手足がゆっくり伸ばせる広さのバスタブに身を沈め、竜児は誰はばかることなくため息をつく。
竜児はタオルを頭の上に載せながら、ついさっきまであった大河をめぐる一連のドタバタを振り返った。
その大河は部屋でお風呂上りにおいしく何かを飲んでいるはずである。


「・・・まだ?」
前かがみになった大河に催促されて、ためらっていた竜児は指先をファスナーへ近づける。
小さなフックを上下に動かしてみたものの、確かに大河の言う通りファスナーはビクとも動かない。
「どう?」
「ん・・・なんとかなりそうだ・・・もうちょっと・・・よし、いいか」
布地が食い込んでいるらしいと見た竜児は原因となっている辺りの布地を引っ張るようにしてファスナーを下へ動かした。
『チー』と言う音と共にワンピースのファスナーは本来の働きを取り戻し、大河の背中にV字を生み出す。
「やったぜ。大河」
「本当?」
「ああ、ばっちりだ。ほめて貰いたいくらいだ」
いい仕事をした後の職人さんみたいに竜児は得意げな口調。
背中に手を回し、竜児の言うことが事実だと確かめた大河もやれやれ助かったと竜児をねぎらう。
「竜児・・・ぐっじょぶ!」
竜児へ向き直り、大河は親指を上に突き立てた。
「おう、大河」
竜児も大河のポーズに応えて両手をあげ、ハイタッチの姿勢を取る。
「へい、竜児」
・・・と、ここまでは何の問題も無かった。

悲劇と言うか喜劇は次の瞬間に訪れた。

大河と竜児はお見合いの様に向き合ったまま、固まった。
大河の足元にある折り重なった布の塊り。
それはたった今まで大河が着ていたワンピースの成れの果てであった。
背中のファスナーを全開にしてバンザイの姿勢を取ればどうなるか・・・大河も竜児もまったく気にしていなかったのだ。
「・・・あ」
最初に声をあげたのが果たしてどちらだったのかなんていうことはこの際、瑣末な事柄。
「・・・うぎゃああああ」
断末魔のような大河の悲鳴と。
「うわああああ」
キッチンのシンクに大量のカビを発見した時の様な竜児の叫び声。
アニメの収録現場なら録音スタジオの音響さんがヘッドフォンをかなぐり捨てるのではないかと思わせる音量がバスルームに響き渡る。
そのまま、大河がその場にへたり込むのと、竜児がバスルームを飛び出したのはほぼ同時だった。
その竜児の後頭部を衝撃が襲う。
見事なコントロールで大河が放った脱衣籠が竜児に命中したのだ。
「いてえ」
思わず振り返ろうとした竜児。
「バカ!こっち見んな!!」
大河の指摘に慌てて、ベッドの方へ逃げ帰る竜児。
その竜児の背後ですさまじい音を立ててバスルームのドアが閉まった。



