日曜日 20:30
県道に止めたタクシーから降り立つと、竜児は亜美の家の別荘を見下ろした。
以前来た時よりも常緑樹が増え、道路からは建物が見えにくい。増築したのだろうか、少し建物の形が
変わったような気もするが、なにせ高校2年の夏以来なので記憶があやしい。

大河の父親の家から、飛行機、バス、新幹線、電車、タクシーと乗り継ぎ、ここまで6時間もかかった。
冬の夜はとっぷりと暮れており、タクシーがUターンして駅の方へと戻っていくと、周囲には街灯の
ほんのわずかな光しかなく、真冬の暗闇の中に放り出されたような気分になる。防風林の下から小さく
聞こえる波の音以外、シンと静まりかえっていた。

移動中に何度か電話やメールでやりとりし、全員が無事に別荘に着いたことは確認している。亜美も
撮影班の撤収と共に、現場からマネージャーの車で2台のライトバンを追いかけて、途中で合流できた
ようだった。今は夕食が終わり、皆、一息付いている頃だろう。

「しかし、なんか、静かすぎねぇか…?」

ケータイで足元を照らしながら、竜児は別荘へと続く階段をゆっくりと降りていく。徐々に建物全体が
見えてくるが、どの窓にも明かりが付いていない。階段を降りきって、建物に近づいていくと、少なく
とも8人もの人間がいるはずなのに、話し声はおろか、人が動いている気配すら感じられない。

玄関前の駐車スペースには、ライトバンが2台止まっていた。1台は実乃梨のチームのもの。もう1台は
春田の家のものだが、今日の番組を放映したテレビ局のステッカーが側面にでかでかと貼られている。
ヤクザや警察が来た時に、マスコミがついてきていると勘違いさせるためのカムフラージュだった。

玄関の扉の前に立ち、耳をすませてみるが、やはり何の物音も聞こえてこない。
「まさか、みんな疲れて、もう寝ちまったってことは無いよな…」

ふと、嫌な想像が竜児の頭の中を掠めていく。
「…ヤクザの連中が襲ってきて、全員連れだされた、なんて、ははっ、そんな馬鹿なこと…」
つい30分程前、駅から電話し、弟を寝かしつけている大河に代わって、春田や実乃梨と話したばかりだ。
その時、変わった様子は全く感じられなかった。

しかし、押し迫ってくるような周囲の暗闇と不自然なまでの静けさが、竜児を不安にさせる。
「そんなはずはない、鍵だって、ちゃんと掛かっているはず…」
玄関の取っ手に手を掛け、レバーを引くと、「カチャ」という軽い音と共に扉がいとも簡単に動いた。

「えっ…?」
心臓の鼓動が高くなる。真冬だというのに、嫌な汗がいく筋も背中を流れていく。
亜美やしっかり者の奈々子がいて、こんな不用心なことはしないはず、するとやはり… でなければ…

中に誰かが潜んでいるかもしれない… そう考えて、竜児はできるだけ物音を立てないようにゆっくりと
玄関の扉を引いた。

僅かに開いた扉の隙間から、そーっと顔を入れてみる。玄関とその先のホールはやはり真っ暗で、外から
挿し込む僅かな光でぼんやりとモノの輪郭が見えるだけ、もう少し良く見ようと半身を入れた、その時、

目の前に、先の尖った何かが突きつけられていることに気づいた。

先端の反対側、下の方には獣の目玉のような2つの鈍い光が暗闇に浮かび上がっている。
それに気づくと同時に、地を這うような恐ろしい声が…

− おい、命が惜しかったら、手を後ろに組んで、腹這いになれ −


* * * * *


「大河っ、お前なぁ!!」
竜児は木刀の切先を右手でぐいっと掴むと、大河の手から取り上げた。
「あっ、あっ、ちょ、ちょっとぉ、何すんのよ、竜児っ!」

玄関からホール全体にパッと明かりが灯ると同時に、大きな笑い声が巻き起こった。
「お〜、高っちゃんだぁ〜」
「やっと着いたね。てか気づくの早くね?」
「高須君、お疲れ様」
ホールから2階へと続く階段の下には、春田と麻耶、奈々子の3人が立ち、にこにこと笑っている。

「大河、お前、なにやってんだよっ!」
バタバタと両手を動かし、時には飛び跳ねて木刀を取り戻そうする大河をかわしながら、竜児は視界に
入った者を石に変えてしまいそうな強烈な目付きで睨みつける。
だが、最愛の婚約者は、そんな視線も言葉も全く意に返さず、無理矢理遊びを中断させられた子供の
ように、口を尖らせて不満を訴えるだけだった。
「ちょっとぉ、せっかく侵入者をやっつける予行演習してたのに、つまんないわね! 次は目隠しして、
簀巻きにしようと思ってたのに……」

「バレバレだ。てか、こんな得物、誰が用意したんだ?」
脱いだ靴を揃え、ホールへと上がりながら、竜児は尋ねた。
「あ、オレっす」
「春田、大河に渡すなよ! こんなもん使うと捕まるぞ」
「あら、家の中で侵入者の撃退に使う分には、凶器準備集合罪にはならないのよ」
「誰もそんなことは聞いてねぇ。ったく、ちょっとはビビったんだからな!」

「へぇー? ちょっとなんだ。高須君も成長したね」
声の方を見ると、リビングルームに通じる扉の横、照明スイッチのところに、亜美が立っていた。
竜児と目が合うと、
”よっ!” 
と片手を上げ、声を出さずに挨拶をする。

「まぁ、あまりにも不自然だったからな、一応考えた。それより川嶋、撮影現場の方、大変だったろ、
本当にありがとな。うまくいったのは全部お前のおかげだ」
「え? えーっと、あ… あれぐらい、亜美ちゃんにはどうってことないわよ…」
「なに真っ赤になってんの??? ばかちーのくせに」
「うっさい! チビトラは黙ってろっつーの!! で、高須君、そっちはどんな感じだった?」
「ああ、こっちも上々だ…」

竜児は大河の父親とのことを順を追って説明した。最初は頑なに協力を否定していたが、恵児への
インタビューで大きく心が揺らぎ、大河の叫びで完全に開かれたことを。

「ん? 大河、どした?」
気がつくとさっきまでの不満顔はどこへやら、大河は気まずそうに顔を赤らめ、珍しく上目遣いで
開いた両手の指先を合わせながら、もじもじと竜児の方を見上げている。

「あのっ、竜児、ごめん。わ、わたし、ついカッとなって、余計なことしちゃった…」
自分のドジが引き起こしたハプニング、そして計画に無い行動を取ってしまった。大河はそれを気に
しているのだ。ふと周りを見ると、みんなが優しく微笑んでいる。きっと大河はここに来るまでの
移動中にも皆に繰り返し謝っていたのだろう…

「大丈夫だ。この物語の主役は大河、お前だ。俺達は主役を全力でサポートするためにいるんだ。
それに今も話したろ。お前の叫びのおかげで、大河の親父さんは、やっと自分の本心に気付けたんだ。
俺の言葉だけじゃ無理だった。大河にも礼をいわなきゃな、ありがとう。親父さん、最後はお前のこと、
“大河ちゃん”じゃなくて、“大河”って呼び捨てにしてたぞ」

