***


朝早くから近隣一帯を騒がせていた蝉の一群はここへきてさらに声量を上げ、耳障り指数は針が振り切れんばかりの値を叩き出す。詰まるところ……そう、大変遺憾状況下だ。

目蓋を解放したときには強制的に今日の朝が訪れるわけだが、

「あ、あ……」

先に動いた器官は口。餌をもらう魚のように唇がパクパクと開いてしまう。そしてそれは喉の奥から濁流の如し勢いで押し出され、唇の内側を激しくノックし……

「……あつい……」

飛び出した――
来訪者はたったの三文字なのだが、できることなら開けたくなかった。居留守を決め込もうと思っていたのにもう遅い。

タオルケットを引っ剥がし、Tシャツを脱ぎ散らかし、夏用半ズボンを蹴り飛ばし(現在裏返しで足下)結果――パンツ一丁。夏。
この有り様を見て容易に想像できるのは暑かった……ただそれだけだ。

「おおう……っ!昨日干したばっかだぞ……」

夜中にかいた汗は尋常ではなく、被害は甚大。洗濯仕立ての寝具を無に返した。テンションはさらに急下降。最悪の朝である。

午前六時の朝。暑さでなかなか寝付けない夜を過ごした竜児にとっては、まだ眠りについていたい時刻。
しかし無情にも枕カバーとシーツがこれだ。起きる他ないだろう。

新聞紙の回収を済ませ、天気の覧を早速チェックする。
見慣れてしまった晴れマークが精神的に堪えるようになってきたのは二日くらい前からだったか、考えるのも暑苦しい。
気温もうんざりするほど高く、最高気温は見るに耐えない。今日は一日洗濯日和です――今日もっ!だろう嘘こくな。

「……はぁ〜……」

夏だからなあーと、自分に言い聞かせる一方で、額に張りつく汗はまたじわりと湧き出すものだから自己暗示も虚し過ぎて、

「……あっちぃ……」


本音がうっかりこぼれ落ちる。
竜児は極力『暑い』とは口に出さないタイプだ。小さい頃から欲しがらない精神を貫き通していた竜児は本能的、合理的に導き出した答えがあった。
――『暑い』と言ったところで状況は変わらない、だ。
しかしそんな長年の経験に基づく悟りを打ち砕くほど、今朝は暑い。いやもはや熱い。

気温の上昇で人間はイライラするというのはどうやら嘘ではないらしい。つい無意識にも、手に持っていた新聞紙を雑に放り投げてしまう。

「ん?」

八つ当たりの対象にされた哀れな新聞紙の間からひらひらと何かが飛び出した。
その鮮やかな色彩を放つ何かは紙。『本日オープン!』とゴシック体で配列された文字が目立つように飛び出している単なる広告。一番下には割引券、そして切り取り線。

「駅二つか……」

蝉の鳴き声と熱気で構成された拷問部屋の一角。
現在進行形で汗をだらだらと流しつつも、生まれながらの三白眼の瞳は煌めくマリンブルー一色で彩られる。
まさに、そう。今まさに『これ』だ。

あいつだってきっと同じ想いをしてるはず……あ、エアコン付いてたっけ。くそ、まあいい。

そばにあった携帯を取り出して短縮ダイヤル。コールが五回位鳴って、

『……ぐあぁぁぁ―――うううぅぅ……っ!』

ツーツーツー……。
え〜。

宛名は……いや、合ってる。じゃあ今のは何だ?まずヒトのカテゴリーに属している生物なのだろうか。

様々な思考が錯誤するがワンモアトライ。手早く短縮ダイヤルを再び……

『なな何時だと思ってんのあんたぁ――っ!私っ!昨日っ!寝たのっ!四時っ!おやす……あああぁぁぁ……っ!また……おきちゃったじゃない……』

ツーツーツー。

「……おおう……」

結婚の約束までした愛する彼女は戦場で奮闘中。天下無双の手乗りタイガーと言えども、夜泣きの赤ん坊には白旗らしいが。

自分のせいか?と、微妙な罪悪感を感じながらも、ポチポチッと、とりあえずメールで用件だけ。簡潔かつ簡略化された本文を送信する。もちろん内容は、

『今日プール行かねえか?』


***

えーなんだよ高須無理なのー?あー……うん、タイガーと、デート……。はっ!はいはいどうせ俺らはむさい男児ぃズですよ!
えっ?どこ行くかって?めちゃくちゃ良い所なんだけど教えないよ〜だ!(かわいくない)
俺だってなぁ、今年こそは……くそぅ!ぶぅぁーか!高須なんて嫌いだああぁぁあぁぁ……っ!

