「ねぇ、パパ?」

猫なで声を出す娘に『パパ』と呼ばれた男は思わず口に含んだウィスキーにむせそうになる。料理をしていた妻も驚いた顔でこちらを振り返っている。

「な、なによ、そんな顔しなくてもいいじゃない」

と、顔を赤くしてふくれて見せたのは、長女の大河。18歳。まだ大学に入ったばかりの青春まっただ中である。娘に声を掛けられたくらいでウィスキーにむせそうになる父親というのも変だが、しかしそこはそれ。どんな家庭にも事情がある。

男が娘と一緒に暮らし始めたのは、つい1年前である。結婚相手は再婚で、別居中の娘がいるのは知っていた。が、それが元の夫と仲がこじれて結局こちらで引き取ることになった。引き取ることには別段不満も何も無かったし、娘も妻に聞かされた程には規格外でもなかった。
この一年は義理の父娘にしては十分以上に平穏だったと言える。

それが偶然ではなく娘の懸命の努力によるものだということにも、彼は気づいている。気づいた上で気づかぬふりを通していた。重要なことは、早く本当の家族になることだ。必要以上に気遣ってぎくしゃくしてもはじまらない。

が、それはともかく、その義理の娘が、今目の前で初めて自分を『パパ』と呼んだのだ。これは偉大な一歩と言っていいだろう。この一年間、彼女はかたくなに母親を『ママ』自分を『おとうさん』と呼んでいた。
それが居心地の悪さから来るのか、照れだったのかは別にして、とうとう彼女は自分を『パパ』と呼んでくれた。軽い感動に胸が熱くなる。

「いや、悪かった。何だい?」
「あのさ?お酌してあげようか」

おお、とこれまた胸が熱くなる。年頃の娘にお酌をしてもらえるとは。義理かどうかなど関係ない。照れくさそうに笑っている仕草も可愛いし、いよいよ本当の家族になれたのかもしれない。

「うれしいな。だけど大河。ウィスキーのお酌はあまりかっこよくないから、日本酒にしよう」
「そうなの?」
「ああ。女性のお酌が一番絵になるのは日本酒だな」
「そうなんだ」
「高須君にきれいなお酌をしてやればいちころだぞ」
「あなた!」

今日は既に結構まわっている。酔いに任せてつい軽口が突いてでた。キッチンから射殺すような言葉が飛んできて、思わず首をすくめる。目の前で娘が笑っている。妻は娘の恋人の高須竜児君に対して幾分態度が固い。



立ち上がり、棚にならんでいる瓶の列から日本酒を取り出す。四合瓶だとお酌には大きすぎる。少し考えて伊万里の一合とっくりとぐい飲みをテーブルに並べ、とっくりに日本酒を移す。

「さぁ、教えてあげよう。大河、右に座って」
「右のほうがいいの?」
「そのほうが絵になる」

おとなしく右の椅子に移ってくると、娘が信頼しきった表情で見上げる。こんな顔はほとんど初めて見た気がする。

「どう持つの?」
「右手でとっくりの下を持って。今日は冷やだけど熱燗の時には火傷することもあるから気を付けるんだ」
「やけどに気をつけるのね」
「左手は人差し指と中指をとっくりの首のあたりに添える感じで。そう、力は入れなくていい。脇を締めたまま腕を伸ばしてお酌をする。とっくりがぐい飲みに触れないように。うまいうまい」

