その日、泰子はいつもより早く目を覚ました。
昨夜はお店が異様に暇で「みんな夏バテ?」などと他の従業員と話ながら早めに店を閉めたのだ。
そんな訳で泰子は普段と比べて少ない酒量と早寝のおかげもあって2時間近い早起きとなった。
ずるずると這うように洗面所まで行き、顔を洗ったところで泰子は気がつく。
・・・はれ?竜ちゃんは?
いつもなら起き出した母親を見て「よう、起きたのかよ」とか「おはよう」だの声が掛かるのに、今日に限って静か。
・・・竜ちゃあん。
と、トイレのドアを開け、風呂場をのぞき、竜児の部屋を見る。
さして広くない高須家の間取り、見るべきところを見てしまえば、もう探す場所は無かった。
・・・もしかしてかくれんぼ?
いい歳した息子がやるはずも無い遊びを思い浮かべ、それでも念のためと竜児の部屋にある押入れを開けて見る。
見つかっちまったかと、竜児が出て来るはずもなく、きとんと畳まれた布団がお出迎え。
・・・いない・・・竜ちゃんどこ?
何気なく泰子は竜児の布団に触り、それがひんやりしていることに気が付いた。
・・・あれ?
小首を傾げる泰子。
おぼろげながら・・・早朝、帰宅した時の様子が思い出される。
・・・そう言えば、竜ちゃんの部屋・・・ふすまが開いていたような・・・。
あごに手を当てて、思案顔で考え込んでいた泰子の頭上に豆電球が点く。
・・・もしかして、竜ちゃん帰って来てないの?
泰子は慌てて昨日からの竜児の行動を思い返した。
・・・確か・・・朝早く、大河ちゃんが来たのよ・・・それで、竜ちゃんが鈍いから大河ちゃん、すねて帰っちゃったのよね。
・・・仕方ないから助け舟を出して上げたんだけど。
・・・その後で一生懸命、お弁当作って「じゃ、行って来る」って何となあく、嬉しそうに出て行ったのよね・・・竜ちゃん。
・・・と言うことは・・・・・・。
泰子の頭にご〜んと鳴り響く、お寺の鐘の音。
・・・竜ちゃん、大河ちゃんとお泊り!

はにゃ〜と泰子はその場に座り込む。
と言ってもショックを受けたわけではなく、意外な成り行きに驚いたのだ。
その辺りに疎そうな竜ちゃんが・・・と言うわけで。
あの竜ちゃんが・・・と泰子は軟体動物にでもなったみたいに畳の上に突っ伏した。
母親として嬉しくもあり、また複雑な気分でもあった。
でも、竜児の相手があの大河であるならば泰子としては願ったり叶ったり。
竜児にはもったいないくらいだとさえ思ってしまう。
掘り出し物と言ったら大河に失礼かもしれないが、泰子としてはまさにそんな気分。
畳の上に寝転んだまま、泰子はそんな大河に初めて会った頃のことを思い出していた。



竜ちゃんが高校2年に間もない頃・・・4月の終わり頃だったかなあ・・・。
夕食の席で急に言い出したんだっけ。

「あ、泰子・・・」
「なあに、竜ちゃん?」
「明日の晩飯なんだけど・・・ひとり・・・呼んでもいいか?」
「お友達?」
「まあ・・・そんなとこだ」
「・・・構わないけど」
「わりい・・・ちょっとにぎやかな奴が来るけど・・・気にしないでくれ」
「ふ〜ん」

