[真相]

「すいません。ちょっと私用で出かけてきます!!」
実乃梨は用具を片付け、グランド整備を終えると、シャワーを浴びるのもそこそこに、ソフトボール部の
合宿所を飛び出し、駅に向かって駆け出した。

女子ソフトボール日本代表の一翼を担う選手とはいえ、社会人チームでは1年目。後片付けは
実乃梨の他、一番下っ端の仕事だ。タテ社会の日本スポーツ界では、まだまだ実績より年次が
優先される。勿論、実乃梨もその世界に骨の髄まで浸かっているのだが。

軽いジョギングであっという間に駅まで辿り着くと、目的地に向かう電車のホームへの階段を
一気に駆け下りた。今日は久しぶりに遠征から合宿所に帰ってきてため、用具の片付けに思ったより
時間が掛かってしまった。竜児との待ち合わせ時間には間に合いそうにない。

ピッ、ピッ、ピッとケータイを操作し、竜児に電話をかける。メールよりも話した方が早いだろう。
「あ、高須君? 今、大丈夫?」
「ああ、ちょうど乗り換え待ちだ」
「ゴメン、練習が長引いちゃって、私はこれから電車に乗る所。15分ぐらい遅れると思う」
「わかった。俺は予定通りに着けそうだから、先に大河がいる店に行く。川嶋が送った地図は持っているか?」
「うん、あるよ」
「じゃ、店の近くまで来たら、ケータイ鳴らしてくれ。どんな様子になっているか分からないしな」
「分かった。電話する」

丁度のタイミングで滑り込んできた電車に乗り、半分ほど空いている座席には座らず、扉に向かって立ち、
ゆっくりと流れていく夜の景色に目をやった。かかとを大きく上げ下げし、下腿三頭筋を鍛えるトレー
ニングを行いながら。

高校時代に出会った無二の親友にもう何年会ってないんだろ。淋しくなるから、いつの日か実乃梨は
数えるのをやめていた。そして、もう1人の親友から送られてきた地図に目を落とす。
「こんな近くにいたなんて、馬鹿だな私。何やってんだろ… あ、あーみんに怒られたばかりだっけ…」

一昨日、地図をFAXで送ってもらった時に亜美と少しだけ電話で話した。
『…“実乃梨ちゃんのせいじゃない、仕方なかったんだよ”なんてお優しい慰めは言わないから。
とにかく、やっと見つけた手掛かりなんだから、あいつがいたら絶対掴まえて。私は撮影で行けないし、
実乃梨ちゃんが頼り。高須君だけじゃ手に負えない、いや高須君だから手に負えないこともあると思う。
しっかり掴まえて、私達のタイガーを取り戻して…』

「そうだよね、あーみん。掴まえて、いっぱいお仕置きしなくちゃ、大河に」
その名を口にするだけで、胸の奥からぐっとこみ上げてくるものをこらえて、実乃梨はつぶやいた。
「まだ負荷が足りないようだねぇ。よしスクワットでもやるか!」

それから数十分、ハードトレーニングで周囲の乗客をドン引きさせた実乃梨は、
目的の駅に到着した電車の扉が開くと、ホームに飛び出して猛スピードで階段を上っていった。

* * * * *

「高須君っ、遅れてごめん! あーみんが教えてくれた店の近くまで来たよ、大河は?」
ケータイの向こうから、(離せ!)とか(おい!)とか何やら怒号が飛び交っている。

「櫛枝っ、いいところに! 今、店の裏口から飛び出してった。そっちに行ったら捕まえてくれ!
黒のドレス、そう、高校のクリスマスパーティーの日に着ていたようなっ…」
切羽詰まった竜児の声、どうやら亜美の勘は当たったらしい。

「そっちって… 」
その瞬間、豪奢な髪を振り乱して、路地の向こうから駈けてくる親友の姿が視界に入った。
ぶわっと高鳴る胸の動悸と共に、全身に力がみなぎるのを感じる。そう、スコアリングポジションに
ランナーを置いて打席に立つ、あの感覚だ。

「っ、見つけた! 任せて高須君、必ず掴まえるから!」



実乃梨は路地の出口の真ん中に両手を広げて立ちはだかると、一声、叫んだ。
「大河!」

俯いたまま駈けていた大河の足が止まり、顔を上げる。10m程の距離を挟んで実乃梨と大河の目が合う。
実乃梨の脈拍はさらに高くなった。
その瞳、間違いなく大河。本当に大河…なんだね。

感傷に浸ってしまいそうになる実乃梨の心を、大河の叫び声が打ち破る。
「どうして? なんで? なんでみのりんまでいるのよ!!」
瞬時に向きを変えると、大河は逆方向に走り出した。

アレッ、私ミスった? 声なんか掛けずに捕まえた方が良かったっけ? なんて反省は
コンマ5秒で消え、実乃梨は大河を追って走り出す。
「大河、待って… って、待ちやがれコンニャロー!!!」

手乗りタイガーの異名を持ち、卓越した運動能力を誇っていた大河も、女子ソフトボール日本代表、
不動の1番打者の脚力にかなうはずが無い。100mも行かないうちに、実乃梨に肩を掴まれ、
バランスを崩した大河はかつてのドジっぷりを遺憾なく発揮し、見事に転んだ。

