「竜児、ほんとにゴメン」
「お前、さっきからそればっかだぞ」

ちゃぶ台に向かって居心地悪そうにちょこんと正座する大河にお茶を出し、竜児はその隣にちゃぶ台を背にして座って天井を見上げる。普段行儀のよい竜児らしからぬ姿だが、これからかつての想い人がラブレターの詰まった箱を取りに来るとあっては、竜児とてペースは乱れる。

結局あのあと……昨日だが……竜児は豪腕投手の気迫に押されてスドバのソファに縫い付けられたまま嫌な汗をかくこと1時間。とうとう根負けして手紙を見せることを了承してしまった。ちなみに、実乃梨によれば大河のほうは口が滑ったときの尋問で、
あっさり「竜児がいいなら」と言ってしまったらしい。道理で昨日の大河は朝から落ち着きがなかった。

スドバで完封勝利した実乃梨はそのまま大河に電話をかけて翌日……つまり今日……の午後に竜児の家に来るようセットした。どうやら、彼の豪腕少女は善は急げと段ボール箱を担いで帰るつもりのようだ。
が、さすがに婚約者の居る男の子の家に独りで上がり込む訳にはいかないと、当の婚約者を呼び出したわけだ。

上がり込まないという選択肢はないらしい。

ついさっき、早めに来た大河に昼飯を食わせたばかりなのだが、どうやら自分の口が呼び起こした事件に珍しくもかなりへこんでいたらしい。出会った頃は竜児の外傷だの心の傷だのには気を遣ってくれなかったのに、変われば変わるものだ。
昼飯前に『食欲無いから、大盛りじゃなくていい』と言って竜児を慌てさせた大河だったが、『やっぱりおなかがすいてきた』と食事中に(!)言い出して竜児の分を半分平らげてしまった。

それほど深刻でもないようで一安心である。

とはいえ、おなかが落ち着くとやはり後悔におそわれるらしく、それが先ほどの会話へと続く。

「あのさ」
「なんだ?」

後ろ向きにちゃぶ台に肘を突いていた竜児が、声をかけられて大河を見る。大河は湯飲みを両手で持ったまま前に突き出すようにちゃぶ台に突っ伏している。

「あんたが手紙を捨てるって言い出したとき、私『せっかくだからとっときなよ』って止めたじゃない」
「おう」
「あれってさ、『とっとけばいいじゃない』じゃなくてさ、とっといてほしかったんだ、私」
「何でだよ」

前を向いていた大河がちゃぶ台に伏せたまま竜児に顔を向ける。顔の片方をぺたんと台に当てたまま、照れたようなくすぐったそうな表情を浮かべている。頬は桜色。瞳は竜児の向こうをみているよう。

「だって、思い出なんだもん」
「お前の?」
「そ」

大河は同じ姿勢のまま視線をそらせて、それでもバラのつぼみのような唇には笑みを浮かべたまま。

「あんたにとっては災難だったろうけどさ、あの夜は私の大切な思い出。だって、竜児に初めて優しくされた日だもん」
「やさしくした覚えはねぇけどな」

苦笑する竜児に大河もほほえんで

「そうね。きっとあんたは私にぶん殴られないようにっていろいろ考えてたんでしょうね。でもさ、竜児はおなかすかして倒れた私を放り出さずにベッドに寝かせてくれた。チャーハン食べさせてくれて、『ラブレターのどこが恥だ』って勇気づけてくれた。思い出なのよ。
あの日のことは全部大切な思い出。ベッドもちゃぶ台もチャーハンも、破れたふすまも、あんたが私の封筒で作った花びらも、あんたがみのりんに書いたラブレターも」

