停車と同時に助手席のドアを開ける。後ろのドアもほぼ同時に開いたみたい。
携帯を持ったまま小走りに駆け寄り、タイガーと実乃梨ちゃんが出てくるのを見守る。

「うぐ……ううっ……はぁ……はぁ……」
「大河、病院着いたからね、あと少しだよ!」
「よし、進むぞ」

と言って救急隊員がストレッチャーの前後に付いて進んでいく。
裏口みたいな所から病院の中に入り、ほんの少し進んでから暗い通路の方に右折した。
実乃梨ちゃんは変わらずタイガーの手を握って話しかけていたけど、
待機していたお医者さんに呼ばれたみたいで二人で後方に下がって話している。
あたしは置いて行かれないように急ぎ足で進みながらタイガーの横に立って話しかけた。

「あんた……大丈夫?」
「う、うん……はぁ……はぁ……ねぇ……ばかちー……んんっ!」

そう言いながらフラフラとあたしの方に手を伸ばしてくる。
その手が余りにも弱々しく見えて……見てらんなくて、

「なに?」

と返事をしてその手を握る。

「……っ、…………りゅ、竜児……りゅう……じ……は?……ううっ!」
「うん。高須君、呼んだよ」
「そ……う…………うあああっ! ぐっ……ふぅ……ふぅ……んんっ!」

タイガーに痛みが走る度に、握られた手がぎゅううっと締め付けられる。
それは握りつぶされそうなくらい強い力で思わず顔をしかめてしまう。

「……っつぅ!?…………ちょっと、本当に大丈夫?」
「うん……うん…………竜児……なん……ぐっ!……はぁ……はぁ……なんて……?」

汗びっしょりになった顔で、必死に目を開けてあたしの方を見ている。
あたしには想像も付かない痛みと闘ってるはずなのに、泣き出しそうな瞳の奥には痛みよりも不安が宿る。
今にも消え入りそうな声とその視線に抉られたように胸が痛む。

「あ、あんた……そんな顔しないでよ……高須君、すぐ来るって、急いで来るって言ってたから!」
「……うん……はぁ……っ!……ありがと…………ふっ……りゅう……じぃ……」
「だ、だからあと少しだよ!? ね、タイガー頑張って!」
「怖い……よ……ばかちー……ううっ!…………一人は怖い……」
「し……しっかりしな! すぐに高須君が来るから! こんなんで負けんじゃないよ!?」

沈んでいきそうな己の気持ちに鞭を打ち、弱気になってるタイガーに檄を飛ばす。

「何よ……くっ…………優しく……ないん、だから……ふぅ……ふぅ……」
「そんだけ軽口叩けりゃ全然大丈夫だよ。あたしじゃなくて高須君に優しくしてもらいな」

自ら口にしたその言葉が真実になって、タイガーが少しでも楽になってくれるように祈るけど、

「んっ!……――――――っ!!!」

大きな痛みの波が来たみたいで、声も出せずに歯をくいしばるタイガー。

「…………くっ!」

万力にでも挟まれたかのようにあたしの拳がギリギリと悲鳴を上げる。
指の根元の骨がその隣の骨と擦れあう音が聞こえてきて指がバカになりそうだ。
あたしの右手がそのまま握りつぶされないように、とにかく必死になってタイガーの手を握り返した。

「ちょ……ちょっと、タイガー!?」
「――っ! ……はぁっ……はぁっ……っ……」
「……すみませんが……そろそろ離れて下さい。急ぎます」
「あ……は、はい……」

ストレッチャーを押してる隊員があたしに話しかける。
いつの間にかタイガーを挟んだ反対側にはさっきのお医者さんと実乃梨ちゃんが戻って来ていた。

「大河、頑張って!」
「ふぅ……っ……はぁ……はぁ…………うっ……うん…………」

実乃梨ちゃんにそう言って、もう一度こちらを見るタイガーに目配せをする。
頑張れ、と口だけ動かすと、それに応えるように微かに頷いたのが分かった。

「……第3に運んでくれ」
「分かりました……おい」
「ハイ!」

と声を掛け合って、先ほどのお医者さんと救急隊員が急ぎ足、ほとんど駆け足でストレッチャーを押していく。
その後ろで実乃梨ちゃんと並び、追いかけようとした矢先に隊員の人に声を掛けられた。

「あなた方はそこで曲がって下さーい! 明るい通路に出たら右折して突き当たりに産科がありますのでー!」
「…………」
「………………」

はやる気持ちを抑え、言われた通りに早歩きで進むとすぐに明るくなって来た。
右折したところは産婦人科の外来になっていて、ちらほらと患者さんも見える。
さっきの通路は関係者用、もしくは救急用の通路だろうか……そんな事を思いながら進んでいくと、
突き当たりの壁に沿って左から準備室、分娩室、ナースステーションとプレートが掛かっている。

「ここ……だよね?」
「うん。ここしかないよね……」

そう言ったところでガラスの向こうに人影が見えてハッとする。
実乃梨ちゃんも同じらしく食い入るように室内を見るが、それは看護士さんだった。

分娩室と書かれた部屋の廊下側はガラス貼りになっていて室内は見渡せる。
けれど、まさか廊下を行き交う人に見せるわけにはいかないのだろう。
その大きな部屋の中には通路があって、そこから更に中の部屋に入れるようになっているみたい。

「第3って言ってたよね……」
「うん……あっ!」

その看護士さんが個室のドアを開けて中に入ると、入れ替わるように先ほどの救急隊員の人が出て来た。
思わず個室の中を覗き込むが、よく分からない機器が見えるだけでタイガーは見えない……ま、当然か。
隊員の人はこちらに気付いたみたいで、軽く目礼をしてナースステーション側に歩いて行った。

「ここで間違いないみたいだね」
「うん……タイガー大丈夫かな……」
「それなんだけどさ、あーみん。さっき先生と話したんだけどね……」

と、実乃梨ちゃんが話し始める。
どうやらこの病院の先生がタイガーの罹りつけの先生に連絡を取ったらしい。
話を聞いた限りだと、これまでの経過に怪しいところがあったわけではないので心配しないようにと言われたらしい。

