目が覚めると、朝ご飯の匂いがした。
パンの焼ける匂いと目玉焼きかな……フライパンが鳴っている。

いつの間に寝てたんだろう……気分は最悪。
どんよりした気分で台所に向かうと、見慣れたエプロン姿の竜児。

「おー起きたか大河? もうすぐ出来るからな」
「うん」

ててて。と駆け寄り、その背中に顔を埋める。

「ごめんね、竜児…………昨日はごめんなさい」
「おう、気にすんな。……よく分かんねえけど、そういう事もあるよな」

……違う。違うんだよ、竜児。
でも、違うって言ったら、その理由を説明しないと……でも、それは……

「身体が変って言ってたよな、体調悪いのか?」
「う、うん。 ちょっと……お腹が…………痛くて……」
「そっか。それじゃしょうがねえな。昨日は悪かったな」

と言いながら、振り返ってくる。
昨日の事なんか全く気にしてないみたいで、少し心配そうな目で見てる。
そして、それがまた……私の胸を押し潰すみたいに……息苦しい。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



それから、朝ごはんを食べ終わって、私はまた布団で丸くなっていた。
仮病なんて……せっかくの土曜日だっていうのに、最悪だ、本当に……
竜児は私が寝ると言ったら軽く仕事をするって言ってた……真面目なやつ。

「大河ー?」

ビクッと反応してしまう。返事しないでいたら、布団がめくられた。

「大河? 具合はどうだ?」
「……うん。悪く……ない」
「昼飯作るからさ、食べられそうか?」
「ん……なに?」
「昨日の残り物だけど、牛しゃぶサラダと温玉うどんってところでどうだ?」
「……食べる」
「そうかそうか。よーしよしよし。出来るまで寝てろよな」

髪の毛をわしゃわしゃされる。それも嬉しいはずなのに……また私は息苦しさを覚える。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「 「 ごちそうさまでした 」 」

昼ご飯を食べ終わった私はそそくさと布団の中に逃げた。
洗い物を終えた竜児が、少しだけ寝室をのぞいて……戸を閉めた。ばたん。
引き戸の向こうで竜児が仕事を始める音を聞きながら、しばらく考える。

どうしよう……どうしたらいいの? こんなところで寝てたって何の解決にもならないし……
取りあえず、散歩でもしながら、1人で落ち着いて考えようかな。
……そう、ね。そうしよう……買い物でも行くって言って、外に出よう……



「ねぇ、竜児」
「おう? 着替えてどうしたんだ?」
「私、ちょっと買い物に出掛けて来るね」
「体調悪いんだろ、寝てたらどうだ? 必要なものなら俺が買ってきてやるから」
「ううん、いい。お仕事の邪魔したくないもん」
「いや、おまえは寝てろよ。別にどうしてもやらなきゃならない仕事じゃないし」
「い……いいって言ってんでしょ! 1人で行くからあんたは仕事でも何でもしてればいいじゃない!」
「おい! そういう言い方は無いだろう!?」

――っ!?

ムッとした顔で竜児が怒る……その顔を見て、また……ズキンズキンと胸が痛む。
何を言ってるんだ、私は……心配してくれてるのに、なんてひどい事を言ってるんだろう。
1人になりたいだけなのに、何で竜児を怒らせちゃってるのよ。
……いやだ……そんな顔しないで……やだよ……怖いよ……やだ……やだ……

「……大河?」

居たたまれなくなった私はそのまま家を飛び出してしまった。
なんか背後から竜児の声が聞こえたけど、それを振り切るように走った。

……走っちゃダメなのに…………ああもう!!



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



あーあ。何やってんだ私は…………

行くあても無いし、財布も携帯も何も持ってない。
竜児を拒んで傷つけて、あげく怒らせて飛び出してくるなんて……
何だろう、竜児の顔を見てられなかった……何でだろう……?

げ……雨降って来た……あーもう、最悪!

