『大河』と、ある意味校内で恐れられている竜児の相棒を呼び捨てに出来る存在はそう多くない。
それを意図もたやすくやってのけてしまったこの少女は何者だろうと竜児はふたりのやり取りを眺めていた。
大河の名を呼び、車から飛び出して来るなり、大河の両手を取って、懐かしさいっぱいだと全身を使って表現する。
この清掃工場で所長をやっている叔父を表敬訪問した帰りだと言い、偶然の再会を大げさに過ぎるほど喜んでいた。
大河は一応、礼儀として応対しているが、あまり会いたくなかったと言うのが感じられ、ふたりの間に夏と冬ほどの大きな温度差があるのを竜児は感じざるを得ない。
「もう、びっくりしたよ。てっきり、高等部に来ると思ってたのに・・・外部を受験したって聞いたから」
「悪かったわ、言わなくて」
まるでお前にそれを事前に説明する必要があるのかと言わんばかりの大河。
「変わったね、大河」
「私は何も変わってない」
「ふうん・・・もしかして彼氏?」
ようやく、大河の隣にいる竜児が視界に入ったのか、大河と竜児を見比べてそんなことを聞く。
「竜児は私の・・・」少し言いよどんでから「そう、大事な人」と大河は付け加えた。
「そうなんだ」
ジロジロとぶしつけな視線で竜児を眺め「やっぱり、変わった」と断罪するように一方的とも言える決め付をした。
竜児はその物の言い方に少しムッとする思いを抱く。竜児と一緒にいる大河がまるで不良の色に染まったのではないかと非難しているニュアンスが感じられたからだ。
「みんな、大河のこと心配してたよ」
「おかげさまで、元気にやってるわ、そう伝えておいて」
話はこれで終わりだと言うように大河は見えない扉を少女の前で閉じた。
まだ、何か話し足りなさそうな素振りを見せながらも、大河の素っ気無い態度に歓迎されていないのを感じ取ったのか、「仕方ないね、そう言うことしたんだから」と竜児には意味不明な言葉をつぶやいた。
「うん、仕方ない・・・か」
自分を納得させるようにその少女は頷くと、大河に都合のいいところまで送ると車を指差した。
ずっと無言だった大河は「もうすぐバスが来るから」・・・と言い、その申し出を拒絶する。
「そう」
断られることをあらかじめ予感していたのか不愉快そうな顔も見せず、「また、会えるといいね」とだけ言い残して少女は去った。



大河は少女を乗せた車が走り去った方角をそのままじっと見つめ続けていた。
その大河の後姿が何だかいつも以上に小さく見え、胸を衝かれた竜児。
悲しみと言う色で塗り潰された背景を従えて立ち尽くす大河。
竜児は声を掛けないで要られなかった。
「な、なあ、大河」
「うるさい!!!話し掛けるな」
叫んでいるけどどこか弱い大河の声に混ざる湿り気。
これが自宅の近所ならそのまま、走り去ってしまいそうな大河の様子に竜児はそっとしておいてやる以外に方法を見出せなかった。
道路に背を向け、道と清掃工場を隔てるフェンスに歩み寄る大河。
そのままフェンスの金網を右手でぎゅっと握り締め、大河は何かに耐えている。
泣き顔こそ見せてないが、心の中ではきっと涙の降水確率、高そうだった。

傘ぐらいしか貸してやれないけどな・・・しばらくして、竜児は大河の背中に声にならない声を掛けて脇に腰を下ろした。
大河は側に来る竜児を拒絶することなく、自分の足元に座る竜児を見た。
「・・・竜児」
「よう、少しは落ち着いたか?」
「ちょっとだけ・・・まさか、こんなところで会うなんて思わなかったから・・・取り乱した」
「会いたくない相手か・・・お前にもそんなやついるんだな」
「会いたくないっていうか、顔を見れば思い出すから・・・嫌なこと」
「誰だって、そんなもののひとつやふたつ抱えてるさ」
「竜児も?」
「ああ、だからそれくらいで止めとけ。傷口なんて覗き込んでも気持ち悪いだけだ。前を見ろ」
「前って?」
「大河が進みたいと思う方角が前だ」
「私の行きたい方角か・・・わかんないな、まだ」
その大河は空の彼方を見ていた。
大河を真下から見上げる形になった竜児はその目元がわずかに光っているように感じられ、何ともいえない気持ちになった。


