老朽化が目立つアパートが一軒建っている。
それはどこにである普通のアパート。
だけど、この世界でひとつしかないものがある。
それが見えるのは・・・この世でたったふたりだけ。

建物の外側にある鉄製の外階段。
所々に錆が浮き、その古さを人に知らせていた。
「・・・懐かしい」
その階段の下にたたずみ、感慨深げにつぶやく女の子がいる。
子を付けるには実年齢からすればもう相応しくないのかもしれないが、外見だけ見れば女の子と呼ぶのがまだピッタリ。
昔と変わらない長く色素の薄い髪は相変わらず背中まで伸び、小柄な体の上にちょこんと乗った顔立ちは美少女と言われた頃の面影を十二分に残していた。
「何年ぶり・・・かな?」
この問い掛けに隣に立つ目つきの鋭い男が答える。
「五年・・・だな」
「そんなに経つんだ、もう・・・早いね」
「ああ、あっという間だったな」
過ぎ去った日々を振り返るように会話を交わすふたり・・・。
並び立つ高須竜児と逢坂大河。
ふたり揃って、かつて住み慣れた高須家をまぶしそうに見つめた。

「行くか?」
「うん」
竜児が大河を誘う。
カン、カン、カン・・・。
ふたりの足音が鉄板にこだまする。
その音を確かめるように、一段、一段、昇って行く大河と竜児。
最後の一段を昇り終え、玄関前から眼下を大河は見た。
「・・・遠い昔なのに・・・昨日のことみたいに・・・思い出せる」
一段遅れて上って来た竜児に大河は言う。
「何をだ?」
「ケンカしたよね・・・ここで」
「そんなこと・・・あったか?」
「うん。あったよ・・・ちょうど・・・あそこかな、高級車が止まってて」
大河が指差す先を見て竜児も思い出した。
・・・そうだ、あれは大河の親父さんが来た時だ。高2の文化祭の直前で・・・。
大河との関係修復を持ち出した大河の父に竜児はエールを送り、父親を拒絶する大河とここで言い合いになったのだ。
・・・今にして思えば・・・あれだな・・・。
竜児は苦い思いと共に蘇らせた記憶をなぞる。
「・・・竜児、止めよう、しめっぽくなるから・・・せっかくの門出なのに」
何か言い掛けた竜児の口を封じるように大河は明るく、笑顔を作った。
「お、おう・・・そうだよな・・・今日から・・・だな」
竜児はそう言うと薄い真鋳製の小さな板をかばんから取り出した。
「何、それ?」
「ふふ、驚け・・・表札だ」
じゃあんと効果音は付かないが、そんな雰囲気で竜児は取り出したそれを、玄関脇に手際よく取り付けた。
そこには『高須』と大きく書かれ、苗字の下に並んで記された文字が二列。
『竜児 大河』と読める。

「いつの間に用意したのよ?」
「この日のために特注しておいた・・・今日からここが俺と大河の・・・住むべき家だからな」
「用意いいね、竜児」
見直したと大河は言う。
「おう」
竜児も得意満面で答える。
「でも、左下の方が3列くらい、空いてるけど?」
「ああ、それはだな・・・」
・・・いつになるか分からないけど、子供が出来たら・・・付け加えるんだ。
竜児は空白の意味を大河に説明する。
じとっと大河は竜児を見る。
「・・・何だよ。何か言いたそうだな」
「三人、産む方の身にもなってみなさいよ」
「・・・と言うか、産んでくれるのか?」
「・・・せいぜい、竜児が頑張ればね」
「何を頑張るんだ?」
「本気で言ってるんなら・・・殺すから・・・このエロ犬、竜児」
ほんのりと頬を染めながら大河は竜児を罵倒する。
「久しぶりだな・・・エロ犬呼ばわりは・・・ちょっと新鮮だぞ」
「く・・・もう、バカ・・・知らない」
とうとう大河はそっぽを向く。
でも、その横顔は幸福感に満ち溢れていた。


高2のバレンタイン。
チョコレートを渡すだけの儀式が暗転した瞬間、全ては動き出した。
「好き」と言う前に将来を誓い合った竜児と大河。
でも、その道のりは決して平坦な物ではなかった。
一時は危険な逃避行に身を委ねかけた大河と竜児だったが、危ういバランスを乗り越え、今日を迎えた。
つい先日、ふたりは華燭の典を挙げ、晴れて大河は竜児の元へ身も心も寄せられる身分を勝ち取ったのだ。
都内の国立大学を卒業後、安定した有名企業へ入社した竜児。
竜児が落ち着いた生活を送れる様になったのを見極めたのか、大河の母も義父も長い婚約期間に終止符を打つことを正式に認めてくれた。
行方不明の本当の父親に祝福して貰えないのが心残りだけど・・・大河はそんなことを言いながらバージンロードを五年に亘り、実の娘同然に接してくれた義父と共に歩いた。