何とか降り始めのうちにいつものスーパーには来れたけど……これからどうしよう?
どんよりした気持ちで空を見上げても、そこにはどんよりした雲しか見えない。
雨粒は大きくないけど、至る所に染み渡るような細かい雨が辺りを塗り潰していく。

――雨は……嫌い。降り始めが特に嫌い。
こんなふうに雨宿りするのも……嫌いだ。

反対側の歩道に目をやると、お父さんと並んで歩いてる小さな女の子がいた。
傘を差して、手を繋いで、なんか楽しそうにお話してる……
反射的に目を逸らしそうになって……でも、またその2人を目で追ってしまう。

「………………」

また空を見上げてぼんやりと考え込む。
最近ずっと降ったり止んだり……ま、梅雨だもんね。
飛び出すのはいいけど……良くないか……せめて傘だけは持ってくるんだったな……

スーパーの軒先はこんな時でも人の出入りが多い。私と同じように駆け込んでくる人も多い。
ざわざわとした喧騒が煩わしくて、どこか違うところに移動しようかって思ってたら……聞こえてきた。

「……おーい。 ……おーい、大河ー」
「竜児……?」

小走りにこちらへやってくる。大きな傘を1つ差しながら。

「おう、おまえ何も持たないで行っちまうんだもんな。心配したぞ?」
「……うん。ごめんね、竜児。…………何か、やっぱり変だわ、私……」
「すぐに見付かって良かった。風邪引いちまうだろ?」
「ごめんってば……」

少しだけ……嫌な気分が薄れてきた気がする。
竜児に迷惑掛けてるって分かるのに、でも……迎えに来てくれて嬉しいんだね、私は。





「よくここだって分かったわね?」
「おまえが出てって割とすぐ雨が降ってきたからな、どうせ近くだろうと思ってた」
「そうよね。雨宿り出来るところなんか、あんまりないもんね」
「それはそうと、大河? おまえ腹が痛いとか言ってて走るなよな?」
「そっ、それは……なんか……お昼食べたら…………治ったのよ……」
「なんだそりゃ?」
「い、いいでしょ、別に! 土日しか竜児の料理が食べられないからいけないの!」
「それは……おまえがそうするって言ったんじゃねえか」
「そう……だけど、やっぱりおいしいなって思うし……だから……その……」
「分かった分かった。今度早く帰れた時に、な?」

そう言いながら、竜児は頭を撫でてくれる。私は俯きながらされるがまま。
さっき、ひどいこと言ったばかりなのに……かなわないな、なんて思う。

「うん……ありがとう……」
「おう。それで、何か買うものがあったんじゃないのか?」
「ううん。もういいの」
「そうなのか?」
「竜児は晩ご飯のお買い物する?」
「いや。さっき冷蔵庫をのぞいたけど、特に買う必要は無いな」
「それじゃ帰りましょ」
「おう」

竜児の腕に私の腕を絡めて手を握る。寄り添うように歩き出す私たち。
ふふ、相々傘なんて久しぶり。さっきよりも気分が上向いてくるのを感じる。
小さな雨粒が傘を叩くけど、それほどうるさくは無い。静かなBGMみたい……

「ま、確かにいつまでもあんたに頼ってちゃダメよね……私も新しいの覚えようかな……」
「おう、それはいいな。 何のレシピを教えたらいいんだ? 和洋中なんでも来やがれ!」
「そうねぇ……まずは、ハンバーグでしょ。後は、オムライスとか……それと、カレー! あの甘いやつ!」
「何だかお子様なメニューばっかりじゃねえか? なんつーか、おまえの味覚は相変わらずだよな……」
「……余計なお世話よ」

私のためじゃないってのに、うるさいんだから…………でも、さすがに気が早いかな……

「……それに、今のって前にレシピ教えてなかったか?」
「うううるさいわね……もう忘れちゃったんだもん。もう1回教えてよ……」
「はあぁ……少し手間が掛かるとこれだもんな。大体、うまい料理ってのは手間が掛かるもんなんだよ。
 おまえはそこを楽しようとするからダメなんだ。だから忘れちまうんだろ?」
「わ、分かってるってのよ! 今度は……今度はちゃんと覚えるし、ちゃんと作るもん!」
「……本当か?」
「本当に…………うん、本当に……今度はちゃんと覚えるから……」
「よーし、それじゃもっかい教えてやるから。今度食わせてくれな?」
「うん!」

傘を差してる竜児を見上げて微笑む。
竜児がお迎えに来てくれるなら、雨も……悪くない……かな、なんて。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



