一色塗りって。どんだけひねくれ坊主なんだよ」
「だって…」
「お前、独身がどれだけ狩野屋の店長さんに…兄貴の親父さんに頭下げたか知ってるよな。独身がどれだけ職員会議でお前のこと護ってくれたか、想像つくよな」
「…つくけど…」
「お前のこと、独身は真剣に思ってくれてたんだぞ。先生だって他人なんだから、そこまでする必要なんかないんだ。それでもあいつはお前に手を伸ばしてくれてたんだ。
お前だけじゃない。北村がわめき散らかした時だって、自分の合コンをドタキャンして北村を探し回ってたんだ。俺たちが授業エスケープしたときだって、かばってくれた。あいつはそういう奴なんだよ。そういう気持ちを踏みにじるような事、するなよな」
「…ごめん」

竜児はため息をつく。

いつになったら自分は激情を抑えて話をできる人間になるのだろう。親からもらった目つきの悪さに悪態をついている場合じゃない。この口から出る言葉だけは、自分の責任なんだから。大人になったらちゃんと話ができるようになるのだろうか。
湿度の高い青に染められた空を見上げる。

「すまねぇ。強く言い過ぎた」
「いいの。そんなこと言ってくれるの竜児だけだから」
「そうか?櫛枝とか川嶋もいるだろう」
「そうだけど…竜児は特別なの!」
「そうか」
「うん」

ようやく竜児のアパートにたどりつく。

まだ少し早いから、お茶を飲んでいく時間くらいはあるだろう。鍵を開けながら隣の高級マンションに一瞥をくれる。あんなところに放り込みやがって。と、逢坂陸朗に毒つく。もっと早く大河と出会っていればよかった。そうすれば、大河が一人で泣く回数だって減ったろう。
自分のやらかしたことに後から後悔する回数だって減ったろう。

「茶ぐらい飲んで行くだろう」
「うん、ありがとう。ねえ竜児、ほかには?」
「茶菓子か?今は切らしてるなぁ」
「そうじゃなくて、許せないこと」

振り返って竜児が大河をにらみつける。しつこいぞ、このくそチビ。と、思っているわけではない。あきれているだけだ。どうしてそこまで過去の悪行にこだわるのだ。しかも裁かれたのは夢の中じゃないか。しばしみつめ、そして、ついと顔をそらす。

「まぁ、あとは兄貴の親父さんによそよそしいくらいか」
「あれは…だって…気まずいもの」
「わかってるよ。だから俺も何も言わないだろう」

狩野すみれと殴り合いの喧嘩を演じた大河は、ほとんど退学確実だったのだ。それを救ってくれたのは狩野すみれの父親の「手を出したのはうちの子も一緒だから」の一言だった。
大河は独身に連れられてちゃんと謝りにいったし、それはそれなのだが、その後顔を合わせるたびに大河は気まずそうな顔をしている。竜児はそれをわかっているから、大河と一緒の時には、あまり狩野屋には行かない。

「また謝ったほうがいいのかな」
「そうじゃねぇ。会ったらちゃんと挨拶しろってだけだ」
「でも…」
「…大河、俺たち結婚するだろう」

うつむいていた大河が、え?と竜児を見る。竜児は真剣だ。話をそらしたわけでもなんでもない。そういう顔で大河を見ている。



「結婚するだろう」
「うん」
「子供、ほしいか」
「…ほしい…ほしいよ。竜児と私の子」

大河は顔を赤らめて、でも、真剣な目で竜児に答える。

「その子が女の子で…大きくなって…目に入れても痛くないほどかわいいその子が…傷だらけになって学校から帰ってきたら。お前は喧嘩の相手を許せるか」
「…」

そのままフリーズ。キッチンシンクを背に大河を真剣な目で見つめている竜児から、気まずそうに目をそらす。狩野屋の店長の言葉の重みが、いまごろわかってきたのだろう。

「…竜児は許せる?」
「…そのときにならないと、わからねぇ。言えるのは、今の俺にはできそうにないってことだけだ」

大きくため息。

「でも、あの人は自分の心を押し殺して、お前のためを思って許してくれたんだ。俺たちなんかには想像もできないほど大変なことだ。その気持ちに、お前はこたえなきゃいけない。そう思わないか」
「…思う」
「そうだろう。そういうことだ」