――というやりとりが約二十秒前に繰り広げられていたわけで。

大河と付き合い始めてからというもの、能登はやたらと攻撃的だ。うちわを仰ぎながら竜児は思う。今年も無理じゃないかな……という勝手な予言は隅っこに置いといて。
とりあえず友の武運を祈ってやる。頑張れよ、と。すると想像の中の友は言う。――何を!?竜児は答える。――知らねえ、と。

「あ、終わった?なんて?」
「バーカだって。あと俺のこと嫌いだって」
「へぇ、いたずら電話にしてはなかなかのレベルじゃない」
「ああ。てかお前」

指差した先には少し大きめの可愛らしいピンクのプールバックが一つ。

「そんなに詰める物ってあったっけか?余計な物はできるだけ入れるなよな」
「ふっふーん!この中にはねぇ、浮き輪が入ってるのよ!おっきいの!」

なぜ威張る……?と言いたくなるところで、間髪入れずに大河は言う。

「私、泳げないでしょ」
「おう」
「でも竜児はどぅおしてぇーも私とプール行きたいでしょ」
「……おう」
「私、浮き輪は恥ずかしいって思ってたのよずっと!」
「おう……いや、話が見えんぞ、全く」

浮き出る汗も、その研ぎ澄まされたガラス細工のような肌には何の暑苦しさも感じさせずむしろ潤しい。
色素の薄い大きな瞳の中には煌めく星が瞬き、流れ星が降りそそいでいるよう。
取れてしまいそうなほどか弱い唇は薔薇の一片を思わせる。
暑さで気だるい夏の午後でも、大河は今日も誰もが認める可憐な美少女だ。


竜児の受験勉強でなかなか予定の取れなかった久しぶりのデート。
いつもよりニコニコと頬を緩ませる愛くるしさも今年の夏のページに飾られる大河の一コマ。

「このおっきい浮き輪に背中を委ねてプカプカ浮いてれば、誰も私が泳げないとは思うまいっ!」

これもまあ、一コマは一コマだ。

「いや、いまいち要点がわからないんだが……」
「あんた、ほんとにっぶいわねー。しょーがない、説明してやろう!」

そう言って大河は二度目のふんぞりをご披露する。どうでもいいが、バランスを崩してこけるのだけは勘弁だ。

「私ね、去年竜児と打倒ばかちー戦でプール行った時思ったのよ、あることを」
「何を」
「泳げる人も浮き輪を使っているのだ!」
「おおう!」

口調の変わったことにはあえてつっこみを入れず、竜児はいかにも恐れ入ったように口をすぼめる。大河はさらに得意げに、

「体にフィットする浮き輪は泳げないから身につけているイメージがあるでしょ」
「まあ、確かに」
「でも大きい浮き輪は違うの。『私、泳げるんだけどあえて泳がないの〜』的な雰囲気が醸し出されるのよ。なんて言うか……そう、余裕あります!って感じ」
「たしかにそんな先入観はあるかもしれない、のか……?」
「絶対そうよ!私の研究の成果では間違いない」
「研究って……見ただけじゃねえか」
「ったく、いちいちうっさいわねえ。ほら、もう行こ!電車来ちゃう」
「はいはい」

大河が良いなら良いのだろう。これ以上の追求も無意味と判断し、玄関を飛び出していった大河を追いかける。
そういえばあのピンクのプールバック……他には一体何が入っているのだろうか。

