「まぁ、ここまで尽くされちゃったらねー、私としても気合入れて頑張らなきゃって思うわけ、分かる?」
「あっそ。あんたら二人がそれでいいって言うなら亜美ちゃん関係ねーし?」
「ガッツリ休んで、ガッツリ体力付けるの。逆に言うと、今の私が出来る事ってそれしかないんだ……」
「そうなの?」

と実乃梨ちゃんが尋ねる。興味があるのかやや前のめりになってる。

「何かね、先生が言ってたんだけど……すっごい大変なんだって、お産の前って」
「うんうん。そりゃそうだろうねー」
「二、三日くらいは陣痛が続いて寝れない事もあるって言われたし、
 体力ない人にはトレーニングを薦めるんだってよ?」
「へぇ、そんな大変なんだぁ……」

得意気に演説をぶちかますタイガー。
ま、自分の将来のためにも聞いておくのはやぶさかでは無いというか何と言うか。

「でもさ大河?大変は大変だけど高須君のサポートがあるんだし、すっげぇ安心じゃない?」

そう……あの高須君が……変質的なほど綺麗好きで几帳面で気配りの鬼と言える
あの高須君が愛情MAXフルサポートしてるとなれば確かに安心だろう。
これじゃどこかの生命保険の謳い文句みたいじゃんと思ってたけど、当のタイガーは、

「怖いよ…………怖い」

と、一瞬で笑顔が消えて顔を曇らせる。

「私こんなちっこいじゃない? いかにも苦労しそうな感じだし、
 お医者さんにも覚悟しておいてって言われたもん」
「うぅむ……やっぱりそうなるだろねぇ……」
「そればっかりは諦めるしかないよね」
「しかもね、ちょっと前にね、一回だけ陣痛みたいな痛みが来た事があるんだけど……
 んもっ! っのすごっく! 痛くってさ」

その時の事を思い出したのか、顔をしかめながらお腹を押さえる。

「うわぁ……」
「……で、どうなったのよ、それから?」
「すぐ収まったの。多分10分も無いくらい……かな」
「それなら……良かったじゃん?」
「……でもね、竜児はすっごく慌てちゃって、悪い事しちゃったなって思うの。あんなに痛がったからかな?」
「そりゃー高須君じゃなくったって慌てるに決まってるさねー」
「私はもう全然動けなくってベッドで丸まってたんだけど……なんかね、本を見てみるとか言ったりね、
 ネットで調べるとか言ったり、あげく救急車まで呼ぶとか、部屋中走り回って血相変えてもう大変だったんだから」

……これもノロケだろうか?初めて聞く話だったみたいで、実乃梨ちゃんの顔が輝いてるように見える。



「私にゃそんな高須君なんて想像できないなー」
「竜児もそんなに慌てないでさ、傍にいてくれれば良かったのに……って思う」
「ま、テンパっちゃう気持ちも分かるけど……でもさ、予定日に近いわけでもないのにそんな痛くなるってやばくね?」
「ん、それから痛くなったことはないし特に心配はしてないんだけど……その……竜児がね……」

なるほど。心配性の高須君らしいな、と思う。心配性すぎて胃に穴が開くタイプだよね、あれは。

「だからかぁ……それ以来、高須君は過保護になっちゃったってわけね?」
「そうなの」
「まさにお姫様状態じゃん、大河ってばスゲーよ! アチチだよ!」

隣で実乃梨ちゃんが火傷した時みたいに手を振りながらあちちあちち言ってる。
え……そこで興奮するわけ?……謎だ。未だに実乃梨ちゃんの興奮ポイントが掴めない。
きっと自分の脳内でどんどん妄想が膨らんで熱くなってるに違いない。多分シナプスがそういう風に出来てるんだろう。

「まーあんたの気持ちも分かるよ?昔ママに聞いた事があるけど、ものすごく痛かったとしか言われなかったし……」
「うちの先輩も最近産んだんだけど、そんな感じだったね。それ以上は根掘り葉掘り聞くわけにもいかないしさ」

この歳になれば嫌でも耳に入ってくるし、小さい頃から積み重ねられた出産のイメージはどうしても『痛い』だ。
そりゃービビりのタイガーじゃなくても怖くなるってものか……

「でも、まぁ私は平気よ!」
「……やけに強気じゃん?さっきまでは怖い怖い言ってたのに」
「だって竜児がいてくれるもん!」

……やっぱりそう来たか。うんうん、亜美ちゃん今更こんなことじゃ驚かない。

「おうおう、高須君も付き添ってくれるって?」
「うん。あのね、陣痛って最初30分間隔とかで始まって、段々短くなってくんだ」
「ほうほう」
「どのくらい前から始まるかってのは個人差があって長い人は長いみたいだから、そうなったらやだなぁ……」

