***

カンカンカン、と錆びた鉄の階段の音が響きわたる。二人で八の字ボートを協力して担ぎ、昇り始めて半分の地点を通過したところで、

「気分悪いわ」

と、大河は言い捨てた。

これに対して竜児が返すのは『大丈夫か』が妥当だろう。だが、今の大河は別にそんな優しい気遣いは求めちゃいない。
今のこいつは喜怒哀楽の哀じゃない。言うならば、哀を小さじ二杯ほど加えた限りなく怒に近い怒だ。

「そう怒るなって」
「もう、ほんっと屈辱……っ!」

結局のところ、どうにか監視員の適当な判断でウォータースライダーの利用許可を得たわけで万々歳、大円満のはずだったのだが、

『お兄ちゃんがついてるみたいだし大丈夫でしょ。ちゃんと言うこと聞くんだよ、お嬢ちゃん』

と、余計な一言。これにプチっと、こめかみを鳴らした大河は最後までそれを否定することはなかった。まあ無言でぷるぷると震えてはいたが。

見かねた竜児は『……彼女です』と大河の面子を守るためにも一応誤解を解き、監視員も深く謝罪したのだが、「誰が妹よ……顔とか、ぜん……っ!ぜんっ!ぜん……っ!ぜんっ!似てないしっ!」遺憾は継続中らしい。

果たしてこの後、どのようにして大河の怒りを鎮めよう、と早くも意気消沈の竜児であったが、最上階に到達した頃には大河の怒りは鎮静化された。

「たっかー……」
「結構昇ったからなあ」

下からはその存在感に圧倒されたが、上からだとまた違う壮大さがある。人がごみのようだ!とまでは言わないけれど、この高さからだと本当に人が一円玉ぐらいの大きさに見えるのだ。大河もその景色に口をポカンと開けながら、

「人がゴミのようね」

と。まあここはあえて触れないでおこうと思う。無視しよう。

ともあれ、前に並んでいた利用者達は時間と伴って順調に減っていき、ようやく竜児達の番。監視員は持ってきた八の字ボートを素早くセットし、前に大河、後ろに竜児。それぞれ前と後ろの座り方を指南し、利用にあたっての注意を簡単に説明する。

「いよいよね……竜児、大丈夫?怖くなったら言いなさい、守ってあげる」
「あー、そりゃありがてえけど大丈夫……ていうか大丈夫かはお前だろ?さっきも落ちるとかコースアウトとか、ろくでもねえこと言ってたしよ」
「……いや、あれは身長測られるのが、嫌だっただけ。こういうアトラクションはいつでもウェルカムよ!」

後ろを向くのが難しいため顔を見せないが、大河は後ろに向けて親指を立ててみせる。自分の耳に腕がくるようにして曲げているので、親指は逆さま。いわゆる、地獄に落ちろ!会話と行動がめちゃくちゃであるのはご愛嬌だ。

「いきますよー」

監視員が声をあげる。それと同時にボートが押し出され、流れる水に着水。みるみるうちにスピードを上げていく。

「きゃ――――っ!はや――――いっ!」
「結構スピードでるんだな!」

テンションもアゲアゲ。上下に波打つような地点では、ボートが上がったり下がったりの度に、「「おうっ!おうっ!おうっ!」」と、二人で声を上げ、急なカーブの時には、「落ちる〜」と、大河はふざけてみせる。

大河の体重を考えると、あまり速度は上がらないだろうと踏んでいた竜児も、「いやっほ――――う!」らしくない声を上げる。今日の最悪の目覚めが嘘のように爽快、楽しすぎるのだ。

「あー、もうあと三分の一くらいみたいね」
「もう終わりか」
「そろそろ下見えてきたしね。でもこれはなかなかのアトラクションよね。設計者に感服するわ」
「だな。じゃあこれ終わったらもう一回行くか」
「うん、いこ!」


458 :暑くなったからプールに行こう!:2009/10/13(火) 18:53:53 ID:6T0c1AuK

ダンッと、その瞬間にボートは空を飛ぶ。そうは言っても一秒くらい。まさかこんな形で大河のドジ神が光臨なさられるなんて、誰が思う。

「え……」

ようするに、浮いたのはボートだけではなかったのだ。竜児と会話をしていたため、手すりを持つ手を少しだけ緩めてしまっていた大河がやってくれたのだ。いつものように、脈絡もなく。

