日曜日 14:00
竜児と大河の父親は、リビングルームにつっ立ったまま、亜美が映っている画面をじっと見つめていた。
画面の隅には「川嶋亜美、TV初、生レポート!」の文字が踊っている。これまで映画の出演者として
インタビューを受けることはあっても、作品に関係のないテレビ出演をずっと断ってきた亜美にとって、
こうして自らマイクを握ること自体、とても珍しいことだと実乃梨から聞かされていた。

今回の映画はテレビ局が製作委員会に参加しており、今日の特番は早くから決まっていた。亜美は
監督やプロデューサーなどの関係者に計画を持ちかけ、テレビ局側は亜美の初レポーターとしての
登場等々を条件に、計画に沿った番組づくりに同意したのだった。

『はーい、みなさん、こんにちは。日曜の午後、いかがお過ごしですか? 川嶋亜美です。今日は春に
公開される、私の最新主演映画をご紹介します! この作品は…』
亜美がよく通る声で、映画のあらましを紹介していく。スタジオではなく、どこか家の中からの中継だ。

『では、撮れたてほやほやの映像を、ほんの少し見てみましょう!』
亜美がそう告げると、画面はVTRに切り替わった。

 “病に倒れた父が死の間際に話した、母の本当の姿。
  子供の頃、自分勝手な我儘で家族捨てたと思っていた母親の行動が、
  実は家族を守るためだったという父の言葉をきっかけに、
  日本からアジアへ、母の生き様をたどる、娘の旅が始まる・・・”

映画の冒頭シーンを中心に編集された予告編が流れた後、再び亜美が画面に映る。
『皆さん、いかがでしたか? では、この映画の監督をご紹介します。監督、どうぞこちらへ!』

亜美のにこやかな声に迎えられ、カメラの前に立った監督は気難しそうな顔をしていた。
へそ曲がりの性格と聞いていたので、この表情もわざとだろうと竜児は思っていた。
肩を並べて立つ大河の父親は、この映画が家族の行方と何の関係があるのか?と問い詰めたい様子が
横顔に浮かんでいたが、亜美の姿を昔のクリスマスパーティの時にネットを通じて見たのを思い出し、
今、少し我慢しているようだった。

テレビの画面の中では、亜美による監督へのインタビューが始まっていた。
『えっと監督、この作品は監督が脚本を書かれたんですよね? ご自身の経験を元に』
『まぁ、そうだ』
『ある人がとっても辛い目にあっていますが、本当にこんなことってあるんでしょうか?』
『この話は、昔、俺がテレビでドキュメンタリーを制作していた時に取材した話が元になっている。
何人かの話が組み合わさっているが、そういうエピソードは全て実際にあったことだ』
『でも監督がテレビやってた時って、ずいぶん昔ですよね? 今の時代でもこんなことが起きるんですか?』
『ずいぶん昔って、お前、ほんの20年くらい前のことだぞ… まぁ、俺も駆け出しだったけどな。 
じゃあ川嶋、見て欲しいVTRがある。これは映画と違ってフィクションじゃない。まさに今起こっている
現実だ。これを見れば、今の世の中にもまだまだ理不尽な悲劇が残っていることがわかる』
『本当ですかぁ? じゃあ、その現実というのをちょっと見てみましょう。ではVTR、どうぞ!』

亜美の掛け声と共に、画面が暗転し、テロップが表示された。

“このVTRは事実に基づいて、再構成された再現映像です。実在の人物に配慮した内容となっています”

その文言と書体、数秒間の無音がこれから映し出されることの信憑性をより一層、高めている。
VTRは、ある姉弟の暮らしぶりを描き出し始めた。

  17才の時、母親の再婚相手の元で、父親の違う弟と暮らしはじめた姉。
  年の離れた小さな弟と共に、新しい家族4人で幸せに暮らしていた。
  だが、20才の誕生日に、実の父親に莫大な借金の保証人に仕立てあげられ、
  さらに、その父親の罠によって、母親にも重大な犯罪の疑いが掛けられる。

  取り立てと警察から逃れるために、姉と弟と母親は家を飛び出したが、
  やがて借金取りに捕まってしまう。警察から身を隠し、一緒に暮らせない母親に代わって、
  姉が昼夜を問わず働き、その稼ぎで姉弟は今もひっそりと暮らしている……


「まさか、これが… 」
VTRをじっと見ていた大河の父親が、低く、呻くような声を発した。
「はい、先程あなたが尋ねられた、3人はどうしている?の答えです。ただ少し脚色しています。
1人で住んでいるのは大河で、あなたの奥さんと恵児君は近くで一緒に暮らしています。
これは万一の時に、ヤクザを欺き、大河の母親を守るための設定です」

「ヤクザ? さっき重大な犯罪の疑いとか言ってたな? 前に警察や怪しい連中がウチを訪ねて
きたのは、何だったんだ?」
「麻薬です。海外からの麻薬密輸入の疑い。ヤクザはそのルート知りたがっています」
「麻薬! そんなことを… 妻がやっていたのか?」
「大河の母親は直接関わっていません。しかし逢坂陸郎がやっていたことは間違いないようです」

竜児は、以前マスターから聞いた、大河の母親がはめられた罠について、説明した。
正月に大河の母親から詳しい話を聞こうとしたが、頑として口を割ることは無かった。信用されていない
というより、事情を知った人間の身に危険が及ぶのを防ごうとしているのだろう。

「今、ヤツは行方不明ですが、借金を肩代わりさせるため、大河と大河の母親を、嘘の情報で警察と
ヤクザに売ったんです。ヤツは警察にも通じていて、内部に協力する人間がいると私達は見ています」
「ちょっと待て。それが本当なら、こんなことをテレビで流して、ただで済むと思っているのか? 
名前を伏せているとは言え、見る人が見れば、誰のことかわかるはずだ。警察とヤクザに、ここにいます、
捕まえて下さい、と言うものじゃないか!」
「テレビだけじゃありません。もう1つあります」
竜児はテーブルの上に雑誌を広げ、そっと置いた。
扇情的な書体が踊る、週刊誌の芸能界情報のページが開かれていた。

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スクープ!! 川嶋亜美は主演映画の宣伝のために同級生をさらし者にする冷酷女か!?
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女優 川嶋安奈の娘、いや、若い人への知名度なら母親を凌駕しつつある、モデルで演技派女優の
川嶋亜美。これまで色恋沙汰や怪しい話の無いスキャンダル処女にとんだ疑惑が発覚した!! 