と少しだけ嫌そうな顔をする。
実乃梨ちゃんは興味津々らしく、それでそれで?としきりに先を促している。その気持ちは理解できる。
女として生まれた以上、人生の中でこれほど大きいイベントもそうそう無い。むしろ一番の大仕事ってやつだもんね。

「うん。それでね、10分間隔くらいになったらほとんどの人は入院するみたいなの。
 だからね、竜児はそれに合わせてお休みも取ってくれるんだって!」
「そいつぁ安心だねー大河!」
「さっすが高須君……って言うか……ま、今のご時勢じゃ珍しくもないか……」
「だからね、仕事を前倒しでやってるとか何とかで、結構忙しいらしいの」

家事全部やってる上に仕事も山積みか……あたしだったら考えただけでやんなっちゃう。
おまけにタイガーの甘えっぷりも半端ない。文字通りおんぶとだっこか……高須君、あんたやっぱりすげーよ。

――ちょっとだけ目を閉じて、今この瞬間にもせっせと仕事をこなしているだろう高須君を思い浮かべる。
うん。まぁ。高須君なら来週のその日を待ちわびて笑顔で仕事をしてるんだろうな……なんて。



「んで、5分間隔くらいになったら準備室だか分娩室に移動して本番ーって感じらしいよ?」
「んじゃあ、その間ずーっと高須君が付きっ切りなんだ?いいねいいねぇ!」
「そうそう。だからまぁ……怖いっちゃ怖いんだけど、きっと大丈夫!」

目を開けるとタイガーがこっちを見てあっけらかんと笑っている。さっき泣いたカラスが何とやら……だ。
竜児がいればこの世に怖いことなんてありません! とでも言い出しそうで思わず苦笑いしてしまう。

「ママとかに聞いた話だと、5分間隔になってもうすぐ生まれそう! って時にね、
 なっかなか間隔が縮まらなくて苦しかったって聞いたかな。
 半日くらいその状態が続いて、ずっと痛くて辛いわ、始まらないわ、終わらないわでもう大変だったんだって。
 分娩室に移った時にはもうクタクタになってて、その上なかなか出てこなくってねーあんたは。
 ……って言われたわ」
「あんたの事かよ……」
「あはは。大河らしいっちゃらしいのかね?」
「まぁ、覚えてない時の事を言われても困っちゃうんだけどね」
「じゃーあんたもそのお腹の子に文句言わないでいられる自信あるの?」

と問いかけると、「うーん」と唸って、「わかんないや、へへへー」と笑う。

怖い怖い言ってたけど、結局は高須君がいかに大事にしてくれるかーってのを自慢されただけじゃね?
と思ったが、さっきほどネガティブにならないのは慣れたからだろう。これだけ聞けばどうでも良くなる。

しっかし、元気が有り余ってるのかさっきから喋りまくりでうるさいったらない。

「んぅーーーっ! いっぱい話したらお腹空いちゃった! おっひるごっはんにしようかなー」

そう言って腕を上に突き出して伸びのポーズ。
相変わらずの低燃費っぷりは生来のものか、お腹の赤ちゃんに取られているからか?
どっちもだったら一体どんだけ食べてるんだろう?と想像しかけて止めた。食欲が無くなりそうだったし。

……なるほど全体的にふっくらしてるのはお腹の印象だけじゃなかったみたい。
元々曲線の乏しい子だったけど、今はほら、顎のラインも若干丸みを帯びているし、
胸だって膨らんで…………って……え?えええ!? 哀れ乳は?

「……っていうかさ、タイガーあんた胸おっきくなった?」
「あ、分かる?分かっちゃった!? そうよ、気付かなかったらどうしようかと思ってたわ」
「だってさ、お腹の膨らみの延長にしか見えなかったし、そこに何か存在するなんて頭の片隅にもな……」
「知られちゃったからにはしょうがないわね……私ね、重大発表があるの!」
「………………」


あたしの台詞なんかまるで無かったみたいにスルーされる。
何を言い出すのか警戒して我が戦友、櫛枝実乃梨に素早く目配せをする。
ちなみに戦友と書いて「とも」と呼ぶ。

けれど、その瞳はキラキラと輝いていて、さっきまで嫌がってた当人とはとても思えない。
そうか……おノロケ怖いメソッドか……それとも、大河怖いメソッド?ってことは大好物???

