「ねぇ、竜児。お昼ごはんまだ?お腹すいちゃった」

居間から大河の声が聞こえる。暢気で、何の心配もしていなくて、リラックスして竜児を信じきった声。ほんの少し甘い声になっているのはここ数ヶ月のお約束。婚約以来、大河が竜児に対して取る態度はそれ以前とは激変した。

声には甘みが混ざり、目には喜びをたたえ、唇は笑みを押さえきれず、頬にはかすかに桜色が散る。それが竜児を見上げるときの大河だ。

「おう、もうすぐだ。ちょっと待ってろ」

にやり、とその辺のカラスが落ちてきそうな凶悪な笑みをたたえて竜児がこたえる。まるで、この仕上げさえ済ませれば、何も知らずに久々に遊びに来た大河を殺してやれると思っているかのようだ。実際、それに近いことを考えている。

「くく、大河のやつ、きっとぶっ倒れるぞ」

いや、死ぬかも。

そう思うと、竜児はもう、うれしくてたまらない。よくも今まで俺をひどい目に合わせてくれたな。今日と言う今日は、俺を信じきっているお前に嫌と言うほど俺がこれまで味わった思いを味あわせてやるよ。このスペシャル・ランチでな。

そう、一人ごちると、竜児は必死でにやけ顔を戻してエプロンを取る。

「さぁ、できたぞ」
「あー、お腹すいちゃった。今日のお昼はなぁに?チャーハンじゃないでしょ?匂いでわかるんだ。ケチャップの匂いしたよね」
「まぁまぁ、それは見てのお楽しみだ」

くくくっ、と笑いそうになるのを必死で抑える。駄目だ、まだ笑うな。こらえるんだ。大河がぶっ倒れてその辺に転がるまで我慢しないと。

「ぷぷぷ、何これ。竜児なにしてるの?」

これからおきる惨劇も知らずに、大河が無邪気な顔で竜児を見上げる。

「おう、テレビでよくあるだろう。高級料理を持ってきて目の前でぱかっと開けるやつ。あれやってみたかったんだ」

大きな皿の上には、金属のボウルが伏せてある。取っ手がないが、仕方ない。

「ふふふ、楽しみ。ああ、もう焦らさないで。ね、竜児、見せて?」
「おう」

ボウルに手を伸ばす。大河が竜児の顔からボウルに視線を移す。だめだ、もう、我慢できない。自分の口が喜びに凶悪な形になるのがわかった。

「さぁ、召し上がれ」
「え…」

ボウルの下から現れた料理に、大河が言葉を失う。そのまま身動きもできなくなり、やがて頬から耳たぶが真っ赤に染まる。

「どうだ、大河」

その問いかけに答えるすべもなく、大河は力を失って畳の上に倒れてしまった。にぃぃぃっと笑みが広がる。計画通り。

「りゅ、りゅうじ…」

畳に横たわったまま力なく手を伸ばしてくるが、顔を覗き込んでやると、今度は寝返って顔を覆ってしまう。



「どうだ、何とか言ってみろ」
「ああ…もう、竜児ったら」

横たわったままの大河の耳元でささやく。

「ちょっと早いけどな。大河、誕生日おめでとう」

ちゃぶ台の上のお皿には、竜児特製オムライス。卵の上にはケチャップで「大河」と。ご丁寧に前と後ろにはハートマークが添えてある。おめでとう大河。おめでとうバカップル。

「ああ、もう。どうしてこんなことするのよ。恥ずかしくて死んじゃう」

そう、その言葉が聞きたかったのだ。死ぬほど喜べコンチクショー。歓喜に身もだえしやがれ。竜児がこみ上げてくる笑いをこらえきれずに、くくくと漏らす。

「大河、これは復讐だ」
「ふくしゅう?」

顔を覆っていた大河が、指の間からパッチリ目を開いて竜児を見上げる。

「そうだ。お前のおかげでこの何ヶ月もの間、俺がどんな思いをしたと思う。料理を作っているときも、飯を食っているときも、茶碗洗っているときも、授業中も大河大河大河、お前のことで頭がいっぱいだ。お前の声を聞くだけで頭がおかしくなるくらい幸せになる。
お前の笑顔を見るだけでその場にへたりそうになる。夜中に数学の問題を解いていても、お前の顔が頭に浮かぶとニヘラッとか笑っちまう。ベッドに入ってもお前のことばかり考えて眠れやしねぇ。寝ても見るのはお前の夢。
おはようからお休みまで俺の頭は大河漬けだ。幸せで死にそうだぜ。だから、お前にも同じ思いをさせてやる」

