2月中旬 金曜日 19:00
大河が大橋に帰ってきた!

その日、大河の帰還を祝う会で、弁財天国は店始まって以来の賑わいを見せていた。

いつものメンバーと元2-Cクラスメートの一部を中心に、竜児の祖父母、清児と園子に、富家幸太や
狩野さくらとその両親(つまりスーパーかのう屋店主)、泰子の帰路を守り続けた稲毛商店の主人を
はじめとする「魅羅乃ちゃん親衛隊」や、かつて共にバーベキューを楽しんだ毘沙門天国の面々まで、
大橋で竜児と大河に関わってきた、そうそうたる顔ぶれが集まり、店内は熱気に満ち溢れていた。

亜美の家の別荘を離れた後、大河達3人はまっすぐに自宅に向かった。仕事を放り出して伊豆の別荘
まで迎えに来る、という大河の父親をなんとか押し止め、東京の空港ロビーで感激の対面。最初は
おずおずと、やがてしっかりと父親に歩み寄り、ギュッと抱きついた恵児と、我が子を腕の中に抱き
締める父親の姿に、その場に居合わせた全員が涙を抑えられなかった。

金融屋との交渉はようやく進展を見せ始め、報奨金のことは当然隠しつつ、駆け引きが続いている。
今のところ、妥当な返済額を差し引いても、これまで大河の母親が金融屋に払った額以上の報奨金が
手元に残りそうだった。勿論、陸郎を自分達の手で捕まえる、という大河母娘の意思は、数々の懸案
が無くなった今でも変わっていない。

警察からの来訪や呼び出しは未だになく、大河の母親と大河自身が電話で何回か質問された程度で、
「いずれ、そのうち」
と半ば放置された恰好になっている。身の危険を感じるような出来事は何も起こらず、白虎会が手を
引いたことは、竜児の自宅に仕掛けられていた盗聴器が別荘から戻った時には、既に回収されていた
ことからも伺えた。(再度の不法侵入に竜児が激怒して、皆になだめられたことは言うまでもない)

こうして、折り重なるように積み上げられた、大河とその家族、竜児を覆っていた重しが、一つずつ、
消えてなくなり、完全に、とはいかないが、自由が、日常が戻ってきたのである。
1つ残念なことが起こったのは、能登による大河への独占インタビュー記事が、警察からの警告により、
中止になってしまったことだった。もっとも、悔しがったのは能登やデスク、編集部の人間だけで、
無用な刺激を避けたかった竜児や大河をはじめとする、他の仲間達はむしろ安堵したものだった。

休学扱いだった大河の大学への復学が認められると同時に、高校卒業当初に入学するはずだった東京の
私立大への編入も決まった。今日はその手続きのために、単身上京してきた大河にあわせて、お祝いの
会が開かれたのだった。

大河の両親と弟の恵児は、自宅がある九州から出掛けるには大橋は遠方であり、恵児が新しい幼稚園と
数年ぶりに帰ってきた街に早く馴染んで落ち着くために、今回の集まりには参加していない。大河は
「みなさんにきちんとお礼を言ってきなさい!」
と母親に気合いを入れられて、快く送り出されてきたのだった。

祐作とすみれの北村夫妻もお腹の子の様子を見ながら、残り少なくなったアメリカ滞在の総仕上げに、
忙しい日々を送っているようだった。


* * * * *


「さあっ、お集まりの皆様、グラスを持って、真ん中にお集まりくださいよー はい、ぎゅぎゅっとー」
いつの間にか、場を取り仕切っている実乃梨が店の中心で声を張り上げ、皆に乾杯の準備を促している。

久しぶりの再会を祝って、あちこちにできていた小さな輪が大きな輪に変わり、真ん中にいる大河と竜児、
実乃梨を二重三重と囲みはじめていく。

「では、誠に僭越ながら、この不肖、櫛枝実乃梨めが乾杯の音頭を取らせて頂きます!」
実乃梨が高らかに宣言すると、周囲の仲間や既に酒が入っているオッサン達などから、
「おぉー!」「よっ、ジャパン不動の一番打者!」「いいぞー、女イチロー」
などと歓声があがる。

「え、では…」
コホンとわざとらしく咳払いをすると、実乃梨は、正面に立つ大河の目を真っ直ぐ見つめながら、フレッ
シュジュースが注がれたグラスを掲げ、皆の予想に反して、静かな口調で語り始めた。

「ホント言うとさ、大河にはもう会えないんじゃないかって、何度も思ってた…」
シン…と店の中が静まり返る。
「でも、こうして大河は帰ってきてくた。この大橋に、私達のところに。うん、帰ってきたんだ、本当に…」
実乃梨は、大河と竜児の斜め後方に立つ、亜美と視線が合うと笑顔になり、軽く頷いた。

「それはここにいる全員のおかげだと思う。だから、今日は力をくれたみんなと、その健闘を讃え合いたい。
じゃーいくよー、せーのっ!」

「「「「「「おかえりっ! 大河っ!!!!」」」」」」

弁財天国が弾けた!
あちこちでグラスとグラスがぶつかる音が響き、歓声があがる。
大河と竜児は周囲の人間から、何度も何度も乾杯を求められもみくちゃになっている。
実乃梨は、そんな2人の肩に後ろから両手を掛けると、再び大声を張り上げた。