「ねえ、竜児」
「なんだ?」
「そんな風に足元に座ってると本物の犬みたい。忠犬なんとかいうの」
「駄犬から昇格か?」
「竜児は駄犬じゃない。今日は名犬」
「やっぱり犬かよ。いい加減、犬は卒業させろ」
「そっか、竜だっけ」
「そうだ。竜だ」
「並んで立つんだよね。竜と虎は」
いつか竜児が言ったことを思い出すように大河は言う。
「ああ、だから、虎が悲しめば、竜だって悲しい。虎が嬉しければ、竜も嬉しいんだ」
「・・・ごめん」
「謝ってばっかだな今日は。で、何で謝るんだ?」
「竜児に不快な思いをさせた」
「さっきのやつのことか?」
大河はコクリと小さくあごを動かした。
「初対面で好かれるほど自惚れちゃいねえし、ああ言う対応は慣れてる」
「竜児」
「なんだ?」
「何でもない」
あきらかに何でもなくない顔をして、大河は話を打ち切り、片足をブラブラさせながら足元の小石を靴のつま先に載せ、もてあそぶ。



「ちっ」
大河は軽い舌打ちと共に小石を宙に跳ね上げ、落ちて来たタイミングに合わせて思いっきり蹴り飛ばした。
弧を描いて飛んだそれは道路の向こう側にある電柱に当たり、路上を転々とする。
2度、3度とアスファルトの上で跳ねた小石はそのまま道路わきの側溝へ落ちて行った。
転がった石を視線で追い、大河はつぶやく。
「何が・・・違うって言うの」
「違うって?」
「あの石」
「石がどうした」
「落ちた・・・排水溝に」
「そうだな、確かに道路の上には残っちゃいねえ」
「どうして?ねえ、どうしてそうなったの?」
「そりゃ、お前の蹴った力とか地面の反射とかいろいろあるんだろう。物理の難しい式でも当てはめれば答えが・・・」
言いかけて竜児はやめた。
大河がそんな答えを欲しているんじゃないと気がついたからだ。
座った竜児の前にある大河の固く閉じられた左手。
それが少し震えている。
ためらうことなく、竜児は両手でその大河の手のこぶしを包み込んだ。
「竜児」
視線を下に向けて大河は竜児を見る。
「座れよ、立ってないでさ」
竜児は掴んだ大河の手を引きつけた。
「うん」
フェンスを背もたれに竜児と大河は並んだ。
「あと・・・何分?」
大河がバスの来るまでの残り時間を問う。
「1時間以上あるな」
「乗せてもらえば良かった」
「そう思ってるのか」
「だけど、そうすればこんな暑い所で待たずに済んだじゃない。私がちょっと我慢すればいいんだし」
「大河!」
「何よ。急に大声で」
「本気か?それなら怒るぞ」
「何で竜児が怒るの?」
「当たり前だ。俺は大河にそんな思いをさせてまで楽しようとは思わねえ。暑くて結構。大河とふたりでいる方が何倍も嬉しいからな」
「ふ〜ん」
「な、何だよ?急にニヤニヤして」
「嬉しいんだ。私と居ると」
「・・・空耳だ。聞き流せ」
「竜児がそう言うなら、そういうことにしておいてあげる」
「勝ち誇ったみたいに言うな」
「今日の大河様は機嫌がいいのよ。でも、言葉には慎みなさい」
「今度は上から目線かよ」
「クスッ・・・竜児には感謝してるから」



「き、急に何だ」
小さく笑った大河はすぐに表情を改めるといつもと違った真剣な目で竜児を見る。
「今日、そばに居てくれた」
「昨日も一緒だったろう」
「ううん。たった今、居てくれたことが嬉しいんだ、私」
「そうか?」
「そうだよ・・・竜児がいなかったら、私・・・何をしたか分からない」
「さっきのやつにか?」
「うん。殴ったりはしないけど、言った後でひどく後悔するようなセリフ、吐いたかも」
「だけど、溜め込むのも良くないぞ」
「酷いセリフを言うの?」
「それも良くねえな。そうだ、穴でも掘ってそこへ吐き出せ」
「王様の耳はロバの耳・・・竜児のお胸の黒レーズンって」
「おま、何気に酷いことを言うやつだな」
「言えって言ったのは竜児」
「俺の前で言うな」