竜児はもう一度こちらに背を向けてお茶の用意を進める。

「どうすれば…いいのかな」
「挨拶をしろ。会ったら頭を下げて、こんにちはと大きな声で言え」
「そんなので、いいのかな」
「いいんだ。おかげで道を踏みはずさずに、ちゃんと歩いています。そう伝えてやれ。俺たちみたいなガキにできるのはそのくらいだ」
「…竜児はガキじゃないよね。私だけガキだ」

竜児はお茶を淹れる手を止めて、こんどは小さくため息。

「買いかぶるなって」

淹れ終わった茶をお盆に入れて竜児が運んできた。今でも高須家に残してある専用の湯飲みを大河の前においてやり、自分も座る。大河は座布団の上に制服姿でちょこんと正座している。

「ねぇ、ほかには?」
「ああ?挨拶だけでいいよ」
「そうじゃなくて、ほかに許せないこと…」
「俺が思いつくのはそのくらいだ」
「嘘」

大河がお茶を前にしたまま、竜児の顔を覗き込むように言う。

「嘘なもんか」
「だって…狩野すみれのこと」
「殴りこみの話か」
「うん」
「あれはいいんだ」
「いいって。竜児…」

大河が目を見開く。いいはずがない。白昼に木刀を持って上級生の教室に殴りこみをかけ、相手に怪我をさせたのだ。いいはずがない。

「お前は北村の気持ちのためにやったんだ。俺はそれを知っている。北村も、兄貴も知っている。だから、いいんだ」
「そんな…だって…私…そうよ、それ、きゃっかんてきじゃないじゃない」
「いいや客観的だね。ほかの奴が違う意見だとしたら、そいつが客観的じゃないんだ」
「だって私、停学になったよ。私も退学になると思ってたもん」
「知るか。規則は規則。気持ちは気持ちだ。今度同じ事があっても、もう暴力は振るうな。北村もそう言っていたろう。そういういことだ。この話はそれでいいんだ」



まん丸に見開いた大河の瞳が、潤んでくる。そして顔を伏せ、

「竜児は私に甘すぎるのよ」
「そんな事はねぇ」
「甘いわよ」
「なんなら、俺が本気で甘やかすとどうなるか見せてやってもいいんだぞ」
「バカ」

軽口をたたく竜児を小さな声でののしる。

制服に包まれた小さな体が震えている。尖らせた口元がかわいらしい。唐突に、竜児はその白い頬に手を伸ばしたくなる。柔らかそうな頬の誘惑は、竜児の理性を吹き飛ばしそうだ。でも、こんなときに本当に今手を伸ばしたら大河の腕が竜児を吹き飛ばすだろう。
どうだろうか。試しに手を伸ばしてみたいという衝動が大きくなる。

「私、竜児にひどい事いっぱいしたよ」
「ひどいことって殴ると蹴るとかか?」
「うん。悪口も言った」
「あれはひどかった」

竜児が笑い声を上げる。
「頼むからもうしないでくれ。せめて手加減してくれ」
「許せないよね」
「いや、いいよ。気にするな」
「だって」
「いまさら何言ってるんだよ。俺はお前にプロポーズして、お前は俺にOKを出した。それの何が不満なんだ」
「話そらさないで」
「そらしてない。な、もういいだろう。夢のことでくよくよするのはよせ。もう泣くな

泣くなといわれて却って抑えきれなくなったのか、鼻をすするのに加えて、とうとう涙声になった。

「…竜児」
「何だ」
「泣いているときくらい、横にいてよ。フィアンセなんだから」
「おう、すまねぇ」

苦笑しながら立ち上がり、テーブルを回りこんで大河の横に座る。顔を赤くして肩を抱き寄せてやるのだが…

「ねぇ竜児。私ひとつわかった」
「おう、なんだ」
「座布団に座ったままだと泣きにくいね」

わがままな奴だな、と苦笑しながら竜児は体をひねって制服姿の大河を抱え上げ、自分の胡坐の上に横抱きにする。声を漏らす大河の背中を抱き寄せると、今度は少しはすわりがいい。大河は竜児の肩に顔を押し付けたまま、嗚咽をこらえている。
大河の髪の毛から甘い香りが漂ってきて、竜児の顔を包む。小さな体から体温が伝わってきて、竜児の心拍数が跳ね上がる。