竜児のその一言で、大河は全てを理解した。かつての”新しい”父親は、今、本当の父親として、自分を
実の子と同じように感じてくれるようになったのだ。

「うん!」
竜児は、顔をくしゃくしゃにして喜びを見せる大河の頭の上に手を置くと、自分が感じた父親の想いが
大河にも伝わるよう、力を込めて、繰り返し何度も撫でてやるのだった。

「大河のお母さんは?」
「さすがに疲れみたいだから、恵児と一緒に休んでる」
「そっか… そういえば、櫛枝の姿が見えないがどこに…?」

「うおぉい、高須君、こっちだぜ!!」
ホールに向かって開いた扉の向こう側、リビングルームへと続く廊下から、実乃梨のいつもの明るい声が
響いてきた。扉を通り抜け、声の方に近寄ってみると廊下の先に新たな小部屋が作られており、実乃梨が
豪勢なデスクチェアに座ったまま、手をあげている。建物の形が変わったと感じたのはこの部分だった。

「櫛枝、そこでなにやって…? おぅ、すげぇな!」
小部屋を覗き込むと、そこには数台の液晶モニタが置かれて、敷地や建物のいたる所の様子をリアル
タイムで写し出していた。
「赤外線カメラにセンサーもあるんだぜ! すげぇだろう!」
「前にでっちあげのスキャンダルでママが芸能記者達にしつこく追われたことがあってさ、その時の
証拠づくりにあちこちにカメラとか置いたんだけど、まさかこんなことで役に立つとはね…」
竜児の後を追って、大河や皆と共に小部屋にやってきた亜美が事も無げに言う。

「さっき俺が着いたのがわかったのはこれのおかげか… しかし櫛枝、いつもすまねぇな。監視とか
見張りとか運転手とか大変な役ばかりやらせて。ありがとう、あとは俺が変わるから、休んでてくれ」
竜児はいつも頼りになる友人の肩をポンッと叩き、その労を少しでもねぎらおうとした。

「ひゃっ、た、た、たきゃすきゅん! こんなことは、お、おいちゃんにはどってことないんだぜ!」
「実乃梨ちゃん、テンパリ過ぎ…」

その時、液晶モニタの画面の1つに警戒を表す赤のサインが灯り、スピーカーから警告音が響いた。
「なんか来た! 車だ!」
すぐさまモニタに振り返った実乃梨が鋭く叫び、その場にいた全員に緊張が走る。
ありふれた商業用の白いワゴン車が県道から林道に入り、別荘に続く坂道をゆっくりと下ってくる。
その緊張を一瞬で解きほぐしたのは、モニタを覗き込んだ麻耶の一言だった。

「あ、あれ、久光の車!」
麻耶はドライバーの姿が見えずとも、能登であることを確信しているようで、嬉しそうに顔を綻ばせて
いる。この日、能登は撮影現場ではなく、東京の編集部にいた。スクープ記事を書いた人間として、
上司と共に放映内容をチェックし、万一、記事と齟齬が生じた場合には対策を取らなければならない。
最悪の場合、雑誌の回収も起こり得るため、編集部に詰めていたのだ。

「能登か? なんで分かるんだ?」
「会社の取材用の車だよ、最近はいつもこれに乗ってる!」
「そ、そうか…」
皆の安堵の溜息が小部屋一杯に広がる中、嬉しそうに目を輝かせている小虎が一匹。

「ね、また電気全部消して! さっきの予行演習、も一回やろうよ!」
大河はいつの間にか取り戻していた木刀を握り直すと、いそいそと玄関の方へ向かおうとして……
竜児にむんずと首根っこを掴まれた。

「なによぉ…」
「お前なぁ、いい加減にしろよ…」

1秒後、別荘に明るく、賑やかな笑い声が響いた。


* * * * *


「ひゃあ… 東京からほとんど休憩無しでぶっ飛ばしてきて、さすがに疲れたよ…」
見張りを続けると言い張る実乃梨を小部屋に残し、皆がリビングルームに集まった。能登は両手両足を
広げ、ソファーにもたれながら、大きな溜息をついた。

「久光、お疲れ様!」
そんな能登に、麻耶はかいがいしく、温かいタオルや飲み物を次々に差し出している。ここ一連の活躍で、
麻耶はすっかり能登に惚れ直している… そんな奈々子のつっこみに、2人が真っ赤になる場面もあった。

「いやぁ、しかしタイガーには参ったよ…」
顔を拭っていたタオルを置き、眼鏡を掛け直すと、能登はおもむろに大河の方に振り返った。
「ア、アタシ…?」
大河は自分の顔に人差し指の先を向けながら、急に青ざめた表情を見せる。
「そ。タイガーのあの絶叫を見てさ、デスクがカンカンに怒ったんだよ。“こんな話聞いてない。
これじゃタイガーが亜美ちゃんを利用してるみたいで、ウチの記事と全く逆じゃないか”ってさ」

穏やかな空気が流れていた空間が、急にシンと静まりかえった…

「やっぱり… ご、ごめんなさ…い…」
ソファーの上にちんまりと座っていた大河は、肩をすぼめ、小さな身体をさらに小さくして俯く。
「久光! そんな言い方無いでしょ! 私は見てないけど、あれはタイガーのホントの気持ちだから
いいんだって、せっかくみんなでタイガーを元気づけてきたのに…」
さっきまで甘い表情を見せていた麻耶が、一転してキツイ目付きで能登を責めたてはじめた。

「わーわーわー、ごめんごめん、ウソ、いや嘘じゃないんだけど… 大丈夫! 問題無いってば!」
恋人のひと睨みで、能登は両手を大きく振ると、あっという間に前言を翻した。
「へっ…?」
大河は混乱してきょとんとしてるだけ。麻耶はまだ膨れっツラのまま能登を睨んでいる。春田はそもそも
なぜデスクが怒ったのか分からない。

「デスクに怒鳴られたのは事実なんだ。でもウチの編集長が大河の啖呵をえらく気に入っちゃってさ、
亜美ちゃんのスキャンダルよりタイガーの方が面白そうだから、今度はタイガーを取材しろってさ…」
「ちょっとぉ、亜美ちゃんよりチビトラの方が面白そうって、どういうこと? 一体どこ見てんのよ」
亜美は抗議の声をあげながら、顔はニコニコしていた。

能登は汗を拭うような仕草をしながら、取り調べで完落ちした犯人のごとく、真相を話し続けた。
「最初の計画よりも放映された方が数倍インパクトがあった。当然、大きな話題になる。ウチの週刊誌に
関連した記事が載っていれば、中身が少々違っていようが、皆、知りたがって買うってことさ。タイガー、
さっきはごめんな。俺も肝を冷やしたもんだからさ、ちょっとしたお返しというか…」
「久光は余計なことしなくていいのっ!」
「イテテテッ! よせっ、俺がハゲてもいいのか?」
麻耶が能登の髪をひっぱり、リビングルームは再び、暫しの笑い声に包まれた。