道端の名も無い雑草をむしる手を止め大河がポツリと言う
「竜児は何にも聞かないんだね」
「大河が言いたくないことを無理には聞かねえ。そのまま仕舞っとけ」
竜児は自分の胸を叩いた。
「それとも言いたいなら愚痴でも何でも聞いてやるぞ」
構わないの?そんな感じで竜児の顔を数秒,凝視した大河は竜児の瞳から了承の意を読み取ると話し始めた。
「・・・竜児・・・知ってるよね?私が私立中学の出身だって」
「そう言えば、そんなこと言ってたよな」
「竜児は不思議に思わない?」
「何をだ?」
「私立からわざわざ公立高校へ来るなんて・・・」
「おう、言われればそう感じるけど、理由はあれこれあんだろ」
「もう、分かってると思うけど、さっきの子、クラスメートだったんだ・・・」
「それにしちゃ」・・・ずいぶん、よそよそしかったなと後の言葉を付け加えず竜児は黙る。
「中学の時は・・・良く一緒に行動してた」
それはクラスメートではなくて友達とは言わないか?竜児の疑問は募る。
それから大河の口から紡ぎ出される話に、竜児は耳が放せなくなった。


「小学校から高校までエスカレーター式の学校に通ってた。良くも悪くもお堅い感じの学校」
「何となくイメージは沸く」
「最初は真面目だったんだよ、私・・・何?その信じられないって顔」
「わりい・・・あまりも意外で」
「私だって最初から・・・こんなんじゃない」
手乗りタイガーと言うふたつ名を持つ大橋高校の有名人はかつて平凡な普通の人だったらしい。
生まれた時からそんな風になる人間はいねえ・・・当たり前かと竜児は思う。
大河が言うには小学校にあたる初等部でごく普通の少しやんちゃな一生徒でしかなかったそうだ。
その大河の学園内での生活態度が目に見えて悪化したのは中等部へ進級してしばらくした頃だったらしい。



初等部高学年の頃から目立ち始めた大河の両親の不仲は1年余りに亘る家庭内別居の末、大河の母が家を出て行くという形で幕を閉じた。
そしてまもなく、正式な協議離婚が成立し、大河は父親と生活を共にすることが決められた。
大河は既に父を見限り、新しい恋人の下に奔った母親を許せず、父親との同居を喜んだものの、その喜びがぬか喜びであることをまもなく思い知らされたのだ。
新しい母親だと大河の父が逢坂家に連れて来た女性は若くて綺麗な人だった。
大河も最初は素敵な人が母親になってくれたのを受け入れ、この親子関係はうまく行くかと思われたのだが、破綻はすぐにやってきた。


「裏表があるって言うのかな、あれって」
「二重人格か?」
「それもちょっと違う。例えば、体操服に名札付けるじゃない。真ん中におっきく名前書いてさ」
「ああ、2−C高須ってやつか」
「そう、それ・・・頼んだんだよね、中等部に入って間もない頃。付けてくれって新しい母親に」
「付けてくれたんだよな?」
大河は首を振った。
「それは・・・ひどくないか」
「自慢じゃないけど、私の家事全般がどんなレベルか竜児も知ってるよね」
「ああ、十分すぎるほどな」
「・・・ちょっとはリップサービスしたら・・・否定できないけど」


体操服へ取り付けるゼッケン・・・「1−C 逢坂」と書かれたものを新調した服へ縫い付けること。中学生になったばかりの大河にとって裁縫など家庭科の授業で真似事程度にしかやらなかった手技で、これをキレイに縫い付けるなんて芸当は逆立ちしても無理な技。


「だから、寝る前にお願いって頼んだ。明日、使うからって。でも、結局翌朝になっても、そのままだった」
「ついうっかりとかじゃなくて?」
「あれだけ言って忘れるなら若年性健忘症。私がきちんと言わないから分からなかった、なんて言い訳を父親の前でしたの、あいつは。つまり、そう言うこと」
「それが裏表か」
「私が全部、悪いみたいな話になっちゃって・・・そんなのが何回もあって・・・ああ、私、嫌われてるって・・・・・・分かっちゃったんだ」
そこだけ声のトーンが落ちる大河。
「親父さんには言わなかったのかよ?言いつけるみたいであれだけど」
「言ったわ、何度も。でもその都度、あいつの味方ばかり」


唇を噛むような悔しさを感じながら、大河はいつしか、義理の母親の味方ばかりする父親へも不信の念を向けるようになっていた。



「早朝奉仕って言うのがあったの」
「何だ、そりゃ」
「まあ、手っ取り早く言えばボランティア活動よ」
「川原でごみ掃除とかやるのか」
「そんなもの。で、早朝って言うくらいだから朝、うんと早いの」
「早いって、どれくらい?」
「学校集合6時半」
「そんなに早い時間か?」
「うるさいわね。あんたにはちょうど良くても、私には早いの」
「へいへい」


