日曜日の朝。
 借家の二階に続くボロい外階段も、今は天国へと昇る梯子のよう。

 三年になってからというもの、学校ではクラスが違うし、弟の世話もあるし、大河が竜児と一緒に過ごせる時間は一日にせいぜい数時間程度。
 一般的な高校生カップルとしては十分なのかもしれないけど、一時は家族同然の生活をしていた二人にとってはやはり物足りなくて。
 だから、特に約束とかをしたわけではないのだけれど、自然に休日にはほぼ一日一緒に居るようになって。
 その時間はとても嬉しくて、大切で。
 ドアの前でちょっとシミュレーション。
 やっちゃんはそろそろ出かけた後のはずだから、いきなり竜児と二人きり。
『竜児、おはよう』
『おう大河、早かったな』
『うん、竜児に早く逢いたかったから……』
『大河……俺も逢いたかったぜ……』
 思わずにへらんと笑みが浮かぶ。
 いけないいけない、気持ちを落ち着かせるために深呼吸。竜児にあんまり締まりの無い顔を見せるわけにもいかないし。
 ノブに手をかけ、いつものようにドアを開けると、
「だから、このコンマから後はその前の単語の説明になってるんだよ。それが繰り返されてるから、訳す時には後からさかのぼる形でだな……」
「……あ〜、なるほど〜。さすがは高っちゃん」
「おい、ホントにわかってるんだろうな?」
 聞こえて来たのは竜児ともう一人の話し声。
「……竜児?」
「おう大河、早かったな」
「あっれ〜?なんでタイガーがこんな時間に?」
 大河の声に振り返ったのは、竜児と元クラスメイトのアホ……もとい、春田浩次。
「なんではこっちのセリフよ……ねえ竜児、どうしてこのロン毛虫がここに居るわけ?」
「いや、それがな……」
「あ、俺?俺さ〜、なんかこのままじゃ本気で卒業ヤバいらしくってさ〜。でもさ、高っちゃんならすっげ〜頭いいじゃん?」
「ゆりちゃんに泣きつかれたんだよ、学校だけじゃフォローしきれないからって。ほら、うちには兄貴ノートがあるし」
「でも、何で今日なのよ?私が来るのはわかってるでしょ?」
「おう、俺もそう言って断ろうとしたんだけどさ……『あらちょうどよかった。逢坂さんも成績優秀ですもんね』って」
「あ、あの独身(30)……!」
「まあ、ゆりちゃんには色々と迷惑かけちまったしさ……どうにも断わりきれなくて」
「あ、タイガーが来た理由わかった!高っちゃんとタイガーってばラブラブだもんね〜……フヒヒッ!
 いいよね〜、俺も瀬奈さんとラブラブしたいんだけどさ〜、瀬奈さん今課題で忙しくてさ〜」
 ぶちり、と、何かが切れた気がした。
「そうね……教えてあげる。まず『さようなら』は英語で『good-bye』って言うの」
「ほえ?」
 きょとんとする春田に大河は続ける。
「それから『お父さん』は『father』、『お母さん』は『mother』」
「やだなタイガー。いくら俺がアホだからって、それぐらいはわかるよ〜」
「いいから続けて言ってみなさい」
「え〜とね、『ぐっどばい、ふぁーざー、まざー』」
「それじゃ今生の別れの挨拶も済んだ所で、速やかに天国に送ってあげるわ!」
「ひえぇぇぇぇぇっ!」
「ま、待て待て大河!」
 春田に飛びかからんとする大河を、竜児が慌てて制止する。
「どいて竜児、そいつ殺せない!」
「駄目だ、こんなことで大河の手を汚させるわけにはいかねえ!」
「ひいぃ、お助けぇ〜〜!」
「でも、こんな、こんなアホ毛虫のせいで、せっかくの竜児との時間が……!」
「今週だけ、今回だけだ!今度の期末を乗り切れば、後は夏季講習とかでなんとかなるはずだから!」
「……わかったわ」
 大河の体から力が抜ける。そして春田を睨みつけ、
「竜児に免じて、今から勉強を教えてあげる。でもね、
 憶えられなかったら殴る。
 忘れたらぶっとばす。
 赤点をとったら……殺す。
 わかったわね?」
「は、はいぃ……」


 それから卒業までの間、春田浩次はギリギリながらも一度も赤点をとることはなかったという。
 教師によっては奇跡とまで呼ぶその真実を、知る者はごく僅かしかいない。




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