「ブレンドコーヒーお待たせいたひぃぃぃぃぃっ!」
「おうっ!?」

松の内も開けた最初の土曜日。

大橋商店街に面した喫茶店「須藤コーヒー・スタンドバー」に、ウェイトレスの悲鳴が響く。危うくコーヒーを客にぶちまけそうになったのだ。悲鳴に店の客が振り向くが、すぐに目をそらせたのは、コーヒーをかけられそうになった男が物騒きわまりない目つきで
ウェイトレスを睨み付けているからだ。

だが、男は『ねぇちゃん、クリーニング代10万円払えや。体でもいいぜ』と、思っているのではない。心臓が止まるほど驚いているのだ。ちなみにコーヒーはかかっていない。

「し、失礼しました!」

真っ青な顔で奧に下がるウェイトレスに男は溜息をつく。切り裂くようにつり上がったまぶた中で、大きくぎらぎら光る白目。その中央でぎゅっと小さく縮まって狂気の光を振りまく黒目。
絵に描いたようなプロフェッショナル仕様の反社会的三白眼を揺らめかせて憮然とコーヒーを呑む男の名前は高須竜児。怖い系の人でもなんでもない。それどころか、恐ろしいほどの威圧感を振りまく彼は社会人ですらない。高校三年生。まもなく大学受験を迎える身である。

「ったく。なんでいつもいつもコーヒーこぼしそうになるんだよ」

と、彼が独りごちるのも無理はない。竜児の知らぬ事ではあるが、「時折訪れる切れまくった目つきの高校生君への接客」は、なじみ客の間でスドバと呼ばれるこの店の知られざる新人いじめ、もとい、名物行事である。注文を取るのは先輩アルバイト、
コーヒーを持って行くのは新人、というフォーメーションのもと、「わー怖い!きゃぁっ!」というイベントが何度も飽きずに繰り返されている。



実のところ竜児は怖くないいどころか、不良ですらない。母親思い、友達思いの心優しい成績優秀、品行方正な男子高校生なのだ。一言で言えばよい子である。竜児が大橋商店街界隈でもっとも目撃されているのは、ゲーセンでもたばこの自動販売機の前でもなく、
スーパーマーケットだったりする。ちなみに特売日やタイムセールスを狙っていけばかなりの確率で遭遇できる。だからこそ、行きつけの喫茶店で知らぬ間にいじられていたりするのだ。

その竜児、今日は人待ち顔でコーヒーを飲んでいる。年上のお姉さんの態度に軽く落ち込みながら溜息をついてコーヒーをすすること5分。待ち人はようやく来た。

「高須君、ごめん。呼び出したのにまたせちゃったね」
「おう、気にするな。それより珍しいな。櫛枝が呼び出すなんて」

現れたのは真冬だというのにひまわりのように明るい笑顔を振りまく少女。名前を櫛枝実乃梨という。竜児と同じ学校に通うソフトボール少女であり、竜児と同じく受験生で、今年体育大学への進学に挑戦する。去年の今頃は山のようなバイトをこなして学費を準備していたが、
さすがに最近は控えているらしい。最近入った情報では両親が折れてOKを出したので体育大学の学費もかなり家から出るとか。そう言うわけで、未だ空は明るいが今日の実乃梨は勤労少女ではない。

コートを脱いで竜児の向かいのソファに腰掛け、若干ビクビクしながら注文を取りに来たお姉さんに紅茶を頼むと、実乃梨は「高須君は最近どう?」などと世間話を振ってきた。どうもこうもない。勉強漬けである。一年前、同じクラスの逢坂大河に劇的なプロポーズを行って
その場でOKをもらった竜児は、是が非でも大学に進んでちゃんとした会社に就職しなければならないと意気込んでいる。もともと成績のいい竜児だが、将来の粘着気質もあって、ことごとく弱点をなくそうと必死で勉強をしているところだ。

「そっか、高須君頑張ってるんだね」
「櫛枝はどうだ?」

竜児、実乃梨、大河の3人は2年生のとき同じクラスだった。その後進学コースに進んだ竜児や大河と違い、実乃梨は体育大学進学希望と言うことでクラスはバラバラになっている。そういうわけで、なかなか顔を合わすこともない。

