『北村君が振り向いてくれますように』

たぶん一番上等と誰もが言うだろう、金色の折り紙で作った短冊の裏に書いた、自分の精一杯きれいな字を眺める。悪くない、と思う。字は。

親に貰った万年筆のインクが乾いているのを見たときには驚いた。せっかくのお願いを書くのにボールペンやシャーペンでは話にならない。が、慌てて走っていった駅前の文房具屋のシャッターが下がりつつあるのを見たときには、驚いたでは済まなかった。

思わず悲鳴を上げてしまった。歩行者からは盛大な注目を浴びたが、おかげで換えのインクを買うことができたのだから、人の視線なんかどうでもいい。インクが買えて良かった。万年筆も捨てないでおいて、まあ良かった。あんな親がくれたものだけど。

お願いのほうは

「まぁまぁかな」

誰に聞かせるともなく独り言を漏らして、逢坂大河がため息をつく。

白い机に頬杖をついて、ため息を漏らすのは何度目か。誰もいないマンションのベッドルーム。天蓋付きのベッドの横の勉強机。せっかくの七夕の願い事なのに顔つきは晴れない。蛍光灯に照らされた横顔は柔らかな曲線がまるで精緻な人形のよう。
見開けばきらきらと輝くように美しい瞳も、今日は憂いをたたえている。

商店街で高須竜児と買い物をしていたときに、笹の葉が目についた。そうか、もう七夕か。笹を買わなきゃ、と思いつつも竜児と一緒の時に買うのがなんだか嫌だった。折り悪く学校では、いけ好かない川嶋亜美との水泳対決でイライラのつのる毎日。
おまけに対決の結果は本当に腹立たしいばかりで、しかもどこにも気持ちのぶつけようが無くて。こんなありさまで脳天気に笹を買うなど、いくら鈍犬相手でも恥ずかしくて言えたものじゃなかった。

なんだかんだと理由を付けて一人になってやっと買えたのが今日。急いで夕ご飯を食べて、さっさと高須家を去ってきたのだが、例によってと言うべきか、思った通りと言うべきか、駄犬のうるさいこと。
腹でも痛いのかとか、用があるのかと人のプライバシーをねちねち探りやがる。

蹴っ飛ばして黙らせてようやく帰ってきて、一緒に買ってきた色紙を前に、さぁノートで練習と万年筆のキャップを開けたのが7時半頃。ところがインクが空という体たらくで、なんだかんだでインクを買って帰ってきた時には8時半。しかも汗だくだった。

好きな男の子のお願いを、汗だくで短冊に書く女の子が居る?

早めのお風呂に入って体をきれいに洗って、ちょっと清めた気分にして。で、ミルクを飲みながらクーラーで体を醒してようやくさっぱりしたときには9時半過ぎ。それから、短冊を前に、苦悶すること30分以上。
そもそもお願いの文面は考えていたのに、いざとなるまるでうまく書けなかったのだ。

北村君と結婚できますように。

書けない。とても。いざ書こうとすると、心臓がどきどきして体中がカッとし、手が震えるのだ。北村君と。結婚。考えただけでクラクラする。結局、頭をかきむしり、アウアウと声を上げ、腸がちぎれるような想いで妥協して一文ひねり出すまで30分かかった。

疲れ切って机に突っ伏して、

「かなうといいな」

呟いた時は既に11時過ぎ。

あとは疲れに任せて心地よく眠れば済むはずだったのだ。それが、何をどう間違ったのか、気づけば1時近い。机の上は気持ちの迷いを映し出すような、書き損じた短冊の山。いや、途中までしか書けなかった、というのが正しいか。一言書いて。二の句が書けなくて。
あーうーと、うなって。無言で天井を眺めて。結局別の短冊にまた書き始める。いったいどこへ向かってハンドルを切っているのかわからない自分の心に、大河はまた一つ、ため息をつく。

そして目の前に散らばった短冊に力なく目を落とす。事もあろうに、その山のような短冊は、お向かいの家に住んでいる鈍感凶悪犬野郎の名前で埋まっている。

「竜児が」 どうなってほしいのだろうか。
「竜児と」 どうなりたいというの。
「竜児も」 どうしたいのかしら。
「竜児に」 どうしてほしいのよ。
「竜児へ」 届けたいものでもあるの?
「竜児の」 何かが欲しいとでも言うの?
「竜児、」 なによ。