学校では月に何度かクラスごとに早朝奉仕と称して朝早く登校し、学校の外回りを掃除する催しがあった。
大河は連続してその活動を欠席した。もちろん、大河はさぼろうとした訳ではなく、ちゃんと出るつもりでいたのだ。
しかし、早起きが苦手な大河を朝早く起こしてくれる人が逢坂家には誰も居らず、結果的に大河は出席回数0と言う不名誉な結果を伸ばし続けることになる。



「ほら、早起きって苦手じゃない、私」
「それは言えるな。俺が何回起してやったことか」
「別に、起してくれなんて頼んでないでしょ」
「じゃあ、明日から独りで起きられるんだな、偉いぞ、大河」
「なんか、その言い方むかつくんだけど」
「俺は事実を述べただけだ」
「う〜、竜児がそこまで言うなら、独りで頑張って起きてあげる」
「そ、そうか・・・大丈夫か・・・」
「疑わしそうにすんな。大丈夫よ。目覚まし100個くらい買って来るから。あ、それから言っておくけど、起きるのは私。鳴ってる目覚ましを止めるのは駄犬の役目」
「おま、無茶な真似を・・・わかったよ、今まで通りでいこう・・・それが平和な道だ、お互いにとって」
「そうね、竜児の目覚ましが一番だから・・・何?その顔。誤解しないでよ。私は目覚ましのアラームが嫌いなだけなんだから」


不参加が続けば、当然のごとく、クラス担任よりお説教などをされることになるのだが、逢坂家の事情などを担任が斟酌してくれるはずも無く、大河はただ一方的に言われるばかり。
それは大河にとって非常に面白くないことで、必然的に態度に出る。
もうそれだけで教師の言うことを聞かない反抗的な生徒と言う烙印を押されてしまう。



「反抗するつもりなんてなかった」
「あ〜、良く分かるぞ、大河の気持ち。俺も似たような経験あるからな」
「竜児も?」
「お説教の途中でにらみ返したつもりはないんだがな。危うく校内暴力の首謀者にされるところだった」
「竜児が・・・本当は虫も殺せないような竜児が・・・もしかしてガラスでも割ったの?なんかおかしい、それ」
「そこ笑うなよ。ガラスは割っちゃいねえ。拭いたくらいだ。で、結局はわかってもらえたけど、大変だったんだぞ」
「そっか、竜児はわかってもらえたんだ。良かったね」
「大河はどうだったんだよ」
「私?私は・・・駄目だった」


良識のあるクラスメートも忠告をする。いわく、「逢坂さん、態度を良くした方がいいよ」と。
家で母親とのやり取りによるストレス、そして理解してくれない教師とのあつれき。
大河のストレスは高まり、暴発寸前だった。そこへ、クラスメートの親切めいた忠告。
そして大河の理性は飛んだ。
こっちの事情も知らないで勝手なことほざくなと机の中から30センチ定規を取り出し、忠告してきた相手ののど先に突きつけた。
大河のにらみが恐かったのか、相手はそのまま泣き出し、結果として大河ひとりが悪者にされ、クラスの中で浮いた存在と成り果てた。


「なんか私、それで浮いちゃったんだ学校で」
「淡々と言えるな・・・もっと感情を込めてもいいぞ。俺はドンと受け止めてやる」
「なに両手広げて期待してんのよ。泣いたりしないし、すがりついたりもしない」
「それは残念だ」
「犬のくせにそんなに気を使わなくていいの。本当にバカ犬なんだから・・・。だけど私、みのりんにだってこんなこと話した事無い。あんたが始めてよ」
「いいのか、俺なんかで」
「いいの、その代り、最後まで聞きなさい」
「おう、任せとけ」


独りの方が気楽と斜に構えて学校生活を過ごし始めた大河だったが、その周りをいつしか黒い噂が飛び交うようになった。
いわく、学校の外で不良グループと付き合いがあるとか、夜の街で見かけたとか言う類のもの。
良家のお嬢さんたちは想像力が豊かだことと笑って無視していた大河だが、中にはそれを真に受ける人間もいる。
ある日、大河は複数の評判の良くない上級生に人気の無い場所へ呼び出された。


「生まれて初めてもらったわ、果たし状」
「なんだそりゃ」
「ご丁寧なことに毛筆で書いてあるのよ、それ。おまけに文体まで格式ばってて、時代錯誤もいいところ。捨てちゃったけど、残しておけば笑いのネタになったのに」
「なんて書いてあったんだよ?」
「ようするにアンタはこの学校に相応しくない人物だから、性根を入れ替えてあげるって言う内容」
「ずいぶん勝手なこと言うんだな」
「それが、正義だったんでしょ。呼び出した連中の」
「で、どうしたんだよ、大河は?」
「行ったわよ、呼び出された場所へ」
「無茶だろ、いくらなんでも」
「・・・竜児の言う通り無茶だった。だけど逃げるのはもっと嫌」



