─────何でもね?犬のようにしてくれる?私の為に何でも従順に?─────

それが、始まりだった。


***


天蓋の付いた大きなベッド。
そこで眠る栗色の、長いふわりとした髪を持つ乙女がいた。
名を逢坂大河。
小さく丸められたその肢体は、元々の体のサイズも相まって小動物を思わせる程に愛らしく、また儚げだった。
だが、見た目がそうだからといって彼女がおとなしい女の子だと思うなかれ。
彼女は、大橋高校で名の知らぬ者はいないというほどの異名、二つ名を持っているのだ。
下の名前の大河と、その暴虐の限りから虎をイメージさせる様、加えて高校生にしては若干足りない身長がその二つ名を作り上げた。
曰く、手乗りタイガー、と。
大橋高校では手乗りタイガーと聞けばある者は驚き、ある者は震え上がり、またある者は果敢にも彼女にアタックを試みる。
彼女は、二つ名を付けられる程の難がその性格にあるものの、ビジュアルとしては申し分の無いものがあった。
歩く男がいれば振り返り、その凛とした声を聞けば耳が澄み渡るような、全く持って『外面』は理想の女性というのに相応しかった。
幾分、サイズ的に自他共に認める小さい部分もあるが……それはここでは割愛しよう。
とにかく、彼女は内と外のギャップが激しい。
それを最近、富に感じる者がここにいた。
ギィ……。
やや軋む音をあげながら、乙女の寝室へと踏み込む黒い影。
影は一歩一歩慎重に慎重を重ねるように歩き、ベッドへと近づいて行く。
足跡は最小に、動きも最小限に。
そうして目的の場所────大河の眠るベッドまで辿り着いた影は、初めて意識的に小さい音を立てる。
「……はぁ」
吐息。
溜息と呼ばれるソレは、影が呆れかえってる証明でもあった。
「おい逢坂、起きろ、遅刻するぞ」
影こと、高須竜児は少し肩を揺するようにして、彼女の起床を促す。
彼は彼女の住むマンションの隣のアパート────このマンションに比べてそれをアパートと呼べるならだが────そこに住むクラスメイトだった。
ひょんなことから彼は大河と知り合いになり、これまたひょんなことから彼は彼女の面倒を見ることになった。
まぁ簡潔に述べてしまうなら、彼は世話焼きなのだ。
彼は、今時の男子高校生としては珍しい程の家事スキルを保持していた。
掃除をさせれば窓の桟の埃一つ残さず、包丁を握らせれば人参で鳳凰を作り上げる。
それは家庭の環境にもよるものだが、とにかく彼はそのスキル故にいつしか『家事の行き届いていない物』を許せない性格となっていた。
掃除当番でなかろうと汚れていれば積極的に参戦し、出来合いのお惣菜は金銭面、栄養面から見ても手は出さない。
そんなものを買ってしまうのはMOTTAINAI、さらに割り箸なんて使おう物ならさらにMOTTAINAI!!
およそ、若者らしくないCO2削減意識の塊でもある彼は、惣菜を買うなら作る、割り箸を使うならMY箸を用意する、といった徹底ぶりだった。
そんな彼だから、この見た目は完璧、中身は未熟も良いところの女の子を放っておけなかった。
大河は、両親との折り合いが悪く、いつしか宛がわれたマンションで一人暮らしを強いられていた。
どんなに気を張ったところでまだ高校生。
自立できるには性格的にも経験的にも早かった。
洗濯物は溜まり、キッチンには汚物が散乱し、部屋の中はゴミ屋敷。
匂いすらも鼻を摘みたくなる程の有様では、綺麗好きの竜児でなくとも手を貸そうと思うものだ。
そんな経緯で、この構図が出来上がる事となったのはまだ記憶に新しい。
「ほら、いい加減に起きろ逢坂、飯抜きになるぞ」
「ん……ごはん……抜きやだ……」
飯抜き、の言葉に引かれるようにして大河は目を擦りながら起きあがる。
「ふぁぁぁぁ……眠い……お腹すいた……」
欠伸をして、頭をポリポリとかき、次いで竜児を見る。
視線が合った瞬間、
「うわっ、恐っ!!」
深く、それは深く心優しき高須竜児の胸の裡を切り刻む。
「お前、朝起きて最初に俺に言う台詞がそれか?」
「うるさい、そんなことより朝ご飯食べる」