疑問を残るが、日差し対策のための帽子を被って玄関を出る。今日みたいな日をプール日和と言うのだろうが、やはりこの照りようは勘弁願いたいところだ。


***


「パパああぁぁああ――――っ!!怖いよおおぉぉおお――――っ!」
「……馬鹿っ!泣くんじゃないっ!ゆうたっ!」

おそらく怪しく青光りした禍々しい両眼が、少年の潜在的防衛装置に反応したのだろう。大泣きしながら父親に引きずられるようにして退場していく様は、言うならば地球最後の日――。

雄の匂いで充満された更衣室。縦に五。横に十五。そこに立ち並ぶは利用者の実用品を安全に管理してくれるロッカー。
その中の一つでも触れようものなら、箱詰めにして東京湾にでも貴様を沈めてやろうか!……などと考えていたわけではなく、ロッカーに焦点を合わせた時点で立方体にプレスして貴様もロッカーにしてやろうか!……でも断じてない。

いち高校生らしく、にやけていただけなのだ。まあ「ふふふ……」口元を緩ませると、今度は向かいに立ち並ぶロッカーから人が消えたことを竜児は知らないが。

――今年の夏は二人でプール行こうね!と、大河が言ったのは夏休み前。断る理由は微塵もなく、竜児はその誘いを承諾した。
さっそくとばかりに次の日、二人で駅のデパートで新しい水着を購入。お互いに似合う水着を選ぼう!と提案した大河は本当に女の子らしかったし、
「竜児はこれが良いよ!」と、目を細くした愛らしい笑顔も本当に天使のように見えたのだ。

「怖いよおおぉぉおお――――っ!!」

だからゆうた君、いくら君が死ぬほど泣き叫ぼうが、俺は頬を緩ませる作業を止める気は毛頭ないのだよ……
と、彼方に消えても鳴り止まない悲鳴に念押しをしてまたニヤリ。もう一つあるのだ、にやけてしまうことが。

ガチャンと百円玉と引き換えにロッカーに鍵をして、腕に鍵を収納するストラップを装着。
大河が選んでくれた赤と黒が入り混じった、本人曰わくイカス!水着をちらっと確認してまた思い出しにやけ。ようやく更衣室を出る。


お目当てのプールまでの入り口とも言える、ずらりとシャワーが立ち並ぶここが待ち合わせの場所。そこで待つこと五分そこら。やはりというか何というか、大河は全力ダッシュでのご登場だ。

「竜児ーごめーん!髪結んでたら遅くなったー!」
「……おおう……」
「……ふぅ、つかれた」

登場の仕方がどうであれ、目の前で息を切らす大河は素晴らしいものだった。

大河の水着を選ぶとき、竜児は決意したのだ。大河に似合う最高の水着を選んでやる、と。
大河が着れそうなXSサイズとSサイズ(繕えば何とか可)の女性水着コーナーを何度も往復し、一着手にとってみては遠くで竜児の水着を選ぶ大河をちら見して、想像の中で合成。
うーん、これは派手。これは地味か。……これは胸元がセクシー過ぎてかわいそうだ……。

散々悩みに悩み続け、『第一回大河に着せることで大河自身そして水着本来の良さも目一杯輝くことのできる大河の水着選手権!』を勝ち上がった上位の水着を五着ほど選出し、さらに審議。
そうして、買い物にかつてこれ以上ないほどの時間を費やした水着は「恥ずかしいから当日に……」という大河の頼みで今日まで見ていなかった。それもあってか、竜児はもはや感動したのだ。

大河に選んだ水着は白いフリルの付いたピンクのホルタービキニと、取り外し可能のこちらもフリル付きのスカート。
背中は露わになるが、胸元をあまり露出させないタイプのビキニで、もちろん擬乳パット(大河の命令)も装着済み。
上下がある水着は今回が初めて、と言う大河は最初こそ渋ったが、「絶対似合うから!」「この水着はお前を待ってたんだよ!」と熱く怪しい激論の末「竜児がそう言うなら……」見事勝利。



水すら着地することを許されないような滑らかで限りなく白に近い肌は、本当に!本当に!竜児の選んだ水着との相性は抜群で、選んだ甲斐があったぞ――!全方位一度ずつの方角に叫びたいほどだ。

