「な……っ」
「な、じゃないっ! 主人がおまえのためにがんばってんだ、もっと喜べ! この鈍犬野郎!」
「――よっしゃ、そんなら行けっ! 尻尾でもなんでも振ってやるっ!」

そう言って竜児が私を押し出した。
そのスピードに乗せてバタ足を再開した後ろで、鈍い音と水しぶき。
驚いて振り返った私の目に映ったのは、全身の力が一気に抜けたみたいに沈んでいく竜児の姿。

「ええっ!? りゅ、竜児ーっ!?」
「……ぶがぶぐぼご……」

プールの喧騒は一層激しく、他の誰も私たちに気づいていないのが分かる。

「うそでしょ!? 竜児! 竜児ーっ!」

咄嗟にUターンして沈みかけの竜児を掴み、腕の力だけで何とか引っ張る。
全く動かない竜児の身体に恐怖を覚えながらも、その首に腕を回して水面に引き上げようとする。

「誰かっ……ねえ誰、かっ……ぶぐぶぐ……げほっ! くそーっ!」

けれど……そもそも、ビート板なしでは泳げない私に人一人抱えられるわけもない。
竜児の顔は半分水に浸かったままで、それ以上引き上げられない。
息ができるようにしなきゃと思っても、思うようにいかないもどかしさで胸が焼けるようだ。

「ええーんっ!」

どうにもならなくて……悔しくて涙が出る。それでも竜児の首に回した腕だけは外さず、
半分沈みながらも必死に片手でビート板を掴み、水を掻き、ゴール地点を目指す。

そこに背後から、なにやらものすごい速度のもの
……イルカみたいなものがグングンスピードに乗って近づいてくる。

「なんで高須とタイガー二人乗り状態なんだ!?」
「わーっ、抜かれるっ!」
「高須てめー!」
「いけいけあみたーんっ!」

誰か……誰か気付いてよ! ばかちーの事ばっかり見てないでこっち見てよ! 助けてよ!
見えてるなら分かるでしょっ!? 余裕ないのよ! 竜児が息できないじゃないのよ!

「……ゴールッ! 正義はかーつっ!」

その声が聞こえたと同時に、

「あふっ」

――ビート板を抱えていた私の手から、最後の力が抜けた。





歓声が上がりかけ、……すぐに止む。誰かが呟く。

「……高須とタイガー、あれ、溺れてない?」

そんな今更な言葉に返事を返す余裕もなく、私と竜児は沈んでいく。
最後の力を振り絞って、竜児を抱えて身体ごと水面側に押しやる。
息が……苦しくて、意識が朦朧としてきた……それでも、せめて竜児を……

――どのくらい沈んだんだろう? 

水の層みたいなのがあって、身体の下半分を覆う水温が凍るほど冷たく感じる。
何かに引きずり込まれるような錯覚を覚えて、ゾクゾクとした悪寒が背筋を伝う。
まるで学校のプールじゃなくて、深い海の底みたいな感覚を、記憶を、否応なく思い出させた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「げほ……げほげほげほげほっ!」

先生の太い腕に引き上げられた私は、何とか意識を手放さずに済んだ。
だけど、私の隣で寝かされてる竜児は、未だにピクリとも動かない。

「高須、大丈夫か!?」
「おい、これ……息してなくね!?」

――――!?

「ええ!? やばいよ、それやばいってぇ!」
「やだやだやだぁ! 高須君、大丈夫なの!?」
「何だと!? おい、おまえらそこをどけ!」
「先生! やはり高須は息をしていません! じ、人工呼吸を!」
「俺がやる! 北村、おまえは心臓マッサージだ! 胸骨圧迫! グズグズするな!」
「は、はい!!」

……呆然と……その様子を見守る。
気道を確保しようとしてる先生と、竜児の上に跨る北村君が見えるけど……
それがどういうことなのか、私の頭はまだ処理しきれていない。

……りゅう、じ? うそでしょ? うそでしょ竜児!?

