「さあ、やれ。覚悟は出来てる」
切腹寸前の武士みたいに真剣な表情で竜児は大河に行動を求めた。
「いいの?・・・本当に」
介錯人になった気分で大河は竜児の意思を最終確認。
「かまわねえ・・・」
竜児の決意が固いことを大河は見て取ると、大河はおもむろに手にしたものを竜児の胸へ運んだ。
その直後、竜児は胸全体に広がる灼熱感に身をよじり、歯を食いしばる。
大河の心配そうな瞳に気づいてやることも出来ないまま・・・。

その大河が手にしていたのは刀ならぬ脱脂綿を挟んだピンセット。
そして大河のそばに転がるオキシフルと印字されたプラスチックの小瓶。


ついさっき、竜児と大河はアパート前まで戻って来たものの、竜児は2階を見上げるだけで階段を上がろうとしなかった。
「どうしたの、竜児?」
早く手当てしないと、と大河は途中で寄り道して買った消毒薬なんかが入っている薬局の袋を竜児に突き出す。
そんな大河に竜児は部屋を貸してくれと頼み込んだ。
泰子を心配させたくないからだと理由を告げて・・・。



「悪いな、大河」
大河の家に入るなり、竜児は大河に頭を下げた。
「竜児が悪いんじゃない。だから、謝らないで」
屹っという感じで大河は竜児をにらむ。
これ以上、竜児に謝られたら、大河としては居たたまれないだけである。
「・・・分かった。もう言わねえ」
大河の気持ちが通じたのか、竜児はそれだけ言うとひと言、付け加えた・・・いらないタオル、貸してくれと。
「何に使うの?」
「ああ、傷口の周りを拭くんだ・・・血とか付くから、いらないやつがいい」
「・・・分かった。待ってて」
大河は足音も盛大に家の奥へと走り出す。
そんな大河を見送ると竜児はそのまま洗面所へ足を進めた。
「うわ・・・ひでえな」
鏡を見ながら竜児はひとりつぶやく。
出血は止まっているが、ワイシャツに広がる赤いしみとパックリ裂けた生地。
傷害事件の被害者と言っても通用しそうだった。
「もう駄目だな、このシャツ」
染みはともかく、繕える限度を超えている。
竜児は継続使用不可能の判定を下すと、シャツのボタンを外し胸元を広げた。



「竜児、これ」
大河はどこからか持って来たタオルを竜児に手渡す。
「おう、サンキュ」
鏡の方を向いた姿勢のまま、後ろ手で何気なく受け取った竜児はタオルの手触りにぎょっとする。
それは見るまでもなく、大河が一番、気に入っているタオルのはずだった。
肌触りが優しい超高級生地を使ったふんわりタオル。
「大河、これ?」
竜児は振り向くと、俺が言った内容が理解出来なかったのかという意味を込めて竜児は大河を問い質す。
「・・・いいの。使って・・・ふんわりしてるから、傷口に触れても痛くないよ、きっと」
「使えねえよ。これ、大河のお気に入りだろ」
「いいって言ったでしょ。つべこべ言わないで使いなさい」
タオルを大河へ返そうとする竜児の手を意地でも受け取らないと大河は押し戻す。
「使えねえ」
「いいって言ってんの」
押したり戻したりを何度も繰り返し、竜児はとうとう大河に根負けした。
「・・・大河がそこまで言うなら、使わせてもらう」
「最初から素直にそう言えばいいのよ。手間のかかる犬なんだから、もう」
言葉の乱暴さと反比例して大河の口調は穏やかだった。
「・・・大河」
「な、何よ」
竜児に真正面から見つめられて大河は一歩後ろへ下がる。
「大事に使うよ・・・とにかく、ありがとうな」
竜児の目つきは相変わらずだけど、その中に優しさを見出したのか、大河はうつむき加減になる。
「べ、別にアンタのためじゃないわよ・・・私が寝覚めが悪い・・・から」
照れ隠しに心に無いことを言うものの、大河の頬が赤らんでいるのは隠しようが無かった。
「ちゃんと洗って返しなさい・・・染みにしないでよ」
竜児をまともに見れないまま、ぶっきらぼうに大河はそれだけ言い残すと、バタバタと足音を立ててリビングへ逃げ出した。