相手は大河の生活態度が目に余ると、ゆがんだ正義の名の下に多勢で修正を加えようと目論んでいたのだ。
負けん気の強い大河だったから、あえて危険を承知で現場へ乗り込んだものの多勢に無勢で歯が立たず、己の見通しの甘さを呪う事になる。
複数人で押さえつけられ、背中まで伸びた大河の髪はバッサリと切られようとした。



「陰湿だな、それは」
「でしょ・・・大暴れすればなんとかなるって思ってた私も馬鹿だったけど」
「で、どうなったんだよ?」
「助けてくれた人がいたの」
「助け?」
「うん、神社の境内だったんだけど、そこの神主さん。怪我の手当てもしてくれて」
「怪我って、大河」
「激しく抵抗した・・・負けちゃったけど・・・そんな顔しないでよ、竜児。でもいいこともあったんだ」
「いいこと?」
「うん。その神主さん、拳法の達人で、それからいろいろ教えてくれた」


大河の瞳に彩る炎の様なきらめきを見た神主は大河にそのままだといつか身を滅ぼすと忠告をした。
余計なお世話だと反抗する大河に木刀を渡し、大口を叩くならそれでこの自分を殴ってみろと挑発する神主。
木刀を掴んだ大河だったが、結果から言えば木刀はかすりもしなかった。
息を切らして倒れこむ大河に強くなりたくないかと神主は謎を掛けて来たのだ。


「一年くらいかな、護身術とか教わった」
「木刀の使い方もか」
「教わったけど、それがどうかした・・・あ」
「俺はだな」
「あの時は久しぶりに使ったから、腕が鈍ってたのよ」
「いや、鈍ってたくらいでちょうどいい・・・そうじゃなきゃ、俺の命が危なかった」
「やだ、竜児。私が本気で襲うわけないじゃない」
・・・笑えねえ、竜児の感想である。


大河の神主通いは神主が任期切れで他の神社へ移動になり1年足らずで終わった。
神主の教導は時に過酷で、竜児は大河が垣間見せた内容に唖然とする。
殴られなきゃ・・・殴った時の痛みって分からないじゃない。
大河のさらっとした物の言い方に凄みを覚え、竜児は隣に座る小柄な少女を改めて見つめてしまった。
大人しく座っていれば観賞用の高価な人形だって逃げ出す、超が付くくらいの可愛いさで輝く女の子。
恐らく10人中10人がその外見だけで判断してしまうだろう。儚げで守ってあげたいと。
誰がその内面に恐るべき破壊力を持っていると想像し得るだろうか。
竜児自身も新学期早々、大河に殴られている。
あの廊下でぶつかったハプニングの時だ。
竜児は大河に殴られた衝撃と迫力負けでしりもちをついてしまったのだが、殴られた痛みそのものはそう大きなものではなかった。
怪我もしなかったし、あざも痕も残らなかった。
それにもかかわらず、あの瞬間、竜児は逢坂大河が恐れられている理由を全て知ることが出来たのだ。
大河なりに計算された力加減で殴られたんだと、竜児ははっきりここに自覚した。


「そう言えば、呼び出した連中はどうなったんだよ?」
「卒業までしっかりお返ししておいたけどね」
「律儀だな、それは」
「やられて黙っているほどお人好しじゃない」
手乗りタイガーの片鱗をのぞかせて大河はニヤリとした。



すっかり大河の周りには人が寄り付かなくなった。
2年生に進級し、クラス替えが行われたが、大河は新しいクラスになっても状況が変わらないことを再認識するだけだった。
そんな時、大河の前に現れたクラスメート。
それがさっきの女の子だったのだ。



「朝拝さぼって、朝ごはん食べてた時だったかな。意識したのは」
「朝拝?」
「ああ、私が通ってた学校、カトリック系のミッションスクールだったの。だから、授業の前に毎日、礼拝堂でお祈りとかするのが朝拝」
「なんか想像つかねえ、大河がお祈りしてる姿」
「失礼ね。クリスチャンじゃないけど、真剣に祈ってたこともあるんだから」
「だけど、さぼったりしていいのかよ」
「いいわけないじゃない。そういう学校に通ってるのに」