その時、てっきり泰子は新学期になって出来た新しいクラスの男友達だとばかり思っていた。
だから、次の日、玄関先で竜児の大きな体から隠れるように出て来た小柄な少女を見て、一瞬、ぽかんとしてしまった。
え、小学生?と大河が聞いたら怒り出しそうなことを思い、まばたきをする。
それでもよく見れば、ちゃんと年相応の女の子らしさを見せていて、泰子は納得する。
緊張しているのか、ややぎこちない挨拶をする少女はまるで絵本の中で見るようなお姫様みたく泰子には見えた。
後になってドレスを着ていた訳でもないのにねと、泰子はおかしくなったのだが、とにかく泰子の大河に対する第一印象は好ましいものだった。
長年、お客様相手の仕事をしていれば短時間で相手の人柄などを見抜いてしまわなければならない。
人を見る目にかけて泰子はそれなりに自負を持っていた。
その泰子をして大河は十二分に合格点を与えられるものだったのだ。
こんな娘、捕まえて・・・竜ちゃんやるじゃないと嬉しくなった泰子は「にぱあ」と顔が緩むのを抑えられない。
「竜ちゃんの・・・ガールフレンドだあ」
思わず、そう言っていた。
それに対して異様にうろたえる竜児。
・・・違うの?こんなにかわいい子、夕食に招いておいて、違うとか言っても説得力ないよ、竜ちゃん。

_____________

泰子の回想は話し声に破られた。
その聞き覚えのある声はまさしく竜児と大河のもの。
泰子は自室の窓辺からそっと外を見る。
アパートの階段に立つふたつの人影は間違いなく竜児と大河で、昨日、家を出て行った時とまったく同じ服装。
それがふたりの外泊を証明していた。
階段を昇る足音の甲高い音が聞こえて来て、泰子は慌てて、自室のふすまを閉め、息を殺す。
「お帰り〜」と出迎えても良いのだけれど、照れくさがるだろうなと言う親心が泰子をそんな行動に走らせた。



ガチャリと玄関が開き、竜児と大河が息せき切って家の中に飛び込んで来る。
「ま、間に合った」
「良かったね竜児。やっちゃんまだ起きてないよ」
「ああ、ギリギリセーフだ」
「駅から走って来た甲斐があったね」
・・・ふたりの息が乱れているのはそのせいですか。
・・・何も走ってくる事ないのに。
と、泰子は思う。
「どうやら・・・ばれずに済んだな・・・ふう」
大仕事をした後みたい玄関の上がりかまちに座り込む竜児。
「この後は・・・予定通りな」
「うん、わかった竜児」
竜児と大河が何やら打ち合わせをしている小声が泰子に届く。
竜児と大河はどうも何もなかったかのように振舞うつもりみたいだと泰子は理解。
とっくにばれてるのにと・・・ふすまの裏側で泰子はおかしさが込み上げて来てたまらない。
「じゃあ、お昼ごろ出直して来る。またね、竜児」
バタンと閉まる玄関ドアの音に続いて、「よし」とか言う竜児の独り言が部屋の方から漏れて来る。
・・・しばらく、出られないね。
泰子は「はあ」と息を吐いた。

朝食兼昼食の用意を始めた竜児の様子に頃合を見て、泰子はふすまを開けた。
「おお、起きたか」
台所で包丁を使いながら後ろを振り向き、さも昨日の夜から居ましたと言う風を装う竜児。
「・・・ぷっ」
その様子がなんだかおかしくて泰子はたまらず吹き出す。
「な、なんだよ?」
「にゃはあ・・・にゃんでもないよん・・・ちょびっと嬉しいからかな」
「変な泰子だな。ああ、朝飯、もうすぐだから、待ってろ」
今日二度目になる洗面を済ませ、居間のちゃぶ台前に座り、台所仕事をする竜児の後姿を眺める泰子。
・・・竜ちゃんも大人になったんだねえ。
感慨深げに背の高くなった息子を見上げる。
すっかり、泰子の頭の中では既成事実が出来上がっており、竜児が聞いたら卒倒しそうなことを考えていた。