他愛もない会話をしながら雨の中を歩いていく。
車通りの多い道から一本曲がって少し進んだところに、道を塞ぐくらいに大きな水たまり。

「おう。さっきよりでっかくなってるな……おい、こっち側が浅そうだから、こっちから行こうぜ?」
「何でそっち側なの? 大した深さでもないんじゃない?」
「……まだマシなだけだ。 どちらにせよ渡らないといけないなら、濡れない方がいいだろ?」
「そうだけど……この程度の水たまりくらいピョンピョン飛んでけばいいじゃん」
「跳ねるだろ、水が……」
「どうせそっちを歩くのと大して変わらないわよ。それに、私の靴は小さいんだから濡れちゃうでしょ?」
「危ねえから止めとけって……おい大河?」
「いい。私は飛んでくから!」

ほんの2mくらいなのに、大袈裟なんだから……最近こいつもオヤジになったのかしら?
そう思いながら傘から出る。竜児はブツブツ言いながら歩いて水たまりを渡り始めた。

私は水たまりのギリギリに立って、この先と……あっちと……あそこの近いところ…… 
って、浅くてあんまり濡れなそうな場所のあたりを付ける。

「いっくよー! ……ほっ!」 パシャ―― 
「とっとっと。 ……よっと!」 パシャ――

――っ?  

「おい、やっぱ跳ねてんじゃねえか! こっち飛んでんぞ?」

両手を広げてバランスを取る。ホップステップときて、次で最後っ!

「……うるさいっての…………とうっ!」

ふふん。どうよ、楽勝でしょ? ――ツルッ! 

「あっ!?」
「おい! バカ!!!」

やばい。お尻から水たまりに落ちちゃう!
……いけない! こんなピョンピョン飛んでいい身体じゃないのに!
一瞬の間に色んな考えが電気のように走り抜けて、

バシャン――

――!? 何だろう、今落ちたような音が聞こえた……気がする。





でも、私はそれ以上落下しなかった。私の手を竜児が掴んでくれてる。
ぶらーん。とその手にぶら下がりながら、ゆっくりと竜児の方に顔を向けた。

「………………」
「おまえは今、俺の予想を150%くらい正確に再現してくれたぞ? ……ったく」
「う……うるさいわね……早く引っ張りあげてよ……」
「言われなくてもそうするっての。俺がいない時はそういう事すんなよな? あぶなっかしい」
「……ねぇ、今……バシャーって音が……聞こえなかった?」
「いや? おまえが跳ねてた音だけだ。おまえ落ちてないだろ?」
「そうよね……変よね……」

……この子もヒヤヒヤものだったわよね……なんて思う。
でも、パパが助けてくれたよ? とか言ってみたり。
パパか……パパねぇ……こいつが……くふふふふ、パパ……だって……

「おう? ……あーあ。ワンピースの裾が濡れちまってるじゃねえかよ」
「へっ?」
「おい……おまえ……ぶら下がりながらニヤニヤしてんじゃねえよ、気持ち悪い……」
「べっ、別にニヤ付いてなんかないわよ……裾なんかどうだっていいでしょ。洗えばいいのよ」

せっかく人がいい気分でパパ妄想を膨らませていたのに……
そんなことより、さっきのは何だろう? 水を跳ねる音と、落ちたみたいな音が……


――思い出した……なんか……あれは…………


水たまりを越えて一息。竜児はハンカチで濡れた頭とか肩とかを拭いてくれてる。

「ほら、ちゃんと立てよ。あーもう、あちこち濡れてるし……まったく……」
「……ねぇ、竜児?」
「おう?」
「ちょっと公園に寄ってかない? やっちゃん家のところ」
「ああ、あそこか? 別に、こんな雨の中行かなくても……」
「いいから……行こっ? すぐ近くじゃない」
「しゃあねえな……」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



あのマンションから見慣れてた公園にも水たまりがたくさんあった。
その水たまりの端っこで、靴の先っちょだけを浸して……踵を付けたままパシャパシャする私。

小さなバタ足みたくしたり、両足でパシャンって強く弾いたり……
それを横で不思議そうに眺めている竜児。そんな顔を見上げながら話し始める。

「ねぇ、竜児……」
「おう?」
「私ね、雨が嫌いなの。……降り始めが特に嫌い。それは色々と理由があるんだけど……」
「おい……それは……」
「いいの。言わせて……」
「…………」