「……って、心配するなって言うけど、あんなに痛がってるのに?本当に大丈夫なわけ?」
「私もそう言ったよ、『予定よりも早いし、急に苦しみだしたのは何でですか?』ってね」
「そしたら……?」
「『それはこれから診ますので何とも言えませんが……胎児の姿勢が悪いとか、多分そのくらいの事でしょう』ってさ」
「はぁ?何その医者……ヤブなんじゃねーの?」
「ま、まぁまぁ……あーみん、ここでそんな大きい声出さないで……」

思ったより大きな声を出していたらしい。廊下にいる妊婦さんがこちらを見る眼差しが突き刺さる。

「ごめ……」
「それで……『顔色も悪くないしおかしな痛がり方というわけでもなさそうですので』って」
「……なるほど」
「『聞いてたよりも随分と小柄なんで痛い事は痛いでしょうがね、ははは』って笑ってたから睨み付けてやったさ!」
「それナイス! っつーか、真剣にやってもらわないと困るっつーの!」

実乃梨ちゃんに親指を立ててグッジョブサインを送る。
それを見て嬉しそうに笑っていた実乃梨ちゃんの顔がすぐに真面目なものに変わっていく。

「毎日見てたらそんなもんじゃないのかな……でも、でもさ、
 お医者さんがなんて言おうとも ……私は大河が心配で心配でしょうがないんだ……」

そう言ってガラスに手を付き、タイガーが運び込まれた部屋を見つめる。

「ビックリした……なんてもんじゃなかったね……ほんっと、どうなる事かと……」
「……あーみんごめんよ。私はずっと大河に付きっ切りで何も出来なかった……そのバックも……」

と言いながら、あたしが肩にかけているエコバックを見る。

「ううん。実乃梨ちゃんがタイガーに付いててくれたからこそ、あたしは動けたんだし」
「いやいやいや……本当に、目の前しか見えなくなっちゃうんだね……ああいう時ってさ……」
「うん……そうだね……」
「そんな時でも周りを見られるあーみん大先生はやっぱり流石ですなぁ〜」

ニカッと笑いながらこちらを見るので、あたしも苦笑い。張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
室内に目をやって実乃梨ちゃんと同じようにガラスに手を付いたところで、

「痛っ!?」

と声が出てしまう。
思い出したかのようにジンジンとうずく様な痛みを感じ始めた。
よく見ると、さっきタイガーに握りつぶされそうになった手が真っ赤になっている。

「ん?どした?」
「あ……さっき……」
「あらら、あーみんもやられちゃったかー」

すぐに察したみたいに顔をしかめて見せ、「ほら、私も」と、自分の左手を広げて見せてくれた。

「うっわ!? 実乃梨ちゃんもすごい事になってるね」
「うん。おれっちは救急車の中でずっと手を握ってたからね……」
「あいつ……馬鹿力にも程があるっつーの……」

憎まれ口を叩いてはみるが、本気でそう思ってるわけじゃない。
それで少しでもタイガーが楽になるのなら別に構わないと思う。
まぁ本当に握りつぶされたら洒落にならないけど……ね。

「ほんと、気を抜くとやられちゃいそうだったからさ、不詳この櫛枝も力の限り頑張らせて頂きました!」
「えっ……と……どういうこと?」
「いやさ……大河がね、苦しいのが……すげーすげー伝わってきてさ……負けてらんねえって思ったの」
「……うん」
「その……なんつーか……大河が握る力に負けてらんねえ……ってんじゃなくってさ、
 痛い、とか、苦しいって気持ちが伝わってきて……その気持ちに負けちゃいけないって、
 大河に分かって欲しくて、負けるなって励ましてやりたくて……
 だから私は……思いっきり大河の手を握り締めてたんだ」

自分の手の平を開いたり閉じたりしながら、ゆっくりゆっくり噛み締めるように語ってくれた。
――あたしはそんなに色々なものを込めてたわけじゃない……と反射的に思った。
ただ……必死になって手を伸ばしてる人がいたら、そしてそれが大切な人なら尚更……ほっとけるわけないじゃん、と。

「………………」
「いやだね、あーみん。そんなに見つめないでおくれよ、照れるぜー」

じっと実乃梨ちゃんを見ていたら、そんな事を言いながら照れ笑いされた。

「いやぁ、上腕二頭筋が思いのほか鍛えられてラッキーだったよ?あ、あと握力も付いた気がするぜ!」

と言いながら拳を作るけど、やっぱりその手は見ているだけで痛そうだ。
それにしても……相変わらず……実乃梨ちゃんって……

「ほんっと、誤魔化すのがヘタすぎて笑えるんですけどぉ?」
「ありゃりゃ……たははは…………まぁまぁ、細かい事はいいんだよー」
「あっははは! ホントうけるよー!」

などと笑いあう。こんな時に不謹慎だけど、ずっと緊張しっぱなしじゃとても持たない。
これから……だもんね。まだまだ……これからが長いんだから。

「そういえば高須君……何だって?すぐ来るって?」
「あぁ……うん。あいつ、すっげー慌ててたから亜美ちゃん心配だよ……マジで……」

あれから何分経っただろう、もう近くまで来てるのかな?
つっても、そもそも高須君の職場どこか知らないし……分かるはずもない。

「そっか……んまぁ高須君ならすぐに飛んでくるよね?」
「そりゃね。あんだけ……」
「ん?」
「あ……ううん…………何でもない」

取り乱してたら……という台詞を飲み込んだ。
そう、高須君は慌ててるなんてもんじゃなかった、あたしの話の仕方が悪かったんだろうか……?
そんなことを実乃梨ちゃんが聞いたらきっと不安がる。あたしの心にしまっておこう。