日曜日の14時からXXテレビで放映された春公開予定の主演映画の特番を見ただろうか? 本誌が、
独自のルートで得た情報によると、川嶋亜美は主演映画の宣伝のために、元同級生を利用したという
疑惑が囁かれている。主演映画とその特番の内容とは… (中略)

実はこの番組内のドキュメントで取り上げられていたある不遇な人物は、川嶋亜美の同級生だった
と言うのだ! 2人の関係を知る人物から経歴の秘匿を条件に話を聞いたところ、2人は間違いなく
同級生で、在学中に良く対立し、不仲だったと聞き出すことができた。

川嶋亜美は、仕事熱心なあまり、周囲にも同じだけの高い意識を求めて厳しくあたる「女王様気質」
として知られている。作品に注目を集め、ヒットさせようとする志は結構だが、まさか私情を挟んで、
学生時代の恨みを果たそうとしているのなら、見当違いも甚だしい、とんだ公私混同だ!
今はただ、映画の宣伝に利用された同級生が、無事に窮地から抜け出せることを祈っておこう。(N)

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能登の手による、初のスクープ記事だった。
”亜美のスキャンダル”という形にすれば、大河のことを記事にできるかもしれない… そう思いついた
能登は、原稿を書き上げると亜美を伴って、編集部のデスクと直談判した。

“冷酷女”の見出しは、さすがにやり過ぎと思ったが、『中途半端に手ぇ抜くんじゃねぇっつーの!』
という亜美の一喝と、それを大いに気に入ったデスクによって、芸能欄のトップ記事となった。
明日月曜の朝には、日本全国の駅、書店、コンビニの店頭に並ぶ手はずになっている。

以前、能登を”公器の私物化”と怒鳴りつけたデスクは、『ようやく仕事が分かってきたな』と珍しく
褒めた後、警察は皆が正義ではなく、陸郎やヤクザに内通した人間がいる可能性を指摘したうえで、
信頼できる筋に情報をリークする協力を申し出てくれたのだ。


「これは一体どういうことだ! 君たちは何がしたい?」
「真実を見せるんです。表に出すことで、闇で処理しようとする警察の一部とヤクザの動きを封じるんです」
「そんなこと、できるわけ…ない。こんなことして… もう取り返しがつかないぞ!」

大河の父親は、壊れて二度と元に戻らないことを嘆くように、文字通り、両手で頭を抱え込んでいる。
竜児は、大河の父親をゆっくりとソファーに座らせると、自分達の計画の意図を話し始めた。

「俺達、一般人はヤクザを一番恐れています。そのヤクザが恐れるのは警察です。警察はマスコミが怖い。
何か不審なネタを嗅ぎつけられ、探られることを嫌がります。そして、マスコミは話題を作って、一般人の
注目を集めようとしています」

竜児は、この4つのバランスを最大限に利用し、まず、マスコミを通じて”真実”を見せていると話した。

「今日のことはある筋を通して、警察にも伝えています。彼らもきっとこの番組を見て、該当する事件を
大騒ぎで洗い出しているところでしょう」
「しかし、こんな記事が出れば、あの女優だって無事にはいられまい。誰かこんなことを思いついたんだ?」

大河の父親はやや冷静さを取り戻したのか、両手を組み合わせながら、大河の母親仕込みの切り返しで
反論してくる。意図に気づいたヤクザや警察の内通者が、亜美に仕返しにくる、と言いたいらしい。

「計画を考えたのは、その川嶋亜美と女子ソフトボール日本代表で名を知られている櫛枝実乃梨です。
川嶋とのつながりを見せなければ、大河は単なる無名の人物として処理されてしまう、有名人との接点、
それがもう1つの重要なポイントです」
「ば、馬鹿な… 大河ちゃんのために、芸能人がそんなリスクを!」
「ええ、そういうヤツなんですよ、あいつは…」

画面に大きく映る、亜美の顔を見ながら、竜児は答えた。
番組は再現映像が終り、CM明けの後、亜美と監督がVTRで紹介された悲劇について語りあっている。

「確かに表へ出すのはリスクがあります。けど、注目されれば、でっち上げられた嘘がまかり通ったり、
闇に葬られる危険が少なくなると思いませんか? 川嶋と櫛枝は有名人になることで、プライバシーが
無くなったり、時には嫌な思いをすることもあります。でも多くの人が彼女達のことを注目しています。
力になってくれる人も大勢います。光と闇、どちらかを選べるなら、俺達は真実を陽の光の下にさらけ
出すことに賭けました。あなたに何の相談もせず、実行したことは申し訳なく思っています」

「くっ…」
世間で注目された事件について、警察が捜査の手を抜くことは難しい。ましてはテレビや週刊誌という
マスコミがついている… 見くびっていた相手に、言いくるめられそうになっている悔しさだろうか、
大河の父親はテレビの画面と週刊誌、竜児の顔を順番に見ながら、苛立つ感情をあらわにしている。

「だが、ヤクザが本気を出して、君達を潰しに来たら、どうするんだ!」
「信用できる警察に保護される前にヤクザに捕まってしまったら、その時は俺達の負けですね」
「負けって、そんな簡単に言うのか? 妻は? 息子はどうなる? 大河ちゃんも無事でいられるか…」
「わかりません。だけどリスクを取らなければ、ずっとこのままです。いつ、ここに帰ってこられるか
分からない。だったら、俺達は前に進もうと決めました」
「無茶だっ! 身の危険が迫っていないなら、じっとしていた方がいいんじゃないのか? なにもこんな、
煽るようなことをしなくても、時間を掛けて別の方法を考えることもできただろうに!」