「大河……めちゃくちゃ可愛いぞ……」
「……うん、ありがと。……でも、恥ずかしいもんなのね……人が選んだのを着るのって……あ、あああんまこっちみるでないぞよ……っ!」

例の馬鹿でかい浮き輪をぶぅんぶぅん!前に振りまくり、大河は羞恥の炎を頬に灯す。

似合っているのになぜ隠す!?もっと見せろ!と、ただの変態と化した竜児は半ば強引に浮き輪を没収してやるが、「なにすんじゃい!?」ブァッチイイィィイン!ちっちゃいヤクザに背中をもみじにされ、

「……お、お前、なんてことを……っ!」
「猛烈に手がすべったのよっ!」

なんてことを言い、

「……つ、次にエロい目で見たらもう一発!……今度は天使にしてやるから」

などと言う。

これが彼女の水着を絶賛した彼氏の待遇であって良いのだろうか神様。
例えば『もっとみてみて!りゅうじぃー!』……はなくともだ!『あんまり見ないでよ〜もうっ!りゅうじったら〜っ!』うん、これくらいのスキンシップがあっても……

「って……大河?」

叶うことのない淡い期待を抱く竜児の傍ら。当の大河といえば「へぶぅっ!」こけていた。それは盛大に。先に走り出してああなったんだろう。
こけたときに受けたダメージは浮き輪がクッションになってくれたようだが。
虚しく浮き輪にへばりついている大河を回収し「前途多難だ……」と、竜児は呟いた。


***


先刻の教訓とも言えるだろうか。小さな張り手(圧力は強し)によって生じた焼けるような背中の痛みはこの瞬間、一気に彼方へ吹き飛んだ。

「予想通りね……」
「いや、もう予想以上だぞこれは……」

入り口付近で呆然と立ち尽くす。

まあようするにだ。
これだけ暑いのだ。それは皆同じこと。
夏休みなのだ。それも皆同じこと。
オープンしたばかりのプール施設だ。皆もそんなことは知っている。

期待を募らせた電車内で薄々感づいていたのだ。
涼しげな服装をしてキャッキャッとはしゃぐ中学生くらいの女の子達とか、すでに浮き輪を腰に装着済みの子供連れの家族とか。

人!人!人!
竜児達は流れるプールのある一階の屋外施設にやってきたわけだが、感想はまさにその一言に尽きるのだった。

「電車の中にいた人……向かう先は同じだったわけね結局……」
「みたいだな。なんか悪い……」
「なんであんたが謝るのよ」
「いや……なんか、久しぶりのデートなのに、こんなごみごみしてて悪いっていうか」
「ったく、変な気使わないでよ。私は今日という日を全力で楽しむって決めてるんだから」
「……大河」
「連れてきてくれてありがとね」
「おう」
「それじゃあね」

そうして大河は優しく微笑んで手を上げた。行ってくるわ、と。

「おう。それじゃあ……はっ、え」
「とりゃあぁ―――っ!」

頭に疑問符を浮かべながらも、賢い竜児は瞬時に大河の行動の意図を把握する。
各場所に設置されている看板には『プールサイドは走らないで!』『飛び込み禁止!』そう、こいつは今まさに二つの禁忌を犯そうとしている!

「させるかあぁ―――っ!」
「うっぷ……っ!」



とっさに止めにかかった腕がちょうど走り出した手乗りタイガーの腹を捉えてしまったのは奇跡と言って良いだろう。
「……無念……」ガクッ……。人はこの技の名をラリアットと云うらしい。

「……すまん」
「……竜児は私のこと、愛してなかったのね……」

その場でへなへなと跪かれ、かなり申し訳ないのだが言い分はある。

「いや、お前……プールサイドは走ろうとするしだな、飛び込もうとするし。あと準備体操、日焼け止め……」
「へぇ〜、だからラリアットってわけ。ふぅ〜ん、あんた将来自分の子供にもこんなことして黙らせるんだ?
おーこわいこわい。人を見た目で判断するなっていうのはまさにあんたのためにあるような口実だわ!」