「どうどうどうどう、皆の衆、お祝いはこれだけじゃ終わらんのだよ!」
祝宴の始まりをあえて制するように、実乃梨の声が店の中に響いた。

「えー、大河と高須君の結婚が決まりましたっ! 結婚式は今年の春に行われます!」

えええーっ?という驚きの声と、やっぱり、やっとか、すげー、という同意と賛同の声、どちらかと
いうと後者の方が多いだろうか、インパクトには欠けても、宴に華を添える最高の肴を見つけたという
雰囲気でざわめきのトーンが一段と大きくなる。

「ここにいる全員は難しいと思うけど、招待状が来た人は、是非お祝いに駆けつけてくれたまえ。
ということで、さぁ、もう一回行くよ、せーのっ!」

「「「「カンパーイ!」」」
「「「「結婚、おめでとう!」」」

弁財天国が再び揺れる。
大河と竜児は歓声の真ん中で、ひたすら顔を真っ赤にしてモジモジとしている。
自分達で決めたこととはいえ、こうして大勢の人間から祝福されることに、2人は全く慣れていない。
乾杯の後は、あっちのテーブル、こっちのテーブルと呼ばれては酒を注がれ(大河が何杯も飲もうとして、
竜児に止められること数回)、武勇伝を聞かせてくれとせがまれるなど、一向に解放される様子はない。

一方、店の別の一角では、妙な盛り上がりを見せるテーブルがあり…

「川嶋さんがテレビに出るって言うでしょう? 家でしっかり待機して見てたら、急に逢坂さんが出て
きて、大絶叫するじゃない。あなた達の担任だった頃を久し振りに思い出して、心臓止まるかと思った
わよ! あー、もうこれ以上、シワ増やさないでくれます?」
「ゆりちゃんてば、全然大丈夫だって! 今でも(実年齢よりは)すっごく若いって」

独神こと恋ヶ窪ゆり(旧姓か現姓かは本人の名誉のためにここでは触れないでおく)とも久し振りに顔を
合わせ、亜美を中心に盛り上がる元2-C女子達の面々を遠目に見ながら、店の隅では春田と能登が
のんびりと酒を汲み交わしていた。クマの着ぐるみを探してくれた春田の彼女、瀬奈は個展の準備が忙しく、
残念ながら今日は参加できていない。

「で、結局、タイガーのとーちゃんはまだ見つかってないんだっけ?」
「ああ、金融屋と交渉が進んで、彼らも知ってる限りの情報は出して来たんだが、どれも居所を見つける
手掛かりにはならなかったみたいだな」
「じゃあ、またなんか仕掛けてくるとか? こんな風に浮かれてる場合じゃないんでねーの?」
「いや、それは無いだろう。おっさんのカードは全てつぶれたわけだし、下手に姿を見せて、警察か白虎
会に見つかるより、逃げまわるに決まってる。ま、いつか逃亡資金が尽きて、自首せざるを得ないかもな。
ヤクザに捕まるよりマシだろうし…」
「なるほどー、じゃあ、タイガーのとーちゃんも、いつか警察が捕まえてくれるってわけだ…」

「ハイ、ビールおかわり、どーぞ!」
2人の所にちょうどやってきたのは、店長として、またお嫁さんとなる大河の義母として、危なっかしくも
はりきって今日の会を切り盛りしている泰子だった。1時間前には再会した大河の顔をその巨乳に埋めて、
窒息死させそうになる程、強く抱き締めた後、2人して延々10分ほど、泣き続けていたのだが。

「ね、今、大河ちゃんのお父さんって聞こえたけど… 警察に捕まるって? 何か悪いことでもしたの?」

馴れた手つきで2人のグラスにビールを注ぐ泰子を見ながら、春田は慌てて手を振った。
「あ、とーちゃんって言うのはさ、タイガーの今のじゃなくて、前のお父さんのことで…」
「前の、って高校の時に、大河ちゃんのマンションを引き払いに来た?」
泰子の顔がほんの少し曇る。高校2年の文化祭の前、ベランダ越しの会話で感じた悪い印象を今でも覚えて
いるのだ。

(そんなことあったっけ…?)
能登と春田はひそひそと話し合い、でも”大河の父親”と呼ばれる人物は2人しかいないことを確認し合う。

「そそ、たぶん、そのお父さんじゃないかな…」
「大河ちゃんがいなくなってたことに、かんけーあるの? なんか、おウチの事情って聞いてたけど…」

再び声を潜めて、能登が春田に話しかける。
「そういえば、高須は詳しい話はしてないって言ってたっけ…? いずれ、落ち着いてからって…」
「でもさ、もういいんじゃね? 大方解決したんだしさ。ねぇねぇ、高っちゃんのかあちゃん、聞いてよ、
俺、すっげー活躍したんだから…」
「春田だけじゃないだろ、みんなでやったんだから… あのさ…」

大河が大橋に帰ってきて、結婚も発表された。その達成感と開放感に浸りきっていた2人は、喜び勇んで
これまでの顛末を泰子に語り聞かせ始めた。
そのことを竜児が知ったのは、少し後になってからだった。


* * * * *


次の日の朝、今度は泰子がいなくなっていた。

といっても、
“大河ちゃんが帰ってきてくれて、ホッとしたので、ちょっと一人旅がしたくなりました”
という意味不明の書き置きが残してあり、竜児がケータイにかければ、大体、ちゃんと繋がった。

1週間後、泰子はいつもと変わらない様子で「温泉三昧で、命の洗濯ができたよー」と元気に帰ってきた。


* * * * *


6月中旬。土曜日 6:00
竜児はホテルの部屋の窓辺に立つと、カーテンをそっと引いて、窓の外の風景に視線を走らせた。

眼下には深い森。そして雨。一面に広がる灰色の雲から降り注ぐ雨が、新緑の柔らかい葉や窓を叩き、
優しい雨音を奏でている。窓の向こう側から聞こえてくるその規則的なリズムは、やるべきことが何も
無ければ、もう一度ベッドに潜り込みたい誘惑にかられる心地良さを醸し出していた。