「っ痛!」
「大河! 大丈夫かい? ごめんよ、力入りすぎっちまって」
実乃梨は大河の身体を起こそうとしゃがみ込んだ。その隙に大河は再び駆け出そうとするが、
その腕は実乃梨にがっちりと掴まれている。

「はなして、はなして、はなしてー!」
「大河、無理だよ。膝、擦りむいて、こんなに血がでてるよ」
「いやーっ!!」
「大河、落ち着けよ! 私を見て、実乃梨だよ。あんたの親友。ずっと昔から、今も」
運命の歯車が大きく動いた高校2年のバレンタインの日、かつて実乃梨がそうしたように、
両肩を掴み大河を壁に押し当てて叫ぶ。

「あんたを連れ戻しにきた。一緒に帰ろう!」
「だめ! だめなの、もう誰も私に関わっちゃいけないの! だって、みんなを巻き込むことになったら、
私、本当に耐えられない!」
何かを押し止めるかのように、大河も実乃梨の両肩に手を伸ばすと、俯いたまま叫び返した。

「高須君はどうするの?」
大河が息を呑む音が聞こえる。
しばしの沈黙のあと、ゆっくりと顔をあげた大河の口から思いもつかない言葉が吐き出される。

「竜児のことはもういいの。いいから。だからねぇ、みのりん、みのりんが竜児をしあわ…」
「ふっざけんなっっっっ!!!」

―パンッ―
暗い路地裏で乾いた音が響き渡った。

そんなことは絶対に言わせない、聞きたくない。実乃梨の平手は大河の頬を打っていた。

「あんた、高須君の気持ち、考えたことある? 今まで1日いや1秒たりともあんたのこと忘れずに、
ずっと待って、待って、耐えて、耐えて、あんたを探して、探して、どうしてだよ大河!
なんで、なんで何も言わずに居なくなっちゃんたんだよ!」

「それは…… だって…… だって… りゅ……  えっ?」

ふわりと大河の肩を覆うように上着が掛けられた。
遅れて追いかけてきた竜児のスーツだった。





「櫛枝、有難う。もう…いいよ。
足、ケガしちまったな。お前相変わらずドジだな。おぶってってやるから乗れよ」

実乃梨の目の前で、さっきまで激しく抵抗し、声を張り上げていた大河の熱がみるみるうちに
冷えていく。背を向けてしゃがみこんだ竜児を前に、大河は身じろぎもせず、立ちすくんでいる。

見かねた実乃梨は、大河を抱きかかえるとエイッと竜児の背中に乗せた。
大河は暴れずにおとなしくしていたが、竜児の背にはもたれかからず、両手で竜児の肩を固く掴んでいた。

「いいよ、高須君。大河、ちょっと軽くなったね…」

3人は無言のまま、来た道を辿って、店に戻っていった。

* * * * *

実乃梨は店の奥にある、従業員部屋を見回していた。
テーブルと椅子、ロッカーなどが置かれた簡素かつ殺風景な部屋は、店構えと従業員の数にしては、
広い造りだった。寝泊まりできるベッドもあり、誰かがここで暮らしていそうな雰囲気がする。

部屋の真ん中に置かれたテーブルの横で、大河はパイプ椅子に座り、片手に消毒液、片手に脱脂綿を
持ってしゃがみ込んだ竜児から傷の手当を受けている。

「ちょっとしみるぞ、いいか大河」
「ん、…っつぅっ」
「傷は浅いから、すぐ治ると思うぞ」
「うん… だいじょうぶ…」

ったく、恋人同士、久しぶりの再会なのにこの2人はなんでこんなに大人しいんだ? 
抱き合って喜びあったって、こっちはちっとも構いやしないのに… ちょっと絡んでみるか

「はは、ごめんよ大河。ちょっと力が入り過ぎちゃってさ、相変わらず足速いもんだから、
つい本気になっちゃったよ。手乗りタイガー、ここに在り! だね」
「ううん… みのりんは悪くないよ。私が勝手に転んだだけ。ドジだし」
…つまんない返事。

竜児は時々大河の顔を見上げながら手当に専念している。包帯を巻きながら、大河にぽつりと話し掛けた。
「元気に… してたか…?」
「……うん」
「そか… 頑張ってるんだってな。店のマスターにちょっと聞いたぞ」
「……うん」

* * * * *

大河をおぶって3人で店に戻ってきた時、マスターは心配そうに裏口の前で待っていた。
「ケガしちゃったのかい? バイ菌入らないようにすぐ洗った方がいい。おい、ちょっと手伝ってやれ!」
マスターは若いバーテンを呼ぶと、大河を奥の洗面所に連れて行かせた。

その間に竜児と実乃梨は、自分達の素性をマスターに話した。
2人が大河の高校時代の同級生で、竜児は大河の彼氏でありフィアンセである、という自己紹介を
中年と初老の端境ぐらいのマスターは困惑した表情で聞いていた。