「あーあ、でもタイガーの絶叫、私も見たかったなー。この中で生で見たのは奈々子だけだよね?」
能登の髪をやっと解放した麻耶が、ソファに身を預けながら、口を尖らせる。
「うふふっ、凄かったわよ。窓なんかビリビリ震えちゃってたし」
「ウソっ!」 「ウソでしょっ!」
珍しく大河と春田が息ぴったりに、素っ頓狂な声をあげた。
「ホントのことよ… あ、私、櫛枝と監視係、代わってくるね」
軽やかに逃げていく奈々子を見送りながら、能登が痛む頭をさすりつつ、DVDのケースを取り出した。
「ほら、録画したのなら持ってきたぜ…」
生でもTVも見ていなかった麻耶、春田、遅れてリビングルームに入ってきた実乃梨から歓声があがった。

「ちょっ、ちょっ、ちょっと、ま、待ったぁー!」
「なぁに? さすがの手乗りタイガー様もやっぱり恥ずかしい?」
大河に、というより監督に翻弄された亜美が、こちらも筋違いの腹いせとばかりにチクリと刺す。
真っ赤になった大河はしどろもどろになりながらも“見るな”とは言えず、条件を1つ出すのが精一杯。

「ん、み、み、見てもいいけど、わ、わたしのいない時にして…」
「「「「「あっはははっははは」」」」」


* * * * *


日曜日 21:00
「でも次の動き、考えといた方がいいよな…」
何度目かの笑い声がおさまった後、さっきの悪ふざけとは違い、能登が真剣な表情で話し出した。

「ヤクザが心配か?」
心当たりのある竜児が即答する。
「出てくる前にデスクと話してたんだ。ヤクザの動きが早くなるかもしれないってね」
「あぁ、俺もそう考えて、じいちゃんに頼んで、泰子を実家に避難させた…」

竜児は移動の間に、あらかじめ事情を打ち明けてあった祖父の清児に連絡し、泰子を店から自宅に
戻らせず、当分実家で寝泊りさせるよう、頼んでいた。

計画では、警察とヤクザに情報が伝わるタイムラグを作り、その間に然るべき警察から保護を受けること
を狙っていた。警察には編集部を通じて、番組の放映時間や今回の件のあらまし、連絡方法を伝えてある。
一方、ヤクザは、恐らくテレビで流れた内容の噂から始まり、何の話か特定して裏を取るまで、それなり
に時間が掛かるとを踏んでいたのだ。

しかし、大河がテレビに顔を見せたことで、その時間は大幅に短縮されることになった。逢坂陸郎の件が
動いた。であれば、奴らが考えるのはどう対処するか、それだけだ。必要な情報を集め、望まない結果を
実力で阻止しようするのは想像に難くない。竜児は、大河が自分の行動を気にし過ぎないように注意しな
がら、単刀直入に尋ねた。

「なぁ大河、休んでもらってるところ悪いが、今すぐお母さんに話を聞いてもらえないか?」
「な、なにを?」
「全てを、だ」

竜児が考えていた、もう一つの大切なこと。
これまで大河の母親は、ヤクザに関する詳しい情報を竜児達はおろか、大河にも詳しく話していなかった。
自分と同じ危険に大河や皆をさらさないためと言い張ってきたが、この期に及んではもはや全員が運命
共同体だ。せっかく打った先手を生かすためにも、仕掛けられる次の手を考えておかなければいけない。
そのためには真実が、起きたことの全てを知ることが必要だ… 竜児はいつしか熱っぽく大河に語りかけ
ていた。

「俺たちの前では話しにくいこともあるだろう。でも大河、お前は血のつながった、たった1人の娘で、
この何年間かの苦労を共にしてきたんだ。真剣に伝えれば、きっと話してくれる」

「う…ん、わかっ…た」
少し自信なさげな表情を浮かべながら、大河は頷いた。
目の奥にかすかな恐れが揺らいでいるのが見える。その恐れは今から聞きだそうとしている話に対して
ではなく、母親そのものであると竜児は感じていた。指輪を渡したクリスマスイブ、母親に拒絶されそうな
様子を語った時と同じ目をしている。

竜児は、大河の恐れと大河の母親が多くを語ろうとしない理由、その2つはどこか重なるのではないか… 
漠然とそんな予感を持っていた。

「大河、頼んだよ!」
「俺達の敵を教えてくれ」
「頼むぜ〜」
「大丈夫だよ、チビトラ。きっと話してくれるってば」

皆が大河を取り囲んで、口々に語りかける。大河は1人1人の顔を見回した後、最後に竜児の顔をじっと
見つめ、やがて意を決したようにリビングルームのドアを開けて、ホールへと出ていった。


* * * * *


日曜日 22:20
大河がもたらした情報は、予想以上の衝撃を皆に与えていた。

「…密輸の相手がよりよってメキシコの麻薬組織ってなんだよ? 最悪じゃんか… 麻薬のせいで
何万人も死んでて、もはや戦争状態って言われてるんだぞ…」
「それに白虎会っていう暴力団、この間ニュースで見たよ。通りすがりの警官に殴りかかったって」
「ああ、関西の武闘派で知られて、最近、独自に勢力を伸ばしてきてるんだ。そっちも厳しいよな…」
週刊誌の記者として裏社会の事情にも詳しい能登だからこそ、麻耶への説明には実感がこもっていた。
「どおりで、あの男… 」
路地で襲われた時の、関西弁のヤクザ者の顔を思い浮かべ、竜児もポツリとつぶやく。

「今更おじけづいてどうすんのよ! 相手が分かったとたんに意気消沈しちゃって、腹括ってるんでしょ!」
亜美がなんとか盛り上げようとさっきから孤軍奮闘しているが、能登の言葉が皆の気持ちを代弁していた。
「覚悟はしてたさ。でも亜美ちゃん、あまりにも相手が悪すぎるんだよ。確かに情けないけど…」

大河が1枚のディスクを片手に戻ってきたのは、もう少しで時計の針が22時を回ろうかという頃だった。
つまり、母娘は1時間近く話し合っていたことになる。

戻ってきた時の大河の表情は硬く、顔色は蒼白だった。麻薬とヤクザの話に対する驚きより、別のことに
ショックを受けていると竜児には感じられた。どこか上の空の状態で、大河は仲間達に尋ねられるまま、
母親から聞いたことをポツリ、ポツリと語っていったのだった。

バーのマスターから聞いたとおり、逢坂陸郎は家具などのインテリアから建築材料、つまり、家1軒作る
ために必要なものを世界中から日本に輸入していた。メキシコも数ある相手国の1つに過ぎなかったが、
ラテンの鮮烈な色使いと独特のセンスが日本の一部の富裕層に受けて、取引が特に増えていったという。

やがて、美術品や宝石など高価なものも取り扱い始め、それと共に逢坂陸郎の羽振りも良くなり出した。
大河の母親は、逢坂陸郎のビジネスセンスと才覚、人脈作りのうまさによる成功と信じていたのだが、
裏では麻薬の密輸入が行われていたのだった。

大河の母親には、その事実は伏せられたまま、取引は巧みに行われていた。情報漏れを防ぎ、偽装をより
完璧にするためと、摘発された時のスケープゴートに仕立てる意図があったのだろう。

大河の母親は、ヤクザとの関わりも表立って知ることはなかったが、とあるオフィス街の路上で、高級車
から降りてきた逢坂陸郎が、ある人物と親しげに握手を交わしているのを見かけた。その人物は週刊誌で
偶然見た白虎会の幹部にそっくりだったという。
大河の母親は、すぐさま取引の書類や連絡先から関係を調べてみたが、繋がりを示す直接的な証拠を掴む
ことはできず、勿論、陸郎からも当時は何も聞き出すことができなかった。結局、全ての事実を知ったのは、
数年前に借金の肩代わりを要求された時だったのだ。