「ちょっと…………」

冗談やめてよね……笑えないのよ、あんたのギャグは……ねぇ……ちょっと……

「しっかりしなさいよーっ! りゅうじいぃ!?」
「うおっ!? おい、逢坂。先生の邪魔をするな。今は非常事態だ!」
「う、うるさいっ! わ、わわわ私がやる! あんたが邪魔なのよっ!」





そう言いながら、先生を無理やり押しのけて竜児にすがり付く。
私は自分が何を言い始めたのか、何をやり始めたのかよく分かっていない。
ただ……見る見る顔色が変わっていく竜児を見て、勝手に身体が動いた。

「おい! 冗談じゃ済まされないんだぞ? 分かってるのか?」
「分かってるってのよ! やり方は知ってるんだから問題ないわよっ!」

耳元で喚き散らす先生と怒鳴りあいながら、腕を首の後ろに回して竜児の顎を上げる。
ちょっと……本当に息してないじゃないのよ……何なのよ……やめてよ……いやだ……

「しょうがない……逢坂が空気を送り込んでる時は、圧迫を止めるんだ。北村、分かったな?」
「はい、先生! 逢坂、準備はいいか?」

つまんだ鼻先も、髪の毛も首筋も頬も冷たくて、さっきから続いてる嫌な予感がどんどん膨らんでいく。

「……逢坂……大丈夫か?」
「うっ……うん!」

あんたにだけは分かって欲しかったけど……言うまで分かってくれなかったけど……でも、もう怒らないから……
竜児……あんた……あんた、こんなことで勝手に死ぬんじゃないわよ!?
こっ、この私がキスしてあげるってんだから、それだけで起きなかったら許さないから!

「逢坂!? おい、早くしろ! 一刻を争うんだ!」
「わ、分かったわよっ!」

すうううううっ! と思いっきり息を吸い込んで――――そして唇に触れた。




ピキン―― と、私の唇が凍りついたような錯覚を覚える。

「――っ! ――ひっ!」

喉の奥の奥で、そんな声が出た。
その……竜児の唇のあまりの冷たさに、息を吹き込む事なんか出来なかった。
何かに弾かれたみたいに後ろに仰け反って尻もちを付いてしまう。

「……あ……あ…………ぁぁ…………」
「おい、逢坂? 逢坂ぁ!? くそ、時間が無い。北村、マッサージは続けてろ! 俺がやる!」
「はいっ!」

なによ……なんであんなに冷たいの?……いやだ、いやだ……竜児……

「ちょっと! あんた顔が真っ青じゃん……しっかりしなさいよ!」
「たいがぁ!? 大丈夫? 大河だって危なかったんだから、無理しちゃダメだよ!」

ガクガクと身体が震えるのをどうしても止められない。
まるで身体の芯から全ての熱が吸い取られてしまったみたいに寒くてたまらない。
いやだ……竜児、いやだ……怖いよ、怖いこわいこわいこわい……

さっきのプールの冷たさを思い出す。今更、あんな暗い海の底になんて戻れない。
もう私は水面から顔を出してしまった。酸素を吸ってしまった。太陽の暖かさを知ってしまったんだ。
もう一度、息を潜めて生きていけるわけがない。今度あそこに戻ったらきっと窒息して死んでしまう。
あんな……誰からも光を投げかけてもらえない日々なんかいやだ、いやだ、いやだ。





「北村ああぁぁ! もっと強くだ! もっと強く押せ!」
「せ、先生! これが精一杯です!」
「ちくしょう! おまえたち、救急車を呼んで来い!」
「「はいっ!」」

――ハッ! なに? どうしたの? 先生と北村君どうしたの? 
竜児は……竜児の顔が……茶色というか……見たことがない色になってて……
そこまで考えた私は跳ねるように起き上がって、今度は北村君に掴み掛かった。

「わ、わわ、私がやるっ!」
「逢坂……?」
「どいて、どいて北村君!」
「いや、しかし……」
「お願いだからどいてよおおおおおおっ!!!」

私の叫びに気圧されたように、北村君が竜児の上からどいてくれる。

「よし、ここだ。ここに手を当てて……」
「うん……」

身体の震えと鳥肌が止まらない。心臓とおぼしき場所に手を当てても……何も感じない。
いやだ……いやだいやだいやだ!!

「……くっ……りゅう、じ……竜児、しっかりしてよぉ!」
「逢坂、そのまま強く押せ!俺が口を離すタイミングでだ! いくぞ!」
「ちょっと! 起きなさいよ! ほら、竜児ぃ―――っ!!!」

――私は必死に心臓マッサージを続けてて、先生の息が竜児の胸を膨らませていても、
それでも……心臓が動いてくれない。どうして……どうしてどうして!?