「……あっちの、準備室ってところに行く?」

いつまでもここで立ち話してるのも邪魔だろう。
準備室と書いてある部屋は待合室のようでもあるし、椅子もあるだろうからそう言ってみたけど、

「ううん……ここのが大河に近い……私はここにいるよ……」

思い詰めたように呟いてタイガーのいる部屋を見つめている。
それはとても実乃梨ちゃんらしい選択だと思えた。

――それじゃ、あたしはあたしらしいことを……しようか……

「……うん、分かった。あたしはちょっと受付の方に言っておくね。
 怖い顔した男の人が来たら、第1……じゃない第3分娩室まで案内して下さいって」
「そいつぁいいね。何も言っておかないと一悶着ありそうだしねぇ」
「でっしょぉ?」
「……早く……来て欲しいね、高須君に」
「……うん。それじゃ行ってくるね」

ややしんみりした雰囲気を振り払うように明るく言って歩き出した。
少し進んでから振り返ると、実乃梨ちゃんは両手を組み合わせるようにして俯いていた。

そう……傍にいてあげられないあたしたちには……祈ることしか……出来ない。

産科の外来の前を通る。さっきはこの先で曲がったけど、今度はまっすぐ明るい通路を進んでいく。
所々ロビーのように広がっているところは小児科や内科の受付だったりして外来の患者さんも多い。
なるほど、この通路をストレッチャーに乗った患者が行き来するのはちょっと無理があるよね、と納得する。
かなり太いその廊下を進んでいくと十字路に出た。左右を見渡すと左手には先ほど入ってきた救急搬入口。
それじゃ受付は反対だよね、と右側を見ると、結構遠くの方にそれらしき一角と大きなドアが見えた。

亜美ちゃん冴えてる〜と半ば無理やり自分を褒めながら正面入り口とおぼしき方に歩き出すと、
向かいから来た男性があたしの顔を見るなり、

「あっ……川嶋亜美だ……」

と呟いてるのが聞こえてきた。
はん、あたしの顔もようやく世間様に広まってきたわね……なんてことは少ししか思わない。
……こういうのウザい。
今日はタイガーの家にしか寄るつもりが無かったから、顔を隠すものを何も持ってなかった。
あちゃー失敗したと思っても後の祭りだ。なるべく気付かれないように大人しくしておこう……

顔を伏せて歩きながら不自然に見えないようにエコバックを漁るようにしてると、タイガーの携帯が目に付いた。

「そうだ…………」

と呟く。タイガーの家族にも知らせなきゃ……早く知らせないといけないよね!?

入り口のドアを入ってすぐの所にある受付には女性が立っていたけど、それは後回しだ。
せかせかと受付の横を通り抜け外に出た。


◇ ◇ ◇


天気は快晴。雲ひとつ無い青空が今はうらめしい。
ロータリーの向こう側に小さな木陰を見付けたのでそこを目指しながらタイガーの携帯を開く。

発信履歴のページを見る。竜児……119……竜児……みのりん……ばかちー……

「…………」

やっぱり携帯の名前もこれかと思いながらカーソルを下に進めていくと、『ママ』の文字を見付けた。

ピッ―― トゥルルル―― トゥルルル―― 

タイガーのお母さんか……出会いは最悪だった。五万円を無理やり握らされた苦い思い出が蘇る。
あの時、あたしら五人のガキが到底太刀打ちできない『大人』の象徴みたく立ちはだかった人だけど、
次に会った時にはその変わり様に驚いたものだ。

トゥルルル―― トゥルルル―― 

花嫁とまだ小さい男の子……タイガーの弟を抱えながら、旦那さんと四人で一緒に写真を撮ってたっけ。
竜児君とは後で撮るからどいてどいて……ってな感じで唯我独尊ぶりを発揮していたような……

トゥルルル―― ガチャ――

「はいはい、大河?どうしたの?」
「あっ、いえ。違います。あい……高須大河さんのお母さまでいらっしゃいますか?」
「え?……はい、私がそうですけど……あなたは?」
「川嶋です。川嶋亜美と申します。以前、結婚式でご挨拶したと……」
「あぁ! あのとびきり可愛い子ね。最近テレビか何かで見たわよ、最近忙しいみたいで何よりねぇ」

と、いきなり世間話になってしまう。……そんな場合じゃないってのに。

「あ、あの! それで大河さん……なんですけど……」
「何?あの子がどうしたの?」
「それが、さっき急にお腹が痛くなったってことで……その、救急車を呼んで……」
「あらあら、それは大変だったわね。ごめんなさいね、ご迷惑かけちゃったみたいで」
「い、いえ……それで今病院に着いたんです。で、もうじき生まれそうって、先生が……」
「あら。大分早いのね、確か来週だったと思ったけど……」

……何か違和感がある。このお母さんがやけにのんびりしてるからだ。
世間話の延長って感じで全く焦る気配がない。

「なんかあの子……大河さん、すごく痛そうで……それで心配で……」
「もうお医者さんに診てもらってるんでしょ?」
「え、えぇ……さっき産婦人科の方が……」
「何か言ってた?」
「えっと……ちょっと赤ちゃんの姿勢が良くないのかもとか、何とか……」
「なんだそんなこと。ま、それなら大丈夫そうね」
「ええっ!? で、で、でも…………」

お天気いいわねー洗濯物も乾きそうねー、くらいの軽い感じで言われて自分の耳を疑ってしまう。

「困ったわね、いま会議を途中で抜けて来たのよ。
 ちょっと事情を話してから出るから、そうねぇ……一時間くらい掛かるかしらね。場所はどこ?」
「はい……大河さんの家の近くにある……大橋総合病院ってところで……」
「そうだ。泰子さん……竜児君のお母さんにも連絡しないとね、私の方からしとくけど?」
「あ……はい。お願いします……」

すっかりタイガーママのペースで話が進んでいく。あたしが話に付いていけないなんて滅多に無いのに。

「まったく……あの子には苦労させられたけど……なーんだ、自分の時はすぽーんって生まれそうじゃない」
「…………す……すぽーん?」

と言ったきり絶句してしまう。
この瞬間、あたしはもっと上品に歳を取るんだ、と心に誓った。
そのまま何も言えないでいると、少しの沈黙の後に呼びかけられた。

「川嶋さん?どうしたの?」
「い、いえ……」
「大丈夫よ、あの子、体力と根性だけはあるから。心配してくれてありがとうね」
「……はい」
「傍で見ると初めはビックリしちゃうけどね、そんなもんだから」
「はぁ……」