こうして、今日も一日が始まる。


***


「アンタ、今朝のことまだ気にしてんの?」
大河は隣を歩く竜児に、呆れかえったように言い捨てる。
何の変哲も無い朝の投稿風景。
季節は桜舞う春だった。
「うるせぇ、どうせ俺は目つきが悪いよ、ああそうだよ、悪いかよ、好きでこうなったんじゃねぇよ!!」
半ばヤケになりつつ反論する竜児は、自らの前髪を引っ張ることは忘れない。
これこそが朝一番に大河に言われた『恐い』の原因であり、竜児の心の傷(トラウマ)であり、答えだった。
「アンタ、自虐して楽しいの?マゾなの?犬なの?」
「……うるせぇ」
大河の容赦の無い言い様に竜児は口では勝てないと悟り、それ以上の追撃を諦める。
そもそも、この『目つき』の事にはできるだけ触れたくないのだ。
竜児は生まれつき目つきが悪かった。
恐かった、ギラついてた、三白眼だった。
これは本人にはどうしようもない遺伝で、会ったこともない父親の職業のせいだと理解した時などは、言いようのない怒りを覚えた物だ。
否、今でも覚えている。
竜児は物心ついたときから母親と二人暮らしで育った。
父親の事については、
『かっこいい人だったわぁ』
という母視点での意見と、写真で見た姿程度の事しか知らない。
しかし、その姿が問題だった。
父親はいわゆるヤの付く人だったのだ。
その目つきは自分で見ても恐ろしいし、関わりたくないと思うほどギラついていた。
それと同じ物が自分にもあると思うと堪らない。
何故ならその目つきだけで散々苦労してきし、それにその男がいないせいで、母、泰子も相当の苦労をしてきたのだから。
何故いないのかなど知らない。
だが、いないものはいないのだ。
そしてそれらが、竜児にとって怒りを覚える、父親を毛嫌いする理由だった。
「アンタが自虐して快感を覚えるのは勝手だけど、ちゃんとしてよ、今日のこととか」
大河は竜児のそんな態度などは気にかける様子もなく、ただ竜児へと確認する。
「ああ、わかってるよ、それと誤解を生むような言い方はするな。俺はマゾじゃねぇ」
聞かれた竜児も頷く。
そもそも、家が隣同士などという接点以外、いや、その接点すら知ったばかりで全く接点の無かった二人がこうも一緒にいる理由は、先に起こったひょんなことからだった。
事の起こりは大河が間違えてラブレターを竜児の鞄に入れたこと。
そしてその中身が空っぽで、それを回収し、さらに竜児の記憶を消そうと大河が夜襲を竜児にかけたのが起点だった。
その大河の思い人、ソフトボール部兼副会長を務める北村祐作が竜児の親友だということもあって、竜児は大河の恋の手伝いをすることとなり、大河といる時間が増え、生活態度を知るに至り、今日に至る。
その際、『竜児は何も見返りを求めなかったし、秘密など無かった』事が、後に少々……いやかなりの勘違いを産むことになるのだが、まだそれを知る由は無い。
「まぁ、簡単にできるところからアプローチしてみようぜ」
向かう先、彼らの目的地である大橋高校はもう目の前だった。