「それはね。小さい頃に、雨が降っても……私は……私だけは1人だったから……
 周りの子がね、改札とかで電話してるのを見て、私はその子が何をしてるのか本当に分からなかったの」
「何度も言わなくても、俺は分かってるぞ?」
「うん。……竜児は、逆にやっちゃんが迎えに来るのが恥ずかしくて、雨の気配に敏感だったとか……」
「……そうだな。子供の頃はそう思ってた」

「私にはね……そんなふうにお迎えに来てくれる人がね、誰もいなかったんだ……」
「…………」
「だから……私は、雨が嫌いなんだ、ってずっと思ってたの……今までは」
「今まで?」
「さっきね、思い出したんだ。もっと昔のこと……もっと昔の……雨の……記憶……」
「…………おう」





気が付くと、雨はだんだんと小振りになってるみたいだった。
足元の水たまりに目を向けて、

「あれは……いくつくらいの時なんだろうなぁ……
 分からないくらい幼い頃なんだけど……私はね、こうやってね……水たまりで遊んでたの……」

ピシャピシャ― と靴で水たまりを弾きながら、竜児の手を引いて歩き出す。

「でね、隣にもう1人、私と同じくらいかもっと小さな女の子がいて、2人で遊んでるんだ」

パシャン― と強く叩いてみる。

「こう……さ。思い切り水たまりを踏むとね、一瞬だけ、地面が見えるでしょ?」
「そうだな」
「それで、地面が見えた次の瞬間には、こう……靴の回りに水が戻ってくるわけ……それが面白くて……
 あぁ……うんと……その時は可愛いピンクの長靴と、黄色かな? 黄色のカッパを着て遊んでたの。
 その、隣の子もね……同じような格好で、2人で水たまりをパシャパシャやってたんだ」

パシャパシャ― と、細かく水面が揺れるのを俯きながら見る。

「大きな水たまりだった……と思う。私はその子の手を引いて、真ん中の方まで入ってって……
 長靴の底をね、地面に付けてザブザブ水をかき分けたり……飛んだり……跳ねたりしてたの……」
「なるほど」
「キャッキャッって言いながら、2人で笑ってて、とっても楽しかった気がするの……記憶の中ではね。
 ほら……ピチピチ、チャプチャプ、ランランランって歌……あるでしょ?」
「ああ」
「あんな感じ。そう言えば、その頃って可愛いカッパとか長靴を使いたくて、雨が楽しみだったなーとか」
「……なんか、分かる気がするな」





「でも……そうやって水たまりの中で遊んでたらね、さっきみたく……私……転んじゃったんだ……」
「おまえは……転んじゃいねえ。俺が掴んだ。……俺がいるのにそんなことにはならねえよ」
「うん……そうだね、竜児。私、知ってるもん……竜児はきっと……何度でも掴んでくれるよね」
「……おう」

「でも……ね、その時は誰も助けてくれる人はいなかったの。私と、私より小さなその子しかいなかったの。
 痛くって、冷たくって、べっちゃーってしりもち付いたからさ、もう下半身もぜーんぶズブ濡れでね……
 そうなるともう……降ってくる雨も冷たくって……嫌で……私は、わんわん声を上げて泣いちゃったの」
「…………」
「その子は……どうしていいか分からないみたいで、段々と私から離れてっちゃって……
 それで、遠いところまで行っちゃって……たぶんその子のお母さんと一緒になって帰っちゃった。
 あんまり覚えてないけど……その子が見えなくなるまで……私は、それをずっと見てた……と思う」

私は立ち止まって、足元の水たまりを見つめる。
そこに、あの時の光景が映し出されてるような……そんな錯覚を覚える。

「どのくらい泣いてたんだろうね…………分からない。……けど、気付いたの。
 誰も来ないから……誰も助けに来てくれないから分かったの。
 あぁ、私は1人なんだ……って。
 誰も……引っ張り上げてくれて……抱っこしてくれて……お家に連れ帰ってくれる人はいないんだ、って」
「大河……」
「だから……だからね…………私は、泣きながら……1人で……立ち上がったの。
 それで、たぶんお家に帰ったんだと思う……あんまり覚えてないけど。
 それ以来、私は雨が嫌いになった……んだと思う……わかんないけど……たぶん、そう」
「…………」