なんて、思いがけず逆に気遣われてしまう。

「竜児君も当然向かってるんでしょ?」
「はい。さっき電話したので、もうじき着くと思います」
「そう、ほんと助かるわー」
「高須君は、その……ものすごく焦ってたみたいで……」
「ふふふ、目に見えるようね。あの人は心配性だしねぇ……」

何だか高須君が馬鹿にされたみたいに感じられて、ついムッとしてしまう。

「そ、そりゃそうですよ、心配に決まってます。あたしだって……」
「だいじょぶだいじょぶ! 痛いって言ったってそりゃーあなた、産む時は誰だって痛いわけだし?
 今更ビビったって何も変わらないわよ」
「そ、それは……そうですが……」
「私の時なんか半日くらい始まらなくって苦しんだんだもの。
 その調子じゃ私がそっちに着く頃には終わっちゃってそうね。まぁ、出来れば苦労させたくは無いけど……
 『ほら見た事か、私の苦労が分かった?』って言ってやる楽しみが無くなりそう」

と言って朗らかに笑う。
あたしや実乃梨ちゃんや高須君との温度差に頭がクラクラしてきた。

「ま、とにかく向かうから、あなたは落ち着いてるみたいだし、安心して任せられるわ」
「まぁ……」
「あ、そうだ! あなた使えそうだし、芸能界で賞味期限が切れたらウチに来ない?」
「はっ!?」

今の暴言は何?つーか今タイガーが大変だって話をしてなかったっけ?と瞬間的に混乱する。

「私の秘書なんてどう? きっとあなた最高に似合うと思うわよ?こう言っちゃなんだけど、
 私もクールビューティーで通ってるから、あなたとツートップなら華があっていいわよね?」
「い、いや……今はそんな事より……」
「ふふっ、それもそうね、ごめんなさい。それじゃまた後で」

ピッ――

言いたい放題でこちらが面食らってる内に電話まで切られた。
何だったんだろう今の電話は……と呆然と携帯を見つめてしまう。

しかし……つい数年前、高齢出産を経験したとは聞いてたけど、余りにもあっけらかんとしていて拍子抜けした。
あれがおばさんの……いや失礼……経験者の余裕ってやつなのだろうか?
そんなものよーなんて受け流した口調は、投げやりな時のタイガーの口調とそっくりだった。
いやいや……全てにおいて強気で、マイペースで、口が悪くて、少しだけ下品なところまで本当に娘にそっくり。
母は強しってやつ?確かにうちのママにも敵わないと思わされる事が多いけど……
今まで必死になってた分、毒気を抜かれたってわけじゃないけど、
なんて言うか……力が抜けたっていうか……抜けさせられたというか……
確かに本人はすごい痛いだろうけど……いつかは通る道だし、信じて待つのが一番っていうか。
他に何も出来ないし……でも何か出来る事があるんじゃないか、とか……あーもうワケわかんねー!

自動ドアを開けて病院に入る。携帯の電源を切り、ゆっくりと歩きながら物思いに耽る。

『―――毎日見てたらそんなもんじゃないのかな―――』
『―――初めはビックリしちゃうけどね、そんなもんだから―――』

そんなもの。か……その言葉で全てを受け流せたら楽になれるんだろうか?
そんなものさ、と割り切れるようになるのがオトナになるってことなんだろうか?

タイガーの痛そうな様子を見て……高須君の取り乱した声を聞いて……それでも……
そんなもんだしぃ?亜美ちゃん冷静だしぃ?気楽に行こうよーみんなーって……言えるのがオトナ?

確かに仕事はね、芸能界は特に……そんなもの、で受け流して、ジムで汗を流すなり、
お酒の力を借りるなりで、すぐにやってくる明日に備えないとならない。
じゃないと潰れちゃうし、周りも大概そんな感じじゃん?
あたしはもう何年も前からそういう世界で生きてきた。
自分の心を押さえつけて仮面を付けるのなんてお手の物。

そうやって……いつだって冷静に周囲を見渡して、気を使って、結果損な役回りだった事も少なくない。
今日だって、昔みたいに損な役回りだ。
タイガーの家じゃ慌てふためいて準備して、あげく高須君には怒鳴られて……
ほんっと、亜美ちゃんっていいやつ過ぎるんだよねーあはは、と自虐的に笑ってみる。

「………………ふぅ」

認めたくない……わけじゃない。
認めるのがほんの少し恥ずかしいだけ。あたしはあいつらが大切なんだって事を……ね。

苦しんでるタイガーの事も、切々と祈ってる実乃梨ちゃんの事も、
今どうしてるか分からない高須君の事だって、何とかしてあげたいって……思っちゃうんだからしょうがない。
それが損な生き方と言われたって構わない。
それが素のあたしなら……そのあたしで生きてってやるって……とっくに決めてたじゃない。

そんな事をぼんやり考えながら病院の廊下を進んできて、ふと我に返る。
あれ、と周囲を見回した時にはさっきの十字路まで戻って来てしまったようだ。
しまったな……受付の人に高須君の事を話すの忘れちゃった……どうしよう?

――――ん?

「キャー? って……今、聞こえたような……」

左を向いて、右を向いて……後ろを振り返って……その声の発生源らしきものを見付けた。
あたしの視線の先には……受付の子に掴みかからんとばかりに前のめりになって何やら話してる男の姿が。
可哀想に……ここから見ても分かるくらいハッキリと上半身を仰け反らせて、こっちの方を指し示しているようだ。

――――あれは。


◇ ◇ ◇


亜美ちゃん勘がいいから……多分そう。あれは高須君。
顔面の迫力だけで人をあそこまで仰け反らせる事が出来るのは高須君くらいしか知らない。
こっちを向いて……歩き出して……って、ちょっと……歩いてるんじゃなくて走ってない?