「ねぇ竜児」
「今度は何だ」
「私、竜児を好きになってよかった」
「…俺もお前を好きになってよかったよ」
「…ほんと?」
「ああ、本当だ」
「私悪い子なのに?」
「言ったろう、お前はもう悪い子じゃないんだよ」
「…私、狩野屋のおじさんにちゃんと挨拶するね」
「おう、やれやれ。これからは買い物にもどんどん連れて行ってやる」
「独身にも謝ったほうがいいのかな」
「そのほうがいいんだろうけど…お前がやりにくいなら、葉書きでも出してみたらどうだ」
「…葉書き?」
「ああ、それで気持ちは伝わるさ。ありがとうって一言書いとけよ。きっと泣いて喜ぶぜ」
「…そうかな」
「そうさ」



◇ ◇ ◇ ◇ 



「ねぇ竜児」
「おう」
「…竜児はずるいね」
「するいって…なんでだよ?」
「自分ひとりで大人になって。私だけ置いてけぼり」
「そんなことねぇだろう」
「あるわよ」
「そうか?」
「そうよ。ずるいんだから…」
「そうか」





◇ ◇ ◇ ◇ 





「ねぇ、竜児」
「おう」
「キスして…」





◇ ◇ ◇ ◇ 






大河はもう、去年のようには泣かなくなった。不安で、寂しくて、一人で泣いていたのが遠い昔のようだ。今はもう、そんなことでは泣かない。不安は前ほど大きくないし、一生続く絶望に立ち尽くすことも無い。
夜に竜児のことを思って寂しくなることはあるけれど、朝になればまた会える。

でも、竜児と付き合うようになって、違う理由で泣くようになった。そして竜児の腕の中で泣くという、蜜のように甘いひと時の味を覚えてしまった。覚えてしまった以上、以前のように我慢するのは難しい。
我慢しようと思っても、竜児の胸で泣きたいという誘惑に負けてしまう。竜児のことが好きで好きで仕方なくて、泣いてしまう。

自分は、ひょっとしたら以前より泣き虫になったと竜児に思われているかもしれない。そう思って、大河は気恥ずかしさともうれしさともつかない気持ちに頬を染める。

「なぁ大河」
「…何?」
「夢の中では、お前が裁判で被告になって…俺が検察側の証人として呼ばれたんだよな」
「うん」
「本当にそんなことになったら…ねぇと思うけど…そのときは検察側の証人として、お前はいい子だと証言してやる」
「………うん」

ほら、またこうやって竜児は大河を泣かそうとする。

竜児の意地悪…

小さくつぶやいた大河の言葉は竜児には聞こえていない。幸せそうな笑みも竜児には見えていない。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「ねぇ、竜児も悩みがあるって言ってたじゃない」
「おう、てんこ盛りだぜ」
「どんな悩みなの?」

大河の家まで送っていく道すがら、大河が竜児の顔を見上げる。太陽はもう沈んでいるが、空の色はまだ明るい。見上げた大河の瞳がきらきらしているように思えるのは、雲が写りこんでいるのだろうか。

「いや、大したことじゃねぇって」
「なによ、自分だけ無理やり聞き出しといて。私は竜児のフィアンセなのに」

頬を染めているのは怒っているのか、フィアンセ、という言葉にまだ慣れていないせいか。そんな頬を膨らました顔すら可愛いと思うのは、俺も相当重度の病気なのかと、竜児は苦笑い。

「怒るな怒るな…そうだなぁ。この前は英語のテストが75点のときに大橋に行ったな」
「何ですって!」

急にボリュームが大きくなった大河の声と同時に、傍らでブン!とすさまじい音がする。見ると、大河が歩いて行くのと逆の方向を向いて固まっている。
それだけでも不自然だが、上体はぐっと左に傾け、右足はほぼ水平で空気を切り裂くような形のままという、さらに不自然な姿勢。つまり、その、反射的に回し蹴りを竜児に叩き込もうとして、途中で思いとどまったのだろう。

あっけに取られて目を丸くしている竜児を、きっと大河が見上げる。あー、睨み付けてる睨み付けてる。

「あんたねぇ、75点なんて点数で卒業できると思ってるの?」

いや、できるだろう。てか、1年生のときのお前の成績は相当悪かったと聞いてるぞ。名前の書き忘れで。竜児はそう思うのだが、もちろん声に出さない。注意一秒怪我一生。こういう顔の時の大河は「猛獣注意」だ。しかしまぁ、大河は大河でがんばっているらしい。
馬鹿竜児とも、駄犬とも言わず、