やはり、大河の父親は計画を否定してきた。でもありがたいことに、自分に危険が及ぶ可能性を考えるより
家族や大河、亜美のことを心配してくれている。巻き込まれる恐れに気づいていないだけかもしれないが、
話を続けやすくなったと竜児は考えていた。ここから先が本番なのだ。

「そして、恵児君はずっと日陰の中で、大きくなるわけですね。人目を気にして、何かに怯えながら」
「えっ、恵児…? 恵児がなんだって?」

息子の名前がふいに出てきた意味が分からない、というように、大河の父親は目を丸くしている。
竜児は、以前この家に来て、3人が居なくなったと聞いた時から、ずっと考え続けていたことを話し始めた。


「大河のお父さん、俺の父親の話を聞いたことはありますか」
「ふんっ、世間知らずのお嬢さんがどこかのチンピラに遊ばれた挙句… あっ、いや… 言い過ぎた… 
君達が結婚を約束している、と聞いたものだから、一度大河ちゃんに君の親のことを詳しく尋ねたのだ…」

竜児は顔色一つ変えずに平然とうなずいて見せる。
「いや、その通りです。俺の父親は、俺が泰子の腹の中にいるとわかって、別に女を作って行方を
くらましました。それから俺は泰子とずっとふたりきりで生きてきたんです…」

竜児はゆっくりと語った。

肉親と呼べる人間は泰子だけで、竜児は親戚はおろか、祖父母ですら、高校2年の冬まで会っていなかった
こと。身体を壊した泰子が治療に通う病院の、食べ物と洗浄液が混ざったような「あのにおい」が大嫌い
だったこと。そして泰子が夜働いている間、託児所の窓から街の光を見つめながら、このまま、もし泰子が
帰ってこなかったら、自分はどうなってしまうんだろうと、いつも、ずっと考えていたこと。

街はこんなにも人や電灯の光に溢れかえっているのに、泰子がいなくなって、1人ぼっちになってしまったら、
もう自分のことを振り返ってくれる人は誰もいない。どこにも居場所はなく、まるで砂粒が風で飛ばされて
しまうように、自分は消えてなくなってしまうんじゃないか… 幼い竜児はいつもそんなふうに怯えながら、
泰子のヒールの音に耳を澄まし、仕事を終えて迎えに来た泰子にしがみついて、泣きじゃくったこと。

「子供には、自分はここにいていいんだ、という安心感が必要なんです。それは、家族といるだけじゃない、
親戚や友達、近所の人、自由に歩ける街、さりげない日常の空気。そういったものと触れ合うことで、安心を、
自分の居場所を認識できるんです。大河達は今、外部との接触を最小限にして、暮らしています。俺と違って、
母親と大河の2人が傍にいるけど、このまま、いつまでも3人でいられるかは分からない…」

正月に大河の母親を説得する時、竜児は同じことを話した。
淡々と語られた、2人ぼっちで生きてきた少年時代の竜児の話に、大河は勿論、実乃梨、能登、春田、麻耶、
奈々子達は涙をこらえることができなかった。他の仲間より、竜児との付き合いが少し長い北村は、天井を
見つめたまま話に聞き入り、亜美は何か別のことを考えていたのか、じっと竜児の顔を見つめ続けていた。

そして今、大河の父親も押し黙ったまま、竜児の話に言葉を返しあぐねているようだった。
「…………………」
「俺が大河の母親の家を訪ねて、恵児君に初めて会った時、彼がどういう行動を取ったか、分かりますか?」
「そんなこと… わかるはずが無い…」
長く息子と離れている大河の父親は、そうぶっきらぼうに答えるしかない。

「恵児君は俺の顔を見た瞬間、飛びかかってきて、この腹に頭突きを食らわせました。5才とは思えない、
いい頭突きでした。俺のこのツラを見て、悪いヤツだと思ったのでしょう。恐怖で目に涙を溜めながら、
それでも俺に向かってきて、“ママと大河姉ちゃんはボクが守るんだ!”と叫んだんです」
「あの子が… あの小さな子が… そんな…ことを?」
「大河は、恵児君には何も話していないって言ってたけど、でも分かるんです。だって、どんなに小さくたって、
一緒に暮らしている家族だから…」

大河の父親の肩が、一瞬、ビクっと震えた。
“家族”
たぶん、この人なりにずっと悩み、心のなかで何度も繰り返してきた言葉なのだろう。

「このままいくと、恵児君にとって、あなたは“無かったこと”になるかもしれません」
「無かった… こと…?」

竜児は話を続けた。
自分にとって、父親とは生物学的に存在したという"知識"に過ぎないこと。写真を見たり、母親から話を
聞かされても、記憶も無ければ、存在を感じたこともない、実体の無いものであることを。

「勿論、恵児君はあなたのことを覚えています。でもその存在は小さくなってきているかもしれません。
今、ここで恵児君を取り戻さないと、次のチャンスはいつになるかわかりません。どうしますか?」
「それは… 私を脅しているのか?」
「そう取られても構いません。今の俺はできることは何でもする、手段を選ぶつもりはありません」
きっぱり言い切ると、竜児は大河の、そして恵児の父親である男を真っ直ぐに見つめた。


大河の父親は、その視線をかわすように俯いた。肩を震わせているのは、怒りか、ショックか? 
竜児は固唾を飲んで、大河の父親の答えを待つ。しかし、その顔が再びあげられた時に、竜児に
向けられたのは、あきらかに敵意がこもった視線だった。

「で、キミの望みは何だ? 身の上を語り、説教するためにわざわざやってきたのではないのだろう?」

問いには答えないでそっちに来たか、と竜児は思ったが、臆すること無く、自分達の目的を伝える。
「金融屋に連絡して、俺達と一緒に交渉のテーブルについて頂けませんか? フリだけでもいいんです。
彼らには弱みがいくつかあります。その弱みを突いて、借金の交渉を有利に進めたいんです。でも俺達
だけではその場すらつくることができません。あなたの力が必要なんです」