「やっちゃん、おはよう」
いつもより玄関ドアを丁寧に開ける大河。
少しぎくしゃくと食卓に付き、いかにも今日、初めて会いましたと言う顔で「あ、竜児・・・おはよう」などと言っている。
三人で食卓を囲み定番スタイルの食事が始まった頃、泰子はさりげなくジャブを繰り出した。
「昨日は楽しかった?大河ちゃん」
「え・・・あ、ううん・・・うん・・・楽しかった」
しどろもどろな答えになる大河。
「あれ?おいしかったじゃなくて?」
「え!・・・あ、そ、おおいしかった・・・とおっても、おいしかった」
そう答えた大河は、これ以上質問されては適わないと言う様にごはんを茶碗からかき込む姿勢。
大河に逃げられた泰子は矛先を竜児へ向ける。
「竜ちゃん」
「・・・何だよ?」
「昨日、何時頃帰って来たの?」
「き・・・昨日か・・・そ、そうだな。11時頃には帰って来てたぞ」
視線を泰子から逸らし気味にして食卓のおかずに目を走らせ、動揺の余り、大河のお皿から卵焼きをつまむ竜児。
「・・・それ、私の」
いつもだったら大騒ぎする大河が呆然とされるがまま。
ついに泰子は止めの右ストレートを放った。
「ふうん・・・そんなに遅くなるんだったら・・・泊まってくれば良かったのに」
その瞬間、高須家の居間が凍りついた。
竜児は口に含みかけていた卵焼きを取り落とし、大河はタイミング悪く飲み込み掛けていた魚をのどに詰まらせる。
「ううう〜ううぐ」
「た、大河」
のどを掴んで苦しがる大河に竜児は慌ててコップの水を差し出す。
竜児からひったくる様にして大河は水を流し込み、人心地を取り戻す。
「どうしたの?ふたりとも・・・今日は変よ」
そう言って笑う泰子の後ろをこの時、竜児が見たならばきっと先の尖った黒いしっぽを見つけたことであろう。



「そうじゃねえだろ」
「これでいいの・・・答えがあってれば問題ないじゃない」
「違う。解法がエレガントじゃねえ」
基礎解析と記された教科書を開きながら、大河がノートに書いていった式を点検する竜児。
居間のちゃぶ台を使って宿題を広げる竜児と大河の姿がある。
「竜児はいちいち細かい。それじゃ、嫁いびりの小姑とおんなじ」
「どこが小姑なんだよ」
「絶対、あんた、障子の桟を指先でふうとかやるタイプ」
実際に指先を動かすモーションを交え、ああ、嫌という顔をして大河は言う。
「汚れてたら当然だろ」
「やっぱり、小姑じゃない」
「だいたいな、どこからそんな知識仕入れるんだ」
「テレビドラマ・・・2時くらいにやってるじゃない・・・あ、そうだ、続き見なくちゃ」
テレビのリモコンに手を伸ばす大河。
「おま、そんなものばかり夏休み中に見てたんだろ」
「私だけじゃないよ、やっちゃんも一緒に見てた」
「俺の家でか!」
「そう、アンタの家のそのテレビ」
大河が指差す液晶テレビはお昼の番組を映し出し始めた。
「・・・教育上、相応しくない番組は見れないように出来ねえのか・・・この技術革新の世にあって」
「なにPTAみたいなこと言ってんの」
「まったく、泰子も泰子だ。見せる番組くらい考えろ」
「やっちゃんが見せてくれたんじゃないもん。私が面白がって見てたら、一緒に見るようになっただけ」
「主犯は大河か!」
「いけない?」
「・・・こんなことだから宿題が進まないんだろ」
「ちょっと!静かにしてよ!聞こえない」
「はあ、まあいい、休憩だ・・・なあ、大河。聞くけどさあ・・・大河がこの番組見てた時、俺は何してた?」
「竜児?寝てたじゃない・・・昼寝」
ぐーたらしてたのは私だけじゃないと指摘され、竜児は反論を封じられた。


自室で寝転がって雑誌を読んでいた泰子は隣の居間で繰り広げられる竜児と大河の様子に聞き耳を立てていた。
こんな風に竜児と大河が仲良く?しているのを感じながら、ごろごろするのは泰子にとって至福のひと時。
でも・・・と、泰子は思う。
・・・大河ちゃんと竜ちゃん・・・全然、昨日から様子が変わらない。
泰子の経験から言えば、男女の仲が進展した場合、それとなく現れるもの。
変ねえ・・・と泰子は首をひねった。