竜児の顔を見上げて、チクリと胸が痛む。
不器用なこいつは、何かを言おうとしてくれて、でも言葉が出てこない時にこんな顔をする。

「何よ? そんなに悲しい顔するんじゃないよ。簡単な話だっての!」
「簡単な話?」
「そうよ。ドジな女の子が転んで、濡れて、雨が嫌いになったって話」
「おい……」

「それで……それでね……大きくなったドジな女の子が……また、転んで……
 それでも濡れなくって……それで……雨も悪くないなって思った。それだけのお話なの」
「そんなんじゃねえだろ?」
「ううん。ほんとうに、そんな……簡単なお話……なんだ……」
「………………」





ふっ、と視線を上げると、雲は薄くなっていて、その切れ間から太陽の光が見える。
傘の外に手をかざすと、サラサラと霧のような小さな雨が当たるだけ。
そんな、ほとんど止みかけの雨の中に飛び出してみる。

「おい、濡れるぞ?」
「いいよ、このくらい……あんたも、もう傘なんかいらないわよ?」
「おう?……って、まだ降ってるじゃねえか」
「いいのいいのっ…………ほら、こんなに気持ちいいよ竜児っ!」

そう言いながら、両手を左右いっぱいに広げて空を仰ぐ。
産毛の上に乗っかっちゃうような、小さな雨粒が私の顔を包んでるように感じる。
時折、忘れ物みたいな大きな雨粒がおでこや頬に当たって……それがくすぐったくて、面白くて、私は笑う。
ふふふ、なんか……なんか楽しいな、これって……こういうの初めて……

しばらくそうしてると、片方の手が暖かいものに包まれた。
……見なくても分かる。これは竜児の手……私の大好きな……竜児の手の平……
その手を握り返しながら竜児を見ると、いつの間にか傘を畳んで付き合ってくれるみたい。

「ねぇ、竜児……私、知らなかった。雨ってこんなに優しいんだね」

私の手を掴んでくれたから、迎えに来てくれたから……そう思えたのかな?
わかんないな……よく……分からない……でも、悪くない……雨も……全然悪くないね……
太陽の光が筋のように一直線に伸びて、公園のあちらこちらに光を投げかけているのが綺麗。

「そんなもんかな? よく分からねえが……まぁ、恵みの雨って言葉もあるからな」
「私は今までね……冷たくって嫌なイメージしかなかったの。でも、違うって分かった!」
「そうか……いいことじゃねえか。なぁ大河?」
「うん!」

と言いながら、足元の少し横、水たまりの中に光が差し込んでる場所に飛び込んた。
思ってたよりも大きな水しぶきが上がって、

「きゃー! 濡れるわ、これ!」
「当たり前だろうが……」
「竜児もやるー?」
「俺はやんねえよ」
「何よ! ノリ悪いんじゃないの?」
「そんなことねえさ……」





私の小さな赤い靴と、黄色い太陽の光が水たまりに映りこむ。それも……とても綺麗。
ダンスする時のように、頭の高さくらいに上げた私の手を竜児が掴んでくれてる。
そんな竜児を後ろに従えるようにして、つま先立ちで、歩くくらいの歩幅で細かく飛ぶ。
ピシャピシャって、小さな水しぶき。

「ねね、竜児。これって虹にならないかな?」
「なるわけねえだろ……」
「ぶー」

竜児の方に水が飛ぶように、ちょっと強くパシャっと

「うおい!? かかったって!」
「逃げなさいよ」
「そしたら手を離しちまう」
「こんなんで転ぶわけないでしょ?」
「いいや、おまえは転ぶね」
「ふん」

ピチャピチャとスキップするみたいに歩いてる私に竜児は付いて来てくれる。
おわっ! とか つめた! とか言いながら、それでも手は離さない。

「ねぇ、竜児」
「おう?」
「本当にやらないの?」
「おまえのお守りで手一杯だからな」

立ち止まって、ちょんちょんとつま先で水たまりを叩く。

「ねぇ、竜児」
「おう?」
「私、楽しいよ、これ……」
「ったく」

いつものため息。優しいため息。それを聞いた私の心が暖かくなってくる。
この手を掴んでくれる人がいる。ずっと掴んでくれる人がいる。それだけで十分だと思った。

……竜児と私で、この子の両手を掴んであげよう。
竜児はこの子の右手を掴んであげて。私は左手を掴んであげるから。
それで……いつの日か、こんな雨上がりに……こうして一緒に遊ぼうね。