「ほうほう、何だい、大河!?」
「じゃじゃーん! なんと私、Cカップになりました!」

衝撃の事実。人間って素晴らしい。

「えっ、マジ?」
「すごいじゃーん、大河ー! また大きくなったねー!」
「ふっふーん。この前ブラも買ったのよ、あぁ念願のCカップブラっ!」

と言って、両手を組み合わせてうっとりしてる……そんなに嬉しかったのか。
つーか、また大きくって事は……実乃梨ちゃんにはその都度自慢してたわけ?

「……ただデブっただけじゃねーの?」
「何言ってんのよ、そんなことないって」
「どうだか……ふん」
「ちょっとくらいお肉が付いたほうがいいって先生も言ってたもん」
「あっそ。で、高須君も大歓迎なわけだ? へぇ〜 大喜びってか?」

煽るような言葉を発して、斜め下からタイガーの瞳の奥を探る。

「……んーとね、痛いの。張っちゃってて痛いんだ」
「あれかい?例のやつかい?」
「そそ、もうじき生まれるっていうのに全然おっきくならなかったら問題だっての」
「おおー生命の神秘なりね!?」
「あららぁ残念。それじゃせっかく大きくなったのに高須君も触れなくって寂しいんじゃないのぉ?」

興奮し始めた実乃梨ちゃんに合わせるように突っ込んだ事を聞いてみるが、

「竜児はそんなことで寂しがったりしないもん」

と、何食わぬ顔で反論する。


「いやいやいやいや、高須君だってきっと思う所があるんじゃないのかなー?」
「なんたって愛しいお姫様の胸が育っちゃったんだもんねぇ、きっと眠れない夜を過ごしてるんじゃない?」
「だーかーらー、竜児は全然そんなことないんだって、んもう止めてよねっ」

そんなことない、とはどんなことがないんだろう……これは聞いておかないと、あ、実乃梨ちゃんのためにね。

「それって絶対我慢してるって、亜美ちゃんが言うんだから間違いない。男なんて皆そんなもんなんだから」
「くぅぅ! 愛しい大河のために悶々とした夜を過ごす高須君……萌えるぜぇ〜!」
「萌えんなって……」
「あぁ…………でも、たまに視線は……やっぱり……感じる……かな?」
「にょっほー! 熱いね熱いねぇ! それでそれで?」

タイガーの発言一つ一つに過剰反応してる実乃梨ちゃんが段々とおかしなテンションになってくる。

「だからっ! そんだけなの、そんだけ! ったく、何言わせてんのよ二人とも……」

憮然といった感じでこちらを見やるタイガー。
少しだけ頬が赤いのはあれか、今までコンプレックスだった場所に向けられた熱い視線を思い出して……
ハッ……この考え方……実乃梨ちゃんに染められちゃったかな?いや、こんな感じでヒートアップしてくのか?

嫌な予感がして隣の実乃梨ちゃんを見ると、口元に何ともいえない笑みが浮かんでいる。
うわぁ……亜美ちゃん正解かもー、と思ってると、

「二人とも自分の番になったら思い知る事になるわよ?」
「ほえ?」
「何のことよ?」

意味深な発言に二人とも聞き返す。

「全然よ? ぜんっぜんそんなんならないって。圧迫されてて息すると苦しいくらいなんだもん」
「そんなに張っちゃってるんだー?」
「だから、エロ芸人の川嶋さんが言うような汚らわしい展開にはならないってわけ……分かった?」
「ついに芸人呼ばわりかよ、こいつ……」
「なぁんだぁ……アチチな展開は無いのかー」

などと言いながらガックリ肩を落とす実乃梨ちゃん。

「ごめんね、みのりん。期待に応えてあげられなくって」
「えっ!? ……いやいや、おれっちは全然期待なんてしてないし……」

とは言うものの、全く説得力が無い。
っていうか、実乃梨ちゃんの将来が心配になってきた。ちゃんと恋とかしてるんだろうか?
タイガーの反応も期待外れで面白味が無いし、亜美ちゃんつまんなーいと思いながら、やっつけ気分でポロっと、


「じゃーあれかなぁ? 触れない代わりに〜とか何とか言いながら高須君が飲んじゃったりしてるわけかぁ〜」
「やだねぇ、あーみん。あの生真面目な高須君がそんな……ねぇ?ヘンタイちっくな事するわけが……」
「そっ、そそそ……そんな……そんなこと………………ない……」

その瞬間、ボボン! と、瞬間湯沸かし器よろしく真っ赤になるタイガー。
急にどもりながらあたしの言葉を否定するが、「ない」の台詞はほとんど聞こえない。
顔どころか耳までピンクに染めて湯気が出そうなほどだ。

「あんた…………」
「…………………………

分かり易すぎる。っつーか想像したくもない。
何なんだこいつは……恥ずかしいのはこっちだっつーの!
汚らわしいとか何とか言って無かったっけ?あれはどう説明するわけ?