リビングへ入って来た竜児を待っていたのは、脱脂綿をちぎって手当ての準備にいそしむ大河の姿だった。
「何してんだよ?」
「見れば分かるでしょ。手当ての準備」
「いいよ。自分でやるから」
「いいの、やってあげるから・・・そこへ寝なさい」
床に敷いてある毛足の長いラグを指差し、大河は竜児に横になれと言う。
「ば・・・大河にそんな真似させられるかよ」
「どうして?」
「いいから、貸せって」
竜児は大河が持つ消毒セットを奪おうとする。
大河は竜児の手よりも早く、それを自分の後ろへ隠す。
「おまえな・・・」
「やってあげるって言ってんでしょ・・・竜児がうんて言わないとこれはあげない」
後ろ手で消毒セットを押さえたまま、大河は竜児に訴える。
「・・・そこまで言うなら、やってもらう。けど、目を回したりするなよ」
仕方ないと言う感じで竜児は折れた。
「なんで、目を回すの?」
「けっこう、傷口深いんだ・・・見てて気持ちのいいものじゃない」
「どんな風なの?」
竜児は無言で横になると胸元を広げた。
「・・・うわあ・・・ざっくり・・・痛そう・・・って痛くないの、竜児?」
「ちょっとな、ズキズキはしてる・・・って、大河・・・平気なのか?」
目も背けず、普通にしている大河に竜児は拍子抜けする。
「竜児のだから・・・知らない人のとかだったらやだけど・・・あっ!・・・もしかして、そんなこと心配してくれたの」
今、気がついたと大河は意外な発見をしたような顔をする。
「あ、当たり前だろ・・・女が見るもんじゃねえからな」
「ふうん・・・女の子だと思ってくれてたんだ、竜児」
大河の口元がほころぶのを見て、竜児は気まずそうに大河と反対の横を向く。
「・・・ち、違うのかよ」
「違わない・・・ありがとう。気を遣ってくれて」
ストレートに返されて竜児は次の言葉が見つからない。

「私ね・・・竜児も知ってると思うけど、よく転ぶんだ」
横になっている竜児の側に腰を下ろす大河。
ニーソックスをひざ下まで下げ、ある箇所を指で押さえる。
「ねえ、見てここ」
竜児は大河に言われるまま大河と反対方向へ向いていた首を180度回した。
正座した大河のひざ小僧が竜児の目に飛び込む。
大河が見せるひざの少し肉が盛り上がった箇所、そこには小さな傷跡が・・・。
それと同時に竜児の視界に否応無く映りこむ大河のひざ奥の光景。
暗がりに白っぽく浮かぶ物、それは・・・・・・。
・・・げっ!
竜児は大慌てで、からくり人形みたいに首を元あった場所へ、再度180度回した。
「どうしたの、竜児?・・・変だった?」
怪訝そうにする大河に竜児は適当な理由を付けて今の行為を正当化する。
「あ、いや、何でもねえ・・・そっちを向くと傷が痛いんだ」
「そうなんだ・・・じゃあ、そっち向きでいいから」
そう言いながら大河は傷痕のいわれを話し始めた。


「このマンションに来て間もない頃だったけど・・・入り口の階段で転んだんだ・・・一段、踏み外してね」
・・・転んだ先に尖った小石があって、もろに刺さった。
・・・結構いっぱい、出血して・・・なかなか止まらなくて・・・でも、なんだかあの時は半分、自棄みたいになってたから。
・・・このまま、血が止まらなくて死んじゃってもいいかな・・・なんて、ふと思った。
・・・馬鹿みたいでしょ。
・・・血? 少しして止まったけど。大して痛くなかったから、ほっておいた。
・・・駄目だろうって? ・・・うん、竜児の言う通り。
・・・2〜3日したら、ものすごく痛くなった・・・ばい菌入ったみたいで・・・病院、行ったけど。
・・・痛み止め、私、アレルギーで駄目だから。
・・・痛いの、ずっと我慢。
・・・高校、入る前だから・・・みのりんとか頼れる人、誰もいなくて・・・
「あの時は、本当に泣きたくなった・・・手当てしてくれる人が側に居てくれたらって思った。だから・・・」
「・・・だから?」
竜児は大河に続きを促す。
「その代りに竜児を手当てしてあげたいの」
竜児は首を少し曲げて大河の顔を見上げる。
ね、いいでしょう・・・と大河は竜児を見下ろす。
そのまま上と下で目線で会話をする大河と竜児。
竜児に送る視線に、何が何でも引かないとメッセージ載せて大河は発信し続ける。
・・・仕方ねえな。
しばらくして竜児が表情を緩めると大河は了承を得たと解釈し行動に移った。
ピンセットをつまむと脱脂綿に消毒薬をたっぷり含ませ、竜児の目にかざす。
「いい?・・・沁みるけど」


大河の手前、やせ我慢しているものの、竜児は呻き声を押さえ切れない。
大河は容赦なく2度、3度と傷口を消毒し続けた。
・・・並みの奴とは違うよな、大河。
痛みの下で竜児は感心する。
普通、痛みに呻かれたら、手加減してしまうだろう。
だけど、それが後々、良くない結果を生むのは間違いない。
脱脂綿が傷口に触れるたび、握りこぶしに力を入れながら、竜児はそう思った。