波打つ地点で軽く浮いたボート。それが一種の小粋なアクションなのかどうかはさておいて、その反動でふわりと浮いた大河。
慣性の法則だったか……大河が迫り来る。もはや進行形ではない、瞬間の出来事。反応も出来るはずがない。もう竜児の視界には、

「ぶ……っ!」

日焼けの少ない大河の白い背中で埋め尽くされているのだ。

勢いよく、大河の背中が竜児の顔面をヒットする。口内からは鉄の味。鼻に手を当てると、げっ、赤い……。

「えっ……?ちょ、やだ……っ!竜児、鼻血!」
「……うおっ!」

それになかなかの量だ。鼻血にあまり経験があるわけではないのだが、口内に広がる濃厚な血の味がそれを物語っている。

「うわぁ……ど、どうしよ……どうしよ竜児……きゃー!すんごい垂れてる、垂れてる!」
「いや、どうしようもねえよ……」

とりあえず鼻をつまんでみる。なんら変わりないが、それより今は「出血死しちゃう―――!」自分の膝の上で慌てふためく大河をどうにかしたい。多分本人は自覚ないだろうが全体重をガンガンぶつけてくるのだ、もう痛い痛い……。

「……とりあえず下まで行ったら一回ロッカーに戻るよ。ティッシュがあったはずだ」
「ティッシュで足りるかな……それよりそんな格好で行ったらめちゃくちゃ怖いってあんたっ!」
「……」

不審者よっ!、と付け足した。この野郎……と素直に思った。そもそもお前の背中タックルが物語の序章だろう。もうさっきのも無しだ。慌てふためく素振りを再開してほしい。責任を取れとまでは言わないが、もっと、こう心配とか……。

少し黙って大河の出方を伺ってみる。大河もそれに気付いたのか、目をきょろきょろさせる。どうやら言葉を慎重に選んでいるように見えるが。そして思いついたフォローは、

「遺憾よね〜」
「いーかーんー!?」

棒線つきでそのままそっくり返してやる。今のが遺憾で済まされる所業ならとんでもない。そこら中で犯罪犯し放題だ。世界をひっくり返す気かこいつは。

ここまで反省の色が見えないのは考え物だ。だから今から大河にすることは仕方がない。悪いことをしたら叱るのも愛なのだ。決して、決して!仕返しとか、復讐とかではない。自分はこいつより遥かに大人。ティーピーオーだってわきまえている。

そんな感じで前振りも済ませたところで、さてと――と。
そうして竜児は透き通った白い肌に、魔手を忍ばせる。悪意?あるに決まってるだろうがっ!天罰だ、思い知るがいい……!

「は……っ!?あふっ、ひひっ、ひひひひ……っっ!ちょ、あんた……っ!?な、何……ふひい……っっ!あひゃひゃひゃ、ひぃ―――っ!」

うっとりするくらい艶めく肌に……露骨に言えば、むき出しの無防備な横腹に向けて、手を、指を、無造作に動かしまくる。鼻血?止まらないがそれがどうした!

「おらおらおら――――っ!」

情け無しの水鉄砲戦争の怒りも(まあ浮き輪ひっくり返したが……)加算されるのだ、このゴットハンドには。
大河に一死報いてやらなければ死にきれない!というのはオーバーとして……今日は眠れない!くらいの覚悟で、攻めて、責めて、迫り狂う。

「ちょっ!も、ギブ!ギ、ぶひひひ―――っ!」

豚になった手乗りタイガーも悪くはないっ!と、竜児がサディスティックの境地に足を踏み入れ始めようとした頃、ボートは勢い良く最終地点を突破し、無事に下に到着する。

顔面血だらけの男。その男の膝の上で悶える少女。絵的にはもう、理解できない……したくない光景だったのだろう。
たっぷり5秒間。沈黙、沈黙、沈黙。そして見ず知らずの一人の女性が顔面蒼白で力一杯叫ぶのだ。

「……ふ、不審者よ―――――――っ!」

その声を聞いて、各場所で見張りをしていた三人の監視員達が迅速に竜児一行のもとへ駆けつける。

笑いすぎて少し痙攣気味の大河から離した両手をそのまま頭の横に挙げる。無条件降伏。

ゆったりと浮かぶボートの上、竜児の三白眼にかすかに涙が浮かんだ。まさかこの年で泣くなんて、たまたまやって来たプール施設の監視員に押さえ込まれるぐらい、思いもしなかったのだ。