……………………ブハッ!」

その時、沈黙を保っていた戦友が血の花をばら撒いて散っていった。

「きゃあっ!?」
「…………そ、そいつぁ反則だぜ、大河ぁ……た、隊長……申し訳……ありま……グハッ!」

いつの間にか女神から隊長に格下げされてるけど、自ら進んで死にに行くような部下なんかこっちから願い下げだ。

「ちょ……実乃梨ちゃん大丈夫?しっかりして!」

一応そう言ってみるが、従順なこの部下は仰向けのまま恍惚の表情を浮かべてて正直キモイ。
これが有名なヘブン状態か?

「……だって……あれはだって……りゅうじ、が…………そう、不可抗力って……やつ……で……」

タイガーの方は?と見ると、人差し指をつんつんしながら茹トラが世迷言をほざいている。
あれだけノロケといてカマトト気取りか?

「なんだよ……これはよぉ……」

あたしはゲンナリした顔で二人を見やる。
この頭がいかれちゃってる二つの生き物と同じ空気を吸っているのが心底イヤになってきた。帰りてぇ……

「……あ、亜美ちゃんお手洗い〜♪」

自称、日本で一番可愛いトイレ宣言をして立ち上がるけど、当然のごとく無視される。

「そりゃ……ね…………興味が……あるの……は、分かる……ん……」
「ふへ……ふへへへ…………禁断の、か……かかっ!……かじ……つ……ふへっ……」

タイガーは独り言。実乃梨ちゃんは夢の中。
あぁ、そうだろうよ……はいはい、そうだね、こういう奴らだよね、知ってた知ってた。亜美ちゃんよーく知ってたよ。


◇ ◇ ◇


トイレから出て手を洗ってるとキッチンから二人の声が聞こえてきた。
どうやら立ち直ったらしいと思いながら洗面所を出ると、

「おっ、あーみん! 大河の料理、見てみるかい?」
「……それ面白そうね」
「なーにが面白いよ、そこで見てなさいっての。驚かせてやるから」
「はいはい」
「それじゃ、大河の事はあーみんに任せて私はテーブル片付けてくっかい」
「お願いね、みのりん」

タイガーが立ってる姿を横から眺めていると思わず吹き出しそうになるけど我慢する。
エプロン姿を見慣れていないのもあるが、何と言ってもそのお腹のアンバランスさ加減がものすごい。
これじゃ料理をはじめ家事全般大変だろうなと思いながら隣に立つ。

「あ、悪いんだけどさ、冷蔵庫にケチャップライスが入ってるから、取ってくんない?」
「はいはい。それを暖めるわけね?」
「そそ。そんで、私が卵で包めば出来上がり! らーくちーん!」
「つーか、ほとんどタイガーの料理と呼べないじゃん、これって……」

と、少しだけ皮肉を言ってみるも、

「何言ってんのよ、『高須家の料理』をごちそうするんだから、私と竜児が半々で作ったって問題ないでしょ?」

なんて、やけに説得力のあることを言われてしまう。

「まぁ、そっか……」
「それに、オムライスは卵が命じゃない?とろとろ半熟に仕上げてやるから楽しみにしててよ」
「あんたが料理するところを見るのなんて始めてじゃない?」
「そうだっけ?」
「常に高須君があんたの餌を用意してたもんねぇ〜?」
「うっさい。卵料理は私のルーツなんだからね。これでも一番得意なのよ?」
「うっそくせー 卵握りつぶしたりしてんじゃないの?」
「あんたも口が減らないわねー? あ、分かった。
 芸能界で抑圧され過ぎて腹黒分が発酵しちゃったんだね、おかわいそうに」
「ちげーって……ったく、あんたは……」

卵を掴んだタイガーの手から視線を外して天井を仰ぐ。
自然と笑っている自分がいた。
こいつと料理の話をするなんてね……そんな日がいつか来るかもと思ってたけど、それが今日だったわけか。
そんな事を考えてると、クシャ――という音が聞こえてきた。そう、まさに卵が割れたような……

「……って、やっぱり割ってんじゃん! やーだもう! あははっ!」

視線を戻した途端に飛び込んで来た卵の惨状を見て笑ってしまう。
タイガーの手の中でものの見事に潰されていた。
そして、台所に乗せられていたその手を辿ってようやく――うずくまってしまってるタイガーに気付く。