弁財天国でのお祝いから4ヵ月あまり。竜児と大河は結婚式の当日を迎えていた。
場所は都心から車で3時間程離れた、高原にあるリゾートホテル。挙式はホテルから少し離れた森の中の
由緒ある大きな教会で行われる。竜児と大河、その家族と親族、招待客の一部は昼過ぎからの結婚式に
備えて、昨夜からこのホテルに泊まっていた。

背後で人の動く気配がしたかと思うと、微かな足音と共に、自分の隣にやってくるのを感じた。
「わりぃな、起こしたか…」
「んーん… 勝手に目が覚めただけだから…」

数年続いた大河の早起きの習慣は、東京で一人暮らしを始めてもまだ抜けていないようだった。
東京の大学編入に合わせて、大河は大橋にマンションの一室を借りた。一人暮らしとはいっても、東京の
部署に正式配属になった竜児の自宅からは目と鼻の先にあり、大河がご飯を食べにくるのには楽勝の距離。
そして、この家は2人の新居にもなり、結婚後も泰子を寂しがらせない配慮をしていた。

「雨… ねぇ、竜児、やっぱり雨じゃない。せっかくの晴れの日なのに雨だなんてサイアク…」
「しかたねぇだろ、お天道様には逆らえねぇ。てか、式までまだ時間もあるし、止むかもしれねぇだろ」
「アンタがこんな梅雨の最中に式を挙げようとするからいけないんでしょ?」
「お前だって、ジューンブライドだからいいって、少し憧れてた、って言ったろ?」
「それは竜児があまりにも早く早くって言うから、まぁ、いいかなって…」
「だって、それは…」

竜児は言葉を飲み込む。
結婚について、お互いの親(実質は大河の両親だけ)の了解を得ると、竜児はすぐさま両家の親族、
欠かすことのできない招待客のスケジュールが合う、できるだけ早い日を探した。大河の父親だけでなく、
母親の実家も商売をやっているため、日柄やホテルの格式など多くの要求があり、それらを満たす都内の
主だったホテルや式場は半年以上先まで全滅。東京の近郊にまで対象を広げて、ようやく6月のこの日に
空いている場所を見つけた。竜児は周囲の“急すぎる”という意見を粘り強く説得し、着々と準備をこなして、
今日という日を迎えることができたのだった。

竜児が結婚を急ぎたかった理由。それは、夫婦になれば、もしこの間のような問題が起きた場合でも、
もう他人ではなくなり、身内として積極的に関わることができる。その一点が大きな部分を占めていた。

そんなことを大河に言おうものなら、また気に病むか怒るかのどちらかだと思い、竜児がこの4ヶ月間、
何度も繰り返した「早く大河と一緒になりたいから」という理由を今一度ここで言おうとするが、大河の
強い視線に遮られてしまう。

「………まぁ、いいわ。今さら延期できるもんでもないし、そんなことしたら余計に縁起悪いしね…」
竜児の心の内を知ってか知らずか、大河はその会話を打ち切ると、はわわ〜と生あくびを繰り返し、
「二度寝しようかしら…」と呟いている。

竜児は心の中で「サンキュ」とつぶやく一方、言っておかなければならないことを思い出し、厳しい顔を
大河に向けた。


* * * * *


「お前、昨日何時にここに来たか、覚えているか?」
「ん? 知らないわよ、そんなの」
「2時だぞ、2時。夜中にガンガン、ドア叩きやがって、寝るなら自分の部屋に行けよな!」
「ばかちーの部屋にカギ置いてきちゃったのよ。しょうがないでしょ。それに今日から夫婦なんだから、
別にいいじゃない。ここならベッドだって2つあるんだし、竜児の邪魔になんなかったでしょ!」
「結婚式が済むまでまだ夫婦じゃねぇだろ。お義父さんもお義母さんもここに泊まっているのに…」
「はぁ? アンタいくつ? 昭和の人? それともウチの親が入籍を先に済ませるのを認めなかったから、
まだ根に持ってんの?」
「そんなんじゃねえ。大切な日なんだから、けじめをつけなきゃ、ってことだ。俺はしっかり日付が変わる
前に眠ったぞ。今日の主役は花嫁のお前なのに、何やってんだよ…」
「しょうがないじゃない… ばかちーが夜の11時なんて非常識な時間にホテルに着くのがいけないのよ」
「仕方ねぇだろ、川嶋だって多忙なスケジュールの合間を縫って来てくれたんだから、文句言うなよな…」

ゴールデンウィーク前に公開された亜美主演の映画は、目下大ヒット公開中となっていた。公開前こそ、
能登の週刊誌のライバルから“ヤラセで話題作りをしないと注目を集められない映画”という下馬評を流され、
叩かれたりもしたが、いざ公開になってみると、大河が起こしたハプニングなどあっという間に忘れられる
ぐらいに高い評価を集めた。亜美は今、拡大した上映館での舞台挨拶や取材の対応に大忙しの日々だった。

