「じゃ、行ってきます」
「忘れ物は無い?」
「うん、大丈夫。今日は授業無いから」
「昼ご飯はいらないのね?」
「生徒会があるからね」

そう言って玄関を出る。外は春らしい柔らかい日差しに包まれている。絶好の新学年日和というものがあれば、たぶんこんな天気なのだろう。

門を閉じて、家を見上げる。「村瀬医院」。看板通り父親が経営する病院だ。特に疑問を抱くでもなく将来は継ぐつもりなので彼は勉強だけはきちんとしている。幸い進学校で上位の成績に食い込めているから、医大に進むことに問題はないだろう。
特にグレて両親に心配を掛けることもなかったし、順風満帆の高校生活と言える。

ただまあ不満はある。2年間の高校生活で、未だ彼女らしきものができていない。仲のいい女の子は居て、ちょっと気にはなっているし先方も気にかけてくれていると思うのだが、まだ一歩踏み出すことが出来ない。
それっぽい話をしてみようかなと思ううちに3年になってしまった。彼女にも受験勉強もあるのに、これから交際などというのも迷惑かもしれない。

それにしても、恋、というものは、いったいどういうものなのだろう。

情報化社会とやらのおかげで、恋愛話を見聞きするのに不自由はしない。本にも、雑誌にも、映画にも、音楽にも、漫画にも、ネットにも恋愛話は溢れている。ただ、と彼はため息をつく。自分の生の肉体に感じるものとして知ることが出来ない。

友達にこんな話をしたら笑われるだろう。彼は学校では堂々たる理系として通っている。その彼が恋愛とは何かに心を砕いているというのはどうだろう。別に理系だから文系的なものに染まってはならないということなど無いと思う。
技術者科学者が無趣味無感動などというのは偏見だと思うし、実際彼は小説や映画が好きだ。

だが、恋愛がわからないのだ。胸が痛い、というフレーズはそれこそ溢れるように使われている。本当に痛いのだろうか。それとも比喩表現なのだろうか。
キスが甘いとか酸っぱいというのはきっと比喩表現だろう。でも、これほど繰り返し使われるのはなぜだろうか。キスの味は特別なのか。とろけるような恋とは、どういうものだろうか。

自分でもそんな恋に落ちることが出来るだろうか。

空を見上げる。電線の上に2羽並んでいる雀は恋人同士だろうか。これからつがいになって子どもをそだてるのだろうか。小鳥に出来ることすら、自分にはまだ出来ない。いつか、突然恋に落ちる日が来て、相手に告白をすることになるのだろうか。
それとも、気になっている女の子と付きあい始めたら、自然に恋に落ちるのだろうか。

そんなことを考えるうちに、新学年初日の登校は無事終了した。考え事をしていたせいか、あっという間に校門にたどり着く。新たな気持ちで迎えるべき日の登校時に考えた内容が「彼女ほしい」というのは、どういうものだろう。


◇ ◇ ◇ ◇ 


校庭脇の道を制服姿の生徒に混じって歩きながらため息をついた。ソメイヨシノの花びらもすっかり落ち、校庭の端に植えてある山桜が辛うじて始業式に華を添えている。そういえば花も生殖器だ。桜も恋の季節か、などと考えていると、

「わははははははははっ!」

突然の爆笑に驚き、思わず後ろを振り返った。

振り返ったのは村瀬だけではない。その場にいた生徒達は一斉に振り返り、一様に言葉を飲んだ。30メートルほど後方、ちょうど校門の真ん中で学生服の男が天に向かって笑っている。

なんだ?と、見覚えのあるシルエットに首をひねっていると、校門近くの生徒達が一斉に後ずさった。天を仰いで笑っていた学生服が顔を戻したときに、間近で正体を見てしまったのである。学生服姿の高校生というのは仮の姿。
してその正体は、1000の魔将軍を配下にしたがえる魔王の生まれ変わり。