つまらない深夜テレビのチャンネルをあちこち変えながらを見ていた竜児は、バスルームのドアがガチャリと開く音に視線をテレビからドアへ向けた。
「よお、出たのかよ?」
「うん」
さっきと同じように半開きになったドアから顔だけを出し、竜児を見る大河。
「どうした?」
「着替え・・・無い」
1時間ほど前に見せたのと同じような情けなさそうな声で大河は竜児に訴える。
せっかく気持ちよく、お風呂から上がったのに汗まみれの服をもう一度着たいとは誰も思わないよな。
「こんなのしかねえけど・・・いいか?」
竜児はクローゼットで見つけたホテル備え付けの浴衣を広げた。
「それでいい・・・持って来て」
「おう」
そう言われて気軽にバスルームのドアまで出向いた竜児は半開きになったドア越しに立つ大河の姿に慌てて目をそらした。
「どうしたの?竜児」
「・・・ど、どうしたって、おまえ、そのかっこう」
「別に変じゃないでしょ・・・裸じゃないんだし」
平然とする大河にかえって竜児の方が慌てる。
「それは・・・そうだけどよ」
バスタオルを体にまとっただけの姿で大河は竜児の前に立っていた。
いつもはふんわり大河を包み込むように広がる髪は水気を帯びて立体感を無くし、重力に逆らうことなくまっすぐ下を向いて並ぶ。
髪の先端からは雫がしたたり落ちてフローリングの床を濡らしていた。
・・・そう言えば、風呂上りの大河なんて初めて見るよな。
普段と少し違う雰囲気に大河を直視し続けられなくて、竜児の目線は何となく大河の足元へ行く。
小柄すぎる大河に相応しく、華奢な足が全身を支えていた。
その細すぎる足首が竜児の心にさざ波を生む。
「と、とにかく、渡したからな」
動揺を見透かされない内にと、竜児は押し付けるように大河に浴衣を手渡す。
「ちゃんと髪、乾かせよ」
動揺しつつも大河のことを気にかけずにはいられない竜児。
「うん・・・ねえ、竜児」
「な、なんだよ?」
「やって」
「何を?」
「・・・髪」
乾かすのを手伝えと言う大河。
いや、それはとためらう竜児に大河はひと言お見舞いする。
「私はねえ・・・傷心なの・・・どうしてか分かる?」
「分かるような、分からないような」
予習範囲外の問題を教師に指名されて、黒板前に立たされた心境で竜児は答える。
「じゃ、分かるように言ってあげる」
分からないの、駄目な生徒ねと模範解答を示す教師のように大河はおごそかに口を切った。
そしてそのまま大河は竜児に顔を近づけ、身を乗り出すようにする。
竜児は思わず後ずさり。
別段、大河の迫力に押された訳ではない。
いくら哀れとか言われようが、あるべき物はあるのだ。
バスタオルの布地越しにささやかに存在を主張する双子の丘陵地帯が竜児に異常接近。
ニアミスどころではなく、接触事故すら起きそうな状況に竜児は操縦桿を引いたのだ。
「あんたが・・・竜児が初めてなんだからね」
「初めてって・・・何がだよ?」
「とぼけないで・・・見たでしょ・・・さっき・・・私のし・・・した・・・・・・ぎすがた」
大河の入浴後で赤っぽい首筋がますます赤みを増す。
そこまで言われて竜児も気がついた。
あんな恥ずかしい姿、見られたなんて、私の心は割れたガラスのように傷ついてるのと大河は被害者意識全開。
あれは事故だったと言う竜児の弁解は何ひとつ聞き入れられることなく、判決は下される。
「分かった。やってやるよ」
そこへ座れと、鏡の前にある椅子を竜児は指差す。
・・・だいたい、下着姿もバスタオル一枚も同じじゃねえか、どう違うんだよ。
複雑な女心の前にあって竜児のつぶやきも虚しいばかりだった。




「こんなもんか?」
「うん、まあまあね」
髪を乾かすだけにまあまあも無いもんだと竜児は思うが、大河が満足そうなので黙っていることにした。
大河は軽く小首を傾けると、右手で髪を根元から先端へ向かってさっと梳く。
竜児の前で、まるで生きているかのように大河の髪はふわりと空気に浮き上がる。
そのまますっと大河は椅子から立ち上がり、竜児の前を横切りバスルームを出て行く。
「・・・待たせちゃったけど、竜児も入ったら」
ドアのところで竜児を振り返り、大河は言う。
「ああ、そうさせてもらう」
「・・・あのね・・・竜児」
「何だよ?」
「さっきのお礼に背中、流してあげようか?」
「・・・デッキブラシでか?」
「もういい・・・たわしで体、洗ってれば」
ぷいと言う感じで大河はバスルームのドアを外から閉めた。
・・・もしかして、本気で言ったのか? あいつ。
閉じられたドアの向こうを想い、竜児はしばらく動けなかった。