「私は勉強もしてるけど、トレーニングのほうが時間が長いかな」
「受験勉強のときもトレーニングか。まったくお前は頑張るよな」

竜児の言葉に、実乃梨が笑顔を返す。



実は去年の今頃、竜児は実乃梨に振られたばかりで呼吸すら辛いような毎日を送っていた。1年生の頃から実乃梨のことを好きだった竜児は、2年生のクリスマス・イブに告白を押しとどられる形で振られ、結局その後完全に2人の間は「なしよ」になったのだ。
今は2人とも落ち着いていて、だからこうして喫茶店で話をすることも出来る。

外は寒い風が吹いているが、店の中は適度に暖房がきいていて快適だ。2人の話も随分弾んだ。

「で、何の用なんだ?話って」

竜児がそう切り出したのは10分ほどおしゃべりした後だった。たいした話じゃないけど、と学校で実乃梨に呼び止められたのが下校の時だった。ちょっと2人で話がしたいと。

水を向けられた実乃梨は「いけない、忘れてた」と首をすくめて笑い、すっと姿勢を正した。

「あのさ、少しまじめな話なんだけど」

微笑みは消え、竜児を射抜くような視線で見つめる。キラキラした瞳に見据えられて竜児はおもわず息を呑み、つられて姿勢を正す。

「なんだ。改まって」
「あのさ。本当にまじめな話だから正直にこたえて欲しいんだけど」
「おう」
「高須君、私の事。まだ引きずってる?」




間があった。真剣に竜児を見つめる実乃梨を見つめ返す。一体何を切り出そうとしているのか竜児にはわからない。わからないが、答だけはわかっていた。

「俺は、引きずってねぇ」

はっきりと、そう言えた。今は大河だけを愛している。そう思う気持ちに一点の曇りもない。バレンタインデーの放課後、実は実乃梨も竜児の事を好きだったと知らされた。知ってなお、未練らしきものは不思議と浮かばなかったし、
その時、それまで聞かされなかった心の内を話してもらって、本当に実乃梨の事には決着が付いた。

「そっか」

と、竜児の答を聞いた実乃梨は緊張を解く。

「私も引きずってない。今の気持ちはあのときと同じ。自分の夢にまっすぐ向かってる」
「おう、俺はそういうお前を応援してるぜ」
「ありがとう」

微笑んでこたえた竜児に実乃梨が、かつて彼の心を融かし尽くしたひまわりの笑顔を向ける。竜児はこの笑顔が好きで恋に落ちたと言っていい。実乃梨の前で胸が怪しくざわめかなくなった今でも、この笑顔は好きだ。その竜児の目の前で、

「で、高須君。君を男と見込んで頼みがあるんだが……『漢』と書いて『おとこ』と読む心意気で、ひとつ聞いちゃくれないかね」

がらりと実乃梨の口調が変わる。そもそも櫛枝実乃梨はこういう女の子だった。つかみ所の無い陽気さで、がっちりと竜児のハートを掴んでいた。いつも意味不明の言葉を口走る実乃梨が普通に話してくれるようになって、まだ1年も経っていない。

「な、なんだよ」

いきなり前のめりになってにぃっと笑いながら迫る実乃梨に竜児が気圧される。思わず照れ隠しにコーヒーを含む竜児は

「あのさ、大河が昨日ぽろっと口を滑らせたんだけどさ、私宛のラブラブレターがたくさんあるんだって?」

盛大にむせた。

むせながら、全身の血管が開くのがわかる。体温がかっと上昇する。見なくても、自分の顔が赤いだろう事が想像できる。

「ほうほうほう。その反応。どうやらネタはガセじゃなかったらしいね」

実乃梨が嬉しそうに笑う。そう、ネタはマジだ。竜児の手元には、櫛枝実乃梨あての、出せなかったラブレター、うっかり書いた詩集、ドライブの時に演奏する曲目リスト、同オリジナル編集MDなどが、段ボールひと箱残っている。
それを知っているのは大河だけだ。ゴールデンウィークの頃、竜児はこの箱を捨てようとした。我ながら未練がましいと思ったから。だが、大河に止められたのだ。折角だし捨てるな、取っておけと。

とはいえ、誰が引っ張り出して読むわけでもない。今は押し入れの奧で眠っている。おそらくはそのまま、何十年もあけられずに時を過ごすはずだったのだ。それを実乃梨に漏らすとは、一体大河はどう言うつもりなのか。