「高須じゃないか」

同学年の有名人に思わず独り言を漏らす。

「大橋高校用語の基礎知識」なる本があれば「ヤンキー高須」という言葉が、必ず掲載されているだろう。釣り上がった眼。ほの青くギラギラ光る白眼の中心にある小さな瞳。見るからに狂おしい三白眼。
比較的長身の高い位置から繰り出される狂眼は、昨年の半ばごろまでは生徒達を無闇に震え上がらせていた。なにしろ怖い。どう考えても狂気に彩られた思考が目玉の向うの脳髄を支配しているとしか思えないのだ。
素顔の高須竜児は母子二人の家庭を支える大黒柱の母のために掃除洗濯炊事なんでもござれの孝行息子だという話だが、そのような感動ストーリーを軽く凌駕する見た目で、高須骼凾ヘ全校生徒を震え上がらせていた。

その状況が一変したのが昨年の生徒会長選である。これも大橋高校生徒で知らない奴はモグリと言われる「手乗りタイガー」と組んで会長戦に打って出たのだ。しかし、全校を恐怖のどん底に放り込んだのも最初の数日。
実はグレた友達を更生させるために一世一代の大芝居を打っているのだという噂がいつの間にか広がっていた。つまりそういうことなのだ。怖いのは見かけだけで、高須骼凾ヘ友達のためなら一肌も二肌も平気で脱ぐ熱い男だった。
以来、高須竜児を無闇に怖がる生徒はいなくなった。村瀬本人もその生徒会長戦に深く関わっており、あるとき一本の電話を彼にかけたことから、以降別クラスながら仲がいい。

というわけで、高須を恐れる生徒は、あまりいなくなったはずだが。

校門周辺の生徒は恐怖にすくむ足にその場から逃げることもできずにいるようだった。天に向かって笑うのを止めた高須は、今度は笑いをこらえるべく口の辺りを片手で抑えて軽くうつむいているのだが、その姿がまた尋常ではない。
上目遣いに校舎の辺りを見つめる、触れれば切れるような目、こみ上がる笑いを抑えきれずに裂けるように広がった口。これから命を奪う数百人の若い男女を思って笑いをこらえきれない魔王その物といった風情である。

やや離れている所に居る、仲のいい(つもりの)村瀬ですら、嫌な汗をかいて苦笑しているのだ。近いところにいる生徒の恐怖はいかばかりか。頭で知るのと目で見るのは違う。校門周辺の生徒たちは、動かぬ足を必死で説得しながらそう噛みしめていることだろう。

校門に近いところから扇形に広がって行った恐怖のさざ波は、振幅を弱めながら村瀬の横を駆け抜けて校舎に入っていなかった生徒達全部を飲み込んでいった。そしてたっぷり十秒置いて恐怖の第二波が、今度はうめき声の形で生徒達の間を駆け抜ける。
高須の横で困ったように顔を抑えてくねくねと身をよじっている、少女の正体に気づいたのである。村瀬も驚いた。




死んだはずだよお富さん。

居るはずのない女だった。1年生の時にはその美貌に惑わされた数多の男子生徒の告白をはねつけ、獣のような凶暴さでクラスメートを震え上がらせ、噂によれば写真部を壊滅させ、2年に上がってからは芝居とはいえヤンキー高須と組んで学校を恐怖のどん底に叩き込んだ挙句、
全校生徒の心の兄貴と言われた生徒会長(当時)、狩野すみれに木刀一本でガチの殴り込みをかけた狂気の少女、逢坂大河。人呼んで手乗りタイガー。あろうことかバレンタインデーの翌日、授業中に高須竜児と駆け落ちエスケープを決め、
その後再会を約束して転校していったと言われる破天荒美少女。その、居ないはずの暴虐の女王が、高須の横で鞄を斜めに掛けて、まるで恋に落ちた少女のように赤い頬を手で抑えて体をくねらせているのだ。いや、確かに恋に落ちていると言う噂だし、間違いなく少女なのだが。

「逢坂ってあんなだったけ?」

村瀬を含めた多くの生徒が困惑している。

白昼に竜と虎を同時に見た思いでいる校門付近の生徒達をよそに、当の二人が演じているのは

「ねぇ竜児、もうやめてよ」
「おう、すまねぇ…くくっ…もうちょっとだ…」
「みんな見てるよ。恥ずかしいよ」
「いや、なんか…くっ…お前とまた1年間通えるかと思うと…くくっ…ついニヤけちまって」
「ああん、どうしよう…恥ずかしくて死にそう」