浴室の中はすっかり湯気で満たされていた。
・・・大河、換気扇くらい回せ。
スイッチを入れようとした竜児は湯気と共に閉じ込められた微かな香りに気がついた。
どこか懐かしさを覚える香りはあきらかに大河がいつも身にまとっているフローラルな匂い。
・・・ま、いいか。
竜児はスイッチに掛けた指を離すと湯気と一緒に大河の残り香を鼻腔に収めた。

中は安っぽいユニットバスではなく、なかなか本格的な作りになっていた。
そんなわけで、簡単にシャワーを浴びただけで、出ようとした竜児は広々とした浴槽を見て気が変わる。
浴槽には満々とお湯があふれており、大河が入ったのか長い髪が一本、ゆらゆらと漂っていた。
・・・使った後も流さないで、ホントにあいつは・・・。
そう思いかけて、竜児は考えを変える。
・・・俺が入ることまで考えてたんだよな。
結構広い浴槽は空の状態からお湯がいっぱいになるまでかなりの時間がかかりそうな代物だった。
・・・もったいない。入ってくか。

我知らず、竜児は「ふう」と吐息をつく。
ぱしゃりと顔にお湯を掛けて、ふと竜児は気がついた。
・・・大河が入ってたんだよな、このお湯。
まるで大河がすぐそばに居るような錯覚を感じて、竜児は落ち着かなくなる。
ふいに竜児の脳裏に浮かんだのは、さっきの大河の姿。
ワンピの下に着ていた薄手の中着を通して見てしまった雪のような白・・・。
バスタオル姿で竜児の前を横切る大河・・・。
・・・女の子・・・なんだよな・・・大河も。
当たり前すぎて、意識していなかったことが竜児の前に明瞭に浮かび上がる。
居たたまれない様な気持ちを覚えて、竜児の頭は湯船の中に沈没する船みたいに沈んでいった。



草木も眠る丑三つ時。
深夜も深夜、いい加減、眠気も限界になってきた頃。
バスルームから出た竜児を出迎えたのは心地良さそうな大河の寝息だった。
自分のベッドに潜り込み、あどけなさそうな顔して眠っている。
窓際のテーブルには大河が飲んでいたとおぼしき飲料の残骸・・・。
竜児は半分以上残った飲み掛けを手にすると口に含んだ。
わずかに広がる炭酸・・・ガス入りのミネラルウォーター・・・。
備え付けの冷蔵庫を開けると、いろいろ入っているのが分かるが、大河の好みに合いそうな物は無さそうだった。
・・・仕方無しに水か・・・炭酸入りじゃまずかっただろな。
さっき風呂場で感じた苦味と共に竜児は炭酸を飲み込んだ。

部屋の照明を最低限へ落とし、竜児も就寝準備へ取りかかかる。
眠気を覚えながら、竜児は自分のベッドに腰を下ろし、隣のベッドで眠る大河を眺めた。
その大河は肌掛けを蹴っ飛ばし、足をコロンと出す。
仕方ない奴だなと竜児は掛け直してやる。
寝ている大河を上から見下ろす形になった竜児。
見慣れているはずの大河の寝姿・・・。
見慣れているはずなのに・・・と竜児は思う。
見つめていると鼓動がいつもより早くなるのは・・・なぜだ?
このまま、大河を見ていると・・・何かをしてしまいそうな危うい予感に竜児は、早々にベッドへ潜り込むことにした。

竜児はベッドで横になり、目を閉じた。
眠気はすぐにでも襲ってくるはずだった。
眠りに落ちる直前、竜児の耳は微かな音を捕らえた。
・・・う、ううう、ううう、ああ、ううう・・・
それは断続的に聞こえる苦しげうめき声。
一瞬、オカルト的なことを想像した竜児だったが、その声の発信元がすぐとなりだと気がついた。