そういうと、照れくさくて耐え切れなくなったのか、顔を前に戻す。

「だからさ、こんなことになったの、ほんとに悪いと思ってる。だけど、わかってよ」

そうささやくように言う大河に、きつい言葉を返すことのできる竜児でもない。

「心配するな。怒ってなんか無いって」
「ほんと?」
「おう」
「ぜんぜん?」
「……おう」

くすくすと大河が笑いながら体を起こす。

「竜児は嘘つけないね」
「今怒ってないのは本当だぞ。昨日ちょっと頭にきただけだ」

ほんの少しムキになって語調を強める竜児を、笑顔の大河が見上げる。ちょっとの間黙ったまま視線を交差させたあと、ふと竜児も降参したように笑顔になる。そして少し身じろぎしたのが合図だったように、大河がまぶたをゆっくりと閉じて……


◇ ◇ ◇ ◇


「私ってバカよね。どうしてこんな優しい男の子に殴り込みかけたりしたんだろう」
「お前がバカやらかさなかったら、俺はお前を知らずに終わってたけどな」

2DKのぼろい借家。大河は卓袱台に向かったまま。竜児は卓袱台に背を向けたまま、ちょっと無理に体を伸ばしてついばむようなキスの合間。ささやくように言葉を交わす。

「私が殴り込まなかったら、竜児はみのりんと付き合ってたんじゃないかな」
「冷静に考えてありえねぇ」
「そう?」
「言い出せないまま終わってたろう。そもそも、今となっちゃお前以外の女と付き合ってる俺なんか、想像すらできねぇ」
「もう」

お世辞なんか言ってもダメなんだから、とでも言いたげに微笑む大河の、奇跡のように柔らかい唇をふさいで小柄な体を抱き寄せる。

「……竜児、だめ。みのりんが来ちゃう……」
「……まだ大丈夫だ」

そう言ってまた唇を奪う。

何度繰り返しても、竜児はキスに慣れない。いや、大河の唇に慣れないというべきか。最初のキスからそろそろ1年だが、未だに大河の唇は、触れる度に竜児の脳髄を焼き尽くそうとする。閉じたまぶたの裏に黄金色の火花が飛ぶ。
腕の中で生々しく体温を伝える体に心臓が跳ね、全身を熱い血液が駆け巡るのがわかる。

実乃梨がもうすぐ来るのはわかっている。こんな事をしていてはいけないのもわかっている。でも、わかっていても竜児は止めることが出来ない。

大河を腕の中に抱きしめてキスを交わす度に、竜児は自分の中の留金が外されていくのを感じている。この女は大事にしなければならない、守らなければならないと強く思う一方で、一番遠ざけておかなければならない敵は自分の中にある情欲なのだ。
それを知った上で、それでも大河に触れずにはいられなかった。そして触れる度に、仕草や態度に出さなくても、その情欲を固く閉じ込めている留金は外されていくのだ。

二人は婚約しているのだから、いずれは肌を重ねる日がくる。しかし、竜児はその留金が全部はずれる日が思っているより早く訪れるのではないかとずっと恐れていた。自制心の終わりという形で。二人共十分に合意ができていればいい。
でも、もし竜児だけが我慢できなくなったら……。

そんな気持ちを知ってか知らずか、大河の方は何の迷いもなく竜児の腕の中に体を預け、その度にまるでまだどこにも消えていないことを確認するように抱きしめ返してくる。

「……竜児……あのね……私ね……あんたが……」
竜児の腕の中、上気した顔で、それでもしっかりと竜児の瞳の奥を覗き込むような目で大河が何かを伝えようとする。だが、強く抱きしめあいながら体温を高めていく2人の頭を、絶妙なタイミングで冷やす救世主が現れた。