ヤンキー高須とか手乗りタイガーといった言葉とは800光年くらい離れた会話である。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「たいがーーーーーっ!」

校門でいつまでもニヤニヤ、クネクネしながら周りをびびらせていた高須と逢坂の迷惑行為に割って入ったのは、校舎の入り口から一直線に駆けて来る少女の声だった。振り返る村瀬の横を小麦色の少女が疾風のように駆け抜けていくのと、

「みのりーーーーーん!」

逢坂が声を上げて飛び出すのが同時だった。丁度中間で衝突した二人はそのままガキッと抱き合い、抱き合った姿勢のままでぴょんぴょん跳びはねる。

「みのりんみのりんみのりーん!」
「たいがーったいがーっ」

あっけにとられていた生徒達は、ようやく自分を取り戻すと、往来の真ん中でおいおい泣きながら互いの名前を呼び合う少女二人を慎重に避けて校舎のほうに向かい始めた。今日は新学年初日。クラス割りやらなんやら、それぞれに気になることはあるのだ。
いつまでも寸劇に付き合っているわけにはいかない。

村瀬も校舎に向かおうと歩き出して、ふと立ち止まる。と、そのまま回れ右。校門でそこらの生徒を2,3人素手で引き裂きそうな凶悪な顔をさらしている高須に向かって歩き出した。たぶん村瀬と高須は国立選抜理系クラスになるだろう。
知らない仲じゃないんだから、挨拶くらいはしておこう。ちょっと怖いが、筋道を立てて考えた結果によると、あれは生徒をあぶって食ってやろうとしている顔ではないはずだ。ここは自分の推論能力を信じよう。もし間違っていても、二つに引き裂かれることはないだろう。
希望的観測だが。

抱き合ったまま、おいおいと泣き続けるソフトボール部の部長と手乗りタイガーを横目に通り過ぎて、校門の真ん中に仁王立ちしてむやみに登校中の生徒達をびびらせているヤンキー高須に

「よっ」

手を挙げる。

「おう、村瀬じゃないか。どうした?」

間近で見ると、確かにすごい迫力だった。唇の端はにぃぃとつり上がって、どう見ても悪いことを考えていますよねと言いたくなる。おそらくこれは笑みなのだろうが、残念ながら多くの人はこの笑みを怖がるだろう。
そしてなにより、ほの青い白目の中でどろどろとした狂気を燃やす小さな瞳。怖がるなと言う方が無理だ。話に寄れば、街の不良も高須からは目をそらすらしい。さもありなん。




つり上がった凶眼を向けられてどっと背中に嫌な汗をかきながら、村瀬はようやく

「『どうした』じゃないだろ。逢坂さん転校せずに済んだんだな」

首を振って例の二人のほうを指す。高須は(おそらく)嬉しそうに(たぶん)笑って、

「おう、俺も転校したと思ってたんだけどな。今朝突然帰ってきたんだ。まったく驚かせやがって」

後半は独り言。村瀬のほうは、「驚かせやがったのはお前のほうだ、さっきの爆笑は何だ」、と言いたいところをぐっとこらえて一言

「そうか」

と、相づちをうつ。逢坂とソフトボール部の部長女史はようやく抱擁をほどくと、今度は往来の真ん中で敬礼を交わしている。と、思ったらまた抱きついて泣き出した。あの二人は仲がいいとは聞いていたが、どうやら胸の内に抱えている感情の量も、二人とも人一倍豊からしい。

「転校じゃなくて、正式に進級してうちの高校に通うんだよな」
「おう、そう聞いている」
「よかったじゃないか」
「ああ、よかった。おう、ありがとうな」

満足そうに呟いた高須が我に返って村瀬の言葉に礼を言う。いや、と手を振ったところで

「村瀬に高須じゃないか。こんなところで立ち話か。感心しないぞ」

二人に声をかけてきたのは朝っぱらから優等生風を笑顔で振りまく現生徒会長、北村祐作。おう、と手を挙げる高須の横で村瀬が指さした先を見て、元々丸い目をいっそう丸くする。