プクク、と大河が笑って身を起こす。竜児ったらもう。

「そんなこと言ってもだめなんだから」

なにが駄目なのかよくわからないが、とにかくオムライスをすすめる。

「よし、まぁ食え。暖かいうちにな」

そうそう、と口にしてオムライスに目をやった大河が、ぱっと顔を明るくする。

「竜児、これ」
「おう、知ってるだろう」

ケチャップライスの上には、薄くのばした卵ではなく、卵焼きが載っている。大河の名前がケチャップで書いてあるそれは、もちろん固焼きじゃない。

「これ、スプーンで切るんだよね」

目をきらきらさせて大河がスプーンを手に取る。

「やってみろ」

そっと、スプーンをあてて、くいっと差し込み、えいっとばかりに横一直線。すると卵の皮が切れて中から半熟とろとろの卵が流れ出す。

「うわーっ」

小さな声を上げて喜んでいる大河。油断したところを狙って、竜児が耳元でそっとささやく。

「お前のために作ったんだ」


ひゃっ、と声を上げて大河が身を固くする。しかし振り向いたその目は幾分とろんとしていて、「大河はダメージを受けた」と書いているも同然。

「もう、竜児ったら。食べる邪魔しないでよね」
「馬鹿言え、邪魔なんかするもんか。ちゃんと食べさせてやるよ」

そういうと、やおら大河を抱え上げる。

「あ、ちょっと何すんのエロ犬ぅ!」

しかし、抵抗むなしくあっという間に大河は竜児のあぐらの上におろされる。後ろから抱っこの姿勢。顔は見えないが耳まで真っ赤になっているのがわかる。

「よしよし、いい子だ。約束通り食べさせてやるからな」

そう言うと、竜児はふにゃっとなっている大河からスプーンを奪い取った。卵が湯気を上げている暖かそうなところから、オムライスを一口分掬うと、

「ほら、あーん」

と、大河の口許に持って行く。が、大河は

「ちょっと、竜児止めて」

真っ赤になって拒む。よほど恥ずかしいらしい。

「そっか、じゃぁ俺が食うからいいよ」
「あ、まって!」

慌てて大河が止めるがもう遅い。大河の名前入り限定オムライスの記念すべき一口目は竜児の腹に収まってしまった。

「あぁ、うめぇ!作った自分で誉めるのもなんだが、やっぱ大河のために特別に腕を振るっただけあるな。格別だわ」

ごくり、と音がする勢いで唾を飲み込む大河をよそに、二口目を掬う。大口開けて食らおうとした時だった。

「竜児…私も」

食べたいの、と大河が小さな声で言う。

「なんだ、やっと正直になったな。じゃ、あーん」

大河は逡巡するものの、食欲にはあらがえない。

「…あーん」

おとなしく口を開いたところにオムライスが与えられる。ぱくっと一口。もぐもぐ、ごくんと呑み込むと、大きく息を吐いた。

「おいしぃ…」

ため息混じりのそれは、ほとんど恍惚のつぶやき。軽くトリップしたところを、後ろから耳元で竜児がささやく。



「お前に喜んで欲しくて作ったんだ」

はうぅぅと声を漏らして大河の体から力が抜けていく。

「なによ、竜児ったら」
「嘘じゃない。本当のことさ」
「そんなこと言わないで。クラクラしちゃうよ」

本当に貧血でも起こしそうな弱弱しい言葉で抗議。どうだ、幸せすぎて苦しいだろう。だめだね。聞いてやらねぇ。

「ほら、次行くぞ、あーん」
「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前の為だけに作ったんだ」
ひゃうぅぅ。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前が喜んでくれれば、他に何もいらない」
あひゃん。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前しか見えないんだ」
ふにゃん。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前だけがほしい」
へふん。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「俺だけを見てくれ」
ほにゃん。