ドクン―― と、ひとつ心臓が跳ねた。

「ちょ……っと…………た、タイガー……?」
「ぅ……ぅぅっ……」

両膝を突いてへたり込んでる上に、片手でお腹を押えてうめき声を上げている。
頭の天辺を流しの壁に押し付けて軽く震えているのが見て取れた。

「あんた……ちょっと大丈夫!? どうしたの? ねぇ、ちょ……」
「ぐ……ううっ!……い……痛い…………の……」
「えぇ!?」

一瞬自分の耳を疑うが、眼下の光景があたしに現実を見ろと訴えかけてくる。
さっきまで憎まれ口を叩いていたタイガーとの落差が受け入れられなくて足元の床が揺れてるような錯覚を覚える。
軽く頭を振ってから隣に屈みこみ、肩をしっかりと掴んで問いかけた。

「きゅ、急にどうしちゃったのよ!? さっき言ってた痛みってのと同じ感じ?」
「大河ぁ!?」

その時、実乃梨ちゃんの大声が響き渡った。風のように飛んで来てタイガーの隣に滑り込む。

「大河、大丈夫?しっかりして! ま、まずは楽な姿勢にしないと……」
「みのりん……お、お腹が…………痛い……」
「あーみんはそっちを持って!」
「う、うん!」

言われるがまま二人でタイガーを少し持ち上げて位置を変え、足を前に投げ出せるようにする。
タイガーは前かがみになりたそうだったけど、お腹が圧迫されるのはよくないと実乃梨ちゃんに言われて断念し、膝を曲げて床の上にペタンと座らせた。
お腹が邪魔で今度は後ろに倒れそうになるので実乃梨ちゃんが後ろから支えに入る。

「どう?大河どんな感じ?この姿勢ならまだマシかい?」
「うううっ! だ、だめ……かも……どんどん痛く……ぅぅ……」

苦悶の表情でそう答える。額には脂汗がにじんでひどく苦しそうだ。
エプロンを外してやるとオフホワイトのワンピースの襟元も汗に濡れて灰色に変わっていた。

「うそ……もうこんな……」

と呟くと、実乃梨ちゃんがあたしの方を見た。
背中にピッタリくっついてる実乃梨ちゃんも気付いていたのだろう、軽く頷き合ってからタイガーに声をかける。

「ねぇタイガー、救急車呼ぼう?何かあってからじゃ遅いし、大事な身体なんだしさ……」
「だって……この前だって……収まったもん……んんんっ!」
「そうは言うけど、今回だって収まるとは限んないじゃん?」
「そうだよ、呼んだ後で収まったらごめんなさいって言えばいいんだし……」
「ううっ…………だって……は、恥ずかしいし……そんな大袈裟な……」
「はぁ!? あんたバッカじゃねーの? そんな事言ってる場合かっつーの!」

思わず声を荒げる。
前回の痛がり方は分からないけど、高須君なら今のタイガーを見てパソコンなんか開いてられるはずがない。
今の実乃梨ちゃんみたく一瞬たりとも目が離せなくなるに決まってる。
だからつまり……前より悪いって事だ。

「竜児の事……心配してくれたのに……思いっきりからかっちゃって……だから……」
「大丈夫だって、高須君はそんな事気にしないから!」
「でも……」
「………………ちっ」

煮え切らないタイガーに痺れを切らしたあたしは、手近に転がっていたパールホワイトの携帯を引っ掴んで119にダイヤルした。

トゥルルル―― トゥルルル――

「くっ……ううっ…………痛い……ねぇ……みのりん……」
「なんだい?背中さすってたら少しは楽かな?どうしたらいい?」

そんな声を聞きながら自分の携帯を探しにリビングに戻る。メールにここの住所が書いてあったはず。


◇ ◇ ◇


「……はい、そうです。えぇ……はい……」

電話口に出た救急の人にタイガーの様子と住所を伝えていると、

「うあああっ!!」
「大河!? あと少しの我慢だからね!」
「――とにかく! 急いで来て下さい! お願いします!」

急かされる気持ちを相手に叩きつけるようにして電話を切った。
タイガーの叫び声が気掛かりで、すぐさまキッチンに取って返す。

「……どう?あーみん」
「多分、五分も掛からないって、すぐ来るって」
「はぁ……はぁ……ね、ばかちー……私の携帯……」
「あぁ……ごめん……はいよ……」

やっぱりこの子の携帯か……と思いながら手渡すと、震える手でそれを握り締め自分の胸元に押し当てた。
そして、さっき救急の人に聞かれた質問をタイガーに尋ねる。

「……生まれそう……だったりするの?」
「一週間なんて言葉、アテにならないからね……なんか前兆みたいなの無かった?」
「わかん……ない……うっくっ……でも、前より痛い……気がする……」

