「お前って本当にネコみたいだよな……」
丸まった物体が、ふぇ? と、寝ぼけ眼で素っ頓狂な声を上げる。
「おう、悪い。起こしちまったか?」
返事はない。ただの寝言のようだ。高須竜児は安堵する。相手はあの手乗りタイガーだ。
安眠を妨害したことが知られたら、どんな仕打ちが待っているかわからない。
今の時点では静かに寝息を立てているが、いつ凶暴な獣に変身するかわからないのだ。
もっとも、ここ最近は「手乗りタイガー」を見ていない気がする。
思い返せば、晴れてお互いの想いを伝え合って以来、だ。
恋人が出来たといって、変わるような女だとも思わなかった。
ましてや、恋人になったのは気心の知れたサンドバッグ、竜児なのだ。
大河が丸くなりつつあるのは、竜児にとっても周囲にとっても大変喜ばしいことではあった。
暴力を受けないのは、少しスキンシップが減ったみたいで寂しくもあったけれど。
「……ん……お味噌汁の匂い……」
「おう、起きたか。早く食っちまえ。帰り、早いんだろ?」
平日の大河は弟の世話で忙しいし、土曜日の午後がわずかな逢瀬を楽しむ時間だ。
学校では顔を合わせるけど、クラスは違うしあまり一緒にいる時間はない。
なので、大河も竜児も土曜の午後を楽しみに毎日を過ごす生活になった。
たいていは大河が竜児の家へ来て、かつてのようにダラダラと過ごすだけなのだけど。
そして、竜児の作る夕御飯を食べて、家まで送っていってもらう、というのがいつものパターンだ。
「そういえば、竜児。寝ているときに何か私に話しかけなかった?」
「起きてたのかよ? いや、大したことじゃないんだが……」
「何?」
「お前、ネコみたいだなぁ、と思ってさ。」
「私が? なんで?」
大河がびっくりとして目を丸くする。
それでいて少しつりあがって、瞳には三日月を宿しているようで。
そうさ、その目だってネコみたいなんだ、と竜児は思う。
「だってさ、お前、寝てばっかりだろ?
丸まってて、その……なんか柔らかくてあったかいしさ。
ネコでも飼い始めた気分だな、と思ったんだ。」
「おーやだ、おぞましい。
私が寝ているのをいいことに、あんなことやこんなことをしたのね。このエロ犬。」
「人の膝を枕にして寝始めたのはお前だろ!」
「何のことかしら?」
「お前もう、逢坂『寝子』に改名しろ!
ネコだってもともと、『寝る子』が由来らしいし。」
「なんでそんな変なことに詳しいのよ、この変態無駄知識犬!」
「雑学って言えよ!」
傍から見れば、以前と変わらないやりとりかもしれない。
それでも、何とも言えない丸さが出てきた、と竜児は思う。
なんというか、以前は言葉の端々に、角みたいなものがあったのだ。
本当に色々あったけど、紆余曲折を経て大河も変わりつつあるのだろう。
これはきっと、いい傾向なのだ。
外見から恐れられる竜児とは違って、大河は見た目はいいのだ。
そのうち大河も、必要以上になどと恐れられることなどなくなるのだろう。
そう、竜児は「忘れていた」のだった。
* * *
「おう、大河と高須くんじゃん!」
向こうで手を振るのは、大河の大親友にして竜児の戦友、櫛枝実乃梨。
思い出深いことも、思い出したくないことも、色々とあったのも今となってはいい思い出。
実乃梨との関係を考えたとき、なんとなく戦友という言葉が一番近いのではないのかと思う。
(確かにあれは強敵と書いて「とも」と読むほどの強敵だったさ!)