母親似で人並み外れた美貌の娘が神妙な顔でお酌をしてくれている。父親冥利に尽きるな、と思う。

「こんな感じ?」
「ああ、上手だ。絵になってる」

品のいい味の日本酒をぐいとあおって娘に微笑む。娘も嬉しそうに笑っている。

「ねぇ、パパ。私も呑んでいい?」
「ああ、少しくらいならいいさ、呑みなさい」

そういって機嫌良く立ち上がり、ぐい飲みをもう一つ取り出そうとしたときだ。

「待って」

キッチンから声がかかった。

「大河、あなた麻酔アレルギーがあるでしょ。お酒飲んで大丈夫なの?」
「え!?」

そんな話は聞いていない。娘を見ると、複雑な表情をしている。どうやら本当にアレルギーがあるらしい。

「あるけど…でもシャンパン飲んだことあるよ」
「いつ呑んだのよ」
「中学生の時…」
「お医者さんはいいって言ったの?」
「ううん、お医者さんには聞いてない」

妻は険しい顔で唇を噛んでいる。前の夫の軽率な行動に怒っているのだろう。リビングに気まずい空気が流れる。



「麻酔アレルギーがあるとアルコールはまずいのかい?」
「わからないわ。わからないから最初にお医者さんに聞くべきでしょ」

正論だ。

「大河、あなたシャンパンどのくらい呑んだの?」
「ひと口くらい」
「そう」

ほっとした様子だが

「ねぇ、ママ。お酒も一口くらいならいいんじゃない?」
「ダメよ」

これは妻が正しいだろうと思った。日本酒だから悪いとは思わないが、ずるずるとなし崩しにしてもいいような話ではない。しかし、娘も食い下がる。今度は自分に向かって

「じゃぁ、さ……私こんどお医者さんで調べてもらうから。ね、そしたらパパと一緒にお酒飲めるし」

とにっこり笑う。それなら文句はない。心配も払拭出来るしいいことだらけだろう。

ところが、

「待ちなさい」

これにも妻が待ったをかける。つかつかと歩いてきてテーブルの前で娘を見下ろす。今まで見たことのないような厳しい表情をしている。

「あなた、何企んでるの?」
「な、何よ。企んでるって。変なママ」

そう言って娘がぷぃっと顔をそらすのを見て、ようやく妻が何らかの図星を突いたらしいことに気づいた。

「高須君ね」
「竜児は関係ないわよ」
「あなた、高須君とお酒飲むためにお医者さんでアレルギーの検査受けたいんでしょ。そのためにお酌するなんて言い出したのね。絶対ダメよ。二十歳になるまで許しませんからね」
「ちっ」

人形のように愛らしい娘の顔からいきなり飛び出した、壁に突き刺さるような舌打ちに思わず息を呑む。どうやら知らない間に恐ろしく巧みな作戦に取り込まれていたようだ。『パパ』と呼んだのは自分を懐柔するためだったらしい。
パパにお酌してあげる。パパと一緒に呑みたいの。ねぇ、お医者さんで検査受けていいでしょ。猫なで声も甘い笑顔もすべては恋人とのデートの為だったか。

しゅるしゅると幸福感がしぼむ横で妻と娘はなにやら高度な神経戦を交しているらしい。



「いいわ。ママじゃ話にならないわね。ねぇパパ、これから私がお酌してあげる。ママ抜きで仲良くしましょ」

振り向いて自分を仰ぎ見た娘の、満面の笑みにはめ込まれた決然としたまなざしに思わずたじろいだ。うなじのあたりに立った鳥肌が、この二人は間違いなく血がつながっていると告げる。どうやら逃げ場はないようだ。
ダメだと言えば母親譲りの気の強い娘は、親の見ていないところで黙って自分の限界を調べ始めるだろう。そうなると、何が起きるかわかったものではない。

だったら、あきらめて医者に連れて行くしかない。その方が安全だ。妻の心配もわかるが、幸い恋人の高須君は少し堅すぎるくらいの性格のようだから、酷い呑ませ方はしないだろう。

結局、義理だろうが実の子だろうが、どんな子供も一緒だ。信じてやるしかないのだ。

「よし、いいだろう。そのうち医者に連れてってあげよう。だから今日はもう一杯お酌しなさい」
「やった!」
「あなた!」

妻は不満なようだが、信じてやるしかないではないか。だったら、せめて、しばらくは娘のお酌を楽しむことにしよう、と腹の中で苦笑する。そのうちよその男に奪われることがわかっているとしても。

(おしまい)




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