思わず実乃梨ちゃんと顔を見合わせる。
可能性が少しでもあるなら、いや、無かったとしてもこれだけ苦しそうなんだから……

「高須君にも電話しよう?もしあんたが出来ないならあたしが掛けるから……」
「え…………だって……竜児は今すごく……忙しくって……」
「大河、そんな場合じゃないんだよ?なんのために高須君は忙しくしてるの?」
「そ、それは……くっ…………ふぅ……ふぅ……」
「実乃梨ちゃん、もしこのバカがグズグズしてるんだったら高須君に掛けてあげて。あたしは準備してくる」
「分かった!」

……あと少ししか時間が無い。急がないと。
レンジ台に引っかかってたグリーンのエコバックを拝借してリビングに行き、部屋の隅に置いてあった自分と実乃梨ちゃんの手提げバッグを放り込む。
タイガーのバックが見当たらないので「失礼」と言いながら寝室に入り、ベッドの上に散乱しているバックとその中身に思わず舌打ちした。
財布とか鍵とかリップとかを考えなしに全てまとめてバッグに入れ、そのバックをエコバックに突っ込む。

気が動転してる中でこれだけやれれば上出来だろう、と自己評価し、
二人分の上着を引っ掴んでからキッチンに戻った時に――ちょうどサイレンが聞こえてきた。

「来たみたい。あたしが迎えに行って来る」
「大河、もう大丈夫だよ?」
「ふーっ……ふーっ……うん……ぐっ……ううあっ!……ふーっ……」

深呼吸して痛みに耐えているのだろうか、高須君はどうなったのか……いやその前に。
一足飛びで玄関まで行き、つっかけに足を入れる。
玄関に身体ごとぶつかるようにしてドアを開けると、階段の下に救急隊員がいるのが見えた。

「ここです! こっちです! 早く!」

こちらに気付いたのを確認してタイガーの元に戻る。
上半身の体重を完全に実乃梨ちゃんに預けて寄りかかっている。
さっきにも増して息は荒く、片手の指が白くなるほど携帯を握り締めているのが痛々しい。

「高須君は!? 連絡付いたの?」
「ううん。高須君、電話に出ないんだよ……」
「う……ああっ! りゅう……じ……もうじき出る……くうっ……とおも……」
「ちょっと……さっきより酷いじゃん。もしかして本当に……?」
「ふぅ……わかん……なあいっ! はぁ……はぁ……でも、多分……ぐううっ!……」

眉間の深い皺がタイガーの苦しみを物語っている。
息も絶え絶えで、とても見ていられない。

「患者は!?」

と、そこに力強い声が掛かる。
振り返ると三人ほどの救急隊員が玄関のドアからこちらを伺っている。

「この子です! お願いします! 私も手伝います!」
「……ねぇタイガー、もうじきって何で?高須君なんで繋がらないの?」
「じ……時間が……ふぅ……ふーっ……あ、後少しでおひ……る……んんっ……はぁ……」

そう言われてリビングの時計を見ると11:57……なるほど。

「よし……まずは乗せますよ。ちょっと苦しいかもしれませんが我慢して」
「3……2……1……っせーのっ!」
「ぐ……ううううっ!……ふぅ……ふぅ……」

救急隊員の手によって軽々とストレッチャーに乗せられるタイガー。
それから身体を固定するためのベルトを巻こうとして、

「……む?」

と、年配の隊員がいぶかしげな声を上げた。
いま、タイガーがいた場所の、キッチンの床が濡れているのは……つまり、これは……

「こ、これって……?」
「大河……やっぱり……」
「……急いだほうが良さそうですね。ここから一番近い総合病院に搬送します」
「ば……ばかちー……ぅぅっ……」

一瞬呆然としてしまったが、その声に弾かれるように我に返る。
実乃梨ちゃんと共にタイガーの側に行って声を掛けた。

「あんた……自分で分かるよね?気をしっかり持って!」
「はぁ……はぁ……ばかちー怖い……怖いよ……んんんっ!……」
「大丈夫だって! 私たちが付いてるでしょ?」

何とか目を開けてはいるけど、苦しげに顔を歪めているのが痛々しい。

「りゅ……竜児……ううっ!……竜児を…………りゅぅ……じぃ……」

かすれる様な声でそう言いながら握っていた携帯をこちらに渡そうとする。
あたしはそれを受け取って、

「分かった。あたしが高須君を呼ぶから……だからそんな泣きそうな顔すんじゃない!」
「高須君が来るまでは、私たちがずっと側にいるからね! だから安心して!」
「……うん……ふぅ…………うん…………あり……がと……」

ガキン― とベルトが固定された音が響き、隊員たちの動きが慌しくなる。

「急げ! もう破水が始まってるぞ!」
「「ハイ!」」

ストレッチャーが持ち上げられ、部屋から運び出されるタイガー。
そのすぐ横には実乃梨ちゃんが付き添っている。靴を履くのももどかしく、二人の若い隊員と共に部屋から出て行った。