思いあまって天井を振り仰ぐ回数も、今夜だけで数え切れない。横を見ればお向かいの竜児の部屋の電気もついているようで、たぶん今夜も、あのえぐい目の男は夜遅くまで勉強だろう。

「駄犬のくせに」

つい、恨めしさに大河は独り言。



いったい、自分は何を混乱しているのか。と、またもやため息。自分が竜児を好きだなんてあり得ない、と思う。ならば今目の前に物証として残っている混乱の跡にはどう説明をつければいいのだろう。どうして短冊に竜児の事を書こうなんて自分は思っているのだろう。

北村君の事を考えるとドキドキする。竜児のことを考えてもドキドキしない。
北村君と一緒にいると視界がピンクになる。竜児と一緒にいても視界はピンクにならない。
北村君に怒られるとしゅんとなっちゃう。竜児に怒られるとむかつく。
北村君に声を掛けるときには緊張する。竜児に声を掛けて返事が遅いとイライラする。

ほらみなさいよ、と誰に問われたわけでもなく呟く。

冷静に考えて、自分は竜児の事なんか好きじゃない。そりゃたしかにおいしいご飯は作ってくれるし、汚したらきれいにしてくれるし、毎朝起こしてくれるし、泣いたら横に居てくれるし、北村君の事は応援してくれるし、水着を直してくれたし、横に居ると息が苦しくないし、
川嶋亜美がちょっかいを出してきたときには頭に来たし、ずぇったい別荘なんかには連れて行かせたくないと思ったけど。それでも、竜児の事は、絶対に絶対に絶対に恋なんかじゃない。

横に居て欲しいだけ。

竜児の事は、絶対に恋なんかじゃない。だって、北村君の事が好き。本当に好き。もし、竜児の事が好きなら、自分は浮気をしていることになる。そんなの、許せない。と、思う。

「ったく、どうしてくれるのよ」

あまりの混乱に自分の心がわからなくて、わけもなく目頭が熱くなる。どうして北村君の事を星にお願いするのに、こんなに竜児のことでぐちゃぐちゃ悩まないといけないのだろう。全部あいつのせいだ。ぜったいそうだ。あいつが悪い。

ぽたり、と涙が机に落ちる。

なによ。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「おい大河、起きろ、遅刻しちまうぞ。体でも悪いのか?」

インターホンの前に立って竜児が舌打ちをする。きつい目を眇めてドアを焼き切る決意を固める…わけではない。困っているのだ。たいていチャイムを鳴らしたら起きるくせに、今日は返事一つしなかった。時間がないので仕方なく一人で戻って朝飯を食べ、
文句を言いながら大河の分をタッパに詰めたのがついさっき。起きられないなら仕方ない、ぎりぎりまで寝かせてやって大河の家で食べさせてやろうと思ったのだ。

なのに、今度も返事無し。確かに昨日の晩は遅くまで灯りがついていたが、だからといってこれはないだろう。ひょっとして体でもこわしたか。昨日は嫌に部屋に戻るのが早かったし。いやいや、元気だったぞ。そわそわしていただけで。
あれこれ考えても考えがまとまらず、竜児は頭をかく。

「あー、まったくもう!」

意味のない愚痴を残して、じりじりと気温が上がりつつある表に出て再度家に戻り、大河が泰子に預けていた合い鍵を持ってもう一度大河のマンションに戻る。出来れば使いたくなかった。いくら何でも許可無く同級生の女子、それもひとり暮らしの家に合い鍵で入るとは。

「おーい、大河ぁ!」

おそるおそる家に入る。いつかのデジャブ。違うのは、かび臭くないことだけ。大河の家のメンテは竜児がしっかりやっている。竜児が手をかけているかぎり、カビなんてあり得ない。日当たりの悪い高須家は別だが。