「逢坂じゃないか!」

声が聞こえたのか、部長女史と抱き合って泣いていた逢坂がぴたりと動きを止めた。振り返ると今度は満面の笑みで北村に両手をぱたぱた振る。と、思ったら今度は顔を押さえて慌てふためきだした。
さきほどからめまぐるしく変化する状況に村瀬は置いてきぼりをくらいそうだが、どうやら涙でぐちゃぐちゃの顔を見られるのが恥ずかしいらしい。

高須は苦笑いすると

「北村、ちょっと待っててくれ」

そう言い残して逢坂に駆け寄っていった。

ハンカチを取り出して逢坂の涙をふいてやり、鼻のあたりを拭っている姿は実にかいがいしくて、恋人と言うよりは親子に見えなくもない。ようやくOKが出て北村が歩き出す。逢坂も、高須も、北村も満面の笑みだが、村瀬はちょっと困惑していた。
今のは何だ。逢坂はぐちゃぐちゃの顔を北村に見せたくない理由でもあるのだろうか?いや、逢坂が好きなのは高須だという話だ。なにしろ駆け落ちまがいのことをしたのだから。それに逢坂と北村に何かあるとして、なぜ高須は笑っている?

まぁ、勘ぐっても仕方がないが。

2−Cで仲良しグループだったらしい逢坂、部長女史、高須、北村の4人は、逢坂の転校取り消しを祝って楽しげに話をしている。そこに一人、また一人と旧2−Cの面々が登校しては驚愕の声をあげて参加してくるものだから、いつの間にか結構な数の生徒が集まって、
逢坂を中心にわいわいと収集がつかなくなってしまった。集まってきた中にはずいぶんかわいい子や、噂の現役モデルまで居るものだから、華やかなことといったらない。関係ない奴まで集まってきて黒山の人だかりになりつつある。

きりがないし、先に行こうかと思ったところでようやく

「ああ、だめだだめだ。みんな。逢坂が戻って来たのは喜ぶべき事だが、高校生たる我々にとって今日は大事な進級初日だ。遅刻はいかん。校舎にはいるぞ」

北村が演説をぶって一団がのろのろと歩き出した。

村瀬も後を歩く。思い思いにグループを作って歩く生徒達の中で、逢坂と高須だけは距離感が他の生徒達と違う。ぴったりと、しかしベタベタしない程度に寄り添って歩いている。見ていると、距離を詰めようとしているのはどちらかというと逢坂のほうらしい。
おしゃべりをしながら、何度も横の高須を振り仰いでいるのは、少しでも長くその顔を見ていたいのだろうか。

優しい笑顔が浮かぶ整った横顔を見ながら、やっぱり女の子っていいなぁと村瀬は思う。あの二人は恋をしている。自分が知らない気持ちを、高須も逢坂も知っている。

恋に落ちるとはどんな気分か。ヤンキー高須に聞く自分の姿を想像して、村瀬は人知れず苦笑した。


◇ ◇ ◇ ◇ 


クラス分けはおおよそ予想通りだった。

村瀬、北村、高須は国立選抜理系クラス。よろしくな、よろしく、おう、の挨拶をあらためて交わして、残るところ一年の高校生活に想いを馳せる。気になる彼女は逢坂と同じく国立選抜文系クラス。まぁ、いい。
2年の時も別クラスだったが、どうせ放課後は毎日顔を合わすのだ。それにしても、ミュージシャン志望だとか言ってたが、勉強と両立するのだろうか。

講堂で始業式を済ませ、戻ってくる頃には新しいクラスもどうやら落ち着いてくる…はずなのだが。どうも空気が落ち着かない。クラスメイトはそわそわした雰囲気を払拭出来ないでいる。それもそのはず、一番落ち着いていないのは

「君たちはいよいよ高校3年生ということで、受験………なわけだが、これからの一年というのは結構長い。特に夏休みや冬休みといった長期………の休みでリズムを壊す者が居る。知っての通り…ああ、その。なんだ」

担任教師その人である。

三年生で一番成績のいいクラスの片方を任されるくらいだから、ベテランで落ち着いた数学教師なのだが、どうもリズムが悪い。初めは体調でも悪いのかと思ったのだが、少し時間が経ってそうでは無いと気づいた。
気づいたのは村瀬だけではなく、どうやら生徒の三分の一くらいが原因に思い当たっているらしく、教室の廊下側で時折体を小さく震わせている生徒のほうを皆が気に掛けている。