『ピンポーン』と。

慌てて離れて思わず顔を見合わす。そして同時に声を殺して笑う。

「私、ひょっとしてみのりんに助けられた?」
「バカ言ってろ」

笑顔で睨み付けて竜児が立ち上がり、『櫛枝か?』と声を掛けながら玄関に向かった。


◇ ◇ ◇ ◇ 


「やあやあ高須君。本日はお招きに預かり恐悦至極」
「招いてねぇよ。お前が押しかけてきたんだろ。あがれ。大河来てるぞ」

大河とのキスで火照った顔を見られたくなくて、わざとぶっきらぼうに言うと、さっと振り向いてすたすた奧へと引っ込む。

「おお、大河、大河、あんたはどうして大河なのさ。チャーハンの匂いがするな。さては2人でラブラブご飯タイムだったかい?邪魔しちゃってわるいねぇ」

みのりーん、と部屋から手を振る大河の顔が赤いのは、半分ぐらい図星だからだろう。

「ほほう。ここが高須君ちか」
「お前来るの初めてだったな」
「近所に来たことはあるんだけどね」
「そうなのか?」
「大河んちに何度もあがったべさ」
「言われてみればそうだ。ん?修学旅行の準備の時、お前覗いてなかったか?」
「こまけーことはいいんだよ。てか、高須君。話をそらすなよ」

ちっ、と大河譲りの舌打ちを飛ばしながら竜児が苦笑する。そして部屋に戻ると、ノートやら手紙やらの入ったボール箱を持ってきた。どうせなら長引かせるよりとっとと済ませた方がいい。ちなみに例のヘアピンも箱にいれていたのだが、今朝の内に取り出し済みである。

「ほら、これだ」

どさりと、実乃梨の前に置く。大河と一瞬(しゃーねーな)と視線を交わした後、立ち上がって「お茶入れるわ」とキッチンに向かう。

「こ、これが噂の……」

と、ニヤニヤ笑いを抑えきれない実乃梨に、

「ねぇみのりん、どうしても読むの」

大河が弱々しく聞く。やはり、竜児に悪いと思っているのだ。

「大河が高須君の事に申し訳ないって思う気持ちもわかるけどさ。私の乙女心も止められないのよ。かつて私の事を好きになってくれた男の子がいて、その人が書いた手紙が出されないままある。知らなければそのままだったけど、知ったからには読みたいよ。
だって、こんなロマンチックなこと一生に一度あるかないかだもん」

こたえる実乃梨は茶化しなし。静かな言葉が、本心だと告げている。大河はそれでも気落ちしたように下を眺めるばかり。

「大丈夫。大河、これ読んで『やっぱり高須君がいい』なんて言わないよ」
「みのりん……」
「まぁ、逃した魚が大きかったのは確かみたいだなっす」

そう笑うと、

「おうおう、高須君。すまないねぇ、お茶まで煎れてもらって」
「少しでもすまないと思うなら今でも遅くない。あきらめろ」
「やだ」
「そうかよ」

お茶を出す竜児と言葉を交わす。大河と卓袱台の角を挟んで座った竜児は、もう何を言っても無駄といった顔で肘を突いている。 そしてその竜児に向かってパンと手を合わせた実乃梨が目をつぶって頭を下げる。

「高須君、大河、ごめん。そしてわがまま聞いてくれてありがとう。非常識なことしてるってのはわかってるんだ。でもさ、どうしても、どうしても我慢できないんだ。私、高校時代、女の子らしい出来事なんかほとんどなかったからさ」

かつては竜児のなかで、そのキラキラした笑顔、ぴょんぴょん跳ねるような動き、振り向くたびに動く髪、甘い声などによって「ザ・女の子」として神格化されていたのは実乃梨その人なのだが、今更何をいってもはじまらない。持ってけ泥棒、と思うだけである。
大河も何も言えずに眉毛をハの字にして竜児を見上げるだけだ。

「櫛枝。もういいよ」
「そっか。ありがとう」

そういった実乃梨の微笑みが、場を少し暖かくする。

「じゃ、仁義も通したし、さっそく読ませてもらうか」
「はぁ?………お、おい!待てっ!」

しばし固まった後、雷に打たれたように、ほとんど一挙動で竜児が飛び上がった。今聞いた言葉が信じられないという表情で実乃梨を見下ろしている。大河は何が起きているのか分からないように目を丸くして竜児と実乃梨を交互に見ている。