「ばかちーがますます偉そうになって、ムカツクけどね。そう言う竜児だって、こんな朝早く起きて、
何やってんのよ?」
「言ってあったろ? 俺はこれから、披露宴のお色直しの後で配るドラジェをホテルの厨房を借りて作るん
だよ。芸なんか何もねぇ俺にできることはこれぐらいだからな… 大体、バチェラーパーティなんてのは、
男が騒ぐもんだろ? 女が飲んだくれるなんて聞いたことねぇ」
「あら、偏見。それに女の場合はバチェロレットパーティっていうのよ。竜児もやればよかったじゃない。
お約束のストリップなら、ばかちーがやってくれたかもよ」
「馬鹿なこと言うな。って、お前ら、まさか北村を呼んで、脱がせたりしてねぇだろうな?」

2人は互いに目を眇め合い、ガンを飛ばしあう…
が、やがてどちらからともなく、目が笑い、頬が緩んだかと思うと、同時に吹き出した。

「ぷはっ…」「ぷくくく…」
「北村なら、ホントにやりかねねぇ…」
「竜児、ダメだよ。北村君、もうすぐお父さんになるのに悪いよ。ぷっ… あははははは」
そうして、2人でひとしきり笑いあった後、大河は生あくびをもう一つ。

「じゃ、私はも一回寝るわ。竜児、頑張ってね」
「ああ、部屋のカギを開けてもらうよう、頼んできてやるから、ちゃんと自分の部屋で寝ろよ」
「分かってるって」
「9時には叩き起こすぞ。髪のセットとかメイクとか式のリハーサルとか、やることは色々あるんだからな」
「はいはい」
「ったく…」

竜児が大河の手を取り、部屋へと送ろうとしたその時だった。
突然、窓からまばゆい陽の光が差し込み、カーペットの上に2人のシルエットを作った。

同時に窓の方へと振り返ると、いつの間にか雨はやみ、空一面を覆っていたはずの厚い雲の間から、1つ、
また1つ、と光が差し込みはじめ、見事な天使の梯子をいくつも描いていた。

「あの時… みたいだな」
「うん… 私も思った。ばかちーとの水泳対決の日」
「あの時もひどいケンカ、してたよな…」
「懐かしいね…」
「今日みたいな日が来るなんて、あの時は思いもしなかったな…」
「…そだね。でもホントなんだよね…」
「ああ…」

2人はそっと手を繋いだまま、雨に代わって、光が降り注ぐ空をしばらく見つめていた。


* * * * *


6月中旬。土曜日 12:45

「はあっ、はぁっ、はあっ…」
息を切らせながら、作業着姿の小柄な男が、教会へと繋がる森の中の小径を1人、ゆらりと歩いていた。
おぼつかない足取りで、右手に持ったステンレス製の携行缶の重みに耐えかねるように右から左へ、
また右へとふらついているが、目だけはギラギラと異様にどぎつい光をたたえている。

「へへっ、お前ら… だけ… 幸せになろうなんて、そうはいくか… 俺の… 計画を… 全部…
ぶち壊しやがって…」

やがて、教会の建物の一角、ざわめく声が聞こえる窓の下に目立たぬようたどり着くと、男は缶の蓋を開け、
その中身をトクトクと周囲に撒き始めた。

「これぐらいありゃ、さぞ盛大にはじけるだろうよ…」
カラになった缶を足元に転がし、3m、5m…と窓の下から離れると、作業着のズボンのポケットをまさぐり
始める。やがて、右のポケットから銀色に鈍く光るオイルライターがあらわれ、男は右手の親指でその蓋を
「カチン」という音とともに開いた。


* * * * *


人いきれと化粧品や香水の匂いが混じり合った空気を入れ換えるため、教会の裏手にある新婦控室の窓は
大きく開け放たれていた。

大河は、肩を出したマーメイドラインの純白のウェディングドレスに、白いサテンのロンググローブ、
アップにまとめた髪を覆うベールを身にまとい、窓の近くに座って、挙式の開始時間を待っていた。
大河の父母の親戚への挨拶からようやく解放されたばかり、寝不足の少しぼんやりした頭でやれやれと
窓際の椅子に座り込んでいる。

大河のお茶の間デビューとそれに続く竜児との結婚話は、父母の親族に様々な波紋を呼んだが、どちらも
気っぷの良い地方で商売をやってきた一族、無事にことが収まったのを理解すると、大河の勇ましい姿や
これまでの頑張りを讃え、大河を、そして父母をホッとさせた。

今日の結婚式にも遠方から数多くの人達が集まってくれていて、まるでフランス人形のように美しい大河の
ウェディングドレス姿を褒めそやし、大河と並んで写真を撮りたがる人達が引きも切らなかった。
腰を落ち着けることができたのは、挙式の時間まであと15分というタイミング。今はおめかしした跡取り
息子である恵児に関心が集まり、ようやくフラッシュの嵐から解放されたのだった。

「結婚式がこんなに慌ただしいものなんて、思いもしなかったわ… ったく、感慨もへったくれも
無いわよね… ま、みんなお祝いしてくれてるんだから、贅沢言っちゃいけないんだけど…」

ふと、窓の外から、何かつぶやくような男の声が聞こえたかと思うと、風に乗って、鼻をつく刺激臭が
流れ込んできた。
「なんだろ? この臭い… 誰かいるの?」

椅子から立ち上がり、窓際に近づいたその時、大河は建物から少し離れたところに立つ、作業着姿の
小柄なやつれた男と目があった。

そこには、ずっと行方を探し続けていた逢坂陸郎の姿が、あった。

「クソジジイっ!!! なんで、ここに…?」
「よぉっ、久し振りだな。親切な誰かが、今日のことを教えてくれてな…」
そう言うと、陸郎は右手に持ったオイルライターに「ジッ」と火を付けた。目はうつろで、もはや焦点も
合っていないようにすら見える。