廊下にあまり人はいないけど、その走ってる姿を見た患者さん達がビックリして飛び退くのが見える。
まだあたしの所からは良く見えないけれど、身体が上下に揺れているしスーツらしきものが風で広がってる。

何となく見覚えがある……あの走る姿。やっぱり高須君だ。
段々と近づいてくるその顔はやっぱり昔のままで、えらく蒼白い瞳だけが浮かび上がって光を放ってるみたい。
ここからでもそう見えるんだ、そんな男がダッシュで迫ってきたらさぞや怖いだろう、なんて他人事のように思う。

――でも。

でもさ、高須君って、もうちょっと常識人だと思ってたけど?病院で走るなんて全然らしくない。
規律、調和、礼儀、そんな言葉に忠実に生きて来たんじゃなかったっけ?

カッカッ―カッカッ―カッカッ―と遠くから段々と足音が響いてくる。

やや上を向いてるのは天井から下がってる案内プレートを見てるからか、あたしに気付いてるのかどうかも怪しい。
最近の流行とは言え、太めのストライプラインが入ったダークグレーのスーツを身に纏う高須君はどこから見てもヤクザにしか見えない。
真っ白なシャツの上にあるべきネクタイはどこかに捨ててきたのだろうか?
むしり取られたみたいに襟元が乱れていて凄みが増している。

「…… …… ……」

口元が動いてるけど何を言ってるのか聞き取れない。
その顔には焦りが浮かんでて、ギラリと光る一睨みで誰かの心臓を止められそうなくらいに怖くて……
いや……あれは……怖いんじゃないんだ、きっと知らない人には分からないだろうけど、あれはすごく真剣なんだ。
足がもつれそうになりながら、それでも止まる事なく己が向かう先を必死で探しているように見えた。

――あぁ、そうか。

タイガーの事になると、見境無しっつーか、ルール無視っつーか、あの子の事しか見えなくなっちゃうんだね。
らしくない、なんて亜美ちゃん大間違い。なんの事はない、こいつも相変わらずバカだって事か。
そう気付いて、ふっと軽くため息を付いて手を上げる。

「おーい、高須くー……」
「!?」

あたしに気付いた高須君の顔付きが変わった。

「か――――――――わ―――――
「……いいっ!?」

閃光のような鋭い視線があたしを貫く。
グンと強く踏み込んでスピードが上がった。
えぇ?普通逆だろ!? と思う間もなく距離が詰まる。

―――――し――――――――まぁぁぁぁぁぁああああああ!!!」

咆哮の余韻も無く眼前。
ぶつかる! と思わず目を瞑りそうになる。
次いでキュキュキュと革靴と床が擦れる嫌な音。
迫り来る凶眼に射抜かれたまま身動きが出来ないあたしの両肩を乱暴に掴んで、

「大河は!? 大河はどこだ!!!」

言葉ごと突き刺さりそうな勢いで叫んだ。

「た、高須……くん…………あぶな……」

止まりきれない高須君に掴まれたまま後ろに数歩。
勢いが付きすぎて一瞬フワリと宙に浮く。
その浮遊感に恐怖を覚えて、きゃっ、と小さく声を上げてしまう。

「あいつは大丈夫なのか!? どこに行けばいいんだ!?」

そんなあたしに構いもせず更に叫ぶ。
両肩が痛い。右足のヒールも脱げた。
間近で見た高須君の目は、相変わらず怖かったけど……でも、あたしを見つめる瞳の中は不安で溢れていた。

その眼差しを……かつて自分が焦がれた真っ直ぐな眼差しを受け止めながら思う。
――そう……普通こうだよね。
どうしたって心配で、必死になって、頑張っちゃうよね……ま、こいつはやりすぎだけど。

「あ……あんた落ち着きなよ……あの子は大丈夫、だから走ったら……」
「どこだ――――――っ!!!」
「――っ!」

有無を言わさぬその声に気圧されたのか、その瞳に気圧されたのか分からない。
だけど、それ以上何も言えなくなって、あたしは右手で通路の先を指して教えてあげた。
この先にタイガーがいるよ……って。

「分かったっ!」

あたしを捉えていた視線が、瞳が右側に逸らされる。
ギョロリと黒目が大きく動き、私が指差した通路の先に向けられた。
それと同時に両肩が僅かに沈み込み、上半身がそちらに向けられ、やや前のめりの姿勢になる。
スローモーションのように一つ一つの動作を目で追いながら、いつの間にか高須君の両手はあたしの肩から離れていて。
視界から消えそうになる高須君の方を見ようと首をひねって、そこでようやく背中しか見えない高須君が走り出してる事に気付いた。

「ちょ……だから……」

だから病院だってのに! 危ないって言おうとしてんのに!
まったく。いつもこうだ。ずっとこうだった。
亜美ちゃんがいくら気を使ってやっても、いくら教えてやろうとしても、全然聞いちゃいない。

とっさに足元に視線を走らせ、脱げてしまったヒールの位置を確認する。
もう片方の足を蹴り出すようにして自ら脱ぎ、瞬間的に屈んでヒールを両手で掴んだ。

「だから走るんじゃねーってのぉ――――っ!」

その屈んだ体勢から斜め右方向にクラウチングスタート。
裸足にリノリウムの床は思いのほか相性が良かったし、ジムで鍛えた足腰に不安も無かったが、

「たいがぁ――――――――――っ!!!」

傍から見れば奇声としか思えない声を上げて疾走する高須君の背中は遠い。

「たっ……高須くんっ!? ちょっとあんた、まずいってー!」

もはや形振り構っていられないと全力で追い縋ろうとするが、なかなか距離が縮まらない。
デニムの性能限界に挑戦するかのようにストライドを広げてもエコバッグが邪魔で片手しか腕を振れない。

「……くっ!」

後方に流れ去っていく景色に思わず青くなる。本気でここがどこか見えてないって言うの!?
高須君の顔を見てお化けでも見たように固まってしまってる女の子とか、
高須君の顔を見て閻魔様の使いとでも思ったのか両手を合わせて念仏を唱え始めたお婆さんとか、
高須君の顔を見て殺されると勘違いして悲鳴を上げながら尻もちを付いたり逃げようしてる人たちが、

「あんたは本当の本気で見えてないの!?」

……まずい、まずいよ!
誰かにぶつかって事故らないとも限らない。
そうならなくたって警備員にでも取り押さえられたらあの子のところに行って上げられないじゃん? 