フッ… 
竜児の言葉を聞いて、大河の父親の口元が緩む。
まるで自分の罪に対する赦しを得たような表情にすら見える。

「結局は金か… 前にここに来た時と変わっていないんじゃないかな?」
「違います。借金を肩代わりしてくれとお願いしているんじゃないんです。とにかくテーブルに付かない
ことには、相手と交渉することも条件を引き出すこともできません。そこを一緒に協力して欲しいんです。
難しいことだとは思います。でも、これはあなたしかできないんです。お願いします。力を貸して下さい!」
そこまで言って、竜児は頭を深く下げた。

「フリといってもだね…」
大河の父親はぎこちなく肩をすくませる。
「昔、ウチの役員連中にも聞いたことがあるよ。会うだけでも噂が広まるんだ。あの会社はヤバイらしい、
社長が金融屋に出入りしているとね。たぶん連中はわざとそういう噂を流すだろう。信用を落とすためにね。
前にも言った通り、そうなった時、君はウチの社員の暮らしに責任を負えるのかね?」

「それは…」
竜児は頭を下げたまま、返答に窮してしまったかのように見えた。しかし、その言葉も想定の範囲内。
すんなりと最初の話で大河の父親が説得できるとは思っていなかった。一番目の矢がだめなら、次の矢を
放つまで。言葉や理屈で伝わらないなら… 竜児は黙ったまま顔をあげると、遠く500kmの彼方にいる
仲間達にこの状況を伝えるかのように、テレビの画面をじっと見つめた。

番組では、亜美と監督が映画を通じて伝えたいメッセージについて語りあっていた。

『じゃあ監督、人々にこういうメッセージを理解してもらうにはどうすればいいのでしょうか?』
『まずは映画を見て欲しい。そして、現実の話として感じることから始めて欲しい』
『でも限界はありますよね。この映画は所詮フィクションですし』
『お前なぁ、主演女優がそういうこと言うか? じゃあ、映像の最強の力を見せてやる』
『最強って?』
『生だよ。逃げも隠れもしない、今、同じ時間にある真実を見せる。これが最大にして最強の力だ』

監督の言葉が終わると、亜美がカメラに目線を向け、真剣な表情で語りだす。
『さて、ここでもう1度皆さんに見てもらいたいものがあります。先程の再現映像に出た姉弟、
その本人達が今、私の目の前にいます。今から私はその2人にインタビューをしてみたいと思います』

そう亜美が告げると、これまで亜美と監督の2ショットを映し出していたカメラが急に画角を広げ、
半透明の衝立を映し出す。そこには小さな椅子に座った、子供のシルエットが浮かび上がっていた。

そう、番組の撮影現場は大河の母親の家だった。どこか他の場所で撮影する方が安全だと、誰もが
分かっていたが、金融屋は大河の母親の行動に制限をかけるために、不定期に自宅へ電話を掛けては、
所在を確認していた。いつかバレるとはいえ、大河の父親の同意が得られるまで、そのタイミングは
できうる限り引き伸ばしておきたい。

『ではまず、弟さんの方からお話を聞いてみましょう。ねぇ君? 君は今、いくつかな?』
亜美はそういうと、衝立の端からゆっくりとシルエットに向かってマイクを伸ばす。
『えっと、5才だよ』
シルエットが動き、快活な声が帰ってきた。
声にはあえて処理をせず、亜美が向けるマイクを通じて、生のまま、テレビのスピーカーから流れてくる。


「何、なんだって…? 本人って…?」
テレビの画面に視線が釘付けになりながら、大河の父親がソファーからゆらりと立ち上がった。
「あ… あの声は… け、恵児?」

「衝立の向こう側を見てみたいですか?」
そう言うと竜児はいつのまにか開いていたケータイの画面を、テレビと大河の父親の間にかざしてみせた。
衝立の裏側、椅子に座って、亜美のインタビューに答える恵児の生の姿が、そこに写っていた。
撮影現場にいる、麻耶のケータイから送られてきた映像だ。

「こ、これが、今の恵児?」
あどけなさが残りながらも幼児から少年へと変わりつつある姿が、ケータイの画面に映し出されている。
「はい。恵児君はもう一人前の男の子です。顔は…あなたに良く似ていますね」
「け、恵児、こ… こんなに、大きく… なっ… なって…・」

亜美の質問と恵児の答えが、テレビのスピーカーとケータイから、ほぼ同時に流れてくる。
『好きなことは何?』         『保育園で木登りすること』
『お姉ちゃんのこと、どう思う?』  『大好き!』
『どんなところが好き?』       『カッコいいところ!』
『毎日寂しくない?』         『ううん、だってボク強いから!』

「おぉぉっぉぉおおっおぉおぉぉっ……」
もはや立っていられず、床の敷物の上に膝を付いた大河の父親の口から、嗚咽とも唸りともつかない声が
こぼれ落ちてくる。

画面の中の亜美はまるで竜児に合図するように、チラッとカメラに一瞥をくれた後、最後の質問をした。
『じゃあ、キミが今、最もしたいことは何かな?』

恵児はちょっと考えた後、無邪気な笑顔を見せて、答える。
『うーんとね、パパに会いたいなぁ。パパ、お仕事忙しくて、もう、ずっと会ってないんだ。ねぇ、パパ、
元気にしてるかなぁ?』

恵児自身の本心か、大河母娘が言わせたのか、真相は分からないが、その言葉は確実に1人の人間の心に
届いた。

「けっ、けいじっ……ぃぃいぃぃ!!」
大河の父親はがっくりと床に手を付くと、こみあげてくる涙をぬぐおうともせず、
2つの画面に目をやりながら、ひたすら息子の名前を何度も呼び続けた。