「・・・終わった、竜児」
「・・・ああ、助かったよ・・・自分でやったら消毒、絶対に手加減してた」
「大丈夫?痛くない?」
「ひりひりするけどな」
「ん・・・じゃあ、軽くなるように」
大河はそう言うなり竜児の胸元に顔を近づけ、傷口に向かってふうふうと何度も息を吹き掛けた。
「どう?」
「ああ、だいぶ楽になった」
実際はほとんど効果が無かったのだが、竜児は大河の気持ちに応えてやりたくてそんなことを言う。
「・・・良かった」
安心するみたく大河は胸奥から吐き出すように言葉を紡ぐ。
不慣れな保健委員か新米看護士になりきって、大河は薬を塗ったガーゼを傷口に当て、不器用な手つきでガーゼをテーピングしてゆく。



「手当て、終わったよ、竜児」
ひと仕事終えて大河は明るく言う。
「大河、ありがとうな」
「これくらい・・・なんてことないから」
そのまま起き上がろうとする竜児を大河は押し留める。
「・・・何だよ?」
「いいから・・・もう少し、横になってた方が」
「でもなあ・・・寝にくいんだよ」
頭の位置を所在無げに動かす竜児。
そんな竜児を見ていた大河が言い出した。
「ここ、貸してあげる」
「ここって?」
竜児が顔を上げると、大河は自分の足をスカートの上から叩いていた。

・・・いらねえ。
・・・いいから寝なさい。
押し問答を再び繰り返し、竜児は大河の言い分を聞き入れて、大河のひざ上の住人になった。
ラグの上に座り、足を伸ばして座る大河の足に頭を乗せた竜児。
「どう? 大河さま特製の枕は?」
「悪くねえ・・・とだけ言っておく」
まんざらでもないように竜児は目を閉じる。
「良かった・・・ねえ、竜児」
「ああ、何だよ?」
「ひとつ、聞いていい?」
「答えられることならな」
「・・・嫌な思い出にならないで欲しいの」
「なんだそりゃ?」
「多分・・・竜児の傷・・・痕が残ると思う」
「・・・だろうな・・・こんだけやられれば」
「私ね・・・普段は忘れてるけど、なんかの拍子に思い出しちゃうんだ。ひざの傷痕、見るたびに」
・・・怪我して、誰も助けてくれなくて・・・痛くて、辛くて・・・。
わずかに悲しそうな顔を見せて大河は心情を語る。
「見るたびに、嫌なこと思い出す。ひとりぼっちだったあの頃・・・」
「・・・大河」
「・・・ごめんね。つまんない話、聞かせて・・・ようするに竜児には今日の怪我が嫌な思い出になって欲しくなかったの」
「嫌じゃねえ、それだけは言えるぞ」
「うん、そうだね。・・・いつか、竜児も大人になって・・・残った傷痕を見ていろいろ思い出すと思う・・・その時、竜児のとなりに誰が居るのか分からないけど・・・もし、それが私じゃなかったら・・・」
大河は感情を抑えたように続けた。
・・・竜児は思うの。
・・・高校の時、隣に住んでたちょっとドジな女の子が居て、その子がドジだから、巻き込まれて怪我したんだっけ、なんてね。
・・・巻き添え食って怪我したんだよなあなんて思い出になって欲しくなかったんだ。
・・・だから、私が一生けんめい、手当てしてあげれば、いいところだけ竜児の記憶に残って・・・怪我させられたけど本当はあいつ、ドジだったけどいい奴だったな、なんて思い出したりできるでしょ。
こんなこと考えるなんて馬鹿みたい?と最後に大河は自嘲気味に笑った。

竜児はまともに大河の顔を見られなかった。
大河のことなら、よく知っているつもりでいた・・・今の今まで。
だけどそれが大きな間違いだって思い知らされた感を味う竜児。
・・・ますますほっておけねえじゃねえか、大河よお。
竜児は無意識のうちに行動に出ていた。


「ちょ、ちょっと、竜児。何してんの?」
「見ての通りだ」
「あ、あんた、変態?」
「いたって俺は普通だ」
「じゃあ、どうしてそんなことするのよ!」
大河にお構いなく竜児は行為を続けた。
「ちょ・・・やだ、くすぐったい・・・やめ・・・竜児ぃ・・・ひゃあ」