大河との新居を何処にしよう?
そんな話が持ち上がった時、泰子が言い出した。
・・・竜ちゃん、ここへ住んだら?
社会人として働き始めたのを機に竜児は都心のワンルームで一人暮らしを始めていた。
泰子は嫌がったが、こぶ付きじゃ、泰子の第二の春が遠ざかるだけだと半ば強引に竜児は家を出たのだ。
・・・一緒にか?
・・・やっちゃんはそうしたいけど、それじゃ竜ちゃんも大河ちゃんも大変でしょ。
・・・いい加減、帰って来いってお父さん、うるさいから、やっちゃんは実家に帰るでガンス。
・・・お仕事も打ち止めかな・・・もういいよね、竜ちゃん、大きくなったし・・・ひと休みしても。
いい歳した息子を「・・・ちゃん」呼ばわりするのをいい加減改めて欲しいと竜児は思わないでもないが、母親が示してくれた愛情に素直に従う気になった。
そのことを竜児が大河に相談すると・・・。
・・・え?あのアパートに住むの?
・・・嫌か?
・・・ううん。私は賛成だよ・・・でも、なんかやっちゃん追い出すみたいであれだけど・・・。
と、大河は賛意を示した。


立て付けの悪くなったドアを開くと、急に時間がさかのぼった様な感じに竜児は襲われた。
「・・・お邪魔しま・・・じゃないね」
てへ、失敗みたいな顔して大河は照れ笑い。
「ただいま・・・だろ、この場合」
竜児がいちいち突っ込みを入れる。
「うるさいわね、ちょっと間違えただけじゃない」
「そんなこと言うけどさ、大河、この家に入る時、そんな殊勝な台詞、言ったことあったか?」
「・・・あるんじゃない・・・覚えてないけど」
ふんだとうそぶく大河。
竜児は急にあれこれ思い出す。
壊れんばかりの勢いを付けてドアを開け放ち、『今日の夕食・・・なあに?肉?魚?・・・竜児!返事は!』
大河さまのお出ましだと高須家に飛び込んで来たあの日、あの夕方・・・。
学校帰りにスーパーに大河と寄り、買い物をして帰った来たあの日・・・。
目当てのお菓子が売り切れだったと沈む大河に、後でおまえの好きなクッキーでも焼いてやるからと声を掛けたあの夕方・・・。
竜児は胸いっぱい、家中の空気を吸い込んだ。


家の中は引越し荷物でいっぱいだった。
「まず、片付けだな」
らんらんと目を光らせ、獲物に飛び掛かる前の猛禽類を思わせる竜児。
「何年経っても、変わんないね。あんたのそういうとこ」
好きにすればと、この点で大河はお手上げを宣言。
でも、やってくれるなら大河とて大いにウエルカムなのは言うまでも無い。
「そうだ、部屋どうしよう」
不意に竜児が言い出した。
「部屋?」
「そうだよ・・・俺は前に使ってた自分の部屋でいい・・・大河は泰子の部屋、使うか?」
「・・・竜児」
こいつ、何考えてんのと大河は呆れたような表情。
「何だよ?」
・・・俺、何かおかしなこと言ったか、と竜児はまるで気が付いていない。
仕方なく、大河は言う。
「早くも家庭内別居の準備?」
ポカンと殴られたような顔を見せて竜児は大河の言わんとするところ理解。
「・・・だよな。俺ってバカ」
・・・もう、一緒の部屋でいいんだよな。


片付けもやっと一段落した頃、大河は部屋の片隅にあったそれを見つけた。
「やっちゃん、置いていったんだ・・・これ」
壁に立て掛けてあった使い込まれたちゃぶ台。
引っ張り出して居間の真ん中に据え付ける大河。
「大河、おまえ、何やってんだよ?」
ちゃぶ台の前に座り、片づけをさぼる大河に竜児は戦列復帰を促す。
「・・・竜児の家って言ったら・・・これが一番、記憶に残ってるかな」
竜児の声を聞き流し、大河はちゃぶ台の上を愛しそうにそっと撫でた。
「さんざん食ったもんな、この上で大河はな」
竜児も片付けは一時中断と大河の前に座る。
「食べたかもね・・・思えば、不思議な一時期だった」
「ああ、そうだな」
大河の言うことに竜児も同意する。
確かに・・・あの一年は不思議な関係だった。
ふとしたきっかけで高須家に入り込んで来た大河。
それがあっという間に馴染んで・・・気が付いたら、世界で一番、大事なやつになってたんだよな。
「おう、そうだ」
竜児は急に立ち上がると、隣の部屋から座布団を持って来る。
「泰子の部屋にあったぜ・・・これ」
良く見えるように大河めがけて広げる竜児。
「見覚えあんだろ?」
「うそ、まだ残ってたんだ」
それは大河が勝手に決めた高須家用のマイ座布団だった。
竜児から手渡しで受け取ると大河はさっそく畳の上に置き、その上にお行儀良く座る。
「これこれ・・・この感触・・・懐かしい」
満面の笑みで大河は竜児を見る。
「良かったな」
うんとうなずく大河だったが、すぐ困ったような顔になる。
「どうしよう・・・」
「どうしたんだよ?」
「・・・あのね、竜児」
イタズラを告白するように大河はこう付け加えた。
・・・お腹、すいちゃった。