この頃の大河は授業こそ出席していたものの、学校の公式行事のかなりの部分をパスし始めていた。
一度定着してしまった評価はそう簡単に覆せる物ではない。
だから今さら取り繕ったってどうにもならないと大河は開き直っていた。
それ以外にも学校側の理屈で、いろいろなことを押し付けられるのに反発する気持ちが大河の側にあったせいもある。
朝拝に参列を求める担任に「信教の自由」と大河は取り合わなかった。
ますます、扱い難い問題児と評価を下げることは分かっていても大河は気にしなかった。
学業さえしっかりやっていれば、とやかく言われる筋合いはないと突っぱねていたのだ。
実際、大河の成績は学年で上から数えた方がはるかに早いくらい上位にいた。
その点で教師は文句の付けようが無い上、大河自身、制服を着崩したり、校則違反になるようなアクセサリーを付けたりすることはなく、別の視点から見ればある意味、極めて模範的な生徒だったと言える。


「学校で朝ごはんって?」
「コンビニのおにぎり。作ってくれる人、いないし」
「そんな食生活でよく倒れなかったな」
「毎日じゃなかったから・・・あの女が居ない日はお手伝いさんが来てたし」
「そのころから知り合えてたら、いろいろ作ってやれたのにな」
「・・・何か、言った?」
「いや・・・独り言だ」



私に近づくなと警告をしたのにも係わらず、大河に接近するクラスメート。
孤独でいる事に大河も疲れて居たのかも知れない。
ある相談をきっかけに急速にふたりの間の溝は埋まり、親しく付き合うようになっていった。


「相談って何だったんだ?」
「うるさいわね。あんたには関係ないこと」
「顔、赤いぞ」
「だあ〜。るさい。この話はおしまい」
「お、おう」



両親の離婚と再婚。
二人の家庭環境は驚くほど似ていた。
家で居所が無いと溢す相手に大河は強い共感を覚える。
一方で相手も自由闊達に振舞う大河にあこがれていたと言う。
時々、何かをエスケープするくらいで大河ほど思い切ったことが出来なかったと言う相手に私と行動を共にすると評判が悪くなっても知らないよと大河は念を押す。
・・・かまわない。それが相手の答えだった。



「天然とか言ってたっけ」
「そのクラスメートが、か?」
「そう、私、天然なんだ・・・最初の頃、そう言った」
「川嶋みたいなやつだな」
「ばかちーとは違う。あいつにばかちーみたいな根性、なかったから」
「川嶋は筋金入りだしな」
・・・自分を天然とか言う奴にろくなのはいない。
竜児は大河がいつか言ったことを思い出していた。


そのクラスメートは人あたりも良く、確かに大河は一緒に居て楽しく感じることも多かった。
勉強を教えあったり、ショッピングに出かけたりと大河にとって中学生らしい日常を送ることが出来たのもこの頃だった。
クラス替えが無いまま3年に進級し、受験とは無縁の環境にあって、大河は家庭で相変わらず冷戦が続いていたものの、充実した学校生活を送れたのは彼女の存在が大きかったと言える。



「あのままだったら、私、息がつまってどうかしたかもしれない」
「どうかって・・・?」
「それこそ噂みたいに夜の街へ繰り出して、木刀振り回してたかも」
「夜の番長かよ」
「もしかしたらなってたかもね」
自嘲気味笑う大河を見ながら、竜児は大河がまっとうに今まで生きて来てくれたことに感謝の念を抱いた。



そんな様子が変わったのは3年生の夏休み明けからだった。
何週間ぶりに会ったクラスメートは変わっていた。
明らかに分かるくらいお化粧をして、髪にはパーマがゆるくウエーブしていた。
あまりの変わりように、心を少し病んでいるように大河には感じられた。



「急にモップでガラス割ったんだ、あいつ。何枚も。楽しそうに笑いながらね」
「正気じゃねえ」
「詳しいことは知らなかったけど、家庭の事情がややこしいことになってたみたい」
「おかしくなる位にか?」
「うん。隠し子とか自殺未遂とか、聞いたけど」
「どんな家なんだ」
「何度か行ったけど、大きなお屋敷だった。メイドさんもいた」



日頃の行いのせいか、校内のガラス割りは大河の差し金ということにされてしまった。
実際、大河は一枚もガラスを割っていない。
むしろ暴走するクラスメートを止めようとして、割れたガラスで怪我をした位だった。
しかし、学校側はそう見なかった。
ひとつは校内の風紀を取り締まる生徒総監役の教師が交代していたこと。
前任は年配の慈母のような人物だったが、その時、役目についていたのは前任と正反対の方針を持った教師で日頃の大河の生活態度に目を付けていた。
もうひとつはクラスメートが大河を庇わなかったこと。
誘導尋問のように聞かれたせいもあったが、指示したのは大河、実行はクラスメートと言う図式がでっち上げられていった。