竜児は何をしていたのか?
その竜児は大河のひざに残る傷痕に自らの頬を寄せ、犬がマーキングするようにすりすりと頭を使って大河の傷痕を撫でていた。

「なんだよ、やめて欲しいのかよ。人がせっかくスペシャルサービスしてやってんのに」
悪びれたところも無く竜児はいたって真面目に答える。
「ふざけないで、竜児」
ようやく、動きを止めた竜児に大河はむくれる。
「仕方ねえな、大河がやめて欲しいなら・・・」
最後にこれは特別サービスと竜児は大河の傷痕をぺろりとなめる。
さすがに竜児のこの行為に大河は凍り付いた。
「ひっ・・・あ、あ、あ、あ・・・・・」
言葉が文字化けしたみたいに大河は意思表示が出来なくなった。
竜児の取った思いがけない行動が大河の思考の自由を奪う。
そのせいで、普段だったら足の上から竜児を放り出し、大騒ぎするであろう大河は竜児を放り出すこともなく足の上に置いていた。
放心状態の大河に竜児はもう一度、止めとばかりにぺろりとやった。

「・・・りゅ・・・じ・・・こんなこと・・・して・・・ただで・・・すむと・・・思ってる」
コードが接触不良のスピーカーみたいに大河は発声する。
大河の怒りに打ち震えて様が見て取れ、普段の竜児ならただちに緊急脱出する場面。
大河から半径2メートルは死地に等しかった。
なのに・・・竜児は落ち着いていた。
その竜児の姿に何かを覚えて、大河はエネルギーを超新星爆発させるタイミングを遅らせる。
「・・・どういうつもり、竜児?」
答えによっては生かしてこの家を出さないと言うニュアンスを込めて大河は竜児をにらむ。
「相当、怒ってるな、大河」
「あ、当たり前でしょ!」
「なら、良かった」
「良かった?良かったですってえ!!」
爆発5秒前の形相で叫ぶ大河。
しかし、その阿修羅像の様な大河は竜児のひと言でマリア像の様に姿を変えた。


・・・嫌な思い出、薄れただろ。

「次に大河が傷痕を見て思い出すのはひとりぼっちのさみしさじゃねえ。 俺がやった馬鹿な真似に怒った記憶だ。あのバカ駄犬、よりによって飼い主を舐めるとは、しつけがなってなかったとか言ってな・・・」
「・・・竜児」
すっかりクールダウンした大河は竜児を申し訳なさそうに見る。
「でも、やりすぎたのは謝る。ごめん、大河・・・クズ犬とでもなんとでも好きなように罵っていいぞ」
「・・・言えないよ。だって、竜児は・・・」
大河は一度、言葉を切り、竜児を見つめる。
「大切な・・・私の大切な・・・あれ?・・・なんだろう・・・ぴったりする言葉が出てこない」
うまく表現できないもどかしさに大河は身をよじる。
「何でもいい・・・今にうまい言い方が見つかるさ。だから無理に言うなよ」
竜児の台詞に大河は「うん」と大きくうなづいた。

・・・テレパシーじゃないけど少しだけ分かった様な気がした。


「さて・・・と。買い物、また行かねえとな」
竜児は立ち上がりながら、エコバッグを掴む。
「買い物って? 行って来たばかりでしょ、忘れ物?」
「いんや、違う・・・今夜は鮭のムニエルにするつもりだったんだがな・・・」
竜児はエコバッグから夕食材料を取り出す。
一目見て、大河も「あっ」と言う顔になる。
「犬の歯型がついた鮭、食べたいか?」
大河は大きく首を横に振り回した。
「そんなわけだ。ちょっと行って来る・・・大河も来るか?」
大河はちょっと考える素振りを見せると思いもかけないことを言い出した。

