***


「♪」
逢坂大河は今朝からご機嫌だった。
お腹をさすり、そこにある膨らみを感じては幸福が蘇るようだ。
ちらり、と大河は隣を歩く高須竜児を見てみる。
「っ!?」
竜児は慌ててあさっての方向を向いた。
「♪」
さらに大河の機嫌は上方へと向かう。
(竜児がまた私を見ていた)
それだけで、嬉しくなる。
しかも、今朝からの竜児は『何故か』優しかった。
大河が言い出す前にご飯のおかわりを盛り、卵焼きも竜児の分を一切れ大河に与え、なんとデザートまで今朝はあったのだ。
いつも優しいといえば優しいが、今日のは度を越えた特別な、何か意図のあるような優しささえ感じられる。
(ああ、愛を感じるわ)
大河は再びお腹をさすって、その膨らみと満腹の分だけ幸せを噛み締める。
今の彼女は、手乗りタイガーなどでは決してない。
牙を抜かれ、飼いならされた餌付けタイガーのそれであった。
しかし、そんな大河に、竜児は甲斐甲斐しく世話を焼く。
「大河、ほら、あんま車道に寄るなよ」
と言っては安全な道を譲り、
「大河、服に汚れがついてるぞ」
と言っては汚れを払い、
「大河、ほら」
と言っては、ティッシュを鼻にあててやり鼻をかませる。
………………何だ、どこも変わっていないではないか。
竜児は変わらずに大河の世話を焼いているだけではないか。
強いて言うなら食べ物だけではないか。
しかし、両者の認識は決していつも通りではなかった。
(竜児が私を気にかけてる。さっきの鼻チーンなんてもう以心伝心ものよね)
一方は、妄想の行き着くところまで行き、とっくに常識、限界という名の壁やら崖やら宇宙すらも越えている。
(……せめて今日一日は大河の言う事を聞こう……)
そしてもう一方は、罪の意識からか、何処までも相手を尊重する構えだ。
全く噛みあっていない思考はしかし、
「竜児、あのね、私今日帰りに買い物行こうと思うんだけど……付き合ってくれない?」
「おぅ?大河が言うなら……」
(大河言うなら……だって。ああ、これぞ愛!!)
(今日はトコトン大河に付き合う……!!それで帳消しだ!!)
何故か表面上ではピッタリ噛みあっていたりするのだった。
別に愛が無くとも買い物に付き合ったりするし、それで帳消しになるのか、などとお互いに言ってくれる人間はもちろんいない。
二人とも、思ったことを口には出していないのが幸いし、災いしていた。