「お、お前。『読ませてもらう』って何だよ!」
「え、だって『読ませて』っていったじゃない」
「ここでかよ!」
「そうだよ」

だーっ!と、うなるような声をあげて天井を見上げ竜児が髪をかきむしる。ラブレターを読む!ここでか?勘弁して欲しい、どんな仕打ちなんだ。もう十分気まずい思いをしている。なぜ、これ以上俺をいたぶるのか。俺がそんなに悪いことをしたかと天に問う。

「みのりん……それじゃ竜児が……」
「ねぇ、大河。おいらはなぜ高須君がこれを捨てずにとっておいたか、大河がなぜ捨てさせなかったかは聞かないよ。でも、聞かなくてもそれがきっと二人にとって特別な思いのこもったものだろうってことくらいはわかるさ。だから、これを持ち出したりできない」

勝手極まりない実乃梨の理屈に二人共声が出ない。竜児にいたっては部屋の中に仁王立ちしたまま電撃ショック死でもやらかしたかのように凍りついてる。ひょっとしたら死んだ方がマシだったかもしれない。これから始まるのは公開処刑に近い羞恥イベントなのだから。

「じゃ、早速失礼して開けさせてもらってと。おう、ノートやら手紙やらいっぱいだねぇ。このノートは…」
「おねがい、みのりん!ここで読むのだけは勘弁してあげて」
「いいや、もう誰もおいらをとめられねぇ。なんかすげぇ緊張してきた。ふるえるぞハート!燃え尽きるほどヒート!読むぜ高須君のノート!」

実乃梨が手に取ったノートを開く。竜児も大河もそのノートに目が釘付けになっている。

「おお、おお!これが噂の詩集かい。『櫛枝実乃梨嬢に捧ぐ』」
「せめて黙って読めよっ!!!」
「『君は春/君は風/君を見かける度に/僕の心はまぶしい春の丘を見る/君とすれ違う度に/僕の心は花びらが舞うのを見る』……お、おおおお!これおいらのことを書いてくれてるんだよね!『君』っておいらのことだよね!めっちゃ書き直ししてるじゃない。
いったいどんだけ情熱ささげてくれたんだよ!なんか想像以上だ。感動だぜ高須君!思ってたよりずっと乙女心揺さぶってくれるぜ」

顔を真っ赤に上気させ、鳥肌を立てて、実乃梨が声をふるわせる。

勢いで書いた恥ずかしい詩を音読された竜児のほうは、ぎゃーっ!とひと声、天井に無音で叫ぶと、そのまま頭をかかえて羞恥に身をよじってバッタリと無音で倒れた。錯乱してなお、大家に気を遣っているのだ。
景気が悪いというのに去年の四月から5000円家賃を値上げされた高須家は尋常じゃないほど大家に気を遣っている。

「竜児!しっかりして!」

倒れた竜児に大河が取りすがる。ちなみに値上げの原因は誰も知らぬことだが、この未来の嫁である。一方、竜児を一撃で倒した張本人は目の前の大騒ぎもすでに目に入らないのか、先を続ける。そのあげく、

「『君は夏/君は空/君の笑顔は/大輪のひまわり/君が笑えば/雨雲だって晴れ渡る』……うわーっ、来るよ来るよ。ハート直撃だよ。おいらこんな風に高須君の目に映ってたのかい?!」

鼻から一筋、血が流れて垂れる。

鼻血を垂らしたまま、ページをページをめくり次々と誌を朗読する実乃梨。かつて自分を好きでいてくれた男による暑苦しいほど自分への想いのこもった文章のオン・パレードに、本人も半ばトランス状態。
にぃっと笑みを顔に張り付けたまま瞳孔をかっぴらいて貪るような顔で、ひたすら読み続ける。

いやー!やめてーっ!恥ずかしいーっ!ビクビクビクーーっ!と、耳を押さえて畳の上で体を痙攣させる竜児への正視に耐えない百叩き刑は、このあと実に2時間にわたって続いたという。

(おしまい)




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