そのままうとうと眠り込んでしまった泰子が目を覚ますと、隣は静かだった。
起き上がった泰子が覗き込むと大河ひとりが熱心にシャープペンシルを走らせている。
「あれ、大河ちゃんひとり?」
「うん。そう」
大河は手の動きを止めて泰子を見る。
「竜ちゃんは?」
「夕飯のお買い物」
「一緒に行かなかったの?」
「大河は宿題、片付けてろって。連れてってもらえなかった」
「ひどい竜ちゃんね。後で言っておくから」
「・・・ううん、いいの、やっちゃん・・・これは私が悪いんだから・・・ちゃんと宿題してなかったんだもん。竜児に言われなきゃ、そのままだった」
「大河ちゃん・・・お利口さんなんだあ・・・やっちゃん、素直な子は大好き」
そう言うなり、大河のそばに来てくりくりと頭をナデナデする泰子。
「・・・くすぐったいよ。やっちゃん」
「あ、ごめんね・・・そうだ。お勉強頑張ってるご褒美にいいもの見せてあげる」
「いいもの?」
「そう。ちょっと待っててね」

自室に引き返した泰子が再び居間に戻って来た時、その手には大きな本の様な物があった。
「なあに、それ?」
「これ・・・うふふ。アルバム・・・竜ちゃんの小さい頃とか写ってるわよ」
「え?見せて見せて」
散歩に連れてってやるといわれた犬みたいに大河は大はしゃぎ。
「じゃあ〜ん」
ちゃぶ台の上に展開される竜児の半生記・・・。
大河は食い入るように一枚一枚を見る。
「1歳のお誕生日かな、これ」
「・・・かわいい・・・赤ちゃんってかわいいね・・・とても、あの竜児には見えない・・・ってごめんなさい」
失言と大河は口を押さえる。
「いいのよん・・・で、これが保育園の頃」
「うわ・・・この頃から目つきが・・・」
「そうなの・・・保育園の女の子、たあくさん泣かせたんだから」
「もてたの?竜児」
「違う違う・・・色恋沙汰なら良かったんだけどね・・・竜ちゃん恐いって、みんな泣いちゃうの・・・竜ちゃんのいいこと、分かってもらえなくてねえ」
泰子はおかしそうに笑う。
釣られて大河も笑った。
「今も・・・あんまり変わらないかもね」
「え〜、大河ちゃん、竜ちゃんって恐い?」
「全然、でも、竜児は不本意だろけど・・・そう見ちゃう人も居るみたい」
「外見だけなんだけどねえ」
なんで竜児のかっこ良さが理解出来ないのかと泰子は不思議がる。
「竜児は・・・お父さん似なんだね」
「あらあ・・・大河ちゃん知ってるの?竜ちゃんのパパのこと」
「うん。一度写真を見せてもらった」
「へえ・・・竜ちゃんが・・・」
この大河の台詞に泰子は少し驚いた。
なぜなら、竜児が父親の写真を人に見せるなんて、今まで無かったことだから。
・・・竜ちゃん。よっぽど大河ちゃんを気に入ってるのね。



「これが小学校・・・運動会かな・・・それでこれは中学校の卒業式ね」
今の竜児とほとんど変わらない、いつも竜児が写真にいた。
まだ、大河に出会う前の竜児。
大河はちゃぶ台にあごを載せ、写真の中で微笑む竜児にそっと指先を這わせた。


アルバムを片付けて戻って来た泰子は少し慌てた。
座布団の上で涙ぐんでる大河を見つけたからだ。
「大河ちゃん!どうしたの?どこか痛いの?」
大河は首を振る。
「どこも痛くない・・・ごめんね・・・すぐ治まるから」
そう言えばと泰子は思う。
最初のうちはきゃあきゃあ言う感じアルバを見ていた大河が、後ろの方になると無口になっていたのを思い出す。
・・・食い入るような感じで竜ちゃんの写真、見てたのよねえ。