『キーンコーンカーンコーン』

さぁ、今日も一日が始まる。


***


「でねでね大河、やっぱり酢なのだよ!!」
大河は、同じクラスの櫛枝実乃梨と話をしていた。
「酢?」
時間は昼休み突入直後。
「そう!!ダイエット戦士としては酢を飲んで動くのが一番良いらしいんだ!!」
「へぇ、酢ねぇ」
「うん、身体に良いし、隠し味的な調味料だし。酢があれば何でも出来そうな気がするよ!!これであの大河とお揃い白パンツを履くのだ!!」
「ちち、ちょっとみのりん!?」
相も変わらず実乃梨はおかしな事を言い出す。
彼女は大河の一番の親友にして女子ソフトボール部期待のエースだ。
しかし、そんな彼女の言葉を聞いてビクつく者が一人。
竜児は、若干の入りにくい女の園に巾着袋を持って突入するか悩んでいる。
今の言葉で今朝見た三角のソレ、男の夢を思い出したのか、尻込みしていたのだ。
だがこのままではいつまで経っても竜児は大河に弁当を届けられない。
竜児は覚悟を決め、
(バレてるはずは無いんだ)
訂正、竜児は自分を信じ、女の園へと突入した。
即座にトン、と机に静かに弁当を置き、簡単に声をかけて竜児はそそくさとその場を去る。
流石に女子同士で話している中に堂々と居られるほど、彼は漢が出来てはいない。
ましてや、今の話題が話題だ。
大河はやや口元を歪めながらも、竜児を見やり、満足そうに巾着に手を伸ばした。
「大河、最近高須君と仲が良いね?」
「そう?まぁ部屋が隣なのがわかったからかな」
大河はそんな世間話をしながら実乃梨と昼休みを過ごす。
もちろん、片手間に竜児謹製の弁当を食べる事は忘れない。
今日の弁当は何か豪華だ。
今朝もさることながら、弁当でもこれ。
普段ならここまでは絶対やらないという肉祭り。
唐揚げ、ベーコン、ハンバーグ、豚肉の生姜焼き、ミートボールというおかず郡。
ご飯の上にはそぼろが乗っており贅沢すぎる中身。
(私の好きな肉ばっかり)
一口食べる度に大河は喜び、愛を感じる。
だがしかし、肉ばかりのメニューと思う無かれ。
そこには大河の気付かぬ巧妙な罠、気配りの高須の気遣いがもちろん入ってた。
唐揚げの下にはレタスが敷き詰められ、ベーコンはアスパラとの塩胡椒炒め、ハンバーグは実は豆腐で、豚肉の生姜焼きの比率は、肉2:もやし8。
ミートボールはよく見るとミニトマトが混ざっており、ご飯はそぼろと同じだけほうれん草がのっかている。
大河にとっては大好きな肉しか目に入らない作りになっているが、全て食べればあら不思議、肉より別な物の方が多いというマジック。
しかし、気配りの家事魔神高須のMAXはさらにその上を行く!!
大河は満足に弁当を食べ終え、巾着に空箱を戻そうとして気付いた。
巾着にはまだ小さいタッパが入っている。
「何これ……?」
不思議に思い、それを取り出し見るとそれはリンゴの入ったタッパだった。
早速開けて一口食べる。
「甘い……」
口の中がとろけるように甘くなる。
まさに今の気持ちそのものだった。


***


放課後、大河は今朝の約束通り買い物に向かった。
隣にはもちろん竜児。
大河の頭にはすでに昨日の言葉が数限りなくリフレインしていた。
まだ今日という日は終わりまで結構あるが、いつその時がくるかはわからないのだ。
(お、落ち着くのよ逢坂大河。まさか竜児も白昼堂々こんな所ではやらないはず……別に嫌じゃないけど)
大河はチラチラと竜児を盗み見ては妄想を爆発させる。
(そう、例えばこの辺で大河って言いながら私の手を掴んで……)
「大河」
竜児は突然大河の腕を掴んだ。
「そうそうそれで……へっ?ひゃあ!?」
急に腕を掴まれた大河は、あまりに想像通りだったのか驚きふためく。
(だ、だだだだめよ竜児、こんな時間、こんな人通りの多いところで、キ、キキ、キスススだなんて……)
そんな重いとは裏腹に、大河の意識は竜児の唇へと向いていく。
自分と違って、少し荒れてそうで、でも確かに竜児の一部。
段々とそれが近づいて来る。
あと50cm。
(だ、だめよ竜児)
あと40cm。
(こ、こんな時間に)
あと30cm。
(こんな人通りの多い所で)
あと20cm。
(あ、あ、あ……)
あと10cm。
(竜児っ……!!)
ぎゅっと目を瞑り、来るであろう感触に全ての神経を集中し……。
あと20cm。
(あ、れ……?)
あと30cm。
「あーあ、大河、お前制服汚したな?帰ったらちゃんと洗ってやるよ」
掴まれた腕には、少々のシミ。
竜児は汚れに気付き、大河の腕に近づき、それを眺めた。
「へ……?汚れ……?あれ……?」
大河はポカンと鳩が豆鉄砲でも喰らったような表情をして、
「ま、ま、まぎらわしいのよ、このバカ犬ぅ!!」
鉄拳制裁を下した。