***


「……お前、ドジだな」
「……うっさい」
机に突っ伏すようにして大河は竜児に低く唸る。
「だいたい、アンタのプランが悪すぎるのよ」
「んなこと言ったってお前、最初はそんなことくらいしか出来ないだろ?」
「これだから駄犬は……もうちょっと頭を使いなさいよ」
「自分の失敗を棚に上げてそんなことを言うのか、この口は」
トン、と机に弁当を置き、竜児は大河の正面に座った。
それと同時に大河も起きあがり、即座に弁当の蓋を開けて憎まれ口を叩いていた口へとおかずを放り込む。
今日半日、竜児は思いつく限りのアプローチを試みさせた。
体育でのバスケットボールのパス練習。
ペア決めの際にまず竜児が大河と組み、北村のペアに『誤って』ボールをぶつけ、竜児はそいつを保健室へ連れて行き、残った大河と北村がパス練習……のハズだったのだが。
北村のペアにボールをぶつける前にたまたま北村のボールが大河の所へ転がり、それを大河が北村へ返した。
ここまでは良かったのだが、それが予想以上に嬉しかった大河は、竜児の投げたボールを受け取るということを失念し、顔面直撃 → 保健室直行 → 失敗。
その後も歩けば転び、立てば何かを落とし、話せば口が上手く回らずに失敗が続いた。
「お前もうちょっと落ち着けって」
竜児は、弁当にはまだ手を付けず、まずはMY水筒からお茶を注いで喉を潤した。
「うるひゃい!!わひゃしのきゃってれしょ!!」
「バカ!!食べながら喋るな!!米、米が飛ぶ!!」
竜児の中の逢坂失敗談に、食べればご飯を飛ばす、が加わる。
さて、ここまで失敗が続いたが、まだ竜児には最後のプランが残っていた。
「逢坂、今日の最後のプランだが、調理実習の手作りクッキープレゼント作戦なんてどうだ?」
「……?……!!……!?!?!?」
大河はガツガツと乙女らしからぬ食べっぷりの最中に話かけられたせいか、喉を詰まらせた。
「あーあーあー!!そのままでいい、ほら、これお茶だ」
竜児は水筒のお茶を、キャップに注いで大河に飲ませる。
「……っふぅ……ありがと」
「おぅ、落ち着け。飯はゆっくり食べろ」
「アンタお母さんみたいなこと言ってんじゃないわよ。で、クッキーって?」
「おぅ、今日の調理実習はクッキー作りだ、ここで美味しいクッキー作ってプレゼントで好感度アップを図る」
「上手くいくの?」
「まぁ絶対じゃねぇが、美味しいものを渡されて好感度が上がらない奴はいねぇと思うぞ。それにアイツ部活や生徒会で帰るの遅いからつまめる物があると喜ばれるはずだ」
「……そうか、そうよね。よし、午後の調理実習がんばるわ!!」
大河は自らの方針を定め、またもガツガツと弁当の中身を口に放り込んでいく。
その小さな口と体の何処に入っていくの不思議な程、その食べ方は豪快だ。
「だからゆっくり食べろって」
竜児は呆れたように笑いながら、自分も弁当を食べ始める。
それでも大河の箸のスピードは衰えない。
「……っぷはぁ、ごちそうさまっ、あー美味しかった」
大河は、あっという間に竜児謹製弁当を空にする。
「そりゃどうも。けどお前早食いは体に悪いぞ?」
「はいはい」
大河は竜児の声など話半分程度にしか聞かず、気持ちは既に午後の調理実習へと向いていた。
(美味しい物を貰って好感度が上がらない奴はいない、か。よぉし、クッキーがんばるわ!!)