目じりに溜まった涙を指で拭く大河。
「変なとこ・・・見せてごめんね、やっちゃん・・・なんかアルバム見てたら、急に泣きたくなって・・・違うの・・・悲しいとか嬉しいとか・・・そんな感じじゃなくて・・・なんか、もう・・・ああ、上手く言えない」
「・・・大河ちゃん」
「・・・やっちゃん」
「なあに、大河ちゃん・・・そんなにかしこまって」
崩してた足を正座に組み替えて大河は泰子に正対した。
「あのね・・・うまく・・・言えないんだけど・・・その・・・・・・そう、竜児のこと・・・竜児を産んでくれて、ありがとう」
言葉を探して、探して・・・伝えられない気持ちを伝えようとする大河。
その大河は思い余ったかのように泰子へ深々と頭を下げる。
「ど、どうしたの?大河ちゃん」
「今・・・竜児が居てくれることが・・・私、ものすごく嬉しいんだよ・・・きっと・・・・・・だから」
不器用だけど、なんて素敵な女の子なんだろうと泰子は大河を見ていた。
見ているだけで泰子も大河がとても他人とは思えなくなってしまう。
思わず、抱き寄せてしまい、大河を慌てさせる。
「・・・やっちゃん・・・ふわふわ」
泰子の大きな胸の辺りに抱かれた大河の感想だった。


「ただいま・・・って、なにやってんだ?おまえら」
ちょうどその時、戻って来た竜児は大河と泰子の振る舞いを見て奇異の視線を向ける。
「竜ちゃん。お帰り〜・・・竜ちゃんもする?」
「するって?何をだよ?」
「こっちの胸、空いてるよん」
ふたつのうち片方は大河が占拠しており、もうひとつの方にどう?と誘う泰子。
「遠慮しとく」
「え〜。竜ちゃん、つれなあ〜い。前はあんなにうまうましてくれたのに」
「誤解を招くようなこと言うな・・・それは子供の頃だろ・・・第一、俺は覚えちゃいねえ」
「ふんだ。もう竜ちゃんはやっちゃんのなんかより、大河ちゃんのが気になるんだ」
その声に大河が反応する。
「わ・・・私のって、私の?・・・ダメダメ、全然無いのに〜」
贈答用りんごみたいにきれいな赤ら顔でとんでもないことを口走る大河。
一方で竜児も顔を少し赤らめて母親に抗議する。
「バ、バカなこと言うなよ。大河が困ってるだろ」

・・・あ〜あと泰子は内心で思う。
この反応に、とても何かあったふたりには見えない。
・・・結局、何も無かったんだ。
・・・でも、ま、いいか。
・・・これからだもんね、大河ちゃんと竜ちゃん。
先が楽しみと泰子は笑う。


1枚千五百円と言う黒ブタとんかつが今夜の献立。
「あ、これが大河のな」
お皿を指定する竜児。
「いちばん、脂身が少ないからな」
「いいよ、竜児。脂身、食べる」
「苦手なんだろ?」
「大丈夫」
「無理すんな」
「いい、食べる」
つまらないことで言い合う竜児と大河に泰子は割って入る。
・・・ふたりとも意地っ張りなんだから。
「はい、シャッフル〜」
泰子は自分のお皿を混ぜて3枚のお皿の位置をランダムにいじった。
「あ〜あ、もうどれがどれだかわかんねえ・・・泰子〜」
「これで、恨みっこなし。これならいいでしょ、大河ちゃん」
「うん」
破顔一笑と言う感じの大河。
「ちゃんと食えよ。1枚千五百円なんだからな」
「食べるもん・・・大丈夫」
そう言いながら大河はサクサクしてそうな衣に噛り付く。
「・・・んぐ・・・あ・・・これ脂身・・・竜児、好きでしょ・・・あげる」
そのまま竜児のお皿へ置く大河。
「言ってるそばから・・・おまえと言うやつは」
竜児は大河の歯型が残ったかじり掛けを躊躇なく口にすると、自分のお皿のひとかけらを大河の皿に移す。
「ほらよ・・・赤身だから食えるだろ」
「うん」
泰子は微笑みを抑えられない。
・・・小さな幸せだけど・・・続いて欲しいな。
・・・ね、竜ちゃん、大河ちゃん・・・。