「そんな大事な人がいるなんて話は聞いたことないが」
「でしょうね。あいつは俺達に迷惑掛けないよう、黙って姿を消しました。ずっと探していて、
偶然見つけることができたんです」
「そうか… ではあいつらの仲間ではないんだな。いやすまん、その筋の者かと思ったのでな」
「いいんです、慣れてますから。それより、あいつらって誰のことですか?」
「いや、こっちの話だ。彼女は、とらちゃんはもうずいぶん長くここで働いている」
「とらちゃん って大河のこと?」
「ああ、源氏名だ。本名を呼ぶ訳にはいかんだろう、あまり目立ちたくない身に」




“とらちゃん”ってそのまんま過ぎて、源氏名になってないじゃん
実乃梨はツッコミたかったが、竜児の真剣な横顔を見て、自重した。

「大河の事情をご存じのようですね? 失礼ですがあなたは一体?」
「私はこの店のマスターだ。とらちゃんの保護役でもあり、監視役でもある」
「監視役ということは金融屋の仲間ですか?」

竜児と実乃梨が同時にぐっと拳を握りしめる様子が伝わったのだろう、慌てて、両手を振りながら言った。
「いや、私は雇われの身だよ。彼女に何かあると咎めを受けるのでね。警戒しているんだ。
君達は彼女を連れて帰りたいのだろうが、彼女なりに今、一生懸命頑張っているんだし、ここで
手荒なことは勘弁願えないかね」
「それは大河に話を聞いてから考えます。あ、さっき割ってしまったグラスは弁償させて下さい。
あと、救急箱はありませんか?」
「グラスは気にしなくていい。救急箱はそこだ」

そして、洗面所から戻ってきた大河の手当を竜児が引き受けたのだった。

* * * * *

「よし、これでいいだろう。血は止まってるから、風呂の後、擦れて痛くないようにガーゼ当てとけ。
ほら、これ持ってけよ」
「うん。あ、ありがと…」

「ねぇ大河、ずっとどうしてたの? あいつらに暴力とか嫌な目に合わされてない?」
実乃梨はさっきから傷の手当ばかりで、何も尋ねようとしない竜児に代わって、大河に言った。

「大丈夫。そういう目にはあってないから… 身体とかに物理的な証拠を残すまで追いつめて、
警察に駆け込まれたら元も子もないから、そこまではしないもんよ。少なくとも今のところはね。
それにあいつらに守ってもらっている、そんな状態」

実乃梨がきっかけを作ったことで、ようやく竜児も大河に尋ねる気になったらしい。
「何から守ってもらってるんだ? 金融屋の狙いは今のお父さんに借金を払わせることだろ?
さっきマスターが“あいつらの仲間か?”とか言ってたけど、借金の他にまだ何かあるのか?」

核心に触れる話に、さっきまでのしおらしい態度から、みるみるうちに大河の瞳に警戒の色が浮かび、
存在が急に遠くなっていく。

「……言わない。アンタ、パパに会いに行ったんだって? 余計なことを」
「俺もあれから色々調べてみた。北村にも尋ねてみた。なぁ、借金の契約書なんてニセモノだろ?
なんでそんなものに大河が縛られなきゃいけないんだ? 裁判で申し立てとかできるんだろ? 
保証人になってないって。百歩譲って借金があるとしても、自己破産とか何か方法はあるだろ?」

「はぁ? アンタ何言ってんの? あいつらがそんなことさせる訳ないでしょ? この馬鹿犬。
とにかく、アンタやみのりんには関係ないんだから帰ってよ。黙っていなくなったのは悪かったわ。
でも、こうして元気でやってる。だから、心配しなくていい」
「おい大河。それで、はいそうですか?って帰れる訳ねぇだろ。全部話してくれよ。何が起きてるんだよ?」
「やだ。話さない」
「おまえなぁ」

相変わらず2人の距離は縮まらない。
実乃梨は歯痒い思いで大河と竜児のやり取りを見つめていた。

揉めそうな雰囲気を察したのだろう、マスターが従業員部屋に顔を出してきた。
「手当は済んだようだね? じゃあ、とらちゃん、今日はもうあがりな。そのケガじゃ、立ち仕事は
無理だろう?」
「え? でもマスター…」
「大丈夫、時給はちゃんといつもの時間でつけておくからさ」




大河は竜児と実乃梨の方にチラッと一瞥をくれたあと、
「わかりました。すいません。じゃ、そうさせてもらいます」
と言うと、ロッカーから着替えが入っているらしいカバンを出して、奥の更衣室へと消えて行った。

「マスター、教えてください。大河の借金はいくらなんですか? 前にあいつの今の父親に
尋ねたけど、教えてもらませんでした。相当な額だということは推測できるんですが」

マスターは竜児と実乃梨の顔を見比べると、しばし黙考。やがて言ってしまった方が、
この場は揉めずに済むと思ったのか、ポツリ、事も無げにつぶやいた。

「3億」
「は?」
「だから3億円。大卒のちょっといいサラリーマンの生涯賃金と同じぐらいかな」
「何それ? そんなの大河に払える訳ないじゃん」
「…そうだよね。だから父親にすがりつけって言ってるんだけどね。なかなか頑固な母娘でね。
自分達で何とかするって言って聞かないんだよ」