「い、今からすぐ警察に駆け込む、ってのはどうよ?」
「いや、白虎会ぐらいなら、マジで警察内部に内通者を抱えている可能性がある。中途半端に駆け込もう
として、情報が漏れたりしたら、移動中や滞在先を狙われるかもしれない。信頼できる警察がここに来て、
タイガーの母親から話を聞いてくれるのを待った方がいいと思う。白虎会も1日や2日でここまで辿り着く
ことはないだろうし、有名人の別荘をいきなり襲うってのも難しいだろうし…」

次の手を打つという相談はすっかり煮詰まってしまい、春田と能登の話もすっかりネガティブなものに
なっていた。今日の計画実行のため、皆、朝早くから行動していて相当疲れているはずだが、次の一手が
見えなければ、心安らかに休むことができない… そんな雰囲気の中、ただ、時間だけが過ぎていく。

「じゃあ、ヤクザが欲しがっているのは、メキシコの麻薬組織につながる密輸ルートの記録なのね」
少し前に監視役を再び実乃梨に代わり、リビングルームに戻ってきた奈々子がぽつりと言った。

「ああ、あのクソオヤジがメキシコで商売を広げる過程で見つけたものだ。大河の母親はそうとは知らず、
普通の取引先だと思ってた。取引の記録はこのディスクの中に入っているが、数が多くてどれが密輸に
使われていたものなのか分からない。だからヤクザは、データと一緒に大河の母親を拘束して、順にあた
らせようとしているんだ。過去に取引に関わっていた名前がないと向こうもすぐに信用しないだろうしな」
竜児は奈々子のために、大河が語ったことを整理してみせた。



「で、もしそれに協力したら、タイガーの母親も麻薬密輸の立派な共犯者っつーわけだ」
週刊誌の記者らしく、能登がシビアな現実を思い起こさせてくれる。

「じゃあ、ルートそのものが無くなっちゃえばいいのよね。そしたら、記録もタイガーのお母さんも、
ヤクザが狙う必要は無くなるわけよね」

「は?」
「香椎、お前何言ってんだ?」
「そりゃそうだけど…」
誰もが奈々子の言ったことがすぐ理解できず、困惑した表情を浮かべている中、春田が唐突に叫んだ。

「あ、俺、奈々子様の言ってること、分かっちゃったかも! えと、ある人達の居場所を知ろうとして
るんだけど、そこを訪ねても、もう誰もいないってことがわかったら、居場所を知ること自体に意味が
無くなって、タイガーもタイガーのかーちゃんも安心ってことだよね!」

「そ、つぶせばいいのよ。メキシコのヤクザを。白虎会も居場所や連絡方法は分からなくても相手の
組織やトップの名前ぐらい多少知ってるものでしょ?」
「まぁ、取引を始める時にちゃんとしたブツを手に入れられる相手かどうかぐらい、確認するだろうな」
「で、どうやってつぶすの? 戦争? タイガーぶつける?」
「春田アホか、お前!!」
とたんに春田が総スカンを食らうが、奈々子の意見に対しても微妙な空気が流れている。

「奈々子、日本のヤクザ相手だってどうしようもないのに、メキシコのマフィアなんて、ウチらがなんか
できるわけないじゃん。ハリウッド映画の見過ぎだよー」
「正しくはマフィアじゃなくて、麻薬カルテルな。麻耶」
「いるでしょ? 尋ねてみるべき人が、アメリカに」
「アメリカ…?」
「あっ!」
「北村か!」
「そ、データはここにあるんだし、まるお君のいるところなら、何とかなるかもしれないんじゃない?」
「ちょっと待て、頭真っ白になってたけど、なんか思い出してきた。ハーバードのロースクールなら、
あのニュースが使えるかも… 麻耶、ちょっとパソコン貸してくれ」

麻耶がバッグから取りだしたノートパソコンをひっつかむと、能登はおもむろにネットで
“IvyLeagueSports.com”というサイトを開き、ニュースの検索を始めた。

「あった! 俺、アメフトも好きでさ、昔、いろんなチームのパーカーをよく着てただろ。向こうの
ニュースも見てるんだけど、先シーズンのアイビーリーグ、あ、ハーバードを含めたアメリカの8つの
名門私立大学の集まりのことな。フットボールの最優秀選手はハーバードから出てる。ほらっ、名前は
トム・ジョーンズ。このインタビュー記事にさ、ここ、いいか、訳すぞ」

麻耶のパソコンの画面を指し示しながら、能登は、立派な体格の男がインタビューを受けている記事を
読み上げ始めた。

“将来の夢は何を? プロへの道を目指しますか、それともビジネスの世界ですか?”
“いや。僕の父親は麻薬と戦っている。僕も大切な友人を麻薬で亡くしたことがあるんだ。だから、
ロースクールに進んで、僕も父親と同じ麻薬と戦う仕事をしたいと思っている”

「能登っち、麻薬と戦う仕事ってなによ? 警察?」
「FBI、かしら…?」
「身分がバレるとまずいから詳しくは書かないと思うけど、たぶんDEAか司法省だな」
「ねぇ久光、DEAってなぁに?」
「麻薬取締局のことさ」
「英語読めるんだー すげー」
「でも、この人がまるおと知り合いかどうかなんて、わかんないじゃん?」
「フットボールつったら、アレやるよな、アレ」
そう言いながら、能登は両腕を広げて構え、上げたり下ろしたりの動作をする。


「あ、ウエイトトレーニング!」
「大先生、鍛えてるって言ってたよな。学内のジムで」
「だったら、まるお君、知ってるかもね…」
「尻合い?」
「ロースクールの先輩だし!」
「なんか、映画の脚本みたくなってね? そんなにうまいいく? これホントのホントに現実の話?」
「実感はないけど、たぶん現実みたいね…」
言い出しっぺの奈々子ですら、急に繋がりだした話に苦笑せざるを得なかった。

−オイ! 北村にメール打てメール、いやSkypeの方が早い、先にケータイ鳴らしてからな!−
能登、麻耶、春田、奈々子達が繰り広げる会話を、竜児と大河、亜美の3人は見守るのが精一杯だった。

全員で実乃梨が監視を続けている小部屋に移り、麻耶がPCの1つを操作すると、あっという間にモニタに
北村の姿が映し出された。
「大先生! 朝から急に悪いな。ちょっと聞きたいことがあってさ!」
「おぉっ、能登か、連絡待ってたぞ。ネットの掲示板で放送の様子を追っていたが、大変な展開になって
るな。逢坂の動画が次々とアップされてるぞ。すみれさんと手分けして削除依頼を掛けているが…」
ひぇぇっ… 大河が観念したようにうめく。

「あのさ大先生、トム・ジョーンズって知ってるか? お前の学校にいるだろ、アメフトの…」
「もちろんさ、能登。トムはウチの学校の英雄だぜ」
「いや、知ってるかじゃなくて、知り合いか? の間違いだった」
「その答えもYesだ。彼は今、俺の隣に寝てる… いや冗談だ。特別親しいわけじゃないが、ジムで
世間話ぐらいはするぜ。ロースクールのカリキュラムとか。正義感溢れるナイスガイだぞ」