大河はリビングには居ない。となると、寝室か。リビングと寝室の間のドアをノックして声を掛ける。

「大河ぁ!寝てるのか?遅刻するぞ!」

返事がない。ここに来て、竜児は本当に心配になってくる。ほんとに病気だったらどうしよう。

「おい、開けるからな」

そう、はっきり言ってドアのレバーをおろす。レバーが立てる音にびくつきながら、寝室のドアを開ける。

「大河ぁ…おう。居るじゃねぇか」

居た。大河が居た。しかも起きている。天蓋付きの豪華なベッドの上にぺたんと座り込んで、入り口の竜児を見ていた。恨めしげに。

「どうした、大河」



そう言ったっきり、竜児も声を呑む。当たり前のようにガーゼ地の夏用パジャマ姿なのはともかく、髪はぐちゃぐちゃ。そして、「寝不足です」とはっきり書いてある目の下の隈。顔がぐちゃぐちゃに見えるのは、ひょっとして昨日の晩泣いたのか。

そしてやっぱり、大河は見ているのだ。竜児を。じっとりとした目で。上目遣いで恨みでもあるように。思わず、恨まれるようなことでもしたかと胸に手を当てるが、心当たりはない。
つい最近のプールでの事件でクラス中から冷やかされている大河はそれなりにストレスを浴びてぐったり疲れていたが、その恨みが竜児に向かってくることはなかった。その点、事件に至までの陰鬱な日々とは違う。

そもそも、大河がこんな目をすることは珍しい。恨みがあれば怒り、怒れば怒鳴り、殴り、蹴る女だ。こんなふうにじっとりした目で自分を見るなんては無いと思っていたが。

「なぁ、なんかあったのか?泣いたのか?」

図星だったらしい。大河が薔薇の花びらのような下唇を噛んだ。しかし相変わらず、無言。竜児は困り果ててしまった。このままでは大河に朝ご飯を食べさせる時間が無くなる。大河は燃費の悪い女だ、朝ご飯を抜けば午前中はふらふらだろう。
それどころか、このままだと二人とも遅刻だ。

困ってため息をつきながら、ぐるりと頭を回したときに、机の上の笹が目に入った。短冊が下げてある。机の上には散らかった書きかけの短冊。確か先週掃除したときには無かった。

「おう、あれ作って遅く…」

言い終わる暇もあらばこそ、大河がひぃぃっとも、ひぇぇーっとも、いぃぃぃっともつかぬ声を上げてベッドから飛び出し、短冊を竜児から守るように机に突っ伏す。

「見ないでよ!」

その剣幕に気圧される。そして、突っ伏したまま竜児を振り返ったその真っ赤な顔に、また言葉を失う。どうしてお前はそんなに命がけの顔をしてるんだ?嫌なことがあるなら、なぜ怒らない?なぜ、そんな、か弱い女の子みたいなまねをしているんだ?

何か言おうとして、ぱらりと机から落ちた短冊を目にする。そして今度こそ、今度こそ竜児はショックを受けた。書き終えることのできなかった短冊には、一言

「竜児」

と。

俺がどうしたって?竜児は立ち尽くす。ちょっと待て。大河。ちょっと待ってくれ。その机の上にある短冊は何だ。北村の事を書いていたんじゃないのか。お前は短冊に、俺の何を願おうとしたんだ。おかしい、おかしいだろう。
そう考えて、今度は竜児が自分自身の嘘に唖然とする。いやいや、確かに大河は何度かおかしな事があった。まるで、北村ではなく自分の事が…

「出てってよ!」

大河の悲痛な叫び声に我に返る。そして、読んでしまった。笹の葉につるされた2枚の短冊を。短冊に書かれた大河の言葉を。1枚は、『北村君が振り向いてくれますように』。そして、

「出てけ!」

大河の投げた枕が見事顔面に命中。

「す、すまねぇ」

ひとり暮らしの女の子、それもパジャマ姿の寝起きの同級生の寝室にいることを突如思い出して、あわてて退散する。それでも、2枚目の短冊の言葉が頭に焼き付いて離れない。寝室から飛び出し、広々としたリビングで独り呟く。

「なんでだよ、大河。なんでだよ!」

あまりのことに、竜児は混乱していた。なんでだよ、大河。

大河とて同じ。いや、混乱の度合いから言えば大河の戸惑いの大きさは竜児のそれとは比べものにならない。竜児は知らないことだが、その短冊を書いているとき、大河は独り誰にも知られることなく泣いていたのだ。

短冊には、その時の大河の気持ちを刻むように涙の跡が残っている。



『竜児のバカ』



(おしまい)




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