***

・薄明

 夜というには何も出来ないほど遅く、朝というにはまだ闇の明ける気配も無い、曖昧でどうしようもない時間に私は起きた。
 目を開けてすぐ、出かけようと思う。なにしろ旅に出るのだ。タクシーを呼んで、駅に行かなければ。旅立つ私を待っている列車が出てしまう。
 ときめいて、起きたばかりだというのにいつになく血を上げて、私は跳ねるように上体を起こす。薄暗がりの中、大きすぎる天蓋付きのベッドのシーツの海をいそいそと端まで這いずって、フローリングの床に素足をつけて。床板に足を跳ねるほど冷やされて、私は気づいた。
 私は旅になんか出ないのだということに。
 なにも起こらない。なにも変わらない。なにもやって来はしない。駅には私を待っている列車などない。
 なにも、なにも始まりはしない。
 不意に涙があふれそうになって睨んで止める。なんで旅に出るなどと思ったのかと唇を噛む。
 きっと何か夢を見たのだ。目覚めれば憶えてさえいない、くだらない夢。それは騒ぐ血だけを残して消えたのだ。それがひときわ、いまいましい。夢め。
 くしゃみする。鼻水をすする。頭が痒くなって頭を掻く。
 スリッパを探して履いて、凍える床から足だけでも救い出す。
 ぬるい風を吐くエアコンの音。ため息をつく。
 立ち上がり、ぺたぺたと歩いて冷たいドアノブをひねって。ドアを開けて廊下の冷気に顔を洗われて、私は馬鹿かと思う。
 なんでもう一度、ベッドに戻らなかったのか。もう一度、寝ようとしなかったのか。
 けれどもう、廊下の冷えた空気が無駄に私を冴えさせて。二度寝の思いを過ぎ去るべき思いつきに変えてしまう。
 ぺたぺたとスリッパを鳴らして、洗面所に向かいながら、なんでそうするのかといまいましく思う。
 騒いでいた血がいけないのだ。
 阿呆らしい旅の予感が消えなかったのだ。
 ぜんぶ、ぜんぶ身体のこと。身体が先に動いて、いまだ寝惚けた心がのろのろと追いつく。
 どうでもいい。
 もうどうにでもなれ。と。
 馬鹿に豪勢な大きすぎる洗面台の電気をつける。途端にまぶしくて舌打ち、光を睨み返す。
 鏡の中には、ちびたみすぼらしい子。
 栗色の髪はぼさぼさで、まるでライオンのよう。
 はれぼったい上目蓋で睫毛を縮めて、大きいはずの瞳を眇めてこっちを見ている。なによ。
 なによあんた、睨むんじゃないよ。
 うざいよ、ブス。寝起き?
 哀れなやつ。
 顔、洗いなよ。顔洗ったげるよ。ブスも少しはマシになるでしょ?
 髪もひどいよ、あんた。ライオン丸。
 かわいそうだから、髪も梳かしてあげる。
 誰もいないんでしょ? 誰もしてくれないんでしょ?
 かわいそうなあんた。
 大丈夫、私があんたを綺麗にしてやる。
 ほかに誰もいないんだから、せめて私だけでもあんたを綺麗にしてやる。
 綺麗にして、やらなきゃね。
 私は顔を洗う。
 私は髪を梳く。そして。
 鏡の中には、だいぶんマシになった女の子。
 栗色の髪は艶やかにうねる雲のよう。大きな瞳はよく光を返して星ぼしの煌き。そっと小さな唇は薔薇の花びらに似て、まるでキネンシスの蕾。なのに。
 なんであんた、そんなつまんなそうな顔してるわけ。
 笑いなよ、と、私の親友の声が聞こえる。
 そうだ、笑いなよ、あんた。もったいない。
 ぎこちなく頬を引いて、私は微笑もうとするけれど。
 鏡の中の女の子は頬をぴくぴくとさせて、唇を横に引き攣らせるばかり。
 なにそれ。キモ。やめやめ。むしろ台無し。つまんなそうにぶすったれてた方がマシって。
 なにあんた、笑い方も知らないわけ?
 私……笑い方も、忘れたわけ……?
 かわいそうな……!
 湧き出る涙を睨んで殺す。
 鏡の中には歯を食いしばって私を睨む、こわい、こわい女の子。
 こわくて、かわいそうな女の子。
 朝が来る。
 高校二年生の、始業式の朝が。

* * *

 私はその時の私に教えてあげたい。
 あのひとのように優しい声で、あのひとのように優しく名前を呼んで。
 大河。大河。
 大丈夫。泣かないで。
 旅に出るのよ、大河。ほんとうに、旅に。
 あなたのための列車が来るの。
 あなたのためだけの列車がちゃんと待ってるの。それは駅でなく、学校に。そして。
 すべてが始まるの。すべてが変わるの。あのひとが、あのひとがやって来るの。
 さあ、涙を拭いて。もう一度、綺麗にして。一生懸命、綺麗に。時間をかけて。そのためにあなたはびっくりするくらい早く起きたの。ちゃんと、そうなっていたの。そうして。
 綺麗にして学校に行きなさい、大河。味気ないコンビニのサンドイッチでも食べて。ぶすったれててもいいから。
 校庭に張り出された表を見て、ちゃんと新しいクラスを確認して。だけどちゃんと間違えて1年の時のクラスにお邪魔したり、広くも無い校舎をきちんと迷ったりしながら、しっかりとのらくら2−Cの教室に向かうの。
 親友や想い人と一緒のクラスになれたと知った時にはあったときめきも、そんなうち続くドジでしぼませて。どうせなにも変わりはしない、どうにもなりはしないんだって。そうして、ちゃんとふてくされて俯きながら廊下を歩くこと。
 ああ、つまんない。ああ、つまんない。ああ、つまんない。って。なんだかムカムカしてきて、ちゃんと腹を立てながら廊下を突き進むの。
 ちゃんとふてくされていてね。
 ちゃんと俯いていてね。そう、そして。だから。
 決して、けっして気づいては駄目。
 ほら、大河。運命が来る。
 こわい顔をして、驚くほど甘い運命が。
 あのひとが。
 あのひとがすべてを始めてくれるの。あのひとがすべてを変えてくれるの。
 あのひとが食べることの喜びを、甘えることの喜びを取り戻させてくれるの。
 あのひとが涙を止めてくれるの。あのひとが笑顔を取り戻させてくれるの。
 あのひとが怒りにかわる支えになるの。
 あのひとがあなたの世界のすべてになるの。そうして。
 あのひとがほんとうにひとりになることを、そしてほんとうにふたりになることを教えてくれるの。だから。
 気づいては駄目よ、大河。気づいては駄目。
 ふてくされて!
 俯いて!
 歩いて! 進んで! 突き進め!
 さあ、あのひとの。
 高須竜児の胸に飛び込め!


***おしまい***






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