「ちょうどお前のいるとこだったんだな。じゃ、これは俺からの結婚祝いだ。せいぜい幸せになるんだな」
陸郎は意地の悪い笑みを浮かべると、大河の方に向かって、火のついたオイルライターを山なりに大きく
放り投げた。

「えっ…?」
ライターがふわりと浮かび、視界の中をスローモーションのように、ゆっくりと放物線を描くのを大河は
呆然と見ていた。この臭い… 窓の下にはおそらく大量に撒かれたガソリンが…

(だめ、ここにいちゃだめ、すぐに離れなきゃ…)
大河はそう思ったが、足がすくみ、振り返ることすらできない。

(みんなにも逃げてって言わなきゃ…)
背後からはこちらの様子など微塵も気付かない、賑やかな歓談の声が聞こえている。瞬きするぐらいの
短い時間の中でやらなければならないことを思いつくが、唇は凍りついてしまったかのように微かに
「みん…」
と発するのが精一杯。

狭くなった視界の中で、火のついたライターは放物線の頂点を過ぎ、重力に引かれて、緩やかな下降の
曲線を描き始めようとしている。
(だめ… もう落ち… 間に合わ… な…)

コンマ何秒後かに起こるであろう、恐ろしい光景を想像しながら、大河の脳裏に浮かぶのはたった1人の顔…
(りゅう… じ…)


* * * * *


ピシッ!
小枝を踏み折るような音と共に、視界の外から細身の男が飛び込んで来たかと思うと、腕を伸ばし、頭の
高さまで落下していたライターを “キン!”という鋭い金属音をたてて、軽やかにその手のひらに収めた。

そして、男が腕を振り上げた次の瞬間、手にしていたライターは一直線に空気を切り裂き、炎上に巻き
込まれないよう、よたよたと走り出していた陸郎の後頭部を直撃し、朝までの雨に濡れた、日陰の草地の
上に転がった。

「っ痛! な、なに? なんだ?!」
全く予想だにしていなかった衝撃に陸郎は後ろを振り返ると、思いもよらない光景に目を大きく見開き、
驚愕の表情を浮かべる。

「オイ、待てコラぁ!」
建物の影から大勢の男達が一斉に飛び出してきていた。
2人の若い男が再び走りだそうとした逢坂陸郎をタックルで押し倒し、その両脇を抱えて建物の方へ引き
ずってくる。残りはガソリンが撒かれたと思われる所に、揮発を防ぐ中和剤を大量に撒き始めている。
皆、一応、結婚式向けらしい服装をしているが、5分刈りやパンチパーマ、金のアクセサリーや白のエナ
メルの靴を身につけた者もいて、どこか堅気ではない風貌をしていた。

騒ぎに気づいた大河の父母、親族達が次々と窓際に集まってくる。

ライターを掴み取った男は、背が高く、細い身体にオールバックの頭、濃いサングラスを掛け、黒の
スーツに礼装用の白ネクタイを緩め、剃り込みこそ入っていないものの、いかにもヤクザという雰囲気
だった。連れてこられた逢坂陸郎の目の前に立ち、片手でそのアゴを掴むと、軽く捻り上げる。

「麻薬取締法違反、私文書偽造、恐喝、そして放火は特に罪が重いぜ。今度、シャバの空気を吸えるのは
何年? いや何十年先かね?」

その時、控室の入口からスタッフの恰好をした体格の良い男2人が「どいて、どいて」という怒号と共に
飛び込んできて、大河の父母と親族をかき分けたかと思うと、あっという間に窓から地面に飛び降りた。

「やぁ刑事さん、遅かったね。あんたらのお目当ての男はこっちで捕まえときましたよ」
細身の男は陸郎のアゴを掴んだまま、楽しそうに男達に声を掛けた。

「て、てめぇ、俺を誘い出して、ハメやがったなっ!」
逢坂陸郎は、若い男達に掴まれていた腕を、思いもよらぬ力で急に振り払うと、目の前の男の顔を拳で
殴りつける。男のサングラスがふっ飛び、草地のうえに音もなく落ちた。

「あー 傷害罪も追加だな。刑事さん、今ので懲役5年ぐらい追加ですかね?」
刑事と呼ばれた男達はそれに答えず、陸郎の腕を掴もうと手を伸ばしながら、長身の男を睨みつける。
「お前、一歩間違っていたら、大惨事だぞ」
「まぁまぁ、その時は真っ先に俺の身体が吹っ飛んでましたよ。こうして何事も起こらずに、身柄を
押さえられたんだから、いいじゃないっすか?」

たった1人、会話が耳に入らず、殴りつけた男の顔を信じられないという表情で見つめていた陸郎は、
「オマエ… その顔はまるであいつ… そんな、あいつにそんな…」
とだけ絞りだすと、刑事に腕を掴まれたまま、がっくりと膝から崩れ落ちた。

「刑事さん、さっさとぶちこんじゃってくださいよ。今回の件は貸しってことで、今度ウチで何かあったら、
大目に見てくださいよ」
地面に落ちたサングラスを拾って掛け直しながら、男はひょうひょうと話している。

「オイ、逢坂! 立て! 署で洗いざらい、話してもらうからな!!」
「待て、待ってくれ… 殺される… 刑務所なんかに入ったら、二度と生きて出られない!」
「黙ってさっさと歩け!」