とっくに立ち上がり、顎を逸らして罵る大河はやはり手乗りタイガー。
こちらが悪いのだから張り合うにも材料がない。これじゃあ大河の独壇場、なぶり殺しもいいところだ。竜児はとにかく話を逸らすため、いでよ!とばかりにあるものを取り出す。


「日焼け止めだ」
「見たらわかるんだけど」
「ちゃんとぬったのか」
「まだ」

竜児はやれやれと、容器から出したクリームを手のひらに乗せ、その場に大河を座らせる。
「セクハラよー」と身をよじる大河の叫び声、それに反応した一般人が異色の目で様子を伺ってくるが知ったことではない。
きめが細かく張りのあるシルクのような肌。触れた先から溶け込み、一つの物質に同化してしまいそうな肌に今更ながら唾を飲む。
邪な気持ちは皆無!……と、仏教じみたことを言えば嘘になるが、純粋にこの肌を守りたい。
そんな気持ちで入念に背中、腕、足、腹を塗りたくる。懸念を許さない竜児の手のひらが肌から肌へ、まるで大河という海で泳いでいるかのように。

「はい、終わったぞっと」

パンッと軽く背中を叩いて終わりを告げるが、

「……」

三角座りは動かない。両腕をクロスさせて自分の腕をさすり続けている。

「ちゃんと腕も塗ったぞ大――」
「う、うへへへ……」

前に回り込んで様子を確認する……なんだこれ。

「……大河ー戻ってきてくれー」

だらしなく口元を緩ませ、よく見るとよだれらしき液体が照りつける太陽に反射して光っているのがよくわかる。

「……うっふぅー」

小学校のビデオ学習で見たようなジレンマ。たしか保健の授業。タイトルは「麻薬はぜったいにだめ!」とかだっけ。
恋人の……なんて言うか……ラリっぷり?を目の辺りにして竜児はひきまくる。「天に昇るみたい……これはやばい」いや、お前の方がよっぽどやばい。

「竜児の手のひらから、なんか……魔力的なものを感じたわ……ねえ。もっかい、して……」
「……却下だ。クリームがMOTTAINAI」
「え〜。じゃ、じゃあクリームいらないから!て、手だけで……お願い!」

竜児は黙って再び作業に取り掛かるが、「あ〜、そこっ!き、きもひぃ〜」白い肩からそっと両手を放す。

「なんでぇやめんのぉ?」

明らかに呂律の回っていない大河はどこか卑猥で、とっさにその横顔から目を逸らす。もちろんそんなことは言えるはずもないので、

「……また今度してやるから、な……。とりあえずプール行こうぜ。今日の目的はそっちだろ」

流れるプールを指差して、力ずくで大河を起こしてやる。ふらりふらりと、空気の抜けた風船のような大河にしっかりと準備体操をさせ、いざプールへ。


***


「それぇ――い!」
「……うぷっ、この……っ!負けるかぁ――っ!」
「それそれぇ――い!」
「……くっ、この……っ!痛っ、鼻ん中入っ……くぅふっ、けほ……!」
「ほれほれぇ――い!も―う一丁っ!」
「……ごぉふっ、げっほぅ……っ!おえ゛え゛……っ!ちょっ……たい……っ!ストッ……」


鼻やら口やら、侵入してくる水量は冗談のレベルを越えていた。大河ズ水鉄砲は針に糸を通すかの如し、竜児の顔面の至る所を狙い撃つ。
他の人に迷惑だろ!と、注意を促すこともできないほどに的確だ。

対するこっちは高須式水鉄砲。ようするにただ手の平を合わせて水圧を発生させるだけの原始的水鉄砲。
当然大河が隠し持ってきた、両手で発射するようなごつい水鉄砲には適うはずもなく、現場はこのありさまだ。