高須である。

この男がどういう訳か教師が話している間中、口を押さえながら狂おしい目を教師に向けているのだ。村瀬の席からははっきりと見えないのだが、どうやら口許には嫌らしい笑みが浮かんでおり、それを押し殺すのに必死のようだ。
が、慌てて口を押さえたり身じろぎをしたり、時には小さな声で「くく」と忍び笑いを漏らすものだから、つい担任としては目をやってしまう。その度に、目が合い、うっと、言葉に詰まってリズムを狂わせているのだ。

「ああ、高須君。キミ、さっきっからどうかしたのかね」

たまらず注意した担任の顔は、すでに汗でびっしょり。注意された方はびしっと背筋を伸ばして

「すみません、なんでもありません」

と殊勝に一言。一瞬教室の注目を浴びるものの、前の席の連中はあわてて目をそらす。教師のほうも、注意したくせに

「そうか、なんでもないか」

などと自分からお茶を濁して目をそらす始末で、結局リズムがガタガタになったまま終わりのチャイムを迎えてしまった。この後はホームルームだからそのまま居ればいいものの、担任は現場を押さえられた間男のようにそそくさと職員室へと去っていく。

教師無き教室で、恐怖の大王につかつかと歩み寄ったのは、例によって空気を読めない優等生北村。いきなり

「高須、どうした。らしくないぞ。授業中に何嬉しそうに笑ってるんだ」

などと口走って周囲に衝撃を与える。嬉しそうな顔だったのか、あれは。

「いや、すまねぇ。それが…」

おそるおそる歩み寄った村瀬が聞いたのは、赤鬼の衝撃の告白だった。

「また一年、大河と通えると思うと、嬉しくて」

してみると、裂ける程口を広げ、顔を赤くし、目の玉をひんむいて机が逃げ出しそうな勢いでにらみつけているこの顔は、喜びの顔なのか。名の通った彫刻家の手による不動明王のような顔だが、そうなのか、嬉しそうなのか…とおもっていたら、
いきなり高須が顔を上げて村瀬をにらみつけた。

「うわっ」

思わず声にだして後ずさった村瀬に

「あんまり見るなよ、照れるだろう」

という顔は、本当に照れているらしい。それにしても、嬉しすぎてベテラン教師をびびらせるような男と同じクラスで、今年受験戦争に立ち向かえるのだろうか、と村瀬は不安を覚える。いい奴なのだが。


◇ ◇ ◇ ◇ 


チャイムとともに戻ってきた担任は、高須の顔を見ずにぺらぺらと話を進めてクラス委員長の選出を行った。予想通り、北村がいきなり立候補。対立候補の居るわけもなく、国立選抜理系クラスのクラス委員長は北村になった。
何が面白くて自分から委員長になったりするのだろうか。こいつもいい奴なのだが、時々頭がおかしいのではないかと思うことがある。テンションが自分と違いすぎる。

クラス委員長を選出すると、担任は後の仕事を全部北村に押しつけてしまった。手際がいいところを見ると、職員室で誰かに相談して来たのかもしれない。相談に乗った先生はさぞかし株が上がったろう。

教壇に立った北村は、さすが長いつきあい、高須の顔にびびることもなくテキパキと仕事をこなしていく。その間も、高須は時々口を押さえては背中を振るわせていた。

村瀬は自問する。嬉しいんだよな。あれ。


◇ ◇ ◇ ◇ 


始業式の日は半日で終わる。LHRが終わると担任は一言二言しゃべってその場を締め、北村の号令が済むとそそくさと教室から去っていった。きっと今年のクラス運営方針の立て直しを行うのだろう。ベテランのプライドも派手に崩れ去ったことだろうと、
村瀬は同情を禁じ得ない。

がやがやと騒がしいクラスメイトは、今年一年を一緒に過ごす顔を探りつつも、それぞれに忙しそうだ。部活に顔を出す奴、友達と遊ぶ約束のあるやつ、塾に行く奴。3年にもなれば、あらかた用事のあるやつばかり。村瀬とて暇ではない。いや、用はないのだが

