1月下旬。日曜日 13:20
ロケバスのスモークガラスに軽くもたれかかりながら、亜美はケータイの画面に目を落とした。
本番の時間まであと30分以上ある。今はスタッフが機材の最終チェックを行っており、亜美は、
本番の直前までここで待機している以外にやることは無くなっていた。

もう一度、ケータイの画面に目を落とした時、それが小刻みに震えているのに気がついた。
「震えてる… 怖いの? この私が…?」

意外そうに呟きながら、頭の中ではわかっていた。そう、怖いのだ。
今までの映画の海外ロケでスラム街にも行ったし、危ないシーンをスタント無しで撮ったこともある。
しかしいずれも「仕事」であり、入念な準備を行なってのことだった。

しかし、今回は違う。
自分の思いつきで始まったことが、どんな結果を引き起こすのか、誰も予測がつかない。
自分1人だけじゃない。映画に関わる多くの人達、事務所、仲間、そして親にも迷惑が掛かるかも
しれない。その重さを考えると、震えるのも無理はないと思う。今すぐ逃げ出してしまいたい
という感情が心の隅に横たわっている。

しかし… 亜美は2人の顔を思い浮かべる。1人は数百m先に、もう1人は500km以上離れたところで
スタンバイしている。その2人のことを思うと、逃げ出すという選択肢は端から無いことを知っていた。
また能登が手配したものは既に準備済みであり、もう引き返せない状態だ。

「今さら後戻りなんて、あるわけねーし… それにこれは2人のためじゃない…」

亜美は何よりも自分のためだと知っている。大河の母親に指摘されたように、自己満足に過ぎない。
でも、その自己満足は自分の存在そのものと同義なぐらい、重い。


男なんかまるで興味のなかった自分が、高校2年の時、何故あれほど、高須竜児に惹かれたのか……
先日、大河の母親の家で、竜児の話を聞きながら、亜美はその答えが分かったような気がした。

亜美と竜児、2人は似ているのだ。

竜児に言ったら「容姿、家庭環境共に全く逆な2人のどこが似てるんだよ!」と喝破されそうだが、
その2つこそが自分と竜児と奇妙な相似形を描く起点となるのだ。

人に持てはやされる容姿であるが故に、仮面を被り、いい子を演じた自分。
人から誤解を受ける顔だったが故に、必要以上に良い子でいなければならなかった竜児。
親が華やかな世界で活躍すればするほど、ひとりぼっちになっていった自分。
母親以外に身寄りがなく、いつもひとりぼっちの恐怖を感じていた竜児。
アプローチは異なるものの、身につけたものは共通している点が多かった。

亜美は、ふと自分の生い立ちを思い浮かべる。


* * * * *

大学の劇団で主演女優だった母と、劇団の主宰で演出家だった父は早くに結婚した。
有り体に言うと、母が大学4年の時に自分を妊娠した、いわゆるできちゃった結婚だった。
父の家は元々資産家で、美人だがどこの馬の骨とも分からない女と一緒になることに猛反対した。
有名TV局への就職が決まっていた息子には、いずれどこか良家の娘との縁談を、と思っていた親の
思惑を振り切って、父は家を飛び出し、伯父夫婦を頼って、母と共に大橋にやってきた。

父は仕事が忙しく、余り家にはいなかったけれど、たまの休日には、家族で1日中公園で過ごし、
森の奥で母が芝居の1シーンを演じるのを目の当たりにしたり、父と母が演劇論を戦わせるのを
眺めていたり、慎ましいながらも楽しく暮らしていた。

最初は育児に専念していた母親は芝居への気持ちが抑えきれず、自分が幼稚園の年中になる頃には
父の口利きもあったのか、ドラマの通行人役などでテレビの仕事を始めた。
サスペンスドラマの撮影現場でのアクシデントで、その他大勢から殺され役を急遽演じることに
なった母は制作陣の目に止まり、徐々に出番の多い役へと抜擢されていった。

小学校に入ると学童保育で過ごす時間が増える。
学童で女子をいじめる悪ガキをぶちのめそうとした時、間に割って入ったのは、同じく両親が
働いていて、その頃から委員長気質の北村祐作だった。なかなか親が帰ってこない亜美の家庭状況を
見かねて、北村家で食事の世話になることもしばしばだった。