「ねぇ、竜児」
「おう?」
「離さないでね」
「…………おう」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「ねぇ……竜児……?」
「おう、何だ?」

いつの間にか、すっかり雨は上がってた。雲が大分薄くなってて、ところどころ青空も見える。
太陽はまだ顔を出してないけど、雲の隙間から光の筋のような、光の帯のようなものが差し込んで来てる。
太いのも細いのもあって、まるで光のカーテンが幾重にも重なってるみたい。

「あの……ね…………うんと……私ね…………」

そんな空から目を逸らして、足元を見ながら話し始めた、けど……竜児の方に振り返れない。
ちゃんと見ないと。見ながら伝えないと……そう心では思うのに、体が言うことを聞いてくれない。
どんな顔してくれるの? 喜んで……くれるの? ねぇ竜児?

「私……私さ…………」
「なあ、大河?」

少しだけ濡れた私の髪の毛を、指先で軽く梳かしながら竜児が話し始めた。

「ん……何?」
「……あれ、見てみろよ。下向いてんじゃなくて、空を見てみろ」
「うん…………きれい……だね、竜児……」

竜児に言われなくても分かってる。さっきから、ずっと見てたもん。
私はゆっくり後ろに寄り掛かりながら、竜児と一緒に空を見上げる。


「あれはさ、『天使の梯子』って言うんだ」
「へぇ…………なんか分かる気がするな、あの光に乗って何かが降りてきそうだもん」
「そうだろ? 綺麗だよな、あれは……」
「……あんたの辞書にそんな素敵な言葉があったのね。少しだけ見直したわ」
「俺のじゃねえ。泰子の辞書だな」





「やっちゃん?」
「ああ。昔……俺がずっと小さい頃に泰子に教えてもらったんだ。雨が上がると見えるんだよって。
 『天使の梯子のね〜光の中に入ると〜幸せがい〜っぱい降って来るんだよぉ〜☆』
 とか何とか……」
「あはは。やっちゃん言いそう」
「おまえに前に話したような小学生とかの時じゃなくて、いくつの時か覚えてねえけど、もっと昔の話だ。
 泰子の仕事が忙しくて、毎日迎えに来れないような頃に……教えてもらった気がする……」
「そう……」

「だから……その頃、俺は雨の日に1人で帰る時も、ずっと上を向いて歩いてた……空ばっかり見てた、と思う」
「……それが今や、濡れるー跳ねるーって言って地面しか見れない根暗野郎になっちゃった、と。
 あんたって日々退化してんじゃないの?」

そう言って竜児の方に振り返る。

「お……おまえなぁ…………」
「でもさ、それだったら……そんなに寂しくなかった?」
「そうだな。多分そうだと思う。早く雨が上がらないかな……この梯子が見えないかな……って思ってた」
「さすが……やっちゃんだね」
「……おう」

やっちゃんはすごいな。竜児のママだもんね……1人で……いっぱい頑張ったんだよね……
今度一緒にご飯を食べる時にでも、その話を聞きたいな、なんて思う。

「ねね、私さ……さっきその光に入ったよ?」
「おう、そうだな。おまえにも幸せが降ってくるぞ?」
「竜児も入ったでしょ? それなら竜児にだって降ってくるよ」
「まぁ、泰子の言葉だからな……あんまり信じてもしょうがないっつうか……」
「夢の無い男ねーあんた。あーあ、台無しじゃない。こんなつまらない男と結婚するんじゃなかったわ」

と言いながら、ちょっと意地悪く睨みつけてやる。

「ぐっ……そこまで言うかよ……」
「……うそよ、バカ」

そっか、いーっぱい降ってくるのか……それじゃあ、3人で分けっこしようね。

「ねっ、竜児っ!」
「おう?」
「ふふふ……なーんでもない!」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「あーもう、こんなに濡れちゃった! ほら、靴下までびっしょり!」
「だから……当たり前だ……」

ベンチで並んで座ってる私たち。竜児のハンカチは……まぁいいや。
差し込んでくる光が大きくなってきて、その光が公園のあちらこちらを照らしている。
もう梯子っぽく見えないのは残念だけど、明るい所と影になってる所が段々はっきりしてきた。
このベンチにも光が差していて、ちょっと濡れちゃった私には心地よい。