「逢坂ぁ! もっとだ! もっと強く!」

ほっとけるかって言ったじゃない。ずっと傍らにいるって約束したじゃない!
だめだよ竜児……このまま行っちゃだめだよ、そんなの許さない。だめ、だめ……


「だめええぇぇ―――――――っ!!!」


そんな絶叫とともに振り上げた両手を、力いっぱい心臓の辺りに叩き付けた。


「が……はぁっ! げぇっほっ! ゴホ! がっ! ゲホゲホ! ……うえっ」
「竜児っ!?」
「高須!?」
「よし、水を吐いたから……取りあえず一安心だ」

「……竜児っ! りゅうじ、りゅうじいいいいっ!」

周りの声なんか聞こえない私は必死に竜児に呼び掛ける。
息をしている。顔色はまだひどいけど、でも……手を当てると、心臓も動いてる……動いてる。
その、わずかに感じる鼓動が、二度とこの手の平から零れ落ちてしまわないように……硬く、硬く握り締めた。

「う………うぅ……………うぅぅっ!」

全身の力が抜けるくらいの安堵と、何かよく分からない感情で頭の中がぐちゃぐちゃだ。
竜児の胸の上で俯いたまま、涙も流れるまま、全く身動きが出来ない。




「高須ー大丈夫かいー?高須ー」
「おい、取りあえずタオルとか掛けてやらないと」
「逢坂?もう大丈夫だ、もう大丈夫だからな?」
「よし、このまま保健室に運ぼう!」

そう言った先生が竜児に近寄ってくる。他の人も竜児を取り囲んで心配してくれて……るのに、
何だろうこの怒りは……この身を焦がすような憤り?悲しみ?分からない……分からない!!!



「触るな―――っっっ!」

口を付いて出た叫びとともに両腕をめちゃくちゃに振り回す。
誰も竜児に触れるな! いまさら心配そうな顔なんかしてんじゃないよ!

「ばかばかばかばか、ばかばっかりだおまえらは――っ!」

おまえらに竜児の何が分かる! あんなに色んな事をしてくれる竜児の何が分かる!?
竜児はいい奴なんだ、私なんかとは比べものにならないくらい優しい奴なんだ!

「なんで気がつかないのなんで助けてくれないのばかばかばかばか近寄るんじゃなぁぁぁ――――いっっ!」

ごはんも作ってくれるし、胸パッドも作ってくれるし、隣にいてくれるし、ほっとけないって言ってくれるし!
そんな竜児が危ないっていうのに、何でよ!? どうしてっ!? 誰も……誰も…………くっ!

「あっちいけっ! おまえらみんな大っっ嫌いだっっ!」

竜児の事を分からないおまえらなんかいらない! どうせ私の事も竜児の事も分かってくれないに決まってる!
別に竜児の事なんかどうでもいいんでしょ? 必要じゃないんでしょ? だから気付かなかったんでしょう!?

「来るな来るな来るなばかぁぁぁぁぁ――――――っっっ!」

やっと……やっと見付けたの! 私には必要なのっ! だから……だから……っ!

「竜児は、私のだぁぁぁぁぁ――――――――――――っっっ! 
 誰も触るんじゃ、なぁぁぁぁぁ――――――――――――いっっっ!」





シン、と静まり返り、無音状態になる真夏のプールに響くのは、私の子供じみた泣き声だけ。
仰いだ空は青くて、ジリジリと照りつける日差しは暑くて……

「……ん……? ……あれ……?」

私は今……何を考えてた?
……っていうか、何を叫んだ? 何を叫んじゃったの!?!?



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「……地獄のようだわっ!」

ガン!

「……お、おい……大丈夫かよ……」

テーブルに思いっきりの頭突きをしたまま、私は両目だけを上げて竜児を睨みつける。

「大丈夫、なんかじゃ、ない、よぉ……」

けど、言葉には勢いが無い。
さすがに私が聞こえる範囲で、キスだの人工呼吸だの言う命知らずは一人もいなかったけど、
あの発言は格好のネタにされちゃってるに違いない。昨日からずっと周りの視線が痛いし……

