帰りの電車の中でずっと考えてたことがある。
ううん。もしかしたらその前からそう思っていたのかもしれない。
昨日の夜、竜児とやっちゃんの姿を見た時から、ずっと。

竜児の家の前、目の前にもう何度も昇った階段が見える。
私はもう、あの階段を上がらない、大河は昨日からずっと温めていた決意に火を付けた。
「夕食、家で食べてくだろう?」
今夜はとんかつにすると張り切る竜児の声が今の大河には辛く聞こえた。
「うん、着替えたら・・・行くから」
「おま・・・大丈夫かよ、家にはおふくろさんが」
大丈夫と大河はわずかに笑みを浮かべて竜児を見つめた。
なおも心配して家まで付いて来そうな竜児を大河は押し留め、マンションのエントランスへ向かって駆け出した。
マンションの入り口で大河が後ろを振り向くと、つい数秒前まで大河いた場所で竜児が心配そうにこっちを見ているのが見えた。
ごめんね、竜児。
大河は心の中でつぶやくと、最後に自分の持てる限りの記憶回路に竜児の姿を焼き付け、伸びたロープを引きちぎるようにエントランスのガラスドアへ飛び込んだ。
エレベーターが降りて来るまでの短い時間、大河は泣きたくなるのを必死に堪えていた。
少しでも気を抜くと涙がこぼれて来そうで、顔を上に向けエレベーターの階数表示をにらみつけた。
エレベーターを降りてから、玄関までの廊下がやけに長く、大河には感じられた。
可笑しい、こんなに家って遠かったけ?
見慣れた玄関ドアがどこか見知らぬ異世界へ繋がっている様にすら思えて、大河はドアノブを引くのをためらった。



大河は軽く深呼吸をして、もう一度決心を確かめるかの様にひとりうなづいた。
あれ?
大河の予想に反して、玄関は施錠されていた。
仕方なく鍵を取り出し、ドアを開けて入った家は静まり返っていて、人の気配がまったく感じられなかった。
「おかあさん」
リビングへ入りながら、居るはずの母親へ声を掛ける大河に帰って来たのは静寂だった。
・・・いない。
半分、ほっとしながら大河は窓際の椅子に身を任せると、昨日から放置したままになっていた携帯電話の着信を記録を見ていった。
その中から大河は留守番電話のメッセージを順番に再生し始めた。
耳慣れた電子音に続いて、聞き慣れたヒステリックな母親の声がスピーカーから漏れて、大河の耳に響いた。
最後まで聞かないで、大河は次へ次へとメッセージをスキップしていった。
「いい加減にしなさい・・・か」
何回、言われたんだろう、もういいよ、ママ。
大河が、再生を止めようと、最後のボタンを押した時だった。
今までとは違った異質の声が大河の耳を打った。
大河は始めて聞いた母親の本音に、目を見開いた。
私・・・ママのところに行っても良いんだね。
大河はそう思うと、そっと目を閉じて、母親の声を聞き続けた。
ほんの少しだけど、大河は心に安らぎを感じていた。
ふいに、メッセージが途切れた。
大河が不審を覚えた、次の瞬間、携帯電話から今までで最大級の音量が解き放たれた。
「もう、知らない、勝手にすれば!!」
とうとう逆切れした母親の大声の後に、付け加えられた子供のような捨て台詞が大河に笑みを与えていた。
私、帰るから、ママのところ。
ずっと、邪魔だと思われてきた自分が、こんなに心配されていたことに大河は気づかされた。
みんな周囲のせいにして、自分から何も変えようとしなかったことを後悔しながらも、まだやり直せることに大河は希望を抱いた。




「さて・・・と」
大河はおもむろに立ち上がると旅立ちの為の荷造りを始めた。
時間は限られている。
もしかしたら・・・竜児が様子を見に来るかもしれなかった。
今、ここで竜児を見たら、大河は決心が崩れそうで怖かった。
「急がなきゃ」
手近にあったかばんや手提げバッグを取り出すと、いろいろな物を詰めては取り出しの作業が繰り返された。
持って行ける物は限られてるのに、ついあれもこれもと詰め込みすぎて、かばんは大きく膨れた。
取り出した洋服一枚に竜児との思い出が詰まっていた。
クローゼットの中の一着が大河の目に付いた。
・・・これ、竜児が選んでくれたやつだ。
その時の様子を思い出し、大河はくっくっと喉を鳴らして笑った。
嫌がる竜児を連れ出して、出かけたブティックで何着も何着も試着して選んでくれた服だった。
大河は手を伸ばすとそれをハンガーから抜き取り、今着ていた服を床に散らした。
鏡の前で衣装を合わせていると、大河の耳元で「似合うんじゃね」と言った試着の時のぶっきらぼうな竜児の声が蘇り、大河は我知らず、服を抱きしめていた。
「りゅ・・・じ」
1分間だけ・・・たった1分だから。
大河は自分に泣くことを許した。




黙って行ってしまう自分を許して欲しい。
竜児ならきっと分かってくれる。
大河はそう信じて、書置きをしたためた。
今夜か、明日、きっと竜児はこれを見る。
その時の竜児の気持ちを考えると、大河の胸は張り裂けそうだった。
でも、これが本当の幸せへの道だから、だから、待ってて・・・竜児。
メモ用紙の最後に逢坂大河と書き印すと、大河は万感の想いを込めて椅子から立ち上がった。
寝室へのドアを開ける。
明かりはつけず、リビングから漏れる光を頼りに部屋の奥に足を踏み入れた。
カーテンの閉まる北側の窓。
あの窓の向こうに竜児が居る。
今頃、台所でとんかつを揚げてるんだろうな。
大河の足が窓へ向かいかけて、止まった。
その窓を大河は見つめた、始めは強い視線で、そして最後は柔らかい視線で・・・
バイバイ、竜児。
大河は住み慣れた寝室を後にしようとして、それに気が付いた。
それは椅子の背もたれに無造作に掛けられたままのエンジ色の制服だった。
もう、2度と着る事は無いんだ。
見た瞬間、大河は痛切に感じた。
大河がこれから取ろうとする行動はこの制服に別れを告げることだった。
私立の中学校で高等部への進級を断られて、仕方なく選んだ高校だったけど、そのおかげで私は竜児に出会えた。
大事な親友も出来た。
だから、ありがとう。
大河は制服を手に取ると今までしたことがないくらい、丁寧に制服をたたんだ。
そして、そっとそれをベッドの端に置くと立ち上がった。
大河の表情は獲物を狙うタイガーの様に前をまっすぐ見ていた。
もう、振り返らない。大河はそう告げていた。

夜空は暗く、星は見えない。
でも、よく目を凝らすと、小さな明かりがひとつ見つかった。
今はひとつでも・・・今度帰って来る時はたくさんの星で飾ってあげる。
携帯のカメラを星に向け大河はシャッターを押した。
カシャ。
シャッター音がスタートの合図。
大河は新たなゴールを目指して走り始めた。






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