「ふははは――!どうしたの竜児――!降参するなら今のうちよ――!」
「……げぼっ!ごぶっ!お゛、お゛え゛えっ……!だ、だからっ!こっ、こうさ……お゛え゛っ!」

これが俗に云ういじめだろう、と竜児は思う。当の本人は「うわっはっはっ――っ!そんなもんか――っ!」この圧倒的戦力の差に随分ご満悦だ。

意識が朦朧と薄らいでいき、走馬灯が巡る。ここまでか……いや、

スポッスポッ……

「あらやだ、水が」

竜はここで覚醒するのだ。
大河の浮き輪を両手で鷲掴み、力のベクトルは円を描かせる。

「……えっ、ちょっ……竜児ぃ――っ!」
「とおぉりゃああぁぁ―――っ!」

飛沫が辺りにまき散らされる。それこそ周りの一般人を巻き込む大飛沫。

「どぅっ……!どぅでぃぃぃっ……っ!ご、ごごぼれ゛……っ!」
「おおう!?大河―――っ!」

足がつかない&泳げない者から浮き輪を取り上げるとはこうも酷なものなのか……バチャバチャと水を掴むように腕を動かせまくる大河に浮き輪を返してやるが、
「死ぬわあぁぁ―――っ!」吠えた。わかっていたけど。届く範囲は半径五十メートル強。

「……いや、な……お前があまりにも一方的に戦闘を繰り広げるから……なんか、爆発した……」
「あ、あんたねぇ……こここ、こっちは死ぬところよっ!」
「お、俺だってなあっ!顔面のあらゆる穴にっ!水という水がっ!……まじで死ぬかと思ったぞ……」
「降参って言ってくれたらやめてたわよ」
「言ったよっ!ていうか叫んでたよっ!なのにお前は、『わっはっはっ―――っ!』だ。耳を疑ったぞっ!」

わーわーぎゃーぎゃー。罪の擦り付けあいはひたすらに続く。一体自分達は何をしに来たのだろうか。当たり前だが、そんなの、誰も答えちゃくれない。


***


「……ウォータースライダー。……やだ、怖いもん……」

広告の中に記載されていたいくつかのアトラクションを思い出し、それとなく提案してみたのだが、大河の返答は却下。理由は単純明確、怖いから。

「なんで」

理由がわかっている以上、重ねて理由を追求することは全くもって無意味なやり取りだ。だからこの『なんで』は、なぜ怖いのか?である。

竜児は大河のいろいろな『苦手』を傍らで見てきた。それこそ、一年を通り越して四カ月、春夏秋冬。大河のことなら何でも知っている!とプライバシーを叩き潰すような自信は毛頭ないが、本当にいろいろだ。

そんな大河とのエピソードの中で根強く、竜児の脳裏に印象付いている大河の『苦手』の一つが、泳ぐことである。

泳げない上、地まで届かない足先。想像するまでもなくそれは恐い。手乗りタイガーと恐れられた(あえて過去形)大河だって例外ではないはすだ。
そんな中、さっきのあの元気一杯、殺意少々(未遂)の開放的な大河のはしゃぎようを垣間見て、
浮き輪という便利なアイテムを装備していることを差し引いても、あれ?こいつ、いつも通りじゃねえか――と、竜児は呆けたのだ。

水に対する心理的な抵抗はもうなくなったんだな大河は。よかったよかった……ちゃんちゃん。
そんな竜児の勝手な想像はピリオドを打って勝手に解決。感慨ふけっていたところで大河の『やだ』だ。腑に落ちない。まあ、これも勝手な憶測だったのだけれど。

「途中……ボートから落っこちて……そんであの滑り台から私はコースアウトして……転落死……」
「……」

……重い。ネガティブ度数が……。大河の今までの性格上、もはや演技に見えてしまう自分の思考力はどうしたものか。

「……ボートにはちゃんと掴む手すりみたいなもんがあるから落ちることはねえだろ。保証はできないけど」
「ほらぁー!保証出来ないんじゃない!竜児はいいの?『あの時俺が止めてたら大河は……』って毎年私の墓に懺悔することになっても!?」