***


待ちに待った調理実習。
目に見えていたことではあるが、大河はやはり失敗する。
「……どうしよう、これ」
薄力粉を入れようと思えば入れすぎて、卵を割れば必ず殻が混ざり、泡立て器で混ぜよう物なら何故かボールの中身は空っぽに。
それでも僅かに残った物を生地として伸ばし、焼いてみたら真っ黒焦げ焦げ。
どうしようもないくらいに焦げ焦げ。
脱力する。
思わず力んでがんばったが、なにをしても空回り。
少し、ほんの少しばかり視界が滲『バフッ』……?
視界が滲むか滲まないかの瞬間、大河は誰かに……竜児に頭を撫でられる。
「な、何よ!?」
「ボーッと突っ立って辛気くさい顔してんなよ、まだ時間はあるんだぞ」
竜児の手には、焼きたてと思われるそれはそれは見事なクッキーがあった。
焼き色から見ても、市販のものと遜色無いのではなかろうか。
「う、うるさいわね、どうせ私なんて……」
サッと黒焦げの塊を隠しながら大河は反論を試み「ほれ」……何かを渡される。
それは、薄力粉。
「な、なんのつもりよ!?」
「失敗したんだろ?また作りなおせば良いじゃねぇか」
「簡単に言わないでよ!!私ががんばったところでどうせ……」
大河はその頭に可愛い三角巾をつけたまま、僅かに俯く。
が、その瞬間。
ぱくっ……んぐんぐ。
「……?ちょっ!?アンタ何やって……!!」
信じられない事に、黒焦げで、とてもじゃないが食べられるようなものではなかった大河謹製のソレ、クッキーと呼ぶことすらおこがましいソレをあろうことか竜児は食べたのだ。
「……ん、焦げてなきゃ結構イケたんじゃないか?ほら、作り直すの手伝ってやるからがんばろうぜ?」
それも、ニコッと笑顔を浮かべて。
明らかに、見るからにマズイとわかっているソレを、食べてイケてたと笑うその笑顔は、今朝方見た同じ三白眼とは思えぬほどに優しくて。
「……うん」
大河に、初めて素直な行動を促した。
「よし、いいか逢坂、薄力粉は……」
真面目にクッキー作りの指南を始める竜児の動きはスムーズで、大河は先程あれほど失敗ばかりだった工程を一つも失敗することなくオーブンに入れるところまでこぎ着ける。
「やればできるじゃねぇか」
焼き上がるまでの間、そう竜児は大河誉める。
実際、素晴らしかったのだ。
竜児の言うことに素直に従って動くその様には、淀みは感じられず先程の失敗が嘘のように滑らかだった。
だというのに、誉められた本人は目を丸くして竜児を見つめていた。
それは、まるでありえないようなもの……幽霊でも見たような目だった。
「な、何だよ?」
「今、誉められたの、私?」
「ああ、そうだぞ。お前、やれば意外に器用な事もできるじゃねぇかって」
「誉められた……」
大河は、信じられない、というような面持ちで、しかしまたオーブンに向き直る。
今度こそ焦がすわけにはいかないのだから。
そうして、ようやく焼き上がったクッキー。
大河は喜々として鉄板を取り出し、台に乗せようと……ズルッ!!
足が……滑る。
「あっ!?」
思った時には遅く、体は宙に浮き、為す術無く焼きたてのクッキーが鉄板から……落ちなかった。
「え……?」
「っぶねぇな」
いつの間に掴んだのか。
まるでそうなるとでもわかっていなければ助けられるはずの無いタイミングで、竜児は大河を脇から支えていた。
「ほら、立てるか?」
竜児に抱き寄せられるようにして大河は転ばずに立ち上がる。
「………………」
だというのに、大河は礼を言うでもなく、遅いと罵るでもなく、ただ竜児を見上げていた。
じっと、その三白眼をした男の顔を見つめ続けていた。



***



(一体どうしたんだろう……)
大河は一歩一歩を踏め締めながら自問する。
手には包装されたクッキー。
隣には高須竜児。
時間は放課後を迎えた所だった。
竜児曰く、『北村はSHRが終わったらすぐ生徒会か部活だ。そうなったら渡す機会が無くなるからSHRが終わってすぐが勝負の分かれ目だぞ』なのだそうだ。
それ故、こうやって二人で彼の人を追いかけている。
だが、軽い筈の大河の足取りは重い。
大河はもう一度その小さな手に包まれたクッキーの袋を見つめる。
と、同時に完成した時のことを思い出す。

『出来た!!言い焼け具合だし、ねぇ竜児食べてみてよ』
『おいおい、そんなわけにはいかないだろ』
『え?何で!?』
『何で?ってお前、それは俺じゃなくて北村の為に作ったんだろ?』
『あ……』

何故忘れてしまっていたのか。
これはそもそも思い人の気を引く為の物で、竜児はその手伝いをしたに過ぎないのだ。
大河はその細い足を走らせながらも悶々とする。
廊下を駆け抜け、人垣を掻き分け、階段を駆け上って追いかける。
けれど、何故か足に力が入らない。
もっと早く動かせる筈の足は、時を増す事に、目標に近づくごとにまるで重りでも付けたかのように重くなっていく。
「おい、あいさ─────か?」
遅くなる大河を不審に思ったのか、竜児は大河に話しかけようとして、大河の姿がグラリと揺らぐ。
大河の足は、階段の最上段を足の指程度しか踏んでいない。