「大河!」
竜児はベッドから跳ね起きると、寝ている大河のベッドを覗き込む。
さきほどまでの心地良さそうな寝顔ではなく、苦しそうな表情を浮かべ、大河はうめいていた。
「大河!!」
竜児は反射的に大河の肩を掴むと激しく揺り始める。
大河はすぐに目を開いた。
大河の目は焦点を合わせ、竜児を認識させる。
「・・・あ、・・・りゅ・・・うじ・・・」
「そうだ、俺だよ」
「・・・良かった・・・竜児が居てくれた」
心の底から安堵するように大河はつぶやいた。
「どうしたんだよ?いったい・・・」
大河のベッドサイドに腰を下ろした竜児は真下で横になっている大河に問い掛ける。
「・・・寝ちゃったんだ、私」
「ああ、俺が風呂から出たときは気持ちよく寝てたぞ」
「竜児が出てくるまで起きてようと思ったんだけど・・・いつのまにか寝ちゃった」
私、駄目だね・・・と言わんばかりの口調で大河は竜児を見る。
「なんか大河、うなされてたけど・・・」
「恐い夢・・・見ちゃった・・・久しぶりに」
「恐い夢って・・・お化けでも出たのかよ?」
「・・・違うよ・・・・・・ひとりぼっちになっちゃう夢・・・」
大河の物言いがひどく淋しげだった。
「最近、ずっと見なかったから安心してたのに・・・枕、変わったせいかな」
大河が発した言葉の端はこれが初めてでないことをうかがわせた。
「・・・竜児」
じっと竜児を見つめる大河。
「なんだよ?」
「起してくれて・・・ありがと」
「そ、それくらいなんでもねえぞ」
「うん・・・だけど・・・ありがとう」
そこにいるのはあの倣岸不遜な大河だろうかと、竜児をして思わせるほど積み木細工のように頼りなげだった。

「前は良く見たんだよね・・・この夢・・・あのマンションに来た頃は特にね」
・・・朝起きると誰も居なくて、ひとりぼっち・・・パジャマ姿の私は家の外へ飛び出すんだけど、誰も居なくて。
・・・無我夢中で走ってずっと昔、パパとママと住んでいた家にまで行くんだけど・・・そこにも誰も居なくて。
・・・あちこちドアを開けるけど・・・誰も居ないの・・・それで、最後に残ったドアを前にして、私は足がすくむの。
・・・このドアの向こうに誰も居なかったら・・・そう思うと恐くてドアノブに手を掛けらんないんだ。
・・・でも、おかしいの・・・勝手に手が動いて、ドアノブを掴むのよ。
・・・自分では駄目だって思ってるのに止められなくて・・・。
「夜中に何度かそれで起されちゃったことあるんだ」
竜児は胸をえぐられる様な感触を味わっていた。
大河が受けたであろう心にある傷の深さを思い知らされた気がして、言葉を失う。
竜児があのマンションの部屋に初めて灯った明かりを見たのは中学3年の冬の始まり。
平面直線距離で10メートルに満たない距離でお互いに相手を知らないで寝ていたことになる。
ベランダの向こう・・・厚いコンクリートの壁を挟んで、十四歳の大河が真夜中に悪夢で跳ね起きることを繰り返していたなんて・・・。
・・・・・・むごすぎるだろう、絶対。



「でも、今日はドアの向こうに・・・竜児が居てくれた・・・だから、ありがとうなんだよ」
「・・・夢の中までは、俺も助けに行けない。でも、嫌な夢を見ない手助けくらいは出来ると思う」
「うん、そばに居てくれるだけで・・・十分だよ、私」
「そんなんじゃ足らねえ・・・」
薄手の肌掛け布団からはみ出すように出ている大河の左手。
竜児はその手に自分の手を重ね合わせた。
「大河がまた寝付くまで、ずっとこうしててやる。だから・・・安心しろ・・・お前はひとりなんかじゃない」
「・・・うん、竜児・・・ありがとう」
泣き笑いのような表情を見せた大河は何回目になるか分からない感謝の言葉を竜児に送り出す。
「もう、寝ろ・・・夜、遅いんだから」
「そうだね・・・がんばるよ」
そう言うと大河は瞳を閉じた。
竜児は重ねた手の先から、大河の悪夢を追い出せるように念を込めた。
迷信でも何でもいい・・・大河を悲しませる全ての存在を消し去ってしまいたかった。
「ね、竜児」
しばらくして大河が目を開ける。
「眠れないのか?」
「ううん・・・大丈夫だと思う。それより、こうしてたら竜児が眠れないじゃない」
「俺はいい」
「良くない。あんただけ起きてて、私だけ眠れないよ・・・もう、独りでも平気だから」
「本当に大丈夫か?」
「うん、竜児からパワーをもらったからね」
大河は自分の左手の上に置かれた竜児の手に右手を伸ばし、そっと包むような感じをつくった。
「・・・大河がそう言うなら」
「そうだよ・・・竜児、おやすみ」
竜児は大河に重ねた手を解放すると自分のベッドへ潜り込んだ。
「おやすみ・・・大河」
「おやすみさない・・・竜児」