小学校高学年になると、都心の大きなマンションに引越し、大橋を離れる。
母は準主役となるTVシリーズが始まり、父もドラマ制作のディレクターとなり、ますます家に
帰って来なくなった。

高級マンションの広い一室で、お手伝いさんがつくった食事を1人で食べる日が増えていく。
中学は私立を受験させられたが、親への反抗から答案をわざと間違えて、不合格になった。
中1の時、ティーン誌の読者モデルに親に内緒で応募したのも、そんな寂しさを紛らわせ、両親がいる
世界に近づきたいという気持ちの表われだったのだろうか。

周囲の反対を押し切って飛び込んだモデルの世界はシビアだった。特に川嶋安奈の娘と週刊誌に
すっぱ抜かれてからの、モデル同士の影での嫌がらせは凄惨を極めた。中学校は出席日数ギリギリで
卒業し、そのあと進んだ芸能系の高校もクラスメート同士がライバルでとても友達を作る雰囲気では
無かった。

そして、いい子の仮面を被る。特にスタッフに対してはいい子に徹した。
他の子が撮影が長引いて文句を言い出すところを、自分はスタッフに飲み物を差し出すなど、思いつく
限りの気配りをやった。親の肩書き効果も加わって、評判はたちまち上昇し、メインモデルの座を
獲得するのは容易かった。勿論、容姿や知識を磨く努力も決して怠らない。
そして、仕事に無関係なところでは、溜まったどす黒いものを吐き出す、腹黒亜美ちゃんの登場だ。

そんな日々が続いていた高校2年の春、あのストーカー騒ぎが起こったのだった。

竜児が自分の本性を知ったのは祐作の差し金だったという話を後で誰かから聞いたが、そんなことが
無くても、竜児はいつか自分の本性に気づいたと思う。そして「なぁお前、疲れねぇか」と声を掛けて
きただろう。竜児の言葉には、単なる嫌味や冷やかしではない、素顔を見せられない者だけが分かる
問い掛けがあった。

私に興味なんて無い癖におせっかいな奴…
本当に困っている人がいると、手を差し伸べずにはいられないんだから。
そんな所も私達は似ているけど…

竜児が時折語りかけてくる言葉が深く心に刺さり、気がつくとその姿を目で追っていた。飾らないまま
でいたら、自分の気持ちに気づいてくれるかもと思った。その願いは届かなかったけれど、いつかしら
仮面を被っていることが馬鹿らしくなり、自分本来の姿をさらけ出そうと思えたのは、竜児のおかげだ。



そして大河。
本性を露わにしても、2-Cの中で浮かずにいられたのは、大河の存在に依るところが大きい。
クラスメイトにとってみれば、大河の暴虐っぷりに比べると、自分の腹黒さは可愛いものだったのだろう。
麻耶と奈々子も、最初は全て「タイガーのせい」で理解し、やがて「怒った亜美ちゃんも可愛い」とか
「姉御みたいな啖呵が似合うよね、そのキャラでいきなよ!」と戸惑いもなく受け入れてくれた。

いつの間にか、2-Cではありのままの姿でいることができた。タイガーを救ってやんなきゃ、と行事にも
積極的に参加した結果、クラスを引っ張ることになるなんて、転入当時は夢にも思わなかった。
奈々子と麻耶という親友も、実乃梨という頬を張り飛ばしあえる強敵(とも)も得られた。

そして、生まれて初めて、別け隔てなく付き合ってくれる「仲間」という輪の中に自分がいることに気づく。
竜児と大河を囲む人達を、このささやかな世界を大切にしたいと、今も、ずっと、心の底から願っている。

だから、自分を変えるきっかけをくれた、あの2人には幸せでいてもらわないと困る。
自分の居場所を確認し、前に進み続けるために、あの2人には暑苦しいぐらい愛し合っていて欲しいのだ。
その気持ちは、びしょ濡れになった2人を家に迎えた、あのバレンタインデーからずっと変わらない。
たとえ自分の初恋が実らなかったとしても、そうあっていて欲しい。