手のひらを合わせ、遠い彼方の空を見上げる大河。ちなみに雲一つない青空には星なんて見えちゃいないのだが。

「大袈裟な……それにボートは八の字になってるから俺が後ろから支えといてやるし。おう、ほら、ちょうど出てきたぞ」

ここに訪れてから、圧倒的な存在感を放っていたうねりにうねった滑り台を指差してみる。

上から下、そして言葉通り右往左往と無の空中に張り巡らさせたそのウォータースライダーは圧巻である。まあ、

……あれこそ崩れたりしないだろうか……ばきばきっ、と……いやいや、ないない。自分もネガティブになってどうする……。

あれだけの器物がよく空中で静止できるものだな。そんな餓鬼じみた脳ではそれ位のことしか思い浮かばないが、いやはや本当に良く出来ているな……と感じていることにしておこう、とりあえずは。


スタートは階段を昇っての最上階。監視員が一組ずつ八の字ボートをセットし、少しの間隔を開けてからボートを押し出し、発進するという手順らしい。

そうして今まさに一組のカップルが滑り台の最終地点から勢いよく飛び出してきて「うっわ!やっばー!超楽しい〜!」「なあ、もっかい行かね?」「行く〜!」と、まるで竜児達を誘い込むかように談笑するのだから、ますます期待が深まるばかりだ。

「なっ!楽しそうだろ!行こうぜ大河!」

と、自分のことは棚上げにして、ネガティブ大河に対抗するためポジティブ竜児で切り出してみたのだが、「でも……私……」大河は何かぶつぶつと独り言。歯切れが悪い。

「わかった。まあ一回行ってみよ」
「おう、行こう」

まあ一回、というのが少し気になるが良しとするか。
この辺りからウォータースライダーの階段までさほど時間はかからない。さっきのカップルに付いて行けばすぐだろう。

「……なっ!?」

行列!とかいうべたなオチではないもののの、目を疑うような光景が竜児を待っていた。
大河はまだ気づいていない。黙っている。とりあえず竜児は一旦そこでステイ。なぜなら大河に一つ、聞かなくてはならないことがあるから。というより発生した……この刹那に。

隣にちょこんと並び立つ大河に慎重に言葉を選ぼうと試みるが、それをオブラートに包んで提供することはどうも難しい。仕方ない、ここはあえてのストレート。

「お前……今、身長、何センチだ」
「ひぃっ……!」

あえて……など小賢しいにも程があった。反応から見て、それはまあ軽々と場外ホームランを浴びせられた気分。やるせない。
竜児は黙って顎をしゃくってみせ、向かうその先を促してやる。

『身長145センチ以下の子供は滑れません』
ご丁寧にも、海パンを着た男の子の絵が描かれている板がそこにはあった。
ちなみに横には監視員が入り口を通せんぼ。『怪しい奴には厳しい身長チェックが待ってるぜ!』心なしか、監視員のお兄さんがそう言っているように見えた。

「い、いやああぁぁぁああ……っ!」

その場で頭を抱え大河は絶叫する。さながら、死んだあいつがなぜここに!ドラマの佳境を見ているかのようだった。

「お、落ち着け大河!今、身長何センチだ?」
「公称145センチ……」
「おおうっ!?ぎりぎりセ――」
「実測……ひゃ、ひゃくよんじゅう……さん……てんろくです……はい……」
「……」

大河の敬語はなかなかの希少価値もの。普段聞けばそこそこの感嘆もあったかもしれないが状況が状況、どうでもいい。

「やっぱり……どうしよ竜児……」

そんなことを言われても俺だって同じ心境だよ大河……フィアンセと意志が通じ合ったよヤッター!もない。ああ、本当にどうしよう。……んっ?それより、やっぱりって、ああ……。

「なんとなく、わかってたわよ……こういうアトラクションは、みんなに平等じゃないって……」

大河が濁して言っていたさっきの言葉『私、乗れないかも……』なるほど、乗れないとは規制の問題で、か。



「あくまで推測だが、身長はともかくとして、大河が高校生だってわかれば通してくれるんじゃねえかな」
「どうやって証明すんのよ……」

生徒手帳なんて持ってきてないわよ……と、大河。

「これもあくまで推測だが、大河だってそれなりに身長が伸びてるかもしれないぞ。もしかしたらすでに145センチに到達してるかも」
「……前測ったの、5月、末くらい……」