***


「やってしまった……」
大河は卓袱台に付いてしょげかえる。
料理する竜児の背を眺めながら、先程の失敗を振り返る。
勘違いとはいえ、恥ずかしさのあまりに鉄拳を喰らわせてしまった。
それも気持ち良いぐらいのクリーンヒット。
つい、
『あら、良い音』
と言ってしまうほど。
「はぁ……」
大河は深い深い溜息を吐いた。
これでは今日中には無理かもしれない。
竜児を殴ってしまったのだから。
「今日のキスがぁ……」
つい、大河はぼやいた。
「キス?キスがどうかしたか?」
そんな大河の小さな呟きに、竜児は反応した。
大河はビクゥと怯える。
「き、昨日言ってた奴……」
不安に駆られながらも、しかしはっきりと大河は告げた。
だって、しょうがないではないか。
それだけ、今日になったその瞬間から楽しみだったのだ。
「何だ?昨日からそんなに楽しみだったのか?安心しろ、今日はキスだ」
その瞬間、大河は重荷が取れたようにぱぁっと明るくなる。
例えるなら、さっきまで重力が普段の10倍だったのが、普段の10分の1になったような錯覚さえ覚える。
今なら、あまりの軽さに大気圏まで行けそうだった。
と、唐突に天啓が閃いた。
今すぐ竜児の料理の手伝いをすれば竜児の好感度アップ。
料理時間短縮の為キス時間確率アップ。
大河の料理スキルもアップ。
牙を抜かれた伝説は、思いこみスキルそのままに行動を開始する。
大河は即座に立ち上がり、気配を殺してキッチンへ。
「大河ー?風呂上がりどうする?ジュースとアイス。俺はアイスが良いから買ってこようかと思ってるんだけど」
竜児は気付かずに大河に話しかけていた。
大河の脳裏には昼休みの実乃梨の言葉が思い出される。
『やっぱり酢なのだよ!!』
(隠し味……)
大河は目をギョロリと動かし、すぐにターゲットをロックオン。
狙い撃つかのように素早くソレ、酢をわしづかむ。
「大河、で、アイス系……?」
竜児が振り返ると、大河は鍋に今にも酢を『ビンの中身全部』ぶち込もうとしているところだった。
「おわぁ!?お前なにやってんだ!?いい!!無くていい!!入れなくていいから!!」
竜児は慌てて大河から酢を取り上げる。
「あ……」
思いの外竜児は必死だった。
大河はまた失敗した、というように顔をふせる。
グツグツ。
鍋の煮える音だけが場を支配する。
大河の心がどんどんと深く沈み込むその刹那、
さわさわ。
頭を撫でるやや固い掌。
「……え?」
大河は驚いたように顔を上げる。
「お前はどっちだ?」
「え?」
大河は不思議に思う。
怒っていないのだろうか。
竜児は買い物に行こうとしてるようだ。
恐らくさっきの質問だろう。
「あ……」


***


大河は一人、ぽつんと卓袱台に座っていた。
竜児は先程家を出た。
多分アイスを買いに行ったのだ。
一人になって、頭が冷静になってくる。
火も止めて静寂が支配する2DKで、しかし大河は物思いにふける。
結局、大河は竜児に答えられず頷くだけしか出来なかった。
それを竜児は肯定ととったのか、買い物に行ってしまい、すでに数分。
「なんで私ってこうなんだろう」
昨日から思い続けていたことを、改めて感じる。
告白しようと思えば、その人は他の女の人といるし。
新たに上手くいくかと思えば空回りばかり。
さっきの竜児の声だって。

『大河、で、アイス系……?』

話している途中で、竜児はもの凄い顔をしていた。
え?お前なにやってんの?みたいな。
「はぁ……」
大河は溜息を吐いて寝っ転がる、と、足下にリモコンがあったのか、テレビが点いた。
『いやぁ、バカと天才って紙一重ですよねぇ。頭の良い人ほど考えすぎるっていうかバカな勘違いするっていうか……』
どうでも良いことが耳に入っては流れていく。
思い出されるのは竜児の必死な顔と声。