「すいません! どいて……どいてくれっ!」
「おーいっ! 聞いてんのかよ――っ!?」

このまま分娩室にでも突撃されたら大ごとだ。こいつはすっかり冷静さを失ってる。
取り上げようとする助産婦さんやら看護士さんがあの顔を見たら失神してもおかしくはない。

「うおおおおおおおぉ!」
「待てよおおおおおぉ!」

産婦人科が近付いてきたのか、妊婦さんがちらほらと目に付く。
タイガーくらいにお腹が大きくなった妊婦さんが目をまん丸にして立ち尽くしてるのが見える。
ビックリした拍子に産まれちゃったりしないでよ、と祈る祈る祈る! 祈りながら叫ぶ!

「こ、のっ…………止まれっての! 止まって――――っ!」

廊下のど真ん中をスーツをはためかせて駆け抜けるヤクザと、それを必死の形相で追いかけるあたし。
振り返れば廊下にいる全員がこちらを見てるだろう。看護士さんや先生が追いかけて来る可能性もある。
あーもう! 亜美ちゃん厄介ごとなんか超勘弁なんですけどぉ!?

――その時、廊下の突き当たりが見えてきた。
さっきと同じように俯いて祈っている赤い髪が目に入って、

「みっ、実乃梨ちゃ――――ん!!!」

息が詰まりそうになりながらも懸命に大声を出す。
弾かれたように実乃梨ちゃんがこっちを向いた。

「……っ! た、たか……す……?」
「止めて! そのバカを止めて、実乃梨ちゃん! 早くぅ――――っ!」

高須君の目にはかつての想い人が映っているんだろうか?
そんなことを思いながら走り出す実乃梨ちゃんを見る。
ホームスチールを狙うように姿勢を低くしてこちらに向かって飛び出して来た。

「ここかっ!? 大河……大河は!?」

分娩室のプレートを見つけて少しスピードが緩んだが、それでも止まらない高須君に、

「ちょおっと待ったぁ――っ! どっせ――――い!!!」
「うおおおう!?」

実乃梨ちゃんが身体を張ったタックルでぶち当たった。
実際には腰にしがみつくように飛び掛っても止まらずに高須君に少し引きずられてる。
よろめいた高須君が何事だ?と下を向いて、キッと見上げた実乃梨ちゃんの視線とぶつかった。

「止まって! 止まってよ高須君!」
「くし……えだ……?」
「高須君、落ち着いて! 大河はそこだよ、大丈夫だから落ち着いて!」
「はぁ……はぁ……ったく、あんた少し落ち着きなよ……はぁ……」

小走りに駆け寄りながら声を掛けると、高須君は少しだけ自分を取り戻したようだ。

「おう……すまねぇ……二人とも……」
「さっき、その部屋に入ったばかりだよ。それから動きは無いし、何かあったら知らせてくれるはず。だから、落ち着いてね、高須君」
「あ……あぁ……」

周囲のざわつきを極力気にしないようにしてあたしも話しかける。

「ほんっと、あんた変わってない。あたしの話ぜんっぜん聞かねーし、何よりバカだし、ほんと付き合ってらんねー」
「バカっておまえ……」
「まぁまぁあーみん。高須君の気持ちも分かってやってくれよ」
「そりゃそうだけど……みのりちゃんも大丈夫?すんごい音してたよ?」
「おう……そうだ……すごい衝撃だったぞ、櫛枝。大丈夫か?」
「こんなの全然楽勝だぜ、現役をなめてもらっちゃーこまるね、二人とも」

と、Vサインを突き出して笑う。何故か親指まで立ってるのは謎だが……
ゴツゥ!ってな感じで骨に響きそうなぶつかり合いを経てもこの余裕。
筋肉バカも健在で亜美ちゃん心配して損したなんて思ってると、

「それじゃ、私、看護士さん呼んでくるね。このままじゃ中に入れないし」
「あ、うん。それじゃあたしたちは待合室にいるね」
「あいよ!」

実乃梨ちゃんと頷きあい、高須君を促そうとしたその時、

「おい、そこの人!」

と男性の声が聞こえた。
あん?と腹黒本性丸出し、ダークサイド亜美の一睨みで追い払ってやろうと振り返った。
ところが、白衣の男性と濃紺の制服と帽子が見えたので急遽方針変更、きゃぴるん☆って感じの顔を作る。

「は……はぁい?なんですかぁ?うふっ」
「おまえじゃない、そこのヤクザみたいな男だ。病院の中で一体何やってるんだ?」
「え……あ……す、すみません」

厄介なのが来た……おそらくどこかの医者と警備員。
初老の警備員らしき男性におまえ呼ばわりされ目元がヒク付きそうになるがぐっと堪える。

「すまないじゃないよ。患者にぶつかったらどうするんだ?ちょっとこっち来い!」

と、白衣の男性が高須君に詰め寄る。悪い予感は当たるってやつか。

「あ、ごめんなさぁい、ちょっとこの人あわてんぼさんでぇ。本人には良く言い聞かせますのでぇ〜」

と、両手を合わせて拝み倒しスタイル。片目を可愛くウィンクさせながら間に入る。

「えっ……何なんだあんたは…………ああっ!? ま、まぁ…………」
「ほんっとーにごめんなさい。あたしが責任持ってもう二度とこんな真似させませんからぁ〜」
「そ、そこまで言うなら……その、知らない顔でも無いみたいだし……」
「ほんとですかぁ?やだぁ〜ありがとうございますぅ!」

どうやらメディアに出ているあたしを知ってる人だったみたい。若い先生で良かった。
こんな時にうぜーんだよという気持ちをひた隠し丸め込めようとした時、

「そういう問題じゃないだろ、先生?こんな強面の男とその連れなんざ信用したって無駄無駄」

と、初老の警備員が割って入ってきた。
高須君が横でぐっと喉を詰まらせたのが分かる。
苦々しげに俯いてしまったその内情は計り知れないけど、今はその偏見を解いている場合じゃない。