コーと言う空調の静かな音だけが辺りを支配していた。
竜児はなかなか寝付けず、薄暗闇の中、天井をじっと眺める。
となりの大河も寝付けないのか、時折、寝返りを打つ音だけが聞こえて来る。
竜児は大河に声を掛けた。
「大河・・・眠れないのか?」
「・・・うん・・・・・ねえ、竜児」
「なんだよ」
時計の秒針が半回転するくらいの間を開けて大河は言い出した。

・・・・・・そっちへ行っても・・・いい?



6を通過した秒針が10を通り過ぎた頃、竜児は大河へ返信のサインを送った。
「狭いぞ」
そう言いながら、竜児は体をひねり、ひとり分のスペースを生み出した。

浴衣とシーツがすれる音がして、やがてベッドの左側に重みが掛かった。
竜児の枕の隣に自分の枕を置くと、少し窮屈そうに大河は竜児の隣に身を横たえる。
体の左側が全てセンサーにでもなってしまった様な気分を味わいながら、竜児は大河の体温を感じ始めた。
やや幅広と言っても基本的にはひとり用のベッド。
竜児と大河は身を寄せ合うように仰向けになって一枚の肌掛けを分け合った。

「・・・断わられたら・・・どうしようかと思った」
詰めていた息を吐き出す様な大河の口調。
「断んねえよ」
「どうして?」
「高須大河なんだろ? ・・・今夜は」
「そうだった」
「忘れっぽいな」
「そんなこと無い」
「まあ、いいさ」
「・・・あのね、竜児」
「おう」
「竜児がとなりに住んでてくれて、私、どれだけ安心できたか分からない・・・前にも言ったよね、あんたの家、居心地がいいって」
「そうだな」
「独りになるマンションに帰るのが恐かったんだ。でも、竜児と仲良くなれて・・・それからはだんだん恐くなくなっていった」
「どしてだよ?」
「だって、窓を開けて大声を出せば、アンタが寝てる部屋に声が届くもん・・・すぐそばに居てくれるって分かったら、あの広い家も苦じゃ無くなってきた」
「今だって、こんなに近くに居るだろ。だから安心しろ」
「・・・うん」
そう答えたものの大河の声は不安がにじんでいた。
「竜児・・・ずっと居てくれるよね。私のそば」
「ああ、大丈夫だ」
「本当に?」
どこかすがりつくような大河の声。
「ああ、間違いねえ」
これだけ念を押しても大河は納得しなかった。

「・・・嘘だよ、竜児」
何度か同じ言葉の応酬の後、大河の声に諦めとも言える調子が混じった。
「嘘、じゃねえ」
「・・・やっぱり、嘘」
しつこいくらいに絡む大河。
「何が嘘なんだよ!」
竜児の声が少し強くなる。
大河は黙り込むと顔を竜児の方へ向けた。

・・・だって、竜児は・・・みのりんが・・・・・・。



竜児の耳元でそうつぶやくと大河は竜児と共有している肌掛けの中に体ごと潜り込んだ。
掛け布団の中からくぐもった声で大河は訴える。

・・・いつか、竜児とみのりんは両想いになる。
・・・そうしたら、私の居場所が無くなる。
・・・もう、竜児に頼れない。
・・・ずっとそばに居て欲しいのに・・・。
・・・応援してあげる何て言いながら、本当は恐かった。
・・・今も・・・恐い。