『いい!!無くていい!!入れなくていいから!!』

「はぁ……」
再び溜息を吐いて目を閉じる。
こんなんで、今日のキス、出来るだろうか。
出来たとしてもこんな気持ちじゃ……。
何度もリフレインされる竜児の叫び声。

『いい!!無くていい!!入れなくていいから!!』
『e!!無くていい!!入れなくていいから!!』

「……あれ?」
何かおかしい。
「e、入れなくていい?」
その瞬間、はっとする。

『大河、で、アイス系……』

『taiga,de,aisukei……』

e!!無くていい!!入れなくていいから!!……eを抜く。

『taiga,daisuki……』
『大河、大好き……』
「へ……?」
がばちょ、と大河は勢い良く起きあがる。
「ま、まさか……なんてこと……!!」
今、大河は全ての謎を解いたとばかりに目を輝かせる。
「私、またやらかしていたのね……?」
今まさに自分がやらかしているとは恐らく夢にも思わない。
大河は、優しく撫でられた髪の感触を思い出す。
「そう、あれはそういうことだったんだ。竜児、貴方って人は……!!」
感動が奇跡を呼び、奇跡がさらなる混沌を呼び起こす。
どんどん気持ちが、身体が軽くなっていき、今なら大気圏どころか宇宙にだって飛び出せそうだ。
伝説の虎には再び牙が生え、活力が戻っている、否、増している。
竜児という哀れな獲物の帰宅まで、あと10分……。