「ご友人の方……ですよね?もし可能であれば罹りつけの病院を教えて欲しいんですが……」
「え?……っと、ちょっと待って下さいね」
「それから、一緒に病院まで行きますよね?火の元、戸締りとか、可能な限りお願いします」
「は……はい!」

年配の隊員の指示に従って、タイガーのバックから鍵を取り出す。
エコバックを肩にかけて、リビング、キッチンと一通り見て回ってから玄関から飛び出した。

カンカンカン―― と急ぎ足にアパートの階段を降りる。
ジーンズは正解だったけど、ヒールは大失敗。つーかこんなの予想できるはずもねーっての!

「あーみーんっ! 急いでー!!!」

既に救急車の後部に乗り込んだ実乃梨ちゃんから声が掛かる。

「乗ります! あたしも乗りまーす!」

折りたたまれたストレッチャーの隣に実乃梨ちゃんが座ってて、タイガーの手を握り締めているみたい。
タラップに足を掛けて乗り込もうとした時に、年配の隊員から声が掛かった。

「すみません。自分ともう一人の隊員で満員です。あなたは助手席へ」
「あ、分かりました。実乃梨ちゃん、これ、ここから診察カードを探して!」

そう言って、タイガーの財布を実乃梨ちゃんにパスする。

「オーライ!」
「さっきの、罹りつけってやつ……彼女から聞いてください」
「分かりました。では……」

大きく頷いて了解のサイン。重そうな扉を軽々と閉め始める。
とそこに、車内からタイガーのうめき声が聞こえてきて、あたしは反射的に叫んだ。

「絶対……絶対、高須君呼ぶから!」

バタン――


◇ ◇ ◇


駆け足で助手席に乗り込み、運転手に声を掛ける。

「よろしくお願いします」
「は……はい!」

あ。という顔をしたので、おそらくあたしの事を知ってるんだろう……こういう時はウザイ事この上ない。
三人分の貴重品が入ったエコバッグを重々しく脇に置いて「ふぅ」と一息。
走り始めて直線になった頃合を見計らって運転手に尋ねる。

「行き先は大橋総合病院ですか? 駅より手前のあそこ?」
「はい、そうです」
「どのくらいで着きますか?」
「道次第ですが、5分未満だと思います」
「分かりました」

聞きたい事だけ聞いたら運転手なんか用無しだ。
亜美ちゃんの顔に見とれちゃうのも分かるけど、後は一分一秒でも早く病院に行ってもらわないと。

タイガーの携帯を開けて発信履歴のページに進む。
案の定、さっきの119番の下に『竜児』の文字を見付けたのでカーソルを合わせて……

「ブッフォォォッ!?」

盛大に吹き出した。
『THE DOG』なんてものが昔あったなと思い出す。
あれはキュートな子犬でやるから可愛いのであって、この高須君のタコみたいな口とか、
ほんのり赤い頬とか、どアップすぎて魚眼レンズで写したみたいなこの画像は酷い。キモイ。
生臭いとも言ってやってもいい。何であの子はこんなグロ画像を発着信の待ち受けに……?

……いや、いい。今はそんな場合じゃない。一刻を争うんだ。
タイガーの苦しみようを思い出して罪悪感に駆られるも、あたしは悪くない、と思い直す。
悪いのはタイガー以外が見ると死の宣告でもされたみたいなショック状態になる、この高須竜児のキス顔だ。

「なんなのよ……何なの、この顔は……ふざけ……ないでよっ!」

隣で運転手が怪訝そうに見てるけど、そんなものは無視。憤りを全て通話ボタンにぶつける。
ミシッ―― とタイガーの携帯が悲鳴を上げたようだけど、隣の運転手がビクっと動いたようだけど全て無視。

トゥルルル―― トゥルルル―― 

視線をダッシュボードの時計に向ける。現在時刻は12:03……出てよ、高須くん……

トゥルルル―― トゥルルル―― ガチャ――


――出た!!!

「あっ、た……たか……」
「はいっは〜い、竜児パパでちゅよ〜大河ママはどうちまちたか〜?」
「ぶっ!!!」

と、今度は鼻水が出そうになる。しゃべりかけで空気が上手いこと口から出てくれなかったからだ。
隣の運転手がチラチラとこちらを伺ってる。
ちっ……いいから前を見ろよおめーはよぉ!?