窓の外で繰り広げられる光景を、大河と大河の母親、父親もただひたすら呆然と見つめていた。
全ての元凶、逢坂陸郎は、刑事と見られる2人の男に両腕を掴まれ、みっともないまでに泣き喚きながら、
森の向こうに急停止した黒塗りの車に乗せられ、あっという間に連れ去られていってしまった。


陸郎と入れ替わるように車から降りてきた、刑事の上役と思われる年配の男が、窓越しに所属と名前を告げ、
晴れの日を騒がせたことのお詫びと、容疑者逮捕の協力の礼を手短かに伝えた。

「あの、私には本当に何もお咎めが無いんでしょうか?」
ようやく眼の前にした警察関係者に少し怯えながら、大河の母が尋ねた。
「ああ… 逢坂陸郎を捕らえるために直接の接触を控えていましたが、あなたには捜査協力のお礼をきちん
とさせてもらわないといけないですね。上の、ずっと上の方からも失礼の無いように、と言われています」
その言葉を聞いて、大河の母親は卒倒しかけ、すかさず大河と父親に助けられた。

「ママ… もう大丈夫、大丈夫だよ。これで本当に終わり。ぜんぶ、全部終わったんだよ…」
母親の身体を支え、何度も繰り返し声を掛けながら、大河は湧き上がる疑問を押えきれずにいた。

…あのヤクザ風の男は誰なんだろう? あの男が身を挺して、放火を防ぎ、クソジジイを捕まえたのよね。
クソジジイはあの男の顔を見て、驚いていたけど、知り合いだったのかな…?

ふと気がつくと、大河の傍らにはケータイを耳にあてたまま、大粒の涙を目に浮かべた泰子の姿があった。
「約束、守ってくれたんだね。わたしたち、これでもう大丈夫だよ。ありがとう、あなた…」

大河が立ち上がって外を見ると、さっきの男が泰子と同じ様にケータイを構えながら、こちらを見ている。
窓の外からと泰子のケータイから微かに、同じ声が聞こえていた。

「約束? そんなことは知らねぇなぁ… いくつかのルートに情報を流しただけで、奴が来るかどうか
なんて分からなかったしな… ま、ウチの利益のために、うまく利用させてもらったと言っておくぜ」

男は泰子に向かって、さっき陸郎に殴りとばされたサングラスを少しばかり持ち上げる。
サングラスの下から、大河が愛する男と同じ三白眼があらわれた。

「っ!!」
大河は思わず息を呑み、そして、全てを理解した。
「やっちゃん、あの人、竜児のお父さんなんでしょ? 私、竜児呼んでくるから、絶対帰らないように
あの人に言って!」

大河はすかさず控室を飛びだそうとしたが、思いもよらぬ強い力で泰子に肩を掴まれ、その動きを阻まれる。
「大河ちゃん、ダメ。ダメなの約束なの。大河ちゃんのお父さんを探し出して、もう竜ちゃんと大河ちゃんに
迷惑を掛けられないようにする。その代わりに自分の存在は竜ちゃんには知られたくない、行方不明か死んだ
ままにしておくのが、あの人との約束なの、だから大河ちゃん、おねがい…」

普段のおっとりした泰子からは想像できない、強い呼び掛け。その言葉に大河も一瞬口をつぐんでしまう。
だが、正月に母親の家で聞いた、そして、父親を説得する際にも話したであろう、竜児の幼い頃の告白が
甦ってくる。それを聞かされた時、竜児が歩んできた道のりの険しさ、悲しみの深さに、身体中の水分が
無くなるかというぐらい泣いた。

…私はこんな思いをしてきた男を心の底から信じられずに、行方をくらませてしまった。なんてひどい女。
これから一生掛けて、自分がその空白を埋めると誓った。

だけど、竜児はひとりぼっちじゃなかった。やっちゃんだけじゃない、こうして力を貸してくれる親が
もう1人、ちゃんといたんだ。だから竜児にとって、父親を実体の無いものになんかさせない、いつか
生まれてくるかもしれない自分達の子供のためにも、たとえ親がどんな人間であっても、真実を知り、
その存在を心に刻みつけておかなきゃいけない…

「そんな約束、知らない! そんなのダメ。竜児だけ知らないなんて、竜児だけ救われないなんて
絶対にダメっ!!  私が、ゆるさないっ!!!」

大河は泰子の手を振り払い、窓際に駆け寄ると、男に向かってまっすぐ指を突きつける。
もし今、その手に木刀があったら、迷わず、その切っ先を向けていただろう。

「アンタ、3分間そこでジッとしてなさい! もし動いたら、追いかけて、必ずブチ殺すから!」

そう言うと男の返事も聞かず、控室を飛び出し、建物の反対側の新郎の控室に向かって駆け出した。


* * * * *


バンッ!

勢い良く開かれたドアの音に、新郎控室にいた竜児や園子と清児、親戚全員が驚いて振り返った。

「竜児っ、すぐ来なさい! アンタが見ておかなきゃいけないことがあるの!」
「おい大河、花嫁が息切らせてなんだよ? 泰子もどっか行ったまま戻ってこねえし… もうすぐ本番だぞ」
「るっさい、駄犬! いいからすぐ来い、走れっ!」
大河は最大級の虎の力で竜児の手を掴むと、もう一方の手でウェディングドレスの裾をたくし上げ、
ヒールが脱げるのもお構い無しの猛烈な速度で、控室を飛び出し、教会の裏の廊下を駆け出した。

「ちょ、ちょっとお前なんだよ、い、いてぇよ… そういえばさっき、そっちの方、騒がしかったよな?
なんかあったのか?」
「つべこべ言わずに走れ、しゃべると舌噛むよ!」