***


物事には順序というものがある。
何事も唐突には起こらず、それらをふまえての今、結果があるのだ。
無論例外はある、いや、あると思いたい………………思ったっていいじゃないか。
竜児は帰宅するなり異次元に飛び込んだのかと本気で疑った。
なにせ、家に入るなり
「おかえりなさい」
と大河がピンクのエプロン姿で出迎えたのだ。
ここは異次元がはたまた世界の果てか。
いやいやこの世の終わりかもしれない、などと少々失礼な事を思いながらも、懸念事項を尋ねる。
「お前、また料理してたのか?」
「ううん」
「じゃあなんでそんな格好してんだ?」
「だって、出迎えの時はこういうものかなって」
ポワポワと頬を赤くしながら大河は俯く。
何がこういうものなのか、皆目見当もつかないが、今日の大河は何処かおかしいし、深くは突っ込まないことにした。
この時、竜児は根掘り葉掘り尋ねて誤解を解いておくべきだったのかもしれない。
帰ってきた竜児は早々に夕飯の支度を再開する。
と言っても、やるべきことは終わっており、あとは食べるだけのようなものだ。
「大河ー、ご飯盛るから持ってってくれー」
「は、はひ」
やや裏返ったような声でピンクエプロン大河は茶碗を受け取る。
ややぎくしゃくしながら茶碗を卓袱台へ。
「なんだ?どうかしたのか?」
「にゃ、にゃんでもにゃい……」
何でもない、というには些か以上の変化だが、まぁとりあえずは空腹を満たそう。
「そうか?じゃあいただきます」
「い、いただきます」
茶碗を手に取りご飯をぱくぱく。
キスの和え物もぱくぱく。
鍋の中身はグツグツ。
「………………」
しかしいつもならどんどん食べていく大河は全く箸を進めない。
(まだ、さっきの事を気にしてるのか?)
「大河、楽しみにしてたんだろ?ほら」
キスの和え物を竜児は大河に近づけてやる。
「あ、うん……」
大河は一口食べてまた箸を休め、チラチラと竜児を上目遣いに見つめている。
鍋の湯気のせいか、その頬はやや上気し、赤らんでいるかのような錯覚を竜児に思わせる。
しかし段々イライラしてきたように、大河の眼光が鋭くなっていく。
何もやっていない(と思っている)竜児は何だかバツが悪くなってくるが、大河が唐突に何か思いついたように目を見開き笑顔に戻ってからは特段気にしなかった。
が、それも数瞬。
もしも、その時の大河の深慮思慕をくみ取れたならそんなことはしなかったに違いない。
大河は食事中の竜児を見つめ、待っていたのだ。
とある瞬間を。
しかし、いくら待てどそのタイミングはやってこない。
イライラし始めた大河は、最早待つのではなく、自分から作り出すことにしたのだ。
大河は狙いを定める為に集中する。
食事中の竜児、ロックオン。
いや、もっと微細にしなくてはならない。
大河は狙うポイントを睨み据える。
狙うは一点。
竜児のその頬。
舌が震え、胸が爆発し、唇が渇く。
よぉくタイミングを掴み、
(今だ!!)
大河は動き出す。
「んっ?おわぁっ!?」
大河は唐突に竜児の頬に、それはそれは柔らかく、艶やかで、それでいてぷりっとしたそれをお見舞いしようとして……失敗する。
『ぷちゅっ』
情けない音を立てて竜児の『鼻』に命中したそれは、やや情けない姿になる。
「な、何すんだよ大河!?」
驚き焦る竜児。
若干頬が紅潮する。
それはそうだろう。
誰だって、『米』を鼻っ柱になすりつけられれば顔を赤くして怒るってもんだ。
しかし、今だ全開大河はそんな声など聞こえない、聞く気もあんまりない。
「ああ、なんてこと!?竜児の頬……じゃなくて鼻にご飯粒がついてるわ、動かないで竜児。わ、わた、私が取ってあげるから!!」
若干のミステイクだが、大河の中では許容範囲内だったらしい。
「は?何言ってんだ?お前が付けたんだろうが!!だいたいこんなの自分で……」
どんっ!!
今だご飯のある卓袱台にソックスを履いたままの大河の細い足が乗る。
大変行儀は良くない(良い子のみんなは真似しないでね♪)
もちろん、竜児も大河に怒るべくその顔を睨み付けようとして、固まった。
……例えるなら、タコ。
何処かのパッケージで見たような、口を突き出し、頬を赤らめた……そんな顔。
「おまっ!?一体何を……?」
嘘偽り無く言えば、この時竜児には既にこれから起こることの予想はついていただろう。
しかし、大河と「それ」がどうしても結びつかなくて、無理矢理に考えないようにしていた。
大河は、今度こそ狙いは外すまいと、竜児の頬を両手で挟み込むように押さえ、再び狙いをロックオン。
鼻に大河スコープで的をしぼり、いや、正確には潰れた米粒に的が絞られ、
「お、お、おんどりゃぁーーっ!!」
意味不明なかけ声とともに、ありすぎる勢いで竜児の顔に飛びかかり、瞬間的に羞恥から目を瞑る。
しかし彼女は伝説の手乗りタイガー。
同時にドジの極みタイガーでもある。
何も起こらす上手くいくと思う無かれ。
当然、彼女に目を閉じたままの命中を成功させるなどというスキルなどなく、
『ズリッ!!』
それに加え不安定な立ち位置から、卓袱台にかけた足は滑り、予定より落下位置が若干下になり、

──────────チュゥ──────────

大河の、人が物を食べる場所飲む場所噛む場所歌を歌う場所声を発する場所そうつまり口が、
竜児の、息を吸い吐き出し開き閉じ生きていく上での必須要項栄養確保の入り口つまり口へと交わり、