その姿を見ながら、竜児は再び声を掛ける。それは大河の母親の家では話さなかったことだ。

「自分と泰子のことしか考えられなかった俺が、初めて心配で心配でたまらなくなる奴に出会いました。
ドジで泣き虫の癖に、意地っ張りで強がってて、でも心は真っ直ぐで、誰かのために必死になれる奴で… 
そいつに出会って、俺は一番大切なことにやっと気づくことができたんです。何よりも守ってやりたい、
そいつとずっといつまでもいつまでも傍にいたい、力になりたい、笑顔が見たい、触れ合っていたい、
それが俺にとっての大河です。でも俺は、大河の手をきちんと掴んでやることができなかった。
何度も、何度も手を放して、その度にあいつは傷ついた。あいつを傷つけた。だから、今度はどんなことが
あっても大河の手を離さない。チャンスを絶対に逃さない。あなたも恵児君の手を掴んでください。
そしてあなたの元を巣立つまで、二度と離さないで下さい」

テレビでは、亜美が恵児へのインタビューを終え、彼の一途な思いを、言葉を変えて伝えている。
大河の父親はふらふらと立ち上がり、言った。

「分かった、協力する。恵児のためなら…」

本人が目の前にいなければ、竜児はガッツポーズを取っていたかもしれない。仲間達と作ったシナリオ、
二本目の矢がぶ厚い壁を貫いたのを見て、竜児は小躍りせんばかりの喜びを感じていた。

これで道は開ける! 大河を、救える!


「じっ、じゃあ、すぐにれ、れんら…」
しかし、ふくらんだ喜びのまま、息急き切って発された竜児の言葉は、次の一言に遮られ、打ち砕かれた。

「明日の朝一番に顧問弁護士と相談し、金融屋との交渉をどのように始めたらいいか、話し合うよ」

「あ、あした…?」
竜児は二の句が繋げなくなっていた。この人は今、何と言った? 明日? 話し合う? 何を?
大河達が今、どれだけ危険な状態か分かっていないのか?

大河の母親の言葉を思い出す。
”あの人は本当におぼっちゃんだから…”
身の危険を感じる経験をしていない人間は、これ程までに鈍いものなのか?

「明日じゃ遅いんです! 今すぐ金融屋に連絡を取って、交渉の意志があることを伝えて下さい!!」
「しかし会社にも大きな影響があることだ。まず先に対策を練っておくのが経営者としての務めだ。
地元の財界連中にも今回は特殊なケースだと、先に話を通しておいた方がいいだろう。まだ社会人に
毛が生えた程度の君は分からないだろうが…」

「余裕がある時は是非そうしてください。しかし、今は一刻を争うんです。経営者じゃない、今、ここで
決断するのが、人として、親としてのあなたの役目じゃないですか!!」
大河の父親の目が泳ぎだす。そこで竜児はようやく気づいた。この人は、たった1人で重大な決断をした
ことが無い… そういう人間なんだと。

「き、君は会社と言うものが分かっていないんだ!!」
その姿はもはや責任ある大人のものではなく、精一杯、虚勢を張っているだけにしか見えない。

ギリッ……
竜児は強く下唇を噛みしめ、皮膚の表面が軽く切れるのを感じる。鉄のような血の味が口の中に広がった。
なんとしてでも、今すぐ連絡をさせなければ、大河達は3つの勢力から追われることになってしまう。
金融屋と合意したうえで、すぐに身を隠さなければ、彼らに拘束され、ヤクザや警察との取引に使われる
かもしれない。そうなれば、仲間達の計画、大河達の苦労、努力が全て水の泡になってしまう。

竜児達の計画に三本目の矢は用意されていない。とすれば、何とか今ここで金融屋に連絡を取らせなければ、
計画は”失敗”になる。せっかく協力するという覚悟を得たのに、今、連絡しなければ、何の意味もない…

竜児は生涯で初めて、力づくで人に何かをさせることを考えた。体中の血が煮え立ち、毛穴という毛穴が
開き、全身に”暴力”というざらついた負の感触が湧き上がってくるのを感じていた。

一歩、また一歩と竜児は大河の父親の所ににじりよっていく。向こうも額に脂汗を浮かべながら、
それでも、じっと竜児の顔を見据えていた。
「なんだ? 脅そうというのか? 結局、君が考えているのは金だろ、金が欲しいんだろ?」

怒りに震える竜児の手が大河の父親の肩を掴もうとしたその時、テレビから流れた「キャーッ!」という
悲鳴が広いリビングルーム一杯に響いた。


* * * * *


日曜日 14:20
竜児が大河の父親に詰め寄るほんの数分前。

大河は、弟の恵児が亜美からインタビューを受ける様子を憮然とした表情で見ていた。
玄関へと繋がる廊下に面した、居間の襖の燦に軽く足を掛けながら、その表情は今にも誰かを取って
食おうかという程だった。

大河は怒っていたのだ。
不機嫌度はMAXに達し、もし竜児が今の大河の顔を見たら、踵を返して裸足で逃げ出すか、
特上の黒豚をすぐさま買いに走っただろう。

大河の視界の端には、小さなモニタが置いてあり、亜美が仕込んだ番組が先程から淡々と流れていた。
確かに、半月ばかりの僅かな時間で、これだけの番組、特に再現映像を作るのは、並大抵の苦労では
済まないだろう。亜美だけでなく、多くのスタッフの努力の賜物だというのは、テレビ制作の現場を
知らない大河でも容易に推測できる。

しかし… 
自分の描かれ方が気に入らない。

それは再現映像で大河役をやった役者が、やたら地味なのに、自分より背と胸が大きいからではない。
「これじゃまるで、ただ耐え忍ぶだけの悲劇のヒロイン、安っぽいお涙頂戴じゃない……」

恵児のインタビューを見つめる大河の目がまた一段と引き絞られる。
視聴者の共感を得るための人選、演出ということは、大河も十二分に理解している。

でも… やっぱり違う。そうじゃない… 
「私は逃げないって決めた。だからずっと闘ってきた…… のに…」

家族を、母を弟を守るため、あのクソ親父とケリをつけるため、そして何よりも再び竜児と一緒に
なるため、ただ、その日を取り戻すことを考えてきた。確かに落ち込んだり、気弱になる時もあった。
でも、誰かのせいになんかせず、長い間ずっと自分と向き合ってきた。それがほんの10分あまりの
映像にあっさりまとめられてしまった。こんなのは… 断じて、私じゃ、ない…