「えっとぉ……亜美ちゃんこう見えても約束はしっかり守りますよぉ?だからお願いします、この通りっ!」
「ふん! 迷惑掛けたらちゃんと謝るのが筋なんだよ。おら、分かったらこっち来い!」
「えっ?……い、いや、待って下さい。ちょ、ちょっと……」

そう言いながら高須君の腕を掴んで引っ張って行こうとする。

「高須君に何すんだっ!!!」

そこに後ろから突っ込んで来たのは実乃梨ちゃん。高須君の腕を掴む警備員の腕を掴んで睨みつける。
警備員も負けじと睨み返し、一瞬にしてその場の空気が緊張する。

「お、おい……櫛枝……」
「高須君はここにいなきゃダメ! 大河のところに行ってあげなきゃダメ!」
「なんだぁ?気の強い女もいたもんだなぁ、えぇおい!?」
「なにぃ!?」

どちらも引かない。正に一触即発。
……こんなことしてる場合じゃない。
本当に本当に……こんなことをしている場合じゃないのに!

「あの! ……聞いてください。お願いします。実乃梨ちゃんは手を放して……」
「あ……う、うん……」

顔から笑みを全て引っぺがす。目にぎゅっと力を込めて警備員の前に進む。

「この人の子供……もうじき生まれそうなんです、さっき急患で運ばれてきて、とても心配してるんです」
「んん? そういう事なら、分からないでも無いが……でもなぁ……」
「……後で必ず謝りに行きます。あたしが必ず行かせます! でも今は……」

そこで区切り、真摯な目で警備員を見つめる。
演技派で売ってるから、とかそんなの全然関係ない。
こんなことで高須君が連れてかれちゃったら……あたし、タイガーに合わす顔が無い。

「どうか、お願いします…………お願いします!」

腹から声を出して最敬礼。もっと深くだ。そのまま微動だにせず頭を下げ続ける。

「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
「む……まぁ、そこまで言うなら……」
「そうですよ……事情があったんだし、後で来てもらえばいいじゃないですか……」

こんなあたしは格好悪いだろうか?あたしらしくないだろうか?
自身に問いかけてすぐに止める。そんなのはどうでもいい。

「……分かったよ。こっちも仕事なんだから、後でちゃんと来てもらわないとな」
「ま、まぁ次からは気をつけて下さいね?あなたも頭を上げて……」

若い先生に促され頭を上げ、それでも愛想笑いなんか微塵も見せずに目の前の二人を見る。
とりあえず怒りが収まってるようで一安心し、そこから二言三言みんなで謝罪してお引取り頂いた。

「…………ふーっ……危ない危ないっとぉ……」
「あーみん……」
「川嶋……その…………」

引き返していく男性二人から目を逸らして振り返る。
高須君も実乃梨ちゃんも心配そうな暗い顔をしていて、むしろあたしの方がビックリだよ、なんて思う。

「ほーら、実乃梨ちゃんは看護士さん呼んで来るんでしょ?お願いねっ」

だから、そんな雰囲気を自ら壊すようにニッコリ笑ってお願いする。

「あ……うん、分かった。すぐ呼んでくるね!」

あたしの気持ちを汲んでくれたのか、明るくそう言って早歩きでナースステーションに向かっていく。

「…………ほら……いくよ、高須君」
「お、おう……」

高須君の表情は複雑なものが絡み合ってるみたいでよく分からない。
タイガーの事が気掛かりなのかさっきの二人がいた時にもちらちらと後ろを振り返っていたし今も落ち着きが無い。

「早く……こっちだよ」
「…………」

準備室のドアに手を掛けて振り返ると、まだ何かを気にしているみたく口ごもっている。

「……何?」
「あのさ……俺のせい……なのに、おまえに謝ってもらっちまって……悪かったな……」
「気にしないで。あれが一番早いと思ったからそうしただけ」
「でもよ……」

それでも気まずそうにしている高須君を無理やり準備室に押し込みドアを閉める。
部屋の中には長距離バスの待合所みたく長椅子が並んでいて、その隣には飾り気の無いベッドもあった。
陣痛の間隔が短くなったらここで待機して、それで隣の分娩室で本番ってことか……よく出来てる。

分娩室に通じるドアのガラス窓からはタイガーがいる部屋もよく見えた。
しかし、それにしても……薄いドア一枚の違いなのに廊下とこの部屋とでは空気が違う。
当事者だけが足を踏み入れられる生命の現場とでも言えばいいのか……

「……ほら、後は実乃梨ちゃんが看護士さん連れて来てくれるから、そしたらタイガーのところへ行けるよ?」
「おう……」
「何よさっきから?冴えないツラしてどーしちゃったわけ?」
「いや、大河のことが心配なのはもちろんだ。今すぐにでもあいつの傍に行ってやりたい。
 けど、おまえから電話もらって、それで俺……真っ白になっちまって、川嶋にも酷い事言っちまったし
 さっきの事もそうだし……なんか呆然としちまってさ、俺はずっとこういう運命なのかって……」

と、さっきとはうって変わって早口で一気にまくしたてる。

「はぁ?意味わかんねーし。っつーか、あんたさぁ……」
「大河は今そこで頑張ってる。そんなのは痛いほど分かるんだ。でも、でも……俺は何やってんだって……
 こんな時に何言ってるんだっておまえは言うだろうけど……でも、そう思っちまうんだ。
 大河に負けないくらい頑張らなきゃならねえのに、出来てねえのが不甲斐ないっつーか……」
「……分かってんなら言うなって。ちゃんと目の前の事だけ……タイガーの事だけ考えて……」
「おまけにプライドの高い川嶋に頭まで下げさせて……ほんと……」