竜児は大河に掛けてやるべき言葉を見つけられないでいた。
何を言っても誤魔化しにしかならないような気がして・・・・・・。


肌掛けを少し跳ね上げ布団の中から、大河は顔だけを見せ、猫のような瞳で竜児を見る。
「ね・・・竜児」
「・・・」
「・・・竜児とだったら・・・私・・・いいよ・・・後悔しない」
「・・・大河」
「誰だっていつかはそうなるんだもん・・・だから、ね・・・竜児」
「・・・無理すんな」
「無理じゃない・・・私・・・大丈夫だから・・・竜児が居てくれるなら・・・」
「・・・・・・大河」
「お願いだから・・・今だけ・・・今だけ・・・忘れて・・・みのりんのこと・・・・・・忘れてよぉ・・・」

大河の気持ちがダイレクトに伝わって来て、竜児の心は大嵐の中を進む小船みたいに揺さぶられた。
情動はこのまま直進することを求め続け、理性はその危険性を訴え続けている。
アクセルとブレーキを同時に踏みながら、危うい均衡の上で竜児は踏み止まっていた。

「・・・そんなに・・・私・・・魅力ない? 竜児が望むなら・・・何だって・・・」
「・・・そんなこたあ・・・ねえぜ。大河は魅力的だ・・・それもとびきりな」
「じゃあ、どうして? ・・・どうして・・・何もしないの・・・・・・」

大河が望むなら・・・このまま・・・・・・。
竜児のブレーキを踏む力がだんだん弱くなる。
そろりと・・・動き始める車の先に見える急な下り坂。
あそこまで行ったらもう戻れない・・・。

・・・竜児は目を閉じた。



竜児の右手が大河の背中にそっと触れる・・・。
ピクリと大河は身を震わせ、体を固く強張らせた。
竜児の手は大河の背中を軽くノックでもするみたいに叩く。
すっと大河の全身の緊張が解け、大河はもぞもぞと動いて顔を竜児の胸にうずめた。
竜児は大河の背中に回した手に力を入れ、大河の体を引き寄せる。
薄い布地を介して大河の温もりが竜児に伝わり、竜児は大河を軽く抱きしめた。
折れてしまいそうなくらい細い大河の体。
「んん・・・ん、ん」
微かに聞こえる大河の吐息のような声。
竜児は少しづつ腕に力を込めて行き、最後に思いっきり強く大河を腕の中に囲い込んだ。
竜児は全身を通して大河を感じていた。
・・・こんなに小さな体で頑張ってきたんだよな、大河は。
・・・大河が俺を必要とするなら俺も大河を必要とする。
・・・だけど、遠い将来まで、今は約束できない。
・・・でも、何があろうと俺は大河のそばを離れない。
・・・約束する。
だから、それだけは分かって欲しい・・・なあ、大河。

大河に掛けてやる上手い言葉が見つけられないまま、ただ、大丈夫だよと竜児は大河に言い続けた。




嗚咽ともとれる声にならない声が竜児の胸の辺りから聞こえて来る。
もしかしたら大河は竜児の胸にぎゅっと顔を押さえつけ、泣くのを我慢しているのかもしれなかった。
そんな大河をどうしてやることも出来ない竜児。
時々、震える大河の肩が竜児には辛かった。
その震えが少しでも小さくなるようにと、大河を胸の中に抱きしめ続ける。
ただ、大河の頭を壊れ物みたいにそっと撫でてやることで慰めてやるしか出来なかった。
ふと思いついて竜児は口ずさむ・・・。
それは竜児が幼かった頃に泰子がたびたび歌ってくれた子守唄だった。
どこの国のメロディーか分からない外国語の響き。
歌詞の意味なんて分からないけど、心にしみるような調べは竜児が歌っても変わらない。
竜児は繰り返し、何度も歌う。
歌うたび・・・大河の震えは小さくなり・・・やがて、止まった。