夕食を済ませてまもなく大河が立ち上がる。
「もう、帰るね」
「早すぎるだろ、まだ・・・」
引き止める竜児に大河は言う。
「いつもお邪魔ばっかりしてるから・・・今日は早く帰るの」
「邪魔じゃねえよ」
「そうじゃない・・・たまには短い時間だけど竜児とやっちゃん、ふたりだけにしてあげたいの・・・いつもは私がいるから・・・竜児、やっちゃんに甘えられないでしょ」
「大河!」
「あはは、怒んない、怒んない」
「泰子も何か言ってくれよ」
「大河ちゃん、変に気をつかわなくていいんだからね・・・居たいだけ居てくれていんだから」
「ん・・・竜児も、やっちゃんもありがと・・・嬉しいよ、私・・・でも、今日は帰るね」
明日から新学期だし、またここにいたら夜更かしして寝坊しそうだしと大河に言われて、竜児も引き止めるのをあきらめる。
「送るよ」
玄関に向かった大河を追いかけて竜児は靴を履く。
「すぐそこなのに?」
「いいんだ」
「・・・ん、じゃあそこまで」
「竜ちゃん・・・送り狼」
泰子の声援?を背に竜児は外へ出る。



漆黒の空に淡い月が掛かっている。
竜児と大河は並んで空を見上げた。
「夏、終わったな」
「ん、そだね」
カンカンと外階段の鉄板を鳴らしながらゆっくりと降りるふたり。
「・・・宿題、手伝ってくれてありがとう」
「今度だけだぞ。次からはもう手伝ってやんねえ・・・」
「いいよ〜だ。竜児になんか頼まないから」
「大河!」
「ねえ、竜児」
「あ?」
「さっき、やっちゃんが言ってた送り狼って、何?」
「いい意味と悪い意味があるな」
「竜児は・・・どっち?」
「そうだなあ・・・ガオってか」
両手を頭にぴったり付けて竜児は襲い掛かる真似をする。
「きゃあ、狼が・・・って、アンタ、犬でしょ」
棒読みの悲鳴を上げ、そのままてこてこと駆け出す大河。
もうすぐそこはマンションへの階段。
「もう、着いちゃったね」
「・・・だな」
「ねえ、竜児」
手を後ろで組んで上目遣いに竜児を見る大河。
「なんだ?」
「約束、忘れないでね」
「・・・約束・・・ああ、忘れないぞ」
「嘘ついたら、針千本・・・それも特大の畳針だから覚悟して」
「ああ、分かってる」
・・・側に居てやる。
確かに竜児は大河にそう約束を交わした。



エレベーター前で大河は立ち止まった。
「そうだ・・・ねえ、竜児」
大河は急に思いついたように竜児に呼びかける。
「忘れ物でもしたのか?・・・取って来てやるぞ」
「違う・・・あ、でもそんなような物」
「なんだそりゃ?」
「ん・・・ちょっと言いづらいかな・・・あのね、竜児、耳貸して」
「おう」
竜児は大河が内緒話をしやすいように、ひざを折り曲げて頭の位置を大河の目線まで下げた。
竜児の耳に大河は両手を当てて、内緒話の姿勢。
・・・あのね・・・こういうことなの・・・。
大河は竜児の耳から両手を離すと、竜児の頬にそっと自分の口を押し当てた。
時間にしてほんの数秒間・・・。
大河は竜児から離れるとやって来たエレベーターへ飛び乗った。


「いい方の送り狼・・・送り犬ね、アンタの場合・・・」
・・・また、明日と閉まるドアの隙間から大河は手を振った。

竜児は熱を持ったみたいな頬を手で押さえ、大河を見送った。
本来の送り狼は相手を無事に送り届けるって言う意味らしい・・・
さっきのは・・・大河なりの・・・それに対する気持ちかな?

・・・今夜はいい夢・・・見てくれよ。
・・・なあ、大河。

竜児は大河の部屋に明かりが灯るのを見ながら、アパートの階段へ向かった。




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