やりとりを聞いていた竜児がずいっと前に出て、モニタに向かって話しかけた。
「お前の冗談は笑えねぇよ。狩野先輩に失礼じゃないか… なぁ北村、麻薬カルテルを1つ潰してくれないか?」
「麻薬カルテル? 潰す? なんのことだ?」


* * *


能登と竜児が大河の母親の話について、北村に説明した。これまでの経緯と考えられるリスク。白虎会の
動きを意味の無いものとし、かつ報復を避けるためには、自分達が手を回したと分からないほど、迅速に
動くことがポイントになる、と。

「わかった。そういうことなら、すぐトムと話してみる。昨日ジムで会ったばかりだし、きっと学内に
いるだろう。ディスクの方はどうする? まさか航空便じゃ時間が掛かり過ぎるだろう」
「ウチの会社のサーバにデータをアップするよ!」
大河からディスクを受け取り、もう1台のPCで中身をチェックしていた麻耶がさっと手をあげた。
「結構、半端ないデータ量。亜美ちゃん、ここのネット環境はどう?」
「パパがここにいるとき、ネットで会議したり、動画のやりとりしたりするから、バリバリの極太よ」

(バリバリの極太って、櫛枝かよ… )
そんな竜児のつぶやきはあっさりと無視されて、大河の母親のデータがモニタに映し出される。

「これは、ちょっとしたものね…」
大手食品メーカーで役員秘書として勤めている奈々子が、画面を一目見て、感心したように言った。
「取引時期、数量、価格、流通経路、利用業者、銀行口座、商品の画像、担当者の顔写真に事務所の地図…
必要な情報が取引先や商品ごとに整理されていて… さすが有能と言われるだけあるわね…」
「あの、ママがデータを落とす時、気になる所に印をつけたって… それでも結構な数あるけど…」
大河がおずおずと母親から託された伝言を告げる。

「よしっ、と。まるお! このサーバに置くから、後でアクセスして。アカウントはmaruoで」
チャットのスペースに猛烈な早さでアドレスなどの情報を打ち込みながら、麻耶が北村に伝えた。

「木原、わかった。パスワードはどうする?」
「パスワードは用心のため、口頭で伝えるね。そうだ! ゆりちゃん先生のあだ名は?」
「do… だな。分かった。データのアップが終わったら、また連絡くれ!」


* * * * * 


1月下旬。水曜日 12:55
研修所の食堂の隅で1人、竜児は昼食を摂りながら、ぼんやりと考えごとをしていた。午前中の研修が
終わり、午後は各自で課題をやることになっていたが、率先して片付けを手伝っていた竜児はすっかり
食事が遅くなってしまっていた。

「…ふぅ……」
ひとしれず、ため息をつきながら、進まない箸をなんとか動かそうとするが、すぐ止まってしまう。

計画実行の日から3日経ち、まだ北村からも編集部を通じた警察からも連絡は無い。

日曜日の深夜、北村からデータのダウンロードが無事完了したこと、トムの父親と連絡がつき、すぐに
話を聞いてくれることを確認した後、監視を交代制にして、皆はようやく休むことができた。

翌月曜日は、新人である竜児達の多くには仕事があった。冬の太陽が昇り切る前の薄暗い時間に、竜児、
実乃梨、春田、麻耶の4人は別荘を離れなければならなかった。ヤクザと警察の動きに備えつつ、大河の
取材を命じられた能登は仕事として残り、休暇がとれた奈々子も別荘に残ることができた。なんでも、
秘書として担当している役員にお願いして『休んでもらった』らしい。

明け方にやってきた亜美の事務所のスタッフ達から「暫くここに留まるように」という事務所の指示と
監視役を交代してくれることを確認した後、4人は2台の車に分乗し、別荘を後にしたのだった。

しかし、その後丸2日経っても、何の動きも無い。
大河とは数時間おきに連絡を取り合い、無事であることを確認しているが、あれだけのことをしたにも
関わらず、何の変化も無いというのは却って不安になるものだ。

竜児はまた止まってしまった手を動かして、味噌汁を啜ろうとするが、別の心配事が頭の中をよぎり、
持ち上げようとした椀がトレイの上に逆戻りする。ヤクザと警察だけではない、もう1つの心配事、
それは借金のことだった。

今回の計画で大きな穴があるとすれば、正月に大河の母親に指摘されたように、借金をどうするかが
決まっていないことだった。大河の父親の協力を得て、交渉のテーブルにつくことまでは考えていたが、
その先は全く決まってない。

勿論、丸々3億円を払うつもりは無いが、ビタ一文払わない、では、金融屋も収まりがつかないだろうし、
とても逢坂陸郎の居所に関する情報を得ることはできない。双方が納得できる痛み分けのポイントを探ら
なければならないのだが、そもそも借金のいくらかを払うお金のアテは、全くと言っていいほど無い。

大河の父親とは、日曜日以降も頻繁に連絡を取り合っている。すっかり見方が変わった大河の父親は、
自宅や会社を売り渡しても家族4人の暮らしを取り戻すと息巻いている。それはとても有難いことなのだが、
親から受け継いだ財産や人を手放させるのは、みんなで幸せになるという、竜児と大河、2人の誓いを逸脱
してしまうことになる。

「まぁ交渉始める前から、俺一人で悩んでも仕方ないんだけどな…」

またみんなで話そう、大河の両親、今度はじいちゃんやもっと多くの大人達の力を借りよう、そうすれば
きっと何か方法が見つかるはず… 無理矢理にでも思い込もうとしたその時、テーブルに置いたケータイ
が突然震え出した。

大河か能登からの連絡かと思い、サブディスプレイを見ると、普段、全く目にしたことの無い番号。
咄嗟に相手が誰か思い浮かんだ竜児は慌ててケータイを開く。



「おう、高須か?」
「北村、待ってたぞ!」
「なかなか連絡ができずにスマン!で、いきなり悪いが今、近くにテレビはあるか?」
「えっ? 研修所の食堂だから、置いてあるが…」
「衛星放送は映るか? 公共放送の。口で説明するより、そっちを見てもらった方が早いんだが…」
「ああ、確か映ったはずだが、ちょっと待ってくれ、すぐつけてみる」
「13時からワールドニュースがある。それを見てくれ」
「わかった」

慌てて食堂の大きなテレビの前に移動すると、リモコンで電源を入れ、チャンネルを変えた。
ちょうど13時になったところで地球のCG映像と共に「World News」の文字が浮かび上がる。政治情勢、
経済情勢に続いて、女性アナウンサーが読み上げるニュースと映像に、竜児の目と耳は釘付けになった。

『現地時間x日夜、日本時間の本日未明、メキシコで大規模な麻薬組織の摘発がありました。メキシコ
当局と軍は、同国の有力な麻薬カルテルのアジトを急襲し、組織のトップと幹部の計5名を逮捕、多数の
武器と麻薬を押収しました…』

「北村、まさかこれって…」
「そうだ。お前が俺に潰してくれと頼んだ麻薬カルテルだ」
「そんな… まさか… 本当なのか? こんな早く結果が出るなんて、ちょっと信じられんのだが…」
「おや? 急いでくれって言ったのは、高須、お前じゃなかったか? もっとのんびりしていいのなら、
そう言ってくれればよかったのに…」
「いや、それは…」
竜児は、否定するつもりは無かったことを伝えようと慌て、自分がふわふわとした足場のうえに立って
いるように感じた。目と耳から入ってくるニュースと自分達に繋がりがあるという実感が無いのた。