30分後、大河にしてはえらくゆっくりな昼飯がようやく終わった。竜児のあぐらの上で心も体もくたっと力が抜けている大河を抱きしめてやりながら、すまねぇ、と心でわびる。

竜児が考えていることを知ったら、大河は怒るだろう。竜児が味わっているようなシアワセ漬けの生活を味あわせてやる、と思ったのは本当だ。だが、それだけではなかった。これは竜児が大河を独占する計略でもあった。

竜児はこの美しくも無邪気な婚約者が自分を裏切るなどとは、これっぽっちも考えていない。だが、誰かに奪われるのではないかと言う不安は片時も頭から離れなかった。それがどんな形でかといわれると、具体的な形などないのだが、
一方でもし大河が消えたなら確実に自分は廃人になるだろうという予感があった。

ならば、大河を縛らなければならない。竜児なしでは生きていけないような女に無理やり変えてしまわなければならない。竜児が大河なしでは生きていけないのと同じようにだ。

調教、と言う言葉を考えるのはそれだけで鳥肌が立つほど汚らわしかったが、竜児が計画していることはまさに調教そのものだった。

大河を甘ったるいラブラブ状態にどっぷり漬けた上で、うまいものを食わせながら愛の言葉をささやく。これを繰り返せば、やがて大河はおいしいものを食べる度に耳元で甘い言葉をささやく竜児のことを思い出すようになるだろう。

そうすれば、無邪気な大河が誰かにだまされてレストランあたりに連れて行かれたとしても、うまいものを食った瞬間に竜児のことを思い返してくれる。大河は一目散に竜児の下へと戻ってくるだろう。


◇ ◇ ◇ ◇ 


翌週は真昼間からハンバーグだった。ホワイトハンバーグに赤いケチャップで大きなハートを描いておいた。第一ラウンドからパンチドランカー状態の大河は、あぐらの上でふらふらになりながらハンバーグを食べた。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前以外の女なんか考えられねぇ」
あふん。


◇ ◇ ◇ ◇ 


次の週は弁財天国でも出せないような竜児特製お好み焼き。

「竜児ったらおばかさんね、いつまでも名前とかハートで私が喜ぶと思ってるのかしら」

ニコニコしながらそういった大河は、現れた相合傘を見ると顔を真っ赤にしてぶっ倒れて、表情をへにゃっと融かしたまま畳の上で身もだえした。

「あーん」
ぱくっ。もぐもぐ、ごくん。
「お前は俺の運命の女だ」
はにゃぁ。


◇ ◇ ◇ ◇ 


その次の週、大河は久しぶりに外でデートをしたいと言った。たまには映画でも見ようよ、と。

「残念だな。お前にひつまぶしを食わせてやろうと思ってウナギを買っておいたんだが。しかたねぇ。泰子と食おう」

じゅるり。

その次の週も、その次の次の週も、大河は竜児のあぐらの上で極上ランチを食べながら愛の言葉にノックアウトされ続けた。

竜児の小遣いの残高が急降下していくに連れ、大河の心の形も変わっていった。


◇ ◇ ◇ ◇ 


三ヵ月後。竜児の貯金は残高が500円を切った。計画は終了である。若干の見込み違いはあったが、竜児の思惑通りになった。

そう、見込み違いがあった。

竜児は大河を「おいしいものを食べると竜児の愛の言葉を思い出す女」にするつもりだった。しかし大河は「耳元で愛をささやかれるとお腹がすく女」になった。

まぁいい。竜児なしでは生きてはいけない女になったことには変わりはない。大河のお腹を満たし続けられるのは竜児だけだ。大河が竜児から離れていかなければそれでいいのだ。

なんとなく、大河は出会ったころからいつもお腹をすかせていたような気がするが、深く考えないことにする。なんとなく、大河は出会ったころから飢え死に寸前で、竜児なしでは生きてはいけない女だった気がするが、深く考えないことにする。

「大河、俺がお前を幸せにしてやるぞ」

フライパンとフライ返しを握り締めて、竜児は薄暗いキッチンの真ん中で誓いを新たにする。居間から大河の甘い声が聞こえる。

「ねぇ、竜児。お昼ごはんまだ?お腹すいちゃった」






(おしまい)





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