そっと竜児が肌がけを取ると、大河は体を丸めて眠っていた。
さきほどまでの激情がうその様な穏やかな寝顔。
大河を見下ろしながら竜児は自分の胸の辺りに手を触れる。
指先にわずかに感じる湿り気が、さっきまでの大河を物語っていた。




「頭・・・痛い」
「・・・自業自得だ、ワイン一本あけたんだからな」
「大きな声出さないで・・・響くから・・・まさか、お酒だとは思わなかった」
「どういう味覚してんだよ」
「だって、飲んだこと無いから・・・どんなものか分からなかったんだから仕方ないでしょ」
大河は開き直る。
「高校生で酒飲みなんて・・・とんだ不良娘だな」
「じゃ、そういうアンタは何なのよ?」
「俺は別に疚しいことはしていねえ」
「ふ〜ん・・・寝てた私を同じベッドに連れ込んだくせに・・・目が覚めたら、竜児の顔が目の前・・・心臓止まりかけたじゃない」
「連れ込んだ覚えはねえ」
「じゃあ、この私がふらふらとアンタのベッドに潜り込んだとでも言うの?この私が」
あごをそらし、竜児をにらむ大河。
・・・事実はそうなのだが・・・大河は違うと主張する。
ルームサービスで運ばせた朝食を部屋で食べながら、繰り返される論議。
「・・・なんか、コース料理を食べてる途中から記憶があいまい・・・体がポカポカしてきたのは覚えてるんだけど」
「何も覚えてないと・・・そう言いたいんだな、大河は?」
「・・・そ、そなの・・・覚えてなくて・・・変なこと言わなかったよね」
若干、きょどり気味に言う。
もし言ってたとしたら、それは幻なんだからと大河は念を押す。
・・・こいつ、女優にだけはなれねえな。
・・・下手すぎる。
「・・・何も言ってねえよ、大河は・・・ずっと寝てたからな」
「ほら、みなさい・・・これは罰として没収」
そう言うと大河はさも安心したように竜児のトーストを一枚、分捕るとおいしそうにほおばり始めた。





「あれ、涼しいね」
「本当だ」
空調の効いたホテルから外へ出たふたりを包む、さわやかな空気。
「夏も終わりだな・・・」
「夏休みもね・・・だから、最後の一日、楽しもうよ」
このまま、どこかへ行こうとねだる大河。
「お前・・・大事なこと忘れてるだろう」
「何?」
「とぼけるな!宿題だ」
「ちっ・・・覚えてたか」
作戦失敗と大河は悔しがる。
「それに早く帰らないと・・・泰子が起きる」
「あ・・・やっちゃん」
「そうだ、メシ作ってやんねえと、大騒ぎになるぞ」
「じゃあ、急いで帰らないと・・・」
外泊したくらいで目くじら立てる母親ではないが、その外泊相手が大河だと知れた日には・・・。
竜児は武者震いを感じる。
・・・何を言われるか分かったもんじゃ、ねえな。
「ああ、急ぐぞ」
「それなら・・・駅まで競争」
そう言うや、昨日と同様に大河は走り出した。
「お、おい、大河」
走り去る大河に声を掛ける。
「置いてくよ、竜児」
昨日と違って大河は糸の切れた凧みたいに飛んで行ったりしなかった。
30メートル先で立ち止まり、竜児の方を振り向く。
「早く!・・・グズ犬・・・って言うからね」
笑ってる大河。
その笑顔が誰でもない・・・竜児にだけ向けられたものだと、竜児は感じ取っていた。

竜児の手のひらに載る小さなガラスの靴。
夜更かしなシンデレラが残していった、あの夜の痕跡。
魔法が見せた真夏のシンデレラは秋の訪れを惜しむように竜児の前を駆け抜けて行った。

・・・また、穿かせる時が来るまで、大切に持っているよ。


竜児は大河へ向かって走り始めた。







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