・・・いいよ、行かないで、買い物。
・・・夕食、食べないのかって?もちろん食べるわ。
・・・じゃあ、どうすんのかって?
大河はこんなことを言い出した。

「私が作るわ、晩ご飯」


竜児はグルグルと歩き回っていた。
高須家の居間の中央にあるちゃぶ台の周囲を時計回りに動くその姿はゲージの中に居るハッスルしたハムスターそのもの。
「・・・竜ちゃあん」
出勤支度で部屋から出て来た泰子はさっきから歩き続ける竜児を見てあきれた声を出す。
「そんなに心配しなくても・・・大河ちゃんなら大丈夫だって」
「し、心配なんか・・・してねえ」
心外だと言う口調で竜児は泰子を見る。
「じゃあ、座ったら」
「お、おう」
そう泰子に言われて竜児は座ったものの、落ち着かない様子で貧乏ゆすりを始める。
「大丈夫だって」
よいしょと泰子は竜児の前に座りながら竜児を落ち着かせるようにことさらゆっくりしゃべった。
「なら・・・いいんだけどな・・・指、切ったりしてねえとか考えちまうと・・・」
心配してないと言ったのは嘘だと認めたも同然の竜児。
「竜ちゃんだって・・・最初はひどかったよ」
ちゃぶ台に頬杖をついて泰子は竜児を優しいまなざしで見る。
「お、俺が・・・か?」
「うん・・・調味料間違えたり、ゆで方が足らなくて生煮えだったり・・・やっちゃん、何度もやめさせようかと思った」
台所に立つ母親の後姿に泰子の家事労働を少しでも軽くしてやりたくて、いつの頃からか竜児は少しずつやり方を見て覚えていった。
初めて持った包丁で切った大根を竜児は今も覚えている。
危なっかしい手つきで切った大根は不ぞろいで、泰子がきれいに切ったものと比べてあまりにも見劣りがして・・・幼い竜児は泣きたくなった。
そんな竜児を泰子は温かく見守り、不ぞろいの大根が入った料理を「竜ちゃんが切ってくれた大根、とってもおいしい」と食べてくれたのだった。
「大河ちゃんだって、ちゃんと手順を覚えれば全然、問題ないよ」
・・・だから、最初は失敗してもそれが当たり前だから・・・竜ちゃんは何でも出来ちゃうから、大河ちゃんに頼りなさを感じるかもしれないけどね。
母親らしい気配りを見せて竜児を落ち着かせる。
いつの間にか、竜児のカタカタ言っていた足は動きを止め、漂っていた焦燥感は消え失せていた。
「ちょっとは落ち着いた?」
「・・・お、おう」
決まり悪そうに横を向く竜児に泰子は笑みを漏らす。
「じゃあ、やっちゃんはお仕事に行くから」
着替えらしき衣装が入った手提げバッグを手に泰子は立ち上がる。
「気を付けてな」
「うん、じゃあね」
手を振り、出勤する母親を見送った竜児はそのまま、ごろんと畳の上に寝転ぶ。
高須家の窓越しに大河のマンションが見え、竜児は壁の向こうで孤軍奮闘する大河の様子を思い浮かべる。
・・・皿、落としてねえだろうな。
・・・お湯でやけどしてねえよな。
・・・大河・・・味はどうでもいい・・・無理だけはしないでくれよ。
大河と約束した時間まで・・・後、一時間。
竜児は時計を見て、小さくため息。
結局、じっとしているのに耐えられなくて、台所に竜児は立つ。
早すぎるが、明日のお弁当に使うおかずの下ごしらえをするつもりだった。




「私が作るわ、晩ご飯」
つい一時間ほど前、大河はこう宣言した。
その言葉に竜児は面食らった。
「・・・大河、正気か?」
竜児としては大河の家事レベルは嫌と言うほど熟知しているつもりだった。
小学校の家庭科レベルすら怪しいと竜児は見ている大河の腕前。
卵すら満足に割れない奴がいきなり何を言い出すのかと竜児は大河の判断に疑義を差し挟む。
「任せて、竜児。少しは練習したんだ」
竜児の不安をよそに大河は朝飯前だよと気安く言う。
「ほお・・・大河がそこまで言うなら・・・作ってもらおうじゃないか」
この時点で竜児はあくまでも自分の監督下で大河に夕食作りをさせるつもりだった。
「うん、任せて、おいしいの作るから」
大船に乗った気でいなさいと大河は自らの胸をドンと叩いて出来映えを保証する。
「何を作るんだよ?」
「それは、出来てからのお楽しみ」
・・・着替えも必要でしょ、だから、竜児は家でゆっくり待ってて。
そう言いながら大河は竜児を家から追い出しに掛かった。
「・・・って、大河、おまえ、一人で作る気か?」
「そうよ・・・変?」
「いくらなんでも・・・無茶過ぎないか・・・ここは思い直した方が」
・・・良くないかと竜児に最後まで言わせることなく大河は言い切る。
「本当に・・・大丈夫だから・・・それとも、私、そんなに信用できない?」
いつになく、真剣さをまとい大河は竜児を強く見る。
決意を湛えた大河の表情に竜児はそれ以上、何も言えなくなってしまう。
「・・・分かった」
大河を凝視し続けた竜児は大河の決意が変わらないことを確認すると最終的に折れた。
それでも、細々と注意を与える竜児を大河は分かったからと玄関から力任せに追い出した。