「マスター、余計なこと話さないでくれる…」
振り返ると、黒のドレスを脱ぎ、紺色のパーカーにグレーのスエットパンツという
地味な服装に着替えた大河がそこに立っていた。
豪奢な髪は、少しはみ出しているが大きめのキャップに押し込められ、小さく、細身の身体は
遠目には少年のようにも見える。

「あ、いや、すまんな… お、おい、送っていってやれ」
少しバツが悪そうに答えると、マスターはさっきの若いバーテンを呼んだ。
声を掛けられた青年は元気よく「ハイッ!」と声をあげると、手慣れたように大河の着替えが入った
カバンを持ち、裏口に向かった。ケガした足を軽く引きずりながら、大河も裏口に向かって行く。

「いつも悪いわね」
「いいっす。これも僕の仕事っすから」
「じゃあ、また明日。足の具合が良くなかったら連絡しなさい」
「すいません、マスター。でも大丈夫だと思います」

大河は竜児と実乃梨の方を振り返ると、言った。
「じゃあね。ここには二度と来ないで。生きてるぐらいの連絡はするからさ」
パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、大河は裏口から店を出て行く。

「おい、ちょっと待てよ、大河! こっちはまだ話が終わってねえぞ!」
竜児と実乃梨は慌てて後を追い、店の外に出る。大河は2人をチラと見もせずに、背中越しに
「アンタにあっても、私には無いの。ついてきたりしないでよね」
そう冷たく言い残すとバーテンのあとについて、ひょこひょこと歩いていってしまった。

竜児と実乃梨は大河の姿が路地の向こうに消えるのを、あっけに取られたように見つめるしか無かった。

取り残された2人に、マスターが幾分安堵したように声を掛けてくる。
「さて、君たちも帰りなさい。とらちゃんも事情を話す気はないようだし、もし、君たちが無理矢理
連れて行くというなら、一悶着あるだろう。そうしたら、とらちゃんはまたここから逃げなきゃ
いけなくなるかもしれない。君たちは今のささやかな平穏まで、あの子から奪うつもりかい?」

「平穏? 今の大河のどこが平穏なの?」
実乃梨は思わず大きな声をあげてマスターの方に振り返った。
マスターは困ったような笑みを浮かべつつ、2人に諭すように語りかける。
「今夜寝る場所がある。明日働く場所がある。それが平穏ってもんさ」
「そんなこと聞いてるんじゃなくって…」
「櫛枝…」
竜児はマスターに詰め寄らんとする実乃梨の腕を掴み、首を横に振った。
実乃梨の動きが止まり、その様子を見て、マスターは店の中に消えていった。

2人は店の裏口の前で、ぽつんと取り残されたように、立ち尽していた。



「高須君、意外と落ち着いていたね」
実乃梨は竜児の方を見ずに、低い声でささやくように話し掛けた。

「…俺の気持ちは、櫛枝が大河を掴まえた時に言ってくれたからな。聞こえてたんだ…
すまんな、いつも損な役回りばかりさせて」
「まったくだよ」
「あともう一つ、すまなかったな」
「なにが?」
「大河が変なこと言って…… その、俺をしあわせに、とか」

―パンッ―
実乃梨は竜児に向き合うと、その頬を平手で強く、打った。

「くし、えだ…?」
「さっき大河には一発喰らわせたからね、これでおあいこだよ」
「おあいこって、何だよ?」
「高須君、どうして大河を行かせたの? なんで力ずくでも引き止めなかったの?
私、高須君にそうして欲しかった。あの言葉だって全然本心じゃない、分かるでしょ?
もっと抱き締めるとか、手を掴んで“行くな”って言うとか、なんでもっと踏み込もうとしないの?
私には分かんないよ、高須君が」
「……すまない」
「謝るんなら、大河にでしょ。高須君、まさか3億円にびびってるんじゃないよね!」

竜児は実乃梨に打たれた頬に少し触れると、意を決したかのように1つ息を吐いて、言った。
「あのさ、櫛枝…」
「何?」
「情けない話なんだけどさ… 見えなかったんだ、大河の心が。どこを掴んでいいのか分からない。
こんなこと、大河と知り合ってから初めてだ」
「……」
「今まで色んな大河を見てきた。笑ったり、怒ったり、拗ねたり、泣いたり、甘えたり… 
でも、どんな時でも手を伸ばせば掴める所というか、ツボみたいなのが分かる気がしてたんだ。
なのにさっきは……見えなかった。ただ平板だった。どこを押せばいいのか分からなかった。
目を見て話しているのに、大河がそこにいないように感じた。だから踏み込めなかった」
「たかす…くん」
「俺がそんな気持ちなのに、大河の手を掴んでも、抱き締めても何も届かない、むしろ逆効果じゃないか
と思っちまった。ははっ、情けないよな、全く。フィアンセを前にして、何やってんだろうな、俺」