──────────チュゥ──────────

件の音を立てた。


***


「………………」
もう一体何時間こうしているだろうか。
さきほどのハプニングから、竜児は微動だにせず正座したままだった。
大河は、予定外の事象と、予定内の事象での羞恥からか、高須家をあっという間に駆けだした。
それがまた、竜児をこの状態へとさせた要因の一躍を担う。
(俺、大河と、キス……しちゃった)
幾度と無く繰り返される思考。
ノイズは無い。
思考、思考、思考。
キス、キス、キス。
大河、大河、大河。
帰宅、帰宅、帰宅。
悪い、悪い、悪い。
柔い、柔い、柔い。
巡っては消えを繰り返し、思考の渦、迷宮から逃げ出せない。
と、ぽろっと鼻から落ちる物があった。
それは米粒。
「あ……」
実に数時間ぶりに発した言葉。
数時間ぶりに自我を再構築した竜児は、慌てて卓袱台の上を片づけ、洗面台で顔を洗う。
気付けば時刻はすでに12時。
ゆうに5時間は意識がぶっ飛んでいたらしい。
しかし、だからといってその時間だけで今日を纏められるほど竜児は大人では無い。
「お、俺……」
指で唇をなぞる。
そこには、もう無い筈の感触があった。
「………………」
何気なくカーテンをかけたベランダを見やる。
どうしようか迷いながら、竜児はカーテンを開け、ガララ、とベランダに出て、
「「あ」」
同時に目の前の窓が開いた事に驚く。
竜児はその驚きが強すぎて、言葉が出ない。
唇が……熱い。
だから、次に口を開いたのは大河だった。
「な……た、ただいま」
が、何処か変な言葉。
「お、おぅ」
それに突っ込めない竜児も、やはり今だ正常には戻れない。
「え、えと……竜児」
「お、おぅ」
さっきと同じ台詞とイントネーション。
言ってしまえば、何を話して、どんな顔をすればいいのかわからないのだ。
今朝……いやもう昨日か。
その件での大河に負い目があってさらに今回の件。
嫌われ、避けられても仕方のない事だと、何処か自虐的な考えも巡っていたのかもしれない。
だから、
「おやすみなさい♪」
頬を赤らめた、はにかんだような笑顔で『投げキッス』などされた竜児は、もはや心の防壁の『ぼ』の字すら残っちゃいなかった。
ガララ……シャッ。
大河の姿が窓によって遮られ、カーテンによって見えなくなる。
しかし竜児はその場に留まったまま、ぼーっとカーテンのかかった窓を見やっていた。
が、おもむろに屋内に戻ると、急にふきん片手に狂ったようにあちこちを拭き始めた。
テレビの上をフキフキ。
タンスの表面をフキフキ。
茶箪笥のガラスもフキフキ。
キッチンを隅々までフキフキ。
部屋の壁から天井までフキフキ。
二日に一度のポイントもフキフキ。
床という床、物という物をフキフキ。
家中綺麗に磨き上げた竜児はしかし、満足することなく夢遊病患者のごとく箒を片手に家を飛び出した。
家の、大家さんの家の前も含めてレレレのおじさんよろしくハキハキ。
お隣のマンションの前もついでにハキハキ。
空が白ずんできていても気にせずハキハキ。
そのまま河川敷に向かいながらもハキハキ。
途中でゴミを拾ってはハキハキ。
むしろゴミに近寄ってハキハキ。
取り憑かれたみたいにハキハキ。
目は死んだ魚のように白く細く、自慢の三白眼がギラつきを増している。
訂正。
断じて自慢でもなければ、誇れる場所でもない。
そのまま竜児は日が昇っているのにも気にせず箒で地面を掃いていく。


***


時間は少し遡る。
大河は羞恥のあまりに窓を早々に閉め、竜児との間を遮断する。
その窓も、竜児が気になって開いたものだというのに。
しかし、ベッドに潜っても目が冴えて眠れない。
人生初めてのキスをしてしまったのだ。
昔、生まれたての時に両親にされているかもしれないが、そんな覚えていないものなどノーカウント。
いやカウント云々以前にあんな奴にキスされてたことがあるかと思うと鳥肌が立って死にそうだ。
ところがどうだ?
相手があの、絶望的に目つきが悪い成績優秀家事万能掃除魔神こと高須竜児となるとまるで話は違ってくる。
それはもう地獄の業火のごとく熱き炎で身を焦がすほどの熱を感じながら、この世の何を食べても得られぬほどの甘美な味を体感する。
ベッドの上で何度と無く転がり、ニヤけ、また転がる。
とても他人様には聞かせられぬような奇声も時々上げながら、全く見ていられない動きをし続ける。
そうして彼女もまた、日が昇るまで眠ることは出来なかった。