約束時間に少し残して竜児は大河のマンションに来てしまった。
とても時間まで待てなかったのだ。
もういいか? とインターフォン越しに大河に呼びかける竜児。
ちょうど出来たところと、スピーカーから弾む大河の声が聞こえ、オートロックの正面玄関がモーターの音を立てて開く。
竜児はエントランスを通りながら、大河が作ったものへ対する興味が高まるのを感じた。
・・・あいつ、何を作ったんだろう?
もちろん、竜児は大河が手の込んだ物を作っただろうなんて幻想は抱いていない。
それどころか、インスタントのカップ焼きそばとお湯が入ったポットが出て来ても驚かないだけの覚悟はしているつもりだ。
だから、リビングの小テーブルに並んでいる物を見て竜児は目を疑った。
「これ?大河が・・・全部?・・・一人で?」
「もちろん」
どうよと得意気に手を後ろに組んで大河は胸をそらす。
「いや・・・すげえ・・・正直、驚いた」
竜児は素直に思ったことを口にした。
どんな魔法を使ったんだと竜児は大河に聞き出したいくらいだった。
テーブルの上に並ぶ湯気を上げたパスタ、ボウル皿に盛り付けられたサラダ、そして添えられたカップには温かそうなスープが入っていた。
「さ、座って、座って」
大河は竜児に座るように促した。
「お、おう」
心なしか嬉しそうに椅子に腰を下ろす竜児。
そんな竜児を見て大河の顔が輝く。
竜児に続いて椅子に座った大河。


さっきまで大河が後ろに隠すようにしていた左手がテーブルの上に現れる。
「・・・大河、その指」
そのくすり指には救急ばんそうこうが巻かれていた。
「ああ、これ。トマト切ってて、手が滑った」
事も無げに大河は言う。
「だ、大丈夫だったのかよ?」
「全然、へーき。竜児の怪我に比べたらかすり傷以前」
「どれ、見せてみろ」
「大丈夫だから」
大河は慌てたように手を引っ込める。
「そ、そんなことより早く食べよう・・・冷めちゃうとおいしくないよ」
「本当に大丈夫だったんだろうな?」
竜児の念押しに大河は『本当よ』とうなずく。
ここまで大河に言い切られては竜児も納得するしかない。
それに冷めたらおいしくないと言うのはその通りだった。
「じゃ、頂くとするか・・・大河の手料理」
「うん」
はにかむ様に大河は顔をほころばせた。
そして、いざ、食べようとして・・・あれ?みたいな顔をする。
竜児もすぐに気がついた。
「フォーク・・・ねえな」
「あはは、私のドジ・・・持って来る」
失敗と立ち上がろうとする大河を制して、竜児が俺の方が近いとすっと立ち上がる。
「じゃ、お願い・・・」
竜児は大河を背にしてキッチン周りへと足を運び、フォークが入っている収納引き出しを開ける。
並んだ銀色のフォークをふたつ掴んだ時、竜児はダストボックスの投入口が半開きになっているのに気がついた。
無意識の内に閉じようとして捨てられたごみが竜児の目に入る。
何となくそれを手にした竜児・・・それは「簡単、レンジで3分」・・・そんなキャッチコピーが印されたパスタの写真が載った食品の外装パッケージだった。
・・・ふ、まあ、こんなものか。
魔法の種明かしを見つけて竜児は納得した。
けれどそれは決して不愉快なものではなく、ましてや騙されたとかそんな感じではなく、それが竜児には大河が頑張った証拠みたいに見えたのだ。
以前の大河なら、悪びれないで皿に盛り付けもせず、そのまま容器ごと出しただろうな・・・さっさとチンして食えとか言って。
おかしさが込み上げる竜児はそのごみをダストボックスの奥へ押し込もうとして、不意に笑みを引っ込めた。
新たな発見をしてしまったからだ。
・・・これ・・・血だよな?
赤く変色したティッシュの残骸がいくつも丸めて捨てられていた・・・。
・・・あの、バカ。
竜児は泣きたい気分があふれてくるのを抑えきれない。
・・・全然、大丈夫じゃねえだろう。

「・・・竜児・・・フォーク見つからないの?」
背後で大河が竜児を呼ぶ声がする。
「・・・いや、あった」
ことさら大きく音を立ててフォークの入っていた引き出しを閉めながら、竜児はごみを見つからないように奥へ押し込み、ダストボックスの投入口をそっと閉めた。


大河は竜児が料理を口に運ぶたび、表情をくるくると変えた。
竜児の口元をじっと見つめ、その食べる一挙一動を見逃すまいとする。
竜児が何とも無い顔で次のものを口に運ぶとほっとしたような顔をして、自分もフォークを使い始める大河。
「味・・・変じゃない?」
それでもしばらくしておずおずと言う感じで大河は竜児に感想を求める。
「いや、欲を言えばサラダのしめ方が足りねえくらいだ・・・」
そう言いながら竜児は大河にサラダの作り方をレクチャーしてゆく。
「・・・と、やれば、うまいサラダが出来る」
「そうなんだ・・・料理の本、買ってきて見ながらやったんだけど・・・そこまで書いてなかった」
「だろうな。今度、ゆっくり教えてやる」
「・・・うん。お願い・・・全然、駄目だな、私」
少し肩を落とし気味になる大河。
「初めてにしちゃ、上出来だよ・・・こんだけ出来れば文句はねえ」
しおらしい大河につい竜児は甘い点数を付けてしまう。
「本当?・・・竜児」
「ああ、俺が言うんだから間違いはねえ」
実際のところ、竜児的には及第点に程遠いものだったけれど、目の前で喜ぶ大河の笑顔の前にそんなことは些細なことでしかなかった。