「そっか…」
実乃梨も竜児を真似るように、ため息を一つ吐く。
「大河はいつも高須君に心を開いていたからね。高須君をその…私に譲ろうとした時も、心の中では
高須君を支えにしてたし… 戸惑ったの、分かるよ。拒絶する時は徹底してるから。大河は」
「経験、あるのか?」
「え? ああ、昔のこと。大河のお父さんの最初の時のさ」
「櫛枝が大河のウチに行かなくなった、アレか」
「うん。仲直りするの、大変だったんだから。他人の家のことに口だすな、余計なお世話だって…」
「……」

「でも高須君、気づいた? 大河、あんなに傷ついているのに、1滴も涙を流してなかった・・・」
「ああ…」
「私が掴まえた時も叫んではいたけど、涙は見せなかったよ。あの大河を前のように戻すには相当な壁を
乗り越えなきゃね。高校の時は本心を隠して、自分自身に向き合おうとしてなかったけど、今は自分で
考えて、強い意志でこの状況を受け入れている。前向きだと思ってる」
「でも、それは決めたというだけで、望んでいることじゃねぇ。だから、あいつの心が掴めるよう、
まず情報が欲しい。あいつにどんな足枷があるのか、何に苦しめられているのか」
「そうだね。じゃあ…」
「多分、さっきのマスターなら話してくれるだろう」
「うん、人は良さそうだったもんね」




「ところで櫛枝、もし大河を抱き締めてたら、どうなったと思う? あいつ、俺に縋ってくれたかな?」
「うーん…」

実乃梨は額に手をあてると、しばし考えるフリ。実のところ、答えは分かっている。
「噛みつき、突き飛ばし、蹴りの三連コンボが3秒の間に決まって、“触んなエロ犬”の罵声付き、かな?」
「だろ。ったく、櫛枝もひでえよな、なんで抱き締めなかったんだ!って、平手打ち喰らわせやがって」

大河を中心に理解し合った者同士の、戦友に近い特別な信頼感。2人の間に遠慮は無い。

「ハハハハ、わりぃ。ごめんな、高須君… 実はさ、あのまま大河がいなくなるかもって思うとさ、
怖かったんだよ、少し」
「そう…だな」
「でも、やっぱり難しかったと思う。ただ手を掴んでもね。もっと知らなくっちゃ、今の大河を」
「ああ。じゃあ、店に入ってマスターが仕事終わるの待とうか」
「うん、行こう。高須君!」

* * * * *

再び店に入ってきた竜児と実乃梨を見て、マスターはやれやれという表情を見せた。
しかし、竜児は無言のまま、マスターの目を真っ直ぐに見る。生半可な圧力には屈しない、という
強い意志を宿して。
マスターは、軽く首を振ると別のバーテンに水を出すように言い、再び2人を追い返そうとはしなかった。

やがて、他の客の姿が無くなった頃、マスターは自ら竜児と実乃梨のテーブルに足を運び、
腰を下ろすと、あごの下に手を組みながら2人を見回した。

「私にとらちゃんのことを聞きたいんだろう?」
竜児と実乃梨は黙ったまま、コクリと同時に頷く。

マスターから聞かされた大河の話は思ってもみない、厳しく、苦いものだった。

「最初、チンケな同業者から持ち込まれた逢坂陸郎の債権は、楽に回収できそうな、オイシイ案件という
触れ込みだった……」

本人は行方をくらましているが、連帯保証人は20才になったばかりの実の娘。その母親は再婚し、
娘を引き取って父親の違う弟と共に仲良く暮らしている。
再婚相手の夫は、地元では名を知られた老舗企業の3代目。さらに母親はある嫌疑から警察とヤクザ
両方から目を付けられ、裁判沙汰になったり、騒ぎになることは避けたいはず、だから再婚相手の
3代目を頼って、借金の肩代わりを願い出るんじゃないか、という目論見だった。

何せ妻であり、4代目となる息子の母親からのお願いだ。母親は娘に対して強い負い目があるらしいし、
他人の借金とはいえ、無碍にはしないだろう、交渉しながらじっくり絞り取れれば、と考えたわけだ。
ま、あの会社の資産を手に入れられるチャンスにウチの上の目が眩んだ、とも言えるが。

「ところが、大河と大河の母親は今の父親を頼らず、夜逃げした」
竜児は目論見が外れてしまった理由を一言で表した。

「ま、そういうことだ。逃げ出す可能性も考えて、追跡者を用意していたから、あっけなく
掴まったわけだけどね。そして今、ここにいる。自分達の力で借金を返すと言ってな」

「借金の方は大きな流れが分かりました。もう1つ、大河の母親への嫌疑ってなんですか?
警察とヤクザに目を付けられているというのは前にも聞きましたが、一体?」

マスターは竜児と実乃梨を順番に見て、目に宿る覚悟を確認したうえで話した。
「麻薬密輸の疑い、だそうだ」




「え?」「なにそれ?」
2人は同時に声をあげていた。

「逢坂陸郎と、とらちゃんの母親は、世界中から家具やら建築用の材料の輸入を手広くやっていた
らしいな。そして、逢坂陸郎は表の商売だけでなく、裏のビジネスでも儲けていたんだ」