「ハッハッハッハッハッ。まぁ気持ちは分かるがな、これは正真正銘、お前達が提供してくれた情報の
結果だ。逢坂の母親のデータは少し古いものだったが、それが却って幸いしてな、彼らが色々偽装を
行う前の貴重な情報が多く含まれていたんだ。あまり詳しいことは話せんが、トムの親父さんのチームは
3日3晩寝ずに今の記録と照合し、他にも協力者を得て、あっという間にたどり着いたんだよ、奴らに」

「そ、そうなのか?」
こうして説明を受けると、ほんのわずかだが事実だと感じられるような気持ちになる。同時に北村は
何故そこまで知っていて、どこまで関わっているのかが気になるが…

「ところで高須、もう一つ大事なことを伝えておかなければならない」
「なんだ? これ以上、大事なことなんか無いだろう?」
「それがあるんだよ。麻薬カルテルのボスと幹部の情報提供には報奨金が掛けられていたんだ」
「報奨金?」
「連中はいわゆる賞金首だったということさ。金額は総額でおよそ600万ドル。他にも多くの人が協力
してくれているので、全てが高須達のものになるわけではないが、かなりの額が渡されるだろう」
「渡されるって… もらえるということなのか? あ、い、一体いくらぐらいになるんだ?」
「そうだな、ざっとだが、日本円で3億円は下らないと思う」

バンッ! 
大河のビンタを思いっきり食らったような衝撃が、竜児の頭の中に広がる。いや、3億円なんて金額に
比べたら、大河のビンタなんてしれたものだ。

「き、北村っ! 悪いが、もう一度言ってくれないか!」
思わず大声で叫ぶ竜児の視界の隅に、研修所の指導員がこちらに歩いてくるのが目に入った。
北村との通話を繋いだまま、竜児は指導員に大股で歩いて近づくと、必死の形相で告げる。
「すいません! 今日は早退させてくださいっ!」

ひぃいいぃ…と、指導員が仰け反ったのは見なかったことにした。


* * * * *


「たいがっ!」
冬の短い1日の終わりを告げるように、最後の陽の光が闇の中に消えかかる頃、研修所から4時間かかって、
竜児は別荘にたどり着いた。呼び鈴も鳴らさず、玄関のドアを開けると中に飛び込んで、大河の名を呼んだ。

「高須君、お疲れさま」
「よう高須! 本当に来たんだな。さっき電話で話した通り、大先生からこっちにも連絡あったぞ」
玄関で竜児を迎えたのは、3日前の焦燥感が嘘のように晴れやかな表情をした能登、奈々子の2人だった。

「ああ、いてもたってもいられずな。大河は?」
「あれ? さっきまでリビングルームで一緒にいたから、トイレにでもいってんじゃね? それより高須、
さっき警察から連絡があったぞ! 勿論、いい話だ」

「警察から? なんだって?」
竜児は能登の方ににじり寄っていた。虫が良すぎるとは思うが、北村がもたらした奇跡のような話は
連鎖するんじゃないかという予感があった。警察の容疑が晴れて、ヤクザの動きが止まれば、借金の件も
含め、ほとんどの問題が解決したことになる。

「編集部に連絡があった。編集長も顔見知りの信頼できる人物だ。で、密輸入の件で大河の母親の疑いは
完全に晴れた。いずれ話を聴かせて貰うことはあるけど、容疑者としてではなく、証人として、だってさ」

懸念が1つ消えた。これで警察を頼っても拘束される心配は無い。なら、もう1つの方はどうか?
「ヤクザの方は何か言ってなかったか?」

竜児の言葉を聞くと、能登はまるで自分の手柄のように誇らしげに胸を張った。
「それがなんと、もう心配ないってさ! 詳しいことはまだ話せないらしいけど、今週一杯、ここで
過ごした後はもう自由に行動していいって。あ、勿論、居所は警察に伝えなきゃいけないんだけど…
なぁ、高須。北村が俺に連絡してきた時、このことを予想できてたっぽいんだ。“大丈夫、そっちも
きっとすぐ片がつく”ってさ 大先生はアメリカでどんなマジックを使ったんだと思う?」
「わ、わかんねぇ… それより能登、ウソじゃないだろうな。冗談とか言ったら、俺は本気で怒るぞ…」

能登は、目から怪光線を発しそうな竜児にひるむことも、気を悪くする様子も無く、ポンとその肩を叩いた。
「気持ちは分かるよ。俺も編集長に同じこと言ったしさ。でも間違いない、終わったんだよ。俺たちを
脅かすものは、もう無くなったんだよ…」

竜児の肩に置かれた能登の手に力がこもる。ちらっと奈々子の方を見ると、もう何度も皆で話し、確認
しあったことを告げるように、竜児に穏やかな笑みを向け、小さくもしっかりと頷いた。

「ははっ… ホント…なんだ…」
気が抜けたようにがっくりと膝をつくと、竜児は乾いた笑い声を発した。ここ数日間、極度の緊張を
強いられてきた。それが思わぬ形で急に解放された時、人はそんな反応しかできないのかもしれない。
と同時に、竜児は大事なことを忘れているのに気がついた。

「川嶋! 大河はっ?」
ちょうどホールに入ってきた亜美の姿を見つけると、竜児は大きな声で尋ねる。
「あら高須君、亜美ちゃんには挨拶もしないで、いきなりタイガーのこと聞くわけ?」
「あ、いや、す、すまねえ…」
「冗談よ。タイガーなら、さっきデッキから海の方に出てったわよ。このクソ寒いのに旦那が来るのを
放ったらかして、何やってんだろうね、あいつ…」
「行ってくる! あ、この荷物を頼む、中に食うもんが入ってるから、しまっておいてくれ!」

大きく膨らんだバッグを足元に置くと、180度ターンして、再び外へ飛び出していく竜児を見送りながら、
亜美、能登、奈々子の3人は顔を見合わせて、ニッコリするのだった。


* * * * *


「…ここにいたのか」
冬の澄みきった夜空の下、別荘の海側の階段を降り、浜辺に立つ大河の姿を見つけると、竜児は早足で
駆け寄った。

「ん」
大河はチラと後ろを見る動きをしただけで、完全には竜児の方に振り向かない。まるで足音だけで誰が
来たか分かっているようだ。

「寒くねぇか? こんな真冬の海風に吹かれて」
「だいじょ… ぅえっくしょいっ!!」
「ほらっ、いわんこっちゃねぇ!」
竜児は慌ててと着ていたコートを脱ぎ、大河の肩に羽織らせた。

「いいの、アンタが着るの! 風邪ひいたら、どうすんのよ?」 
大河は肩にかかったコートを剥ぎ取りると竜児に向かってまっすぐ突き返す。竜児はその様子を笑みを
浮かべながら、黙って見ていた。

「って何ニヤニヤしてんの? 気持ち悪い…」
「そのセリフ、いつか聞いたような気がしてな… わかったよ。じゃ、こうすればいいだろ」
竜児はコートを着直すと、その前を広げて、背後からすっぽり大河の身体ごと包み込んだ。