***


日が昇る。
人はそれを朝が来ると呼ぶ。
しかし彼女はそれを朝と認めない。
夜に眠って目が覚める、人はそれを朝が来たという。
しかし彼女はそれを朝と認めない。
彼女にとって朝とは、隣の家の少年に挨拶をされる事から始まるのだ。
だから、例え外が明るくなってきていても彼女はいまだ朝だと認識していない。
明けない朝は無くとも、彼女の朝はまだ明けない。
「……遅い」
しかし、いつ明けるかわからない朝を待てるほど、彼女は我慢強くも無い。
彼女は手乗りタイガー。
大橋高校の生きる伝説なのだ。
誰にでも噛みつき、気にくわないものはぶっとばし、縦横無尽に駆け抜け、我田引水を貫こうとする本当は誰よりも寂しがりやな女の子なのだ。
だが幸か不幸か彼女は気が強い。
だから、
「どっせーい!!」
布団を蹴飛ばし、着替えもせずに窓を開けてジャンプ。
玄関?ナニソレ?食べ物デスカ?
同じ失敗は二度繰り返さない。
コレ大事、重要、テストに出る。
先日とは違い力一杯ベランダを開き、ドタドタの隣人の家を徘徊する。
それはもう我が物顔で、ここはもう、自分の家も同じだとばかりに。
しかし、彼女のその威勢は時間を増す事にその勢いを減衰させ、高須家侵入から3分が経つ頃には意気消沈していた。
何処にも、彼の人がいないのだ。
これでは朝が来ないではないか。
のそのそと帰ろうとして、はたと気付く。
「竜児の靴が、無い……」
瞬間的に大河は飛び出していた。
家の中にいないなら外にいるのは必至。
消沈のあまりそんなことさえ意識の外だった。
しかし、外にいるとわかれば外を探せば良いだけのこと。
空は既に日が差しているが、彼女はまだ朝を迎えない。
駆け出し、見回し、また駆ける。
気付けばそこは河川敷。
息を切らせて来てみれば、そこに見知った背中があるではないか。
「見つけた……」
箒を片手にずっと土手を掃き続けている。
「竜児!!」
再び大河は走り出した。


***


「竜児!!」
ビクゥ!!
ただ箒を動かすだけの単調な作業から、初めて変わった動きを竜児は見せた。
「ど・こ・行・っ・て・た・ん・だぁーーーっ!!」
大河は地を蹴り竜児の元へとダイブ。
華麗なる足腰のバネを最大限に生かし、跳んだ、いや飛んだのだ。
「のわぁっ!?」
竜児の元へと見事に着地、もとい激突した大河は、そのまま勢いを殺せず竜児を巻き込み地面をゴロゴロと転がる。
「いったぁい」
ようやく止まった大河は頭を抱えて立ち上がった。
「いてて……何考えてんだ!!たい、が……?」
怒りから、先程の謎のモチベーションを吹き飛ばし怒鳴りつけてやろうとした竜児は、すぐにその気勢を奪われる。
大河は、寝間着だった。
いつものフリフリブラウスだった。
腕は傷つき、足はなんと裸足だった。
体中が汚れ、所々切り傷が出来ている。
「お、お前、なんて格好してんだよ!?」
「うるさい、先に言うことがあるでしょう!?」
竜児はあんまりな大河の姿に問い詰めるが、大河は取り合わずに竜児を睨み据える。
「言うこと……?」
「今何時っ!?」
「お、おぅ?」
竜児は慌てて時間を調べようと腕を見る。
別に腕時計はしていないので今度はポケット。
しかしどうやら携帯は持ってきていないらしい。
「すまん大河、今、何時だ……?」
そもそも、自分は何故ここにいるのかわからないと言ったように竜児は大河に尋ねる。
「七時三十分よ!!」
携帯を押しつけながら大河は吼える。
「お、おぅすまねぇ、もう朝だな」
「まだ朝じゃない!!」
「いや、もうおはようの時間だろ」
「……もう一回」
「は?おはようの時間だって……」
「よし、やっと朝が来たわ」
そこで竜児はようやく理解する。
「ああ、朝の挨拶か、おはよう大河」
「全く、挨拶を忘れるなんてなっちゃいなわよ竜児、私が言った意味、わかってる!?」
「あ、ああわかった」
竜児は思い出す。
そう言えば、コイツとは