新婦控室の扉は、開いたままだった。
大河は竜児の手を掴んだまま、部屋に飛び込むと、竜児の後ろに回り、ドンっとその背中を窓の方へと
思いっきり押し出した。


* * * * * 


「竜ちゃん……」
泰子が泣きながら、顔をクシャクシャにして立っていた。お前、こんなところにいたんだ。
なんで泣いてるんだ? もうすぐ式が始まるのに… ほら、メイクがすっかり崩れちまって、ぼろぼろだぞ。

「竜児、窓よ、窓の外を見なさいっ!」
大河が外を指差しながら叫んでいる。
「何だよ? 一体なにがどうなっ… って、えっ…?」

窓の外に、オールバックの、一見してヤクザと分かる男が、ケータイを耳に当てたまま、立っていた。
その顔は、写真よりずいぶん老けているが、いつも見ていたツラ、そして自分と全く同じ三白眼。
人生の中で何度も呪ってきた自分のものと同じ目がそこにあった。

背後で、2人を追いかけてきた園子と清児が大河のヒールを手に、部屋へ飛び込んできた。
「園子、あの男まさか」「泰子の…」

大河がゆっくりと告げる。
「竜児の… お父さんだよ… 竜児のお父さんが全部終わらせてくれたよ… クソジジイはもう檻の中だよ」



ウソだろ…
死んだんじゃねぇのかよ、行方不明じゃねぇのかよ?
クソ親父が檻の中? 全部終わらせたってなんだよ? この男が仕組んだのか?

「竜ちゃん、これ…」
泰子がこわばった顔で、ケータイを差し出してきた。
混乱しながら、それを受け取るとゆっくり耳に押し当てる。

「気合いの入ったいい嫁じゃねぇか。会うつもりなんてなかったが、顔を見せたのはそのお嬢さんに
免じてだ。今さら罪滅ぼしなんてつもりはねぇが、何か言いたいことがあるなら、聞いといてやる…」

ケータイから聞こえてくるのは、今まで耳に触れたこともない声。
そんな人間を相手にいきなり、父親だ、話せ、って言われても………

…そうだ。オマエは一体、誰なんだ? どうやってクソ親父を見つけた? 何をした? 
いや違う… そんなことより… そうだ泰子、泰子のことだ。
泰子はオマエがいなくなったおかげで、16才の時から苦労して、実の親にも十何年も会わずに、身体を
壊したりしながら、たった1人で俺を育ててきたんだ。泰子をそんな不幸な目に合わせたのは…

ふと、誰かの手が肩に触れたのを感じ、隣を見ると、涙を拭った泰子がにっこりと微笑みながら、
2度、3度と首を横に降っている。

(やっちゃんは、ちっとも不幸なんかじゃなかったよ…)
泰子の表情は、そう語っていた。

竜児の脳裏に、何度も聞かされた泰子の言葉が浮かんでくる。
『竜ちゃんが元気でいてくれさえすれば、やっちゃんはいつだって幸せなんだよ…』

昔は、いつもふざけて、大袈裟に言いやがってと思っていた言葉。
泰子は言葉通りに、ずっと、ずっと、そのたった一つだけを考えてきたんだ…

じゃ、じゃあ、俺は? 俺はどうなんだ?
こいつに顔が似たおかげで、人に怖がられ、誤解されて、傷ついて… いや違う、そんなことはもう、
どうだっていい…
じゃあ、俺はガキの頃から、誰からも見捨てられないよう、行儀良くして、必死に家事を覚えて、 
メシ作って、掃除なんか… いや、それも関係ない… 

だったら、俺は… こいつに… 一体何を言えば…


* * * * *


「竜児!」
眼前に立つ大河に名を呼ばれ、ハッとその顔を見る。
鋭い言葉とは裏腹に、大河も優しく微笑んでいる。
そして大きく1つ頷くと、背伸びをして、手袋を外した手をこっちに向かって、まっすぐ伸ばしてくる。

吸い寄せられるように顔を近づけると、大河の指先は自分の眉間にそっと触れ、2度、3度と優しく撫でた。
大河の細い指先から柔らかな温かさが伝わり、ゆっくりと頭から身体全体へと広がっていくのを感じる。
しかめていた眉根が緩み、いからせていた肩の力が、すうーっと抜けていく… 全身が柔らかく、穏やかな
力に包まれていく。

幼い頃から、自分は他の人とは違うといつも思っていた。
人と同じことを望んじゃいけないと思っていた。
だって、自分には欠けているから。あるはずのものが無いのだから。
状況を受け入れ、拒否することなんかありえなかった。
求められることに応えさえすれば、自分の居場所を確保できると思っていた。
傷ついても、じっとそれを見つめているヒマなんて無い。そういうものなのだと思っていた。

でも、ある人の傍らにいたい、そう思ってから、何かが変わり始めた。
その人を強く求めるようになってから、もっと大きく変わった。
痛みを、傷を、あるがままに受け止めようと思ってきた。

でも、もう、いいのか…? 良かったのか… 俺はもう… 誰かと違っているなんてことは無いのか…?
ひょっとして、ずっと前からそうだったのか…?