「お前……いや、大体大河はなんでお前にばらしてんだよ」

目がつり上がっているのは、照れ隠しに怒って見せているのだが、残念ながら不良も目をそらす竜児の凶眼は実乃梨には通じない。はじめっから竜児におびえないところも、竜児のハートを引きつけた実乃梨のチャームポイントだった。
だからこうして竜児の突き刺すような視線を真っ向から浴びながらも

「高っちゃーん。こえーよ、怒んないでよ。これ、春田君のまね。似てた?」
「似てねぇよ。てか、話をそらすな」
「まぁまぁ、大河はうっかり口を滑らせただけだから。慌ててたよ。あとで大河をしかったりしたら絶交だぜ」

にっこり笑いながら釘を刺すことを忘れない。

「怒るなって言っても……普通怒るだろう。こんなこと漏らしやがって」
「高須君はまじめだから怒るのもわかるけどね。お互い引きずってないことだし、実害はねえべさ」
「そうだけどよ」

そうだけど、やはり腹はおさまらない。以前好きだった相手に秘めたラブレターがあると知られる。いったいどんな羞恥プレイなんだ。あのドジ虎め、あとでとっちめてやる。と、小さな婚約者を思い浮かべながら竜児はテーブルの下で拳を握る。
本当に喧嘩になったらとっちめられるのは暴力で劣る竜児だろうが。

視線を落としてコーヒーカップを相手にぶつぶつと文句を言う竜児に、実乃梨は相変わらず脳天気な笑顔を浴びせかける。

「そこで高須君、前振りはいいとして、ここからが本当のお願いなんだが」
「……なんだよ」
「ものは相談だが、とういか、一生のお願いだ。おいらにその手紙読ませちゃくれないかい?」
「おうっ!?」

思わずのけぞる。背中がソファの背もたれにぶつかってワンバウンドするほどのけぞった。もう、赤面などと言う生易しいものではない。顔から本当に火が出そうだ。その竜児に追い込みを駆けるように、実乃梨が顔をずいと近づけてくる。笑顔がかすかに狂気をはらんでいる。

「ね、読ませてよ。私宛に書いたんでしょ?」
「ま、待て。櫛枝。あれは、その……」
「高須君、みみっちいことは言いっこなしだ」
「いや、ダメだ。あれは、そ、そうだ。プライベートなものだ」
「でも、おいら宛に書いたんだべ?おいらのものでもあるよな」
「ねぇよ!」

思わず大声を出した竜児に、またもや店内の人が振り返り、そして目をそらす。目をそらしたいくらい、竜児の表情は逼迫していた。あえて言葉にすれば、顔つきが裏返っている。しかし、いつもなら傷つくそんなシチュエーションにも、竜児はかまっていられない。
今や実乃梨は完全にソファから立ち上がり、テーブルに手を突いて竜児に向かって乗り出している。

「なぁ高須君。聞いてくれよ。君だから話すけど、この不詳櫛枝、生まれてこの方ラブレターってものをもらったことがないんだ。あるのは滑り込みで勝ち得た名誉の負傷だけなんだよ」
「そ、そうか。意外だな。お前はモテるのかと思っていたが」
「いやぁ、嬉しいこといっちゃってくれるねぇ。でも残念。おいらみたいなオッペケペーに目を掛けてくれた優しい男の子は高須君だけだったよ」
「おう。これでも俺は見る目があるからな」
「うんうん、聞いてる聞いてる。大河がいつも『竜児の見る目は確かだ』って言ってたからね。高須君はおいらのどこが気に入ったのかい?肩?腿?ひょっとしてバラかい?だとしたらダイエット戦士としては複雑な心境だぜ」
「バカ言え。そりゃ肉屋の話だ」
「おっとコレは失礼。ジョークが効き過ぎた。おいらは高須君が女の子を肉付きで選ぶような男の子だとはこれっぽっちも思ってないぜ」
「あたりまえだ」

死ぬほど乾いた喉に仰け反ったままコーヒーを流し込む。味なんかわからない。熱いかさめているのかすらわからない。そもそも、これは現実だろうか。たちの悪い夢じゃないのか。いや夢であってほしい。そう、きっと今にも目が覚めるだろう。
しかし、願いむなしく現実の喫茶店の一角で、相変わらず実乃梨は満面の少々狂った笑みを浮かべて竜児に迫っている。

