恋ヶ窪ゆり独身(30)は選択を迫られていた。

選択と言ってもイケ面エリート会社員とアラブの第3王子から同時に求婚されて、そのどっちの手をつかんでいいのか決めかねていると言うビッグな選択でもなければ、今日の夕食を外で食べるか、家で食べるかというちっぽけな選択でもない。
恋ヶ窪ゆりは今までの人生で、大きな間違いもしていないし、人から後ろ指を指される様なこともしていない。
多少、狙った彼氏に逃げられたくらいである。
それが目の前にあるドアをノックしてしまうと、間違いなく犯罪者になってしまうという状況に立ち、ドアをたたくか立ち去ってしまうか、その選択に悩んでいたのだ。
校長室とプレートの出ているドアの前でゆりは固まっていた。


どうしてこんなことになったのかと言えば、話は2時間前に遡る。
それは受け持っている授業がない空き時間だった。
後輩(仮氏持ち)がバレンタインにチョコを上げたとか、それからどうなったとか、聞かれもしないのにしゃべりまくるのをうざいと思いながら、ゆりは職員室で事務作業をしていた。
その作業はある意味、教師として一番やりたくない性質の物かもしれなかった。しかし、それは担任としてやらざるを得ないものだった。
「はっ」と小さくため息をついてから、ゆりは30センチ定規を取り出し、A4サイズの黒表紙を開くとその用紙の一箇所にボールペンで2重線をゆっくり引いていった。
黒いインクが伸びて、紙の上に記された文字に掛かる。
ゆりはしばらくためらってから、ボールペンを動かした。
一文字、一文字、ゆっくりと消して行き、やがて4つの漢字が黒い線の下敷きになって消えた。
つい、数秒前までそこには「逢坂 大河」と4文字の漢字が書かれていた。
この瞬間、2年C組の出席簿から「逢坂 大河」の名前が永久に消えたのだ。
教師を10年近くやっていれば、ゆりは何回かこんな経験をしてきた。だけど、何回目でも教え子が途中でいなくなるというのは嫌なものだとゆりは思う。
たとえ、いなくなった生徒がクラスの問題児でもだ。
そんなゆりが物思いにふけってぼんやりしていると急に電話だと同僚から呼ばれた。
あせって湯飲みのお茶をこぼしかけながら電話に出ると、電話の主はたった今、名前を消した逢坂大河の保護者だった。
あたりさわりのない挨拶の後、相手が切り出した用件は娘の大河が地元の高校へ編入するので必要書類を送ってもらいたいというものだった。
たいした手間でもないので、ゆりはふたつ返事で引き受け、今日中に発送することを確約した。


必要な書類は成績証明書、他だった。
仕事自体は学校指定の用紙に必要事項を転記するだけで良かった
ゆりは用紙を探し出すと、学年主任の机から成績原簿を自分のデスクへ持って来て、該当ページを探した。
それは原簿の真ん中辺りのページで見つかった。
所属クラスと出席番号、そして名前。
その名前の欄の横に赤いスタンプで「除籍」とあるのが痛々しい。

化学81、英作文97、国語U92・・・


授業態度、最悪だったけど、出来た子だったのよね、逢坂さん。
改めて、ゆりはそう思った。
成績証明書は簡単に出来上がったが、次の書類でゆりは考え込んだ。
・・・どうしよう、これ。
出席日数を記入する欄がいくつか並んでいる。
その中に「停学、出席停止等に関する欠席日数」というのがあった。
・・・あの子・・・経歴に傷があるのよね。
ゆりの眉間に少ししわがよった。
先の生徒会長と繰り広げた大立ち回りの記憶はゆりも未だ生々しい。

普通ならば、そのまま出席簿の出席日数を転記すればいい。
しかし、なぜかゆりはためらった。
あ〜もう・・・とゆりは頭を掻いた。
なんで、学校を辞めたあんな小娘のために私が悩まないといけないのよ・・・。
一息つこうとゆりは立ち上がった。



外の風に当たりながら、ゆりは大河が編入を希望する学校がどんな学校なのか気になった。
しかし、遠方の学校のこと、ゆりにはそれを知るすべが無かった。
そんなゆりがふと思い出したのは教育学部時代の友人が向こうの県で教師をやっている事実だった。

アドレス帳をめくり、久しぶりに聞いた友人の声は昔ながらに元気そうだった。
近況を簡単に報告しあった後、ゆりは本題を切り出した。
「ああ、あそこ、一言で言えば地元の名門ね。歴史あるし、校風はちょっと古臭い感じの女子高。レベルはそこそこ高いわよ。昔風に言うなら良妻賢母育成の学校ね」

礼を言ってゆりは電話を切った。
ふうと息を継ぎ、ゆりは思案顔になった。

教師経験の浅いゆりでも、ああいった学校が何を重視するのか薄々分かる。
生活態度だ。
学力も必要だろうが、何よりもそれが重視される。
停学有りなんて論外だ。

う〜、あ〜言いながらゆりはそれから書類を完成させた。
最後に生徒氏名を記入する欄にいつもの癖で生徒の名前が入ったゴム印を押そうとしてゆりは止めた。
ペンを再び掴み、楷書で記入した・・・逢坂 大河・・・と。
もう2度と記す事の無い名前だった。

さて、書類を有効にするには学校長の印が必要だった。
出来た書類を胸に抱き、ゆりは校長室へ向かった。

結局、出席日数は誤魔化せない。
ゆりは悩んだ末、問題の欄に12という停学日数を正しく記し、欄外の備考に「インフルエンザによる出席停止」と虚偽の理由を書き込んだ。


・・・これって有印公文書偽造ってやつ。


校長が目の前ではんこを押すのを見ながらゆりはそう思った。
私もとうとう犯罪者。
あ〜あ、やっちったぜ。

びくびくしながら校長室を退出しかけたゆりを校長が呼び止めた。

「恋ヶ窪先生」
「はいっ!」
すねに傷のあるゆりは1オクターブ高い声で返事をした。
「何でしょう?」
「うん、僕も長いこと教職についているけど・・・生徒のために良かれと思ってすることなら、大概は許される・・・はずだな。うん」




・・・バレてる。
記載事由が出鱈目なのが・・・。
ゆりの背中を冷や汗が流れるが、そこはゆりとてもう30代。
にっこり笑い、「そうですね、校長」と大人の対応。
妙な化かしあいをしながら、職員室へ戻って来たゆりはどっと疲れを感じ自分のデスクの椅子へバタンと体をあずけた。
・・・たく、今ので目じりのしわが増えたら、どうしてくれるんだよ、逢坂さんよお。責任取れよな。
・・・聞けば、高須竜児といい仲なんだって・・・けっ・・・やってらんねーよ。
・・・私より先に結婚でもしてみやがれ、末代まで祟ってやる。

・・・ま、今回のは何もしてやれなかった私からのはなむけだと思って受け取ってよね。
・・・伝わらないか、そんなもの。
・・・でも、まあいいわ。
・・・元気でね、逢坂さん。

キーンコーンカーン

聞こえてきたチャイムに恋ヶ窪ゆりは英語教師の顔に戻り、教材を手にすると職員室を足早に出た。







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