「…ガー、タイガー、ねぇ、聞こえてるの? 次、あんたの番だよ」
「へ? ばかちー、何? わ、わたし?」
「だーかーらー、打ち合わせで言ったでしょ? インタビュー、恵児君の次はあんただって! 
ほら早く衝立の後ろに来て! 生中継だよ」

大河の弟のインタビューはとっくに終わり、今はCMに入っていた。
CMの後、大河のインタビューが行われ、最後に亜美が締めて番組は終わる、そういう構成だった。
大河は慌てて、さっきまで弟が座っていた椅子に腰掛ける。

「はい、CM明けます。3… 2… 1… 」
「皆さん、次はお姉さんに話を聞いてみたいと思います。えー、お姉さん、まずは今の気持ちを
お聞かせ頂けますか?」

「へっ? あ、え、えと… あれっ?」
打ち合わせで決めていた答えは、真っ白になって、大河の頭からどこかへ飛んで消えていた。
おまけに衝立の横から、亜美が伸ばしているマイクは、大河の口元までかなりの距離があった。
放送で使うマイクは性能が良く、これぐらい離れていても十分に声が拾えることを大河は知らない。
そして、ドジの神様に愛された人間は、必ず然るべき時にドジを起こすようできている。

マイクに近づこうとして、椅子から立ち上がり… そして、衝立の脚に思いっきりつま先をぶつけて、
ふらついた大河は… ものの見事に衝立ごと、倒れた。

「キャーッ!」
亜美が思わず悲鳴をあげていた。
倒れる衝立の向こう側から、豪奢な髪を持つ、大河の小柄な身体がカメラの前に転がり出てきた。


「!」
テレビカメラが一拍置いた後、床を映し出す。
「CM行って!」
現場のADの声が飛び、瞬時に画面が切り替わった。
「だから生は危険だって!」
照明を掲げていたスタッフがおもわず声を漏らしている。
「おい、どうするんだよ! 放送事故だぞ、ここで打ち切るか?」
「といって、戻すスタジオは無い! とにかく、亜美ちゃん、もう1回こっちで話して」

そんな現場の動揺をよそに、監督は一人冷静なまま、亜美のところにやってくるとその肩を掴んだ。

「おい川嶋、あの子はやけにちっちゃいけど未成年か?」
「だからぁ、私と同じ年! 同級生だって! ちっちゃいなんて言ったら、あいつに…」
「だったら、二十才は越えてるな。よし! 川嶋、お前はカメラを1人連れて、中継車の中で待機しろ」
「ちょっと!! 監督、何ですかっ、それ?」
「つべこべ言わず、さっさとサブルームに行け! 30秒でだ。でないと映画のギャラは半分にするぞ!」
「はぁっ?」
「おい、誰かさっさとこいつを連れてけ!」
「何考えてんの、監督っ! まさかタイガーを? 無茶よ、無理すぎ… ちょっと触んないで!!」

大騒ぎしながらスタッフに連れ出されて行く亜美をチラッと見送った後、監督は、顔を真っ赤にして、
ようやく身を起こした大河のそばに膝を付き、その大きな瞳を覗き込むように顔を近づけた。

「なぁキミ、キミはさっき怒ってたんだろ?」
「へっ…?」
「いや、答えなくていい。なぁキミ、カメラの前で自分の気持ちをぶつけてみるつもりはないか? 
我々では伝えきれないホントの気持ちって奴をさ…」
「ホントの… 気持ち」
「ああそうだ。あるだろう? 言いたいことが、たくさん」
「CM明け、30秒前」
「監督っ、どうすればっ!」

その刹那、大河と監督がじっと見つめ合う。
(分かってるじゃない? あんたも結構苦労してるみたいよね?)
(ま、いろいろと、な…)
そんな会話を目で交わしたかのように見えた後、大河の唇の端が持ち上がり、不敵な笑みがその精緻な
顔に浮びあがった。

「やるわ。いや、やらせて」
「よしっ、いいツラだ。おい、AD、マイク寄越せ! CM明け、この子の抜きからいくぞ」
事態が飲み込めないまま、つっ立っているADから、大河はマイクを奪い取ると、正面のカメラに向かって
目を眇める。

「いいんですか監督!」
「いいっつってんだろ! 俺が全部責任取る。絶対にいい画が撮れるぜ!」
「CM明けます! 3… 2… 1…」

目の前のテレビカメラのレンズ、その1点を見つめながら、大河はゆっくりと大きく息を吸い込み始めた。

“いつまでも、やられっぱなしじゃねぇんだよっ!!”


* * * * *


大河の実家では、竜児と大河の父親が、ただ呆然とテレビの画面を見つめていた。

CMが終わった後、そこに映るはずのない最愛の人が、画面のど真ん中でマイクを握り締め、全世界を
敵に回したかのような目つきでふんぞり返って立っている。

「一体、何がどうなっ…」
うめくように竜児が呟いた時、画面の中の大河が大きく息を吸い込んだ。

* * * * *

「ねぇ、もう… どうなっても知らな、っ!」
悪態をつきながら、中継車のサブルームに入ってきた亜美は、モニタに映る大河の顔を見て、
次に何が起こるか瞬時に理解し、「レベルっ、下げてっ!」と音声係に向かって叫んだ。その瞬間、

「おぅるぅぅぅぅうううああぁぁぁあああぁぁぁーっっっっ!!!!」

虎の咆哮が、日曜の昼下がりのお茶の間に響き渡った。
逢坂大河、全国デビューの記念すべき瞬間である。


「おい、クソジジイ! 見てるんだろ! いや今は見てなくてもいい、でも、いつか必ず見ろ! 
あんたはうまくやってるつもりかもしれないけれど、私は、私達は、ちっとも負けちゃいねぇんだよ!」