「大河の母親もそれに関わっていたんですか? 」
「本人は否定している。だが、心当たりはあるようだ。何か裏がありそうと思いながら、取引条件の
良さに目をつぶり、契約と輸入の手続きを進めたことがあったらしい。
警察には、第三者を装った逢坂陸郎から、とらちゃんの母親が犯人の疑いに足る情報や書類が
タレ込まれているようだね。自宅の方にも警察が来たらしいじゃないか…」

「警察できちんと話をすれば、ただの誤解で、本人は関わっていなかったと言えるんじゃないですか?」
マスターは一度、あおぐように視線を上に向けると、やれやれと呟いてから、姿勢を元に戻した。

「最近、警察が麻薬の密輸や使用の撲滅に力を入れているのは知っているね。麻薬を紛れませて、
日本に持ち込まれた輸入品の書類、その多くにとらちゃんの母親のサインが入っていたら?」
「え…?」
「警察は容疑者に近い、重要参考人として彼女を見るだろうね。日本の警察ではクロの疑いが強い場合、
引っくり返すことはなかなか難しい。身の潔白が証明できるまで長期間かつ何度も出頭を要請されて拘束、
もしくは逮捕、勾留に踏み込まれて、裁判で長期間争うはめになる… その可能性も否定できない。
そうなったら、まだ母親に甘えたい盛りの弟はどうなるんだろうね…」

その瞬間、大学1年のXmas頃から大河の母親の具合が悪くなった理由、大河を睨みつけ、ごめんねを
繰り返した理由に、竜児は気付いた。
最初は借金の肩代わりのお願いだったのが、警察とヤクザにタレ込むぞという脅迫になり、
それでも成果が得られないと、最後は大河を巻き込んでの実力行使。そうなるまで大河の母親は
1人で逢坂陸郎と戦っていたのか? それともここまで追い込まれるのは、やはり後ろ暗いことが
あるのだろうか?

「ヤクザはどう絡むんですか?」
竜児は「あいつらの仲間」とマスターに言われたことを思い出して、尋ねた。

「麻薬の密輸を手配していた人間が行方をくらました。供給が止まると困る人達は誰かな?」
「やっぱり、あいつの金はそういう金だったんですね」

大河が高2まで住んでいた高級マンションや高級車、高級ブランドの洋服を始めとする荒い金遣い、
そして、いつか感じた逢坂陸郎への嫌悪感、その全てがここで繋がった。

「2人の人間が密輸ルートを知っている、もしくは実務に携わっていたとしておいて、
片方が雲隠れしてしまったら? 残りの1人を掴まえて、ルートを復活させようとするか、
乗っ取ろうとするだろうね」

竜児は、大河が巻き込まれた罠の全貌を把握して、戦慄を覚えた。
「つまり、覚悟を決めて警察に駆け込んでも、ルートをつぶされたくないヤクザが、本人か家族に危害を
加える恐れがある。全てあいつの、逢坂陸郎が借金を肩代わりさせるために仕組んだこと、ですか?」

「ま、そうだね。借金さえ無くなれば、彼はまた裏の世界では動けるようになる。
そのために二重三重のトラップで追い込んでくる。端から見れば、全て違法だし、押し止めたり、
出るところに出ればカタがつくように思うが、気がついた時には身動きが取れないっていうのは
嵌められる時にはよくあるもんさ」

「…実感こもってますね」
「推察のとおり、私も似たような人生を歩んでいるから、ここにいるんだよ。ここはね、
そういう人間が集まっている場所なんだ。さっきとらちゃんを送っていった彼も、ここに
住み込んで働きながら借金を返してる」




「大河をそんなところに混ぜるな!」
今まで黙って話を聞いていた実乃梨が立ち上がって、吠えた。
「そんなの、ヒドいよ。どうして大河がそんなことに巻き込まれなきゃいけないの? 大河は
何もしていないのに。あの親父、やっぱり許さない! 私が見つけ出してひねりつぶしてやる!」

竜児は再び実乃梨の腕を抑えるとなだめるように言った。
「櫛枝、落ち着け! この人に言ってもしょうがないだろ。ただ、俺も同じ気持ちだけどな、
って、あ、すいませんマスター、そんなところとか言って…」
マスターは苦笑を浮かべながら、気にしていないという風に、顔の前で手を振る。
「いや構わんよ。君達の気持ちは良く分かる」

「聞かせて下さって有難うございました。最後にひとつだけ。あいつは、大河はどうしようと
しているんですか? どうやってこの事態から抜け出そうとしてるんですか? 教えて下さい」
「やはり、警察とヤクザと事を構えるのは割に合わない。正反対だが一度拘束されたら、次に
いつ帰って来れるか分からないという点では同じだ。親子が離ればなれになるリスクは取れない、
というのがあの2人の、特にとらちゃんの考えだ」

「だから3億の借金を返すと…」
「ああ、逢坂陸郎は借金を肩代わりしてくれたら、警察には送った資料は捏造だったと告げ、
ヤクザには密輸ルートを自ら復活させて、手を引かせる。そういう約束になっているらしい」
「そんなのあのクソ親父が守る訳無いじゃん、また利用されるだけだよ」
実乃梨は目の前のグラスを握りつぶさんばかりに掴み、わなわなと振るわせている。