「冤罪事件を見るような気がするが」
「それより性質が悪い。いつのまにか私の知らないところでそうなってたんだから」
「で、どうなったんだよ?」
「当然、親、呼び出しね」



多忙を理由に逢坂家の大人はその呼び出しに応じなかった。
一方でクラスメートの親は呼び出しに応じていた。
処分自体は反省文の提出と言う形で落着したものの、大河は納得しかねる部分があった。
一緒に処分を下されるのは構わない、実際にやっていなくても、相手のことを思えば、受け入れるのに大河はやぶさかでなかった。
でも・・・と大河は思う。なんで、本当のことを言わないんだ、あいつ・・・嘘付くなんて。
信じていた相手への疑念が生まれる。
・・・大河の親も来れば反省文、いらなかったかもね。
この不用意な一言が無ければ、何事も無かったかもしれない。
うちの親が来たのは世間体だけだから・・・そう言うクラスメートとの間にいつしか大河は距離を感じ始める。
そして事件の第2幕が開く。



「大河のドラマ・・・大河ドラマ」
「なにバカなこと言ってんの」
「いや、なんかすげえなと驚いてるだけだ」
「もう、聞くの嫌になった?」
「いや、続けてくれ。大河が話したくないことなら聞かねえけど、お前が言いたいことならどんなことだって聞いてやる」
「そんな覚悟で聞かなくていい。そんなにすごいことになったんじゃないし」
・・・しかし、それは大河言うほど簡単なことではなかった。



デートクラブ?
大河は耳を疑った。
クラスメートがいかがわしい何かに嵌っているらしいと聞かされたからだ。
嘘と一笑にふしたものの、もしかしたらと大河は思わずに居られなかった。
最近のクラスメートが精神状態の平衡を欠いている事を大河は承知していた。
そして事実は半分正解で半分不正解。
確かにクラスメートは風紀的に妙な組織に籍を置いていた。ただし、活動をしたことは無く、名前だけの登録に過ぎなかったのだ。
しかし、学校当局にとってそれは大変に由々しき事態。
査問委員会が開かれることになった。



「無茶して親の気を惹きたかったんでしょ、きっと」
「それが大河とどう関係して来るんだよ」
「私の名前もあったの、そのへんてこクラブに」
「げ、おまえ、まさか・・・」
「そんなわけないでしょ」
「だよな・・・脅かすなよ」


こともあろうにクラスメートは自分の名前だけでは無く、大河の名前も勝手に登録していたのだ。
ひとりでは恐いとか、取るに足らない理由で・・・。
大河は完全な無実でこの件とまったく無関係だった。
しかし、悪意ある動きが大河を追い詰めることになる。

クラスメートは意気消沈していた。
多勢の教師に取り囲まれ、厳しく問い詰められるに及んで、明らかにやり過ぎたと思い始めていた。
退学処分・・・そんな言葉をちらつかせる学校側。
そんな動揺するクラスメートに甘言を投げかける生徒総監。
・・・これはあなたの考えたこと?違うでしょ・・・。

一方で大河も別室で教師達に取り囲まれていた。
クラスメートと同じ様に退学処分などをほのめかされても全く動揺しなかった。
知らない・・・事実無根・・・クラスメートに会わせろと、堂々と主張していた。


「で、会えたのかよ?」
「会えた。あんまり思い出したくないことだけど」
「嫌なら言わなくもいい」
「もうここまで来たら止まらない。竜児だって知りたいでしょ」
「知りたく無いと言えば嘘になるな」
「いいわ、最後まで聞かせてあげる」



うつむいたままクラスメートは大河を見ないで・・・「逢坂さんがやろうって言いました」・・・小さな声で査問者達の前で告げた。
卑怯者・・・大河は頭に血が上るのを止められなかった。
クラスメートに掴みかかろうとしたのを寄ってたかって押さえつけられた。
学校当局者にとってそれは真実を口にするクラスメートの発言を封じようとする行為以外の何もにも映らなかった。



「最悪だな・・・言葉もねえ」
「あんときの・・・あいつの顔・・・ああ、終わったなって思った」
「それでか・・・久しぶりに会ったのにあんな態度になったのは」
「ま、ね。他にもいろいろあったけど・・・向こうはまだ友達だと思ってるんでしょ・・・後で聞いたけど、私がやったことにすればいいようにするとか言われたみたい」
「そっか」
「私なら・・・そんなことしない」
大河は少し寂しげに横を向いた。
「その後も、いろいろあったんだ」
やや、あってから大河は付け加えた。