***

「……悪かったよ」
「いや、こっちも、……ね。竜児を、ふ、不審者……よ、呼ばわりして……ぷ、ぷふっ、くくくく……」

そうして大河は、きゃーきゃっきゃっ!……と、今度は猿だ。……もういい、好きにしてくれて構わない。

「はぁー、ほんと笑える!『一体何したんだぁー!?』って、ぷっ、くく……で、もう鼻血はどうなのよ」
「精神的ショックで止まったよ、とっくにもう」
「あらそう……くふふっ」

幼気な少女を襲う血だらけの男。そんな危険人物に監視員達は然るべき対処、つまりは事情聴取を行った。しかし被害者と思われる少女によって現場は一変。なんと二人は恋人同士だったのだ。まったくお騒がせな話である。
と、言った感じで新聞の隅の方に掲載されそうな不祥事はまたもや監視員達の謝罪で無事に解決に終わり、現在は日陰がある場所にシートを敷いて休憩中。小休止である。

「この話は終わりだ」

ぱんっ、と手のひらを叩く。魔法のように、今ので大河の記憶を消せるのならどんなに良いことか。

「で、それは何だよ」
「見てわかんない?」

家を出たのが昼前。互いに昼食を済ませていたので、竜児は小腹が空いたとき用に簡易弁当を持参していた。おにぎり、唐揚げ、ウィンナー、玉子焼き、りんご(ウサギだ)の入った、爪楊枝で手軽に食べられる弁当だ。
もう少し腕を振るいたかったのだが、夕食に差し支えたら大河のお母さん……いや、時期お義母さんに申し訳ないのでそこは自重したのだが。

「聞いてねえぞ」
「言ってないもん」

目の前に差し出された包みを早速ほどいて、大河は自信ありげに、

「じゃーん!私、サンドウィッチ作ったのっ!」

容器をパカッと開けて、竜児の顔面間近に見せつける。

「おっ、見栄えはいいな」

もはや鼻にサンドウィッチが少し触れているのだが、大河は気にしない。ぎゅうぎゅう押し付ける。

一月に大河が料理を始めると宣言し、はや半年ちょっと。
最初こそどんな天変地異が降りかかるのかとハラハラしたものだが、竜児の指導もあってか徐々にミス(包丁で指を切るとかいうレベルにあらず)もなくなり、ようやく様になってきたのだ。
最近は受験勉強もあってか、あまり料理の分野では構ってやれなかったがこれは驚いた。

「具の量が的確じゃねえか!」
「ええっ、そこなの!?」



以前は欲張って、サンドウィッチを始め、餃子、手巻き、おはぎ、といった品々には中身ギッシリのお客様大サービスを信念の下、結果見るも無惨な作品達を召還していたあの大河が、…… 感無量だ。卵マヨにツナマヨ、ハムチーズ。そして何より、

「カツがサイドのパンよりでかくないだと……!?すげえよ、大河、よく我慢した!」
「……千切るわよ……」
「冗談だよ……」

素直にひれ伏して褒め称えろ、とのことで大河はご立腹。さすがに千切られるのは御免被るので竜児も低姿勢で身構える。

「ま、見た目はどうでもいいのよ。本題は味よ、味。食べてみて」
「おう。じゃあ、いただきます」

早速カツサンドに手を伸ばす。言い方は悪いが、他のサンドウィッチは実質混ぜたり挟んだりの簡単な工程。大河は塩と砂糖を間違えるようなイージーミスはもうしないので不味いわけがない。
問題はカツだ。正直なところ、大河の油を使う姿を想像すると胃がきりきり痛くなるのだが……大丈夫、大河はちゃんと生きている。期待と不安が混ざり合う五分五分の心境で手に持ったカツサンド。果たして――

「……」
「ど、どう……?」
「……おおう、普通に、うまい……」
「えっ、ほんと?普通においしい?」
「ああ、うまい、うまいぞ!カツ、ちゃんと揚がっててサクサクだ」
「ほんと、ほんとに?……はあぁ〜良かったぁ〜」

体中に刺さっていた針が全部抜けたかのように大河は低く唸った。本題は味だと言っておきながら、自信があったわけでもなかったらしい。当たりかはずれか、ギャンブル感覚で作ったわけではないだろうに。