「た……高須…………くん?」
「いつもより早いでしゅね〜?おう?わ〜かったぞぉ! きっ……」
「いつまでやってんだオラ―――っ!!!」

ビックゥーっと運転手が反応した。
僅かにハンドル操作が怪しくなったが、そこはプロ。すぐに安定した。
っていうか、事故ったりしたら亜美ちゃんが殺してやるからね?と絶対零度の視線を送り付ける。

「うおおう!? だっ! 誰だ!?」
「あたしよ、あ・た・し。分からない?」
「えっと……し、失礼ですが、大河とどういう……?」
「あーっもう! こんな事やってる場合じゃないんだって!
 亜美よ、川嶋亜美。亜美ちゃんね、分かる?そんな事よりタイガーが……」
「え?川嶋?あぁ、そういえば今日遊びに来るって言ってたな。
 っつーかさっきの……聞いちまったよな?いや待て……大河?大河がどうした?」

お互いが好き放題に言い合って混線状態。まるで意味不明になる。

「だから、タイガーが大変なの!」
「なに?どうした?何があった、川嶋!?」

甘ったるい声から懐かしむ声、いぶかしむ声と、一声ごとに声色を変えていく。
まずは……まずは落ち着こう。そして高須君にも落ち着いてもらおう。

「あのね、高須君。よく聞いて、冷静になって聞いてね?」
「おう……で、大河がどうしたんだ?」
「さっきお昼ご飯の用意をしている途中で、その、急にお腹が痛み出したみたいでね……」
「なにっ!? そ、それで今、大河は?」
「だから、最後まで聞いてよ!」
「……す、すまねぇ」

高須君の気持ちは分かる。だからこそ、あたしが高須君の何倍も冷静にならないと……

「それで救急車を呼んだの。今みんなで乗って病院に向かってる」
「……なるほど……で、どんな状態なんだ?もしかして……」
「そう。始まった……みたい」
「マジかよ!!!!!」

と、突然大声を出された。キーンと耳鳴りがするのを我慢して話を続ける。

「……っつぅ……うん、救急隊の人がそう言ってたし、破水してるみたいだったから、間違いないと思う」
「だって……まだ一週間も先だし……なんで急に……何でだ……?」
「そんなのあたしだって分からないよ。だけどすっごい痛そうだし、お医者さんに診てもらうしかないでしょ?」
「そりゃそうだけど……なんで大河がそんな目に会わなきゃならねえんだよ……」
「高須君……」

呆然といった感じで独り言みたいに呟いている。
そんなの……あたしだってそう思ってるわよ……なんであの子がって……

「何でだよ、ちくしょう! 二人してあれだけ気を使って、負担だってなるべく減らしてやって……それなのに」
「しょうがないじゃない! あんたが生きてきた中でうまくいかないことなんて腐るほどあったでしょ!?」
「そりゃ……確かに……そうだけど……けどよぉ!」
「いーい、高須君?あんたがどれだけ大事にあの子を包んであげてたとしたって、何が起こるかなんて誰にも分からないのよ?」
「大河……すげえ怖がってた、痛いの嫌いとかガキみてぇな事言うしよ……」
「…………」

その言葉を聞いて、さっきのタイガーの顔が浮かんでくる。
三人で楽しく話してた中で、怖いよ……と言った時くらいしか暗い顔はしなかった。
高須君の悲しそうな声に勢いを削がれて黙り込んでしまっていると、ハッとしたように尋ねてくる。

「そうだ……竜河は?……いや……お腹の子は平気なのか!?」
「わ…………分からないよ……高須君……」
「川嶋は見てたんじゃなかったのか?一体どうなってるんだよ!?」

余裕が無いからだろうか、あまり聞いた事がないくらい強い口調で問われる。

「落ち着いて! あんた落ち着きなさいって!
 あたしに文句垂れる前に、現実を嘆く前にあんたにはやることがあるでしょ!?」
「あ……あぁ、そうだな。そうだ……電話なんかしてる場合じゃねえ、すぐに向かわないと!」
「大橋総合病院ね。駅よりこっち側……えっと、あんたらの家の方ね、間違わないでよ?」
「おう、そこなら分かる……っ、……」

そう言った後に僅かに息が弾む。
受話器の部分が擦れる音が聞こえてきて走り出したんだと分かる。

「……早く来て、高須君。あの子ずっとあんたの事呼んでた……だから、早く来て!」
「分かった! すぐに行く! すぐに行くからな!!!」
「慌てないでよ?事故ったりしないでよ?もうじき病院に着くから、お医者さんもいるから大丈夫だから、ね?」
「おうっ!」
「タクシーがベターだよ?あんたが運転しちゃあぶな……」

ブツッ――

「………………」

……大丈夫だろうか?いくら緊急事態とはいえ、余りにも落ち着きを失っていたような気がする。

「あの……そろそろです。救急搬入口から……」
「……はい」


◇ ◇ ◇


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