「ヒューヒュー、手なんか繋いじゃってお熱いねぇ、お二人さん。
見てるこっちまで暑くなっちまうぜ。
いや、実際今日暑いけどねぇ。」
実乃梨はボヤきつつ、キャミソールの胸元を指でつまみパタパタさせるのだ。
そうすると、必然的に竜児の目線からはTANIMAがはっきりと見えてしまうのだ。
今はもう決着がついたとはいえ、かつての想い人のTANIMAだ。
何より、反応しないのは男として失礼な行為……かどうかは別として、竜児は思わず赤面してしまう。
「あれぇ? 高須くん、どうした? 熱でもある?」
そう言って実乃梨は顔をずい、と近づけてくる。
そうすると、なおさら見えてしまうのだ。実乃梨の無防備なTANIMAが。
実乃梨とマンツーマンなら、「お前は無防備すぎるんだよ!」「もーう、高須くんのSU☆KE☆BE」とでも軽口を叩けるのだろう。
しかし、今はヤキモチタイガーの目の前だ。
ヤキモチタイガーの恐ろしさは去年の今頃思い知らされている。
だから、大河と付き合うようになってからは、ヤキモチを妬かれるようなことは慎んできた。
亜美もちょっかいをあまり出さなくなったし、あまり出されないように努力もしてきたのだ。
「本当に大丈夫? 竜児?」
「おう、いや。天然って怖いな、って思っただけだ……」
返事のない竜児に心配したのか、傍らの大河が見上げてくる。
きっと、これが一番無難な返事なんだろう。
大河と実乃梨が大きなクエスチョンマークを掲げているけれども。
「あ、大河。こないだ借りたCDなんだけどさ。
週明けに学校で、でいいかな?」
「うん、それでいいよ。
じゃあね、みのりん! また学校でね!」
そうやって、実乃梨に別れを告げるのだった。
再び歩き出してしばらくして、
「みのりんと話してたら暑いって気づいちゃった!」
「お前はもう少し主体性を持てよ……」
「何とでも言うがいい。今の私はすごくアイスが食べたい気分なのだ」
「はいはい、コンビニな……」
「よろしい」
「帰ってから食べるんだぞ?
コンビニの駐車場で食べるなんてだらしないまねは許しません」
「ちぇー」
大河は口をすぼめ、手で顔をあおぐ。
こういう状態になったら従うしかない。
幸い、大河の家の目の前にコンビニがあるしそこに寄るくらいなら大丈夫だろう。
コンビニの自動ドアをくぐると、そこは天国であった。
「あー、涼しいー!」
「本当に、この瞬間は嬉しいよな」
こんなに冷房効かせすぎなんてMOTTAINAI! ということは頭ではよく理解している。
しかし、体は正直なのだ。エコロジーに逆行する自分の体を恨めしく思う瞬間だ。
「竜児、ちょっと本見てく!」
「おーい、門限……って、お前早いな! おい!」
もう大河は、ファッション雑誌を開いていた。こうなると、20分は動かないはずだ。
お店に迷惑だろ、と思うのだが、「それ以上に買い物で還元するからいいのよ」と大河理論を持ち出されると反抗する気も失せてくる。
観念して、竜児は店の外に出て携帯電話を取り出し、ある番号に電話する。
「あー、もしもし。高須ですが」
「あら、高須くん。どうしたの?」
「今大河を送って家の前のコンビニまで来たのですが、少し遅くなるかもしれません」
「あらあら、またあの子ね」
「まぁ、その、何というか……」
「近くまで来てるならいいわ。あまり遅くならないようにあの子に伝えてね」
「はいわかりました、申し訳ありません……」
「いいのいいの、いつも大河を送ってくれてありがとうね」
ふう、と竜児は息をつき、電話を切る。
まだやはり、大河の母と話すのは慣れない。
一応の門限はあるのだが、連絡をしっかりすれば大丈夫だ。
だいいち、門限に遅れる場合の原因は必ずといっていいほど大河だ。
大河の母も、きちんとそれは理解してくれているようだ。
(どれだけ信用してもらってないんだよ!)
竜児としては門限を破らせるつもりは全くないし、破ろうとしたこともない。
あれだけ眼前で大々的なエスケープをかました割には、信用されているようで何よりだ。
自分の誠実さも伝わっているようだし、今まで真面目に生きてきてよかったな、と竜児は思う。
コンビニの中に戻ると、大河はまだ雑誌を読んでいた。
仕方ないので、竜児も付き合うことにし、適当な漫画を手にした。
「あ、ばかちー」
突然隣にいる大河が、竜児に向かって雑誌を突きつけてくる。
よくわからない特集コーナーで、亜美はなぜかお好み焼きを焼いていた。
その鉄板を見て竜児は一言、
「やっぱり大きいっていいよな……」
としみじみ呟く。家のホットプレートじゃ小さいのだ。
それだけ大きい鉄板があれば何枚も一度に焼けるし、竜児の腕も存分に発揮できるだろう。
泰子の店に行ったときに、しみじみと思い知らされたのだ。
この時竜児に誤算があったとすれば、それは、女に欲情したときと家事全般に欲情したときの目つきがまったく同じである、ということだろう。
それを知る由もない竜児は、さらに畳み掛ける。
「あるといいよな……」
みるみるうちに大河が不機嫌になったのに、竜児は気づかなかった。
大河は雑誌を閉じて棚に戻し、竜児に背を向ける。
「私、帰るね。送ってくれてありがとう」
「お、おう。また来週な」
竜児が返事をしたときには、大河は既に自動ドアをくぐっていた。
別に不思議に思わなかったし、単に眠いのだろうと思うことにした。
あれだけ昼寝したのに、まだ寝たりないのか。
やっぱり「寝子」じゃねぇか。
竜児はまだ「思い出していない」のだ。
* * *
朝練のときにCDを部室に置き忘れた、放課後に返すから部室まで遊びに来てね、と言われて大河は女子部室棟へと向かう。
「おや、大河じゃん。 ようこそ女のサンクチュアリへ」
実乃梨はワイシャツを脱ぎ去ってスカートにキャミソール姿、器用にバランスボールに乗りながら扇風機を浴びていた。
あ゛〜〜、と声を震わせる古典的なネタまでしっかりとつけて。
「みのりん、ちょっとはしたないわよ……」
「いいじゃんいいじゃん、女の園だぜ。
見せたって減るもんでもないし。」
そう言いながら胸元をパタパタさせる実乃梨を見て、ふと気づく。
いつもは実乃梨を見上げる側だったから気づかなかったのだ。
実乃梨を上から見下ろすと、無防備な胸元が見えてしまうことに。
健康的な肌が創り出す谷間に、どうしても目線は釘付けになってしまうのだ。
「あの日はそういうことかよ……」
そう大河がボソリと呟いたのを、実乃梨は知らない。
――そして翌日、文系クラスにて。
「あれ、タイガー今日の弁当どったの?