「俺はお前の力量を図り損ねていたよ。まさか一発でここまで黄金色に揚げるとはな」
「あ、うん。それ、五枚目なのよね。奇跡的にラストで成功して」
「は?……え、じゃあ残りの四枚は……」
「そこは安心して。ちゃんと食べたわよ。MOTTAINAIじゃない」

料理を始めてやっと自分の気持ちをわかってくれたのか……まさか大河がMOTTAINAI発言する日が来るとは思いもしなかった。日々、人は成長するものなのだと竜児は知る。

「ちょっとね……うん、まあまあかな?……いや、なかなか黒くなっちゃってたけど、ちゃんと家族で……私が二枚、ママが一枚、昼ご飯に。……今夜のパパのおかずは残りの一枚よ」
「……」

犠牲はやむなし、と大河は目を閉じて言う。こんなうまいカツが、そんな犠牲者が居てこそ成り立っていると思うと本当に心許ない。ていうか御義父さん、本当にすいません。


「ああ、そういえばこれ。俺が持ってきたのはお前が食えな。交換しようぜ」
「やったっ!」

ぱあっ!と、花が咲いたような笑顔に竜児は差し出した弁当を落としそうになるほどに面食らう。

「いや、悪い。そんな手の込んだなもんは今日は作ってないんだ。唐揚げとか、玉子焼きとか、」
「そんなのいいの。私、純粋に竜児の手料理が食べたかっただけだし」

ちゃんと手を合わせてから、爪楊枝で玉子焼きを取って口に放り込み、大河は、「やっぱおいしい、竜児の料理」と。

「ほら、うちって私に弟の世話を任せるくらい両親が忙しいじゃない」
「ああ」
「だからしょうがないことなんだけど外食が多くて、家庭の味ってあんまりないのよね。
まあそれに文句はないし、私も料理始めたから別に良いんだけど、やっぱね……竜児の手料理を食べるとなんか、ふる里を思い出すって言うか何というか……あー、何言ってんだろ、わかんない」

次に口に運んだ唐揚げを竜児と同じようにゆっくりと噛み締めるようにしながら、大河は「おいしい」と、一言。

何度言われても嬉しい言葉。大河の『好き』には劣るが、この言葉も上位ランクだ。
半同棲生活と言っても大袈裟ではないあの頃に比べて、大河が高須家で食事をすることはめっきりな少なくなった。理由は大河と大河の家族との和解。当然、竜児が大河の学校への弁当を作ることもなくなったし、朝食、夕食も別々だ。
三年に進級し、竜児は受験、大河は弟の世話。やるべきことはたくさんある。前のようにだらだらと一日中二人で過ごすことも今ではない。今日のデートも三週間ぶり。大河が竜児の料理を食べるのは一ヶ月ぶり。いや、それ以上かもしれない。

時間の経過によって、自分の料理を大河が格別においしいと言ってくれるように竜児も嬉しいのだ。大河の『おいしい』という言葉が嬉しい。大河がにこにこしながら、口にほおばる顔も本当に新鮮な光景なのだ。

「ずっと、当たり前のように何気なく食べてたんだね、私。竜児の料理」
「そこまで大袈裟なことじゃねえだろ」
「ほんとに、もっと……味わっとくべきだった」
「いや、そんな、いつでも食わしてやるって」
「タッパーにでも入れとくんだった」
「なんか急にせこい話になったな……」

見れば竜児の持ってきた弁当箱は空になっており、竜児は首を傾げる。だって、あれだけ噛み締めるように大河は……。

「なーに、しんみりしてるのよ。シリアスパートはもう終わりだっての。まだ時間あるんだから張り切って行くわよ!ほら、さっさと食べちゃいなって」

サンドウィッチを乱雑につかみ取り、竜児の口に強引に押し込める。むせる竜児をよそに、ここで大河は、

「ここからはギャグパートよ!」


とんでもないことを言い、……走っていった。
売れねえよ!こんな二秒で百八十度展開が替わる構成じゃ!と、ぐぉっほぉっ!ぐぉっほぉっ!しながら竜児はアニメ化を視野に入れた弁舌を心の中で行った。
ちなみに竜児の思い描くメインヒロインは、少なくとも食事直後プールにダイビングを決め込み、その衝動で生じた水しぶきで近くにいたか弱い少女を泣かせてしまうようなことはしない。


--> Next...



作品一覧ページに戻る   TOPにもどる

inserted by FC2 system