もうずっと伸びてない……と、大河。


「「……」」

絶望的だった。限りなく。大河も大河で高校生で身長制限をされてしまうとは思ってもいなかったのだろう。「な……情けなすぎる……」こっちは見ていて悲惨すぎる。

「背伸びしろ……」
「ええっ!」
「ちょっとぐらいならばれやしねえよ……」
「あんた……いつものあの糞真面目はどこに!?黒竜児光臨!?」

なりふり構っていられない。
だってすごく乗りたいし。



「……わかった。やってやろうじゃない……」
「え……本当にやるのか」
「ていうかあんたが言ったんじゃない。男は一度言ったことに責任持ちな!」
「お、おう」
「でもまあ、安心して。学校の身長測定の日とかよくやんの。私にかかったら140ミリの壁くらいお手のもんよ!」
「……えっと、大河。いつもやってるってことは……実測143・6センチの記録自体……すでに偽造じゃ」
「しゃぁーりゃっぷっ!」

おそらくはシャラップ。黙ってはやるけれど、大河……図星を付かれたような表情は真剣にやめてくれないか……泣きそうになるっ!

「とにかく最初は何食わぬ顔で通ってみようぜ。案外あっさり通れるかもしれねえ」
「そ、そうよねっ!あくまで偽造工作は最終手段!秘密兵器!」

いや、もう偽造云々はもう作戦としては破綻しているだろう……と、これ以上大河を追い詰めても何も出ないので口は閉じることにする。

「そんじゃ、行くわよ」
「おう」

あからさまに口笛を吹いたりはしないもの、実に緩やかに、速やかに。且つ、目立たぬように(前屈みだ)監視員の横をすり抜けていく。
一歩、二歩、三歩と。当然と言えば当然だが、歩くたびに監視員から自分達の姿が遠退いていくのを感じながら。

「あとちょっと……」

最初の方こそ何ともいえない気まずさがあったが、どうやら自分達はその恐怖の関門をスルーできたようだ。
竜児は右を向いて、ニヤリ。大河は左を向いて、ニヤリ。犯罪に手を染めたわけではないのだが、どちらも少し何かを意識してのしたり顔、もとい悪人顔。大河だからこそ予想の範疇の可愛らしいものだが、果たして今の自分のツラは……。
うわぁ……。目を逸らす大河。撃沈の竜児。そんな寸劇も束の間、八の字ボートを目前に控えたその時だった。

「あー、ちょっとお嬢ちゃん。きみきみー。ちょっと、せえー測ろっか」

振り返る。竜児は右回り。大河は左回り。ほぼ同じタイミングで、それこそ共鳴か、はたまた同調と書いてシンクロか。
そもそも馬鹿正直に振り返る自体が言葉通り、本当に馬鹿で阿呆で間抜けだったのだ。後は八の字ボートに手をかけて階段を昇るだけの作業だったというのに。

「……わ、わわ私でっすかー!?」

噛むわ、裏返るわ、震えるわ。そんなてんやわんやで大河は返事してみせた。ちなみに返事は「うん、そうそう」だ。あまりにそっけない。

「大河、頑張って……」

打つ手無し!半分は諦めて、悟っての一言だったかもしれない。頑張ってって……何をだよ?知らねえよ、と。自問自答。今日の能登との会話ではないけれど、大河にとっても迷惑極まりない一言だったと後になって思う。

罰の悪そうな表情だったが健気に何も言わず、大河は145センチの男の子(板)に近付き、背中をそっと預けた。
そうして淡々と、監視員は作業を開始する。どちらが高いか低いかをジャッジメント。
近くで見守る竜児も一目瞭然……というわけでもなく、微妙に、本当に微妙だった。大河が例の偽造を公使しているか否かは定かではないが、本当に後1センチ弱の差で大河は男の子(板)に敗北。

間の長さから、負けたんだ私は……とでも思ったのだろう、多分。大河は静かに目を伏せた。
そうして監視員は言うだろう。『う〜ん……惜しいけど、ここは通せないなー』といった、もっともなセリフを。給料を貰っている身、それも義務なのだから仕方ない……と、世の中の理を知らしめられる竜児であったが、

「うーん……後1センチ欲しいところだけど、サービスね。行っていいよ」

案外、そんなものらしい。


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