─────何でもね?犬のようにしてくれる?私の為に何でも従順に?─────

から始まった。
(主人に挨拶も出来ないのか、と怒りたいのか……)
犬になった覚えは無いが、挨拶が出来なかったのは確かに悪い。
「私の言ったことはもう二度と一字一句聞き逃さないでよね!!」
大河はぷんすかと怒りながら近くの石段に座る。
「ああ、悪かった」
竜児も、大河に謝りながら隣に座った。
途端、大河が何かに気付いたように背筋をゾクゾクさせたかと思うと、急に背筋をピーンと張り、次いでふにゃふにゃになった。
「お、おい大河?」
大河の頭に一体どんあ不思議絵図が広がったのかは定かではない。
しかし、大河は竜児に振り向こうとして……倒れた。
「たっ、大河!?」
驚き焦り、すぐに大河の顔を竜児は覗き込み「スーッスーッ」……安心する。
「なんだよ、急に寝るなよ」
竜児の膝を枕にするような形で大河は寝入る。
竜児の与り知らぬことではあるが、大河とて一睡もせず、ここに着の身着のまま、裸足で駆け抜けて来たのだ。
その思いの強さたるや、いかんともしがたいものだったことだろう。
そしてそれは、一睡もしないで掃除を続けた竜児にも同じ事が言える事で……。
「やべ……俺も眠くなってきた……」
大河の安らかな寝顔を見ると、その思いが強くなってくる。
「言ったことはもう二度と一字一句聞き逃すな、って言ってたくせに、おやすみは言わなかったなコイツ」
そんなことを呟きながら、はたと昨日の事を思い出す。
そう、あれは事故だったんだとそう言い聞かせようとして、一語一句違わずに全ての台詞を思い出そうとして、思い出しすぎてしまう。
「……あれ?」
それは、事が終わった後の、窓とベランダでの邂逅。
『な……た、ただいま』
一見、意味のわからない大河の言葉。
いや、自分の部屋に帰ったと言う意味と無理矢理解釈出来なくも無いが、問題はそんなことより。
正確に思い出すなら、二人は目が合った瞬間に
『『あ』』
と言っている。
大河の言う一字一句聞き逃すなというのであれば、これすらも聞き逃してはいけない。
『あ』『な……た、ただいま』
『あ、な……た、ただいま』
あなた、ただいま。
あなた!?
混乱混乱混乱。
思いだされる昨晩の出来事。
容赦無く襲いかかってくる睡魔と戦いながらも必死に竜児はそのことを考える。
(俺は、大河にあなたって言われたのか?だからキスされたのか?つまり大河は……?)
間違わずに、しかし正解とも言い難いルートでの思考は睡眠欲のせいだけではないかもしれない。
しかし、それはとりあえず置いておこうではないか。
今ここに、最後の思考力を手放し、横に並ぶようにして眠ってしまった凶眼の持ち主がいるのだから。
一見風変わりなその様は、一方は箒を片手に寝っ転がり、もう一方はフリフリ寝間着で裸足でありながらも特に衆目を集めるでも無く、眠り続ける。
何が始まりで、何が違い何が正しいのかなど、わからない。
ただ、そこにはしずしずと眠りに耽る一組の男女がいるだけだ。
それは勘違いから始まったのかもしれない。
でも、勘違いから、勘違いじゃなくなることだってきっとある。
お互いが勘違いであることに気付かず、しかし噛み合ったままの二人なら、その程度の障害、なんなくぶち壊すだろう。
飛び越えるのではなくぶち壊す。
何故なら二人は語り継ぐもののいない伝説なのだから。
その程度の障害、ぶち壊せなくて何が伝説か。
そうして、新たな恋が幕を開いて行くのだ。


***


少し、高須家に戻ろう。
「あれぇ?大河ちゃんや竜ちゃんがいないよぉ」
金髪フワフワのロングヘアーの見た目若い女性が、肌を露出しながら家を徘徊する。
新たな伝説への幕開けは、いきなりの難関から始まりそうだ。




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