「村瀬、生徒会だ。行くぞ」
「ああ」

生徒会長からお呼びがかかる。進級初日から生徒会でもないと思うが、きっと生徒会長北村祐作はこう出ると思っていたので、今日の活動は織り込み済みだ。ただ、弁当を持ってきていない。早く終わることを願うばかりだが、

「今日は一年で言えば元旦に当たる節目の日だ。活動方針を決めるから長くなるぞ。弁当がないならパンを買っておけよ」

会長様の心強い声に気落ちする。まあいい。面倒な事ばかりじゃない。生徒会室に行けば彼女に会える。そうそう、人生塞翁が馬だ。気持ちを切り替えて鞄をひっつかんだところで教室の空気がざわりと粟立った。

なんだろう、と見やると入り口の所で小さな女の子が、頭だけつき入れてきょろきょろとこちらをのぞき込んでいる。

逢坂だった。

根は善人らしいヤンキー高須と、これから1年同じクラスで過ごす。という事実と何とか折り合いを付けようとしていた生徒達は、手乗りタイガーの来襲に対応できないまま、凍り付いてしまった。
恋に落ちて丸くなったと期待されるものの、彼女が背負っている伝説のすさまじさは生半可なものではない。並の高校三年生など瞬間冷凍できる。

きょろきょろしていた逢坂は突然村瀬のほうを見てぱっと明るい顔をすると、目を細めて手をひらひらとかわいく振る。ぎょっとする村瀬の横で

「やぁ、逢坂。高須ならそこだぞ」

北村が指さす。なんだ、自分じゃなかったのかと、意味なく胸をなで下ろす村瀬など目に入っていなかったろう、逢坂は北村の指した方向をみやって、またぱっと顔を明るくした。高須は席に座って顔を赤くしたまま、かわいく手を振っていた。似合わないからやめてほしい。

事態の推移を見守る大橋高校自慢の生徒達の前で、逢坂は頬を押さえるとその場でじたばたと足踏みをしながら上体をクネクネとひねらせるという器用な事をし始めた。恥ずかしいらしい。

何が?と村瀬はまたもや自問する。

高須と会うことが恥ずかしい訳ではないだろう。なにしろ今朝は一緒に登校していたし、並んで歩く姿は幸せそうだった。では、人に見られるのが恥ずかしいのだろうか。えええええ?そもそも廊下を歩くだけで人波が割れる女である。
いまさら人に見られて恥ずかしいでもないだろうに。

「村瀬、早くしろ。初日から遅刻は許されないぞ」

首をひねる村瀬を北村がせっつく。気のない返事を返して教室の入り口に向かうその前を、高須が歩いて行った。聞くともなしに二人の会話が耳に入る。

「どうした、大河?」

顔を赤くしてにらみつけているようだが、逢坂の表情からすると、あれはあれで高須の幸せそうな顔なのだろう。しゃべりはぶっきらぼうに聞こえるが、たぶん地だ。横を通るときに、逢坂の声が聞こえた。

「あのね、教職員室に呼ばれて手続きがあるから、今日は先に帰ってて」
「なんだよそれっ!」



大声に思わず振り返る。高須は顔を真っ赤にしたまま、いくぶん前屈み。ちょうど腰のあたりに見えない火鉢を抱えるような格好で逢坂をにらみつけている。目は血走って、瞳のあたりから火花でも飛んでいそうだ。
村瀬だけではなく、他の連中も振り返ったまま凍り付いたように身動きできないでいる。

「しょうがないじゃない」

手をよじりあわせたまま嫌々をするように体をひねる逢坂は

「私だって一緒に帰りたかったんだもん」

と、頬をふくらませてつまらなそうに言っている。

「だってお前…」

「村瀬、早くしろ」

二人の会話に聞き入っていた村瀬は、北村の声に我に返る。

「悪い」

慌てて追いついた村瀬に、北村は苦笑しながら

「逢坂も苦労しそうだな」

と、話しかけているとも独り言ともつかない。

「苦労?」

問いかける村瀬に

「あの二人、ああ見えて心を通じ合わせるようになるまでに結構つらい目にあってるんだ。その分なんだろうけど、高須が逢坂に抱く思いは深くて強いように思える。それはいいんだが、あれじゃわがままな子どもだな。去年と反対だ」