櫛枝、頼むからもうこの店のグラスを壊さないでくれ… 
竜児は祈るような思いで実乃梨を見るが、当の本人はそうしないと治まりがつかないようだった。
マスターはただ1人、動じることなく話を続けている。そして話は大河の気持ちの核心に触れていた。

「そうかもしれないな。ただ、借金を肩代わりして、向こうの要求を叶えた時、逢坂陸郎を
掴まえるチャンスがある、そんなことを考えている風だったな…
自分達の責任であの男を野放しにはしない、とらちゃんが一度そう言ったことがある。多分、
君達のような関わりのある人間にまで害が及ぶのを防ぎたい、という思いがあるんだろう…」
竜児は全身の血液がサーッと引いて行くような感覚を覚えた。
「あいつ、ば…か…野郎。そんな、なんでも1人で、いや母娘で背負い込みやがって」

「母親は表に出ると危険だから、生活費はとらちゃんが稼いでいるんだ。朝、弟を保育園に送った後、
日中はウチと関わりのある法律事務所で働いている。とらちゃんは英語ができるから、書類づくりの
事務には重宝されている。弟を迎えにいった後は、ここで働く。それで3人の暮らしは十分賄われている」
「でもそれじゃ、借金は全然減らないじゃないですか? 利子だけでも莫大な…」
「それが利子は払われているんだ。勿論、契約書上の金利ではなく、法定金利の上限しか払ってないが。
あの母親にはやはり商売の才覚があるんだろうね。家にいながら、逢坂陸郎に渡さなかった財産を
昔の人脈を通じて投資をし、それなりのリターンをあげているんだ。ただ、元本を減らすまで
なかなか…ね」
「そんな! じゃあ、いつまでもこのままってこと?」
「どうだろう。運が良ければすぐかもしれない。運が悪ければ… ま、私に分かることではないな」

「大河はここにいて安全なんですか? 外で働いたり、保育園の送り迎えをしたりしても。
ヤクザに見つかりそうになったことは無いんですか?」
竜児が一番聞きたかったこと、それはまた大河がいなくなる恐れ。

「100%の安全なんて、引きこもらない限りありえない。が、そんなことをしたら、ヒトは
おかしくなってしまう。幸いこの土地は、大きな工場がたくさんあり、日本中いや世界中から
出稼ぎの人間が集まってくる所だ。よそ者は珍しくない。ま、これまで警察、ヤクザとも
近づいた気配はない。自宅から離れ、本人達に縁もゆかりもない土地だから、見つけるには
君達のように偶然だけが頼りになると思う」

「そ、そうですか…」
竜児は安堵のため息をつく。自分達に恵まれた偶然が逆に出る恐れを棚に上げてるのは
分かっているが、マスターに言われると、何となく大丈夫な気になってしまう。




「勿論、出歩く時は目立たない恰好で、通る道は毎日変える、夜、ここから帰宅する時はウチの者が
送って行く、というルールは徹底している。白昼に人通りのある所で拉致される可能性は低いだろう。
尾行の確認の仕方、撒き方は教えた。さらに用心のため、とらちゃんは母親と弟とは別に暮らしている。
とらちゃんは目立つから、いつか見つかるリスクはあると思っていたが、君達が先で良かった、かな?」

「それより、あなたのような方が見守っていて下さって、大河は幸運だったと思います」
「だから、ただの監視役だよ。3億円取りはぐれるようなことになったら、私の責任も問われるからね」
そういうと、マスターは穏やかに微笑んだ。

竜児は立ち上がるとマスターの方に歩み寄る。
「お願いがあります! 俺達、今日はこのまま帰ります。俺達が来たことであいつがまた逃げたりしないよう、
見ててもらえませんか? 無理矢理連れ出すなんてことはしません。あいつを救う手段を見つけたら、
またここに来ます」
「君達…」
「だからそれまで大河のことを…
「「よろしくお願いします」」
実乃梨も立ち上がると、2人は同時にマスターに向かって頭を下げていた。

「いい仲間なんだな、君達は。とらちゃんがここまで頑張れるのが少し分かった気がする。
今まで通りにしかできないが、希望に添う努力はしよう。私もとらちゃんは笑っていた方が可愛いと思う」
「マスター…」
「じゃあ、遅いから今日はもう帰りなさい。何かあったら連絡しよう。約束する」
「「有難うございます」」


* * * * *


2人が店を出ると同時に、フッと店の看板の灯が消えた。
まだ週の真ん中だから、もう飲みにくる客もいないのだろう。

駅に向かって歩きながら、2人は驚きと怒りが覚めやらない状態で、自ずと声が大きくなっていた。

「高須君、大河の状況、想像以上…だったね」
「ああ、でももう怖くねぇ。敵の正体が分かれば、あとはどう解決するか、それを考えるだけだ。
大河が何故拒絶したか、その気持ちも良く分かったし」
「おお、さっきよりずいぶん威勢が良くなってきたねぇ、いいよいいよー」
「余りの話のデカさに感覚が麻痺してるだけかもしれねぇけどな。でもこんな状態に大河を置いておけねぇ、
一日も早く救い出す方法を見つける」