「!」
「こうすりゃ、2人ともあったかいだろ」
「う…ん」
「で、どした? 1人で」
「ちょっと… ね…」
「…終わった、ってのが信じられないのか?」
「まぁ…ね。ずっとこの時を夢見てきた。それがいきなり… まぁ、みんなで力を合わせたからなん
だけど、 “はい、終りました。もう心配ありません”って言われても、なんか混乱しちゃって… だから、
ちょっと頭冷やしにきた」
「…冷やしすぎだろ。まるで陽の光の下に引きずり出されたモグラだな」
「なによ、その失礼な言い方! もっとマシな例えは無いの…? って、ちょっ!」

竜児は答えるかわりに、背を屈めて、大河の頭のてっぺん、豊かな髪の中にアゴを乗せ、ほんの少しだけ
重みをかけた。そして、大河の華奢な肩から上半身全体を掻き抱くように両腕を回す。

「そうだな、俺もモグラだ。まだ信じらんねぇ… でも、きっと本当なんだと思う。だから北村を、能登を、
俺達のために動いてくれた大人達を信じてみようぜ。それに戸惑ってることはそれだけじゃねぇだろ?」
竜児は腕に力を込め、大河をもっと近くに抱き寄せると、脇からその横顔をじっと見つめた。

微かに竜児の方を見る仕草をし、観念したように大河は言葉を吐き出す。
「バレてた…? まぁ、竜児は誤魔化せないよね…」
「あぁ、お前が自分から話してくれるまで待ってようかと思ってたけど、もう大丈夫な気がしたからさ…
お母さんのことだろ?」
「うん…」

大河は計画実行の夜、メキシコの麻薬組織や白虎会の話と共に母親から聞いたことを少しづつ話し始めた。
それは大河の母親が昔、大河を捨てた理由、その全てだった。

「ママは真っ先に気づいたのよね、あいつの正体に。そのおぞましさに」

当初、大河の母親は逢坂陸郎との間にいさかいが生まれ、家庭が乱れ始めたのは、互いの仕事のスタイルや
性格の違いのせいだと思っていた。いくら鋭い大河の母親といえ、自分が選んだ夫が金の為なら手段を選ばず、
裏社会と手を結ぶ人間であるとは思ってもみなかったのだ。だが、ヤクザの幹部らしい男と話しているのを
見かけてから、改めて振り返ってみると逢坂陸郎の変化と符号する事実が次々と浮びあがり、戦慄を覚えた。

逢坂陸郎の巧妙な点は、大河の母親に疑いをかけられ、追及されても決してボロを出さず、冷徹に尻尾を
掴ませなかった点にある。もし感情の動くままに任せて、怒りをぶちまけたり、脅したりしていたら、せっかく
築いたルートもいつか綻びが生じていただろう。


大河の母親に残されていた選択肢は逃げること、生きていくうえでこの男との関わり合いを一切断つこと
しか無かった。当然一人娘も一緒に連れて行こうとしたのだが、中学生だった大河にとって、壊れかけた
家庭を修復しようともせず、出て行くことでピリオドを打とうとする母親の行為は、自分や父親に対する
裏切り行為にしか見えなかった。

「私、ママに何度も酷い言葉を浴びせたのよ。ママが私を連れていくのを諦めたの、分かる。おまけに
次の母親、アイツはきっとクソジジイの悪巧みを知ってた、そういう人間だと思うんだけど、アイツと折り
合いが悪くなって、家を追い出されてからは、世界中の誰もが敵だと思っていた。この世界で自分は
1人ぼっちなんだ、なんて悲劇のヒロイン気取っちゃってさ。なんか…  バカみたいでしょ、私」

大河は顔を上げ、夜空に目を向けながら、後頭部を竜児の胸の辺りにギュッと押しつける。
「結局、ママは私のことをずっとどこかで気にかけていてくれた。だからクソジジイが破産した時も真っ先
に迎えに来てくれた。それを私は“新しい家族がいるのに今頃のこのこ出てきてなによ!”って反発して、
アンタ呼ばわりして、駆け落ちまでして。もし竜児が“みんなで幸せになろう”って言ってくれてなかったら、
きっと今でもママと一緒にいなかったかもしれない…間抜け過ぎて、ママの顔をまともに見られないの…」

そこまで一気に語り終えると、少し息を荒げながら、大河は竜児の腕の中で身体を小さく縮こませる。
竜児は、大河を包みこむ腕にギュッと力を込め、大河の呼吸が少しづつ収まるのを待って、口を開いた。

「…良かったんじゃねぇのか?」
「なんで…?」

腕の中で大河が振り返って、真っ直ぐに竜児の目を見つめた。星の光が映り込みそうな、その大きな瞳に
宿る感情は気高き虎が見せる悔恨か、持って行き場の無い気恥ずかしさか…

「だって、大河のお母さんはずっと大河のことを思ってくれていて、大河はその気持ちを知ることが
できた。昔の大河は、家族が元に戻るのを信じていたから、お母さんにキツイことを言ってしまったん
だろ? 大河のお母さんもそれをわかっている。じゃあ、どこに問題がある?」
「でも、わたし…」
「きっと大河のお母さんも長く苦しんで来たんだろう。娘に罵られようが、父親を犯罪者呼ばわりしようが、
どうしてあの時一緒に連れて逃げださなかったのかって。だから今回の件もここまで頑張って、核心を
たった1人で抱えてきたんだと思う。それに…」

「それに?」
大河は竜児の目を見つめたまま、同じ言葉を繰り返す。

「あり得ねぇことだけど、大河が一番辛かった時、誰からも見放されたと感じて、ささくれ立っていた時の
自分に、もし声を掛けることができたらさ、こんな風に言ってあげられるんじゃねぇか…  “大丈夫だよ、
見ていてくれる人は必ずいる…” ってな」

竜児を見つめていた大河の瞳が揺らぎ、見る見るうちに透き通った、清浄な水分が目元から満ち始める。
全てを洗い流すかのようにゆっくりと溢れ出すと、幾つもの光の筋となって、大河の頬を零れ落ちていった。

「フィ… フィアンセ、ボロ泣きさせて… どうすんのよ…」

俯き、嗚咽をあげる大河を固く抱きしめ、竜児は子をあやすようにその小さな背をゆっくりと叩き続ける。
「お前がいなくなって、俺、本当につらかったけど、そのお陰で大河が真実を知って、大河がいらない子
なんかじゃなかったこと、大河が耐えてきた痛みは決して底無しじゃなかったことがわかったのなら、
俺は嬉しい」
「う…ん」
「大丈夫だ。お母さんの目を見て、一言だけ、ありがとうって、言えばいい」
「う…ん」
「よかったな、大河」
「う…ん……」


* * * * *


「今回のこと、とてもひどかったけど、私も1つだけいいことがあった」
ひとしきり竜児の腕の中で泣いたあと、大河は顔をあげ、赤く腫らした目で微笑んだ。

「何だ?」
「…竜児の幼い頃の気持ちが聞けた」
「なんだ… そんなことか…」
バツが悪そうに竜児は頭をボリボリと掻く。

「でも、弟の、恵児のことがなかったら、私にも話すつもり、無かったでしょ?」
「まぁな… 5才かそこらの子どもが、毎日自分が消えて無くなるんじゃないかって怯えていた、なんて
話はあんまり人に聞かせるものじゃねぇからな」