枝豆ご飯に、大豆とひじきの煮物に、豆腐炒めに、豆乳……?」
「アホロン毛には関係ないことよ。黙れ」
* * *
折角の土曜日だというのに、大河の様子はおかしかった。
ゴロゴロと寝ているのはいつもと同じなのだけど、なんというか覇気がないのだ。
ここのところ急に暑くなってきたんだし、夏バテの前兆だったら困る。
今日の晩御飯はさっぱりしたものにしよう。
幸い、冷蔵庫には昨日作った鮭の南蛮漬けがある。
肉があまりないとだと大河は怒るかな、でもあいつは猫みたいだから魚も好きなはずだ。
大河のことを考えると自然と顔がニヤけてしまう。
「なにニヤニヤしてんのよ」
「おう、ちょっとお前のこと考えながら料理してたらつい、な」
「おおやだ、妄想の中とはいえ変なことしてないでしょうね?」
「そんなことはどうでもいい、こいつを見てくれよ!」
そう言って、本日の力作を並べたちゃぶ台を指差す。
「お前のためを考えて作った料理ばかりだ!」
「豆腐サラダ……に、豆腐のお味噌汁……?」
「重なっちゃったのは気にするな!多めに買っておいたんだ!」
「やっぱり、竜児も……竜児も……」
「それよりも、この南蛮漬けだよ!」
「おっぱい大きいほうが好きなんだ……!」
「おう、暑い中、汗だくになりながら頑張って揚げたんだぜ……えっ!?」
「そういうことは匂わすんじゃなくてはっきりと言えーっ!!」
目の前にいるのは猫なんかじゃなかった。
食いしばった歯はさながら牙、実際には尖っていないけれど存在感のある爪。
そして、なによりも瞳の底から罵倒するような視線。
そこにいるのは久々のご対面、まぎれもなく手乗りタイガー、だった。
* * *
畳に横たわる竜児はさながらヤムチャ、その横で大河は未だ牙を剥いている。
「な、何でこんな目に合わなきゃならねぇ……」
「何でだと思う?」
わかる訳ねぇだろ。
一つだけわかるのは、こいつが虎だってことをすっかり忘れていた俺が馬鹿だったってことだが。
それにしたって、こんな目に合わなきゃならないのは理不尽だ。
「俺が思うに、お前はたぶん勘違いをしている。
経験上、こういう時にたいてい何かあるのはお前の方だ」
「どの口がそういうことを言うの?」
虎のような目が、ぎろっと竜児を見据える。
射抜かれそうになるのを持ちこたえ、竜児は精一杯の抵抗を続ける。
「よくわからないけど、乳がどうのこうのとか言ってたよな?
どこからそういう話になるんだよ!」
「忘れたの? 先週みのりんと会ったときに、みのりんのおっぱい見てたでしょ?」
竜児はうっ、と口をつぐむ。
隠し通したつもりなのに、また隠せてなかったのか俺は。
「そして、コンビニのばかちーよ。
あんた言ったわよね、『大きい方がいい』とか『あるといい』とか。」
確かにいったような記憶がある、が。
記憶の糸を辿り、必死に思い出す。
「おう、あれは鉄板の話だ!」
「本当に?」
「こんなんで嘘ついてどうする!」
大河の目が、みるみるうちに丸くなる。
「まだあるのよ。じゃあ、今日の豆腐祭りは?