「ごちそうさま」
全て、食べ終えて大河は物足りなさそうだった。
日頃、あれだけ食べる奴がこんだけじゃ足りねえよな、やっぱ。
「もう少し、食べられるか?」
一応、竜児は大河の意向を確認する。
「え?・・・それは、その・・・食べようと思えば・・・」
はっきり、食べたいと言えばいいのに、今日の大河は遠慮がちだ。
「まあ、無理にとは言わねえけどよ」
そう言うと竜児はタッパーをいくつか、テーブルの上に並べた。
「手持ち無沙汰で、つい作っちまった・・・明日のお弁当と同じ物だけどさ」
炊き込みご飯に玉子焼き、たこさんウィンナーが並んだ定番とも言うべきお弁当ネタがタッパーから披露される。
並べられた食べ物をじっと見つめていた大河の瞳が急に潤む。
「・・・お、おい」
竜児は慌てた。
「ど、どうしたんだよ?」
「・・・作ったの?・・・竜児」
「ああ、それがどうかしたか」
大河はかすれ気味な声で言う。
・・・任せてって言ったのに・・・。
・・・竜児はゆっくりしててくれれば良かったのに・・・。
・・・なんでそんなことしちゃうの・・・。
なんか良かれと思ってしたことがかえって大河を傷つけたのかもしれないとその時、竜児は気がついた。
「・・・そんなつもりじゃなかったんだ・・・何にもしてないと落ち着かなくてさ、つい」
言い訳じみた弁解を竜児はこもごもと口にする。
必死にあれこれ訴える竜児に大河の心の水面に立ったさざ波は収まり、元の滑らかさを取り戻す。
「・・・ん、竜児に悪気が無いのはわかる・・・変なこと言って悪かったわ」
「大河の気持ち、考えてやれなかった俺もバカだ・・・それは謝っておく。でも、作った食べ物には罪はねえぜ」
・・・だから、遠慮せずに食べろ。
改めて竜児は大河に勧めた。



「せ、せっかく作ってくれたんだから、食べないと悪いわよね」
「おう、そうだ、どんどん食べろ」
炊き込みご飯が詰まったタッパーを手にした大河はフォークを入れかけて竜児を一度見る。
「どうした?」
「・・・お皿」
「皿?」
「そうよ、アンタのその空いてるお皿、貸しなさいよ」
「・・・何するんだ?」
「いいから」
大河は竜児からお皿を受け取ると、タッパーの中身を半分、移し変えた。
「はい、半分、アンタ、食べなさい」
「俺は・・・いい。大河が全部食えよ」
「・・・竜児だって物足りないでしょ・・・これだけじゃ・・・本当はもっと作るつもりだったんだけど・・・その、いろいろあって・・・」
もごもごと口を濁らせながら、大河が落とす視線の先はくすり指の絆創膏。
「わかった・・・半分づつ、食おうぜ」
そう言うと竜児はお皿に盛られた炊き込みご飯の山をフォークで崩し始めた。


いつもの癖で食べ終えた食器を流しへ持って行く竜児。
そこまでならなんら普段と変わらないが、腕まくりした大河が竜児の後を付いて来る。
いぶかしげな竜児の視線に大河はお皿も洗うと言い出した。
「どうせなら最後までやりたいじゃない」
「おま、手を切ってるんだから水仕事は控えとけ」
「竜児だって怪我してる」
「俺は手じゃないからいいんだ」
「そんなのズルイ」
「ズルイとかいう問題じゃねえ」
堂々巡りの議論の末、分業で後片付けをすることになった。
キッチンの流しに並んで立つ竜児と大河。
「ほい、大河」
「うん、竜児」
竜児はシンクにつけた汚れたお皿を手際よく洗って行き、洗い終えた皿を隣の大河へと手渡す。
受け取った大河は乾いた布巾で皿を拭き、食器立てに置く。
こんな何でもないことがふたりですると、どうしてこんなにも楽しい作業になるのかと竜児は思う。
大河も竜児と同じ思いなのか、嬉々としてお皿拭きに取り組んでいた。
「ほい、次」
「任せて、竜児」
「落とすなよ」
「大丈夫・・・って」
そう言いながら受け損ねてカップを取り落とす大河。
「おう!」
「わっ!」
床めがけて落下するカップは床の手前、数センチのところで空中静止する。
竜児と大河がほぼ同時にしゃがみ込んでカップに手を差し伸べたせいだった。
タイミング的には大河が一番早かったのだが、上からカップ、大河の手、竜児の手と並び、逢坂家に瞬間的に生じたグランドクロス。
「・・・あ」
結果的に大河の手を握る形になった竜児。
おまけにしゃがみ込んだ際に顔をつき合わせる姿勢になった。
竜児と大河はお互いの鼻先まで百科事典一冊分の距離で見つめ合う。
静止画像みたいに動きが止まり、それから竜児と大河はお互いに目をぱちくりと瞬いた。