「バカ。私はね、竜児の大切な気持ちはどんなことでも知りたい。出会った時からずっと不思議だったの。
竜児はなんでこんなにしっかりしていて、そして優しさを持っているんだろうって? 気持ちが通じあって
からは、どうして私のことなんか好きになってくれたんだろうって、時々…」
「“なんか”なんて言うな。それにしっかりしてねぇぞ。お前、ずっと駄犬よばわりしてたじゃねぇか…」
「私はまだ誰かの”せい”にできた。怒りに変える相手がいた。でも、竜児はそんな小さな頃から自分自身と
向き合っていたんだね。だから、私にも気付いてくれた…」
「理由なんかねぇよ。ほっとけなかったんだよ。最初に出会った時から、ずっとな…」

竜児はぶっきらぼうに言い、その話題を終えようとした。竜児には大河に伝えなければいけないことが
もう一つあるのだ。

「そんな昔話よりさ、見ろよ、空。星、きれいだぞ」
その言葉に導かれ、大河はクルリと向きを変えると、竜児を背にして再び空を見上げる。
冬の澄み切った空は宝石箱をぶちまけたように、輝く光に満ちていた。

「ほんと。今日はひときわ綺麗に見える…」
「ああ…」
二人は夜空を指差しながら、あれはオリオン座、あれがおおいぬ座で、冬の大三角形はこれとこれを
結んで、とひとしきり語り合う。

やがて、2人が覚えている星座の名前を言い尽くすと、大河がポツリと呟いた。
「私、ずっと星と話してて良かった。だって、竜児がクリスマスにアパートへ来てくれた時、2人が離れて
いても、やっぱり同じことをしてるのに気付かなかったら、まだずっと意地張ってたかも」
「ああ、そうだな… いや、いつかきっとこうなったさ、俺達はいつも、ずっと傍にいるんだからな」
「うん… でも良かった… こうやってね、星にお願いしてたの。手を伸ばして、また竜児と一緒いられ
ますように、って…」

大河はいつかのクリスマス、イルミネーションに囲まれた所で見せたように、右手を真っ直ぐに空に
向かった伸ばした。

「大河、願いも叶ったことだし、今日は右手だけじゃなく、両手にしてみないか?」
「そうね。今日はとびっきりのお礼言わなきゃ…」
大河は夜空を抱き締めるように 両手を伸ばす。
竜児はその左手を取ると、星を映し、光輝く石を載せた指輪を、大河の薬指にそっと通した。

「なに? これ… まさか!」
「給料3か月分とかじゃなくて悪いが、婚約指輪だ。改めて言わせてもらうぞ。大河、結婚しよう」
「りゅうじ…」
「これが片付いたら、もう一度プロポーズしようと思ってた。今日はその日だ。大河、俺はもう待てない、
1分たりともな。何度でも言う、嫁に…来いよ!」

その大きな瞳を驚きでさらに大きく見開いた後、再び溢れようとする涙を抑えて、大河は華やかな笑顔を
見せる。こんな幸せな瞬間に涙なんかいらない、とびきりの笑みを竜児に返したかったのだ。
「…うん。私、竜児のお嫁さんになるね。もうずっと、一生、離れない…」

見つめ合った瞳と瞳がゆっくりと近づき、やがて感覚の全ては唇に集中した。重なりあい、相手の熱を
感じ、再び誓いあった絆を心と身体に刻みつけるように、何度も何度も、強く、唇を重ねあった。


* * * * *


「ねぇ、この指輪、今日買ってきたの? 急に手に入れたにしてはセンスいいけど…」
お互いの気持ちを十二分に確かめあった後、左手の薬指に収まった指輪をじっと見つめながら、大河が尋ねた。

「ん? 前から買ってあった」
「前からって?」
「社会人になって、4月に初めて給料をもらったのを全部つぎ込んだんだ。あ、今回は川嶋のアドバイスは
もらってねぇぞ。自分で調べて、大河に似合いそうなのを選んだんだ」
「初めてのお給料って、その時まだ、私、見つかってなかったのに?」
「まぁな。でも、そうしようって決めてたんだ。絶対無駄にならねぇって信じてたからな。ほら、一人前に
なったら、俺達一緒になろうって言ってただろう? 給料もらうってことはさ、一人前になることだからな」
「うん…… ありがと…… 今日はなんか、竜児に泣かされっぱなしね」
再び溢れそうになった涙をそっと指で拭いながら、大河は微笑む。

「でも、なんか… 私ばっかいじらてる気がして、だんだんムカついてきた!」
優しい目をしたまま、大河は竜児を見上げると、口元を歪ませて、不敵な笑みを浮かべた。
「オイオイ…」
竜児は苦笑を浮かべるが、それが大河流の照れ隠しだということは分かっている。

「ねぇ竜児! 大体初めてのお給料って親のために使うもんでしょ? 一人前に育ててくれたお礼にって。
どうして、やっちゃんに何か買ってあげなかったの? この親不孝者!」
「ああ、大河には悪いが、最初はそうしようと思ってた。でも先に泰子に釘さされちまってさ。
”やっちゃんには、お金とかプレゼントとか、ずぅぇーったい要らないから!!”って泣きベソかかれて…」
「それで引き下がったわけ? あきれた鈍犬ね! そんなの口だけに決まってるじゃない!」
「いや、なんか “そういうの貰うと竜ちゃんがいなくなっちゃうみたいだからヤダ!”っ言うんだよ。
だからその日の晩は、泰子の好きなメシをこれでもかっていうぐらい、目一杯作ってやった」

「竜児の料理を… 目一杯…? これでもかっていうぐらい…?」
まるで呪文を唱えられたかのように、小虎のお腹が「食わせろ!」という抗議の音を猛烈に立て始めた。

「できるぞ。材料は来る時に買ってきた。今日はお祝いだ。30分あれば、お前の好きなもんを作ってやる」
「ねぇ、10分で作って、私、そんなに待てない!」
「無茶言うなよな… わかった。15分で作ってやるから、大人しくしてろよ!」
「うん!!」


* * *


「まったく… このくそ寒いのに、おあついこって…」
亜美は、ダイニングルームの海側に面した窓に腕を組んだまま持たれかかり、2人の様子を伺っていた。

亜美の視線の遠く先で、大河は竜児の腕に掴み、ぶんぶんと前後に大きく振り回したかと思えば、次は
両手で竜児の腕を引っ張り、その身体をぐるぐると回す。パッと手を放すと、今度は自分が竜児のまわりを
駆け回りだした。

”りゅーじのりょうり、りゅーじのごはん”

何度もそう叫びながら、浜から別荘へとあがってくる大河の表情は暗闇に紛れて良く見えないはずだが、
亜美にはまるで光に照らされているかのように、輝く笑顔が見えていた。それは亜美が何よりも見たか
った大河の姿だった。

「あのチビ、どんだけはしゃいでんのよ。……でも、その笑顔を取り戻せてよかったね、タイガー。
あんたが本当の孤独に気づいたこの場所で、あんたは手に入れたかったものを取り戻したんだよ…」

そっと窓ガラスに手をあてると、亜美は演技でも決して見せたことの無い、優しい表情を2人に向けるの
だった。


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