──────────グラリ。

踏み外してしまった足は、体重を支えきれずに物理法則に従い─────下へ。
フワリとした浮遊感。
一瞬、時が止まったような長い時間を経て、大河は階段の踊り場まで体を地球によって引き戻され……「っぁ」─────竜児の声を今までで一番近いところで捉える。
「……え?」
慌てて大河が振り返ると、そこには大河と壁に挟まれるようにして座り込む痛々しい竜児の姿。
今ばかりは自慢……ではないだろうがトレードマークたる三白眼のギラつきも鈍って見えた。
「ちょっと竜児!?だ、大丈夫!?」
「ったぁ……ああ、大丈っつつ!!」
「竜児!?」
立ち上がろうとして、しかし竜児は背中を押さえ、しばし動きが止まる。
「ああ、背中コブ出来てるかもなぁ、おぅ痛ってぇ……ってそんなことよりお前、早く北村追いかけなきゃ今日中に渡せないぞ?」
「あ……」
また忘れていた。
「ほら、行くぞ!!」
「あ、でも……背中……」
「これぐらいちょっと痛いだけで大丈夫だ、ほら」
手を引かれ─────初めて、男子に触れられ─────そのまま二人は生徒会室の前まで走り抜ける。
「ほら、あいさ─────か?」
「どうかした?、りゅ─────あ」
生徒会室に辿り着き、たまたま隙間があった扉から二人が見た物は、目的の北村祐作と生徒会長の狩野すみれだった。
何という運命のイタズラなのか、二人は他人同士とは思えぬほどに密着していた。
何故、このタイミングで……流石の竜児もそう思わないでは無い。
ここには大河がいるのだ。北村に思いを寄せるという逢坂大河が。
これではあんまりではかろうか。
もちろんあの二人に悪気があるわけでは無い。だがしかし、誰も悪い奴がいないというのは、時に残酷となる。
「……竜児、帰ろう」
そっと腕を引く彼女の腕は、不思議なことにしっかりとしていた。



力なくも、しっかりとした手に袖を引かれ、竜児は大河と共に学校を出る。
いつまで経っても大河は袖を離そうとしない。
気になった竜児は控えめに尋ねる。
「お前、大丈夫なのか?」
ピタリと、大河は足を止めた。
そもそも、ここにいる年齢にそぐわない小さな暴君は、見た目の美しさとは裏腹に人に夜襲をかけてくる奴なのだ。
それほど、彼の人を思う気持ちは本物だとそう思わせるだけの強さがあった筈なのだ。
それが、平静を保っていられるのか、と竜児は思う。
「なんとなくね、北村君じゃダメかなって」
それは何に対してか。
ダメという定義が何に対してダメなのか。
自分じゃ振り向いてもらえないという、魅力に対してか。
それとも……。
「それに、私は元々独りだから平気だし」
大河は力なく笑う。
その笑みは今朝見た寝顔のように儚げで、今このときばかりは彼女を手乗りタイガーなどと呼ぶ輩はいないだろう。
あるのは、ただ年相応にして綺麗さと儚さを持つ『女』としての表情のみ。
「……泣くかと思った」
だから竜児は、思ったこと、決めた事をいう事にした。
「な、何よ?泣くわけ無いじゃない!!ただ……」
その続きを、大河は言い淀む。
「さぁて、今日の晩飯、何食いたい?」
「えっ!?だって……」
まるで言い淀んだ内容がわかっていたように、竜児は切り出す。
「だって、私とアンタは……」
「大河」
協力という名目で一緒にいたんだから、そう口を挟もうとした大河を、竜児は一言で止める。
大河にとって最も身近で、当然のようについてまわる言葉でありながら、聞くことは少なかったその言葉で。
「へっ!?今なんて……」
「変な遠慮なんかすんな、俺は竜児、竜だ。お前は大河、虎だ。昔から、虎と並び立つ者は竜と決まってる。だから、お前は独りなんかんじゃない」
いつの間にか、掴んでいた袖は離れていた。
だが、竜児は今までの一歩引いた位置から、初めて大河の隣に立っている。
空には、二本の飛行機雲が並び立つように流れ、真っ直ぐに地平の果てまで伸びていた。
何処まで行っても先が見えないそれは、まるでこれからを暗示するようでもあった。
「な、な、な……」
大河は、その綺麗で小さな口をぱくぱくと開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、思い至ったように竜児を見つめる。
「アンタ、もしかして私の事が好きなわけ!?」
「……はぁ!?」
予想の外。
竜児は内心、自分で良い事を言ったと思っていた節もあって、この切り返され方は予想の右斜め上だった。
しかし、大河にも大河なりの考えがある。
(竜児、私が失恋したばっかりでこのアタック的な発言……もし本当にその気があるならここは照れてそれは違うなどとと言うか言葉を濁すハズ!!)
こうと思い込んだら一直線。
特急列車どころの話ではない。
今まさに大河の思考は新幹線だった。
(本気じゃないなら無視、肯定したらただの遊び、アンタの考えなんてお見通しよ!!さぁアンタの本性を見せてみなさい!!)
ギラリと睨みすえるように大河は竜児を見つめる。
「は、はぁ!?なんでそうなるんだよ!?」
当然、竜児の中での常識的反論が返される。
しかし、この場でのそれはまずかった。
もちろん、彼に大河の思考まで読む力があるわけなど無いが、あったなら、その返し方だけはしなかっただろう。
「な、なんですって……!?」
大河は驚愕に目を見開く。
何せ、言葉を濁し、それは違うと、なんでそうなると言ったのだ。
(りゅ、竜児はまさか……本当に私が好き!?)
大河にとってもまた、予想左斜め下の答えだった。