大河は半身になると、カメラを睨みつけたまま、ずいっと一歩前に出る。
その威圧感に、ベテランのカメラマンは思わず半歩あとずさりした。

「私には守りたい人がいる、守ってくれる人がいる。私を受け入れてくれる家族がいる。
共に闘ってくれる仲間がいる。愛する人がいる。愛してくれる人がいる。
そういう人間は簡単には負けない、潰れない。あんたには誰もいないんだろ? 守りたい人も守って
くれる人も。そんなヤツに勝ち目はねぇんだよ! てめぇが何を企もうとも、私達はあきらめない。
きっと勝ってみせる。けーさつでもヤクザでも何でもかかってこいや! てめぇもいい加減、
こそこそ隠れてねぇで表に出てきやがれ! この私が、いつでもサシで勝負したらぁああぁあぁ!!!」

気迫の固まりのような叫びが、家全体に響きわたった。

「よし、亜美、あと締めとけ!」
監督が、ADから奪ったインカムに向かって叫ぶ
「亜美ちゃん、締めて!」
間髪いれず、中継車にいるディレクターが亜美に指示を出す。

「ええっ、ちょっ、まっ!」
「はい、2、1」
「え、と…」
カメラが切り替わった時こそ、動揺の表情を隠せなかったが、小さく息を整えると、亜美は一瞬で
誰もが混乱を忘れてしまうような、極上の笑みを満面に浮かべた。

「大変なインタビューになってしまいました。お見苦しい点があったことをお詫びします」
軽く頭を下げると、今度は一転して、見る者に声を失わせる、真剣な表情を見せる。

「でも、これは真実の叫びです。私達の作品も声なき人の想いを伝えられるよう、精一杯作りました。
どうか、1人でも多くの方が見てくださることを願っています。では、今日の番組をこれで終わります」

「よしっ!」
監督が叫んだその瞬間、家の中の電話が鳴り響き、外が急に騒がしくなった。
「おい、いま本番中だ! 部外者は立ち入り禁止!!」
外にいるテレビのスタッフが大声をあげている。

そして、庭の塀の外から実乃梨のひときわ高い叫び声が、皆の耳に飛び込んできた。
「たいがぁああぁーーーー! はっっっしれぇぇええええーーーっ!!!」


「おい、お前ら、早く行けっ!」
監督も叫んでいる。
大河、恵児、恵児の面倒を見ていた奈々子が大急ぎで靴を履き、家を飛び出すと、門の前でスタッフと
バーの従業員が揉み合っていた。放映を見ていた者が再現映像で気づいて飛んで来たのだろう。

「どけっ! 今、とらちゃんを行かせる訳にはいかない。マスターに迷惑が掛かるんだ!」
そう叫んで、スタッフの制止を振りほどこうをしているのは、夜、帰宅する大河を送っていた青年だった。
「こっちだって、行かせられるかよ!」
スタッフも2人がかりで必死に青年を押さえつける。その横を大河達が駆け抜け、路地へと飛び出す。

「たいがぁ、はやくーっ!」
先に走り出していたドライバー役の実乃梨が、大通りの方から大河達に手を振って誘導する。
後ろからは、別の従業員達が大声をあげながら、迫ってくる。

路地の角には春田が立っていた。手には長い棒のようなものを持っている。
それは大河があらかじめ春田に頼んでおいたものだった。

「春田ぁ! そいつを、よこせぇえぇーーーっ!!!」
大河の叫び声にびくっと怯えた春田が、手にした木刀を取り落としそうになりながらも慌てて握り直し、
大河の方に柄を向ける。

「ひ、ひえぇぇっ、タ、タイガー、本当に使うの?」
左手で恵児の手を握り締めながら、右手で春田から奪い取るように木刀をつかむと、軽く握り直し、
切先を真っ直ぐ、前に向けた。

「ったり前でしょ? 使うために用意させたんだから!! 走るよ、いい? 恵児っ!」
「うん!!」

身体が弱っている大河の母親は、大河のインタビューが始まる前、一足先に麻耶が家から連れ出していた。
今頃、大通りに止めたライトバンに乗り込んでいるだろう。
転びそうになりながら、なんとか遅れまいと走る恵児のもう一方の手を奈々子が掴み、ひっぱりあげる。

「タイガー! それ使っちゃだめ! 本当に捕まるよ!」
「わぁってる、これは御守り! 魔除けみたいなもんよ!」
普段であれば、吹き出してしまいそうな大河のいい加減な言葉にも、誰も笑う者はいない。
大河、恵児、奈々子、春田と横一列になりながら、路地を駆けて行く。

前方の路地から従業員2人が飛び出してきた。両手を広げて、道を塞ぎ、大河を捕まえようとする。

大河は走りながら、2人に木刀を向けて、叫ぶ。
「どいて、お願い! ケガさせたくないのっ! いいから、どいて! つか、どっけぇえぇーっ!!!」
「ひ、ひえーっ、ホントに、と、とらちゃん?」
大河の気迫に圧されて、飛び退いた2人の間を、4人が通り抜ける。

ライトバンの運転席に乗り込んだ実乃梨が、窓から身を乗り出して叫んでいる
「大河、早く! こっちこっち!」

4人は大通りに出て、荷物を詰め込んだライトバン2台に辿り着くと、二手に分かれて乗り込み始める。
周囲を警戒していた大河が最後に乗ろうとした時、車の陰からマスターがゆっくりと姿を表わした。

「マスター!」
大河は反射的に木刀の切先をマスターの鼻先に突きつける。
「やぁ、とらちゃん、ずいぶん勇ましいな。それがとらちゃんの本当の姿なんだね?」
「ごめん、マスター。お願い、行かせて! 必ず戻ってくる。約束する。だからお願い、今は見逃して!」
「……………」
その時、マスターのポケットの中で何かが震える音がした。


「行きなさい」
「えっ…?」
「とらちゃんはずっと、こうすることを考えてたんだろ? とらちゃんの恋人と友達がやってきた時から、
遠からずこういう日が来ると思っていたよ。このチャンス、手放すんじゃないぞ…」