後日、大河は面談室へ呼び出された。
決定した処分を言い渡されるためだ。
面談室の前まで来て大河はあの女が部屋から出てきたことに驚いた。
呼び出されても来ることすらなかった自称母親がどうしてここにと大河は思ったのだ。
その女は大河をチラリ一瞥すると冷笑を浮かべ、何も言わず大河を見下したようにすれ違った。
面談室に入った大河は処分内容を母親に伝えたと言われ、その内容を帰宅後聞くように告げられる。
そして、大河はその内容を帰宅してから、自分の部屋のドアに貼り付けられた封筒で知ることになった。
学校名が書かれた茶封筒にA4サイズの紙が一枚。
・・・高等部推薦者名簿不採用通知。
それにはそう記されていた。



「何だそれ?」
「最初に竜児にも言ったよね、エスカレーター式の学校だって」
「ああ、そう言えば」
「だけど無条件じゃないんだ。一応、中等部からの推薦って形が取られることになってて。ようするに推薦はしませんってこと」
「じゃあ・・・」
「高等部へは行けない事になったの。私。」
「ひでえ、そんなのありか」
「竜児が怒っても仕方ないでしょ」
「そうだけどよ、あんまりじゃねえか・・・無実で・・・そんな処分内容」
「だけど、もっと堪えたのがあの女の態度・・・普通、部屋のドアにそんなもの貼る?」
「・・・しねえと思うぞ」
「勝ち誇ったみたいに次の日、笑うのよ・・・私が何をしたっていうの!」


大河の忍耐も限界だった。
もう我慢出来ない。
久しぶりに家に居る父親を掴まえて叫んでいた。
「こんな家・・・出て行きたい」



「後は竜児も知っての通り。あのマンションに置いて行かれて、ほったらかしよ」
「はあ・・・大河」
「なに?」
「お前、すごいよ。俺だったらとても耐えられない」
「大げさ・・・過ぎたことだし・・・それに・・・そのおかげでいいこともあったし・・・」
「いいこと?」
「わ、私に言わせる気!それを」
「何だよ、もったいぶらなくても」
「だって、私があのまま高等部へ行っちゃったら・・・竜児とは・・・会えなかった」
「うっ・・・」



今の学校だってマンションから近いって理由で適当に選んだ。
でも、それが正解だった。
竜児の隣に居られるから・・・。

いろいろな組み合わせがあって大河が今、俺の隣にいる。
何かの歯車がひとつ違っただけで、こうはならなかった。
竜児を見つめる大河がこの上なく貴重な物に思えて、竜児は不思議な気分になる。


「でも、なんでさっきの奴は学校に残れて、お前は駄目だったんだよ?」
「後で知ったんだけど、ようするに親が学校に頭を下げたかどうかの違い」
「頭を下げる?」
「そう。うちの娘が不行跡をしましてとか言ってお詫びするの。寄付金も払ったんじゃない。地獄の沙汰もなんとかで」
「大河のところは・・・」
「はい、分かりましたって書類だけ受け取ったんでしょ。で、その後のアプローチは無し」
「結果オーライだけど・・・俺は大河に会えて良かったって思う。だからその点だけはお前の親に感謝する」
「逢坂さんの親が酷くて良かったね。竜児」
「ああ、そうだ」
「私も・・・それだけは感謝かな・・・長い話、聞いてくれてありがと・・・竜児」
「大河」
真摯な姿勢で大河を見つめる竜児。
「竜児」
それに答える様に見つめなおす大河。
「なんか・・・照れるね。じっと見てると」
「俺は飽きないぞ、大河を見てると」
「そう?じゃあにらめっこする?・・・ほらほら、ブタさん」
鼻をつぶしておどける大河。
「やめとけ、ホントにつぶれるぞ」
「ねえ、竜児」
「なんだよ」
「ホントに私がブタ鼻になっても笑わない?」
「笑わねえ、例えブタ鼻でも大河は、大河だ」
「ありがと・・・私も・・・竜児に会えて」・・・幸せと大河は声に出さないで付け加えた。
「ん、聞き取れねえ、最後、なんて言ったんだよ?」
「聞こえなくていい・・・今は。・・・あ、ほらバス来た」


ふたりを救い出す、2時間待ったバスがゆっくりやって来るのが見えた。



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