「あららぁ?逢坂さん、大丈夫ぅ?」
「ほっとけっての……」
「おう、お早い到着だな、川嶋」

ここはいつものファミレス。これからみんなで別荘の話をしようとしているわけだけど……
まだ北村くんとみのりんの姿は見えない。このバカビキニが上機嫌なのがムカつく。

「元気ないなぁ? 亜美ちゃんしんぱぁい♪ そりゃそうだよねぇ、なんたってぇ、じんこ……」
「――っ!?」

ガシッと、顔面を片手で掴んで締め上げる。そうね……こいつがいたわね……

「ふが! ふごふご!?」

いわゆるアイアンクローだ。いや顔の下半分だからジョークロー?そんな技は無い。

「あんた、それ以上言ったら……分かってるわよね? 私は本気よ。それだけは冗談で済ませてやらないんだから……」

バカビキニがぶんぶんと顔を縦に振るので、軽く力を抜いてやると、

「ぶはっ! いったぁぁぁい!? 何すんのよ、あんたマジ信じらんないんだけど!?」
「黙れ。何度でも食らわせてやるよ? すごく痛くするよ?
 何なら竜児を殴ったのと同じくらい本気でやっちゃってもいいんだけどねぇ?」
「チッ…………」

と、本性丸出しの歪んだ顔付きでテーブルの反対側に座る。

「おい、大河……俺の胸にものすごい青アザが出来てるのは……やっぱりおまえのせいか……」
「何よ? 私が助けてやったんだから感謝しなさい?」
「そりゃそうだけど……」
「あーあ。困ったわね、竜児?」
「何がだよ?」

「私はあんたの命の恩人なわけ。分かる? どうやってこの借りを返してもらおうかしらね?」
「何だよ……今以上おまえに奉仕しろとでも言うのか?」
「あったりまえじゃない? 私がいなかったら、あんたは今頃お星様になってるっての」
「……そ、そんなに危なかったのか、俺は」




「そりゃーそうよ、あんなに冷たい唇しちゃってさ」
「冷たい? く、くち……?」
「わああああぁ! なななな、なん、なっ、なんでもないの。とにかく! ひっどい色しちゃってたんだからね!」
「おい……おまえ……まさ……ぐえっ!? ぐがが! ひだだだだ!」

竜児が何かとんでもない事を言い出す前にとっさに口を封じた。さっきと同じように。

「だーまーれっつってんのよ! この駄犬! あんたは私に全身全霊の感謝を捧げながら生きていけばいいのよっ!」
「うわ……えげつな……私の時より食い込んでるじゃん……」
「ふーひーひーふーはー!」
「あん? 犬はしゃべるんじゃないよ! ――――ひうっ!?」

とっさに手を離す――――手の平に触れた……それが……

「痛ってえんだよ、大河!……あつぅ……口が切れるだろ!?」
「そっそそそそそそれは、しょしょうしょうがないのよっ! だだだだまりなさい!」
「あ〜あ、真っ赤になっちゃってまぁ……ほんっと、ガキだよね、あんたって……」

……だって、それが…………あったかくて……むしろ、熱いくらいで…………

「ううう、うるうる、うるさいっ! もう一回あんたの口を塞いでやろうか?」
「おい、大河……これって川嶋と俺、間接キスしてねえか?」

――っ!? キス……違う……

「いや〜ん、高須君ってば……嬉しいんだぁ?」
「なっ!? 嬉しくなんか……ねえよ……」
「ななななにを言ってるのよ、このエロ犬っ! そっそそそんなそんなの……」
「そうだよねぇ〜うふ♪ 間接……だなんて、そんなもんじゃなかったよねぇ〜?」

違う……あんなのはキスじゃない! ちがう……違う、違う!!!

「あ、ああ、あああんなのはキスじゃなあああぁい!!!」
「あんなの?」
「あ〜らら〜テンパっちゃって、か〜わいいね〜逢坂さぁん?」
「――――――っっっ!!! こんのぉ……っ!」

テーブルに身を乗り出して、命知らずの獲物を仕留めにかかったその時、

「……いやいや、大河が元気そうで何よりですなぁ」
「全くだな。待たせて悪かった、それじゃ別荘の話をしようか」

北村くんとみのりんがやってきた。

「あぁ〜ん、二人とも遅ぉ〜い。今ね、逢坂さんがねぇ〜」
「こ、このバカビキニっ! いい加減にしやがれぇ!」

「きゃあああ!?」
「大河、おまえいい加減にしろって!」
「あっははは、逢坂は本当に元気だなぁ」
「うんうん、良きかな良きかなー」


――こうして逢坂大河の一学期は、無事終了したのであった?


end





作品一覧ページに戻る   TOPにもどる
inserted by FC2 system