カランカランカラン…
乾いた音を立てて、大河の手から離れた木刀が地面に転がった。

「マスター… ほんとに? いいの?」
「ああ…」
マスターをじっと見上げる大河の両目から、みるみるうちに涙が溢れてきた。

「マスターには、迷惑ばかり掛けてきたのに、最後までごめっ…なさい…」
「いいんだよ。だが、1つ約束して欲しい」
「やくそく…?」
「もう二度と戻ってくるんじゃないぞ、じゃなくて、とらちゃんにはもう一度、戻ってきて欲しい。
ここで一緒に時を過ごした、もう1つの仲間達を救える人間になって、戻ってきて欲しい」
「うん… 分かった…」

「大河、早くっ! もう行かなきゃ! 警察が来るかもしれない!」
運転席の実乃梨が、エンジンを掛けながら、もう一度叫んだ。
「さぁ、お友達が呼んでいる。行きなさい、とらちゃん」
「う…ん」
涙を拭うと、足元に転がる木刀を拾い、大河はライトバンの助手席に乗り込んだ。

「さっき言ったこと、約束だぞ」
「うん… 約束する」
助手席の窓越しに、2人は小指の先をほんの少しだけ、絡ませた。

「出すよ! 大河」
そういうと実乃梨はエンジンをひときわ高く吹かし、猛スピードでバイパスを走り出した。
春田が運転する2台目のライトバンが、慌ててそれに続いていった。

「マスター、いいんですか? とらちゃんを行かせて?」
スタッフの羽交い絞めを振りほどいた青年が、息を切らせて、マスターのところに駆け寄ってきた。

「いいんだよ。たった今、とらちゃんのお父さんから、交渉に応じるという連絡があったようだ」
ポケットから取り出したケータイの着信合図を見ながら、マスターが呟いた。
「我々の役目はここで終りだ… 捕まるなよ、とらちゃん、どこまでも逃げて逃げて逃げまくれ」

マスターと青年はライトバンが見えなくなった後も、ずっと、その方向を見つめ続けていた。

* * * * *

日曜日 14:30
「これで、いいんだろ?」
大河の父親は、ケータイのフリップを閉じると、竜児の方を振り返って、優しげに微笑んだ。

「はい、本当に有難うございます」
竜児は深く頭を下げた。

「礼を言うのはこっちの方だ。もう少しで、取り返しのつかない過ちを犯すところだった。
この番組には、真実をさらけ出すだけでなく、私の目を覚まさせる狙いもあったのだろう?」
「はい。勝手にすいま…」
「いや、謝罪が必要なのは私だ。色々苦労させて、すまなかったね、竜児君」
そう言うと、大河の父親は深々とその頭を下げるのだった。 

* * * * *

「あっははははははっはははははっはははははっ!」

大河の一世一代の叫びがテレビで流れた直後、大河の父親は突然、床に膝をついて大笑いし始めた。
予想外の大河の行動に気を取られていた竜児は、文字通り、弾けるように笑い出した大河の父親に
何が起こったのか予測すらできず、ただ呆然と見ているしかなかった。

「ははっ、はははっはははははっ、ははっはっ… は、ははっ、は、は、はぁ… あぁ…」
「………………」
「遠慮せず、君も笑ってくれたまえ… わたしは… 私はなんて、愚かなんだろうね…」
竜児は身じろぎもせず、語り始める大河の父親の姿をじっと見つめていた。そして、その表情から
大河の叫びが頑なな父親の心を打ち破ったことに気づく。

「大河ちゃんが、いや大河が、小さな身体であんなにも強く、家族を守り、精一杯生きようとして
いるのに、私は何をやってるんだろうね。ただ怯えて、誰かがいい方法を見つけてくれるのを待って
るだけなんて。気づいてるんだろう? 会社や従業員を守る、なんて、ただの言い訳だってことを…」

「あ、いや… はい。でも、まだ十分間に合います」
一度は否定しそうになった言葉を、竜児はすぐ訂正した。今、大河の父親は自分の心と向き合おうと
している。そんな人を前に、綺麗ごと言うのは失礼にあたる、咄嗟にそう思ったのだ。

「そうか…」
竜児の言葉に力を得たように、目を見開いて、大河の父親は立ち上がった。

きっとこの人も、頭ではどうすべきか分かっていたのだろう。だが、どうしてもあと一歩が踏み出せ
なかった。自らの手で創り出したことのない、生きるための道筋。地図や標識はおろか、道すらも無い
大地に足を踏み出すことを恐れた。だから、世間の常識や今まで自分が使ってきたものさしに頼った。

大河はそんなものさしごと、父親の心をぶち破ったのだ。人を変え、動かすのは常識じゃなく、自らの
想いであり、熱であり、大切なものを守りたいという心である、それをまざまざと見せつけたのだった。

「やっぱ、かなわねぇよな、大河には…」
目を軽く閉じ、口元に小さな笑みを浮かべながら、竜児はそっとつぶやくのだった。

「お、いかん。すぐ連絡しなきゃな」
大河の父親は、生まれ変わったかのような晴れ晴れとした表情で、ポケットからケータイとくしゃくしゃに
なったメモを取り出すと、ケータイのボタンを押して、耳にあてた。

電話をかける先は、一箇所しか無かった。

* * * * *

竜児と大河の父親は、互いに下げあっていた頭をほぼ同時に起こすと、真正面に向き合う。
先に口を開いたのは大河の父親だった。

「さぁ、早く行きたまえ。これから大河や仲間のところに行くんだろ?」
「はい。そして、あなたの他の家族もそこにいます」

竜児は、大河の父親と連れ立って玄関に向かいながら、大河の母親の家を脱出した後、車で伊豆にある
亜美の家の別荘に向かう手はずになっていることを説明した。

「そうか。じゃあ家族に伝えておいてくれ、頑張れ いや、頑張ろう、と」
「分かりました。あなたもお気をつけて」
「ああ、用心するよ。少しの間、この家から離れていた方がいいだろう」
「はい。では… 行きます」
「ああ、行っておいで」

軽く片手をあげる大河の父親にむかって、竜児はもう一度頭を下げると、玄関の扉を開け、外に飛び出した。

「大河、みんな、待っててくれ! 俺もすぐそっちに行くから!」


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