北村は楽しそうに応える。去年の二人の事をあまり知らない村瀬は北村に聞いてみるが

「去年は二人ともあんな風じゃなかったのか」
「そりゃ違う。あまりぺらぺらしゃべることではないが、しょっちゅうどたばたしてたよ。ま、内情を知らなかった俺たちは無責任に夫婦喧嘩くらいに思っていたけどな」
「そうか、そんなに変わったか」

結局は村瀬も独りごちるだけ。

人は、恋に落ちるとそんなに変わるものだろうか。自分の価値観や世界観、それどころか日常の振る舞いまで変わるもだろうか。ふと、そんな想いにとらわれる。それは、見るものすべてがバラ色になるという、あの話のせいだろうか。
草の花までが自分たちを祝福しているように思えるという、そう言ったことなのだろうか。

黙ってとりとめもないことを考えていた村瀬に北村が

「変わったさ。ああ、変わるよ」

と言ったのは、こたえたのか、つぶやいたのか。

村瀬はふと、全校生徒の前で大失恋をしてでも告白したいと願った、北村の恋に想いを馳せる。この、唐変木のような男も、半年ほど前は熱い恋に心を焼かれて誰にも言えずにのたうち回っていたのだ、と考える。
つらい片想いという恋に落ちた後、この男の目に世界はどう映ったろうか。それはゆっくりと色を変えたのだろうか。それとも、ある朝燃えるような色合いで北村の視界を彩ったのか。

いや、と村瀬は考えを推し進める。そうではない。北村は知らないはずだ。恋が叶う瞬間を北村は知らないのだから。では、と思う。やはり、高須は知っているのだ。恋が叶う瞬間、何が起きるのかを。北村も村瀬も知らないその瞬間を、高須と逢坂は目のあたりにしたのだ。

二人の周りで、世界はどんな風に色を変えたのだろう。

結局、村瀬はパンを買いそこねた。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「やあぁ、みんなそろっているだろうな」

扉を開けざまに少々乱暴な事を言うのは、先代を意識してのことか。北村が開けた扉に続いて村瀬も生徒会室に入る。2年生の後輩二人が挨拶をし、去年一緒に生徒会をやった書記の彼女がこちらをみて微笑む。どうやら村瀬が最後の一人だったらしい。

「ようし、では早速だが今年の活動方針を決めるぞ、記録をとってくれよ」

これも先代のまねだろうか、段取り上手なくせに北村がいきなり会議の開催を宣言する。

「活動方針だが、みんな何かアイデアはあるか。幸太、言ってみろ」
「北村先輩最近、狩野先輩に似てきましたよ。そうですね。急に方針といってもどんな事を考えればいいのかわからないです」
「偉大な先輩を目指せば、当然似てくるものだ。お前も俺を目指せ」
「嫌ですよ。僕は露出癖なんか持ちたくありません」

先代の生徒会長の妹にある2年生の狩野さんが、顔を赤くしている。その横で書記女史もクスクスと笑っている。

「男のくせに小さい奴だな。何でも呑み込む意気が必要だぞ」
「去年はどんな方針だったんですか?」

話題を変えようと手を挙げて聞く狩野さんに

「去年は『質実剛健』だ」

北村が答え、村瀬と書記女史がぷっと吹き出す。

さすが兄貴と誰もが思う方針だったが、生徒会活動方針を覚えている生徒がどのくらい居るのかはわからない。誰も感心など持っていない。誰に関心を持たれていなくても、生徒会は生徒に感心を持つのだと狩野すみれは、よく言っていた。

「いい方針だ。さすが狩野先輩は違う。さ、俺たちも先輩に負けない活動方針を決めないと笑われるぞ。村瀬。お前はどうだ。案はあるか?」

案などあるか、と苦笑する。が、ふと横に座っている彼女の事を想った。そして想った言葉がそのまま口をつく。

「そうだな、俺は『世界が一変する瞬間』を見たい」

活動方針としてふさわしいかどうかは、知らない。

(おしまい)







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