「腹、減っただと?」
「うん。だって、条件反射というか・・・私のDNAが覚えてるのよ・・・この座布団に座って、ちゃぶ台を前にしたらご飯だって・・・」
・・・だって、仕方ないでしょと大河は本当に困惑気味に竜児に訴える。
今にもお腹の虫がぐうと音を立てそうな大河の様子に竜児はしょうがねえと立ち上がる。
「どこ、行くの、竜児?」
「買い物だ。冷蔵庫からっぽだからな・・・残りの片付けは明日にしようぜ」
「うん」
その声に大河は勢い良く立ち上がった。



駅前のスーパーヨントクは往時と変わらない賑わいを見せて竜児と大河を店内に誘った。
「よく来たよな、ここ」
「そうね・・・いろいろあったわ」
買い物カゴを右手で下げているのは昔と同じ竜児だが、あの頃と唯一違うのは空いている竜児の左手に寄り添う大河の姿だった。
「まったく、あの頃のおまえと来たら、人が油断したスキにカゴの中に菓子、放り込みやがって」
「そんなこともしたわね・・・」
懐かしそうに大河は微笑む。
「最初のうちは大河のやり方、分かり易かったんだが、いつの間にかこっそりカゴの中に忍ばせる術を覚えやがって・・・こっちはレジで清算するまで気がつかねえ」
「竜児が鈍いんでしょ」
「・・・まさか、今日はしてないだろうな・・・」
竜児の指摘に大河は口笛を吹く真似をする。
慌てて竜児がカゴの中身を点検すると、豚肉のトレーの下からアーモンドチョコのパッケージが顔を出す。
「・・・大河」
「あはは、ばれたか」
笑いながら元へ戻そうとする大河を竜児は止める。
「いいよ、そのままで・・・今日は好きなだけ入れろよ」
「いいの?」
「おう、ただ、ほどほどにしとけよ」
「・・・ん、これだけでいいや・・・カゴに入れるスリルがないとつまんない」
「大河、おまえなあ」
「ほら、竜児。早くしないとタイムサービス、終わっちゃう」
「おおう・・・急げ、大河」
鐘を振って景気を付ける売り子目掛けて小走りに急ぐ大河と竜児の姿がそこにはあった。


夕闇迫る街並みをエコバッグをふたりで持ちながら歩く。
「ずいぶん、買っちゃったね」
ぎっしりと詰まったエコバッグを覗き込み大河は言う。
「重くねえか・・・」
「大丈夫だよ。ふたりで半分だから」
エコバッグを挟んで並びながら竜児と大河は歩いていた。
「・・・あっ」
急に大河が立ち止まる。
「どうした?」
「竜児、あれ・・・」
大河の目線が向いた先にいる複数の人影。
下校中の女子高校生だった。
「・・・大橋高校の制服だね」
友達同士なのか楽しそうに会話を交わしながら立ち止まる竜児たちの脇を通り過ぎた。


昔、大河が着ていた制服・・・。
急に竜児は隣の大河が制服姿に見え目をこする。
「どうしたの、竜児?」
「いや、何でもねえ。ごみが入っただけだ」
もう昔の不安定な大河はいない・・・いるのはしっかり繋がった大河だ。
もう、何者にも邪魔されない・・・。
しっかり、掴み取ったんだ。
二度と離さねえ。
竜児はエコバッグを大河の片手からもぎ取った。
「竜児?」
下から大河が竜児を訝しそうに見上げる。
「俺が、持つ」
「え、いいよ・・・半分づつで」
そのままで行こうと言う大河の言い分を竜児は聞き届けることなく、無言でたった今、空いたばかりの大河の手を握り締めた。
「・・・あっ」
大河がうつむく。
「これで・・・帰ろう」
「・・・うん」
・・・この手を・・・俺は離すもんか。
手のひらから伝わる大河の温もりを感じながら竜児は改めて心に誓った。