「そうだね。またみんなで集まって相談しようよ。もう立派な社会人なんだし、なにか思いつくことが
あるかも。能登君は週刊誌の記者になったんでしょ?」
「ああ、なんか希望と違う配属で、毎日張り込みやらされてるって、ぼやいてたな」
「きっとこういう裏の世界の話にも詳しいよ。対処できる人も知ってるかもしれない。今週末はどう?」
「わかった。皆と連絡取ってみる。櫛枝はこれから合宿所に帰るのか?」
「うん、まだ電車あるみたいだし、門限破っちゃたけど、コーチには連絡してある。大河のことは
話してあるんだ… 高須君は?」
「会社の宿舎に戻るのは難しそうだから、この辺りのビジネスホテルに泊まって、そのまま研修所に行くよ。
悪かったな櫛枝、遅くまで。来てくれて有難う」
「あたりまえだよ、だって、大河だよ、大河のことだよ。大河は私にとって…」

実乃梨の足がぱったりと止まる。
やっと会えた、大河に。その実感が急に込み上げてきたのか、実乃梨は震えを抑えるように
両腕を身体に回して、つぶやく。
「大河、消えないよね。もう、いなくならないよね」

竜児は実乃梨の両肩に手を置くと、強く力を込めた。
「ああ、まずはマスターを信じよう。それに大河の状況を見ると簡単には動けないだろう。何の
根拠もないけど、まず大丈夫だと思う。ヤクザに見つからない限りは…」
「そうだね。信じよう…」




もし、夢というものが現実と虚構が入り混じりった仮想的な体感現象を指すものなら、
これは夢じゃない。単に昔の記憶を甦らせて、なぞっているだけ…

私は誰かのベッドに横になっていた。ぼやけた頭のせいで、ここがどこで、いつからこうしているのか
全く思い出せない。
眼を開き、頭を動かして、自分のいる場所を確かめなきゃと思うけれど、身体に全く力が入らない。
まるで何かに絡めとられているようだ。

やがて目覚めたいのではなく、このまま、もっと横になっていたいという自分の本能に気付いた。
理由はこのベッドの匂い、つまりベッドの主の匂いに惹かれているのだ。
ずっと探していた。ううん、知らないものを探していたというより、あるべき所に還ってきた、
そんな言葉の方がしっくりくる安心感。それが目覚めを拒んでいる。

女は匂いで男の遺伝子の型を見分け、自分からもっとも遠い型を持つ男の匂いを好ましいと感じる、
いつか何かのニュースかテレビで見た記憶がある。理屈は分かるような気がするけど、そんな塩基の配列で
片付けられるようなものじゃない、もっと深い奥底の心の原型、そう、魂での結びつき、そんな感じ。

いつまでもこのゆりかごに抱かれていたい、魂の海をたゆたっていたい、そんな自分がそこにいた。

やがて、遠くから音が聞こえてきた。騒々しいけど、小気味よい、鉄と鉄が触れ合う音。火が燃え盛り、
油が爆ぜる音。そして、なんとも形容しがたい、香ばしい匂いが心の奥底で感じている匂いをゆっくりと
覆い隠して行く…

「に、……にんにく……」
ひとときの魂との邂逅は、身体の生存本能と生理的欲求を満たす、その匂いによって、幕を閉じることになる。
心の片隅にほんの小さな欠片を残して。

遠くから声が聞こえてくる。出会ってから僅かしか聞いたことがないはずなのに、どこか懐かしい声、
高須君、いや竜児の声。あの時、そんな自覚があったのか、今ではもう分からない…

「……逢坂。逢坂大河、起きろ…」


* * * * *


ハッと、大河は目を醒ました。
窓の外はまだ深い闇の中。時計を見ると、いつもの習慣通り目覚めるべき時間の直前を針が指している。
1年で最も夜明けが遅いこの季節、太陽の光が辺りを照らし出すのはまだ先だ。
布団の上に身を起こすと、眠りの中で自分が見ていたことをぼんやりと思い出していた。
夢を見たのは随分久し振りな気がする。昔はよく見ていたけど、どうしてだろう…とまで考えたところで、
一気に昨夜の記憶が甦ってきた。

「そっか… 会ったんだもんね。竜児に…」
誰もいない1人っきりの8畳間で、ひとりぽつりとつぶやいた。

ハッ!
大河は慌てて自分の頬に触れて確かめる。そして、安堵の息を吐いた。
…うん、大丈夫、泣いてない。竜児に会っても、みのりんに会っても私は泣かなかった。
約束を守った。自分との約束。全てが終わるまで決して泣かない。泣いてなんかやるもんか…

布団から立ち上がり、着替えようとしてパジャマのズボンを下ろすと、膝の擦りむいた傷が
目に飛び込んできた。引き攣れる感じはあるが痛みはもう無い。
そして、これが昨夜の出来事が本当だったことの証…

「………」
傷を手当してもらっていた時のことをほんの数秒間だけ思い出すのを自分に許した後、
大河は顔をあげ、手早く着替えを済ませた。
そして、大きめのキャップを目深に被ると、部屋のドアを開け、母親と弟の住む家に向かう。

負けない。終わるまで決して負けない。運命にも自分にも誰にも…



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