「はい、竜児」
「……おう。っておい!? こんな濡れた靴下渡すんじゃねえよ」
「もう履きたくないの。持って帰って?」
「俺がかよ……」
「何なら、私のフェロモンたっぷりのそれを嗅いでもいいわよ?」
「超結構だ。そんなことするくらいなら死んでやる」
「それはだめ」
「お…………」
「だ・め」
「……おう」

ベンチから投げ出した足をぶらぶらさせる。裸足は気持ちいいよね。

「晴れて来たな」
「そうね……」
「……なぁ、大河。どっか遊びに行きたいところとか、無いのか?」
「遊び?……映画とか……カラオケとか……そういうやつ?」
「いや、そういうんじゃなくって……もっとこう、わーっと遊べるようなのさ」
「うーん……遊園地とか? …………そうだね、きっと楽しいよ、竜児?」

この子と3人で行ったら、きっとすっごく……楽しいよね……

「そうだな。前に行った時はドタバタしてたから、今度は落ち着いて、ってのも変だけど……また行くか」
「うん!」
「他には? 他には無いか?」
「あとはね……そうねぇ……大きい公園みたいなの?」
「大きな公園?」
「うん。別にここみたく小さな公園でも全然いいんだけどね、でもちょっとだけわがまま言うならって話よ」
「おう、それで?」
「こう…………芝生が一面に広がっててね……お日様が照ってて、気持ちいい風が吹いてて……
 そんでもって、家族連れとかがそこらへんで遊んでてさ……他には何も無くたっていいの、あんたと……」

この子でさ……

「……そういうところで、寝っ転がって、おしゃべりして……私か、あんたの作ったご飯を食べて……
 それだけでいいんだ、私は…………そういう、普通なのがしたいな……ね、竜児……」
「…………お、おう! そうだよな。ピクニックとかも最近してないもんな」
「ね、そういうベタベタなのでいいの! そういうのがしてみたいの!」

――ん? 竜児が何か微妙な顔をしてる。泣き笑いみたいな変な顔。
それで、私の髪の毛をわしゃわしゃしてくる……変な竜児。





「他にもさ……そうだな、動物園とか水族館とか海もいいよな! お祭りやら花火ってのも良さそうだぞ?」
「あっ! いいね、それ! そういうのもいい…………よね……」

この子と行くなら……どこだって……絶対楽しいもんね……

「大河おまえ……他に……例えばさ、ベタだけど行ったこと無い所ってねえか?」
「え? そうね……今はこれ以上思い浮かばないわね……」
「そっか。まぁ、そういうのは全部、俺が連れてってやるからな?」
「うん! ありがとう、竜児!」

……だってさ…………ね……良かったね。絶対ぜったい寂しくなんかないよ?

ふふふ、竜児はきっといいパパになれるね。うんうん、絶対なれる。
何回も……何回も……この子のサンタさんに……なってくれるよね?


「……おう。俺も、さ……俺もあんまり……」
「ん?」

変な竜児……さっきから何でそんな変な顔してるの?
なんていうか、よく分からないけど……泣きそうな、切なそうな顔しないでよ……怖いじゃない。

「……そういうところ、行ったことねえから……だから……」

――――怖い?

怖い? 何で? 何が? 昨日も、同じような気持ちになった……ような……


『簡単な話?』 ズキン――
『おい! そういう言い方はないだろう!?』 ズキン――
『おまえ…………だって…………』 ズキン――
『俺も、さ……俺もあんまり……』 ズキン――


竜児が……いやな顔をしてるのが目の前にフラッシュバックしてくる。
そして、その時に感じた胸の痛みも……これは悲しんでる顔、これは怒ってる顔、これは傷ついてる顔。

じゃあ……今の顔は何? どんな気持ちなの? どんな時にそんな顔をするの?……ねぇ、竜児……
やだ……やだやだやだ……怖い、怖いよ竜児……そんな顔しないで……そんな顔を見せないで。
私がわからない顔しないで。怖い……怖いよ……なに?……何なのこれ……





「……ぁ……ってわけじゃねえけど…………そう遠くない…………ゃ……」


周りの音が消えていく。
これ以上考えちゃいけないって思うのに……止まらない、止まらない……

竜児は…………この子のサンタさんになってくれるよね?
毎年毎年やってきて、この子がずっと忘れないサンタさんに……なってくれるよね?