「うわ!」
「ごめ・・・!」
次の瞬間、この状況を回避しようと動いたふたりはバランスを崩し、激しくおでこ同士をぶつける。
火花か星が記号のようにふたりの周りを飛び交う。
そのまま竜児も大河もおでこを押さえ、その場に尻餅を付いて床に座り込んだ。
「竜児〜ぃ・・・アンタ、石頭・・・てて」
痛みに顔をしかめながら大河は竜児に文句を言う。
「そういう大河だって」
無茶苦茶、頭、固いぞと竜児も言い返す。
「失礼ね・・・そんなに固くない」
「じゃあ、もう一度試すか?」
「もう、十分・・・竜児は?」
「俺もだ」
そのまま、お腹の底から笑いが込み上げて来て大笑いを始める大河と竜児。

竜児は笑い転げる大河を見ながら、言い知れぬ充足感を感じていた。




「大河」
「何?」
「お前のとこ、一輪挿しか、小さな花瓶無かったか?」
「さあ、見たこと無い。花なんて飾らないから」
「・・・だろうな、俺も見たことねえ」
逢坂家の備品管理人を自称する竜児をして知らないのだから、恐らく無いのだろう。
「何に使うのよ? そんなもの」
「ああ、お月見の支度するんだ。すすきを飾るのにあるといいかなと思ってさ」
「月見?」
「するんだろう? そのために大河の家で飯、食ったんだろが」
「・・・そういうことになってたっけ?」
「もう忘れたのか?」
ほらと竜児はリビングのカーテンを少し開ける。
窓の外に淡く昇る秋の月が見えた。
「・・・・・・忘れてた」
「団子も買っただろ」
「うん、やろう、お月見」
手回し良く、竜児は小さな台の上に小皿を置き、団子を積み上げて飾り立てていた。
「あとは、すすきを飾れば完成なんだが・・・」
・・・ねえのなら仕方ないか。
竜児があきらめかけた時、大河が「あっ」と声を上げる。
「もしかしたら・・・あそこにあるかも」
「どこだよ?」
・・・トランクルーム。
大河の意外な回答だった。




「こんなとこあったんだな、大河の家」
「うん・・・私も引っ越して来た時以来、来てない」
逢坂家の玄関の反対側、非常階段への通路脇にある小さな扉。
小さな物置くらいの小スペースが扉の向こうに広がっていた。
ほこりが舞い、雑然と詰め込まれた荷物が散乱する世界が竜児を出迎える。
「片付け甲斐がありそうなところだな、おい」
思わぬお宝を見つけたみたいに竜児の声が弾む。
整理して、掃除して・・・2時間は楽しめそうだと竜児はホクホク顔。
「・・・キモイ、竜児」
そんな竜児を見て大河はポツリと言い捨てる。
「・・・トリップしてる場合じゃねえ・・・探さねえと」
大河の痛い視線に竜児は我に返ると、手当たり次第に探し始めた。
探し始めて数分後、竜児の鋭い勘は見事に目的のブツを見つけ出していた。
「あったぜ」
「捜索犬、竜児号のお手柄てとこね」
「・・・災害救助犬か? 俺は」
大きな箱の上に無造作に置かれていたダンボールの中から竜児は一輪挿しを見つけたのだが、その下に置かれた大きな箱に竜児は興味を覚えた。
「しかし、でかい箱だな・・・何が入ってるんだ?」
竜児が箱のふたに手を掛けた刹那・・・。
「あああああああああ!!」
大河の大きな叫び声。
竜児は思わず、ふたから手を放す。
「・・・何だよ、びっくりするじゃねえか」
「・・・こんなとこにあったんだ・・・てっきり捨てたかと思ったのに・・・」
ひとり言のような大河のつぶやき。
「何が入ってるんだ? 見られちゃまずいもんなら見ねえけどよ」
「まずくない・・・竜児、空けてみて」
「お、おう」
竜児が大きな箱のふたを取ると・・・中には小分けされた小さな箱が整然と並んでいた。
「何なんだよ? これ」
それに答えず、大河は無言で中の箱をひとつ取り出し・・・上ふたをそっと外した。

中から出て来たのは・・・竜児の予想を大きく違える物だった。


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