ふと気配を感じて、顔をあげると、控室にいる全員がこっちを見て、微笑んでいた。
じいちゃんも、ばあちゃんも、大河のお母さんも、お父さんも、恵児君も、親戚たちも、今日から身内に
なる大勢の人達が、皆、自分を見て、微笑んでいた。そして表の聖堂では大勢の仲間達がいる。

振り返った時、自分の居場所の確かさに気付く。
そうだ… これは俺自身と、そして大河と2人で築いてきたんだ。
離れていても、傍にいても、俺達は互いを想い合い、支え合い、ずっと立ってきたんだ。
だから、もう、淋しさなんて、どこにも…

窓の外に立つ、父親の顔を再び真っ直ぐに見据えた時、身体の奥から言っておかなければならない言葉が
ゆっくりと浮かび上がってくる。


* * * * *


何かを察したかのように、竜児の耳にケータイから再び男の声が飛び込んでくる。
「特に話すことはねぇようだな。もう切るぞ。オマエとは二度と会わねぇからな。嫁と母親を
ちゃんと幸せにしてやらなかったら、オレが承知しねぇぞ… じゃあな…」

「あ…」
竜児が言葉を返す暇も与えず、男はケータイを切ると、踵を返して、森の中へと歩き出した。
そして、まるで敬礼をするように、右手の指先をこめかみに当てると、地面に向かって、
すーっと優雅な半円を描いた。

“あばよ、坊主。元気でな” 
竜児の父親は、背中でそう語っていた。

竜児は、泰子のケータイを床の上に落とすと、それを追うようにゆっくりと膝をついた。
「親父… いたんだ… 本当に… なんだよ今頃… 今までなにやってたんだよ。何のこのこ出てきて、
俺達のことを助けたりしてんだよ…」

心の奥底からこみ上げてくる、熱いものを拭いもせず、竜児は泣いた。
ただ、ひたすらに泣いた。
今まで、ずっと、ぽっかり開いていたと思っていた穴を満たしてしまうかのように、涙を流し続けた。

「馬鹿野郎、1人でカッコつけやがって… “ありがとう” ぐらい、言わせろよな…」


「竜児…」「竜ちゃん…」
大河は泰子の手を引いて竜児のそばにひざまずかせ、2人で竜児の身体をそっと優しく抱き締めた。
3人は長い間、ずっと、そのままだった。


* * * * *


結婚式は当初の予定時刻から20分遅れて始まった。
列席者達が一体どうしたのか?とざわめきだした頃、両家の親族が入ってきて、
最後に新郎がバージンロードの終点である、祭壇の前に立った。

「ねぇ祐作。高須君、いやお母さんも他の親族の人もなんかみんな、目が腫れてない? 顔は笑ってるけど…」
亜美が隣に座る、眼鏡を掛けた幼馴染みにささやいた。

「なんかあったんだろ、裏で。さっきちょっと見たら、黒塗りの外車が何台か止まってたし」
「なによそれ? あんたなんか知ってるんでしょ? 教えなさいよ!」
「それより、ほら見ろよ、高須の顔。俺は出会ってから、親友のあんな表情を見たことがないぞ」
「あ、ほんとだね。あーみん見てよ。目つきはいつもと変わらないのに、なんか凄く晴れ晴れとしてるよ」
「……ホンッと、いいツラしちゃって。生まれてからずっとためてた便秘が解消しましたーって感じよね」
「なんつー例えを。ほら亜美っ、始まるぞ!」


* * * * *


あの扉の向こうに、大河がいる。
父親に手を引かれ、純白のウェディングドレスに身を包んだ大河が、もうすぐここに来る。
目の前の、真っ直ぐなバージンロードを歩いて、大河が俺のところにやってくる。

高校2年の春、大河に出会ってから、本当に色々なことがあった。

尻餅をついた新学期の廊下、机と椅子が舞う夕暮れの教室、深夜のチャーハン、一緒に蹴っ飛ばした電柱、
どしゃぶりのプール、みんなで見た海辺の花火、河原で大騒ぎしたバーベキュー、はぐれちまった夏祭り、
駆け抜けた校庭、台風直撃の菜園、図書館での雨宿り、一緒に見上げたオリオン座、ぬいぐるみを着て踊った
ダンス、吹雪の中の急斜面、でこぼこコンビのチョコレート売り、小雪舞う川の中へのダイブ、大ケガの嘘、
からっぽのマンションの部屋、卒業式での再会、弁財天国で撮った記念写真、駆け回ったクリスマスイブ、
カウンター越しに掴んだ細い手首、想いをぶつけ合ったアパート、2人して眠りこけたタクシーの中… 
そして、長い時を共に過ごした高須家の8畳間と、会話を重ねたベランダとマンションの窓辺…

心が千切れそうなほど苦しいこともあった。でも、気がおかしくなるほどの喜び、仲間達との心からの笑顔、
泰子と3人での平穏で満ち足りた時間。心から愛おしい、何よりも大切な、守りたいという気持ち。
じいちゃんとばあちゃん、父親にも会えた。新しい家族や親戚も増えた。その全てをあいつがくれた。

大河、これから始まるんだよな。俺たちはまた、再び。
ずっと永遠に、傍らに並び立ち、どこまでも一緒に歩いていこうな。

「それではみなさん、新婦の 入場です」
外国人の初老の神父がたどたどしい日本語で、式の始まりを告げた。
パイプオルガンの荘厳な音色が聖堂いっぱいに鳴り響き、2階のバルコニーに並ぶ聖歌隊が祝福の賛美歌を
高らかに歌いあげる。

教会の扉が左右に大きく開かれると、やわらかな光が竜児をめがけて、一直線に差し込んできた。

そして、光の向こうから天使があらわれ、満面の笑みを浮かべたまま、
竜児に向かってゆっくりと歩きだした。


― fin ―


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