なってくれるよね……なってくれなかったらどうしよう……どうしよう……
昔の私みたいに……なっちゃったらどうしよう……ううん。そんなことは絶対無い!

絶対に……無い。竜児が喜んでくれない……なんて事は絶対無い。

でも……絶対なんて…………誰にも……言えないじゃない……

だって……わたし…………私、知らないんだもん! 分からないんだもん!

私はこんなに……こんなにこの子が愛しいって思うのに……それなのに……

何で私には……サンタさんが……1回しか来なかったの?……あの時、誰も助けに来てくれなかったの?

……なんで…………ねぇ何で!? 誰か教えてよ!!!



「……た……が?」

「大河!」
「――っ!?」

「おい……大河?」
「……りゅう……じ?」
「どうしたんだおまえ? 何か……心ここに在らずって感じだったぞ?」
「それ、は…………」

そう言いながら竜児を見上げて、ビクッ! と身体が震える。こちらを見る竜児の眼差しが……
ううん。あれは心配してくれてるだけ、違う……残念そうな顔とかじゃない……違う……違う!!!

「……くっ!」
「お、おい? 大河?」
「……帰る」
「気分が悪いのか? 何だったら休んでった方が……」
「ごめん…………帰りたいの……」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「おう、お風呂どうする?」
「今日は……ごめんね……」
「ああ。大河も無理しないで早く寝た方がいいぞ?」
「うん……」

布団の中から竜児を見ると、また、その心配そうな顔に怖くなって顔を逸らす。

そう……私は怖かったんだ。

もしかして、ほんの少しでも竜児の顔に陰りが見えたりしたらどうしよう、とか、
ちょっとでも嫌そうな顔をされたりしたらどうしよう、とか、
もしかしたら……もしかしたら…………なんて、言葉にするのもバカらしい心配をしてたんだ。
心の底から竜児を信じていても、それに疑いの声を掛ける何かが、私の中にいたんだ……

私を見てくれる人はいるんだ……今は、いっぱいいるんだ……もう大丈夫なんだ……
そう言い聞かせても、心のどこかに冷たいしこりみたいなのがあって、それが邪魔をする。

どうして言えなかったのか、どうして言葉が出て来なかったのか……
どうして……あれだけ見たいと思っていた竜児の顔を見ずに言おうとしたのか……

私はようやく理解した。


ダメだ……ダメだ……全然私は強くなれてないじゃない……
これから、もっともっと強くならないといけないのに……こんなんじゃダメだ……ダメだ……




◇ ◇ ◇ ◇ ◇



ふっ、と……目を覚ました。何か夢を見ていたような気がする……何だろう?

「りゅうじ……」

目の前には竜児の寝顔。いつの間にか、こいつも寝てたのか……
私が寝ちゃったから、起こさないようにしてくれたのかな?
ごめんね……迷惑かけてばっかりだ。せっかくの週末だってのに、何かもうめちゃくちゃ……


のんきな顔して寝てるわ……なんて思いながら顔に触れた途端、

「ん……たい………………が……」

……危ない……起こしちゃうところだった。
そろそろと、起こさないように静かに布団から抜け出す。
静かに引き戸を開けて、リビングに行って、念のため電気も付けない。

全然落ち着かない。動き回りそうな体を抑え込んでテーブルの横に座って顔を伏せる。

どうしよう……どうしよう……そんなことばっかり頭を駆け巡る。
どうやって伝えよう? ううん。こんな沈んだ気持ちだからいけないんだ。
明日こそ……明日起きたらすごく元気に振舞って……それで楽しく過ごして、
それで……それで、竜児の笑顔を見ながら、思い切って言おう。

ドラマティックじゃなくたって、何だっていい。ただ、普通に笑って伝えればそれで十分じゃない……
そうすれば……怖いなんて思わなくて済む。変な心配なんかにとらわれなくて済むんだ……
いつも通り、ふざけたり、甘えたりしながら……会話の中で自然に伝えよう。うん。そうし……

ピッ― と音がした。
……あれ……これは照明のリモコンの音……?

「大河?」
「――!?」

跳ねるように頭を上げる。光が目に飛び込んでくる。
……いけない、竜児起きちゃった……




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




--> Next...




作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system