「あんたたちがちゃんと落ち着いてくんなきゃ、仕事に身が入らないっつーの…」

* * * * *

「おいっ、川嶋!」
突然の呼び掛けに顔をあげると、目の前に監督が立っていた。

「なに惚けてんだ? いよいよ本番だぞ。最後にもう一度だけ聞く。後悔はしないな?」
「するわけないじゃないですか。監督こそ映画がぶっとんでも知りませんよ?」
「別に。金出してるわけじゃねぇし、ギャラはあらかたもらってるし、あとは面白くなりゃいいんだよ」
「ったく、この人は…」

ロケバスを降りながら、亜美は先日の両親に計画を打ち明けた時のことが頭をかすめた。
話を終えた後の、両親の言葉は思いもよらないものだった。

「お前が何か企んでいるのは気づいていた。でも、お前は自分で考えて、自分の力で周りの人達を
動かしている。誰がそれに反対すると思う? 自分で決めたことをしっかりとやりなさい」
「あなたが得たものが本当にかけがえの無いものなら、全力で守りなさい。私達のことは気にせず、
最後までやり遂げるのよ」
「でもパパとママにも迷惑が掛かるかもしれないのよ…」
「なに言ってんのよ。私達こそ、大橋高校でだんだん変わっていくあなたの姿が本当に嬉しかったのよ… 
それに、子が親の心配するなんて、50年早いわ」
「パパ、ママ…… 有難う…… でもねぇママ、一体いくつまで生きるつもり…?」

ロケバスのステップの最後の一段をトンと跳ねて、地面に降り立つと、両手で軽く頬をパンと叩いた。
「さぁて、亜美ちゃん。気合入れていくよ!」


* * * * *

日曜日 13:50過ぎ
竜児は、大河の実家の前に立っていた。
ここに立つのは、春田の家で大河が送った荷物を見つけて以来、数年ぶりになる。

予定どおりの時間に門の前に立ち、呼び鈴を押そうとした瞬間、玄関のドアが乱暴に開いた。
視線を向けると、大河の今の父親が、戸惑いと怒りがいり混じったような表情でこちらを見ている。

「…昨日、大河ちゃんから“大事な人が訪ねていくから”とメールが来たが、まさか…君が来るとはね」
「突然、押しかけてすいません」
「家の前で突っ立っていられても困るし、ここで押し問答するのもなんだから、入りたまえ」
「はい。有難うございます・・・」

招かれるまま、竜児は玄関前の石段をあがると、扉の上に動作中の監視カメラが視界に入った。
呼び鈴を押す前に扉が開いた理由はこれだろう。

「安心したまえ。盗聴の恐れはない」
カメラを見上げている竜児に、視線でスリッパを勧めながら、大河の父親は冷ややかに言った。

「どうして、それを?」
脱いだ靴を揃えて、リビングへと進みながら、竜児は問いかけた。
理由は聞かずとも分かっていたが、話のきっかけにはちょうどいいだろう。

大河の父親はさっとこちらに向き直り、堰を切ったように語りはじめた。
「大河ちゃんからのメールに書いてあった。どうして大河ちゃんが盗聴の心配なんかするんだ? 
君が此処に来るということは、大河ちゃんに会ったのだろう? 妻は? 息子は? 会ったのか? 
皆、どこにいる? どうしている? 元気なのか?」

矢継ぎ早の言葉に、大河の父親の動揺が手に取るように見えた。
家族の行方を案じるこの表情が心の底からのものであれば、これから話すことを理解してくれるはずだ…

「まず俺は、いや私は3人に会いました。3人とも無事で、元気でいます。そしてあなたに迷惑を
掛けていることを詫びていました」
「詫びなんていい! どうやって暮らしている? まだ変な連中や警察に目をつけられているのか?」
「落ち着いて下さい。大河のお父さん…」
そう言うと竜児は左手に握ったケータイのサブディスプレイで時間を確認する。

「いきなり、変なお願いですいませんが、テレビを点けていいですか?」
「何? 君はテレビを見るためにウチに来たのか?」
「一緒に見てもらいたいものがあるんです。お願いします」

軽く頭を下げ、訝しげな表情を見せる大河の父親からテレビのリモコンを受け取ると、リビングルームに
据えられた、大画面のテレビの電源を入れ、チャンネルを選ぶ。
14:00ちょうどになったその瞬間、にぎやかな音と共に、亜美の顔が画面に大きく浮かび上った。

「この子は… 女優の?」
「はい、そして俺達の仲間で、大河の親友の1人、川嶋亜美です…」


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