大河の中で瞬間的に組み立てられる公式。
(ハッ!?美味しいものを食べさせて好感度が上がらない奴はいない……私はまんまと竜児の好感度を上げさせられていたというのね?)
だってそれ以外には考えられない。
「おーい、大河?」
「はうっ!?」
しかも、しかもだ。
先ほどまで名字で呼んでいたのに、今は下の名前で呼んでいる。
これが意識した相手でなくてなんだというのだ。
ブレーキが壊れた、否、元々そんなものの無いダンプカー的な思考で大河は次々と公式を埋めていく。
「聞いてるのか、大河?」
(竜児は私が好き、だって名前を呼び捨て)
「おーい、はやくしないと日が暮れちまう、夕飯遅くなるぞー」
(竜児は私が好き、ご飯作ってくれるし、一緒に食べてる。そういや昼の水筒、あれって間接キスじゃない!?)
「お前の部屋、今朝また少し汚れてたから早く帰って掃除もしたいんだよ、お〜い」
(竜児は私が好き、女の子家に入って、掃除までしてくれるし。き、綺麗な私を見たいってこと!?)
大河はばっと竜児の顔を見つめる。
「おっ!?やっと帰ってきたか?」
(竜児は私が好き竜児は私が好き竜児は私が好き竜児は私が好き竜児は私が好き竜児は私が好き)
もはや止まらない。
「さて、変な話してないでさっさと帰ろうぜ」
(竜児がきっと無償で私をいろいろ助けてくれたのも好意の表れだったんだ)
ある意味で、この考えは正しいのだが、好意の意味が大河の想像とリンクするかは、現状ではわからない。
(……!?なんてこと!?そんな竜児に私は恋の手伝いをさせていたなんて!?なんて残酷なことを……)
止まらないどころか加速していく。
(ああ、可哀想な竜児。でも大丈夫)
「大河?」
不思議そうに竜児は大河の顔を覗く。
(今なら、その三白眼も恐くない。やっちゃんが竜児のお父さんに惚れた時もこうだったのかなぁ)
「またか?帰らないのか?」
ハッと大河は現実に引き戻される。
(いけない、長く妄想に耽りすぎたわ。早く、早く竜児に返事をしなければ!!)
「あ、あんたがそこまで言うなら、や、やぶ、やぶさかではないわ!!」
はん、とその小さい胸を張ってしかし、目は熱く輝かせながら大河は竜児を見つめ、答える。
今の大河の精一杯の返事。
「?よくわかんねぇけど、じゃあ帰るぞ?あ、買い物よって行くからな」
「ええ、問題ないわ。そう、未来は見えているはずなのよ」
大河は、どこまでもよくわからないことを言い、竜児を混乱させる。
終いには、某ガ●ダム●の主人公の台詞まで言う始末だが、しかし既に儚さは無い。
竜児は、とにかく深く考えることを止め、買い物に向かうことにした。
今日は狩野屋の特売日。
ここら一体で最も新鮮な商品を取り扱うこの店のこの日この時を逃すわけにはいかないのだ。
かくして、二人の頭の中には若干の齟齬、いや、考えられない程の齟齬を発生させたまま、これからを過ごしていく事となる。
「大河、今日は何食いたい?」
「えっとね、肉」
「そればっかりじゃねぇか、昨日もそれだったろ」
「え〜ダメ?」
「ダメだ、偏りは禁物だ」
……傍目からは、まだそれはわからない。
しかし、
(竜児、今日帰ったら……)
一方の頭には、何かしらの考えはあるようだった。


***

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