「週末のデートは中止!あんたんちで英語の勉強するからね」
「はいはい」
「『はい』は1回!」

ぷんぷん怒っているだけだ。

これが夢の効果なら、竜児は夢に感謝しなければと苦笑する。そりゃそうだ。去年なら回し蹴りを1発叩き込まれて胸倉掴まれたまま、首でもくくろうかと思うような罵詈雑言をたっぷり3分間聞かされているはずだから。

「おーーい、たかっちゃーん!たいが〜!」

大河に見つからないよう、必死でニヤニヤ笑いを抑えているところに、春田の声がする。見ると、向こうから能登と二人で歩いてきている。

「おう、どうした」
「ラーメンよラーメン。もう、たかっちゃんが大河とばっかりラブラブで遊んでくれないからあ、能登っちと二人で寂しくラーメン食べてきちゃったよ」
「そうか」

苦笑する竜児の横で大河が顔を赤くして困っている。

「高須、もっと遊ぼうよ高須。クラスは違っても俺たち2−Cのモテナイ・トリオだったんだからさぁ」
「あー、わかったわかった。悪かったよ」

能登も大河を警戒しつつ、普段の竜児の付き合いの悪さをなじる。確かに3年にあがってから、竜児は大河とばかりいる。いいじゃないか。婚約したんだし。そもそも、モテナイ・トリオを真っ先に脱退したのは春田のはずだ。
トリオ崩壊の危機の今、存亡は能登の双肩にかかっているぞ…とは、さすがに言えない。

「あのさ、私、私、あああああんたのことロン毛虫とか呼んで、その…」

おお、と竜児は目を丸くする。大河はどうやら春田にこれまでの悪逆非道の数々を謝るつもりのようだ。何たる進歩!
これが全校から手乗りタイガーの二つ名で恐れられ、廊下を歩けばモーゼが紅海を渡るがごとく人波が割れ、全校生徒の心の兄貴に木刀振り上げ殴り込んでいった逢坂大河か。竜児は感動のあまり目頭が熱くなる。



しかし相手が悪かった。

「あっれー?こっち学校じゃなくてたかっちゃんちじゃーん?なーんでたいが〜こっちから来てんのー?あ〜俺わかっちゃた〜。たいが〜たかっちゃんちでいちゃいちゃしてたんだ〜。いいなぁ〜!いいなぁ〜!俺もいちゃいちゃしたいなぁ〜。
あ、なんか俺、股間がぞわぞわしてきちゃった〜!ちん…」

空気を切り裂くような音に続いてバキッ!といやな音が至近距離でする。大河のかかとが春田の太ももに突き刺さっているのを目にしたときには、春田は「ぱふゅ〜〜〜む〜〜〜」とか変な声を上げつつ、崩れ落ちていくところだった。

「いった〜い、たいが〜何すんの〜?俺たち友だひゃぐぐぐっう!」

お前が「何するの」だ、と竜児がテレパシーで突っ込みを入れている間に、大河は左手で路上に崩れた春田の胸ぐらをつかみ、小さな体のどこにそんな力があるのか路上から無理やり引き釣り上げ、右手で両頬ごと歯茎をつかむ。
ぐぐぐしゅしゅぐしゅ…と、人間とは思えない音を春田に立てさせながら、グリンと大河の首がこっちを向いた。怖い。思わず一歩後ずさる。

「竜児、こいつ殺しちゃだめなんだよね、殺しちゃだめなんだよね」
「殺すな、殺すな!泣くほど悩むことかよ!」

怒りと理性のせめぎあいに体を震わせながら目を白黒させる大河をなだめ、春田を救出するのに能登と二人で大騒ぎ。せっかく大河が1歩前進したのに、愉快な仲間たちときたら、2歩下がらせようとする。こりゃ先の長い話だ、と竜児はまたもや空を仰ぐ。
今日は空を仰いでばかりの気がする。

仕方が無い、大河の「いい子計画」には、のんびり付き合うか。

朝方よりも、湿度が下がったのだろう。梅雨前だというのにさわやかな夕暮れだった。大騒ぎする大河が振り乱す髪も、心なしか、いつも通り夢のように美しく舞っているように見える。

(おしまい)




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system