何度も話の腰を折られて、この野郎……と思ってると、高須君はおもむろに頭を下げて、

「すまねぇ」

と一言。それを聞いたあたしは苛立つ。怒りすら覚えるくらいに。

「あ ・ た ・ し」

大きな声を出して目を眇める。頭を上げた高須君をそのまま睨みつけながら、

「今は『女優』の川嶋亜美じゃねーし?今はそんなプライドなんかどーでもいいし?
 あたしはあんたと違って、何が大事か、何が大切か、見失ったりしない。間違ったりしない。
 とっくの昔にそう決めてるの! あの時あたしはあたしの大事なもののために頭を下げた。
 確かに高須君が原因かもしれないけど、それをあんたに謝ってもらいたくなんかない!」

声を荒げてすぐに後悔の念が押し寄せてくる。
高須君を励まして送り出さなきゃいけないのに、何やってんだあたしは。

「……そう……だな……すげえよな、川嶋は」
「………………」
「また助けられちまった…………何だ、その……ありがとな」

こいつは……この男は……相変わらず甘ちゃんで、情けなくて、
でも……こんな時なのに……あたしにまで優しくて本当にイヤになる。
だから……こいつがこんなだから……あたしはたまに振り返りたくなるんだ。
今とは違う未来を思い描いてしまうんだ。
それが……どれだけあたしを苛むのか、あんたは知らないくせに……

「でもまぁ?悪いって思ってくれるなら、亜美ちゃんにビンタさせてくんない?」
「はぁ?」
「亜美ちゃんのビンタってプレミア付きそうじゃね?やーん、高須君ちょーラッキーじゃん?」
「……ったく……おまえはよお……」

変わんねえな、とでも言いたげにため息を付かれて苦笑いされる。

「やっと……冴えないツラなりに笑ったね……
 あんた、さっきみたいな顔で行かないでよ、もっとシャンとしなよ。あの子のこと安心させたげなよ」

と、これは静かな声で。
ガチャ―― とドアが開き実乃梨ちゃんが顔を出す。

「すぐ来てくれるって、看護士さん……いやぁ、出払ってて誰もいなくってさ、探し回っちまったよー」
「ほんと?ありがとう」
「あ、あぁ……もうすぐだな。もうすぐ大河のところへ……」

そう言い掛けて緊張の面持ちになる高須君。

「大河を頼むよ、高須君」
「……おう」
「ほら、さっきの全力疾走から色々あったから、大分落ち着いたでしょ?」

二人して気遣うように声を掛けるが、

「あぁ、もう大丈夫……だと思う」
「はぁ!? 何よそれ、しっかりしなさいよね。タイガーは今必死で頑張ってるんだから」
「そうだな。そう……だよな……」

熱しすぎた鉄の塊みたいに突っ走ってきて、さっきの出来事で冷や水を浴びせられたのが原因なのか、
良く分からない自分の甲斐性だか運命というやつに疑問を抱いているのか……それとも、ただ単に初めての経験で臆しているだけなのか。
目の前で凶悪そうな瞳をギラつかせて、落ち着き無くウロウロしているこの男の気持ちが分からない。

実乃梨ちゃんがそんな高須君を見かねたのか肩を叩いて励ます。

「付き添い、頑張るんだぜ、高須君!」
「……おう、櫛枝もサンキューな」
「なぁにビビっちゃってんのよ、さっきの勢いはどうしたの高須君?」
「いや……実を言うと、何にも考えてなくて……いや……考えられなくって、ここまで来ちまった……」

――ただ……あの子の元に……か。

純粋すぎるのか、バカすぎるのか、あたしには分からないし、それを知ってるのはタイガーだけだろう。
こんな情けない所をあたしらに見せちゃうのも含めて、高須君ってこういう奴だよね……と思う。

「なぁ、女のおまえらなら俺より分かるだろ?こんな時、男はどうすりゃいいんだ?何をしてあげられるんだ?」

眉をひそめた不安そうな顔を見て、うーん。と実乃梨ちゃんと顔を見合わせる。
要は、自分の番だったら……愛する人に何をして欲しいかって、聞かれてるんだよね?
そいつは難しい問題だっつーか、なんつーか……

「簡単なことだよ、高須君。一緒に闘えばいいんだ!」
「えぇ……っと?」
「大河の事、励ましてあげて」
「そうだよ、そこにあんたが居るってだけでも大分違うもんだよ?」
「そういうもんか……?」

と、まだ疑問顔の高須君。
それだけタイガーを想ってても……いや、想ってるからこそ自信がないんだろうか?
だったら……分からないなら、あたしらが分かる事を言ってあげるだけ。

コンコン―― ガチャ――

ノックの意味があるのかどうか分からないくらい間を置かずにドアが開いた。
看護士さんが入ってくるなり素早く室内に視線を走らせて高須君のところで止めた。

「お待たせしました。高須さんのご主人さんで……いらっしゃいますよね?」
「あ……はい、自分です。大河の夫です」
「では、こちらに……」

と、高須君を促すように分娩室の通路に繋がるドアの方へ歩いていく。
左手と左足を同時に出してしまいそうなギクシャクとした動きでその後を付いて行く高須君。 
それを見たあたしたちはどちらからともなく近付いて、

「声を掛けてあげて……タイガーに」
「……お、おう」
「大河の名前を呼んであげて」
「……おう」
「傍にいてあげて、産まれるまでずっと……」
「おう」
「大河の手を……握ってあげて、高須君」
「おう」

聞き慣れたいつもの返事をするたびに顔付きがしっかりしてくる。
ドアの向こうを見据える視線が力を増していく。

「……あの、そろそろよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」

しっかりとした返事に、あたしも実乃梨ちゃんも一安心というところか。

「……高須君っ!」

でも……どうしても言いたくて呼びかけた。

「ん?」
「……どんなにその手が痛くても……離さないであげて……」
「支えて……あげてね……高須君」

あたしは右手の痛みを感じながら、実乃梨ちゃんは……多分、左手の痛みを感じながら、そう言った。

「あんたが……ずっとやって来たこと……だよ。高須君なら出来るでしょ?」

背中を向けていた高須君が肩越しにこちらを振り返り一言。

「当たり前だ」

その瞳に迷いは無く、看護士さんと頷きあってドアの向こうへ……タイガーの元へ歩き出した。


◇ ◇ ◇


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