「櫛枝、とにかく座れよ」
「いけねぇ。ちょっと興奮しすぎた。鼻血が出るかも」
「出すなよ」
「鼻血はともかく高須君、私はまだラブレターって奴をもらったことがない」
「おう」
「このままじゃ、男の子に恋文ひとつもらえないまま高校生活が終わりそうな勢いだ。それともなにかい?高須君は、一度は思いを寄せた女の子にそんな寂しい思いをさせて平気なのかい?そんなことで国連大使が勤まるのかい?」
「わけわかんねぇよ。大体、矛盾してないか?」
「矛盾?なにが?」

首をかしげる実乃梨を睨み付けるように竜児が見据える。睨んでいるのではない、必死なのだ。

「おまえ、あのヘアピン『私はそれを受け取らない』って受け取らなかったじゃねぇか。あれだけぴしゃりとけじめをつけといて、今更……その……ラブレター読ませろって、何だよ」

後半は小声になる。さすがに人の多いところで自分の口からラブレターなど言えない。それ以上に、選んだ話題が繊細だというのもある。1年前、竜児はクリスマス・イブに実乃梨に渡そうとしてかわいらしいヘアピンを買っていた。
だが、それを実乃梨に渡すチャンスはなかった。ヘアピンは迷走し、実乃梨の髪を飾った後、雪山で崖から落ちて、それからしばらくあれやこれやで竜児の心は毎日崖から転がり落ちるほどはちゃめちゃに乱れたものだった。

結局、すべてが収まるべき所に向かって突然動いた2月のあの日、実乃梨は改めてそのヘアピンを拒んだのだ。竜児はその時の実乃梨の決然とした視線を忘れられない。夢に向かって歩く。それ以外の余事は忘れる。それが何だ、ラブレターを読ませろだと?

「矛盾ねぇ。ふむ。そう言われると矛盾しているようだが」
「ほらみろ」
「してないよ」
「何でだよ!してるだろ!」

冬の柔らかい光が窓からさし、店内は穏やかな色に包まれている。なのに竜児の周辺だけは空間が歪んだように異常事態真っ只中だ。そういえば1年前の今頃、竜児は大河と、同じくクラスメイトであった川嶋亜美を相手にこの喫茶店で気まずい思いをしている。
ひょっとしたら時期と場所が決定的に悪い大橋商店街のグランド・クロスなのかもしれない。

憤る竜児を放り出したまま、実乃梨は満面の笑みで勝手なことを言う。

「あのときは、まだ高須君のこと少し引きずってたもん。あれはもらえなかったよ。でも、もう引きずってないからラブレターを読んでも大丈夫さ」
「じゃぁ、あのヘアピン……」
「高須君にはさ」

と、竜児の言葉を遮り、ひまわりの笑顔が続ける。

「あれを私に渡す理由がもうないよね」
「……ねぇよ」

竜児はそう答えざるをえない。顔を背けたのは1年前の恋の疵がつらいからではなくて、言い合いに負けたのが悔しいから。そのくらい、あのヘアピンを渡す理由がなくなってしまっていた。

「聞けば高須君、ラブレターどころか詩集もあるって言うじゃないか」
「あ、ある」
「私用に編集したMDもあるとか」
「お、おう。あるぞ」
「見せて。読ませて。聞かせて」

ほとんど無意識に、竜児は席を立っていた。そのままでは自分のコーヒー代をかつての想い人に押しつけてしまうとか何とか、そんなことが全部吹き飛んでいた。いたたまれない。というか、ここにいたら死ぬ。警察は死因を『羞恥』と発表するだろう。

しかし

「おおっとう。見くびってもらっちゃ困るぜ。高須君、君はおいらの目を盗んでベースを離れることが出来るとでも思ってたのかい?だとしたら関東ベスト4の強肩もなめられたものだぜ」

逃げようとした竜児の手首は、がっちりと実乃梨に掴まれてしまっている。素振りで鍛えられた実乃梨の手のひらはごつごつとしていて、とても振り切って逃げられそうにない。かつての想い人の顔つきは、捕食者のそれだった。


◇ ◇ ◇ ◇




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