私の胸が大きく、とまでは無理かもしれないけどさ。
あるほうがいいってんなら、やんわり示すんじゃなくてはっきりと言ってくれない?」
「あれは単に、美味しい店の豆腐が安くてつい買い込んでしまっただけでな……」
「本当に? 私が先週大豆祭りしてたのに乗っかろうとしたんじゃなくて?」
「そんなこと知るわけねぇだろ!」
「え、じゃあ全部私の……ごか……い?」
「そうだよ!」
「あらやだ」
竜児が次の句を継ごうとした瞬間、ぐぅー、と大河のお腹の虫が鳴いた。
「竜児、もうお腹ペコペコ! 早くご飯にしましょ!」
そう言って大河はちゃぶ台の前にちょこんと正座し、手を合わせていただきます、と一言。
もう反論する気力もねぇ。
* * *
「おう、大河と高須くんじゃん!
ヒューヒュー、手なんか繋いじゃってお熱いねぇ、お二人さん」
先週も聞いたような台詞の主は、やはり実乃梨だった。
そもそも、ことの発端はお前がそんな格好していたからなんだよ! なんて思っていると、
「おろ、高須くん。今日は生傷一杯だね?
大河にやられたのかい?」
もうど真ん中ストレート。
はっきり訊いてくるところも実乃梨らしいっちゃらしいのだが。
「違うわよみのりん、エロ犬に制裁加えただけよ」
「そう言いつつ顔はニヤけてるぜ?大河さんよ」
「何のことかしら、わからないわ」
ああ、誤解が解けてからの大河はもう本当に上機嫌だったさ。
肉が足りない、とボヤきつつもすごい勢いで食べたし、栄養満点の料理に満足してくれたようだ。
「大河、高須くんに甘えるのもいいけどさ、ほどほどにしときなよ?」
「甘えてる? 私が!?」
「そうだよー、普通の女の子は恋人をボコボコにしないぜ?
こんなことをしても離れていかない、って信じてる相手じゃないとそんなことはできないぜ。
大河と高須くんの関係だから、私はあまり言わないけどさ。
さすがに、限度はわきまえないとだめなんだぜ、大河」
「本当にわきまえてくれるといいんだけどな」
「何言ってんのよ!」
大河の左手が、繋いだ竜児の右手に爪を立ててくる。
いでっ、っと竜児が声を上げるのを見て実乃梨は、
「おー、熱いこと熱いこと。ごちそうさま」
なんて言って、キャミソールの胸元に指をかける。
その瞬間の、竜児の目線の動きを大河は見逃さなかった。
竜児はどこかで、カチッ、とスイッチが入った音が聞こえた気がした。
「じゃあ、大河に高須くん、また学校でねー!」
そう言って実乃梨は手を振って去ろうとする。
「ま、待ってくれ櫛枝……!」
気づくと大河は、すごい握力で竜児の右手を握り返している。
少し俯いているので見えないが、どういう表情をしているかはだいたい想像がつく。
「さ、さっきのこと……! わきまえろ、って……!
もう一回大河に言ってやってくれ……!」
足を踏むのはやめてください、大河さん。
実乃梨は人差し指をちっ、ちっ、ちっ、と、
「さっきも言ったけど、大河と高須くんの問題だからね。
夫婦喧嘩は犬も食わない、邪魔者はこれで退散しますわー」
見せ付けてくれやがってこんちくしょう。
ちょっと帰りにバッティングセンターでも寄って、このモヤモヤとした感情を吹き飛ばしてやらないとやってらんない。
それにしても羨ましい、そんなに感情をぶつけられる相手が居るってのはなぁ。
きっと来週には何食わぬ顔でまたラブラブっぷりを発揮するのだろう、なんてことを思いながら。
そして、残された竜児はというと。
「た、大河さん……?」
「そういえば、あんたさっきみのりんのおっぱいのことだけは否定しなかったわよね……?」
はい、男とはそういう生き物ですから。
悲しいけど、これが男の性(さが)ですから。
心の中で必死に主張してみるけど、とても声に出して主張したところで通るような相手ではない。
どうやら、眠れる虎の尻尾を踏んづけてしまったようだ。
「あ、いや、その……はい、すみません。見てました」
「おー、やっぱり竜児は正直者で嘘がつけない子だ。
そんなあんたに、遠まわしに伝えるなんて真似できるわけがなかったわね。
ばかちーと豆腐の件は私が完全に誤解していたわ、本当に悪かったわね?」
目が謝っていないし笑っていない。
「お、怒ってるのか……?」
そうだ、どれだけ猫の仮面を被っていようとやっぱりこいつは手乗りタイガー。
改めて心に刻み込んで、今後は気をつけよう。
「当たり前じゃぼけぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
その夜、虎の咆哮ははるか遠くまで響き渡ったという。
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