「私、作るね」
大河はさも当然と言う様に台所へ向かう。
その大河を竜児は引き止めて言う。
「いいよ。今日は俺に任せてくれ」
「だって、竜児・・・片づけで疲れてるし・・・」
「いいんだ・・・久しぶりに大河に作ってやりたくなった」
「じゃあ、お願いしてもいいの?」
「ああ、いいぜ・・・昔みたいにちゃぶ台の前で待っててくれ」
「・・・催促するよ」
「かまわねえ」
「・・・邪魔するよ」
「どんと来い」
「・・・待ってる」
「おう」
竜児は大河の声を背に使い慣れた高須家の台所に立った。
リズミカルに包丁を使いながら、時折、後ろを振り返る竜児。
あの頃の大河ならテレビに夢中か『竜児、まだ?』と矢の様な催促が飛んで来た。
今日の大河は優しげな視線でただ、黙って竜児を見つめている。


「はい、竜児。」
茶碗にご飯をよそる大河。
それくらいはやらせてと炊飯ジャーを自分のそばに置き、給仕にいそしむ。
「ありがとな、大河」
茶碗を受け取りながら竜児は謝意を伝える。
「・・・おいしい」
おかずに箸を付け、大河は頬を押さえる。
「おいしいのを食べるとほっぺが落ちるって言うけど、そんな気分」
「そうか?」
「うん・・・竜児の作ったご飯・・・しっかり体が覚えてる・・・」
「大げさだな」
「ううん・・・竜児のごはん、食べたのは一年足らずだったけど・・・これが私のオフクロの味かも」
「おまえのお母さんになったつもりは無いぞ」
「たとえ話よ・・・ようするに竜児は上手ってこと・・・まだまだ私じゃ、この味出せない」
「そうでもねえぜ・・・最近の大河の作る物、いい出来だからさ」
「本当、それ?」
「ああ、もう少しだな」
「良かった・・・それだけが気がかりだったから」
・・・これで、合格よね? 竜児のお嫁さんとして・・・。
いじらしい大河の台詞に竜児はぶっきらぼうに「お代わり」と茶碗を大河へ突き出した。
大河から見れば、竜児が照れているのが丸分かりだったが・・・。


「食べたなあ」
「うん、ごちそうさま」
飽食の後、大河が言い出す。
「どうしよう・・・あれ、したいなあ」
「あれって?」
「ねえ、竜児」
「何だよ?」
「怒んないでよ、いい?」
「ああ・・・」
竜児の了解を得るや大河はちゃぶ台の下でどべーと横たわった。
「・・・これこれ、これがしたかったの」
大河はひどく嬉しそうだった。
下に敷いていた座布団を枕にしてご満悦な様子。
「牛になるぞ」
お約束の突込みを竜児は入れる。
「・・・ずうっとそう言ってたけど、なんなかったね、牛に」
「そういうのを減らず口って言うんだ」
竜児の口惜しげな物言いに大河は小さく笑った。


「こうして・・・ここで・・・大河と並んで寝る日が来るなんて思わなかった」
片付かない引越し荷物で使えない部屋を避けて、居間に並べて敷いた布団。
照明を落とした薄暗がりの中、竜児は身を横たえて天井を見つめる。
「・・・私も、こんな日が来るなんて想像もしなかった」
・・・居心地が良くて出入りしてた。
・・・ここへ来れば、竜児が居て、やっちゃんが居て・・・心が安まったの。

「ずっと前に約束したよな?ずっとそばにいるって・・・」
「うん」
「改めて言うぞ。俺はお前の側を離れねえ・・・何があってもだ・・・どんなことがあっても、大河、おまえを守る・・・だから・・・安心してついて来てくれ」
「・・・竜児」
「この先、何があるか・・・俺にもわからねえ・・・だけど、息が止まる寸前まで大河・・・おまえを・・・おまえを・・・愛し続ける・・・たとえ、おまえが嫌と言ってもだ」
「言わない・・・そんなこと、絶対に」
決意を込めて大河は竜児に答える。
「竜児と・・・一緒にずっと居たいって気が付いたあの日から・・・私の気持ちは変わらない」
・・・竜児が、私の全てだから・・・。
ひたむきな視線を竜児に向け、大河は思いの丈を全て吐き出す。
・・・受け取ったぜ・・・大河の想い。

横向きに向き合いながら大河が竜児へ伸ばす両手。
竜児はその手を掴み取ると、もう離さないというように引き寄せた。

140センチ余りの小さな体が震え、竜児の胸の中へ飛び込んで行った。


今日から始まる竜児と大河の新しい一ページ。
希望に輝く真新しいページが何かを刻まれるのを待つようにずっと続いていた。




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